はてなキーワード: 信徒とは
◇事実も拾えてるし、評価もきちんとできてるし、普通に上位答案だと思う。なので以下はほぼ難癖なんで、軽く聞き流してくだせぇ。
◇草太いわく、平成24年から論点の数が減って、まともな問題になったらしい。平成28年にまたカオスに陥るわけだが・・・。
◇住民訴訟書き落としてるけど、上位答案(H氏〔142.73点、28~33位〕)も書き落としてた。問題文が読みづれぇんだよ。
◇効果を論ずる際、「宗教に対する援助・助長・促進又は圧迫・干渉」っていちいち書くのだるいからどっちかに絞っていいと思う。
◇「単なる社会的儀礼」かどうかを論じてるんだけど、「儀礼」って言葉からすると地鎮祭とか玉串料とかに使う言葉で、助成金に使う言葉じゃないかなぁと思った。どうでもいいんだけど。
◇埋葬の方式をいちいち調べんのはだるいっしょってのは確かにその通りだなぁと思った。
◇墓地埋葬法については、被告の方で、C宗典礼方式に従わないことは「正当な理由」だから、これをもって拒否しても、墓地がC宗信徒のためだけのものであることを意味しない、と反論するらしい。反論として成り立ってんのかよく分からんが。
内村鑑三の著書の一つに『一日一生』という本があって、1年365日(366日)の各日について聖書の一句を引用し、それについて内村のコメント(他の著書からの引用)を付す、ということをやっている。
そのうち12月24日と25日がやはりキリスト生誕についてのものだったので引用する。
<12月24日>
”だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた(コリントの信徒への手紙二 第5章17節)”
イエスが処女からお生まれになったのは、神が普通の出産法を賤しめられたからではない。人類以上の生命をこの世に持ってくるために必要であったからである。贖罪はキリスト降世の唯一の目的ではなかった。これは罪の世に現われた第二の人におのずから懸かった職分であった。処女の懐胎は新人を世に供するために必要であった。私たちは聖書の記事によるだけでなく、宇宙の進化の順序からも、また私たち人類の切なる要求からも、この大きな事実を信じるものである。
<12月25日>
”天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである(ルカによる福音書第2章10-12節)”
もしキリストがお生まれにならなかったら、この世はどうだったか。
シーザー、アレキサンダーらはなお陸続と世に顕れただろう。君主ひとりのために屍をその馬前にさらす忠臣義士は出たであろう。しかし下民のために剣を抜いたクロムウェル、ワシントンのような武人は出なかっただろう。ルター、サボナローラのような、いわゆる社会的勇士は生まれなかっただろう。
ホレス、ヴァージルのような宮廷に媚びを呈する詩人は出ただろう。けれどもダンテ、ミルトンのような平民的詩人は出なかっただろう。
キリストの生まれなかった世界は貴族帝王の世界である。人を崇めてこれを神として仰ぎ、一人の栄光を到達させるために万民が枯死する世界である。キリストによって筆も剣も脳も腕も貴族の用をせず平民の用をするようになった。
なんかマーティン・スコセッシ監督(人生で五指に入るほど好きな映画監督)が遠藤周作の『沈黙』を映画化したらしいので、積ん読していたのを読んだ。以下はそのメモ(間違ってるかも)。
どうもテーマは以下の3つらしい。
① 信徒がどんなに辛い目にあっても神が彼らを助けもせずに沈黙しているのは何故か(神はいないのではないか)
② クリスチャンと言えど、拷問に対する恐怖から、踏み絵を踏んでしまう心の弱い者もいる。これら弱き者は救われないのか。
③ 日本にキリスト教が伝来しても、それは日本特有の何かに変容してしまって、本来のキリスト教は日本に根付かないのではないか。
◇結論:神は沈黙しているのではなく、信徒に寄り添い、その苦痛・苦悩を分かち合って下さっている。
◇考えたこと:神がいるならなぜ苦悩に満ちた人生で何か声をかけてくれないのか、とは誰しもが考えたことだろう。それに対する卓抜な回答だと思う。辛い人生の慰めになる。
本作の元ネタの1つはヨブ記だろうけど、この解釈をヨブ記に逆照射すると面白いかもしれない。信徒に苦悩を与えるヤハウェと、それを分かち合ってくださる「仲保者」(=キリスト)ということになるか。
◇結論:弱き者も救われる。弱き者には弱き者なりの苦悩があり、踏み絵を踏むことを拒否して拷問を受ける信徒と変わりはない。
◇考えたこと:これも大変慰めになる。誰しもが踏み絵を拒否できる強い信徒ではないし、むしろ弱き者の方が大多数だろう。そんな中でのこの結論は心強い。
◇結論:書いてない?
◇考えたこと:神の存在が聖書というテキストで表されている以上、そこには解釈が入らざるを得ないし、解釈に際してはその人の人生観・世界観がそこに入り込まざるを得ない。
その意味で、西洋のキリスト教と日本のキリスト教は違うと言われても、そらそうだろうという感じだった。
おわり。一読目だし、『切支丹屋敷役人日記』がいまいち理解できてないしで、間違ってるかも。
日本の小説だけあって、論文がネット上にpdfでいくつか転がっているので、読んでみたい。
[追記]
本作にまつわる良いQ&Aがあったので貼っておく。
全然無宗教なんだけど、ここのところ「仏教入門」みたいなのをいくつか読んでいる。
昔話とか「昔の人も生きるの大変だったのね〜」的なノリでとても興味深いし、
たぶんお釈迦様って「あの人いっつも良いこと言うよね!」的な人だったのかなあーとか想像するのも楽しい。
(ちなみに、お釈迦様自体は静かに悟りを開いて手の届く範囲で教えを説いた人で、死後に弟子たちが教えを編纂することで、れっきとした「宗教」になった。らしい)
『日本では、幕末・明治維新以後から近年にかけて創始された比較的新しい宗教のことをいう。』
らしい(Wikipediaより)。
で、そういうのって、得てしてものすごくうさんくさい(完全に主観だけど)。
いや、古い仏教もうさんくさいこと言ってる部分はあるし、キリスト教やイスラム教みたいな世界宗教もかなり怪しいところはある。
けど世界宗教の怪しいところって、時間を経るごとに権力者が良いように解釈した結果ついてきた怪しさだったり、
時代の流れ的にしょうがないよね的な不合理性だったりすることが大半なので(な気がするので)、
教えの本質だけみてみると、「はえー良いこと言う」くらいの気持ちでは理解・納得できる気がするんだ。
じゃあ、新興宗教の「うさんくささ」の正体ってなんだろうか。
暇なのでいくつかその理由を考えてみる。
もちろん信教の自由はあると思ってるので、別にその新興宗教を信じてる人をどうこう言うつもりはないけど
自分自身の中で何が「怪しさ」だと思ってるのか言語化してみたい。
Wikipediaなんかでそれぞれの新興宗教のページをみると、難しくて全然頭に入ってこない。
固有名詞が多いのと、概念的な話が多いのと、仏教系だと漢字が多いからかなあ。
だから、共感するとか云々の前に、そもそも理解できない。わからないものは「怪しい」と思う。という論理かな?
ただ、聖書とかも自分で読むとかなり意味不明というか回りくどい言い方多いし、「で?」みたいな逸話が多いし
経典なんかもすげーわかりにくいから、「誰でもわかる!xxx教のおしえ」みたいなのがあるといいのかしら。
デートとかしてて会話が途切れた時、「あ、あの建物変わってる!面白いね!」とか言った後調べて
なんとか教本部 とかだとなんとも言えない気分になりませんか。
考えられるのは、
・目立たせることで文字通り目を引いて、その宗教に興味を持ってもらいたいから
・でかかったり変わってたりすると、その宗教が流行ってる・勢いがあると思わせられそうだから
・お金持ちはアートが好きだから(宗教団体がやってる美術館とかあるし)
...あたりでしょうか。
なんか他に理由思いつく人、ご存知の人いらしたら教えてください。
仏教でもお坊さんが政治に介入してきた時代は途端にうさんくさくなったし。
ちなみにお釈迦様のもともとの教えでは、
お坊さんは働きもせず、他人からの施しで生計を立てているくらいなんだから、政治に介入とかしちゃダメ!って考え方だから
その意味で、お坊さんの政治介入はもともとの仏教的には「間違ってる」。はず。
新興宗教にしたって、そういう過去の経緯を経て(お坊さんは働かずにお布施で生活する等)税制とかいろいろ優遇されてる存在なのに、
さらに政治にまで介入してくると、なんか図々しいなと思ってしまうのかな?
あとその宗教が「この人に投票せよ」みたいな統制ができちゃうから、トンデモな政治家が当選する可能性もある。
あーでもこれは、候補者が演説したり後援会がいたりすることとどう違うんだろう?
xxx教の人だから無批判に応援しよう、ってなってるから違和感があるのかも。
その宗教に加入せよ も然り、私はxxx教です!も然り、それに興味のない相手に空気読まずにバシバシアピールしてくる感じが苦手なのかも。
ただ、宗教と布教活動は大昔からセットだったし、何を信じるのも自由だから別にいいはずなんだけどなあ...。
あれかな、アプローチしてくるのはいいとして、「やたら」ってとこがダメなのかも。
胡散臭いというか、興味のない相手に対して「しつこい」「鬱陶しい」って感じかな。
これは世界宗教にも一部言えることだけど、
「こういう考え方をすると、心に拠り所ができて、何もないときより精神的に安定するよ」はわかるけど
「これを信じないと不幸が起きるだろう」
「これを信じて実践する者のみが幸福になる」とかになると胡散臭さはぐっとアップするよね。
「霊波が」「オーラが」とか、「波動」「飛行」とか言い出すとまじでやばい。
ちなみにお釈迦様の肩ばかり持つわけじゃないけど、お釈迦様の教え的には
「絶対的な超越者などいない」「常に合理的であれ」って感じだから、かなり地に足がついててほーと思った。
政治介入についてもそうだけど、信仰すること=無欲であること、だと思うからなのか
宗教活動をするのに必要な以上の献金を迫るというのに違和感がある。
というかそもそも、「施し」ってそれに価値を見出した人が自発的にするもののはずなので、
月謝とかノルマとかみたいにお金を出せってのはおかしな話だよね。
ただ、今これを書きながら「信仰すること=無欲であること」という前提に偏りがあるのでは?とも思った。
で、信徒個人であれば、その宗教を信仰しつつバリバリお金稼ぐぞ!ってマインドの人がいても全然普通だけど、
「宗教」それ自体が分不相応なお金や権力を求めて身につけちゃうっていうのが危険だし間違ってるのかな
なお、檀家制度とか云々で分不相応にお金を持ってるお寺がある現状についても、同様の違和感を抱いてます。
*****
だいたいこんな感じかなあ。
自分の中でのモヤモヤはだいぶ整理できた気がするんですが、あまり頭が良い方ではないので
というか、そもそも別に議論することでもないし、着地「勝手にすれば」って話なんですが
もしなんかあったら教えてもらえると嬉しいです。
アメリカ大統領選挙が終わりましたね
(人によっては)窮地の状態になったせいか、オバマ氏やめないで!とか現地の方のツイートがTLに流れてきたけど、弱腰で何も出来ない駄目大統領みたいな風に昔言われてませんでしたっけ?
政治思想や実際にこれまでされてきたことなど、候補者両名について詳しい事は知らないのでどっちがよかったとかはないのですが、今回の選挙について気になったことがあるのでひとつ
アメリカの新聞は大半がヒラリー氏応援だったのに、選挙で勝ったのはトランプ氏だった!というまとめ記事に、もうマスコミになんか騙されねーんだよwwwみたいな…しかも論調的に大方そんな意見が主流の記事を見ました
うん、そう思う
日本なら
日本の報道の仕方には、かなり疑問がある。ひどいよね、とかずるいなーと思う事も多々ある
あれだけ国土が広いので新聞社も数多あります。日本の比じゃない。お住まいの地元でしか発行されてないなんとか新聞も、当然アメリカにもあります
アメリカにおける州=都道府県、国=国とお考えの方もいるかもしれませんけど、むしろ州が国、国が全世界みたいなイメージなんじゃないかな
だから州の中で発行されるものにも、由緒ある新聞社もたくさんある
「ボストン・グローブ」とか聞いた事ありませんか。マサチューセッツというひとつの州のなかのボストンという街で発行されてる新聞
そこが「キリスト教の神父が子供たちに性的いたずらをしているけどもみ消してる」という記事を掲載し、世界中の教会でも同様のケースが発覚して大問題になりました
キリスト教なんてアメリカどころか世界規模の組織で、権力者を含む色んな人が信徒で、敵に回してすんなりいくわけない相手です
そこを相手にして、世界的なスクープをすっぱ抜いたのが、そのひとつの州の都市部で発行されている伝統ある新聞社だったわけです
日本の大新聞社でもできない取材力、記事を書く力というか文章の説得力、などなど日本のマスコミと一緒にしないでくれー!!
そもそも「真実をお伝えします。ここに書いてある事だけ信じてください」なんて報道の仕方もしない!!
はっきりいって全ての新聞社が公平でもない。公平な報道はするかもしれないけど、公平な論説ばかりではない
朱色だったり、ブラウンベージュよりだったりの色んな赤旗新聞がたくさんあると思ってください
マスコミと購読者、何が違うかっていえば「取材をする手段があるかどうか」じゃないですかね
それらを元に我が社はこういう理由でヒラリー氏を応援しますって方針を決め発表してるんです
ヒラリー氏を応援してくださいそれが正しいんです、とは微妙に違うんですよ
それが気に食わなければ購読をやめて別の新聞を読めばいいだけ。たくさんありますらかね、選び放題です
当然どこの世界のマスコミにだって煽動記事を書く記者はいるでしょう。でも自分の本名を記載して、社運をかけた意思表明記事なわけなんですよ
新聞社が騙す、騙されるのレベルの話じゃない。購読者が新聞社を選ぶ、という話なんです
日本のことしか知らなければマスコミ=巨悪と思いたくなる方がいるのも仕方ないのかなと思うんですけど、世界には自分の信じた正義の為に真面目に報道に取り組んでる人もいることを思い出して欲しいです
自分の国がこれだけひどいと世界的にもひどいのばかりだろ!と思いたくなるのはすごくわかりますが!
こちらは新聞社が誰を支持するか発表するってことがアメリカでは割と重要な判断ポイントになることがよくわかるブログ記事でした
http://www.kitamaruyuji.com/dailybullshit/2016/10/post_484.html
取材し、経歴を調べ、見聞きして、頭のいい方々寄って集まって考えて、トランプ氏を応援しない(けどヒラリー氏を応援するとも言ってない、っていう記事すらある)と大多数の新聞社が発表したのにトランプ氏は当選してしまったという話です
郷土館では地質時代からはじまって亜炭をとっていた近代までの展示がみられます。
「カニサイ」の化石があって「蟹犀」かと思いきや
パリサイ派とも関係ありませんでしたけど、隠れキリシタンの展示はありました。
美濃は織田信長の領地だった関係で宣教師が熱心に布教しており、
ひとつの地域は人口の40%以上がキリシタンになっていたそうです。
柱の溝に仕込んだ石にマリア像が掘ってあったり、
水の字がキリストと手に打たれた釘を表していたり、
命を懸ける情熱のない方は転びキリシタンになったわけですけれど……
でも、熱心な信徒がいらっしゃったのも「裾野広ければ山高し」かもしれません。
土人形の保存状態がよいものの表面は白い玉子みたいで綺麗ですわ。
モチーフはお雛様や七福神の他には歴史上の人物などがありました。
菅原道真や源平合戦の人物が多く、戦国時代の人物がほとんどないところが
現代と違っていて興味深かったですわ。
それにつけても「だるま乗り亥」のかわいらしさったら!
「働かざるもの食うべからず」って言葉はよく誤解されるんだが、(1) 元は聖書(テサロニケの信徒への手紙 二:3-10)の言葉で、正確に言えば「働きたくない者は、食べてはならない」って意味だ。(2) その後、この言葉がレーニンによって再解釈され、「働きたくない者」ってのは不労所得で食っていける金持ちのことだ、と言われたりした。
重要なのは、どちらの意味でも「働きたくても働けない者」(あんたのことだな)を含まないってことだ。
だからあんま気になさるな。親父さんは知らんが、神さまは分かってくださる。
それと聖書には「あんま人に期待しすぎるな」っていう教え(ヨブ記全体)もある。
親父さんに期待しすぎると裏切られてこの先ずっとつらい(しお父さんのことが大嫌いになっちゃう)からやめとけ。人間なんてそんなもんだ。
(オナニーはしない)
本日おこなわれた全日本合唱コンクール東京支部大会に、幸福の科学の合唱団が出場。
男性は白衣のような服、女性はドレスで肩に紐状の飾り(将軍とかが身につけてるやつ)を装着。
見た目のインパクトで観客も少しざわついていた。
ひょっとして幸福の科学の正装なのか?と思い画像検索したが、大川隆法が天使のコスプレをした画像しか見つからなかった。
課題曲はいいとして、自由曲は「勝利の歌」、作詞:松本弘司 作曲:水澤有一
作詞者、作曲者ともに信徒らしく、過去にも幸福の科学のために作品を残しているらしい。
どんな歌なのかドキドキしていたのだが、予想通りエルカンターレの讃美歌だった。
演奏が始まる前は、金に物を言わせてクオリティの高い映画やアニメを作っている幸福の科学のことだから、
ひょっとして合唱もかなりの実力があるんじゃないかとドキドキしていた。
全国大会まで行って、エル・カンターレの宣伝をされたらたまったものではない。
しかし、それは杞憂で、まぁひどい演奏だった。というか、エル・カンターレの前で披露したら怒られるんじゃないかな。
基礎出来てないし、そもそも音取れてないし…。
まぁしかし、今でこそ幸福の科学はカルトだが、数十年後には大きな団体になっているかもしれない。
こいつらの悪趣味を政治や文化に持ち込まれるのは、本当に御免だ。
創価学会しなの合唱団は、名前の通り創価学会の合唱団だが、歴史も実力もありとても良い演奏をする。
やはり創価学会というのはそれだけ力を持った集団なのだと思う。
同様に、幸福の科学合唱団の演奏を聴くことで、幸福の科学の実力が測れるかもしれない。
今後、賞を取るような合唱団に成長していくようなら、要注意だ。
コスプレイヤーと有名漫画家の歳の差婚にキモチワリィ好奇心チンポぶっ勃てて
ゴミみたいな偏見垂れ流してるだけのゴミブクマカはさっさと口を閉ざして静かに自分の人生だけを生きれば?
普通はAV落ちすらあるのにさっさと高く売り抜けて賢いと言ったり
規範意識の信徒だか嫉妬に狂った下層民だか知らねえけどお前の妄想なんかどうでもいいんだよゴミ。
人柄に惹かれて結婚してようがチンポだけに従って結婚しようが外からわかるわけねえのにギャーギャー詮索と妄想すな。
億万長者と結婚して金銭的にやたら得する人間なんて世の中に金持ちの数だけ常にいるんだよ。
お前らみたいな外野の人間には絶対におこぼれなんてこねえけど、たまたま選ばれた人間は結局のところ財力を手にするの。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.sankei.com/politics/news/160309/plt1603090006-n1.html
脊髄反射的に、いきすぎだと思ったけど、よく考えるとそうでもない気がしてきた。ローマ教皇の話がすぐに思いつくけど、バチカン市国はカトリックの布教のために存在する国だから、日本と比べることはできない。バチカンの国民は、基本的にカトリック教徒であることが前提となっている。
天皇は二つの役割があり、その切り分けがついてないってことだと思う。憲法的に考えると、天皇は、仏教徒やキリスト教徒や無神論者が含まれる日本国の象徴だ。政教分離や男女平等を考えると、女性が天皇になれない、というのは不当であろうと思う。伝統だからという理由だけで合理的な理由なく存在する差別を撤廃するために国連の人権関連の諸機関は存在する。
神道のトップとしての天皇家を考えるなら、男系だろうが女系だろうが信徒でもない外国人が口を出す筋合いの話ではない。個人の自由権、特に結社の自由や信仰の自由の範囲内だ。ただ、天皇は、国の形を決める憲法の第1条に規定されているわけで、「個人の自由の範囲内です。」と言い張るのは苦しいような気がする。
あれ?わりと国連正しい?個人的には天皇家に対して、国の象徴の役割を解いて、神道の祭祀として京都御所で暮らしたらと思うんだけどなー。
イエスは律法学者とガチバトルして抹殺されたが、イエスの信徒たちの作った教団にも、聖職者階級が出来て、彼らのものになった。
建て前では出家在家の区別はなく、聖職者という存在はないことになっているが、イスラム法学者が幅をきかせている。
教皇もカリフも、代理人という微妙な位置付けから始まっているが、権威であることは皆が知る通り。
教皇やカリフがいなかったら、組織として成り立たずに歴史の中に消えていっただろうし、リーダーを持つ組織をつくれば、その下に側近、その部下という階級が出来上がり、信徒の平等は実現できない。
イエスはムハンマドの教えは、精神面では教義に原点回帰しつつ(あるいはしたつもり)でも、当時なりに当時の社会情勢にチューニングしていた。
「律法とローマ法でダブスタのところは、ローマ法を優先したっていいよん」
とイエス
「ダブスタがないように世俗の法も宗教の戒律も擦り合わせて一本化しとけ」
とムハンマド。
現代だと問題はアリアリでも、当時はそれなりに柔軟な解釈で改革したつもりだったわけで。
ISも当然だが、S県の顕正会、まじヤバ。
こないだ勧誘を受けたのだが。
日蓮の教えは一語一句正しい!
中国(元)が攻めてくるから天皇を帰依させて国立戒壇をつくって国を守れ。
政教一致は必達!
ちなみに、
日蓮宗から原点回帰を強めて過激すぎて破門されたのが日蓮正宗。
日蓮正宗から原点回帰を強めて過激すぎて破門されたのが創価学会と立正佼成会。
この両会は在家たちの、つまり下からの宗教改革だったが、知っての通り王国を作ってる。
増田か2chくらいにしか書けないことなのだが、キリスト教の正教会の信徒の一部が、ネット上でちょっと変。
変というか、痛い。
具体的には、Wikipediaのキリスト教関係の項目で、正教会についての言及が不自然なほど充実しすぎていたりすることなど。
あと、Twitterでの言動にもちょっと見ていて辛いところがある。
大多数の日本人には心底どうでもいい世界だろうが、少しでもキリスト教に興味があって、Twitterで宗教関係のフォローをしていれば違和感を感じたことがある人は多いのでは。
というか、一部の人というより、特定の人物と言ったほうが近い。
正教会というのは日本のキリスト教徒という少数派の中で、更に少数派なので、マイノリティゆえの行動ともいえるのだろう。
ただ、布教とか宣教とかそういう話でさえなく、ただただ痛い言動をしているようにしか見えないのだ。
同じくマイノリティである日本人ムスリムがTwitter上で興味深いツイートばかりで知性を感じるのに比べ、正教会の一部の人は見ていて辛い。
長崎のカトリックの神父やシスターが多い家系で生まれ育って、関東にやってきた。
ある時、近所のカトリック教会へ行ってみることにした。
システムはほぼ変わらない(献金の仕方が教会で違うくらい)ので、普通に馴染めていたのだが、
長崎の教会で聞く説教は、聖書の言葉を引用しつつ、「教えを見習って生きていきましょう」というものがほとんどで、
関東の説教は、政治が何だ経済がなんだ、とにかく政治に関する言及が多い。
「思っていた教会と違う」感じだった。
あと「キリストを信じている自分」にアイデンティティを求めているような人もおおかった。
よくネットで「キリスト教は〜」と批判的なことをいう人を見るが、
そんなことを言う気持ちもわからなくはないくらいの違和感だった。
「そんな所行かなくていいと」と言われたので、今は行っていない。
ホスチアをいただかないと、キリスト者だということを意識しなくなるけど、(根付いているともいう?)、
変なものに関わらないに越したことはないし、今日も家で、いつもどおり祈ろう。
>他の教会へ行けば?
一応沿線にある教会にはいくつか行きましたが、全部微妙だったので。。。
ミサも朝早いor夜遅いなので、あまり遠くへ行くのも困りものという感じ。
ここは長崎でも名前を聞く教会だったので、一度行ってみますね。
>聞き流したほうがいい
そうですね。別の教会に通ってみてあまりよいところに巡り会えなかったら、
長崎ほど教会が多くないから、気軽に別の所へ行ってみようとしても、
そこそこ距離が離れているんだよね。
どこも駅から遠かったりするし。。。。