はてなキーワード: 自尊心とは
メタバースという言葉が流行っているようだ。十数年地下アイドルヲタクを惰性で続けている自分としては、アイドルコンテンツをVRで楽しみたいのだが、なかなかこれといっておもしろいVRコンテンツがでてこない。そんな中で、自分が知りうる中で最も優れたVRアイドルコンテンツが、2019年発売のVRAV「俺のカノジョは本物アイドル 永瀬ゆい ~LIVE中レスもらいまくりでこっそり楽屋でイチャイチャベロキスSEX~」である。
2年前の作品だけあって最新のVRに比べると画質が落ちるのは否めないが、演出がものすごいリアルであり、今でも楽しめる。ぜひ没入感を得られるVRゴーグルで見てほしい。
主演は元地下アイドルの永瀬ゆい、そしてサブ出演にはAV系アイドルグループに所属していた山井すず、そして篠宮ゆり。
作品内では、3人がアイドルグループを結成しており、「俺」はセンターのユイと繋がっているヲタクという設定だ。
チャプター1は3人が結成してる地下アイドルのLIVEに「俺」が参加するシーンから始まる。まずこの物販の雰囲気がものすごいリアルである。やたらと話しかけてくる推し被りのヲタク、うさんくさいスタッフ、スタッフと内輪ノリで馴れ合い金を巻き上げられるヲタク。他にも地下アイドルをテーマにしたAVはいくつか見てきたが、この作品出てくるヲタクが地下アイドル現場にいるリアルなヲタクに最も近いと思う。
前物販(LIVE前に物販を行うこと)が終わり、続いてはライブのシーンに移る。
薄暗いフロアで、カメラ視点の「俺」の前には1列ヲタクが並んでおり、ステージの様子はヲタクの肩越しにしか見えない様子だ。フロアがフラットな狭いライブハウスで行われる地下アイドルLIVEでは慣れ親しんだ視野であり、なるほど「俺」はユイちゃんと繋がっているからこそ少し遠慮がちに2列目に陣取っているのだな、とわかる。そして、ステージライトが点灯し、出囃子とともにヲタクが手拍子を開始し、アイドル3人がステージに出てくると、横にいた先程から馴れ馴れしい推し被りのヲタクが、前方のヲタクを横に押しのけて「俺」に最前センターのユイちゃんゼロズレ位置を譲って「俺」を前に押し出す。この瞬間がこのVRAVの中で自分が最も好きな瞬間だ。ここで「俺」はユイちゃんと繋がっていることは他のヲタクにはまだバレていないものの、明らかにユイちゃんのTOであり、推し被りヲタクがTOを必要以上に立てるムーブも地下アイドル現場あるあるといえる。自分はここでこのVR空間に完全に没入することができた。最前中央に押し出され視界が開けて、ステージのユイちゃんそして左右の2人が視野いっぱいに目の前に現れる。最高だ。
そしてここから彼女たちのオリジナルソング「パラレルLOVE」が1曲ノーカットで描かれる。
これまでのアイドル系AVでは、ヲタクたちのコール(掛け声)が気に入らないことが多かったが、この作品はその点も完璧だった。
イントロで「あーよっしゃ行くぞーー!!」の警報からスタンダードMIXが始まるが、タイガーファイヤーサイバーファイバーのあたりからサイバーとファイバーを間違えるヲタクのせいでグダグダになり、ここは満足にMIXすら打てない中高年ヲタクがあつまる地底アイドル現場であることがわかる。こんな現場だからこそ「俺」はユイちゃんと繋がれるのだろう。その後も、妙に古臭く微妙にオリジナリティを出してくる(\ひまわりスマイル、ユリちゃーん!/等)いかにも中高年ヲタクがファミレスで真剣に考えそうなコールが続いたり、サビの「♪嘘じゃないよね~\オイ!オイ!オイオイオイ!!/♪ほんとにあるよね~\オイ!オイ!オイオイオイ!!/」のところの妙に気合の入った中高年ヲタクの掛け声には思わず涙が出そうになる。1番終わりのあとに挿入されるジャパニーズMIXのなんとも言えない\化繊!飛除去~!/の間の抜けたかつなぜか自信に満ちた言い方も地底アイドル中高年ヲタクあるあるなので傑作である。
落ちサビでは左右の視界からヲタクたちのキンブレのケチャがステージに捧げられ、思わず左右を見渡してしまう。VRは素晴らしい。
曲の最後はステージの3人が腕で大きなハートを作るのだが、リアルアイドル現場であれば3000%ヲタクの方でも同じポーズを取るところだが、左右のヲタクは「俺」にハートを強要することなく妙な真顔でステージにケチャっていたので、そこがヲタクもハートを作っていれば本当に完璧だったのが本作唯一の減点材料だろう。
ついヲタクのことばかり書いてしまったがもちろんステージの3人がポンコツ風に踊る姿は素晴らしいの一言で、ユイちゃんはタイトルで「LIVE中レスもらいまくり」と書いているくらいなのでほぼずっと「俺」のことを見つめていてかわいい。こんなに見すぎるのは多少不自然だが、自分の経験上、ヲタクと繋がってやめるアイドルはびっくりするくらい特定のヲタクにレスしていることはそこまで珍しくはない。むしろ落ちサビのあとに唯一ユイちゃんの右手側に目が泳ぐシーンがあるのだが何かあったのか気になる。
個人的には主演の長瀬ゆいもいいが、サブ出演の山井すずちゃんが本当に楽しそうにライブをしていて実にかわいい。本当はそっちを見たいのだが、ユイちゃんがずっとこちらをガン見してくるため、なかなかすずちゃんの方を見られない気分になってしまうのも本当に自分が地下アイドル現場にいるような錯覚をもたらしてくれる。
ライブが終わると場面は再び物販に移る。
ここでも馴れ馴れしい推し被りヲタクは相変わらずで、「俺」よりも先に推し被りヲタクがユイちゃんの物販に行くのだが、TOである「俺」はがっつかない感じや、推し被りヲタクが短い秒数の中で金を払っているにも関わらず「いっつも一緒に「俺くん」と応援してるんだよ」とTOを巻き込んでアイドルとしょうもない会話で秒数を消費してしまうやりとりのリアルさは素晴らしかった。他の中高年ヲタクと比較して妙にこざっぱりとした身なり、スタッフへの愛想の良さ、TOである「俺」に対する態度といい、推し被りヲタクは最高のかませヲタク役であり、ユイちゃんと繋がっている「俺」の自尊心をこれでもかとくすぐってくれる名演っぷりである。
さて、推し被りヲタクの物販時間が終わり、次は「俺」の番である。チェキ券を渡すとユイちゃんは「俺」に対して「・・・ありがとっ」と小さく声をかけて腰の下で「俺」の両手を掴むのだが、このそっけない口ぶりとこらえきれない節操の無さの組み合わさった動きが本当に繋がっているヲタクへのアイドルの振る舞いとして完璧で素晴らしかった。
そしてその次のチェキ撮影シーンがこの作品で2番目に感動したシーンだ。ユイちゃんが頬の体温が感じられると錯覚するくらいに「俺」の斜め横に密着し、チェキ撮影カメラが反対側の斜め方向から「俺」とユイちゃんを撮る。このユイちゃんとカメラの画角がとにかく最高で、唯ちゃんの横顔が画面右半分を覆いながらチェキカメラの方を見るVR体験はリアルなチェキ撮影に限りなく近くVRにしかできないというなかなか得難い体験だった。
その後は「俺」とユイちゃんはレギュレーションもなにもあったもんじゃないように前の推し被りヲタクのゆうに5倍は超えるであろう時間の間、衆人環視の中で異様にイチャイチャしながらツーショットの会話を行う。ここは正直生々しすぎて気が削がれたものの、実際の地底アイドル現場でもテーブルの隅のスタッフの見えないところでありえないくらいに密着して何かささやきあっている繋がりを一切隠そうとしないアイドルとヲタクの姿を見たことがあるので、まあこういうこともなくもないのかもしれない。
ちなみに、このいちゃいちゃ物販シーンでは、視界の右端で楽しそうにヲタクを相手にしている山井すずちゃんが可愛かったり、チェック柄のシャツベルトインコミュニケーション不全中高年ヲタクの姿があまりにリアルすぎてびびるといった面白も見逃せない。
チャプター2以降は楽屋のAVシーンなのであまり語ることはないけれど、強いて言えばパンツの上からキンブレを執拗にエロ道具化するシーンはなんのフェティシズムなのだろうかというのが気になったのと、パンツを脱がせたあとはキンブレは使わないのはちょっとわかる、という点くらいだろうか。あとオマケのラストチャプターでの音楽プロデューサー枕接待シーンの山井すずちゃんが可愛い。
報告は以上です。皆もVRゴーグルを買おう。
人は自らを或る属性を持つ集団に属させて、その集団同士で勝ち負けを争い合うのが大好きだ。
肉体的スポーツに限らず、デジタル、アナログ問わずのテーブルゲームや手遊び、東西、紅白、善悪正邪、二元論的対立でなくとも、プロアマ問わず複数からなるチーム対抗戦、地域、国家、思想、就労組織、親類一族、家、出身校、同一校内でも学級、学科、部活、委員、学内地域、血液型、星座、誕生日、好きな食べ物、フェティッシュの方向性、何のファンか誰推しか何沼にハマっているかに至るまで己を自らカテゴライズして、そのカテゴリ同士で優劣を決めるのが好きで好きでしかたがない。
自分で戦えない場合は時に相手の罵倒をも織り交ぜながら贔屓への応援支援。味方の勝利は己の勝利、実効的な行為は何一つせずとも馬鹿騒ぎ。負けてしまえば最悪の場合、殺人事件にまで発展する始末。争いは嫌だという場合も、嫌だという主旨でそうでない連中と争うことになる。『「長話はダメだ」という長広舌をふるう』ようなものだ。言葉とは斯くも自己言及的で――まあ、それは今更なのでいいだろう。
何にしろ、単に自分対他者よりも所属或いは肩入れする集団間での抗争が特に好まれる傾向にある、と言っていい。個人で戦うよりも楽だからというのは勿論のこと、責任は分散しつつ比較的安全圏から敵を攻撃できるからだ。
本気で対決せずとも二項の対立状況自体を面白がる風潮というのもある。無責任だったり判官贔屓だったり、要するに他人の軋轢に首を突っ込むというか、頼まれもしないのに乗っかっていく、むしろ煽っていくという状況がよくあるのは知っているだろう。
例えば、競合する商品やサービスを担う二社があったとして、そのどちらか一方のみを支持し、もう一方は徹底的に根絶する。そういう流れを見たことはないだろうか。その場合、どっちも買えば良いとかどっちも楽しめば良いとか、そういう一般的な思考は敢えて除外される。まあ、中には真剣な『アンチ』『信者』もいるんだろうが、別に両方同時に手を出していけない法はない。
つまり、好き好んで仲違いし自らを持ち上げて相手をこき下ろし、朗報悲報だのと立場によって逆転するニュースをラベリングしてひたすらにマウントの取り合い、自陣営に勧誘する事もなく、互いに罵倒し合うさまをこそ楽しんでいるとしか思えない。
現実的には、個人の資産や費用の限界による購買制限、つまり、どちらかしか選択できないという事情もあろうが、そうであったとしても選択できなかった方を貶める事で自尊心を保つ行為にしては少々度が過ぎていると感じやしないか。
詰まるところやはり『優劣をつけること』が主たる目的であって、エコノミックなパイの奪い合いというよりもこれらは、自分が正しく相手が間違っている事の確認、証明、『相手を攻撃できればなんでもいい』という事なのだろう、実際は。その『なんでもいい』部分に、同族集団というものがもっともらしい大義名分をもたらしてくれるという訳だ。なにしろ実利は無関係、というか寧ろ機会の損失という意味では損している訳で。まあ、対立状況を面白がる人間はそもそも外部の野次馬であって、失うものは最初から無かったりもするものだけれど。責任の分散どろこか、そんなものは無いと思ってるからこその、というべきか。要するに、自分自身が戦うということは絶対条件ではないって事さ。優劣を付けるのと勝敗を決するのとは、似て非なるものだからね。
誤解無きよう言っておくが、それ自体が駄目だと言ってるわけではない。人はどうやらそういう風にできている、という説明解説なのである。
元々は生存競争、捕食被食、繁殖する為に異性を取り合う等、勝つことが悦びであるという根本的な反応だろう。知恵により食物連鎖から仮初めとはいえ脱し、生存率も他に比べて高い水準を保てるようになった人にとって、その悦びを得る為の代替行為を欲するのは自然な事だ。闘争を避けること、つまり逃走が生存維持に繋がるならそれも勝ちの一種ではあるが、さっきも言った様に勝敗自体はどうやら人々にとってはさほど意味が無いようなのだ。そういう意味で、主として一人用ゲームというのは、プレイヤーが気持ちよくなる為の都合の良い仮想的を設定し、そしてそれはあくまで倒される前提、つまり攻略可能な範囲での接待と気づかれないギリギリの強さでの抵抗をし、最後に負ける事を定められた存在を配する事により悦びを得る為の疑似戦闘として非常に有用、と言うかまあ、人気な訳だ。
ただ、先に一人用と断ったように、対人戦特化型は全く別の話になるし、一人用でも高難易度特化のものはあるのだが、それはハードルが高く門戸が狭い事によって、他の奴等には出来ない事を出来る自分、というより強い優越感に浸れるという付加価値があるが故に、一定数の指示を得ている状況であり、誰でも簡単にクリアできる爽快さは、そういう人間にとっては悦びどころか、……まあ、あくまでも攻略をなせる腕があればの話だが、寧ろ無粋でつまらないものだろう。
当然、ストレス発散の為に結果としての悦びを求める者達にとっては、悦びを得る為に苦行をこなさねばならぬそれは、ゲームの為にゲームをしているという、全くもって本末転倒な思考回路なのだ。
決してそんな事はないんだが、それこそ属する集団が違うという事だ。
そして大事な事だが、『或る集団に「属する」』事は、戦う大義名分――通るか通らぬかは兎も角――を得られると共に、自分が何らかの役に立つと思い込める格好の機会でもあるのだ。特に、普通のコミュニティに馴染めない人間にとって、それは蠱惑的なのだ。
現実社会では必要とされない自分が、疑似コミュニティにおいては貢献する事が出来る。……まあ敢えて疑似としたが、要するに社会と直接には繋がっていないと言う事だ。
そして上の人間、主催は、そういう心情を利用する事が多い。現実では得られなかった役割を与え、達成感という報酬で縛り、更なる貢献……否、献身を自ら進んで行うよう巧妙に仕向ける。直接的な強制はせずとも良い訳で、自覚のない都合よき駒として、一層離れられなくしていく。無論、普通のコミュニティとてそういうものではあるのだが、マイナスを経験した後での逃げ道として用意された幸福だから、同じ分のプラスだとしたらマイナス分で絶対値は増えている、依存が強まってもおかしくない。
実際、例えばオンラインゲームにおける共闘のように、自らの役割がハッキリとしていてかつ効果に即時性があり目に見えて貢献度が分かるようなパーティプレイは、少なくとも勝っている間は、それはそれは愉しい。自らの貢献、味方との連携、互いを求め、そして求められる関係作戦立案そして実行。結果敵が倒されるのだ、自己の承認と敵の殲滅が同時に得られる。脳汁が止まらないって奴だ。つまりね、組織だった戦闘というのは、悦びを最も実感出来るシチュエーションなのだ。
その通り、厄介な事に、物理的集団戦闘行為が、その悦楽を最も得やすいんだよ。
さっき言った様に、集団を主催する人間はそれを利用するし、強烈な快楽故に強制すら不要だ。
論戦については、『双方がルールに則って』戦う前提ありきだ。そもそも言葉というのは真理でないと、今までも何度も言ってきた。言葉が通じない相手とは論を戦わせられないのだから。ある動物の威嚇行為が、人から見れば愛らしいファニーな行動に見えるように、概念での戦いは言語をはじめとした共通ルールの確固とした共が大の大前提だ。
逆に言えば、ルール厳守を徹底するなら、言語は強い武器たり得るという事でもある。
まあ、普通に暮らしている分には、我々は言語という呪文が通じる世界にいるので、その威力は人を生かすも殺すも出来るレベルであり、あくまで言葉が通じる場でなら、用いて戦闘行為は可能さ。
そもそも属性集団の属性に言語によって分けられたものがある以上、強い悦楽が物理戦闘に限るわけでは無いのだが、実際問題、同じ社会にいながら『言葉が通じない』相手が結構いるものなのだ。
どちらが良いとか悪いとかではない、勿論優越でもない、君が何処に属しようと、どういう戦闘を愉しもうとするかは僕がどういう言うことではない。
女のエッセイ漫画とか読んでると、女の泣くことへのハードルの低さを感じる。
とにかくめそめそとよく泣く。ことあるごとに一人でスンスン泣いている。
男からするとありえないんだ、そんなことは。
こういうの見ると、ああほんと女は泣くことに対して抑圧とかリミットというものがないんだなと思う。
男は意地というかプライドというか、泣くことが恥ずべきものとして育てられるから俺は安易に泣けないんだよ。
あとで正気に戻った時に、めそめそ泣いた弱い自分を認められる自信がない。絶対自尊心さがる。
なんのプレッシャーも負い目もなく、女はすぐ泣けていいな。
オタクくんは自分たちが馬鹿にしてるDQN的なものと大差ないんだよな。
こんなことに一生懸命な俺らwお前らwのノリ。
そのノリこそが大事でそれで自尊心を満たしてるから他の人達が趣味や推し事で大事にしてる倫理観とかをないがしろにしている。そこは彼らにとって重要ではないし、なんならそこを飛び越えてしまう俺らwにギリギリを攻める俺らwに酔っているので。
そしてないがしろにしてる事実を突きつけられるとちっぽけな自尊心が傷つけられてしまって居ても立っても居られなくなる。
こちらに非があったと認めたら終わり。決して認めてはならない。
だから分からないふり、理解できないふり、なにか言われたら茶化して揶揄して逃げる。学ばないし反省しない。自分の心を傷つけないためならマッチポンプしてでも人のせいにする。
地位は低いまま。
低いままの俺たちは差別されるかわいそうなオタクくんなのにこんなことに一生懸命な俺らwのノリがまた強化されていく。
そこから抜け出す日は来るのだろうか。
今更こんな基本的なことを噛んで含めるように言うのもどうかと思うけど、ある特定の団体を特徴づける思想信条が正しいからと言って、そこに属している人々が即ち正しいわけではないんですよ
それは政治や国家や宗教でも同様で、ある思想信条や主張が正しいからと言って、その思想信条を有する団体に属している構成員が正しいわけじゃないんですよ
例えば、宗教というものはそれ自体では基本的に善なんですけど、かつての為政者はその宗教性をハックして、領土拡張の大義名分にしたり、政敵を打倒するための口実にしたりしたわけですね
現代でもその事情は変わらなくて、それ自体では善であるはずの思想や信条は、必ずしも善なる方法で運用されていないし、あるいは、その思想信条を有する団体の構成員も、善なる人間ばかりではないんですよ
そこのところをしっかり認識しなきゃ、「ある思想信条を有する人間は善だ! つまり私は善だ!」という歪んだ認知に至ってしまいます
もう、何らかの「ist」を名乗ることを免許制にするべきじゃないんですかね。大体誰かが「ist」を名乗る動機は気に入らない他者を攻撃するためだったり、自尊心を満たすためなんですから。誰しもが共通の御旗のもと「ist」を名乗っていては組織が狂うのも当たり前なんですよねえ
https://twitter.com/fromdusktildawn/status/1457653213834866693
このツイートがバズっていて、一週間も前のネタだが、正直違うんじゃねーかと思ったので書いておく。
ちなみに、ツイート自体にはイラストの解説がついていないため、主意は想像で捕捉してみる。
…
左:COP26(Conference Of the Parties)に関連するデモに参加する若者は、家庭環境的にも物質的にも、現時点で十分恵まれている。彼らがこれ以上「豊かさ」が要らないと主張できるのは、そういう背景に支えられている。
右:一方、家族からの支援も期待できず、貧困を抱えて「豊かさ」を求めている若者もいる。
…
左と右を比較すると、「豊かさ」がはじめから存在して当たり前と錯覚している左側の若者の想像力のなさが浮かび上がるという、そういう構図になっている(と思う。繰り返しだが、ツイートには図解が載っていない)。
…
ここには一つの罠がひそんでいる。
それは、左の若者が「要らない」といい、右の若者が「欲しい」という「豊かさ」は、冷静に考えてみると、それぞれ別のものだということだ。
同じ「豊かさ」という言葉が一つのイラストで共有されているために、まるで、左の若者が右側への想像力を決定的に欠いた勝手な人間のように見えてしまうが、そもそもテーマが違う。
右の若者たちが求めている「豊かさ」は、物質的なアイテムや資産、そして、家庭環境によって勉強の機会や将来の夢が制限されてしまう不平等の是正だろう。
一方、左の若者たちがいう「豊かさ」は何か。
COP26が環境保護を含んだ、いわゆるSDGsに関する議論であることを考えてみる。そうすると、ここでいう「豊かさ」とは、環境を犠牲にして得られる、もしくは途上国に負担を押し付けることで手に入れる経済成長であると予想される。
左側が、要らないと言っているのはそういう「豊かさ」だ。
別に、右側の「豊かさ」が必要ないと言っているわけではない。環境を破壊したり誰かを搾取してまで、まだこの世界にない新たな資産を出現させなくてもいい、と彼らは言っているのだ。
確かに、左側の若者が「もう要らない」と言えるのは、家族や物質的に恵まれた環境で育ったことが背景にある可能性が高い。しかし、繰り返すが、否定されている「豊かさ」の意味が左右で根本的に違っている。
…
COP26がSDGsに関する議論であることはすでに言及した。そして、SDGsの中には貧困や不平等の解消も目標として含まれている。
つまり、COP26の成功とSDGsの達成を求める立場である左側は、右側への想像力を欠くどころか、むしろ右側と協調して貧しさの是正に向かう側になる。
SDGsが富裕層の道楽や欺瞞であるという批判は否定しないし、環境破壊の切迫さを考えると解決策として不十分である(話題になった『人新世の「資本論」』でも、こうした視点が紹介されていた)、という指摘もある。
しかし、お互いに目指すものだけにシンプルに注目すると、イラストの左右はまったく対立していないことがわかる。
…
…というのが「一つ目」の罠のよけ方。
実は、このよけ方をすると「二つ目」の罠にハマる。次にそのことを書く。
…
実際のところ、このイラストにあるような単純な左と右なんて、そもそも存在しないのだ。
右側の若者は進学をあきらめて労働に就くことで家族を養っているが、世界にはそれさえ不可能なレベルの貧困も存在する。日本でもよく聞かれる、「自助」という概念ではどうにもならないレベルの貧しさだ。
COP26に関連付けられる「豊かさ」をテーマに考えるなら、本来、こうした極度の貧困までも視界に入れなければならない。
そして、(傲慢にも)最下層の貧しさの立場から見ることを許されるなら、「豊かさ」はもう要らないと主張する若者はもちろん、残酷なことだが、自力で家族を養うことが可能な若者でさえ「左側」となるはずなのだ。
逆のことも言える。
例えば、もう一生労働しなくても困らないような、左側の極致のような富裕層もこの社会には存在する。
ちなみに俺の家族はというと、両親は比較的収入の高い共働きで、つまりイラストの左側ド真ん中だったわけだが(ということもあって、俺はこの件で少しムキになっている)、とてもそこまでの資産家ではない。仮に二人のどちらかが大病を患っていたら、生活レベルはまるで変わっていただろう。
今のところ不自由なく暮らしているけど、何かあったら即時右側行きだろう。こういう言い方は「右側」の人たちからすれば不快かもしれないが、俺は自分が右側の予備軍だと思っている。
…
ない、が言い過ぎであれば、そこには可能性も含めてきわめて広いグラデーションがあるだけで、綺麗に二分割などできない。
しかし、このイラストはそこに一本の線を引くだけで、まるで魔法のようなことを起こしてみせた。
見た者に無意識のうちに自分の所属を分類させ、プライドやコンプレックスを刺激し、仮想のグルーピングによって敵意を加速させた。
これが二つ目の罠だ。線という罠。
そこにあるフレームに従って一方を批判するにせよ、フレームに従って自分のポジションを擁護するにせよ、視覚的に線を引かれただけで、そもそも線という存在の不自然さに気が付けない。
…
オチはない。
このツイートは現在、2.3万回もRTされている(そのすべてが同意ではないだろうが)。
おそらく、
・ちょっとトンチが効いている
という要件を満たしたことで、主に右側を自認する人たちの共感を得たのだろう。
俺はそこからたまたま抜け出し(たつもりでいて)、自分は左でも右でもないと思っている。
でも、別の「線」にはきっと引っかかるだろう。そして、俺自身がどこかで、「線」を引いているはずだ(それこそ、今回のイラストに「引っかかったやつ・引っかからないやつ」とか)。
なんだか救いのない話だと思う。
脱コルや反ワクチンのように怪しいものから抜け出した体験談を語るとみんなから褒めてもらえると聞いたので私の体験を書く。
むかしシドニィ・シェルダンの人が書いた小説でこんな話があった。たしか「時間の砂」か「星の輝き」のどちらかだったはずだ。
あるところに二人の姉妹がいた。最初お姉さんはブスだけど心優しい女性だった。妹は美人で誰からも愛されてた。
最初姉妹は仲良かったが、姉は何をやってもかわいい妹と比べられた。何をやっても妹は愛された。努力して何でも妹より良くできるようになったが、結局愛されるのは妹だけだった。
そんな姉の唯一の自慢は歌うことだった。歌を歌っているときだけは家族も褒めてくれた。何もかも忘れて歌うことが一番楽しい時間だった。あるとき、妹が勝手に姉の録音をテレビ局に送ったらプロデューサーが家族のもとにスカウトにやってきた。そのとき何も知らないプロデューサーは見目麗しい妹が声の持ち主だと思って熱烈にスカウトした。テレビ番組デビューまで持ちかけた。しかし、その声の持ち主が姉だとわかると途端に手のひらを返し、「声優事務所にでもいけ」と冷たくあしらい、なおも妹をスカウトしようとした。
唯一の心の支えだった歌すらも自分を苛むようになった姉は絶望し、すべての執着を捨てようと厳格に清貧な生活を求めるキリスト教の教会に入った。その修道会で数年は平穏な日々を過ごしていた。しかし、ある時事件に巻き込まれ男を知った彼女は、押さえつけていた欲望を取り戻す。そして、自分がすべてを諦めるきっかけになったあのときのことを深く恨んでいたことに気づく。その後はキリスト教という正義を元にやりたい放題するようになる。あのとき自分を否定したものを逆に否定し、自分のほうが正しいと証明しようとする。
見た目に反して心は美しいと語られていた彼女だったが、最後には自分に逆らうものは見境なしに攻撃するような、見た目にふさわしいおぞましい怪物になってしまったのである。
子供の頃この小説を読んだとき私は怖くて仕方なかった。私にも可愛い妹がいて、コンプレックスを感じていたから、将来こんななってしまうのかと思うと涙が止まらなかった。
今の社会では女性は誰かから愛されてようやく一人前という扱いをされがちだ。男性でなくてもいい、だれかから愛されないと人間失格のような扱いを受ける。
そういう状況で、自分は愛されないのに自分の妹がアイドルのように美人であり、妹だけが家族からも周りからも愛されているのを毎日のように見せられる生活を考えてみてほしい。
毎日のように自己を否定され続けた人間はいったいどうやって自己肯定すればよかったのだろう。
これは私だけの話をしているのではない。普遍的なテーマだ。ファイアパンチの作者も少し位相を変えて妹の姉という作品を描いた。
ほかにも美人の友達に嫉妬するブスのマンガはtwitterでしょっちゅうバズっている。ああいうものに「痛いほどわかる」などと軽い気持ちで共感する女が私は大嫌いだ。本当にわかるならそんな軽い気持ちで共感などできるはずがない。私はそういう漫画が賞賛されているのを見るたびに怒りで震えそうになる。
妹のことは好きなのだ。妹を憎んでるわけではないし、憎んでも解決しない。しかしそれならこの劣等感はどうやって解消すればいいのだろう。
答えは決まっている。フェミニズムだ。
こんな劣等感を感じさせる社会が間違っているのだからそれを打倒するしかない。ルッキズムを批判したり、若くてきれいな女を好む男社会すべてを否定するのだ。買春している政治家などこの世で最も許せない存在だ。妹への愛情と妹へのコンプレックスという矛盾を解消するには、社会を打倒するしかない。それができないならキリスト教にでもはいって神の元の平等を願うしかない。大抵の人間はフェミニズムを選ぶ。
一歩踏み出せばあとは簡単だ。自分は妹より美しくないというだけで否定されてきたのだから、自分よりキモい存在が市民権をえていることなど許せるわけがない。私の願いは、表面的には全ては自分を否定した男社会への復讐であるが、本心は「私も妹のように美しく生まれたかった。自信を持ちたかった」である。そのために努力しても報われなかったのに、なんの努力もせずキモい姿を晒しながらヘラヘラしてる連中が許せるわけがない。
リベラルフェミニズムは自分に自信がある女性が自分の能力に見合った評価を得たいとする真っ当な社会運動だ。しかしこの形のフェミニズムは私を救わなかった。私が求めていたのは男女平等ではない。私自身が男中心社会でコンプレックスを抱かずに自身を持って過ごせることだった。
一方でラディカルフェミニズムは「美しく生まれることがなかった女性」たちのコンプレックスを解消してくれた。全ては男が悪いのである。こんなに簡単に自分を救ってくれる思想が他にあっただろうか。ラディカルフェミニズムを唱え、男を攻撃しているときだけ、私は私のコンプレックスから解放された。
男性に限らず、コンプレックスを感じたことのない女性も、ラディカルフェミニズムにのめり込む私をバカにするだろう。私だって頭の片隅では何かがおかしいとわかっている。しかし他にどうすればよかったというのか。そのくらい日本という国は、美しくない女性の心を蝕む力学が強い。私は努力していい大学にも入ったし恋人を作ったこともある。ボランティアで人から感謝されたこともあるし企業を設立して人の上に立ったことだってある。それでも女性であるというだけで汚らわしいオタクどもよりも低い自尊心しか得ることができなかった。他の何者も、ラディカルフェミニズムほどには私を救ってくれなかった。
フェミニストたちは二次絵にまでいちいちキレる頭のおかしいやつだというが、こちらからしたらおかしいのは男社会中心の現実の方だ。
プライド高すぎて登校も進学もまともにできず最終学歴が中卒になり今では日夜ネットでオラついてるおっさんを知っているので自尊心みたいなものには懐疑的だな。というかやっぱり現代の中卒は基本的に地雷だな。ほとんどヤカラしかいねぇわ。😥
AさんがDさんからだいぶ悪質なセクハラを受けているという。Aさんの話を聞くぶんには、それはセクハラというよりもはや性犯罪の域に達したものだったので、私は「それ性犯罪以外の何物でもないですね」と言った。
どうしたらいいか、Aさんから聞かれたのだけど、被害者のAさんが個人でDさんに反撃してどうにかなるものではないので、オーナーに言うしかないよねって答えた。
ところが問題なのは、Aさんが男性でDさんは女性だということ。オーナーに話してみたところで真摯に対応してくれるかどうかわからない。
過去にオーナーは、私が仕事中に痴漢やストーカー被害に遭った件で意外とちゃんと対応してくれて「おばさんの癖に何言ってるのwww」的な反応はしなかったので、Aさんの件も案外真摯な対応をしてくれるんじゃないかという希望がなくはない。
とはっても、私の件はたぶん当店の主戦力が30代後半から50代の女性であり、女性の従業員が客や仕事仲間から性的な加害を受けるというのは案外珍しくもないことだから、オーナーも即対応をしてくれたのではないかと思う。
一方、男性が女性から加害される例は多くない。だから自由恋愛の範疇なのをAさんが大袈裟に言っているだけと思われて、何も対応がなされず、しかもオーナーに笑われたりからかわれたりしてAさんは二重三重に自尊心を傷つけられるだけで何もいい事がないという可能性がある。
Aさんは貴重な夜勤従業員だけれど、Dさんは貴重な早朝勤従業員かつ、いつでもシフトの穴を埋めてくれる、オーナーには重宝される従業員だ。
この件でAさんが辞めてしまったらオーナーには大きな痛手だが、Dさんに辞められるのもかなり痛いはず。最近、昼勤も人手不足らしいし。
更に悪いことに、最近オーナーは私生活で大変な問題(介護関係)を抱えていていっぱいいっぱいになっている。普段からちゃんと人の話を聴かないオーナーが、今、Aさんから相談を持ちかけられてちゃんと話を聴くのか。面倒臭さのあまりに普段なら言わないような暴言を吐いてまでAさんを黙らせることもするかもしれない。
だがそれでもオーナーにダメ元で話すべきだと私はAさんに言った。DさんのAさんに対する加害行為はなんと事務所や店頭で堂々と行われているので、監視カメラのはログにちゃんと証拠が残っているからだ。だから、偶々オーナーが監視カメラのチェックをしていたら、DさんがAさんに加害をしている映像が映っていた、ということにして、オーナーはDさんに厳重注意することが出来るはずだ。
とくにはてなブックマークは5点くらいの解答が多い。
それなら5点の解答しかかけてない自覚があるからもっと謙虚になるはずだ。
はてなブックマークの連中は、本気で5点の解答を100点満点だと思って提出するのだ。
何かトラブルや考えるべき問題があるときシングルイシューということはまずない
設問で言うと1から5くらいまであって、その全てに答えてようやく満点という感じの問題が多い。
ところが、どいつもこいつも設問1とか設問4みたいに
どれか一つだけ解ける問題があったらそれだけ答えて自信満々な顔で提出してくる。
しかも、その自信満々の回答すら間違えていることが多い。
なぜなら設問1から順番にとかないとわからない文脈をすっ飛ばしてるからだ。
あほかと。
馬鹿かと。
しかもこういう人間に限って、他の人間が書いた70点くらいの回答をバカにする。
設問4しか解けてない人間が、他の設問1、2、3、5もまんべんなくおさえて
及第点レベルの回答をしている人を本気でバカにしてるのである。
はてなブックマークは馬鹿への福祉って喝破してる人がいてその通りだなと。
これから社会に出る若者へ。一つ忠告しておくが、マジで「Excelができる」程度で無双できる会社はやめとけ。
大切なのは自分より優秀な人しかいない環境に自分をおくことだ。自分が一番能力が低いっていうのはちょっと辛いけど、新社会人なんだからなんにも恥じることはない。
周りがみんな自分より優秀な環境にいてそこで腐らず頑張れば必ず成長できる。周りが自分より使えないやつらだったら、全然成長できないで気がついたら無能な中年になってるのが落ちだ。
その頃になって、若い人たちが入ってきて気がついたら周りのひとのほうがお前よりみんな優秀になっているんだ。
でも、無駄な自尊心ばかり育ててきたお前は素直に頑張ることは出来なくなってる。わかんなくても自尊心が邪魔して自分より若い優秀な奴に聞けないんだ。それじゃ成長することはできない。
そうなってからでは遅いんだよ。
マジで気を付けろよな!
ツイフェミVS自由戦士の間でよく、箸を使って食事してる様がエロいだの顔を赤らめてる表現がエロいだの過激な表現はゾーニングだの、変態じゃなきゃそれをエロいとは思わないだの過敏すぎるだの普通の萌え絵を人の気持ちを害するからって規制するなだの、
毎回荒れてるのを見るし、ツイフェミを頭がおかしいって切り捨ててるコメントを山のように見るけどさ。
結構ツイフェミの意見も一利あるなあって理解できるんだけど…wあれってそんなにおかしいのかな?そんなに理解が難しいものなの?賛成か反対かは置いておいて、反対派が意見を理解して批判してるんじゃなくて適当に文句をつけてるようにしか見えなくて困惑してる
ちゃんと言い分を理解して言い分に真っ当に反論してる人が少ないよね。ちゃんと反論してる人が見たい。
女の人が関係ない文脈で、いちいち萌え絵とか男性向けの絵を使って、顔を赤らめてたり媚びた表情だったり胸が大きかったり胸の形がはっきり見えたり露出多めだったり脚やタイツが強調されてたり、性癖やフェチに刺さりそうな可愛いエロい女性を指向して描かれた絵を広告に使うな!ってことでしょ?
エロい18禁作品で18禁表現をすることは批判されてないし何にそんなに反応してるんだろう
現実の女性とはかけ離れたエロファンタジー表現は、将来の女児の発育に不健全な影響を与えるから規制しろってことでしょ?
いつも他人に媚びて愛玩されるための女の絵ばかり見てたら、自己決定とか自信とか自尊心とか奪いそうだもんね。男の人だって現実の女性を知らない人がこんなの見慣れたら女性を誤解しておかしくなるでしょ
そりゃそうだよなとしか思わないけど笑
わりかし人生に成功してる。学歴も高いし年収も平均よりは随分いい。20代中盤で結婚した。
でも、本当は選択的夫婦別姓を叶えて欲しかった。いやいや変えた夫の姓。もしも制度が出来たなら、一度離婚してでも、面倒臭い手続きを乗り越えてでも元の姓に戻したかった。夫の姓に変えたのは夫というより夫の家の事情だったので、私が元の姓になることには彼も賛成してくれてた。
なろうと思えば自分は模範的国民になれるわけで。これ以上野党を支持して「自分はノイジーマイノリティなんだ」って自尊心すり減らすよりも、圧倒的マジョリティに流れる方がずっと楽な気がしてきた。
夫の姓で結婚して、若くして子ども2人くらい産んで、自分も労働人口としてきちんと納税する、そんな国民に「素直に」なるよ、もう。