はてなキーワード: スヌーピーとは
http://www.tv-tokyo.co.jp/index/timetable/index_after.html
新番組のみ
(注意書きない限り前期番組も同様)
(・10月4日-日曜07:24 PEANUTS スヌーピー-ショートアニメ-)
・10月4日-日曜07:30 ディズニー・サンデー「ちいさなプリンセス ソフィア」
・10月4日-日曜08:00 ポケモンの家あつまる?(疑問符までが番組タイトル)
・10月3日-土曜10:00 妖怪ウォッチ もんげーセレクションズラ!
・10月11日-日曜10:00 カードファイト!!ヴァンガードG新シリーズ?
・10月1日-木曜18:00 かみさまみならいヒミツのここたま
・10月6日-火曜18:30おそらく火曜日のアニメと草津枠2枠目
・10月某日-金曜20:00? [金曜8時のドラマ]某ハマちゃんとスーさんの漫画←追記9.26
・(10月2日-金曜21:54 緑の中の詩)
・10月3日-土曜23:55-24:50 家、ついて行ってイイですか?
(前期番組にはついていないので+55分)
・10月2日-金曜24:12-24:52 ドラマ24 孤独のグルメSeason 5
(枠がここになったので)
・9月28日-月曜23:58-24:45 ニュースなハローワーク 檀蜜 武井壮
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※追記:文中で人間違いを行うという致命的なミスを行ってしまいました。James Faronという方に触れていますが、正しくはFrantz Fanonです。当該箇所でも追記しております。混乱を招いたことをお詫び申し上げます。なお、お恥ずかしいことにJames Faronという名前も、正しくはJames Fearonです。彼もまた有名な政治学者です。
※追記3:最後にほんの少しだけ加筆。本件で真に掲げるべき標語について。
※追記4:ブコメに対する返信をトラバに追加。及びブコメで指摘された誤訳について修正。
※追記5:反応が非常に多いのですが、私の意図していることがあまり伝わっていないようなので、別エントリで行ったブコメへの返信の一部を載せます。また、追記3における本文での誤字も修正しました。ご指摘ありがとうございます。
フランスではJe suis charlie、和訳すると『私たちはシャルリー(・エブド)だ(追記4:私はシャルリー(・エブド)だ、が正しい訳です。Jeは一人称単数です。失礼いたしました。)』というスローガンが、あの凄惨なテロ事件以来掲げられている。
言うまでもなく、表現の自由を守るための決意を示すものであるが、果たしてこのスローガンは本当に正しいものなのだろうか。この増田では、出版社及びフランスにおけるイスラム教徒事情を軽く見た後、このスローガンの妥当性を考えていきたい。
今回の事件の舞台となったCharlie Hebdo(以下シャルリー)は、あらゆる権威に対して痛烈な風刺を行ってきた新聞社である。キリスト教はもちろん、政治家も政府もその風刺の対象であり、語弊を恐れずに言えば無政府主義・反権威主義をラディカルに突き詰めた、非常に極端な新聞社である。そもそもの母体はhara-kiriと呼ばれる名前がまたアレな新聞だったが、当時の大統領であるド・ゴールを風刺して、最終的には取り潰されたくらいには、徹底的なスタンスを貫いてきた人々である(ちなみに、どうでもいい情報だが今の名前はスヌーピーのチャーリーから来ている)。
ヨーロッパはそもそもイスラム教徒が多い。理由は実に簡単で、第二次大戦後の経済復興のために、大量の単純労働者を必要とした際に、イスラーム系移民が多く渡ってきたからだ。フランスのお隣のドイツはトルコから移民を受け入れ、フランスはかつての植民地であったアルジェリアを中心に移民を受け入れた。実はこの段階ですでに現代におけるイスラム系移民問題の種は芽吹いていた。
まず、ドイツは純粋に経済復興のためにトルコ系移民を受け入れていた。このことはトルコ政府との間で結ばれた雇用双務協定や、Gastarbeiter――和訳すればゲスト労働者――という単語にも表れている。結果的にはトルコ系移民は切り捨てることはできなかったが、少なくともドイツ政府はトルコ系移民に関して割り切って考えていた。選挙権の付与といった定住化につながる政策に関して恐ろしく消極的だったし、本国へ返そうという意思は逆にかなり強かった。逆に移民側も最初から、自分たちは望まれていないということも分かっていた。もちろん、だからこそのデモや権利を要求する運動などは起こったが、他方で移民の中でも自主的な集まりを作ったり、1970年代には支援団体も作られたし、トルコ本国もトルコ系移民への支援を後に行うようになった。また、コール政権以降、政府も重要な問題として認知するようになった。今でも衝突は絶えないが、フランスのように致命的な暴動は起きていない(今後起きることは否定できないが)。
一方のフランスの移民政策は、経済復興だけではなく、植民地政策の遺産という側面も有していた。イギリスの脱植民地政策及び戦後移民政策と比較すれば分かるが、お世辞にもフランスはよくやれたとは言えない。フランスは住居の確保を行う、あるいはフランス国民と同化させるための種々の政策などを見ると、一応の脱植民地化政策/移民を受け入れようとしていた、というように見えるが、他方で石油危機時には移民を切り捨てようとしたり、またフランス国民との同化を謳っていながら実際には移民は疎外化(James Faronによる論考はこうした矛盾を見事に描き切っていると考える※追記:James Faronではなく、Frantz Fanonです。大変申し訳ございません)されたりと、実体を見ればどうにも政策の焦点がぼやけていた。そもそもの、アルジェリア戦争を始めとした、ド・ゴール政権による一連の植民地関連政策を見ればその曖昧さはより分かるところである。
そうしたフランス社会において、移民は、はっきり言ってアイデンティティに関して隣国ドイツのトルコ系移民以上に大きな問題を有している。フランスの移民の大多数は底辺層であり、底辺層は大体移民である。そして移民のほとんどはイスラム教圏から来た人々であり、既に二世、三世になっている。フランス社会ではフランス人に同化させられるのに実際には同化されていないどころか異質な存在として見られるし、アルジェリアといった自らのルーツであるはずの国は、二世、三世にとってはあまりにも遠すぎる社会である。自らの居場所を見つけられない彼らが何にすがるかと言えば、それはもう彼らの宗教であるところのイスラム教しかない。そこにしか自らの居場所を見いだせないのである。
そんな中で自らの居場所であるイスラム教をバカにするような、それもヘイトスピーチ同然な言論を行うことが、どれほど彼・彼女たちにとっては辛いことか。確かに、シャルリーはイスラム教徒ではなく、イスラム教を風刺した。しかしながら、実体的には、ユダヤ教(ユダヤ教とユダヤ人はほぼ同一)を揶揄する、いや、ヘイトスピーチを行ってるも同然なのだ。イスラム教を風刺しているが、実際にはフランス社会の底辺層に多くいる、自らのアイデンティティをイスラム教でしか確立できない移民を、憎悪をもってペンで攻撃したにも等しいのである。
私は今回のテロは決して許されない行為であると考える。だが、だからといって、言論の自由を守ろう、という意味を下敷きにおいて「私たちはシャルリーである」と言うのはおかしいのではないか。
「テロ行為の是非」と「シャルリーによる風刺の是非」は全くの別物である。繰り返しになるが、テロは決して許してはならないが、同時に、特にヨーロッパにおいて、シャルリーのようなヘイトスピーチも決して許してはならない。
"Je suis charlie"は言論の自由をabuseする卑怯な標語である。
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※追記2
多くの反響を受けて驚いてる。なので、次のことを言うと多くの批判を浴びるだろうが、あえて言おう。
はっきり言って、今回の標語は、黒人に対してレイシストスピーチを行ったKKKがテロを受けたときに私たちはKKKだ、ユダヤ人に対してレイシストスピーチを行ったネオナチ団体がテロを受けたときに私たちはネオナチだ、そして、これも極端な話、在日に対してヘイトスピーチを繰り返し行ってる在特会がテロを受けたときに、私たちは在特会だ、と言ってるも同然な話なのだ。
表現の自由を守るための標語として、特にヨーロッパにおいて、これ以上ふさわしくないものはない。
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※追記3
https://twitter.com/aboujahjah/status/553169081424420864
I am not Charlie, I am Ahmed the dead cop. Charlie ridiculed my faith and culture and I died defending his right to do so. #JesuisAhmed
直訳すると、
「私はシャルリーではない、私は死んだ警察官であるAhmedだ。シャルリーは私の侵攻(※追記5:侵攻ではなく信仰です。失礼いたしました)と文化を嘲笑し、そして私(Ahmed)は彼のそれ(風刺)を行う権利を守るために死んだのだ。#JesuisAhmed」
これこそが表現の自由を守るために真に必要な標語である。一体全体どこの世界に表現の自由を守るという名目で私たちはKKKである、ネオナチである、在特会である、なんてことを言う人々がいるというのか。Je suis charlieはまさにそれを行ってしまった、最悪な標語でる。ヘイトスピーチを行う自由も、それもヨーロッパにおいて、表現の自由の一環として組み込んでしまっているのだ。卑劣意外の何物でもない。
ヘイトスピーチを行うという表現の自由ですら守ろうとし、そして死んだ人物(ここではAhmedという警察官)こそが、真に表現の自由を守るために働いた存在なのだ。
何度も言うが、私は今回のテロは一切是認できない。暴力によって物事を解決しようとする蛮行以外の何物でもないと考えてる。だが、だからといってシャルリーによるヘイトスピーチが免責されるわけでもない。そうしたヘイトスピーチを続けてきた団体の名称を冠して、表現の自由を守るということは、既に述べたように、表現の自由のabuseである。表現の自由を守るためにたたかった人物こそが、真に標語において活用されるべき存在なのだ。
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※追記4
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※追記5
トラバで行っているブコメへの返信の一部をこちらにも載せます。
id:cider_kondo 欧州極右の主張は「イスラムは非寛容で政教分離を認めない。西欧の価値の根源たる自由と寛容とは相容れぬ」ぐらい。セキュリティホールの一種で、イスラム側が世俗主義を導入しないと論理的解決はほぼ不可能。難しい
ブコメの字数制限があるため分かりかねるところがあるのですが、それはつまり「欧州極右の主張にも表れているように、イスラムに対して持っている問題意識はこれこれが最大にして唯一のものだが、これがセキュリティホールとなってしまっている。イスラム側がそうした問題点を解決しないと先には進めない」ということですか。つまり、イスラムの人々が社会的に疎外されてる云々というところに対する反応だということですね。しかしながら、日本における在日問題も見れば分かるように、二世、三世はほとんどその国の人間と文化的には同質です。そうした人間であっても、社会的に疎外されて、結局イスラム教にしかアイデンティティを見いだせなくなり、そしてイスラム教=私たちという図式になってしまうのです。イスラム教を否定されると、イスラム教しかすがるところがない人々にとっては、自身を否定されたも同然になります。
id:type-100 いや、正義の有無に関わらず与えられるところに、自由とか権利の価値はある。これが表現の自由に対する毀損と感じるのであれば、それはあなたが表現の自由よりも他の権利や価値観を優先しているだけの話だ。
与えられる、というか、侵害されないものとして、生まれつき保障されているというところに自由とか権利の価値があることは事実ですが、それを濫用することまでは種々の権利・自由は想定していないと考えています。つまり、他者の権利、即ち平穏無事に他者から毀損されることがないという権利を踏みにじってまで権利の濫用(ここではヘイトスピーチ)を行うことまでは許容されていないということは歴史が証明していることだと思います。なお、これは決して批判を行うことを否定している訳ではないことを付記しておきます。
id:Mochimasa 『「テロ行為の是非」と「シャルリーによる風刺の是非」は全くの別物である』 それなら"Je suis charlie”は前者の文脈でテロの被害者として掲げられているのだから、後者の文脈でこれを批判するのはフェアではないのでは
それならいいのですが、表現の自由の一環としても利用されている、つまり後者の文脈でも利用されているのが問題なのです。つまり、その二つは別物なのに、スローガンにおいては前者の中に後者の視点も入れてしまっているのです。
id:hate_flag 苦しい生活を送っている移民が宗教に依存しているのでその宗教を批判したらテロられた、というだけのハナシじゃん。悪いのはテロであって宗教批判ではないよね。
はい、完全にテロは悪い行為です。ですが、本件でJe suis charlieと掲げることはおかしな話なんです、というのが私の意図です。テロられたというだけの話ではありません。
id:sardine11 「あなたの言うことには何ひとつ賛成できないが、それを言う権利は死んでも守る」ことが言論の自由の意味であり近代社会の前提であるはず。たとえシャルリに嫌悪感を抱いても反テロ運動まで批判するのはどうなの?
反テロ運動を非難しているのではありません。反テロ運動の一環としての表現の自由の中にヘイトスピーチを行ってきた団体名が入っていることを問題視しているのです。
id:enemyoffreedom アレをヘイトスピーチとしてしまったらもう宗教の風刺・批判はできないような。不快で低質な表現こそを守れ、というのが表現の自由かな
宗教の風刺批判ではなく、その背後にいる、その宗教を唯一無二のアイデンティティとせざるを得ない、社会的に疎外された移民の人々に対するヘイトスピーチになっているということを増田では書きました。後者に関しては同意しますが、表現の自由は差別的・攻撃的・他者を毀損するまでの表現を認めていません。
id:shakespeareneverdidthis 例え在特会みたいな下衆であっても、報復として殺害されることがあってはならない。
それは全くもってその通りなのですが、表現の自由を守るという文脈も下地にあるスローガンに私は在特会である、というものを使うのはおかしいのではないのかという話です。
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もう読んでいる人がいるかどうかわからないですが、帰宅してさらに増えていたブコメや種々の反応を読んで、色々と思うところがあったので、もう返信はいたしません。本当は標語の下敷きとなったwe are all khaled saidも含めた補足記事を書こうと思っていましたが、こちらも止めました。
私自身の力不足を痛感しましたが、それ以上に、皆様の貴重な時間を浪費させてしまったことを本当に申し訳なく思います。ここで深くお詫び申し上げます。
整氷車というものに乗って氷を削りお湯を撒くだけ
整氷車は現在、オリンピアとザンボニーという種類がある 一般的にはザンボニーが主流だ(スヌーピーが乗っているのはザンボニー)
整氷車には日本刀と同じくらい切れるブレードが付いており、それで氷を削る
その後、特殊なお湯を撒く
スケートの刃を錆びにくくする為と、強い氷を作るために弱アルカリ性にしてあるらしい
整氷車の周り方は各施設によって違う
この整氷作業で一番やってはいけないのが、【取り残し】といわれるミス
カーブの時にハンドル操作を間違え1ミリでもズレると、白く残る部分がある
これが取り残しといわれる部分で、削れてもいなければ、お湯も乗っていない
カーブの時にハンドルを切りすぎると、クッキリとスパイクの跡がのこる
という名目だが、実際はテレビを見たりギターを弾いたり、PSを持ち込んで幻想水滸伝1&2をやっていたりする
忙しい時はとことん忙しいが、暇な時はとことん暇なのがこの仕事(これを書いているのも整氷の空き時間)
その分給料は安い 本当に安い おっぱい募金とか行ってる場合じゃないくらい安い
リンクが綺麗ならそれでOKという
そんな整氷業務ですが、現在人が足りません
誰か一緒に整氷しませんか?
あと一緒に幻想水滸伝もやりませんか?
手っ取り早いのは、キャラクターを設定し、キャラクターグッズを配りまくる。
フーセンを配れば、その風船を見た他のチビッ子が
「あのミッフィーちゃんの風船が欲しいよう、欲しいよう」となって、ミサワの展示場に行かざるをを得なくなる。
セキスイハイム:らいおん
大和ハウスはよくわからないが、よくキティちゃんを見かけるので、ハローキティか?
(最近ダイワハウスはベネッセと仲がいいので、今後しまじろう辺りを使う可能性はある)
中堅メーカーでは、トヨタホームが鉄腕アトム、レオハウスがクレヨンしんちゃん。
評価者が単純に仕事の質で評価してくれるならそれでいいんだけどな。
なるほど。そういう理屈なら分かったよ。噛み砕いて教えてくれてありがとう。
先の俺の増田も、理想論がすぎるところがあったよ。言うとおり、全員が全員、質で勝負できるわけじゃないよな。
現実を見ない、って態度もまた、うつ病とか自意識過剰につながりやすいよね。
我を押し通していける所なら良いけど、そうじゃないなら上手くいかないだけ。仕事の質だけで見てくれないって嘆いても、損するのは自分だけっていうね。
元増田の話の本筋とはズレるけど、個人的にそういう”強かさ”は結構好きだ。
いわゆる「ぶりっ子」みたいな。
学生時代に同じサークルの奥手なイケメンに手をかけて、付き合ってることを回りに言いふらして逃げられなくした。
あそこまで周りを巻き込んで派手にやれば、離婚なんて怖くてできないだろう。
でも、聞くところによると、二人は今幸せにやっているらしい。
結果良ければ全て良し。
正しい言葉は、最低でも嫌われない、好かれる方向に持っていく事だ。
これは四六時中一緒に居なくても可能。ただ全員が出来るかは知らん。
それには同意だが、”評価してもらうために、評価する人に自分を好きになってもらう” なんてのは、明らかに間違った方針だと思うぞ。
仕事の質で勝負すべき。
評価者が単純に仕事の質で評価してくれるならそれでいいんだけどな。
そうじゃない奴もいるでしょう。そいつがクソなのは否定しないけど、自分の立場を理解した上で最適な行動取る方が賢いだろ。
我を押し通していける所なら良いけど、そうじゃないなら上手くいかないだけ。仕事の質だけで見てくれないって嘆いても、損するのは自分だけっていうね。
スヌーピーの言う配られたカードで勝負するしかないっていうのは、自分の手札だけを見て最適な行動取れということじゃない。
http://www.snoopy-exhibition.jp/
まあ、日本ではキャッチ―なのでスヌーピーの名前を付けたんだろうけど実際は作者であるシュルツ展。原画がたっぷり堪能できて、ペンのタッチやベタ塗の筆遣いがダイレクトに伝わる美術展だった。僕にとって一番の驚きは初期の作品だ。1950年代のものが初期にあたるっぽい。この初期のピーナッツの良さに気付いたのは実はつい数か月前。まさにこのスヌーピー展の告知がきっかけだった。
チャーリーブラウンにしろスヌーピーにしろ、晩年のスタイルとはまったく異なる初期のデザインは、かわいらしさが前面に押し出されつつもところどころ写実的で、バランスがちょうどいい。この一連のスタイルを目の当たりにして思い出したのは鳥山明。もちろんシュルツが先だけど。家に戻ってからシュルツと鳥山明の関連性に言及したものはないかと調べてみたものの見当たらなかった。デフォルメと写実の丁度良い塩梅。パースは明らかに歪んでいるにもかかわらず、この世界にはしっくりきている。ロゴのデザイン。手書きのフォントのタッチ。背景の書き込み。そして子供の表情。僕にはすべてが共通しているように思えた。
展示の初めのコーナーにはピーナッツ以外の作品の原画がいくつかあり、子供ばかりを描くピーナッツとは違い、大人が登場している作品もあった。おそらくこれも初期の作品。頭の禿げた太っちょのおじさんは2.5頭身くらいなのに、着ているシャツや背景の小物がしっかり書き込まれてる。薄い影の描写はできるだけ避けているようで無駄のない線とベタのコントラストが余計に写実的な印象を与える。
雨の表現もすごかった。子供がでたらめに書くような斜めの線だけでどしゃぶりの雨を表現してて、キャラクターにもその雨の線はかかってる。でも、その表情はしっかり読み手が受け取れるように配慮されてる。これは百聞は一見にしかず。実際に見て唸ってもらう以外はないように思う。
展示を進んでいくと1960年ごろから僕らが記憶にしまっているいつものチャーリーブラウン、スヌーピーに落ち着いてゆくのがわかる。本音を言わせてもらうとすでに初期のピーナッツに魅了されてしまっている身としては正直面白みにかけるものだった。あの1952年のチャーリーブラウンをもっと見せて!と思ってしまう。
ただ、シュルツが鉛筆でキャラクターを書いてゆく動画の展示には時間を忘れて見入ってしまった。あれだけキャラクターを書き続けているだけあって、まっさらな紙にさらさらと命を吹き込んでいく様は線一本一本に無駄がなく所作すべてが美しい。動画自体が一つの作品のようだった。
http://www.youtube.com/watch?v=dS0vUbWdNxg
http://www.youtube.com/watch?v=ZFbVrzl69dM
そして晩年のコーナーで楽しめたのはくしゃくしゃのメモパッドに描かれたらくがき。シュルツはウォーミングアップとしていたずら書きをしてから作品制作に入る人で、描いてはゴミ箱に捨てていたらしい。それを秘書かお手伝いさんか誰かが捨てずに保管していた。とてもリラックスした状態で描かれたスヌーピーは今までみたことのないタッチで、ピーナッツのテーマとなっているハピネスが一番伝わるコーナーだったように思う。
最後に、このスヌーピー展に足を運ばないと楽しめない作品があったので紹介。それはあまりにも小さく、鉛筆で書かれている地味な作品。でも強烈なインパクトを僕に与えてくれた。それは初期のコーナーに展示されている「高校時代に描いた3つ1組のデッサン」。いろいろなものが3つずつ描かれていて箱、帽子、顔、支離滅裂に思うがまま描かれている。その中にヒゲをはやしたかわいらしいキャラクターの顔と添えられたハーケンクロイツがあるのに気付く。
ヒトラーだ。
なのにかわいい。
こんなにかわいいヒトラーはみたことがない。このシュルツという人のデフォルメのセンスが好きだ。入ってすぐのコーナーにもかかわらず、このヒトラーを見つけた時この展示会は自分にとって特別なものになることがわかった。
もしこれから行こうと思ってる人はこのデッサンをチェックしてほしい。
今回の鑑賞はあくまで美術としてのアプローチ。チャーリーブラウンの台詞と谷川俊太郎の絶妙な翻訳を味わうためにもう一回行かなきゃ。
ライナス「What's the cure for disillusionment, Charlie Brown?」悲しみを癒してくれる薬ってどんなものかなぁ
チャーリー・ブラウン「A chocolate-cream and a friendly pat on the back」一粒のチョコレートと、背中を友達がポンと叩いてくれることだよ
じゃあね!
ズルいとは思わないが、イライラする。「相方」呼称の何が俺をイラっとさせるのか。
邪気眼が疼いて疼いて仕方が無いので書く。
複数の問題がクロスオーバーしているため、分解してみる。
なお、俺は同人もツイッターもブログもやらないので同人文化あるいはインターネット文化から来る由来は知らん。只々、リアルの会話で恋人・配偶者を「相方」と呼ぶ人達への苛立ちを分析。
この愚痴では、「伴侶」「恋人」「配偶者」等の意味で、一貫してパートナーという言葉を使ってみる。
ジェンダー、フェミニズムは意識し過ぎるとドツボにハマる。結局のところ、女として生まれた以上女として生きていかなければならないし受け入れなければならない。逆もまた然り。
男が赤ちゃんを産んでみたいといくら願っても届かない。逆もまた然り。
俺はオオワシのように空を飛び、悠々と獲物をハントしながら暮らして、最終的には冬に飢えたり狩られたりして死にたかった。
しかし人として生まれた以上、人としての空虚な文明社会に溶け込み自意識に雁字搦めで暮らしていかなければならない。
これを「配られたカードが不公平で問題だ!」と叫ぶのは傲慢。賭場にいるウルサイおっさん、パチスロ店にいる強打おばさんと同じ。
本人たちの本意の不平不満ならまだしも、枠外からの哀れみによる問題提起はもってのほか。
つまり、男側からのフェミニズムによる「相方」呼称はちゃんちゃらおかしい。
「障碍者」、「ハンディキャップ」等の呼称強制の馬鹿らしさにも似ている。
ミゼットプロレスラーの悲劇を繰り返すだけだ。詳しくはググれ。
自分の世界で正しい呼称を信じることは構わないが、他人に理解を強要するな。
隠したいなら隠せ、パートナーが男でも「彼女」、女でも「彼氏」と説明し続けろ。
嘘をつくのが耐え難いのならば早々にカミングアウトすべし。
それで友人が去っていくのならそれまでのこと。マイナーセクシャリティーは「不細工」「低身長」「ワキガ」「口臭」くらいのマイナスでしかない。
制度は改正されるべき。寛容になるべきだ。
いや、カードにも文句は好きなだけ言えばいい。
「男(女)に生まれたかったー!」とか「ノンケに生まれたかった−!」「金持ちの家に生まれたかった−!」とかなら、いくらでも叫べ。
麻雀で「配牌が悪い(俺は悪くない)!」、ポーカーで「イカサマだ(俺は悪くない)!」と叫ぶ人が惨めなのと同じように悲しく哀れだ。
知るか。
「彼氏と呼ぶにはセックスはご無沙汰だし、だけど現状、彼と別々に暮らしていくことは考えられない、意味として一番正しいのは相方かなー。」
知るか。
「他人がパートナーをどう呼ぶかなんてどうでもいいだろ」以上に、あなたにとってのパートナーとの「正しい」関係性はどうでもいい。
パートナーであることが最も容易に理解できる言葉は現状「彼氏」「彼女」「妻」「旦那」等だ。
単語が性別と結びついている、あるいは恋愛感情があることが大前提。
「ダァ」でも「ハニちゃん」でも構わない。これはノンヘテロでも一緒。
恋愛感情が枯れていたとしても、そういう表現が他人からしたら(現状は)最も理解が容易い。
「うちの相方がさー」と言われた側としては「彼氏?彼女?配偶者?浮気相手?」と相手との関係性がいまいち掴みづらい。
「文脈で判断云々」ではない。「相方」呼称の人は文脈なしに使う(ソースは俺)
説明・理解のコストが大幅に増える呼び方をあえて使う必要がどこにあるだろうか。
セックスご無沙汰だけど同居人ならとりあえず彼氏・彼女と言っとけ。
浮気を隠したいなら「友人」で貫け。
「他人がパートナーをどう呼ぶかなんてどうでもいいだろ」以上に、あなたにとってのパートナーとの「正しい」関係性はどうでもいい。
他人を気遣え。
「言葉の意味」への過剰な執着はコミュニケーションの相手側へも負担を強いるのです。
「最もそれを指すのに一般的で最大多数が不快ではない言葉」にはいつだって、社会的には問題はないと思います。
自意識的には問題があるかもしれませんが、過剰な自意識は控えていただければ幸いです。
あとなんだ、良く分かんないけど「ブーメランw」とか言われるかもしれないけど知るか。
俺の母ちゃんはよく言っていた。
母ちゃん「あんたなんか産まなきゃ良かった!」
俺「お前に似たんだよ、遺伝だよ。」
母ちゃん「知るか!」
自己分析必須論とか、批判論とか、この時期学生は惑わされ続ける。
この間そんな後輩から相談されて話した内容を、本人からの要望もあって、増田に書くことにする。
発端はこうだ。
大学時代の部活の後輩から「相手から見た自分を知りたいので、ぜひ書いてくれ」と長所だの短所だのを書いて欲しいとメールがあった。
んで、大学時代の後輩を思い出しながら「カタンでは資源バランスを重視して、極端な戦略をとることが少ない」とか「ドミニオンの後半戦では集中力が切れるのかミスが多いので、熟考した方が良い」とか書いたが、せっかくなので飯でも食いながら相談にのることになった。
自己分析をしているが意味があるのだろうか、と開口一番聞かれた。
そりゃ意味はあるだろうと答えて、しばらく話してて、どうにも噛み合わない。
どうも自己分析は不要とか、むしろ害だ、みたいな話があるらしい。
確かにその場でググるとまあまあ出てくる。もっともな意見もある。
なので、オマエの思う自己分析とはなんだ、と聞いてみた。
「自分の内面に本気で向き合う」「その業界に入りたいか真摯に見つめる」みたいな事を言う。
まあ、どっかで読んだんだろうが、どうにも文学的な表現が多い。
だから、自分もやったし、意味もありそうなやり方でやり直して見ることにした。
いくつかポイントを話して、後日また飯を食うことにした。
時系列的にここで一週間ぐらいあくから、その間にポイントを噛み砕き直して話すことにする。
例えば、ググると以下の様な事故分析を見つけることが出来る。例だけどな。
限られた予算でより大きな事故削減効果を得るためには事故発生要因の科学的・客観的な調査分析に基づいた対策が重要と考えられます。当研究室では道路環境的要因に起因して発生する交通事故を削減するために実施される交通安全対策の立案を支援するために、主に道路状況、交通状況と交通事故との関係を分析しています。
(中略)
4車線道路での中央帯の有無による事故率の違いを分析したものです。事故率の低減には幅員1.0m以上の中央帯、すなわち分離帯の設置が有効であることが分かります。
分かりますとか書いちゃってるが、そのへんのツッコミポイントは取り敢えず置いとく。
要は、分析ってのは、データを集めて、何がしかを得たいためにやるわけだ。
んで、データの中から『中央帯の有無による事故率の違い』ってのを拾ってきて、
交通事故を真摯に見つめたり、分離帯に真剣に向き合ったりはしない。(してるかもしれないが、レポートには書かない)
『内定獲得対策の立案を支援するため』にやる分析だったら、『○○の有無による内定率の違い』のデータ引っ張ってきて、『だから○○の実施が有効』って導かなきゃならん。
だから、就職活動でよく言われる自分を見つめなおす自己分析みたいなのは、まだデータ取りの段階で、分析には他と比較せにゃならん。
そういう事を話したら、納得したのか次の週に持ってきた。
曖昧なもんだが、本人もOKらしいのでざっくり書くと、次のあたり。
さらに飯くいながらヒアリング(ってほどでもないが)をして、加えた。
「この中で、どの有無が、内定率に影響しそうか?」って。
俺は大学名、成績表、研究室の名前、出身地とかもじゃないかな、と指摘した。
その上で、最も大切なことを後輩に伝えた。
「で、これって他のやつと比べてどうよ?」って。
あんまり変わんないかもしれないですね、ってのが後輩の答えだった。声は小さかった。
俺は、まずそこが第一歩だ、と言った。
自己分析なんて言ってはいるが、自分と他人、大仰に言えば自分と世間とを比較するわけだ。
他者なしに自己はありえないと言うとカッコイイけど、何も言ってない。当たり前だからだ。
自分の長所短所なんてのも、世間様一般と比べて秀でているか劣っているか、みたいなことを聞かれているわけだ。
世間様のモノサシでオノレを測る作業を、自己分析とか言うから惑うのだ。
他人と比較しよう!世間水準と比較しよう!と素直に言えば良い。
自分を真摯に見つめなおして、実はロリコンじゃなくてショタらしいと解ってショックを受けてどうするつもりなのだ。
NTRが好きなんじゃなくて、実は着衣に萌えてたと新たな発見があって、何がしたいのだ。
(営業だけは嫌だと思ってたヤツが、実は営業が好きかも、と思うのは、どっちかというと見つめなおしじゃなくてインプットが足りないだけだ)
後輩には、結局就職活動なんて運みたいなもんだと言った。
なんかぐちゃぐちゃ言ってきたので、例え話をした。
いろんな女王様が、軍団の新入りを募集していると仮定しろ、と。
例えばすげえ好みの女王様がいたとして、募集に応募したとする、と。
それで、結局新軍団員にはなれなかったとする。オマエが恋焦がれていたのにもかかわらずだ。なぜだと思う?と聞いた。
他のやつと熱意に差があったから。いや、オマエすげえ好みだって言ってた。
他のやつと体力に差があったから。想像したくないがみんなオマエみたいだった。
じゃあ俺がフラれて、そいつらが傅けるのはなんでだ!とか興奮に磨きがかかってきた。
そう。女王様の好みは判らんし、その理由を聞いても本人も判らんかもしれない。今朝のトーストが上手く焼けたから左のオトコ、とか言ってるかもしれないのだ。よく判らんが。
ポイントは、外から推測しても、女王様の好みは変えられないってことだ。
ここで、自己分析に戻る。
後輩にもうっすらわかって来たようだった。
つまり、女王様に気に入られるにはどうしたら良いか考えれば良いと。
肉体を磨き上げる時間がないのであれば、少しでも周りと比較してアピールすれば良いと。
ヨイショも当然必要だから、女王様の情報は舐めるように調べると。
そして、「自分はあまり秀でてはいないかもしれないけど、劣ってはいないと思う。だから、周りが劣っていれば普通の自分でも選ばれるかもしれない」と。
素晴らしい女王様は、他の奴らも軍団入りを狙うし、きっと自分が選ばれるのは女王様の気まぐれに期待するしか無いから、確率が低いだろうと。でも後悔しないように行くだけ行ってみたいと。
それでいいんだ、それが二歩目だよ、と言った。
じゃあ、まず何持ってるか確認しないと。
自分は七対子が作りたいのか、三暗刻をほんとに狙いたいのかと悩む奴はいない。
作れるのか、狙えるのか、だ。
だれだって天和したり、直撃して逆転したいに決まってる。俺だって2chを監視して3兆ぐらいもらえる仕事が本当に心の底からしたい。でも無いんだよ。
4種しかないのに国士狙うってのは、無謀ってもんだ。別に夢に生きてもいいが、負けるのが前提だ。
長くなったし自己分析と就職活動の狙い方が混じってきたから締めるが、そういうことだ。
自己分析は必要だよ。手持ちのカードを見ないで勝負はできない。
数字にできる勝負どころがないなら、気に入られそうな利点をあげても良い。
十人並みの嫁さんだって、口説くときには「俺と良い国作ろうぜ」ぐらいは言うもんだ。(最近は揉めてるらしいが)
そういう、オノレを知り、どこに賭けるか検討する作業は、やって損はない。
結局、後輩は、かしずいても良いと思える女王様の軍団に入れた。
http://anond.hatelabo.jp/20110609234509
前半は同意。そういうのは人それぞれだから。ぼくはたまたまキモイとは思わなかっただけ。相手にもよる。本質的なのは、釣り合いで評価したかどうかってこと。
いろいろな人がいろいろ言っているけど、結局僕のような人は死ぬまで周囲を気にし続けざるを得ない、と思っている。これでも中学生、高校生の頃よりは改善されているとは思うが、それでも僕の文章の端々に、いろいろな人が異常性を感じ取っているみたいだし、それはそうなんだと思う。人に言われると、それはそうなんだ・・・と思ってしまうこと自体の弱さってのも特徴かも。それでも有名なスヌーピーのセリフのように、与えられたカードで勝負するしかないわけで。キモオタとしてフィギュアだなんだに精一杯頑張ってる人っているけど、ああいう人は本当に自分の好きなことのために全力をかけている人なわけで、僕はうらやましい。周り気にしたら絶対あんな事出来ないし、よほど自分を強く持ってるんだろうなと思う。でも必ずしも全員がそれをできるわけじゃない。ただ、そのようなことの程度を小さくすることはできる。努力することはできるでしょう。
周囲の人の目を気にして、彼女との関係を釣り合いという観点でまず見てしまうのはおかしなことだと、僕はおもってるしわかってる。治さないとと思う。でもいざ実際にやってみるとうまくいかない。やっぱり釣り合いを気にしてしまう。あがり症の人と同じだ。出勤時に家の鍵が閉まっているかどうかを何十回も確認してしまう人と同じだ。精神科的には認知の問題とかいうらしい。これを、簡単に解決できるんだとしたら認知行動療法なんて存在しないわけでね。
海外については、単なる経験談だからあなたにとってどうなのかわからない。結局、勘違い組と同じことになるのか、と言われればそうなのかもしれない。でも、ちょっと違う気もする。
海外に出ると、周囲の視線そのものが消えてしまう。ていうか、ネイティブでもない限り外国語なんて究極的なところの機敏はわかんないので、外人の彼女を作らない限りは割と表層的な付き合いになって、そして読むべき空気も読めなくなる。日本では、読むべき空気を読んでいないこと自体が批判される対象になるが、外国では、それ自体は批判されない。そのかわり自己主張しないと無視されるけど。相手が、僕達釣り合ってると思ってるかどうか・・・なんてまったくわからんし、そのうちなんだろそれっていうくらいになる。そうこうするうちに、人生って割となにげなく無為に過ぎていくんだなって思えてくる。日本にいると、これをやるべきこと、あれをすべきでないこと、というのがどんどん情報として入ってきて、それを常に頭で整理して行動していて、オーバーヒート気味になると人に会いたくなくなるし、うまくいっているとうれしくもなった(まあ僕だけなんだろうけど!ブコメや増田のすごい人たちはそんなことないんだろうけど)。でも、これは外人として海外にいるからなのかもしれないが、「お前はこれをすべき、これをすべきでない」というのはなくなる。ただ自分がしたいことはするし、したくないことはやらない。したいことは、自分が主張して、これはやりたいんだ、というと、なんだかたいていやることはできる。相手がしてほしいことを僕がしないなら、別にいじめとかされないし刺すような目線もない、ただバイバイ。あるいはクビを切られる。あるいは単位を落とす。そうやっていると、自分が好きなことを好きなようにやっていないと、人生はただ単に何気なく過ぎて終わっていくことに気づく。死ぬまでの人生をなんとなく思い浮かべたりもする。
それで、彼女を深く愛していることに気づいた。ちょっとしたきっかけでバラの花束を買って帰ったりもする。日本ではそんなことしたことなかった。二人で喜び、楽しみ、悲しんでいるときに、周囲とか釣り合いだとかが意識に上ることはなくなっていた。彼女と一緒にしたいことを考えて、喜んだり喜ばせてもらったり、あとただ単に一緒にいたりする。それはなんでなんだろう。環境が変わったからなんだろう。
もうひとつは、僕はこういうことしてるんだー、こんな彼女いるんだー、とか周りの人に言いたい(もしくは隠したい)気持ちもなくなってきた。勘違い組の人たちって、ちょっとこの「周りに言いたい」「周りから隠したい」感があるように思うんだけどネ。それとは違うことになるような。自分は自分。自分の人生をいきている。所詮生まれて生きて死ぬだけだから。
・・・と、えらそうに言ってはいるものの、まだまだ昔よりずっとよくなったってだけで、どこかで日本人にあったらすぐにお互いの服装チェックとかしちゃってんだけどね。
もちろん日本にいるだけでこう言うことをちゃんとやれちゃう人、最初っからわかってる人はいっぱいいるはず。僕は日本より欧米が上だとかそんなことは全く思わないので(生活レベル日本のほうが上だし)。でも人はそれぞれ持っているカードが違うので(これほんといい言葉だ)、そのカードに合っているデッキもそれぞれ違うんだろう。
病院行けとか簡単に言ってる人いたけど、まずそれで治るのかを考えるべき。最初に書いた二つかそこらの病気以外で、精神科医が確実に何とかできる病気はそう多くない。失敗されると、よくいるメンヘラのように薬漬けになる。そうなる前に為すべきことは山ほどあるし、あと、そんなレベルの障害とかじゃないでしょうにこれ。みんな心に弱いものを抱えながら、他の人と比べたらちょっと異常性を持ちながら、人間は生きてんだよ。なんか問題あれば病院行けってんなら日本人全員精神科送りだよ。そんなことしたって何かが変わる人はほとんどいないし、そんなことしたら本当に精神科医療が必要な人に、医療が行き渡らないんだぜ。防げる自殺を防げなくなるんだぜ。パニック障害起きたときに誰がみるんだい。
好きにすればいいじゃないか。
見た目無理難題でも、元気を出せば本気になればできるんじゃないか。
2000いったら、時を待てということか・・
そんな罪はないよ
はぁ~~~~~~~~~~このすっとこどっこい。
なんでもいいけどぶっとばすよ。
世界の向こう側を信じるよ!!
なんでもいいけどアレをくださいな。
書いても書いてもキリがないな。
なんとなく楽しみを作っていけたらな。
俺は本気で想うんだよ。
悲しみを分かち合える友と共にありたいと。
ドナルドマジック!!
∩(*・∀・*)∩ファイト♪俺自身!!
何もできない俺が、何かをつかむための旅。
ロックンロールは生きている。
俺はロックンロールに生きる。
多筆家。そうスヌーピーのように。
駆け巡るシンドローム。誰も触れないふたりだけの国。
なんてことはない、なんということはない、などということはない。
ぴっぴりーーーーーーーーーリズムでいくぜ!!
暴れたきゃ塩を飲み干して
眠気が襲ってくるお年頃。中断だ中断だ。フォローするのは中断だ。
死の秘宝。期待しすぎたかな。
元気にやっていけばきっと大丈夫!
へい!
さ、就職面接での「何か質問はありませんか」OK/NGガイド(日本企業版)の解説だ。
さて、まずは例え話をする。
誤解を恐れずに言えば、就活は男女の仲、つまり婚活や合コンに良く似ている。
一方が相手のことを熱烈に望んだとしても、もう一方が嫌がればカップルは成立しない。
ある程度の傾向はあるけれども、特定の相手を"落とす"手法は存在しない。
細かなことを積み上げ、相手に選んでもらえる確率を上げて行くしかないのだ。
だから、とても重要なこと(わかってる。愛だけじゃ結婚できないとかさ)だけど、
相手から「何か聞きたい事ってあります?」と聞かれて、
「長男ですか?」「年収は?」「どこに住んでいるの?」「親とは同居希望?」とか
「一人暮らし?」「淡泊そうって言われない?」「SMって興味ある?」とか
そういうことは聞くな。
重要なのはわかる。
大切なのもわかる。
世の中きれい事だけじゃ生きていけない。
でも「俺のことが財布に見えてるんだな」とか「風俗に行けばいいのに」とか思われたら駄目なんだ。
さて、といったことを頭に入れてから、質問内容のガイドを見て欲しい。
前提として「なにか質問はありますか?」というのは、単に聞いてるだけ。
実は、あまり評価には関係ない。単に印象が少し変わるぐらい。
でも、その差が大切。
ほんの少しの差が、次の担当者に書類を渡すかどうかを決める差になったりする。
実はさっきのリストは、実際に聞かれたことがある質問を分類しただけ。
(凄い質問もあったと思う。でも本当なんだ)
さっきの極端な例え話に似て、相手がどう感じるかを考えればわかる分類だと思う。
基本的には「うちを選ぶ基準ってそれなの?」という疑問を抱かせない質問ならOK。
言い直すと「キミはうちじゃなくてどこでも良いんだね」と思わせたらNG。
繰り返しになるけどセミナーでNGに分類した質問をしたからって評価が下がったりはしない。
(そもそも説明会で質問する人が少ないから、そういう点でチェックはされるかも知れないけど)
でも、面接時とか面接後とかに「ああ、そういやこの人はあれ聞いてたな」とちょっとトーンダウンしたりする。
待遇が良いところで働きたい、別にその会社の事なんて知らない、同業他社はどこも同じに見える。
でも「どうして我が校を選んだのかな?」「家から近いからです!」と言って素直で宜しいと評価されるのは高校が最後だ。
「説明会ではステッパーが主力事業と言われていましたが、Nikonさんのシェアが高いと聞いています。どこで差別化しているのですか?」
なんて質問をしたからといって、選ばれるとは限らない。
でも「残業は多いでしょうか?帰りにくいとか感じることありますか?」と質問した人と比べたら、
面接官だって人の子だ。どっちを上にあげたくなるかは、察して欲しい。
「質問はないけど、と断ってからの雑談」というのが、質問ではないというのも、
場所によっては「それだって質問だよ」と面接官が笑顔で応じてくれるかも知れない。
でも、会社に関しての質問を期待されていたら?
コレを読んでいるあなたがもしも面接官で、課長とか部長とか決定権を持つ人に推薦する立場で
「おまえが推薦してくる学生はみんな落ちてるな」とプレッシャーをかけられていて、
質問はありますかと聞いて、パンフの2ページ目に書いてあるのに「企業文化について教えて下さい」と質問されたら?
「企業文化には美意識を大切にするとあったのですが、茶道部とかそういったクラブ活動も社内で行っていたりしますか?」
そういって質問してきた学生と、どちらが良さそうだと判断するだろう。
まあ、最初に断ったようにどんなに熱望してもうまくいかないこともある。
なんであの2人が?というカップルも世の中にはたくさんいる。
でも「結局は※なんだろ」と言って腐っても意味はない。
Yシャツの袖が汚れてたって、寝癖が付いてたって、それで人間性や能力が決まる訳じゃない。
どうせ入社しないと社内の事なんて判らない。それも判ってる。
もちろん判ってる。
でも、スヌーピーも言ってただろう?どう転んだって、配られたカードで勝負するしかないんだ。
ほんの少しの差でも、出来ることは全部やっておくべきだと、そうは思わないか?
You play with the cards you're dealt. Whatever that means.
だな。スヌーピーはマジかっこよすぎる。