上野千鶴子の少し前の本なのにもかかわらず今さらちょっと炎上しているやつ、なんか見ていて辛い。
古市くん、社会学を学び直しなさい!という新書を読んでるんだけど、上野千鶴子が「自分に不利なエビデンスはもちろん隠す。それが悪いことだと思ったことはありません。」と述べていてマジ仰天。
これね。
この発言に対して当然のごとくやれ「研究者の風上にもおけん」とかやれ「こんなの活動家じゃねえか」みたいな発言が散見されるし、それを持ってフェミニズム全体をバカにする発言もなされている。まあ、いつもの光景だ。
いやまあ当然その誹りを上野は引き受けなくちゃいけないとは思うんだけどさ、それでも、なんていうかあまりにも学校の先生的に現代の「アカデミック」というのを価値観の頂点においた一方的なマウンティングなんじゃないかと思えて、ちょっと気持ち悪い。
そりゃ学校の先生は「学校に登校するべきだ」と言うわけだけれども、それは学校という規範の中でしか通用しないわけで、その「学校行くべき」というお叱りは学校の中でしか通用しない。
「白河の 清きに魚も 住みかねて」じゃないけど、社会科学として事実と向き合って誠実に着実に知見を出して行くなんていうのは一個の価値観でしかなくて、社会と向き合うっていう側面を大事にして価値判断と微妙に結びついたり結びつかなかったりしながら語って行くっていう人がいてもいいんじゃないの(*)?
フェミニズム及びジェンダースタディが社会運動の側面を持って入るのも紛れもない事実だし、現代社会はその社会運動の成果によって支えられて入る部分もあるんじゃないのかなと。社会科学が、その性質上その側面を切り捨てることの方が欺瞞だと思うけれど。
偶々今のアカデミックが「エビデンス」とやらを重視するという機運が高まっているだけで、上野が活躍した時代に「エビデンスがー」とか言っていていても「目の前の不正義を看過するんですか?」って言われておしまいでしょう。
そもそも上野にも社会科学に限った事でもないって と指摘してる増田がちょい前にいたけど https://anond.hatelabo.jp/20180403212454 に同感だ
大学がアカデミズムの頂点を担わないとしてどこの誰が担うべきだと思いますか?