はてなキーワード: ジャンバルジャンとは
「食べるの早いでしょ?」って言われちゃって、まあ自分でも気を付けてはいたけどその通りなんだけど、食べるのが作業感があるんだよなぁ
食べるのは作業なので
どんなにおいしそうに思えても一口食べて「う~ん、満足!」って満足してしまうしそのあと二口目以降は食べる作業になってしまう
だから「今」が味わえなくて全部全部段取り作業こなしてるだけなんだよな
気づいてなかったけど
あと長風呂も苦手
風呂なんて体洗い終わったらやることないじゃんジャンバルジャン的な思考回路やったかもしれないけど自覚が薄い
「今」が味わえなくて感動することも薄くて全部作業のようにこなしている こなしているとは言っていない から自分が音楽やるときにもソレが出てるっぽいんだよな
「今」を注力して味わえてなくて「これ今めちゃめちゃ良い」とか考えずに次々のことを憂いているから音楽でソロができない らしい って言われて納得はした
無感動で生きているとアレだね どれだ 早く人間らしくなりたい
そもそも最近のウエストエンドやブロードウェイは黒人が白人を演じる事が当然になってる。(逆はいまだにホワイトウォッシュと言われる不条理があるけど)
ジャンバルジャン、ジャベール、マリウス、エポニーヌ…みんな白塗りせずに素のまま演じてるし、25年ほど遡ればレア・サロンガみたいなレジェンドがすでに出現しいてたわけで。
ちょっと前にトニー賞乱獲したハミルトンに至っては歴史上の事実として白人だった人物も黒人に演じさせたんだし。
そんな感じであちら側の"言質"みたいなのは充分積み上がってるんだから日本も「もういいんじゃね?」と。
映像界隈はポリコレだなんだでゴタゴタしてるけど、舞台はまだまだ緩やかなんだから(ヘドウィグはちょい炎上したけどね)乗っかって行けばいいじゃんと思う
〇〇を批判するなら××も批判しろ、という言い方・論法には、いくつかの問題があるように思っている。
まず、一つ目。
この言い方は、おそらく「(ほぼ)同一のものA、Bがあった場合に、Aを批判する者はBも批判しなければならない」ことを前提としている。
これはもう価値判断の話かもしれないが、私は、この前提には同意しない。
仮にこれが国家による取り扱いの話だとしたら、国家が不平等な取り扱いをするのは問題だろう。
これに対し、個人の場合、同一のもののうち、一方を批判して他方を批判しない、というのは自由ではないか。
(自由とか言い出したら矛盾や誤りを含めて何を言おうが自由なんだけど、論理的な誤りがないということ。)
一方を否定し、他方を肯定するのはダブスタとの批判を免れないだろうが、他方に対して言及しないのはそう問題がないように思える。
私の立場からすると、AとBがほぼ同一なことを前提に、「Aを批判するなら、Bは肯定しないんだよね?」という問いかけなら許容できる。
逆に上記の前提を肯定するとすると、例えば、ある殺人者を批判した人は、およそあらゆる殺人者を逐一批判しなければならない、ということになるような気がするが、それで良いのだろうか?
二つ目の問題は、AとBについて、批判されるべき事情が(ほぼ)同一か、という問題である。
これは個別のA、Bごとの判断になるが、「Aを批判するならBも批判しろ」といわれているとき、この同一性があやしいように感じることが多い。
そうすると、AとBがどのように違うのか、という点に議論がシフトしていき、本題である「Aは批判されるべきか」という話がどっかに行ってしまうことが多いように思える。
例えば、三億円事件の犯人を批判してる人がいたとして、「じゃあジャンバルジャンも批判するんだな?」とか「カリオストロのルパン3世も批判するんだな?」と言うような。
場合によっては、AとBの違いが議論されることで、隠れた前提や差別意識が明らかになったりすることもあるのかもしれないが、ほとんどみたことはない。
今更ではあるが、「借りぐらしのアリエッティ」のDVDを借りて家族で観た。
これからの駄文を端的にまとめるとね、悔しいのよ。俺の負け犬の遠吠えなの。
子どもたちは「髪留めかわいいね」とか「せっかく友だちになれたのに悲しいね」なんていう感想を言っていた。俺は(もうちょっと大きくなったらまた別なものが見えてくるかな)くらいに思って「かわいいね」「うちにもいたら友だちになれるかな」とか相槌打ってたんだ。
「アリエッティって窃盗犯じゃねwww」という類の冗談は公開当時からあるのは知っている。妻がよりにもよって子どもたちの前でそれを言い出した。しかも本気で。
俺は(お姉ちゃんも高学年だし、せっかくの機会だから、もう少し深いところまで話し合ってもいいかな)と思い、いろいろ話そうとしたの。
(妻はいわゆる原作厨なので、絶対に原作も知っているはずなんだけど、昨日は映画だけ観たので原作については触れなかった)
もうさ、映画の情緒とかなくなっちゃって、法律論とかになっちゃってんの。
「泥棒はいけない」のはもちろん子供に教えなきゃいけないことだけど、この映画じゃなくてもよくないか?もっと他に伝えたいことないか?
俺は相手の意見を完全にではないまでも、受け入れてみようとする分、一貫性がなくなるの。そのせいで話がそれちゃってんの。
でも向こうはこっちの仮定や言い分はほぼ無視して、終始「小人は泥棒」を前提に話を展開するんだよ。一貫してるの。俺の話の途中に割り込んでくるの。しかもアリエッティの話しているのにレ・ミゼラブルを持ち出すとか、妙に回転速いの。
俺はどうやったら妻に勝てますか?
今回のオリンピック選手の騒動について、最初は「言われても仕方ない」と思っていたけれど、マスコミによる追い討ちが酷い。何が何でも悪者にしてやるぞという意思が感じられて、だんだん報道姿勢に不快に感じてきている人も少なくないのではないか。
かの選手の事は詳しく知らないが、一連の報道を見ていてちょっと思い出したことがあった。
あの時、確かマスコミは犯人を責めず、しきりに「ワーキングプアだから仕方ない」というような事を言っていたと記憶している。
当時、gooのニュース畑というコンテンツをたまに見ていたが、マスコミに影響されたのか「自分も貧しかったら犯罪者になるかも、彼だけを責められるか?」という意見を見かけた。
しかしワーキングプアなら人を殺してもいいなんていう法律なんてどこにもないはずだ。別にパンを盗んだジャンバルジャンを責めようというわけではない、食うに困ってコンビにからパンを盗んだ程度なら「ワーキングプアだから仕方ない」でいいと思うけど。
もし身内が殺されて、「相手貧乏だったんで許してやってよ」なんて言われてさ、殺人犯を罵ったほうが冷ややかな目で見られたりしてたらどんな気分だろうな、耐えられなそう。
殺人犯と比較されるのは失礼と思うけれど、件のオリンピック選手は無礼であったかもしれないが法には触れていない、一方擁護されているほうは数人の尊い命を奪った凶悪犯なのだ。
もしマスコミの報道によく影響される人に聞いたら、殺人犯よりオリンピック選手のほうが許せないと、そういう印象になりはしないだろうか。
あまりにひどい。