はてなキーワード: 信徒とは
職場で現在プチ流行中の言葉にITC(意識高いカフェ)というものがある。個人経営のカフェであり入口にはメニューの黒板。おちついたボサノバっぽいBGM。ラテは豆乳もあるよ(ソイラてっていうんだよ)。670円で高い。ランチは白いプレートに乗ったもので野菜とか魚が少しずつ乗ってるよ。スマホでソシャゲやってるお客さんはいなくて、たいていは主婦2人組(お金持ってるっぽくて観劇や展覧会の帰途多し)か、外回りのクリエイティブ系サラリーマン(プレゼン帰りで議論していることが多し)か、Macbook開いてる自由人っぽい人間(大きなヘッドフォンでセルフレーム眼鏡)だよ。黙って座ってるとこちらを笑い殺しにするようなステキカイワが聞こえてくるので、職場では伝説の息抜きスポットになってるよ。「俺はカラーパンフみてRGB値を当てられるんだ」みたいな自慢を三十分してるとか。
このITCは特定のカフェを指す隠語なんだけど、そのほかにSITC(少し意識高いカフェ)ってのもあって、これはチェーンなんだけどイシキタカイっぽいカフェのこと。おまえのことだCAFFÈ SOLARE。得意技はメニューにアボカドとかフランクに投入すること。アボカドって言っておけば許されるあの雰囲気はまさにSITC。こっちは子どもずれのママ友(三人もしくは四人組)多し。オープンテラス席で「幸せな母親」を社会に見せつけるプレイに余念がない。
なお別種の存在としてDMCC(泥水コーヒーカフェ)ってのもあってうっすい香りのしないコーヒー一杯を、部下のリストラ数の勘定をしてる企業戦士や銀行に頭を下げるマシーンと化した古参兵や競馬新聞を聖書のように携えた壮年の信徒が、ひとっこともしゃべらずに世界の悲嘆を共有する無言の空間で摂取してる。こっちはこっちでカウンター席でラップトップ(傷だらけの古いLenovo)を広げ、青年時代の罪の告白のようにコードを書いてる中年もいるよ。クリエイティブってなんなんだろうね。
「偶像崇拝の禁止!」 だから、イスラーム映画では弟子や信徒たちが「画面の外にいるムハンマド」に話かけたりしながら物語が進む。「提督」がぜったい画面に映らない仕様なのは、絶対にムハンマドを写さないイスラムの宗教映画みたいだった。
ムハンマドが画面映らないのは、ムハンマドの「偶像」なんかを、ムハンマド本人であるかのように崇めてはいけないからである。
「汝らのために大地を置いて敷床となし蒼穹を建立し、蒼穹から雨を下して種々の果実を実らせ、それで汝らの日々の養いとなし給うた御方。されば偶像のたぐいを、それと知りつつアッラーと等し並に崇めたりしてはならぬ」(コーラン2.21)。アッラーは唯一神なので、偶像みたいな複数あるものはダメとも言える。ムハンマドも最高の預言者なので(ry
艦これの場合は、もともとの意図は「艦娘という偶像を楽しむには唯一特定の提督は不要」ということなんだろう。でも提督が映らないことで提督の「唯一性」を確保することになり、それは結局、「提督は艦娘にとってはアッラーにも等しい存在なんである」なんていう男性視聴者の痛い妄想が暴露されっちゃったようで、ちょっと気まずくなった。男性視聴者「たち」の一人だから、この自分は。
まったく教義や根拠の違うものを同じだと言い張る方が頭がおかしいとしか。
無駄に知識の無い信徒を使って勧誘しまくるエホ証を正統派だと思うの?すごい神経。
キリスト教伝統クラッシャーとして有名で、自分たちで勝手に翻訳し(もうこの時点で「キリスト教」じゃない)
内容を改変した聖書を片手に「今のキリスト教は全部邪教だ」と言いまくるのが普通だと?
新世界訳の聖書は出版物として日本聖書協会ですら販売できないよ。
受け入れてほしいなら受け入れてほしいなりの動き方がもっとできないのかって思うね。
同じことをした日蓮宗から追い出されたあの創価学会だって丸くなったのに、エホ証は全然変わらない。
異端と呼ばれる団体の方が、主流派よりずっと閉鎖的だし攻撃的。
なんでうちのカトリックにあんなに噛み付くのかわからないね。それにしちゃ正教も知らないし。
主流派の方がはっきり言ってまだ個人に寛容だし、当然人が受け入れやすいようにできている。
もう他の団体に迫害をしませんって言ったの知らない?知らないんだろうね。
自分で調べてね。
戦争は起きないよ、エホ証が来る来るって騒いでる世の終わりを自分たちで再現しようとしなければね。
まあ、それ以前に元エホ証がたくさんうちを含めた主流派に逃げ込んできてるから、空中分解しそうになってるよ。
きっと知られていないだろうけど。聞いたけど集まりの回数を増やして、お互いがお互いを見張ってるんだってね。
平日の午前中にみんなで集まって見張り会。ごくろうさんって感じですね。
ここに来た人の中で自分がキリスト教徒であることをはっきり言える人以外は
一度ここ読んだ方がいいね。
特に無宗教決め込んでキリスト教を含めた「宗教」の信徒を馬鹿にしている人は、知らないことがあることを知った方が後々安全。
キリスト教徒でも知らないことあるから、読んでみることをお勧めします。
http://homepage3.nifty.com/yagitani/kurihon/kurihon18.htm
結婚が一度きりに限るとか、教会が実際に結婚について信徒に制限加えるのはそれカトリックと福音派だけだから。異端は知らない。
異教徒と結婚しているキリスト教徒とか、フツーにいるから。完全にそれを許してないのはプロテスタントのうちの福音派だけだから。ロマ書読んだ?
しつこい勧誘をするとか、それ異端だけだから。伝統教派は基本「自分の意思で来る人以外拒む」し、「勧誘をする」のは三位一体や使アタナシウス信条すらアウトにしてる某異端たちだけだから。
堕胎や婚前交渉同性愛、職業選択にうるさくなるのは宗教だけが根本にある訳じゃないから。無宗教を謳う人がこれだけ多い日本で、「倫理」が何故話題になるかわかんないかな。
人類の進化を受け入れなかった、ってそれあの大所帯のカトリックが「すべての人が価値観を変えた」と確認するまでトップが受け入れたことを表明するのに慎重になっていることがわからないかな。
例えば最も保守的な正教会には「七日目」に朝があり夕があったとの記述が創世記に無いからまだ地上が完成したとは結論付けていないんだけど、それはどう考えるのかな。
そういえば、ロマカトとプロテスタント福音派や異端ばかり見てない?
狭い。カトリックの人が書いてるけど、正教も伝統プロテスタント(⇔改革派からは「福音派」と呼ばれる)もサイトあるんだから多少は自分でググってね。
カトリックだってローマカトリックだけじゃないんだよね、日本には無いけど。(つまり東方典礼カトリックを自称する日本の教会はあったら異端ってことです。)
聖書の訳も何種類も出ていて、日本聖書協会が出版していないものは完全に異端だと認めていいことも知らないだろうから、訳も調べてみてね。
お勧めは正教訳といきたいところだけど難しいので、カトリックのフランシスコ会訳と、カトリックと聖公会、ルーテル(と極少数の改革派)が使ってる最大利用者の持ってる新共同訳。
新改訳は「改悪」という評判を随分聞いてるから読んだことがないね。
「キリスト教」と一言で言っても、十戒の最大の禁忌のひとつ「偶像崇拝」の解釈すら教派によって違うから、少し勉強してから発言しないとちょっとしたことでも恥かくよ。
正直見てて痛々しい。
追記:知恵の書2章~3章をキリスト教徒の兄弟姉妹たち、今一度お読みになってください。旧約聖書続編にあるので、手元に無い場合はせめて一度読んでみて。信仰を持たない人の人生観が書かれています。
こちらこそお返事ありがとうございます。
カルト的な宗教、信仰の仕方をしている人は自己主張が激しいからそうなっちゃうのは致し方ないかもしれませんね。
一般的に自己主張は伝統的な宗教では嫌われる傾向にあるのが現実っていうか。
でも、ここ数年で日本でもキリスト教徒が3%から6%になったなんていう話もあったりなんかします。
ああ、わかるなあ。
12歳の時にあれが起きてから、色々変なスピリチュアルも流行りましたよね、今もそうですけど…。
正直ね、宗教アレルギー起こしてる人の方が何も感じていない人より、変なのにハマりやすいんですよね。
仏教の実践重視のところとか、キリスト教のカルトなあそことか、スピリチュアルなんて一番多いです。
あれ?宗教怖いとか言ってなかったっけ?って突っ込んだら、あの時のわたしはどうかしていた、とか言い出す始末で。
現世利益ちっくな信仰って一番厄介で、その思考になっちゃうと伝統宗教のところにはなかなか入れないし拒否されちゃうから。
実際「信仰に至るかどうかで悩んでるっぽい」似たような感じでうちの教会に来てる人って確かに見かけるんですよね。
話しかけるのがいいのかどうなのかわからないから、まだ話しかけていないんだけど。
書き込みを見て、その人にちょっとだけでも話しかけてみようかなあ、と思いました。
その時になったら「与えられる」ものですよ。
あ、そうだ。
日本正教会 http://www.orthodoxjapan.jp/
ウェブサイト見て、先に知識だけちょっと積んで行った方がいいかも。
できれば、行く直前に電話もしてみたら、教える人もラクかもしれません。
暦が違う(クリスマスが1月)とか、十字の切り方が西方教会(プロテスタント含む)と左右逆とか、
正教で洗礼受けた人じゃないと前の方行っちゃだめとかあります。
(※どこの教会行っても、前の方に行くのはやめた方が無難:聖書朗読する人が座ってます)
他の方が同じ教派のひと同士じゃないと結婚できないとか言ってますが、
寛容なところなら未信徒の方だけ呼んで勉強会をしたり、「こんなことに理解を示してほしい」と要望した上で
あと、堕胎をできるだけ避けるのはどこの宗教でも言われることで、キリスト教に限りません。
「正しいことを主張するから迫害される」「世間の情報は神の敵に操作されている」と言うだろうけど、反対する側の意見にも目を通すことをおすすめする。
なんだその決め付け…
もし,「正しいことを主張するから迫害される」「世間の情報は神の敵に操作されている」と言っていたらカルトの疑いが強い,というなら分かる。「ちゃんとしたキリスト教と自称している」ことは,カルトでないことを担保しないのも,その通り。
しかし,あなたは元増田がどの教会に行っているのかもしらないのに「正しいことを主張するから迫害される」「世間の情報は神の敵に操作されている」とか言い出すカルトだろうと決め付けるのは,おかしいよ。
WIKIPEDIAのカルトの定義はこちら http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88#.E3.82.AB.E3.83.AB.E3.83.88.E3.81.AE.E7.89.B9.E5.BE.B4
スタートアップでいう社長の神格化。特に「教育」「人材」をうたうベンチャーに多い
新入に教えることでより洗脳を濃くしていく
リクルートに勝つ!学校教育を変える!といいながら、実際はただの新卒学生の斡旋や教師向けのツールだったりするが、それ以上のことがあるかのように新入や周りには触れ回る
社長がトップに見えて、裏に投資家などが糸を引いているが幹部以外は実態をしらない
女子社員は経営者のためにフォーチュンクッキーを踊ることが義務づけられる
これから有望な人材は◯◯、ハードワークが成功への道、など様々な根拠の薄い結論を信じさせる
今日も、「荒れる新成人」という毎年恒例の話が出てくる。しかし、新成人に文句を言って嘆く既成人たちは、「なにがなぜ悪いのか」を説明して叱れるのだろうか? 叱責が説得力をもつためには、なにがなぜ悪いのかを説明し、しかも叱る当人が己を律していなければならない。
「人を殺してはなぜいけないのか」という疑問が話題になったことがあったが、「そうした疑問をもってはならない」という社会気質が、この国にはある。何も考えずにただ「殺人=悪」だと言う。しかし、そんな思考停止では、真の倫理観は育つまい。究極的には、刺すか刺されるかの状況になれば他人を刺すものが必ず出るし、「死にたい」と思っている者には「他人を殺すまい」という抑止力はきわめて働きづらい。ただ単に「殺人=悪」だと言って洗脳するのでは、ものごとは解決しない。
この社会にあるのは、道徳倫理ではない。潔癖症なのだ。言い換えれば、怖いのだ。多くの者が、死を怖れると同時に、快適に暮らしたいと思っている。その、自分たちにとって心地の良いような潔癖な社会にしようとする理屈でできているのであって、真に「なにが悪いのか」は考えていない。
「なにが悪いのか」を考えずに杓子定規に順守して、「俺も守っているのだからお前も守れ」と言うのだろうが、そんな理屈ではよくわからない。ところが、いまの多くの人たちは、「俺はこんなに頑張っているのに」「私はこんなに苦しいのに」と言って他人に八つ当たりする。大流行中だ。
古くは、自分でも「悪い」とは思いもよらなかった行為を、偉い人に怒られたり、天変地異の原因になったと思ったりしたから、「しきたり」ができるようになり、いささか不合理な「しきたり」でも杓子定規に遵守するという社会気質ができた。それがそのまま江戸時代ころにはもう全国家的に流布されて、皆「お上」の言うことをきく「踏み絵社会」ができあがっていた。
さて、そもそも、社会的善悪というのは、真の善悪とは異なると思う。社会的善悪というのは、人間にとっての都合の良し悪しだ。自分たちの自我にとって「得だ」と思うことが善になり、「損だ」と思うことが悪になる。だから、死にたくなければ他の生物も殺すし、インフルエンザウイルスであれなんであれ、徹底的に殺すようにしているだろう。昔も今も、多くの生物を殺戮して、しばしば絶滅させてきた。
昔はもっと、「殺生は悪だ」ということが一般的に言われていた。いまは、平気で生物を殺すし、動物がたくさん殺されて食べられている。動物を殺すのを見たくないから食べない、というのではなく、見ずに食べる方法をつくりだして逃げている。ついには、魚肉や鶏肉に骨がないようにまでしている。もはや、生物っぽくなく、便利に食べられる。もちろん、骨抜き魚肉や骨抜きフライドチキンが出てくる以前に、チキンマックナゲットだろうがハンバーグだろうが、骨を意識することはないのだが。いまの欧米人はこの国の活造りを見ると「残虐だ」と言い出すが、我々はもともとは、生き物を殺して喰らっているという自覚をあえてもって、また、ピチピチしているのを見て「新鮮だ」と言って、喜びと有難みをもってきたのだ。反対に、たとえブロイラーにしようがハンバーグにしようが、動物を殺している残虐からは不可避なのだ。例えばマクドナルドなどにしても、全世界的に食肉を大量生産して流通させているが、膨大な殺生をしている。大量の飼料や水を消費して牛を飼い、また、深海魚まで獲っている。それはムダな消費なのではないか?
まあどうせ昔も、「殺生=悪」という「しきたり」でしかなかったのかもしれないが。だが、きっと、釈尊にしてもそうだし、「無益な殺生をしてはいけない」と言った多くの偉人たちのなかにも、「殺生ばかりをしていたら自分たち人間も生きていけないだろう」と直感していた者が少なくなかったのだろう。ただそれが、日本社会では、形式的にばかり順守される「法令さえ守っていればいい」的な実態になったのだ。それは結局のところが、日本社会のほとんどの人が無教養で思考停止をしているからなのだろう。つまりは洗脳されてきただけだ。
我々が生きていくためには、生物を少なからず殺す必要がある。そうしないと食べていくこともできないだろう。直接にも間接にも、殺生をしている。だが、際限なく殺しまくっていたら、無益な殺生になり、そして殺された生物種がしばしば絶滅する。
自我の屁理屈を超えれば、他の生物を殺しすぎるのは、生態系のつりあいを破ることになるから、我々自身も生きていくことが難しくなる。したがって、無益な殺生は、生きていくという観点でも明らかな悪だ。無益な殺生が悪だということは、合理的に説明可能だ。
いまのこの国では、「本当のこと」が言えない。例えば、政治的な発言が忌避されるのも異常だ。「それはおかしいと思う」と言える社会ではなくなっている。例えば原発にしたって殺生にしたって自殺率にしたって、さらには、インフルエンザだろうがHIVだろうがなにもかもを殺戮して存在を消し去ろうとすることの異様さにしても。
他人を叱れないし、叱る能力(冒頭に書いた通り)がそもそもない人が多いのだろう。なにがおかしいのかを言える雰囲気でもなければ、なぜおかしいのかも言えないからなのだろう。ひとりひとりが叱れない社会だから、マスコミが代弁することで憤懣の捌け口になっているのだろう。
我々は、完全には清廉潔白でいることはできない。殺生をしなければ生きていけないし、他人に迷惑をかけずには生きていけない。
だが、己の穢さを自覚しなければ、不潔であることに対する抑止力は働かないのではないか。
皆がまたぞろ、自分にとって都合のいいと思うことをやりたいから、例えばガソリンなどの資源エネルギーも多用するし、そうして地球温暖化も進んでいるのだろうし、有毒物質もまきちらしているし、将来の資源枯渇へと「ツケまわし」もしている。だが、「それは悪いことだ」とは、ほぼ誰一人として言わない。例えば、「自動車を抜本的に減らせ」とは、ほぼ誰も言わない。乗りたいからなのだろうし、自動車があることで産業があり雇用があるからなのだろう。同じように、「タバコは有害だから禁止すべきだ」どころか「増税すべきだ」と言うことすら、すぐさま自民党などから「葉タバコ農家が〜」という屁理屈が返ってくる。それではきっと、葉タバコ農家は死の商人だね。JTも、その大株主のこの国も、同じ国民から「血を吸って」「肉を喰らい」生きているのだ。
例えば米国人がやっていたら、この国でもやっていいことになる。迷惑駐車でもポイ捨てでもなんでも「他人たちがやっているから自分もやっていい」という言い訳は必ず出てくるだろう。互いに都合のいいことなのだから、みんなして「赤信号も渡る」のだろうし、「崖っぷちへと突撃する」チキンレースをやりもする。
ところで、自分たちにとって都合の悪いと思われる生物を徹底的に殺戮してきたから、HIVが出てきたり、新型インフルエンザが出てきたりしたのだと思う。少なくとも、薬物耐性病原体は、過度の殺菌をしてこなければ出てこなかっただろう。そうして、潔癖に潰しまくってきたから、いわば「テロ攻撃」が他の生物から、地球から、加えられているのだ。
それどころかさらに、いまの我々は、自己の心身にすら欺いて、自我が都合の良いと思うことばかりをしているから、心身の反乱をくらっているのだろう。癌にしても、アレルギーにしても、「精神疾患」にしても。人工的に潔癖な生活空間をつくってきたから、心身にとってかえって不健康なことになっている。
地球の生態系のつりあいも、自己の心身のつりあいも、壊しているからだ。だからかえって危機に陥る。不健康になる。
この国では少子化だと騒がれているが、世界人類はいまも増え続けている。はたして、「人口増=善」なのか? 人類が増えすぎたら、地球の生態系のつりあいは崩れる。すでに崩れている。しかし、自分が生きたいと思っている人たちは、「出産=悪」だとは決して言わないだろう。真実を言わないし、真実に気づきすらしないのかもしれない。
昔から、例えばクリスチャンは「人は原罪を負っている」と言う。また、この国では浄土真宗の檀信徒が最大多数だと言われているが、そもそもの浄土宗や浄土教は、悪の自覚から始まっている。つまり、「自分は悪人だ」と自覚しているからこそ、「地獄に堕ちる」と思い、「どうやったら救われるか」と考えるのである。それに比べると、いまの人間には、悪の自覚が足りない。
自分たちを律することができず、ゆがんでいく。ゆがんだことでトラブルが起こるごとに、対症療法をする。砂糖を入れすぎたから塩を足すかのように、余計なものをどんどんと付け足していき、だからますます錯乱していく。ぐにゃぐにゃにゆがんでいく。
究極的には、己の死に対して覚悟がないとはじまらないのだと思う。人類は、過剰な生存意欲があるからこそ絶滅せずに生きていられたのだろう。だが、だからこそ、生存意欲の過剰さに対する自覚をもたないと、欲望も執着も、いくらでも膨張して肥大化していく。そうして、人類も増えすぎるし、生物も殺戮するし、資源も食い尽くすし、自己の心身さえも傷つける。
異質な他者の存在に対して、多様性に対して、寛容に、しなやかに、ふわっと、受け入れないといけないと思う。究極には己の死に対して覚悟がないと、それはできない。だが、受け入れなければ、「テロ攻撃」が、他人からも、他の生物からも、さらには自分自身の細胞や潜在意識からも、加えられていくのだ。
いまのこの日本社会にしても、やっていることは正反対で、威圧して同調化させようとする傾向があり、それは近年ますます増している。それではきっと、ますます危険で不健康で暮らしづらい国になっていくのだろうと、私は思っている。
下記、回答くれてありがとう。
日本政府は東京裁判を公式に否定していないよね。で、君は東京裁判を前提としている現在の日本という国の在り方を、どう思ってるの? 否定する?
君がどういう立ち位置で何を知りたいのか、相変わらずよく分からないけれど、答えて貰った以上は答える義務があると思うので答えるよ。
最大の問題は、今や一宗教団体である靖国神社を「国家的な慰霊施設」であるかのごとく位置付けること自体にあると考えます。現在は「特定の宗教によらない慰霊のための国立施設」がないという異常な状態。それを速やかに是正すべきだと私は考えてます。
•3. 非宗教の慰霊施設を建ててそこで祈るとして、そこでA級戦犯は祀っちゃいけないの?
•4. A級戦犯は未来永劫許されないし全人類が唾を吐き続けなければいけない存在なの? A級戦犯を許さないのは平和に対する行いなの?
「A級戦犯を祀る」という行為自体が、現在の体制下では完全にNGだと思います。東京裁判の結果を受け入れることが、敗戦したこの国が国際社会に復帰するための条件であったわけですから、どうやっても説明がつけられないことです。もし、そのような、敗戦国として被っている不平等を是正したいなら、国内向けにコソコソ何かするのではなく、たとえば国連の常任理事国入りを果たし、その後おもむろに敗戦国として被っていた諸々の不平等の是正に取りかかる、といった手続きを踏むのが必要だと思います。あるいは、もう一度世界戦争やって、今度は完膚無きまでに勝つ、とかね(皮肉)。それなしに何をやっても負け犬の遠吠えであり、条件違反でもあります。
•6. ぶっちゃけ「靖国神社を国が潰すべきだ」とか思ってない?
何ということをおっしゃる! 日本には信教の自由がありますし、一宗教団体を国が強権で潰すというようなことがあっていいわけがない。
問題は、一宗教団体を過剰に持ちあげる行為自体にあるのであって、その宗教の信徒が何を信じようと、本来それは信徒の勝手です。
•9. 実際は靖国参拝とは関係なく政府はPKO活動とか平和のための活動もしているし、総理自身平和に向けた発言もいくつもあるわけだけど「総理は戦争がやりたいと考えているから靖国に参拝するんだ」とか思っているの?
総理は(上で書いたような)「敗戦国としての不平等を是正したい」とは思っているのでしょう(そう思いたい)。「普通の国」って、そういう意味でしょう? でも、「普通の国」を実現する手段としては、参拝だのなんだのは、今のところ失敗してると思います。
あと「平和」という言葉は扱いが危険です。ほとんどの「戦争」は、「平和のため」という名目で起きているのですから。
•10. 総理が実は韓国の特定の団体とは仲が良いことはどう思う? 総理は本当に中国や韓国、あるいはその政府が嫌いだと思う?
好き嫌いで仕事するようなら総理失格でしょう。そんな愚昧な人間があの位置にいるとは思えません。ただ、周りに置く人間はもう少し選んだ方がいいと思いますけどね。余りに品がない。まあこれは政治ではなく単に趣味の問題ですが。
•11. 総理に限らず石破とか周囲にはあの戦争は誤りだったとする発言は結構あるけど、本当に自民党は戦争や決定的な対立を望んでいると思っているの?
戦争が好きで好きで仕方ない、というようなアホがTOPなら、この国は今頃滅びてるでしょう。大日本帝国の軍人だって「戦争好きで好きで仕方ない」なんて人間をTOPに立てたりは、基本的にしてないと思いますよ。ただ、(上で書いたような)「普通の国」として、戦争を外交の手段の一つとして選べない国にしておきたくない、とは考えているでしょう。そして、そういうこと考えてるのは、別に自民党に限った話ではないと思います。政治家としては普通の発想です。ただ、それを公言するかどうか、となると、公言するのはあまりよい方法とは思えませんね。
「本当の目的」は分かりませんね。
正直、韓国軍への弾薬補給の件で先走っちゃったことへの償いとか、そういう狙いもあるんじゃないかと思ってます。実際、「韓国が日本の集団的自衛権を認めた!」と大騒ぎになっておかしくない件が、靖国参拝のせいでほぼスルーされかけてますし、朴政権は随分助かったんじゃないでしょうか。大体、安倍政権含む歴代自民党政権と韓国って、思想的にも立場的にも近いし、実際、言うほど仲悪くないでしょ? だから「本当の目的」なんて「分からない」です。
以上、質問に答えてみましたが、問題に対するスタンスが君と私ではかなり違うのだろうと思っています。だから、あまり参考にはならないかもしれない。でも、君が何かを知りたいということは伝わったので、すれ違いをおそれずあえて書いてみました。こちらの意図も、なにがしかは伝わる部分があるのではないかと期待します。それでは。
キリスト教徒なんですけどね。
なんか書くの余計かなとか思うんだけど書いちゃうんだよね。つい。
「戒律」についてできなかったことを「ゆるしの秘蹟」(告解は古い言い方)で神様の代理で「言葉ではっきり」赦してもらうんだよ。
でも信仰があるんだから、行いに顕れるべきだ!ってことで、「正しい」行動をするように奨められる。
あれはただそれだけのことなんですよ。
http://www.pauline.or.jp/yamamoto/yamamoto_56.php
「体はひとつでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」という感じに
「いい人も悪い人もすべてキリストの体(教会、の暗喩)の一部」と求道者には初心者のうちに教えるのが普通なのよん。
で、これに続けて、あなたへの答えが載ってる。ついでに書いてみよー。めんどくさかったら読まなくていいよ。
あなたの投稿を見て、「はて?」と思った人のために書いてるつもり。
「あなたがたに最高の道を教えます…(中略)…愛がなければ無に等しい」。
現実、真面目な信徒や真面目な子供は教会の外でも中でも「いい評価」を受ける。
でもそれがどうかしたの?っていうのがキリスト教徒の長所であり短所なんだよね。
悪いことやりたい放題してても、「ごめんなさい」で済ませるのが教会。
この点で不愉快な思い、たぶんする人多いんだろうなあ。
それについては本当に申し訳ない。ウチらの優先順位は神様なんだ。
もしキリスト教徒が誰かに悪いことしたのに謝りに来なかったらそれはちゃんと伝えるべき。
その時怒っても当然だと思う。
非キリスト教徒は「罪を悔い改めた罪人は、等しく神に愛された存在であって、『ずっと正しく生きてきた信徒』と同じように救われる存在だ、という感覚が本当に持てているの?
どこかで、昔からの仏教のような感覚で、「より修行をした僧は、より仏に近い」「偉い」存在だ、という感覚がありはしないか。」と疑っちゃうんだよね。
気持ちはわかるんだけど…死ぬ間際に簡単な洗礼を受けて天の父の元へ一直線しちゃうのも別に構わないよってのも、伝統的な教会は受け入れるよ。(※教派による)
しかもそうやって亡くなった人の死者のためのミサ(プロテスタントなら日曜礼拝の時に同時に祈る)もやります。
カトリックなら大概は来週~再来週辺りにやることも多い(ハロウィン・死者の月・11月参照)。
「大いに罪を犯し、その罪を大いに悔やんで赦しをいただきなさい。そして、その赦しの大きさ(愛)を感じて、他者を愛せ。」
とね。
余計な散文お目汚し失礼しましたー
国家の「成熟」というのは、文化の違いを超えてあらゆる近代国家は同じ発展の仕方をする、ということが前提なのかね。物理的に発生する課題なんかは、確かにある程度似てくるだろう。だが、社会制度や人々の労働観などまで同じになるという期待は、文化の違いを一切無視した極論ではないかな。だとしたら、有権者も企業も「ついてこない」ような制度を導入した小泉改革が、どうして「正しい」と言えるのか、疑問。
まあ、日本人は、結局、職業であれ性別であれ、とにかく何らかの「身分(差別)制度」を求めているんじゃないかね。それは、単に信仰とかいう問題じゃなくて、もっと根深いところでそうなんじゃないか。
たとえば、日本人は、キリスト教徒ですら、どこかで「全ての人は平等だ」という概念を理解していないんじゃない? 牧師や神父のように、「より真面目な」信徒は「より神に愛された」存在であって「偉い」……とどこかで思ってるフシがあるんだけど、どうかね。「懺悔」とか「告悔」というシステムを心から納得しているんだろうか。罪を悔い改めた罪人は、等しく神に愛された存在であって、「ずっと正しく生きてきた信徒」と同じように救われる存在だ、という感覚が本当に持てているの? どこかで、昔からの仏教のような感覚で、「より修行をした僧は、より仏に近い」「偉い」存在だ、という感覚がありはしないか。
これって、別のツリーで話題になってる「自尊心」の問題と同根だと思う。「日本人ほど自尊心が低い人が多いように見える社会はない」というのは、「平等」を押し付けてくる近代的社会制度への無意識の反発が、「いやいや私ごときなんて、そんな、皆さまと平等な偉い存在じゃないんですよ」という謙遜風自虐と、その裏返しとしてのある種の「無神経な図々しさ」(ちっぽけな存在である私ですから、多少不作法だったり公益に無関心だったりしてもお目こぼし願いますよ、ヘッヘッヘッ、的な)となって表れているような気がするね。
身分制度って、一面「ラク」な社会なんだよね。身分が社会的に規定され、それ以上のものは求められない、という点で。みんなが「身の丈」で暮らす社会と考えれば、『選択的身分制社会』なんてアリじゃねーのとも思うが、どうなんだろうね。まあ、イノベーションのない社会は国際的競争力を失うことは必然だから、長期的には「今ある財産を食いつぶす」「ますますhentai国家化が進む」結果になるとは思うけどさ。逆にその方が、社会的な「生きづらさ」は減ると思うんだが、どうだろう。
まあ、単なる妄想なんですけどね。
何の理由があってあなたに嘘つかなきゃいけないわけ?
あなたは最初にどこに載ってるのか?と言い、読んだことが無いのに載っても居ないものを持ちだして、
そんなことを言ってる人間にはがっかりだわ、というように言っていますし、それに関して馬鹿にする態度をとっています。
事実として、最初にどこにも載っていない、と言う態度を貴方はとっています。それは事実です。
一方、貴方の態度が馬鹿にしてるかどうか、こちらは明らかに馬鹿にされてると感じますし、文章からはそれにじみ出てますが、
もし、貴方自身、あの文章で人を馬鹿にしている自覚が無いとしたら、それは恐ろしいことですので、きちんと読み返した方が良いです。
少なくとも貴方の文章を読んで馬鹿にされてる、と感じる人が居る、ということ。
なぜこちらに悪意があるのでしょう?こちらは間違ってると指摘されたら素直に訂正し、知ってる範囲で答えて居ます。
知らないことについて質問していますが、それが間違ってる場合も訂正し謝罪しているつもりです。
悪意があれば一方的に攻撃するだけでしょう。今の貴方のように。
だから、そういうことを言ってるわけではありません。聖書にこういうことが書いてあるらしいんだけど?との問いに、
最初、あなたはそんなものはない、何を見たんだ?載っても居ないものを話題にすることすらおかしなことだ、という論調でした。
で、こちらがこういうふうに載ってるみたいだけど?と証拠を見せた瞬間、
手のひらを返すように、それは載ってるけど小さくだ、自分のところでは扱わないものだ、
と、いかにも載ってるのは知っていたが、という論調に。
ですから、貴方がその部分を知らなかった、のであればそれは別にいいんです。
そういうものもあるんですね、それは知りませんでした、知らずに馬鹿にしてすいませんでした、で済む話ではないでしょうか?
その上で、現在のカトリックの大多数はその様な物は後付て正しいものではないと考えてるようだ、のような説明をされれば、そうなんだ、となるだけです。
その辺り、こちらが言ってる事は理解してますよね?間違いを認めるのが嫌で嫌でと言うのはわかりますが、
別に宗教とか学問とかなんでも関係なく、話をしてる時に無知の上で相手を馬鹿にし、
それを指摘された瞬間にごまかしに入って謝罪しようともしないのは本当に見苦しいので辞めるべきです。
最初から悪意を持たず、人を馬鹿にするような態度でなければ、間違いを指摘されても直ぐに訂正、謝罪出来ます。
私が今回そうでしたから。別にキリスト教はなんでそんなおかしな教えをしてるの?と言う問ではなく、単純にそのことをキリスト教の人はどう思ってるの?と言う問でした。
ですから、そもそもその話が現在教えられている正しい話ではないのだ、と言う指摘には素直にこちらの認識不足による物だと訂正したつもりです。
言ってること、分かっていただけませんか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1148246596
こことか。
新世界訳聖書とか「洞察」の本第二巻1130P?とかに言及があるみたいですが、そのような物はご存じないのですか?
下でいろいろ全部読んでこい、と言ってるからにはこの辺りの物も全て読んだことはあるのだと思いますが。
それとも、ここの書かれている様な事は嘘なのでしょうか?
他にもいくつかつらつら見ていく中で、その様に後から付け加えられたものだ、という物はいくつか見ました。
これ自体が「偽」であるとは解釈されているようですが、そのような物が出回ったのは事実なのでは?
単なるイエスのキャラを知った上でのジョークに過ぎない、という話がありましたが、
それとも、この時代に既にできていた「ジョーク」だという意味だったんでしょうか?
なんでそんな上から目線なのか分からないけど、別にそこまでしてわざわざ話をしてくれなくても結構です。
単に、ちょっと疑問に思ったことを気軽に聞いただけです。
間違いなら間違いを訂正してくれれば認めます。単に知らなかっただけなので。
またggrksならそれでいいので。
この辺りについてはちょっとググった程度ですが、そういうものなのかということは分かりましたので。
これは当たり前のことだと思いますが?
特に、宗教なんかは途中で論理が飛んでる所があるわけで、そこは解釈の問題でしかありません。
キリスト教自体もそれだけ分裂してることがそれを表していますし、お互いの主張が明らかに矛盾していることもあるかと思います。
逆に、矛盾してたり確かでないものを無理やり信心によって解釈しなおし、自分を落ち着かせるのもまた宗教だと思います。
それは別に悪いことと言ってるわけではなくて、宗教じゃなくても自分を無理やり納得させることはありますので。
そのような状況を、外から見て、「こういう時はどう解釈してる?」「もしこうならそれはどう解釈してる?」と聞くのは間違ってないと思いますが。単純な疑問として。
http://anond.hatelabo.jp/20130709090812です。
皆さん頭は冷えたでしょうか?
キリスト者の皆様
私たちは教派にもよりますが「国のためにも」祈りを捧げています
「歴史を重んじる」と誇っているはずの日本人にはありえないほどの態度ではないでしょうか?
そのような態度で自分と違っていて相手が完全に合わせることが不可能というだけの理由で、他の宗教の信徒を圧迫しないでください
感情的になる人がいると反射的に批判することはあまりに滑稽です
我々もただの人間です
同じように感情的になるあなたは、人間ではないとでも言うのでしょうか
また、日本のキリスト教徒人口について書いている方を見かけましたが
2000年代に入ってすぐ6%と報じられたものを見たことがあります
おそらく比較的正確です
訳あって一時的に教会に行けない人を、教会は「人口」から外すことがあります
教会はお寺や神社より厳密にミサや礼拝などに参加している人だけを人口として発表する傾向があるからです
首都圏にいますが311以降受洗を希望する人の数が急激に増えており洗礼前教育のクラス調整が追いつかないほどです
いわゆる「平信徒」から一歩上に上った立場なので連絡会議もあり他の教会でもマネジメントが忙しいことは知っています
また、無宗教(どの宗教にも応じる)という立場は状況に対して従順とも言えますが
逆に社会的問題を引き起こすカルトにひきこまれやすい傾向を持つ、という現実もあります
以上です。
これにて、私の発言を終わります。
関東在住の人なら、電車内でみすず学苑の広告を見たことがあるだろう。「怒涛の英語」とか書いてあるアレだ。動物や歴史上の人物に扮したコスプレと、必ず決まって「ヤマトタケル」のコスプレ写真。いったい大学受験と何の関係があるのか、と疑問に思ったはずだ。
みすずの社長は半田晴久。深見東州という別名をもつ。神道系の新興宗教であるワールドメイトの代表を兼ねており、実質的に社長=教祖と言える。みすずの独特の広告は、半田の発案によるもので、なんか深いユーモアが込められているのだという。わかりたくもないが。
ワールドメイトは内部で信徒へのセクハラなど不祥事をたびたび起こしている。この情報が外部に漏れることに神経を尖らせており、Wikipediaの記事は削除だらけだ。
これまで四つの観点からカルトについて述べさせていただきました。しかし、「入会防止」の目的なので、それに関連する内容に言及されており―学問的に説明が不十分でもあります―。オウムのすべてが網羅されているわけではありません。ましてや、私はカルトのすべてを論じることのできる立場ではありません。その意味では、本文は「オウムへの入信を防止するための手紙」でしかないかもしれません。
この理由で、カルトへの入会を防止するためにも、実学としてカルトのすべてを知るためにも、専門家による著書『マインドコントロールとは何か』(西田公昭 著 紀伊國屋書店) をお勧めします。
また、本文にはオウムの教義の概念が氾濫しているので、皆様にどのように受け取られるか気掛かりでもあります。これまでも、私は多くの方々から質問を受けてきました。説明責任があると思い、できる限り回答させていただきましたが、私どもの愚行をお伝えすることには失敗することが多かったです。殊に宗教的経験に係わる話になると、その方の人生経験に沿うように別の解釈をされてしまうことが多々ありました。人は自身の経験に基づいて物事を理解するものですから、無理もありません。
ですから、この度は説明方法を変え、具体的な描写とそれを説明する文献の引用を加えました。それでも、理解が困難な点があると思いますが、ご容赦願います。
現在、私はオウムの教義や麻原の神格を全否定しています。その正当性の根拠だった宗教的経験について、脳内神経伝達物質が活性過剰な状態で起こる幻覚的現象として理解しており、教義のいう意味はないと考えているからです。
それだけに、いかなる理由があれ人間として許されない罪を犯したことは、慚愧の念に堪えません。亡くなった皆さまのかけがえのない生命は取り戻すことができないこと、ご遺族の皆さま、重傷を負われた皆さまやそのご家庭の皆さまの苦しみが今後も続くであろうことを考えると、後悔の念ばかりが浮かびます。
また、オウムの教義や麻原から心が離れた今、私は無信仰の状態にあります。しかし、宗教の価値は認めています。信仰によって人格を高められた方々が多数いらっしゃるからです。人間には超越的な存在を感じる資質が備わっているのでしょう。それは、人類が誕生して以来、いかなることがあっても―権力から弾圧されても、科学が発達しても―、宗教が存続していることが証明しています。その資質によって人格を高めることは、決して否定できません。そして、超越的存在自体も、私などが否定できることではありません。
「超越的存在も否定できない」と申し上げると、これまで私が述べてきたことと矛盾していると思われるかもしれません。実は、「宗教的経験は脳内伝達物質が活性過剰な状態で教義のいう意味はない」ということも、私の個人的経験によってそう感じているだけであって、客観的真実ではないと自覚しています。私の経験に基づいて、多くの方々にそれを納得していただける程度の説明をすることは可能と思いますが、科学的に厳密な証明は不可能です。元々、この種の概念は、科学的な証明が可能なように定義づけすることができないからです。そのため、カルトの超越的世界観についても、それを科学によって排斥することは、極めて困難です。
また、前に「禅」の瞑想の例を挙げましたが、それは、オウムの技法と本質な違いはありません―もちろん、教義は大違いですが―。つまり、オウムは多くの文化遺産を採用―濫用というほうが正確かもしれません―してきたのです。この場合、伝統的に承認されており、有益性もある瞑想技法と“オウム的なもの”として排斥したら、社会問題になりかねないでしょう。そして、この事情はほかのカルトについても同様でしょう。このように、社会的要因によっても、カルトを構成する要素を排斥しきることは難しいのです。
これらのエアポケットにおいて、カルトはいつまでも生息し続けるかもしれません。
たとえば最近は、「スピリチュアル」が話題になっています。これはいまだ「カルト」とはいえないかもしれませんが、その超越的世界観が有益なものか有害なものか注意深く見守る必要があると思います。もし、恐怖を喚起する概念が含まれているならば、影響を受けやすい人は日常生活に支障をきたすでしょう。また、「スピリチュアル」が集団化すれば、個人の価値観が相当受容して、社会通念から逸脱した行動をとる人も現れるかもしれません。
以上の状況においては、結局、各個人が「カルト」を理解し、その基準を定めるしかないでしょう。本文が少しでもそのお役に立てれば、幸いに思います。
平成二〇年六月二五日
平成二〇年一〇月二七日改訂
◆参考記事リンク
『駅長日記:サリン事件実行犯広瀬健一氏の手記をUPしました』
『オウム元信者広瀬健一氏の手記「学生の皆様へ」』(2008年公開)
『オウム真理教元信徒広瀬健一の手記を一部公表。順次追加』(2011年~公開)
◆皆さんに読んで欲しい記事リンク