はてなキーワード: マンキンとは
コブラはフルカラー版やら出版社移動やらが入り混じっていてわかりづらいが、とりあえず少年ジャンプ版だけで18巻。
それ以降はおそらく「聖なる騎士伝説」「ザ・サイコガン前編」「後編」「ギャラクシーナイツ」「タイムドライブ」「ブルーローズ」「マジックドール前編」「後編」を加えて合計26巻。
島耕作は課長17巻+部長13巻+取締役8巻+ヤング8巻+常務6巻+専務5巻+社長16巻+係長4巻+会長13巻+学生9巻+相談役6巻で合計105巻。
サラリーマン金太郎は無印30巻+マネーウォーズ5巻+新7巻+五十歳4巻で合計46巻。
浦安鉄筋家族は無印31巻+元祖28巻+毎度24巻+あっぱれ13巻で合計96巻。
あとはマンキン・テニプリ・ダイヤのA・ドカベン・MAJOR・キン肉マンあたりも続編の巻数が入ってなさそうなので調べてみてくれ。
禁書目録や転スラはおそらく原作小説やスピンオフ漫画も合わせた部数なんだけどまあコミックスだけの部数は出てないだろうししょうがないわな。
単なる累計よりは巻割のほうが納得感はあるだろうが、
そういうのを考慮するのが大変すぎるな。
pptppc2 俺週刊少年ジャンプ読んでたの遊戯王が読みたくて(そして付録のカードが欲しくて)だったから、マジでめちゃくちゃショック受けてる…。遊戯王ってコンテンツはあの時代生きた子供には神格化されてたから…。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20220707/5090019050.html
人気コメントにあったけど俺の感覚では連載当時の週刊少年ジャンプに遊戯王の付録カードの印象ってあまりなかったから違和感があった。
ので調べてみました!
https://yugioh-wiki.net/index.php?%BD%F1%C0%D2%C9%D5%C2%B0%A5%AB%A1%BC%A5%C9#WJ
付録って言ってるので誌面プレゼントではないとすると、時と場合で超有名なギルファー・デーモンさんが初付録らしい。持ってたわ。
本誌遊戯王の連載期間が2004年までらしいので、それまでの付録カードは以下引用
―2001年35号
JMP-001 《BLUE-EYES WHITE DRAGON》(英語版) Ultra
以降はたしか漫画版は週刊じゃなかったはずのGXのネオスの2006年まで飛ぶ。
うーん微妙?ブルーアイズはうれしいしギルファー・デーモンは使いまわせる弱体化(小学生ルール)でまあまあ?現世と冥界の逆転も使ってる友達も居なかったな。ネットも普及しきってない時代でした。
何より付録のカードが欲しくてわくわくしてたら01年に3枚であとは年1回というのは購読の動機付けとしてはかなり悲しい結果よな。
でも強さじゃなくて付録カードってだけで特別でうれしいよな。わかる。(何が?)
まあ増田と一緒かちょっと上ぐらいの世代な気がするけどあの当時一番盛り上がってたのは神だ4だの2001年あたりだから印象深く残っちゃうかもな。
俺はVジャン派だったから絶対防御将軍とマキュラとブレイドナイトがこの前掃除したら出てきたよ。これも微妙なラインナップ!ブレイドナイトは素で1850越え持ってなかったから使ってたけど。調べたら2001~2年でした。
閑話休題。
いつ付録カードがつくなんてわからんから毎週期待しちゃうっていうのもわからないでもないよな。
あ、あと一応遊戯王以外の付録カードの線もあるかなと検索してみたけど遊戯王に溺れて探せなかったよ。コロコロでシヴ山のドラゴンが付いてた記憶はあるのだが…。時代的にはワンピース、DB、マンキンとかにカードゲームがあったはず。あとデジモン?それと裏が紫の旧遊戯王か。映画の特典でもらったしカードダスペリペリしてた。
ブコメもそこまで付録カードがああ!って書いてるわけじゃなくて付則みたいなカッコ書きに勝手に食って掛かったわけだが、それこそブコメに言うとおり俺も神格化しちゃうぐらい子供時代と遊戯王が密接で調べながら昔のことが遊戯王と紐づいていろいろ思い出してしまったわ。
言いたいことは俺もVジャンプに毎月のように付録カードが付いてると思ってたけどそうでもなかった!
遊戯王といえばデュエルモンスターズ。デュエルモンスターズといえばデュエルディスク。当初は闇のゲームによるダークファンタジーだったが、後にカードバトル漫画に転身。そして人気を決定づけたのは間違いなくデュエルディスクだった。カードゲームをその場で行える上に立体的なモンスターと肩を並べるというアイディアは画期的だった。今でも遊戯王といえばカードとともにデュエルディスクが登場する。まさに遊戯王の象徴的なガジェット。
連載当初はポケベルがモチーフだったが、アニメから携帯電話となり現代ならスマホだろう。特筆すべきは、世相が移り変わっても役割と外観が殆ど変わらないこと。あの形状でポケベルもガラケーもスマホもこなせる。ストーリーにおいてはステータス表記などで随所で使われており、意外とキーアイテム。 マンキンの必須アイテムであり時代の変容に強い良デザインがグッド。
あとひとつは?
一瞬、間違えて『りぼん』買ってきてしまったのかと思って焦りましたわ。ライバル出版社同士なのにスピンオフ漫画を越境させるなんて、あるんだー。
うちの娘がマンキンに興味などあるはずもなく、そもそも男キャラには毛ほども興味ないお年頃なのであって、ハオ様トートバッグは未開封のまま、部屋の隅にぶん投げてあった。それ、おかあさんにくれないかな……?
最近、鬼滅とか入間くんとか、子供に人気の漫画のスピンオフが出ているらしい。その流れでマンキンとは? と疑問だがともかく、低年齢にスピンオフを注入するのは、二次創作カルチャーをいい感じに破壊するには有効なのではないかな、なんて思った。
二次創作って法的にはさして問題にはならないみたいだけど、漫画読者やアニメ視聴者のお金と時間は確実に奪っているわけで、そういう意味では、充分公式の脅威になっているだろう。二次創作界隈に流れていくお金と時間を、公式は是非とも塞き止めなければならない。
同人作家を合法的に潰す、あるいは吸収していくのが公式の喫緊の課題。小説出版社がなろうなどの小説投稿サイトからどんどん新人を発掘しようとしているように、漫画だってそれをしなければならないのだ。
マンキンがまたアニメ化されるらしくてTwitterが沸いている。俺はあんまり面白くない。
アニメ>漫画、的な格付けがある感じがする。しないか? するよ。
「へえ、アニメ化するんだ」ぐらいな感じでいいじゃないか。それが、えらい喜びようだ。例えば、「あのアニメがコミカライズ!」でこんなになるだろうか。ならない。
俺は漫画読んでて、この画が動いたらなあ、とも思わないし、誰に声を当ててほしいとも思わないが、普通みんなそう思いながら読んでるんだろうか? 漫画はアニメの下書きか?
別にアニメが嫌いなわけじゃなかったのに、いつしかこの同じ二次元のコンテンツに対して釈然としないすえたような感情を抱えている。なんなんだ、我ながら。
が、相手役は東出昌大でよかったのだろうか、演技が大根だと感じた。これはいったいどうなんだろうか、とずっと頭の上に??を浮かべながら見ていた。
杏はさすがの演技とキラキラした存在感、原田泰造の全開の泰造っぷり、儲け役をマンキンで見せてくれた和田正人、役どころを掴んだ財前直見、宮崎美子への開眼(あんな性の悪い演技するなんてもう!好き!)、キムラ緑子の手練れに翻弄される、吉行和子のぬか床ナレーション。
そして何よりも、近藤正臣の存在感あるダメオヤジぶり、ほれぼれするような古い大阪弁と貫禄の演技。
毎週のテーマのごはんの美味しそうさ、食べるシーンのうつくしさ、高畑充希の瑞々しさと歌唱力への驚き、関西制作回ならではの茂山逸平を堪能など、話始めるときりがない良さだったのだが、西門悠太郎役は東出でよかったのか、と思いながら見ていた。
役どころには合っていたと思う。「家」と「妻」と「己」との間に宙づりになり、カチカチに硬く、あまり人生を上手くやれない男。やりたいことも能力もあるのに上手く回せずひたすら不遇を生きる男、狂言回しでもある主人公の妻に引っ張られて自分の人生や家ともやがて融和していく、気の毒で不器用で愛おしい男。
東出昌大は、大根役者なのか。初めて演技を見たのが「ゆうたろうさん」だったので、役どころと合っていたのだろうと思う、あー大根だ、と一刀両断にはしなかった。不器用無骨演技をしてるのかなと思ってたのだが、他の演技や映画を見ても落語ディーパーなどでの素のしゃべりを見てもあんな感じなので、演技じゃなくて素でやってたかアレ、まぁ役者って役どころでもあるからそれはそれで、サイコパス役とかストーカー役とかドはまりしてたし、そういう役者になればいいよ、と納得させていたのだ。そしたらリアルもサイコパス寄りだったんかなーという気持ちになってきた、不倫騒動の件で。
そもそも、杏が、双子が生まれた次の年にまた子供産んだ時にこつんと小さく引っかかっていた。双子ちゃん産んですぐ年子って杏ちゃんの体とか子育てとか…金持ちだから金で解決できることも多かろうが、金では解決できない母体の健康とか行き届かなさとか大丈夫…と心配し、でもまぁ女優さんは育児休暇期間をまとめた方が仕事復帰しやすいだろうし、夫婦で決めたことなわけでと思っていた。
んだけど、東出昌大は、双子が産まれてやっと離乳食で何とかなるかなぁという乳児育児真っ最中に次の子を仕込んでて、更にその最中にも平行して不倫を続けてたってことになる。相手の女優も不倫匂わせインスタ疑惑があるメンヘラタイプだ…不倫相手を見る目も無い。相当クレイジーでサイコパスというか…セックス依存か何かなのかなとすら邪推が捗る。へっぽこ系サイコパス。
初めてアニメイトに入ったのは小学六年生頃だったと思う。見事中二病を発症した私は、そこから思春期を終える高校卒業まで、見事に「自分は特別」だと心の深いところで信じていた。とても強く信じていた。
封神演義からオタクに目覚めた私は、テニス、マンキン、Dグレ、笛!、ミスフル…と、WJ系のキャラクターに恋する夢女となり、書き手になった。
作品内に出てくるキャラクターの髪型を真似たり、「私は〇〇と付き合ってる」と言い始めたりと、暗黒の中二病時代を送っていた。部屋の片づけをして当時のノートなどが出てくると目も当てられないような落書きや、謎のポエムが書かれていて、居た堪れない。
中学二年生の頃に夢サイトを持ち、同盟やリングのリンクを貼ったり、ランキングサイトに登録して集客数を伸ばしたり、コンテンツとして夢小説だけでなく、キャラレス掲示板を用意してマメに返信をしたり、キャラレスのメルマガを配信して何通か夢女達に夢を見させたりと、自分で妄想をしながら、更に他のオタク女の夢脳を拗らせさせるという、欲の渦の真ん中近くにいた。
高校生に上がる頃には、今でいうところの特定の「推し」を作り、その推しと自分のロングロングラブストーリーを頭の中で練って「いつかサイトに掲載するぞ」と考えていた。
当時の私は、何の疑いもなく「自分は特別だ」と思い込んでいた。
流石に魔法とか魔術とか、そういうものは中学生のうちに卒業したけれど、高校に上がって尚、私は自分を特別な存在だと信じ込んでいた。それが、作風にも出ていたし、好んで読んでいた夢サイトの連載もそういう体で書かれていた。
『特別』な私は、学校でも人気の仁王雅治君と『たまたま』隣の席となり、そのおかげで『話しかけられる』ようになって、『距離が縮まって』いく。彼は話しているうちにだんだんと『私は他の女子と違う』と思い始めて『興味を持つ』けれど、私の気持ちは他の人に向いていると思い込む。『二人きりの帰り道』に、仁王君はたまらず「俺は自分を騙すのも上手いぜよ」と言って私を困らせ、言及すれば「ピョ」と言ってはぐらかしてしまう。<< 大体こんなストーリーだったと思う。あんまり詳しくは覚えていないのだけれど、このまま何やかやあって大団円に向かっていく。大人になれば『』内のことは概ね起こらない事だと分かる。そもそも自分がそういう意味で意中の相手から持て囃されるような存在でないことは、流石に25を過ぎる頃に完全に腹落ちしていた。<
結局私は30を過ぎた今も「特別」な存在ではない。中二病を爆発させていた高校生の頃「平凡な日常なんていらない」なんて宣っていた私は今、平凡な日常をこよなく愛している。
私は結局、何者にもなれなかった。
私の書いた小説の中で言えば、名前も出て来ず、一言喋るクラスメイトAくらいの役割で、今日常を送っている。
そんな私が「特別な存在じゃなくてもいいかな」と、今の自分を認められたのは、趣味があったから。そして、それを通じて知り合った同じコンテンツに熱と愛と金を注ぐ友人を何人も得たから。
趣味の中で、私は作り手の立場でいる事が多い。小説は夢からNLやBL,オリジナルと内容の幅が広がり、コスプレは(上がってしまったけれど)衣装や小物作り、被写体になったり、カメラマンになったりもした。友達と何時間も撮影場所の選定や、撮りたいイメージを語り合い、ラフを描き、カメラマンさんにインプットして撮って頂いた。アクセサリー作りをしてイベントで頒布するようになった。編み物をしてイベントで頒布するようになった。同人小説本をネットだけでなく、紙にして、イベントで頒布するようになった。
途中まで、他人からの評価が気になっていた。ちゃんと私は、私の作品は、「正しく」評価されるのだろうか。皆、これを見て私を好いてくれるのだろうか。そんな事ばかりを考えていた。
けれど、作品の傾向などから、自分の好みが万人受けするものではないと気付いた。
そこで私は、他の誰でもない、自分の為に書く事が増えていった。正直、いいねなどの評価はそう多い方ではない。
何なら「なんでこのCPなのに不幸にするんですか?」「顔カプやめてください」なんて批判をいただくこともある。
だけど、確実に心のこもった、手の込んだ感想を頂くようになった。数は本当に本当に少ない。片手で足りる。それでも、どうしようもなく満たされていく。
私は、誰からも特別扱いされるような美貌を持つ訳でも、センスを持っている訳でも、才能がある訳でもない。どこにでもいる、ありふれたアラサーのオタク女だ。
結婚は一度した。仕事もある。そして、趣味もある。 皆の特別にはなれなかったけれど、その時々の恋人にとって、その時は「特別」で、家族にとっても私は「特別」。職場でも私の能力は尊重される。
どれも、「何者かになりたかった私」の望む特別とは少し違う。それは持続性だったり、熱量だったり、関係性だったり。だけど、そういう小さな「特別」を膚で感じて、積み重ねていくと、なりたかった「特別」とは違う、もっとレイヤーの多い、沢山の色を持った自分が見える気がする。
これが、何者にもなれなかった私の生存戦略。
マンキンで葉が霊の力使って、テストでいい点取って、まん太に「見損なった!!」
って言われて、「(霊を使う能力が)あるんだから使えば良いじゃねぇか」って葉が言うシーンが印象的。
なんかねー、あるんだから使えば良いと思うのよ、ホント。
いやいや、これはそうだとは限らないよ。
高得点だけを得ても、それによって何か不利益を受ける機会が生じてるかもしれない。
個人的にはスヌーピーのこの話が好き。
「幸せな方が体にいいと思わないかい?」
チャーリー「どうだろう?」
「副作用がないかな?」
マンキンで葉が霊の力使って、テストでいい点取って、まん太に「見損なった!!」
って言われて、「(霊を使う能力が)あるんだから使えば良いじゃねぇか」って葉が言うシーンが印象的。
なんかねー、あるんだから使えば良いと思うのよ、ホント。
だけど皆、マジメにやってるからそういう人を見ると怒りたくなるんだろうなー。
ここまでは構わないけど、説教したがりな人間だと、マジメにやってる人間をひっぱってきて「見習え!」
とか言っちゃうからね。
目的に達成するための努力は、皆してるって前提でも、辛くなきゃ駄目だとか苦しくなきゃ駄目だとか家庭環境が悪くなきゃ駄目だとか、
もう意味が分からない。そういう人をひっぱってきて見習え!って言われましても、ハァ。
何でそんな他人と比べたがる人間が多いのかなー