はてなキーワード: 同族集団とは
人は自らを或る属性を持つ集団に属させて、その集団同士で勝ち負けを争い合うのが大好きだ。
肉体的スポーツに限らず、デジタル、アナログ問わずのテーブルゲームや手遊び、東西、紅白、善悪正邪、二元論的対立でなくとも、プロアマ問わず複数からなるチーム対抗戦、地域、国家、思想、就労組織、親類一族、家、出身校、同一校内でも学級、学科、部活、委員、学内地域、血液型、星座、誕生日、好きな食べ物、フェティッシュの方向性、何のファンか誰推しか何沼にハマっているかに至るまで己を自らカテゴライズして、そのカテゴリ同士で優劣を決めるのが好きで好きでしかたがない。
自分で戦えない場合は時に相手の罵倒をも織り交ぜながら贔屓への応援支援。味方の勝利は己の勝利、実効的な行為は何一つせずとも馬鹿騒ぎ。負けてしまえば最悪の場合、殺人事件にまで発展する始末。争いは嫌だという場合も、嫌だという主旨でそうでない連中と争うことになる。『「長話はダメだ」という長広舌をふるう』ようなものだ。言葉とは斯くも自己言及的で――まあ、それは今更なのでいいだろう。
何にしろ、単に自分対他者よりも所属或いは肩入れする集団間での抗争が特に好まれる傾向にある、と言っていい。個人で戦うよりも楽だからというのは勿論のこと、責任は分散しつつ比較的安全圏から敵を攻撃できるからだ。
本気で対決せずとも二項の対立状況自体を面白がる風潮というのもある。無責任だったり判官贔屓だったり、要するに他人の軋轢に首を突っ込むというか、頼まれもしないのに乗っかっていく、むしろ煽っていくという状況がよくあるのは知っているだろう。
例えば、競合する商品やサービスを担う二社があったとして、そのどちらか一方のみを支持し、もう一方は徹底的に根絶する。そういう流れを見たことはないだろうか。その場合、どっちも買えば良いとかどっちも楽しめば良いとか、そういう一般的な思考は敢えて除外される。まあ、中には真剣な『アンチ』『信者』もいるんだろうが、別に両方同時に手を出していけない法はない。
つまり、好き好んで仲違いし自らを持ち上げて相手をこき下ろし、朗報悲報だのと立場によって逆転するニュースをラベリングしてひたすらにマウントの取り合い、自陣営に勧誘する事もなく、互いに罵倒し合うさまをこそ楽しんでいるとしか思えない。
現実的には、個人の資産や費用の限界による購買制限、つまり、どちらかしか選択できないという事情もあろうが、そうであったとしても選択できなかった方を貶める事で自尊心を保つ行為にしては少々度が過ぎていると感じやしないか。
詰まるところやはり『優劣をつけること』が主たる目的であって、エコノミックなパイの奪い合いというよりもこれらは、自分が正しく相手が間違っている事の確認、証明、『相手を攻撃できればなんでもいい』という事なのだろう、実際は。その『なんでもいい』部分に、同族集団というものがもっともらしい大義名分をもたらしてくれるという訳だ。なにしろ実利は無関係、というか寧ろ機会の損失という意味では損している訳で。まあ、対立状況を面白がる人間はそもそも外部の野次馬であって、失うものは最初から無かったりもするものだけれど。責任の分散どろこか、そんなものは無いと思ってるからこその、というべきか。要するに、自分自身が戦うということは絶対条件ではないって事さ。優劣を付けるのと勝敗を決するのとは、似て非なるものだからね。
誤解無きよう言っておくが、それ自体が駄目だと言ってるわけではない。人はどうやらそういう風にできている、という説明解説なのである。
元々は生存競争、捕食被食、繁殖する為に異性を取り合う等、勝つことが悦びであるという根本的な反応だろう。知恵により食物連鎖から仮初めとはいえ脱し、生存率も他に比べて高い水準を保てるようになった人にとって、その悦びを得る為の代替行為を欲するのは自然な事だ。闘争を避けること、つまり逃走が生存維持に繋がるならそれも勝ちの一種ではあるが、さっきも言った様に勝敗自体はどうやら人々にとってはさほど意味が無いようなのだ。そういう意味で、主として一人用ゲームというのは、プレイヤーが気持ちよくなる為の都合の良い仮想的を設定し、そしてそれはあくまで倒される前提、つまり攻略可能な範囲での接待と気づかれないギリギリの強さでの抵抗をし、最後に負ける事を定められた存在を配する事により悦びを得る為の疑似戦闘として非常に有用、と言うかまあ、人気な訳だ。
ただ、先に一人用と断ったように、対人戦特化型は全く別の話になるし、一人用でも高難易度特化のものはあるのだが、それはハードルが高く門戸が狭い事によって、他の奴等には出来ない事を出来る自分、というより強い優越感に浸れるという付加価値があるが故に、一定数の指示を得ている状況であり、誰でも簡単にクリアできる爽快さは、そういう人間にとっては悦びどころか、……まあ、あくまでも攻略をなせる腕があればの話だが、寧ろ無粋でつまらないものだろう。
当然、ストレス発散の為に結果としての悦びを求める者達にとっては、悦びを得る為に苦行をこなさねばならぬそれは、ゲームの為にゲームをしているという、全くもって本末転倒な思考回路なのだ。
決してそんな事はないんだが、それこそ属する集団が違うという事だ。
そして大事な事だが、『或る集団に「属する」』事は、戦う大義名分――通るか通らぬかは兎も角――を得られると共に、自分が何らかの役に立つと思い込める格好の機会でもあるのだ。特に、普通のコミュニティに馴染めない人間にとって、それは蠱惑的なのだ。
現実社会では必要とされない自分が、疑似コミュニティにおいては貢献する事が出来る。……まあ敢えて疑似としたが、要するに社会と直接には繋がっていないと言う事だ。
そして上の人間、主催は、そういう心情を利用する事が多い。現実では得られなかった役割を与え、達成感という報酬で縛り、更なる貢献……否、献身を自ら進んで行うよう巧妙に仕向ける。直接的な強制はせずとも良い訳で、自覚のない都合よき駒として、一層離れられなくしていく。無論、普通のコミュニティとてそういうものではあるのだが、マイナスを経験した後での逃げ道として用意された幸福だから、同じ分のプラスだとしたらマイナス分で絶対値は増えている、依存が強まってもおかしくない。
実際、例えばオンラインゲームにおける共闘のように、自らの役割がハッキリとしていてかつ効果に即時性があり目に見えて貢献度が分かるようなパーティプレイは、少なくとも勝っている間は、それはそれは愉しい。自らの貢献、味方との連携、互いを求め、そして求められる関係作戦立案そして実行。結果敵が倒されるのだ、自己の承認と敵の殲滅が同時に得られる。脳汁が止まらないって奴だ。つまりね、組織だった戦闘というのは、悦びを最も実感出来るシチュエーションなのだ。
その通り、厄介な事に、物理的集団戦闘行為が、その悦楽を最も得やすいんだよ。
さっき言った様に、集団を主催する人間はそれを利用するし、強烈な快楽故に強制すら不要だ。
論戦については、『双方がルールに則って』戦う前提ありきだ。そもそも言葉というのは真理でないと、今までも何度も言ってきた。言葉が通じない相手とは論を戦わせられないのだから。ある動物の威嚇行為が、人から見れば愛らしいファニーな行動に見えるように、概念での戦いは言語をはじめとした共通ルールの確固とした共が大の大前提だ。
逆に言えば、ルール厳守を徹底するなら、言語は強い武器たり得るという事でもある。
まあ、普通に暮らしている分には、我々は言語という呪文が通じる世界にいるので、その威力は人を生かすも殺すも出来るレベルであり、あくまで言葉が通じる場でなら、用いて戦闘行為は可能さ。
そもそも属性集団の属性に言語によって分けられたものがある以上、強い悦楽が物理戦闘に限るわけでは無いのだが、実際問題、同じ社会にいながら『言葉が通じない』相手が結構いるものなのだ。
どちらが良いとか悪いとかではない、勿論優越でもない、君が何処に属しようと、どういう戦闘を愉しもうとするかは僕がどういう言うことではない。
労働者はなぜ声を上げないか、労働運動はなぜ日本で起きないのか、という問題は、歴史的経緯とかそういったことよりももっと大きな問題として、そもそも一世紀以上かけても日本に民主主義が定着してない問題と同根だと思う。
昨日ホッテントリで見た、これ
「■[自閉症関連]自閉症の子供がレストランに来たらどうするか?アメリカの警察恐るべしhttp://d.hatena.ne.jp/kuboyumi/20140416/1397793621」
自分は、一応教育関係者で、言わば民主主義の教育者であり、差別・偏見やなんかについても教育する立場にある人間だが、この動画見てものすごい敗北感と無力感に襲われたよ。上の動画自体は、所詮テレビのやらせじゃねえの、とか、そもそも風紀のいい地区のちょっとお高いレストランとかじゃねえの、とかいろいろ批判を言いたい人もいるかもしれない。(やらせだとしても、これを放映できる雰囲気があることだけでもすごい。また、確かに客は白人がほとんどに見えるし、そういった地区を選んだというのもあるかもしれないけど、ポテトの山盛りとか食べてるところを見れば、せいぜいファミレスに毛が生えた程度の店ではないかと思われる。)
そもそもどんな風に教育すれば、子どもらを、このレストランにいた客たちのように振る舞えるように育てられるのか、正直分からない。これが民主主義であり市民か!と思った。学校という閉ざされた社会の中で、そういう風に振る舞いなさい、振る舞うべきです、それが民主主義です、と教えること、そしてそう振る舞わせることは、もちろん可能だ。問題は、そのスタンスを、全ての子どもに内面化させる方法だ。つまり、心の底から納得し信じさせ、自分自身をそのように律し行動させるよう仕向けるような教育。
「配慮/察する」「謙遜」「迷惑」といった同族的集団主義的タームを美徳とする(そのこと自体が悪いという意味ではない)日本の文化・社会と、構成員の多様性を前提とした民主主義とは、そもそも相容れないようだ。そして、世界がますます狭くなる時代には、どう考えても多様性を前提とした民主主義的な考え方がますますスタンダードにならざるを得ない。だから、後者の価値観を少しずつ学ばせれば、社会も少しずつ変わるのではないか、と思っていた。だが、文化の根本にあるそれらの美徳の影響力は、後天的な学習の効果を遥かに凌駕する。上の動画を見て、
「障がいのある子がいたら実際迷惑じゃん?」
「家族も周囲への配慮が足りないよねー。モンスター消費者だねー。」
「周囲への迷惑を折角察して、そして自ら憎まれ役を買って出たかもしれないオッサンを排除するなんて心の狭い社会だねー」
…というような感想があっても、今は別に驚かない。それが日本文化であり社会の美徳に根ざす考え方だから。でも、そういう文化・社会は、これからの時代、対外的にはどんどん敗北していくほかないのではないか。(クジラしかり、おそらくTPPもしかり。)労働運動なんてとんでもない、という人に言いたいけど、労働雇用契約というのは労働力の売買契約なんだよね。つまり、サービス残業・ブラック企業というのは、労働力のダンピングであって、市場経済においては犯罪行為の一種なわけ。そういうことを日本という国が組織的に許容してる、と判断されたらどうなるの、ということは想像できる? TPPが開く未来を、たとえばそういう面で想像してみれば、特に非現実的な想定の話をしてるわけじゃないということは分かって貰えるんじゃないかな。
「組合って、会社の立場への配慮が足りないよねー。雇われの立場でさ。」
「周りの雰囲気を察して、自分も残業しよう…もちろん無給で。」