はてなキーワード: 屋根とは
元増田です
トラバやブコメでたくさんの修学旅行回をおすすめしてもらえてすごく嬉しい ありがとうございます
教えてもらったものこれから読む楽しみができてほくほくしてる 読むぞーー!ってなっている
「わたモテ」は「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」で合ってるかな
(少女漫画に略称が同じになる「私がモテてどうすんだ」というのがあります※旅行回あり)
2巻まではたぶん読んだけどその後の面白そうな展開をおすすめしてもらえてよかった、ぜったい読みます
「スマイルプリキュア!」もそんなに楽しいのかー!と思ってめちゃくちゃ気になる
私のプリキュアはYes!プリキュア5で止まってるのでそろそろ更新したい
「とめはねっ!」「古見さんはコミュ症です」のおすすめコメント読んで、
その人物それぞれの特性や得意、能力がいつもと違う場所で発揮されたりそれを見ることで友達の新たな一面を知ったり見方が変わったり信頼が深まったり
ふだん交流のそんなにない子とちょっとしたことがきっかけで関係を深めたりするところを見るのも修学旅行回の醍醐味だなって改めて思いました
「あずまんが大王」は読んでたはずなんだけど、修学旅行回の覚えがないということはその巻まで到達してなかったんだろうか(なおよみちゃん派)(よみちゃんはかわいい)
アニメでも修学旅行回があるみたいだからこれを機に両方改めて見てみたいと思います ところでアニメは音楽がすっごくよかった
グリーンウッドは手元にあるので今晩から久々に少しずつ読み返そうかなと 「スプリガン」も絶対に読むすごく面白そう
>河原和音『高校デビュー』を挙げようと思ったら同作者さん『修学旅行』って短編も描いてたっけ
河原和音先生作品もいいですね…修学旅行関係ないんだけど、私は「天晴(てんせい)」がとても好きです
おもしろいよね…すごく好き
>僕は文化祭回が好き。
私も好き いいよね それぞれの学校でかなりやることが違ってたりへんなジンクスがあったり踊ったりあれこれの展開が見られて楽しい
夢路行という現在はレディース誌で活躍してる作家さんがかつて少女誌で描いていた文化祭の描写がすごくいいです
画面も静かで淡々としてるけどちゃんときらきらしててすごく大事な時間が流れてる感じがあっていい
太めというレベルでない本当に太った女の子が主人公の恋物語の短編「踊りましょうか」、
それと龍のうろこを飲んでしまった女の子の話の中編「荻の原日記」の文化祭描写が特にとても楽しそうでいい
>とりあえずやっとくかーみたいなのも多くて当たりはずれ大きくね 文化祭で劇中劇やるよりはましだが
確かに当たりはずれはある
「彼氏彼女の事情」は念入りな修学旅行回(長い)とストーリーに関わる念入りな文化祭の劇中劇(とても長い)のダブルコンボがある「当たり」のほう
>糞みたいなハプニングとサービスシーン見せられるだけだろ何が面白いんだと思って読んだら、
出てくる作品群に走馬灯みたいに情景が浮かんできて涙出た。ありがとう増田。週末、吉野朔実読み返そう。
「修学旅行回」と聞いて想起される内容がその人の観測範囲というか普段読んでいる漫画のジャンルで結構違うものなのかな、
というのは今回すごく感じて一概に分けられないけれどおおまかに少女漫画
(そのうちでもラブコメとそうでないもの・掲載誌のカラーによってかなり内容が違う)と少年漫画(これも掲載誌によるだろうか)では
物語を構成する要素が相当異なるのだろうな、という風に思った 確かにテンプレのハプニングやラッキースケベ展開の多いもの、イベント消化回的なものも相当数あって
同じようなものをたくさん読めば確かにだんだん飽き飽きしてくるのかも それでもやっぱりどこかに「特別」な要素があってそういうものを見つけながら読むのがすごく好き
私は今まで読んだ少年漫画では、ゆうきまさみ作品以外では「エンジェル伝説」をすごく愛しているんだけど、すごく時間経過の範囲の短い作品で
あれに修学旅行回はなかった あったらどんなかなあ…読んでみたかったな、といまでも想像したりします
吉野朔実の「記憶の技法」は楽しい、という方面ではない修学旅行回かつひとつのある「旅」の漫画として大傑作で
あの内容をよく一冊分の紙幅でできるものだと読むたび惚れ惚れするサスペンスフルだけどすごく静かな一編で
少女漫画、女性作家に興味のない人にも一度読んでみてもらいたいです 吉野朔実作品はとてもとても良い(お好きな方がいてすごく嬉しい)
あと書ききれなかった部分では修学旅行ではないけれど旅のある作品として猫十字社「小さなお茶会」があった
夫婦生活は幸せそのものだけれど突然どうしても一人になりたくなって汽車にのって赤い屋根の家がいくつか連続していたらそこでおりよう、とか
列車のなかの物売りの描写とか駅でのお茶とか自分たちでつくるおみやげの特別さとか細やかなところがすごく心にひっかかってくるかわいいきれいな作品
星野架名「青い銀河の夜明け」は地球をなくした高校生たちが自分たちの身ひとつ校舎を宇宙船にして自分たちの未来を探して宇宙を飛び回って旅するSF
窓の外に宇宙があって茶道室で布団敷いてそこで寝る、みたいな画面が楽しい 星野架名作品はいいぞ 絵もかわいいです
夢みた。
曇った午後、もしくは明け方、とにかく5時くらいに知らない街を歩く。地図アプリを見ながら目的地に向かう。少し治安が悪い(ようには見えないけれども地図にそう書かれている)ところもヒヤヒヤしながら通って、目指す大通りへたどり着いた。そこは中華街で、あたたかいスープのどんぶりのお店がたくさん並んでいる。Aさん(ツイッターの人)と待ち合わせだったらしい。
千と千尋の神隠しみたいな赤い世界のお風呂屋さんにRちゃん(中学校の友人)と入館する。受付で番頭のおじさんに占いをされるが、わたしだけひどいことを聞かれたりしたので不機嫌な態度で言い返して応戦する。そういえば毛を剃っていなかったのでちょっと焦る。
いつのまにか内装がぜんぶ白くなっていて、薄暗い。自分もまわりも裸ではないけれども気持ちとしては裸で、服に拘束されることなくなにか秘密を共有するような気持ちでいる。中では美術展みたいな催しが開かれていて、白い立体を子供が動かして遊んでいる。それらを流し見する中でふと気付いた窓からの景色が最高のとりあわせだった。薄暗い街と桜の木と見切れた海の断片、かと思ったら、隣町の教会の青い屋根だった。それをYさん(ツイッターの人)含む3人ほどで見て、写真にも切り取った。展示を全て消化したのでAさんを探しに階下のミュージアムショップに寄る。Mちゃん(中学校の友人)に「AさんかYさん(ツイッターの人)に会えたら教えて」とことづけし、階段を下りる途中でKとI(いずれも高校の友人)に会う。ヨーロッパのレコードやステッカーや本が並んでいる。粗末な本のコーナーにファンZINEがあったので、まさか、と思ったらF(好きなバンド)のもあった。縦書きで、P(メンバー)のインタビューが目玉記事で、あとは新メンバーをフューチャーした記事。Pが「ラッド」と呼ばれていて、「ラッド(P) それはわからんな(横柄な口調。かわいいかよ)」みたいな感じ。薄くて折れもあるのに1200円したので迷ったけど、ここでしか読めないインタビューだと思って買おうと決めて手に持った。ら、夢だったからファンZINEも写真もなにも残っていない。
屋根あれば 雨が防げて ちょう快適
新しいポケモンの化石ポケモンが話題になっていて、ずばりギリシャ神話のキマイラのことではなくて、普段からよく話題になる想像上の生き物で「複数の動物の特徴を掛け合わせているやつがいたなぁ」って思ったりしてたんですよ。
そいつ「ドラゴン」とか「龍」とかいう呼び名でよばれているんですけど。
個人的な分類なのでそれが常識ということは全然ないので構えずに聞いていただければ幸いなんですが、ドラゴンって呼ぶ時は西洋伝承の竜、「龍」って呼ぶ時は東洋伝承のリュウを意識しています。西洋伝承との比較の話題のときにはわざわざ東洋龍をドラゴンとかよんだりして自分からルールを破るので、本当にそこは私事ですよね。
ちょっと前にNHKの特集でドラゴン伝説に関する番組があったりしたんです。
テロップに「人類学者」「歴史学者」「宗教学者」って表示される人の他には、古生物学者さんとか比較生物学者さん、気象学者さんなんかもコメントしていたのが印象に残ってます。あと世間話でドラゴンって話題に出すときには、地理学を勉強している知人と話していることが個人的に多かったりもしますね。結構、色んな分野からドラゴン伝承というものを話題にすることができるってのは面白いなと思います。
古生物学的な知見から語るドラゴンとはずばり恐竜の化石の話でした。僕たちの世代ともなると人間何人ぶんくらいの恐竜の化石が見つかったとして、それは人類が成立する前の時代の、大昔の生き物の痕跡であって「こんな生き物がいまも生きて闊歩している」とは咄嗟にも思わない訳ですが、それは今日に至るまでの研究成果とそれを知識として普及できる教育の賜物であって、それがなかった時代の人たちはそうは思えなかったって話です。
番組ではルーマニアで有名な翼竜の化石が見つかっていると言及されていましたが、ルーマニアはドラキュラ伝承の元になったヴラド・ドラクル公の故郷ですよね。「ドラクル」という別名は彼の自称で「悪魔の子」って意味だとよく言われますが、本当は「竜の子」とかそういう自称だそうです。言語には明るくないのでもっと正確な意訳ができず恐縮でありますが、無知の身上なので「音が似てますもんね」とか言います。どうしてそれが「悪魔の子」だなんて受け取られ方をしたかと言えば後述したいと思いますが「ドラゴンは当時の人々にとっておそろしい敵役で、悪魔に連なるキャラクター」だったからです。竜の子なんて自称するのはその宗教的事情を考慮するならば自ら悪魔の敵役を名乗る型破りなことだった訳ですね。かなり話が脱線しましたが、竜の子ヴラドの伝説的な話が根付くルーマニアで、空を飛ぶ恐竜の化石が見つかっているという話がなんだか面白いなと僕は思う訳です。「無関係とは言えないだろう」とか僕なら思っちゃうし言いたいですし、当時の文献記録に化石の発掘らしき出来事の記述とかあるならそれは想像が捗るので素敵な話だと思います。
比較生物学的な見地からはいまも生きている生き物、特に蛇が槍玉に挙がっていました。ずばりって感じがします。番組では「何故ドラゴンは火を吐く?」という疑問に対して、蛇がちろちろと舌を出す様子に触れつつ、この蛇の習性が「誤った情報伝達の仕方をして」ドラゴンに火を吐かせるようにしたのではないかという話をしていたのでこれが面白かったですね。
まずドラゴンという想像上の生き物が成立する。次に「ドラゴンは想像上の生き物で、実物を人前に持ってきて伝えることができないから」人間は想像を絵に描いて伝えようとします。この間に、ドラゴンというのは実在しない生物なので、かわりに実在する他の生き物の特徴を取り込んでイラストとして出力されてしまう訳です。無いものを描くことはできないので、かわりに実際に有るものの特徴を代用して想像を膨らませていく。会話で比喩表現を使うようなもんですよね、「奴は蛇のようにずる賢い性格なんだ」とか「鳩が鉄砲で撃たれたような顔してるぜ」とか。
それで番組に出てきた絵なんですけど、たぶん火を吐いてなかったんですよ。イラストの横に難しいラテン語でびっしり説明文書かれていましたが、「これは火を吐いている絵ではなく、蛇のように舌をちろちろさせているドラゴンのイラストです」って言われたら僕はそれで納得してしまいます。そんな絵でした。
ところで遠い土地に住んでいる人に自分の描いた絵はこういうものだと事細かく説明できますか? 僕はそういうのが得意ではないので、しばしば伝言ゲームみたいになっちゃうんですよ。これが誰もが当たり前にまだラテン語を読めなかった時代で、聖書の記述すら読み書きの技術を持つ教会の神父様に読み聞かせていただかなればならなかった時代となると、もっと大変だったと思います。もちろん、そういう誤解が広がらない為にバチカンの偉い司祭様たちは色んな対策を立てたと思いますが、果たして「悪魔の姿形まで全員の意見を一致させようと手を回す余裕があったのか」はわかりません。イラストというのは文字や言葉より強烈です、写真の無かった時代ならそれは写真の代わりすらつとまったほどに。それでもやはり限界はありますよね。実際にあるものを観察して正確に描いたものなら兎も角、空想の風景を自分が見たことのある風景に喩えながら暗中模索で描きあげたらしいドラゴンのイラストですから尚更。もちろんそれを見せる相手が目の前にいたなら言葉にして説明できたでしょうが、その絵が本に載って遠い土地にいる人たちの手に渡った時、そして彼らが字を読み書きできないとかそもそも違う言葉を喋っている人たちだったりしたら、蛇の舌の絵が火を吐いているように受け取られたりしても即座に訂正したりできないのでそのまま広がってしまいますよね。
ここでちょっと本旨に触れていますが、空想上の生き物は実際にはいないのでそれが絵や銅像といった形にされる際、実在する動物の特徴をつぎはぎにして成立する時がある、というのが比較生物学的な知見で言いたかったことであるように思います。
恐竜の化石にしたって、伝説に語られるファブニールやヒドラそのものにしか見えない代物が発掘されている訳じゃありませんから。そもそも恐竜の化石から想定した想像図が最近すこしずつ変わっているらしくて、僕が映画で見たティラノサウルスはコモドドラゴンじみた堅そうなウロコに覆われた姿でしたが、いまは鳥のように羽毛が生えていたのではないかと言われているそうです。ここはもう少し言及すると、恐竜の末裔はいまも空を飛んでいる鳥、特に渡り鳥である、なんて話にも波及していきそうですが、僕はそのへん浅学なので触るだけで容赦していただきたく思います。
最後に歴史学、人類学、宗教学、あとすごく恐縮なんですが地理学から見たドラゴンの話をしたいな、と思います。ここがすごく自分が興味ある分野になるので話が長くなりそうなんですが、そのほとんどが他の人からの受け売りの知識・聞きかじりの知識であることを先に明言してから話したいと思います。この話を僕にしてくださった皆様に限りない御礼と尊敬を。
まず、先程までドラゴンが火を吐くのは、蛇の舌の特徴を取り込んで描いた想像図を見た別の人が、その絵の様子を「火を吐いている」と誤解して広がったからではないのか、と話題にしていました。さらにここを掘り下げて「何故火を吐いている姿に見えた(誤解した)んだろう?」という話をしようかと思います。
ドラクル公の話にも戻りますが、西洋ドラゴンは悪魔に連なる存在であり、人々にとっておそろしい敵役だったと言います。これは特に難しい理由がある訳ではなくて、人間より大きく、翼を持っていたり、人間の頭を咥え込める大きな口にずらりと牙が並んでいたり、ずばり「人間に噛みついて攻撃してくる蛇という生き物が人間よりでかかったら食べられそうで怖い」という恐怖心が、当時の宗教的道徳観で形成されている独特の恐怖心とつよく結びついた結果だと思います。恐竜は人間を食べそうだから怖い、ドラゴンは人間を食べるから怖い、悪魔は地獄にいて人間に悪いことをするから怖い、というのが全部同じ話になってしまった時、「ドラゴンは悪魔の手先である」という話になるんですね。そこにバチカンの神父様まで話を合わせはじめるともう誰も待ったをかける人間がいなくなる。恐怖とは使い方があるのです。「食べ物を粗末にすると目が潰れるからしてはいけない」なんて言い回しが日本にはありますが、本当にそうなのか?といえば絶対にそんなことないですよね。それが本当の話になってしまうと、目が見えない障がいと向き合って生きている人たちはみんな「食べ物を粗末にした」罰でそうなったという理屈が通じてしまうので大変失礼な話になります。ぶっちゃけこの言い回し、嘘か本当かで言えば嘘の話ですよね。でもいま食卓に並んでいる食べ物を、少なくないお金を支払い、少なくない労力を駆使して調理し、なんとか苦労して食卓に提供し続けている親からすれば、それを子供に台無しにされるのはひどくつらいことであるしその悪癖を矯正しないまま大人になっても子供のためにはならないからなんとかやめさせたいと思うのは当然なわけです。しかし、突然の家庭不景気に陥れば金銭交換ままならず明日にでもご飯が食べられなくなるという話を、お金の単位すら知らない無知の子供に納得してもらうまで言い聞かせるのは大変な交渉スキルと言語センスを必要とされます。これが「何故人が人を殺してはいけないのか?」「何故人が人から物を強奪してはいけないのか?」というレベルから説明しなければならないとなれば途方もない気分になってきますよね。なのでそれを説明する側は、悪いことをしてはならないという理由として「悪いことをすれば怖い目に遭う」と方便…つまり一種の嘘を用いるという苦肉の策を導入することにしました。これが日本で言えば「目が潰れる」とか「人攫いにあう」とかで、キリスト教が国教である場所では「悪いことをすれば悪魔のいる地獄に落ちるぞ」とか言われるようになる訳です。ドラゴンに食べられるのは誰だって嫌ですよね、僕はジュラシックパークでティラノサウルスに食べられるレベルから嫌ですしサメだって怖いですから、悪行に対する応報としての悪魔、地獄で罪人を責め苛む悪魔がドラゴンを操るなら当時の人たちにとって2倍の怖さになる訳で、時の宗教家たちはおそろしいドラゴンを悪魔に与えることでみんなが神の御言葉をもっと信じて慎ましく穏やかに生活する世界(=悪人が悪魔とドラゴンをおそれて悪行を思いとどまったり、間違えてからでもそれを悪いことだったと反省して償いをする世界)が形成されることを期待したわけです。なので実は違う種類の複数の恐怖が、宗教道徳という枠組みの中で融合するのは全然難しい話ではないってことですね。ドラゴンが英雄に退治される話が多いのも似たような理由です。人間の勇者が悪いドラゴンを退治して財宝と美しい伴侶を獲得して幸せに暮らす…というのは敵が強いぶん本当にそれを乗り越えられるならば素晴らしい成功であるように思える訳ですね。実際に、ドラゴン退治の伝説は宗教に組み込まれた結果、聖ジョージのドラゴン退治など、有名な宗教説話としてたくさんの人々に親しまれています。強いドラゴンが悪であったほうが都合がよかった時代や場所があったということです。
この長い前提があって、ドラゴンが火を吐く話が続きます。まず多くの宗教において死者の国・地獄とは地下世界に想定されます。そして程度の差はあれど、地獄とは炎の世界で、罪をおかして死んだ者はその炎に焼かれてずっと苦しむと説かれます。これはキリスト教も例外ではないというか、悪魔が住む地獄とはその典型例であるように思いますね。何故地獄が燃えているかと言えば、人間が火に焼かれる痛みを強烈に忌避する話の他に、古い時代の街並みが火災に弱いというのが挙げられます。日本でも江戸時代の平屋づくりなんか想像してくだされば分かりますが、木材を含む家屋が道の両脇にずらりと並んでいるのは火災に脆弱なんですよ。火災の真の恐ろしさとは「燃え移る」「燃え広がる」ことです。デマゴーグが人々の間であっという間に拡散して個人の名誉毀損の度合いがもう取り返しがつかなくなってしまう様子を「燎原の火」などと喩えますが、あれは草原に火を放つと一瞬で更地になるほどの規模の火災になることのようだと言っています。この草が家に置き換わったようなことが頻発しやすい都市計画というのが密集した家屋群にあたります。隣の家同士の距離が近ければ近いほど深刻だという認識で間違いないと言えます。対岸の火事なんて言い回しもあるんですが、実は一つの川を挟んだ対岸で火事が起こっているとしても、風向きと風速次第では火の粉が飛び火してきて火事になることも珍しくないらしいです。キリスト教の地獄の話をしているのでその圏内にある国の歴史を話題にするなら、ロンドンのテムズ川を挟んだ両岸の街々が飛び火が原因の大火事の被害に見舞われたことがあるそうです(これはNHKのドラゴン特集の受け売りです)。時代が昔に遡れば遡るほど消火技術というのが未熟なので、燃え盛る地獄のイメージが成立したほどの大昔となると一度家に火がつけば街一つ灰になるのも特に珍しくなくて、それが冬越し前ともなれば家の壁と屋根なしで厳しいヨーロッパの冬を耐えなければなりません。みじめなんてものではなくて、死にます。火事から助かったとしても家も財産も食べ物も燃えてしまっていて、最悪の場合助けてくれる隣人の家まで飛び火で火事になってて誰も助ける余裕なんかないとなれば、そういうのを「地獄のような風景だ」と言うのでしょう。これを避ける為に毎晩高台に見張りを立てるなどの習慣が根づいたそうです。ファンタジーでやぐらに立つ見張りといえば敵国の侵略者を瀬戸際で発見するだとか怪物が村や街に侵入しないようにする為だとかいうイメージで、もちろんそういう意味での見張りもありますが、一番怖かったのは火事だそうです。というか、敵国の兵士に火付けされることだってあります。火攻めとか言われる戦法で、この場合は侵略者と火事が同時にやってきます。侵略者は火で街の財産がすべて灰になる前に大急ぎで火事場泥棒をはたらくので容赦する時間的余裕はありませんし、火をつけられた街の住人だって火に焼かれるか人に殺されるかの極限状態ですから狂乱しています。ただの火事より、もっと大勢が死ぬでしょう。侵略者はまさに地獄からやってきた悪魔や化け物に見えたでしょうね。そうやって実際にあった大火災の惨事の記憶が、架空の風景である地獄のイメージを補強して、いまの地獄絵図というものがあるそうです。だから「悪魔の手先であるドラゴンが火を吐く(操る)のは当然だ。地獄からやってきたのだから」と言われれば、なんだかすごく話の筋が通っているように思いませんかね?
その上で更に別の解釈を交えます。地獄は地下世界にあると先述しましたが、地下にあると言えば何を想像するでしょうか。道具や芸術品の材料や貴重品そのものとして今でも生活の身近にある鉱石や宝石も地面の下から採掘される資源です。しばしばドラゴンは財宝と関連づけられることを思い出させられますね。化石も地下から現れることが多いです。ドラゴンが地獄に住まう悪魔のペットであることと、ドラゴンのイメージを形成するのにひと役買ったらしい恐竜の化石とがつよく関連づけられるような気がしますね。それで、マグマも地下には流れていますね? マグマによる火災被害、つまり火山の噴火というのはそれほど頻繁に起こる訳ではありません。少なくとも、毎日地球のどこでも火山が噴火しているともなれば人間の生存圏はもっと狭くて、地球は人間には住みづらい星だったでしょう。将来的にそうなるかもしれませんけどね。それはそれとして、噴火は頻繁に起こらないので毎日人間がマグマに殺されているというほどではないと思いますが、それ故に今でも予測して対策が立てづらく一度起こってしまえばおそろしい被害規模となる天災でもある。邦画にもなった漫画テルマエロマエの舞台くらい昔のローマにおいては、伝説的な火山の噴火によって当時の大国が大打撃を受けたらしい…そしてそれはただの伝説という訳ではなく、地質学や考古学的な研究からも実際に大災害が起こっているという史実的な話だそうです。ところでテルマエロマエという作品に触れましたが、これはお風呂をテーマにした漫画です。日本でも観光地各地が抱える温泉施設というのは間欠泉という自然現象を利用したお風呂であることは周知ですね。この間欠泉…温泉というのが、地下の水源がマグマによってあたためられて地表に噴き出す現象で、多くの温泉はそのまま人間が入浴するには適さないほど高熱だったりします、死ぬような大火傷を負うほど熱いこともあります(程度の差はあり、中には最適な Permalink | 記事への反応(1) | 14:56
今年の頭に一人で海外出張に行ったんだ。先方はとても親切で協力的でいい人達なのだけど、私はコミュ障だし、責任とかプレッシャーとかいろいろなものでガチガチに緊張して、とってもしんどかった。なんとか無事に仕事が済んで、成果もそれなりに上がって、次の仕事との間の週末を挟んでいたので1日だけ現地で休暇をとった。次の仕事もプレッシャーでいっぱいで緊張していたから、とりあえず休みが必要だったんだ。
どこかに行こうにも、仕事人間すぎて何をしたらいいかわからなかったから、街をうろうろ歩き回って、目に入った現代美術館に行ったんだ。現代美術なんて、これっぽっちも興味なくて、いつもなら素通りするのに。まだ寒い時期だったから、とりあえず建物に入りたかったのもある。
展示は風刺画とか意味がわかるものもあって面白かったけど、意味のわからないものもたくさんあった。意味がわからなかったのにすごく印象に残っている展示があった。部屋に入ると紙飛行機の形に加工された古びた大きな鉄板が置いてあった。そのすぐ前の壁にプロジェクタで映像が写されていた。映像では、どこかヨーロッパの田舎の村の空撮が写っていて、一軒の古い家にカメラが寄っていくと、二人の男性が梯子でその屋根に登ってくる様子が見えた。その二人は、そのまま工具を使って屋根から鉄板を2枚切り出して、紙飛行機の形に折り曲げ、終わるとそのまま去っていった。屋根には大きな穴と、2つの鉄板の紙飛行機だけが残っていた。
なんだか分からないけど、映像を見ながらドキドキした。見つかっちゃいけない、でも楽しいいたずらを仕掛けているみたいだった。なんかね、映像のなかで紙飛行機がちゃんと完成して、男性二人が屋根から無事に逃げおおせたのを見たとき、ふっといろんなプレッシャーから自由になれたような気がしたんだ。
3年前「こどおじ」という言葉はなかったと思うので正確ではないのだが、「こどおじ」になって凡そ3年が経過した。
「こどおじ」にも色々な定義があるが、私の場合は実家の子供部屋に住んでいるおじさん、でよい。母は他界しているので父と二人暮らしをしている。
こどおじになってから様々な変化があったが、特に私にとって大きいのは以下の2点である。
こどおじになったばかりの頃に血液検査を受けたのだが、脂肪肝だし尿酸値の値は9を超えているしで諸々危険域にあった。それでいて「尿酸値…たったの5か…ゴミめ」だの、「わたしの尿酸値は9.0です」だのとくだらないことを言いながらビールを毎日のように呷る舐めきった生活を続けていた。にもかかわらず今年の血液検査ではあらゆる数字が改善され、脂肪肝も解消(隠れているかもしれないけど)、尿酸値は7.2にまで下がった。
これは、出勤の際毎日40分は歩くようになったこと、そして一人暮らしのときの乱れきった食生活が改善されたお陰であろう。一人暮らしのときはたまったストレスをひたすら暴飲暴食で晴らしていたのだが、実家だと父という話し相手がいるのでそこまで溜め込まずに済んでいるおかげもある。また、自炊で一人分を作るのはなかなか難しく、つい食べ過ぎてしまうが、二人暮らしだと丁度良い量になる。
2貯金が増えた
バカ高い家賃を払わなくて済むようになったし、暴飲暴食しなくなったので食費も減った。おかげで職を失っても数年は生きていけるぐらいの貯金がたまっている。生活に余裕ができたお陰で精神的にも余裕が生まれ、仕事と関係のない勉強ができるようにもなった。
ここまでは私自身の都合に過ぎず、そんなこどおじと一つ屋根の下に暮らさねばならない父親がかわいそうだという人もいるかもしれないが、父にとっても良いことがある。
私の父は食事には無頓着な人で、放っておくと様々な栄養が偏る性質の人だ。あるときは全く鉄分が足りず貧血で入院したし、水が好きではないとかで、数日水分を一切取らずに脱水症状で入院したこともある。それが私と暮らすようになってからは一応健康体でいるようだ。
結局生活能力に欠ける人間は「自立」なんぞしないほうが良い。一人暮らしをしている友人が糖尿病を宣告されたが、私もこどおじにならなかったらそうなっていただろうとぞっとしている。
父は私が小学生の頃単身赴任先で倒れた。以後ずっと寝たきり生活。頭もはっきりしない。
状態が安定して転院した父と一緒に、なぜか父の不倫相手も私の実家付近に引っ越してきた。父の面倒をみたいらしい。
「お父さんの彼女だよ」と紹介されたその女は幸が薄そうで、地味で、派手で勝ち気な母とは正反対だった。
女は甲斐甲斐しく父の面倒をみた。父が正月に入院先からの一時帰宅が許された時には、父の実家まで来てご飯を食べさせオムツ替えをした。
正月に不倫相手の実家で、不倫相手の親戚と食事を取って、同じ屋根の下寝泊まりするなんて、なんて図々しい女なんだろうと思った。
祖父母も母も、その女が細かい面倒をあれこれみてくれることが助かっていた側面もあったのか(少なくとも子供の前では)非難するような事は口にしなかった。
でも私はその女の事が大嫌いだった。
ずっと大好きだった父の事も、私を抱きしめていたその手であの女を抱いていたかと思うと憎くて吐きそうになった。
その女の事を、いつか大勢の人の前で、恥知らずのクソアマめと罵ってぶん殴ってやりたいとずっとずっと思ってた。
その女が死んだらしい。
病気が見つかった頃にはもう末期で、あっという間だったらしい。
まじか。
清々しいような、ざまあみろと言ってやりたいような、でもちょっと悔しいというか、やり残した感があるというか。
墓にしっこでもかけたろうかな。
「カレー強要知らない」教員間暴力、1人が「処分不当」:朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASMC946YSMC9PIHB006.html
「懲戒処分前に給与の支給を止めた市教育委員会の処分は拙速で不当」と訴える加害者側の主張として、
「背中をひじで押す、肩をたたく、「アホ」「ボケ」と暴言を吐くなどの行為をしたと認め」つつも、
「激辛カレーを食べさせたり、被害教員の車の屋根に土足で上がったりした行為には関わらず、知りもしなかったとし、加害側4教諭の行為の悪質性には差があると主張した」と。
加害者であっても罰則に対する意見を主張することはいいけど、加害行為の内容ではなく子供たちを教え導く学校の教員でありながら同僚の教員をいじめて信用を失墜させた行為に対する懲戒、って受け取り方はナイのかな?
元記事はなんか終末論みたいなやつで終わるし正直微妙なんだけど上位コメントが詭弁のカタログみたいだったので、詭弁のガイドラインを使用して反論を書いてみた
参考:詭弁のガイドライン http://d.hatena.ne.jp/keyword/%EB%CC%CA%DB%A4%CE%A5%AC%A5%A4%A5%C9%A5%E9%A5%A4%A5%F3
ホームレスなら避難所に受け入れを断っていいのか? という話なのに「ホームレスが入店を断られても命の危険はない」という点で異なるコンビニの話を始めている。
そのあとも、「受け入れるかどうか」の話ではなく受け入れた後に他の避難者が我慢できるかどうかの話をしている。
受け入れて他の避難者が我慢できなかったら、他の個室に移動してもらうなり、次善策を考えればよいのであり、何なら皆で話し合って仕方がないとなったら追い出せばいいではないだろうか。
そもそも臭いのが我慢できないから受け入れないという人が大多数なのであれば、受け入れたけど臭いから追い出しました、というのも問題ないはずであろう。
うん。そうですね。
うん。そうですね。
8.知能障害を起こす
だと思います。落ち着いてください。
うん。そうですね。
5.資料を示さず持論が支持されていると思わせる
これは5,6の合わせ技であろう。
混雑した車両内と外に出たら命の危険がある避難所が関係ありそうで関係のないのは言わずもがなですが、「みんな」の使い方がなかなか巧妙だと思う。
「それが現実です」のあたりは
4.主観で決め付ける
であるとも言えるかもしれない。現実と言っているが客観的な証拠は示されない。
これは皮肉なんだろうけど、とりあえず受け入れてその後次善策を考えるべきというのは自分の考えに近い。
そうですね。
でもまあ災害時のなどの緊急事態っていうのは、一緒に居たくない人と同じ屋根の下で過ごさないといけない、というような問題はたとえホームレスを排除したとしても絶対に発生するのです。
翻って「台風の夜にホームレスは見殺しにしろ」というような不寛容な人とできれば俺は一緒に居たくないんですが、同じ日本で過ごさなければいけないという問題はいかんともしがたいですね。
なので「仕事とどちらが楽か」なんて比べられるものではない、と。
「屋根と寝床があって三食出て単純作業すれば良いだけなんて楽!」と感じてわざと犯罪犯して何度も刑務所に入って来る人もいる
って意味でも良い例えだと思う。
予想1、札幌近郊から集める(マラソンだけならなんとかなるかな?)
予想2、東京五輪用のボランティアを札幌に派遣(交通費+宿泊費出してくれなさそう)
予想3、札幌のマラソン大会の関係者に頼んでマラソンだけは丸投げする(無償でやってくれないだろ)
予想4、小池都知事がIOCに「そんなに札幌でやりたいならお前らが全部やれ!」とキレて、IOCが「出来ないしやっぱ東京でやる!」となって東京マラソンEND
予想1はあのめんどい基準満たして札幌の街ウロついたり選手の面倒みたりマラソン手伝うのを無償でやってくれる人が今から札幌近郊で集まるかって懸念がある
予想2はやりそうで怖い
予想3はお金払えばマラソンはやってくれそうだけど、ボランティアがやらされそうなやつはやってくれなそうだからどうすんだろ…というかお金払えるのかな?オリンピック憲章?だかなんかでなるべくボランティアで!みたいなのあるし、そもそも払うお金ある?
予想4はさっきニュースで「マラソン以外も札幌でしたいなー」って見て、小池さんどころかチケット買った人もキレそう…そもそも8月にやんなきゃいいじゃんとか、屋根作れとかいろいろ言われてたじゃん。
おっそ
そもそもライトノベルというジャンル自体がそれまで複数のジャンルへまたがるものだった
例えばこのあたりの話題で出されるのはタカシトシコ先生の1996年に発行された「魔法使いが落ちてきた夏」が良い例とされる
この作品は児童文学ジャンルで発行されているんだけど、あらすじは以下の通り
ままさんが買ってきてくれたポストカードには黒いローブを着た白い肌、すきとおった黒い瞳をもつ中性的な魔法使いが描かれていた。その魔法使いに主人公カナは一目で惚れた。
その夜、カナは夢を見る―今にも石版に飲み込まれそうな魔法使いを助ける夢・・・
両親は出かけてしまい、一人でお留守番中のカナの耳に聴こえてきた破壊音。リビングを確かめてみるとそこには小さくなった夢の魔法使いが屋根を壊し落ちてきたところだった!!どうやら敵に追われているらしい。
「大魔術士(グランメイジ)」という表現とか、あらすじには出てこないけど登場人物の名前として「阿修羅」が出てきたりとか、今で言うライトノベルをやってる