はてなキーワード: フジとは
何かメーターは苦労してるけど、そういうのを知らない視聴者は何て野暮なんだろって
SHIROBAKOのPAWORKSがグラスリに続いてこういうクソみたいな内輪ネタを持って来て
それ分かるのはせいぜいブレインズベースとかA-1Picturesの連中だけだって
めちゃイケってバラエティー番組でフジ局内の内輪ネタやり出してから何の番組だよ、興醒めだよって視聴者が
思いっ切り離れて行った結果、毎年末には打ち切り最有力候補の常連にまでなった事を忘れたのかよって言いたくなる。
アニメで総集編やるんが嫌ならもっと制作進行とか弱い立場の人間よりも上の監督とか監督とか監督とかの暴走を止めろよって思う。
それ以前にそういう内輪のややこしい問題を視聴者に分からせるなと言いたいし、後それをネタに笑いにしようとするのだってホント馬鹿馬鹿しい。
総集編が嫌なら素直にごめんなさいして今後二度とこのような事は行わないって誓って、クオリティー上げる努力していけよな。
総集編ネタが嫌というよりもそういうその場限りのノリをアニメ作品の責任にして視聴者の責任にしてやり抜こうって気概が嫌いなんだよな。
ちょっと「柏崎美紀」という名前でググってみてもらいたい。おそらく、その姓でこの名前をつける親は今後いなくなると思う。それはリテラシーの問題としては、まあいいだろう(ちなみに百度でその問題は起きなかった)。
問題は今だ。「柏崎」姓で「美紀」さんという名前は、それほど奇異な組み合わせではなく、ひとりやふたりではないと思う。であるにもかかわらず、就職などに際して雇用者が求職者の名前を検索するというようなこの時代に、この会社と編集者は何を考えているのだろうか、それとも何も考えていないのか、瑣末な問題と気にも止めなかったのか、あるいはワニマガジン社にそういう名前の人がいて、一種の自爆芸のつもりだったのだろうか。
そりゃ、ヒロインの名前が「阿散井美紀」とか「日番谷美紀」とか、あるいは「柏崎鬱魅(うつみ)」とか「柏崎鏖虚(じんこ)」だったら、あまり気分は乗らないだろうとは思う。名前はキャラクターにとっては重要な要素である。リアリティのためにも「"実在しそうな名前"を持つ架空のキャラクター」の創造のために腐心する。「フジキド・ケンジ」はいいとして「ヤモト・コキ」はどう考えてもおかしいだろあれはそういう芸風だけど。その結果として、ハーレムラノベの主人公が自分と同じ名前でラッキー?な人がいたり、現実で嫌っている人と同じ姓の恋愛ゲームのヒロインが見た目は好みとかだったりとかいう悲劇が発生するわけだ(某軽音部4コマの主人公たちの名字は実在のミュージシャンに由来してるそうだが、個人的にはちょっと…)。そういうことは何かしら起こりうる。「骨川スネ夫」はなかなかのセンスだと思うが、すべての創作がそういう発想になるとあまりにも。
話を戻そう。そのキャラがその名前というのは、そう、ある意味では仕方ない。別の名前だったとして、また別の人とかぶるだけだ。"書名"にしたのがなによりまずかった("書名:『◯◯◯』、初出は『COMIC失楽天』掲載の漫画「柏崎美紀の…」"なら、まだこれほどのことにはならなかったように思う。せめて雑誌掲載時で止めておけば――だからもはや"手遅れ"なのだが……)。公にその書名で刊行すれば、こうなる、ということは予測してしかるべきだろうに、いったいなにを優先したのだろう? 未必の故意による検索汚染とでも言おうか、こういうことにも配慮できないと、かえって規制の圧力が強くなっていずれ「○野A美」みたいな名前しか使えなくなるんじゃないかな、という気がする。
もちろん、どこかの雇用者がその検索結果を見て、自分の会社の求職者がそういう性癖の持ち主である、などと誤解するような可能性はないと思う。では「現実と漫画の違いがわからないはずはない、実害はないだろう」って? どうだろう。からかいのネタにはなりそうだし、そもそもある女性が自分の名前をエゴサーチしたら「自分の名前が性的倒錯行為を行っている内容であろうことを容易に予測させる男性向け成年向けコミックの書名(=男性的な欲望の一種の表現)として検索結果にずらっと並ぶ」というのは、その女性の平穏な人生を送る権利の侵害のように思える。ひとたび刊行された以上、改題でもしたとて旧版の存在は残る。検索ポータルに申し立て、主だったところで排除してもらうしかないのだろうか。不確実だし、それにその申し立て、その労を本人が負担しなければいけないのか?(そういえば同姓同名の問題は「忘れられる権利」でも悶着があるなあ)
おそらく今回にかぎらず、そういうタイトルは今までもあったのだろう。しかしその時代にGoogleやTwitterの情報拡散力はどうだったか。「現代」の社会というものに適応した、相応のタイトルというものを考えるべきだった。今後もしばらくそのスタンスでいく必要があるだろう。表現の自由と個人の権利は、本来どちらかがどちらかに優越しているというようなものではなく、等しく認められるべきものだが、その利害が衝突した場合に、やむをえずいずれかを優先しなければならなくなるということはありうる。個人的には、今回のような"衝突"で「どちらをより配慮すべきか」と問われることがあれば、答えはひとつしかない。
これとか。
http://b.hatena.ne.jp/entry/hagex.hatenadiary.jp/entry/2014/08/15/170700
反韓・反中まとめサイトが裁判を起こされ涙目で削除中 - Hagex-day info
アクセス数の多い有名所のまとめサイトが、どこも反中、反韓、反朝日、反フジ、になってるから焦ってるんだろうね。
どんどん見る人が増えてるしな。
時の総理が、不法入国の朝鮮人を全部国に返そうとしたことがあるけど、それと同じようなことが起きないかなあ。
すまん、似たようなサイトあと3つくらいは確認してたんだけど、忘れちまった。はてなの人気の記事見てれば、ちょくちょく出てくるから、みんなも気をつけてみてー。
いま、大学一年生。早稲田大学の基幹理工学部に所属してる。サークルは、4月の新歓でなんとなく雰囲気が合ってた映画サークルに入ってて、週1の集まりにたまーに参加するくらい。特に楽しいイベントも発生してない。高校のときに想像してた大学のサークルって、毎日毎日「うぇーい!!」って感じで飲みまくって、サークル内で彼女作ったり、週末は海行ったりフジキュー行ったりとかだった。実際は、授業とバイトっていう定期イベントがあって、それをこなしつつ友達と遊んだり、家で映画観たりする生活。まあそういう普通っぽい生活が楽しいんだけどね。
サークル大好きな大学生とかバイト戦士と比べたら、時間はあるほうだと思う。それと受験勉強の反動か、受験や成績と関係ない勉強とかが妙に楽しいって思うようになった前期だった。で、5月くらいだったんだけど、図書館で読んでた「物理数学の直観的方法」っていう本が面白くって夕方くらいから、ずっと読んでたんだ。数式も結構出てくるので、紙とペンを机に広げて、実際に手を動かしながら読んでた。勉強好きな人なら分かると思うけど、なんだか脳みその調子がいいときってあると思うんだ。本に書いてあることがスッと頭に入って、勉強以外の余計なことは一切排除されて、お腹すいたとか帰りの時間とか全然気にならなくなるような状態。この間もそんな感じの「ベンキョウハイ」な状態だったんだけど、大学の図書館って、21:00で閉まっちゃうんだ。本当は、最後のページまでぶっ通しで読みたかったんだけどね。渋々、本借りてキャンパスの中庭にある階段で読んでた。膝にノート広げて。
めちゃめちゃ集中してるときに「図書館は21:00までです。」とかって言われて、教室も遅い時間は鍵がかかってて入れないのは辛い。心の中では「うおおお、明日までに読み切ってやるぜぇ」とか思ってて、集中力保ったまましばらく読んでいたら、警備員が近づいてきた。「遅くまで勉強かい?関心関心。」とか言われるかなとか思ったんだけど、全く逆のことを言われたんだ。「ここは勉強するところじゃないよ。」って。そのとき知ったけど22:30以降は大学を閉めるので、学生も教授も大学を出なくちゃいけない。もうこっちは朝まで読み切るつもりだったので、ちょっとイラっときて、「ここ大学ですよ!?」と言ったけど、警備の人にいうのも筋違いだなって思って、大学の近くにあるジョナサンで勉強続けた。
ってことが5月のことだ。
で、最近、試験期間も終わって夏休みに入ったんだけど、最後の試験のあとに学部の中で、ちょっとえらい教授が、夏休みの過ごし方みたいのをダラダラとしゃべるんだよ。なにを話してたかもあんまり覚えてないんだけど、最後の締めの言葉で、「...夏休みを楽しむのもいいですが、みなさんは大学に勉強するために入りました...」って。それを聞いて、5月のこと思い出してまたイラっときた。
理系でも学部生は研究室に所属してる学生はほとんどいない。早稲田の理系学生は、学校で勉強するなら、空いている教室か図書館に行くしかない。でもさ、図書館も教室も21:00に閉まっちゃうんだよ。つまり、早稲田では21:00以降は「大学で勉強する場所はない」って言ってるんだ。(研究室に所属していれば、徹夜できるけど、これは研究室を1部屋1部屋、警備員がチェックしないってだけなので、表向きには22:30以降は帰るっていうのがルール)21:00って小学校低学年かよ。学校は21:00以降は図書館も教室も閉めて、帰りなさいっていう。それでも帰らない学生は22:30に警備員に注意させる。大学入った頃は、高田馬場(大学の最寄り駅)のロータリーで酔いつぶれてる学生をみて「大学生にもなってなにやってんだか」とか思ったけど、大学が夜は勉強するなっていってるから仕方ないな。高田馬場は、居酒屋もカラオケも朝5:00までやってるからね。
初期のギャルゲーを見た時の衝撃みたいな?
ときめもが出たとき、なんとなーくオタクの暗い性癖を感じつつも、アニメの女の子にいいなーと思ってた俺はチラチラ横目でみたもの。
そして嵌っていったもの。
乙女ゲーが出たときはかなり鼻で笑うレベルで、フジョシの気持ち悪い姿想像して哀れに思ってたけど。
25歳だけどクッソおもしろいはこれw
元ネタ http://anond.hatelabo.jp/20080721222220
まあ、どのくらいの数の Syrup16g オタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、その上で全く知らない Syrup16g の世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、Syrup16g のことを紹介するために覚えるべき10の曲を選んでみたいのだけれど。(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女に Syrup16g を布教するのではなく相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、オタ度の高い未発表曲などは避けたい。できれば CD 収録曲、かつ Syrup16g 名義の楽曲にとどめたい。生還ライブで「赤いカラス」は演奏したと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。そういう感じ。
彼女の設定は
邦ロック知識はいわゆるメインストリーム的なものを除けば、ART-SCHOOL などのバンド名程度は知ってる
メンヘラ度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「Reborn 以前」を濃縮しきっていて、「Reborn 以後」を決定づけたという点では外せないんだよなあ。生還一曲目だし。
ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
この情報過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず桜井和寿にならず、それでいて必要最小限の情報を彼女に伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうな Syrup16g(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「Syrup16g オタとしてはこの二曲は“ロック”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種の鬱ロックバンドオタが持ってる青春への憧憬と、Syrup16g オタ的な行き当たりばったり感を彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも Syrup16g な
の二点をはじめとして、オタ好きのする要素を世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを聴いた彼女は「フジくんだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜の作品がその後続いていないこと、これがフジくんきっかけのファン内では大人気になったこと、キレイになって透き通って、それが日本に輸入されてもおかしくはなさそうなのに、日本国内でこういうのがつくられないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱり Syrup16g はメンヘラのためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「手首」でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかける五十嵐の思いが好きだから。
断腸の思いで削りに削ってそれでも6分44秒、っていう尺が、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、その前半の雑音部分を「捨てる」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。
正常の長さを俺自身は冗長とは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、一方でこれがベストアルバムやライブだったらきっちり5分にしてしまうだろうとも思う。
なのに、各所に頭下げて迷惑かけて6分44秒を作ってしまう、というあたり、どうしても「自分の物語を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえ五十嵐がそういうキャラでなかったとしても、親近感を禁じ得ない。武道館ライブでのキタダマキの弾き狂う姿も合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今の若年層で Free Throw 現物見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
Copy よりも前の段階で、五十嵐の曲作りとか言葉選びとかはこの作品で頂点に達していたとも言えて、こういうクオリティの作品がミニアルバムでこの時代に収録されていたんだよ、というのは、別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなく Syrup16g 好きとしては不思議に誇らしいし、いわゆる「動脈」「静脈」でしか Syrup16g を知らない彼女には聴かせてあげたいなと思う。
五十嵐の「シャッフル」あるいは「軽快さ」をオタとして教えたい、というお節介焼きから聴かせる、ということではなくて。
「終わらない開き直り人生を生きる」的な感覚がオタには共通してあるのかなということを感じていて、だからこそ武道館ライブ最終曲は昇華Tシャツ以外ではあり得なかったとも思う。
「生きづらい日常を生きる」というオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」の源は実弾にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういう寝不足感のあるアンニュイなロックをこういうかたちでギターも持たずに演奏して、それが非オタに受け入れられるか、気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9個まではあっさり決まったんだけど10個目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的に翌日を選んだ。
Reborn から始まって翌日で終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、生還ライブの締めとなった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10個目はこんなのどうよ、というのがあったら教えてください。
録画した動画を整理している時
先週だか録画したフジのワイドナショウが録画されていたので暇つぶしに見ていた時の話
この日のテーマの一つにゲストの茂木健一郎が偏差値や学力による大学入試はおかしいと吠えていたのだが
スタジオにメインで座っていた6人のうち3人は
本人が有名私立大学の付属幼稚園からエスカレーターでフジに入社し受験未経験の女子アナと
子供をインターナショナルスクールへいれたり入れようと準備していると報道されてた芸能人だった
年端もいかない子供の頃からおもいっきり学歴対策バリバリされたり自分の子供にしてた連中に
学校名や偏差値による順位付けはおかしいなど言われるのはなんとも釈然としない気分になった。
史上最低だったというドラマ、「夫の彼女」それなりにおもしろかった。
ストーリーはめちゃくちゃだけど、コメディだと思うと楽しかったし、川口春奈かわいかったし、チャーミングなドラマだった。
けっこう気に入っていたのに、打ち切りって残念だった。
オカルトとの距離のとりかた、茶化し方が抜群に良くて、ホラーバラエティっていうのが最高によかった。
スピードワゴンもおもしろかったし、バーチ・アータリ先生もいい味を出していた。
フジガールズは、別にどっちでもいいけど、黒沢美鈴と、宇宙人なんですって言ってるフジガールズじゃない子が気になった。
景気良くて痛快で、超面白いのに、なんでなんだろう。
まあ、とにかくおもしろいのさ。
今日ネットでNHKでマイルドヤンキーを扱っていたとニュースを読んでいくつかマイルドヤンキーについて思ったことを書きたくなった。
まずはじめに視聴率が欲しければマイルドヤンキーを狙えということ
ヒルナンデスが番組が始まった頃の大方の予想を裏切って視聴率が良いという話を聞いた。
なのでヒルナンデスをちゃんと見てみることにした。
この時、最も思ったのは日テレの製作陣はなかなかおもしろいところに目をつけたなあと言うこと
もっと簡単にいえば最近話題になっているマイルドヤンキーという層が必要とするような情報
具体的にはしまむらやユニクロ・アウトレットモールで芸能人がコーディネート対決をしたり
車で行けるような郊外型のレジャーを中心に扱うといった感じの日常の延長線上に有るよな内容をメインとして扱っている気がした
何がいいたいかといえばいわゆるマイルドヤンキーと言われる層が好みそうな内容という事
確かに地方のマイルドヤンキーからすればその性質上からも東京や芸能界など全く興味が無いわけで
そう言った人たちからすれば東京の情報や芸能界の内輪ネタなど全く見る気がしないのは分からないでもない
その辺りの視聴者の需要を上手く汲み取って番組を作っているヒルナンデスにはなかなか優秀だと思った。
そしてそういった目線からTVを見てみると、面白いことに近年比較的数字の稼げると言われている番組
具体的には全国チェーンの飲食店とタイアップしたような番組だったり日頃目にする食品の工場を取材したような番組
いかにもマイルドヤンキー層の日常の延長線上だったり好みそうな内容である事に気がついた。
この目線で見ると少し前の事になるのだが
あの低視聴率であえぐフジテレビで一時期ヘキサゴンがものすごく視聴率が良かったのも番組を作っている島田紳助が元ヤンキーでそう言った層と好みが重なったからなんじゃないかと思う
具体的には仲間・絆・何かをみんなでつくり上げる番組構成が正にマイルドヤンキーが好みそうなヨサコイソーランを彷彿とさせる
話しが飛んだので元に戻すと
そう考えるとこの手の内容はテレ朝・テレ東が得意とするジャンルで近年視聴率が良いと言うのもうなずけるしその逆でこの手の番組づくりが下手なフジなどは視聴率が低下するというのも納得がいく
ではフジの何がいけないのか?
フジというのはバブル期に持て囃された東京至上主義・世の中は業界人(言い換えると高学歴エリート)に皆憧れそれを目指しているという前提に立った内輪ネタなど明らかにマイルドヤンキー層から嫌われる要素しか無いからだと思う
つまりこの違いがテレ朝・テレ東とフジテレビとの視聴率の明暗を分けているのだと思う
つまりこれからの低視聴率時代である程度数字を稼ぎたいと思ったら
これらの層が好みそうな番組作りをすれば数字が稼ぎやすいということが言えるのだと思う。
その理由はインターネットの発達と労働時間の長時間化に伴い最後にTVを見る層として残ったのがマイルドヤンキーと言われる層だからではないかと思う
従来のTVを見ていた視聴者層のうちマイルドヤンキーではない層
例えばネットに親和性の高い層(簡単に言えばオタク)はネットへ移っていったし
都市部のホワイトカラーは地方のブルーカラーに比べて労働時間が守られにくく残業時間や通勤時間でTVを見る隙がない
更に言えば昼間家でTVを見れる層と言うのも結婚して子供がいるような家庭の主婦層がほとんどだと思う
そしてそう言った層の多くはこのマイルドヤンキー家庭に属する
おもしろかったんだがなぁ。
中止の理由の主なとしては、
上が高視聴率に調子のって頼って管理できないほど手を広げた結果、
バカッターがうpって炎上して、親会社の株までが下がるみたいなもんか。
そもそもなんでバラエティって、年中ずっと放送し続けるのが当たり前になってるんだ?
適度に入れ替えれば当たり外れはあれ年間通してできるだろうけど、
年間定期的+改変期特番で維持し続けようとした結果、
ライン数ばっか増えて管理が甘くなるのなんて目に見えてるだろうに。
夏の冒険王とかで客入れて、
持ち時間制の五回勝負で、倒せばもちろん終了。
フィナーレに関する目に留まったいくつかの……多くの記事と多くの部分におよそ三十年分の記憶との齟齬があり、明石家さんを軸に百字で収まらぬあれこれを書き留めておこうと。
文字起こしではなくライブで関西ローカルラジオを全国の明石家さんファンが聴けば、おそらくその数は激減すると思う。伊集院のラジオを聴きスタッフの馬鹿笑いにたちまち拒否反応を起こす関西人よりも多かろうと。
「笑っていいとも!」へのたけし乱入はたいした事件ではなかった。登場でいきなり出演者の首を締め上げるのは当時からのお約束。たけしが人選を間違えて変になった。「お笑い論を偉そうにぶっていた康夫にカチンときた」といった経緯もない。そもそも初期のいいともはアングラ芸人タモリを始めとする監督や芸術家、作家、アナウンサーら文化人が時事風俗を斬る、社会風刺を主とする番組であったのだ(田中裕子回必見の安産祈願を巡る宗教団体の抗議等々により、観覧客だけでなく視聴者にもタモリは恐怖感を抱いてしまい、ゆるいお笑い路線となった。最終週の後説で安産祈願ネタをタモリがややムキになって話していたのが感慨深い)。ほぼ初対面で髪をぐしゃぐしゃにされた康夫がむくれたのはたけしのミス。後のインタビューで「あそこで俺の首を締めかえしたら成立したのに、これだから作家はダメ」とたけしが語っていたが、芸人矜持を偉そうに語るなら当時毒づいていたタモリに(大橋巨泉なぞに認められる奴はそろって贋物だとか)いけよと思った。たけしオタクを自負する太田ならこのインタビューも当然読んでいたはずだが、フィナーレでは反撃を恐れて放りっぱなしで逃走、康夫は仕方なく傍の田中裕二に組み付いたが本気で抵抗され、諦めて壇上を降りる康夫の背中に裕二は蹴りをかます(当たってはいないが)。「あいつは、テレビの前の皆様に向けてじゃないんですよ。あれは俺に向けてやりよったんですよ」は明石屋さんの自意識過剰だと思われ。あと、いいとも降板は選手権で笑いを取ったことを責められせいではなく、制限時間オーバーで失格と裁定されたのが気に入らなかったため。
鶴瓶のヤンタンも聴いたが、同じく最初に読み上げられたリスナーのハガキが「師匠の引き際に感嘆した、素晴らしい」だったのが象徴的。共演NGが本人よりも外野、スタッフの死活問題に帰するという見解は正しいのではと考える。さんまの毒舌というより真正面からの他者批判を聞いていれば、共演を避けるよう周囲が動くのも仕方ないなと。さんまはNGが多いタレントという印象。徳光とのNGは徳光側の意向もあるのだろうが、「次番組に呼んだら俺は降板する」とからくりTVのスタッフに伝えた野村克也のケースは異例だろう。ひょうきん族にとんねるずが出演した際、石橋に今後の相談を受けたさんまは、お前らなぞ眼中にないとばかり、そのままでええんちゃうと軽くいなしてやったと得意げにラジオで語っていた(のりおは石橋はともかく木梨なんて竜介レベル、すぐに消えると言っていた)。石橋が関西芸人敵視になったのも仕方ない。夕ニャンが終了した際は「フジテレビとしてはとんねるずよりおニャン子が惜しい、大事」と素人の私も首を傾げる業界事情を報告していた。松本に関してはさんまのまんま登場時の松本へのスカシや、最近も「すべらない話」なんて掲げる自体がお笑い失格、恥ずかしいと語っていたが、吉本芸人同士、両者に重なるスタッフもいてあからさまな共演NGとはならなかったのだろう。後輩の松本が配慮していたというのもある(まんま出演後は自らの失敗と反省していたし、「まだまだ売れるわー」の連呼もそう)。浜田に関しては先輩である寛平の頭を叩く行為に怒っているという噂も聞いたが、フィナーレでミニコントしたり、太田への浜田の苛立ちを腕を抑えて笑いにしたりと決して険悪な関係ではないのだろう。
太田は談志の後継者らしく政治的に動く人という印象(談志と揉めた後、業界の偉いさんらに悪口言い触らされたとたかじんがぼやいていた)。タモリ、さんま、石橋があの芸風を好んで許容しているのかはなはだ疑問。ファンには「プロレスをせず、真剣で戦っている唯一の芸人」なのだろうが、もしも浜田のツッコミを振り切り、例の客席、視聴者へのつまらぬアピールをやったら、浜田は加減なしでケツを蹴り上げる。今田も東野も宮迫もその覚悟を持ち共演しているが、怪我でもしたら社長が吉本に大人の申し入れをしそうでなんとも。土下座事件は噂の真相で事実のように書かれていたがこちらもはなはだ疑わしい話。たけし後継に勝手に名乗りを上げるなとプロレス好きの弟子の水道橋が乗っかっただけのように思われる。太田が著書で松本批判をしたのは確かなので、ライバルとしてではなく、何が面白いのかわからぬ後輩の売れっ子がこっちにからんでくるなと、俺らウンナンとは違うからなという程度だろうと(太田は「笑いの殿堂」でメインのウンナンの悪口陰口を石塚英彦と一緒にくっちゃべっていた)。
たけしに「男気」を感じたことは一度もない。その類のエピソードが語られるたびに、正月のフジヒットパレードでの松村との初顔合わせのVTR、どこかに残ってないかと思う。最終回いいともの辞もありきたりのベタ。「似非インテリの集団」に担がれたが自虐ネタになってないのは辛かった(山下や赤塚、浅井慎平や高平哲郎に比べ高田文夫やテリー、高信太郎はいかにも山師っぽい。筒井康隆はタモリを小説に登場させたほどだが、たけしについては俺の毒舌の二番煎じ、ぐらいに考えていた節がある)。
ナイナイも当初は太田批判をANNなどで話していた。とんねるず世代で、舞台や漫才ではなく、あくまでもテレビに出たい人。芸人にダメだしするなと中居批判、下駄を履いたジャニーズ批判もやっていて、めちゃイケ共演までははっきりと敵視していた。いいともへのレギュラーが決まった際は「見つかってもうた」と嘆き(有吉のバカに見つかっちゃったの先行事例)、その「タモリ愛」もジャングルTVから始まったものだといえる。ちなみに東野のツボ芸人は「さんまのスポーツするぞ」で会話に割っていけず泣きくれたナイナイ矢部、いいとも後期の森脇健児、どSの中川礼二、現在の爆笑太田。
鶴瓶はやはり怖いという印象。関西時代はたけしの何が面白いのかわからないと問うていた(問われた相手は爆笑こそしないがニヤリとはすると答え、そんなん笑いなら爆笑させんとと)。たけしのANN開始前に鶴瓶ラジオを参考にしていたと聞き、さらに「東京進出失敗」もあり「たけし兄さん」と呼ぶように。メインではなくサブに回るのには抵抗もあったはずだが、タモリに諭されいいとも出演を続けた。タモリとは深い親交を結んだが、さらに古いさだまさしとの親交は話さなかったらしくジャングルTVゲスト出演の際の交友フリップを見て初めて知ったタモリが「え、あんた友達だったの?」と仰天していた。いいとも出演よりもさんまの「覚えてるでえ」が東京での起爆剤になったと思う。
タイトルにした香取慎吾のスピーチは印象に残った。それぞれ良かったのではないか(石橋の発言は馬鹿にしたものじゃなく本心だと思うので、タモリの反応は可哀相だった)。これ以上の盛り上がりはない、スピーチは余計という声もあるが、芸人祭りで締めればそれこそ「バラエティーのフジテレビの終わり」で終了してしまう。
駆け足が長くなった。ここでおわり。
twitterを見た感じではありますが「審査員ふざけるな」「アマチュアがもっと見たい」「○○さん(芸能人の歌いい!」みたいな意見が多かったです。
ひとつめは共通して、ふたつめはアカペラサークル員、みっつめは単なる芸能人のファンって感じです。
確かに審査員に音楽的なコメントができる人がいた方がいいんじゃないかなっていうのは間違いないんですけども、
コンテンツ力の問題なのかなぁとか。
素人、それも下手したら単位投げ捨てて歌いまくってる人たちの上手な歌or芸能人が片手間に練習したお祭り騒ぎ
どっちが見たいのかって話ですよね。
私はどっちが出てもそれなりに楽しむんですけど、アカペラサークルの人たちは納得しないみたい。twitterを引用すると「ただの大学生が有名になるチャンス、舞台だった」「おっくんのおっかけ楽しかった」「何がプロなの?サークルの○○さんの方が上手い」
YouTubeでやれ
「アカペラサークルの人の方がー」とかいうのはどっちでもいいんですよ。歌い手ファンの「プロ超えた!」と変わらない内輪の寒い評価なので。プロ歌手としての仕事の片手間でやってる人と大学生活何年って人と比べたらダメです。ボイパなんか普通に生きてたらやりませんしね。リズミカルに唾吐くとかしませんよね。
深夜で大学生枠とか、NHKの昼枠とかなら大学生(アマチュア)に歌わせられると思うんだけどなー。フジのゴールデンじゃアマチュア使えないのかな。
ええとね、「大江光」「和波孝禧」「辻本伸行」「フジ子・ヘミング」「川畠成道」あたりでぐぐってみてからそういうことは言おうね。
クラシック界ではもともと、障害と結びつけてお涙頂戴物語で売り出すって手法はこの数十年常套手段だったわけ。
その一方で、こういう人たちはそういうお涙頂戴物語で下駄を履かせて貰ってるだけで、実際の演奏はたいしたことないって批判もあった。
実際、上に名前を順不同で並べたけど、正直言って実力はこの中でも千差万別だからね。障害がなくても売れてただろう人も、そうでない人もいる。
で、本当の意味で「障害者を受容する」ってことは、「障害者」を特別扱いしない、する必要がない状態のことを言うってのはいいよね。例えば近視なんて昔なら弱視とかわらない視覚障害者だったわけだが、今となってはメガネかコンタクトがあれば「健常者」と区別する必要は全くない。パイロットの採用試験とか除けばね。
その上で、「特別扱い」されずとも芸術家として高い尊敬を受けてる人ってのはクラシック界にはもともといっぱいいるわけ。ベートーヴェン自身がまずそうだし、それからたとえば現役で世界的に有名な例でいうとパールマンとかクヴァストホフとかかな。こういう人の音楽を聴くとき、この人たちが身体障害者であることなんて誰も意識してない。
はっきり言うと、ディープなクラシックファンはベートーヴェンやパールマンやクヴァストホフは尊敬してても、佐村河内守(発覚前)とか大江光とかフジ子・ヘミングなんてのは馬鹿にしてたりするわけ。理由は単に「腕が良くない」から。二流音楽家がお涙頂戴物語のせいで超一流の椅子を奪っていると、眉を顰めているといってもいい。小保方晴子にたいしてアカデミアが厳しいのと同じ理由の一部とも重なるだろうね。
そういう意味では、佐村河内だのフジ子だのを甘やかす「社会」というのはバリアフリーの思想の観点でも、クラシック音楽への理解の観点でも、はっきり言って底が浅いとしか言いようがなく、批判されても仕方ないと思うよ。