はてなキーワード: ニュートンとは
1ニュートンの力
というのが なんだかわからない人でも 質問に回答できるように
というアドバイスが
僕にはなんだか、よくわからないけど
何回も読み直して なんでそういうアドバイスをうけたのか
よく考えなきゃ
寝起きで夢にまでみちゃったので
なんか、寝ぼけているな、水素原子2個と 酸素原子1つが 電子の共有結合で 結合すると どうなりますか?
質問したのは僕だけど まぁ、物理や化学でならいます。グーグルなどでも説明しているページが出ると思います。物理学の用語です。
コロナで人生が変わってしまった人は多いと思う。私も仕事の雰囲気が変わり始めている。
私は運がいいことに、やりたいこと興味のあることを比較的できる研究者を某旧帝大でやれる機会に恵まれている。専門は化学。だが、それも音をたてて変わり始めている。
もともと将来の仕事を何にしようと明確に描いたことはなかった。幼少期に育った地域は比較的英才教育とは程遠い地域であり、貧困家庭も多かった。友人の家に行くと昼間からおじさんがゲームをしていたり、パチンコや酒に明け暮れている、そんな地域である。小学校でありながらも学級崩壊に近いことが起きており、義務教育の内容をきっちりと終えることができなかったと記憶している。そんな状況を深く考えることはなく、私は周りの事象に対して疑問を持ち、調べるのが好きだった。なぜ水は雨として降ってきて、山を流れて、コンクリートの隙間から流れていくか。そんなことが気づいたときには不思議だったと思う。幸いにして先生にも恵まれた。疑問をもち、それを自分のペースで解決するのが好きであり、校庭のはじっこで疑問点などを書き出していたときに理科の若い先生が理科室に誘ってくれた。そこには違う世界があり、好きなだけ実験していいと言われてのめり込んだ。ガスバーナーをつけてよくわからない化合物を熱して色が変わる、気体がでる。一つ一つが楽しくてしょうがなかった。だが先生がある日突然学校に来なくなってしまい、程なくして全校集会が開かれた。持病の喘息でなくなったらしい。どうしたらいいのかよくわからないくらい、悲しかった。狭い実験室の僅かな道具から世界の広さをあれ程教えてくれた先生がこの世からいなくなってしまったのが悲しかった。学問は世界を広げてくれるというのを肌で教えてもらえたと実感している。
当時はショックだったが、中学校から親の転職の関係で引っ越し、比較的普通の地域に引っ越してしまった。小学校のときにはサワガニを追ったり、カエルを捕まえて、ビーダマンからでてくるビー玉の平均距離などをひたすら数える子供であったが、引っ越した地域では勉強熱心な地域であり、誰も放課後には遊んでいる子供はいなかった。塾に行くとのはなしだったが、恥ずかしながら塾という単語を知らなかった。動物を捕まえた数よりも試験の点数を重視する地域であり、ひどく狼狽したのを覚えている。小学校での経験があってか理科と数学が楽しくて仕方がなかったが、何故か閉塞感があった。あくまで中学高校でのお勉強というのは与えられた範囲でやる学びであり、そこに自由度は少なかった。結果的に勉強はできたのでとにかく自由を求めていた。高校には入ったが、倫理の先生と哲学の議論ばかりしていた。こう考えると私は先生に恵まれているのだが、先生に学びの自由を求められる場所はと聞いたときに日本には殆どないと言われてしまった。あ、そういえばといって、それがきっかけとなり京都にある大学に行くことになった。
大学は自由であった。毎年謎に作られる像やコスプレ卒業式で有名な大学であるが、学生の多様性がまったくもって違っていた。そこでも縛られるのが苦手な私は大学で授業に行けなかった。ただ、大学の図書館にはホコリを被っていながらもたまらなく刺激的な書籍が非常に多くあり、図書館に毎日通った。楽しくて楽しくて仕方がなかった。たぶんそれは小学生の時に一人で課題を設定して、問題解決をする。そういうプロセスであっただろう。数式、活字が踊っているようにすら感じた。一般教養の授業でもムラ社会を議論する授業や、紙飛行機を飛ばす授業など色々あり、不思議な授業であったと思う。ただ相変わらず大学の専門の授業は指定の教科書から逸脱していなく、面白くなかった。ある意味授業に関しては圧倒的に劣等生であったが、たまたま行った授業のときに言われた印象的な言葉がある。「結婚は何回でもできるが、研究室選びは一度しかできない。」人生のパートナーは何度でも選べるが、人生の専門となる研究室は一度しか選べないとのことだった。へそ曲がりな私は研究室で変わったことがやりたいと思い、研究室を巡ったが、どれもこれも古臭いホコリを被った図書館で聞いたことがあるような内容だった。日本の最高学府が学問として理解できてしまうということが非常に悲しかった。ただ、たまたま非常に尖った研究室があり、そこで私を拾ってもらえた。やはり私は先生に恵まれていた。研究室は今思えば世界的に有名で先駆的な研究室であり、そこで自由に研究を行う機会に恵まれた。朝から晩まで先輩後輩教員とディスカッションしながら、自由自在に研究をすることができる。研究費も潤沢であり、装置も多くあるために闇実験で自分の考えるすべての実験ができてしまった。卒論のテーマも自分でかってにテーマ設定をして卒論発表までさせてもらえた。今思えばあんなことに、というテーマであったが、当時は楽しくて仕方がなかった。卒論が終わった当日、テーマの変更を推奨された。初めて方向性を提示されたが、一言であった。ここには恩師の力があったと思う。結果的に与えられたテーマとは関係なく、M1で勝手に実験をして修士で論文を3本書いた。楽しくて仕方がなく、博士課程に進学した。博士では論文を12本書いた。ちょっとした自慢である。
博士の資格は名刺の角に書くことができる運転免許のようなものであるというのはよく言ったもので、単なる認定試験である。友人が大学のポジションの公募に出す中、私は自分の学問を切り開くのだと思い、博士研究員をすることに決めた。なんとなく海外は日本より風通しが良いだろうと思い、日本の研究費から支援をうけて、海外に2年間いけることになり、それまでに一切したことがない分野に飛び込んだ。将来学問を切り開くためには甘んじて先達のいる学問をすすめるよりも、開拓者であるべきという精神である。ただ現実は厳しかった。言った先の研究室では私は初めての外国人であり、装置の使い方、実験の仕方、単語すらわかっていなかった。学部生に単語の意味から教えてもらいながら、教科書を端から端まで読んで、理解した。論文は2年間で3000報くらい読んだ。めちゃくちゃ勉強し、1日の睡眠時間は3時間程度だった。結果的に分野での最高峰の論文誌に数報報告することができて、ライフワークが見つかったと思った。ただこの辺りから研究に対する見え方が変わってきたと思う。日本人会でいつも飲んだくれている友人がいた。大学では見たことがないが日本人の友人を探しているようだった。何が楽しくて研究をしに海外に来ているのかというふうに聞くと彼は出身研究室に戻るので1年間遊びに来ていると話していた。悪い冗談かと思っていたが、実際に彼は日本の出身研究室で職を得て戻っていった。不思議なものである。
当時の海外での受け入れ研究室の教員にぜひともこの国で残って研究をすすめるべきだと言われた。日本は講座制の影響もあり若い研究者が活躍しにくいということを聞きつけていてくれていたらしい。ただそのときに今まで私を支えてくれた恩師たちの姿が頭をよぎり、日本に恩返しをするべきではないかと思った。施されたら施し返すという精神である。日本に戻るためには公募の書類を出さないと行けないのだが、不思議と通らない。面接にすら呼ばれない。それまでに分析していなかった私が悪かったのだが、どうやら日本ではコネというのが幅を効かせているらしく、面接にすら呼ばれない。それとずっと付き合っていた婚約者との結婚もあり、フットワークの軽い私はならば日本に帰ろうと、日本に帰り、講演ツアーを行った。幸いにしてその一つが目に止まり、研究プロジェクトの一環で雇ってもらえた。そこでも好きに研究をしていいと言われ、論文を好きに書いた。楽しかった。研究だけしてたまに論文を書けばいいというのは至極楽しかった。ただ、学生と研究ができないのがとてつもなく寂しく、コネはなかったが、海外の訳のわからない研究室で研究をしているよりも経験をつんで日本で研究している私は魅力的に見えたのか、公募に通った。めぐり合わせというのは不思議なものである。
こうしてやっとただの研究者から大学教員になることができた。恒久的に研究ができるというのは非常に幸せであり、研究以外も楽しんだ。毎週の授業というのはライブである。そのへんのストリートミュージシャンよりも自分の一つ一つの発言を学生に聞いてもらえることができ、研究に対するスタンスなど伝えることもできる。学問というのは積み重ねの学問である。積み重ねがあるから新しさがわかる。ひとつひとつ丁寧に教えていき、学問の楽しさを伝えたが、やたらと聞かれるのは単位がとれるかかどうかであった。研究室でも熱意をもって新しい実験の仕方や、研究分野の掘り下げのための論文読み込みを学生と一緒に行った。ただ、学生から文句が出てそんなに頑張りたくないとも言われてしまった。悲しい。私はそんなに魅力がないのだろうか。大学教員というのは研究以外の思った以上の雑用があり、それに追われていた。ただ、そのたびに今まで知的教育を享受してき立場からそれを授与できる立場にならねばと思い、一所懸命に振る舞った。その結果ここでの学問結果をなんとかして論文にすることができた。これからすべてが軌道に乗る、そう思っていた。
そんな先のコロナである。実験を専門としている私は当然大学に来なければ研究をすすめることができない。だが、緊急事態宣言のあおりをくらい、研究室での研究活動はオンライン中心になり、さらに愛妻は妊娠中であったために下手な行動はできない。研究が中心であった私の生活は転換を余儀なくされた。学生と最新の実験成果を共有できない、授業はオンラインとなりzoomの先では、全く授業を聞いていない学生がいるかも知れないという状況で苦しかった。価値観も変わらざるを得ない矢先に子供が生まれた。福音であった。
学問というのは先んじてその場で役に立つものではないが積み重ねだと思っている。子供も同じで、毎日毎日状況が日進月歩である。首を動かすことがしんどそうだった子供が、今では自分の力で首を動かし、光の導く先を必死に見ようとしている。大学で学びをしている学生で一時的にやる気を失っている子もかつては私の子供と同様日々ひとつひとつできていくということが楽しかったのだろう。相変わらず大学での研究活動は制限されている。以前ほどの自由は担保されておらず、どうしても何かしらを管理する必要がある。その一つ一つの行為が私には苦しい。ニュートンはスペイン風邪のタイミングで新たな学問をみつけた。私にはそれほど頑張ることはできるかわからないが、研究を行い、学生に希望や考え方を論理的に教えるというのが現在の職での義務であろう。間違いなく私の研究生産性は下がったが、価値を下げず上げることが義務であると思い、日々努力している。
ニュートンの記事にあったんだけど、心理学者ケヴィン・ダットンによれば、サイコパスは、能力が高い、能力が低い、の2通りと、反社会性が高く暴力的、反社会性が低く非暴力的、の2通りで、合計4つに分類出来るんだそうです。
でも、反社会性が高い・低い、と、暴力的・非暴力的、ってのは本当に従属するものなんだろうか?
という4通りにならないのは何故なんだろう?
暴力を振るう動機や目的が、一般的な人と比べて粗野というか、社会性? 対人関係? と連接しないからサイコパスなんじゃないのかな、というのと、暴力の種類や発露の仕方が、今は単一な物理的暴力だけに留まらなくなっているから、そこをもう少し細かく分ける必要があるんじゃないかな、という疑問がある。
山中先生の専門は再生医学だから、感染症と公衆衛生の舞台である新型コロナ対策に上がってくるのはおかしいと思う。どれくらいおかしいかというと、イチローがサッカーの指導をするくらいおかしい。しかし、多くの人々はイチローがサッカーの指導をするのがおかしいことは理解できても、山中先生が新型コロナ対策に出しゃばってくるのがおかしいことは理解できないのだ。
これは、多くの人にとって医学がスポーツに比べて身近でないこと、医学をひとまとまりで認識していること、権威主義などの要素が関係している。
医学はスポーツに比べて身近ではない。スポーツ、特に野球やサッカー、相撲といった国民的なニュースは毎日報道されるし、テレビでも毎日放送される。しかし、医学のニュースは大きな発見がされたときしか報道されない。このことによって、野球とサッカーの違いは分かっても、再生医学と感染症学の違いがわからない市民が出来上がる。
多くの人は再生医学と感染症・公衆衛生の違いがわからず、一塊で「医学」と認識しているのだ。だから山中先生が何かを言えば権威主義的にそれに従ってしまう。
しかしこれは当然のことであり、仕方のないことでもある。例えば、私は建築学や文学やITの中にどんな学問があるのか知らないから、その分野の知識が必要になったらとりあえず有名な人に意見してもらおうと考えるだろう。実家から古文書が出てきたときに、古文の大学教授がいてくれたらなんと頼もしいことか。その古文書が例え漢文で書かれていたとしても。
だから医学の場合は、とりあえずノーベル賞で有名な山中先生に意見をもらおうというのは、当然であると言えなくもない。
このことは一般の方々にも言える。医学だけで細かい発見をいちいちニュースにしていたらいくら時間があっても足りないし、医学だけ特別扱いするわけにもいかないし、そもそも市民は医学の細々とした発見に興味がない。だから、市民が医学についての詳しい知識を持ち合わせていないのは当然のことなのだ。
問題点は、メディアなどが過剰に持ち上げることにある。ノーベル賞を受賞したといっても、山中先生は感染症学の専門家ではない。さらに臨床での新興感染症対策の経験もない。感染症対策については本質的には素人で、新興感染症について適切なアドバイスはできないということは本来なら理解できるはずだ。
だから感染症を専門とする先生を専門家として呼ぶのが正しいはずだ。しかしノーベル賞という看板に惹かれたか、そもそも感染症の素人であることがわからないのか、山中先生を新型コロナの専門家という立場に据える番組などが後を絶たない。終いには山中先生自身が「山中伸弥による新型コロナウイルス情報発信」というサイトを立ち上げ、専門家会議(分科会になったんだっけ?)のメンバーとして祭り上げられてしまう始末である。
確かにノーベル医学賞を受賞し、有名なインフルエンサーである山中教授が新型コロナウイルスについての情報を拡散するのは理にかなっているのかもしれない。しかし短期的に見れば有効でも、長期的に見ると民衆を馬鹿にしている(ダブルミーニング)ように思えてならない。
SNSで見た主張として、「山中先生は新型コロナが出てからそれについて一生懸命勉強した。だから新型コロナ対策の知識は十分にある」というものがある。これに対して反論したい。
確かに山中先生は新型コロナについて、それが発生してから懸命に勉強したかもしれない。しかし、高々数ヶ月の話だ。日本は何年何十年と懸命に感染症について研究してきた専門家をたくさん抱えている。高々数ヶ月の勉強とは、文字通り桁違いの経験を積んできた先生方である。新型コロナに限らず、感染症対策に関する知識も、経験も、その言葉の重みも桁違いである。だから、「数ヶ月勉強したから知識は十分だ」という主張は、その分野で飯を食ってきた本物の専門家に対する侮辱にも等しいのではないかと思う。本来はそういった本物の専門家をお招きしてアドバイスをいただくのが正しい筋であるはずなのだ。だが、本物の専門家は往往にしてなかなか表舞台に出てこない。メディアが学問や専門性が高い分野を扱うときは特にそうだ。専門家は忙しいのか、恥ずかしがり屋なのか、報酬が割に合わないのか、はたまたメディアがそういった専門家を知らないのか・・・
ここまで散々ノーベル賞に乗っかる諸々をディスってきたが、私は権威主義を否定しているのではない。むしろ迎合するくらいである。
最近は「誰が」主張したかよりも「何を」主張したかについて主眼が置かれる風潮がある。確かに主張の内容は重要であるし、自身の専門分野や興味のある分野については、主張が正しいかどうかを精査するのは極めて重要である。
しかし一方で、我々のような一般大衆にとっては精査は仕事ではないのだと思う。自分の知らない分野に対してその主張が正しいかどうかを判断するのは難しいし、それに誰の主張についても考えていたらいくら時間があっても足りない。さらに、自分でどれが正しいかを考えると、自分の考えのバイアスがかかる。しかもそのバイアスがド素人のバイアスなので余計にたちが悪い。だから、自分が知らない分野については「何を」主張するのか考えるのはやめて、「誰が」主張するのかを考えた方が、幾ばくか合理的であるかもしれない。
そして私が最も強調したいのが、「その権威が正しい権威なのか」を考えることである。
権威が正しいのかを考えるのは、主張の内容が正しいのかを確かめるよりも簡単だと思う。例えば、建築の専門家が建築の指示をするのは正しいが、コップ製造の指示をするのは正しくないだろう。全ての主張についてこれと同様に考えれば、自ずとどの言い分が「正しい」のかわかる。
もちろん、この方法では間違えるかもしれない。例えばニュートンは「光は粒子である」と主張した。しかし実際は「波と粒子両方の性質を併せ持つ」ことは高校物理でも学ぶ常識であるし、高校物理をとっていなくても知っている方が多いと思う。しかしそれは現代の視点から見た話であり、1600年台後半の民衆にとっては光は粒子であることは「正し」かったのである。
科学は日々進歩するものであり、現代の「正しい」が後世にわたって永遠に「正しい」というものはない。そして、その分野特有の思考を持ち合わせない素人が、どれが正しいかを判断するのは難しいものがある。ニュートンでさえ間違えたのだから、その分野の知識がなく、興味もない素人ではなおさらだ。そんな中でひとまずの妥協点を見つけるのが科学者や専門家の仕事でもある。その仕事に乗っかるのもアリだろう。
自分の興味のない分野、わからない分野については専門家の言っていることに従う。しかし、その専門家は本当に「その分野の専門家」なのか、といったことをちょっと考えてみるのも重要だと思う。
ニュートンはケンブリッジ大学のペスト休校中に万有引力の法則を発見したそうです。
私もなにか有意義なことがしたいと思い、陰毛と脇毛を全部剃ることにしました。
お風呂場に眉用ハサミ・5枚刃ひげ剃り・お風呂用鏡・ビニール袋を持ち込みます。
伸び放題の毛をハサミでカットして捨てた後、ひげ剃りでツルツルにします。
ヘソとチンチンの間の三角州の陰毛をカットします。石鹸で泡立てると毛が捨てやすいです。
次にタマ毛をカットします。金玉はブヨブヨしていて怖いので慎重になります。
私の眉用ハサミは先端に串がセットされているので、肌を巻き込みづらいのが嬉しいです。
金玉は左手で引っ張りながらひげ剃りを当てます。チンチンの裏筋のあたりはハサミだけで済ませます。完璧を目指さないのがポイント。
終わると陰毛のないチンチンとのご対面です。小学校ぶりの再会でちょっと感動モノですよ。
ケツ毛も剃ります。
お尻の正面に吸盤付きのお風呂用鏡をセットしてM字に開脚しましょう。毛がボウボウに生えているので、頑張って剃るぞ!という気になります。
お尻の谷間の毛をハサミでカットするのは難しいので、ここではひげ剃りだけを使います。
肛門の回りを慎重に剃ります。毛が長いのですぐにひげ剃りが詰まります。こまめに毛を捨てましょう。
最後に脇です。
片手をバンザイしたあと、肘を折って手のひらを肩甲骨に置きます。それから、肘が後ろに引っ張られるように脇を開きます。これが脇剃りの姿勢。
だいたい1〜2週間に1度剃ります。
お風呂場に持ち込むのがひげ剃りだけでいいし、剃った毛を排水口にそのまま流せるので楽です。
以上、ぜひ試してみてください。
アカデミックをあきらめた博士号保持者の記事が目に留まったので、運よく大学に残れた側のエッセイを書く。小さなころから科学者になりたかったんです、なんていう大学教員を見ると、眩しくてクラクラしちゃうんだ。すまんな、憧れもなく大学教員になってしまって。
僕は少年時代に、科学者に対する憧れというものがほとんどなかった。ニュートンとかガウスとかアインシュタインなんかの伝記を読み漁ったりして、心惹かれるものがあった。だけど、それは自分が科学者になりたいという憧れとは少し違って、科学者は仮面ライダーやウルトラマンのように現実と断絶した世界にいるヒーローのようだった。
大学に入ると、教員たち講義を受けて、ずいぶん大学の先生は楽しそうだと思った。あとでわかるが、それは誤解だった。ただ一人、すごく楽しそうに熱く語る先生がいた。専門を簡単に説明する。それでいて奥が深い講義だった。僕はその講義に夢中になったが、周りの学生からは評判が良くないのが不思議だった。こういう先生なら、なってみたいかもしれない、とぼんやりと思った。
僕は研究者というよりは科学ファンだった。自ら新しい科学を切り開くということに、それほど魅力を感じなかった。それなのに、大学院へ進んだのは「もっといろいろなことが知りたい」という一言に尽きる。このセリフは厄介で、一見すると科学者適性がありそうだが、実際は逆だ。「ただ自分の興味が向くことを、気の赴くままに知りたい」という僕のような人は研究者に向かない。いったい僕は何になればよかったのだろう。大学院生としての一番の幸福は、図書館の薄暗い書庫に顔パスで入り、紙が焼けているのにピンピンしていて、全く手を付けられていないような文献を読むことだった。だから、論文が書けず苦労した。今もしている。研究者の世界は手を動かす、アウトプットをするのが貴ばれる。研究の世界に飛び込むことは少し違和感を覚えたが、もっと良い場所もなかったので居続けた。卒業したいので、しかたなく研究した。
学会で一流の知性に出会うのは、本当に楽しいことだ。僕にとってはスターのライブであり、学会の懇親会で大物に研究の着想を聴いてみることほど楽しいことはない。
大学院から、学位記と一緒に追い出されるように飛び出し、一つ目の職場に就職した。就職が上手く決まらなかったので、ダメなら別の業界に行こうと思っていた。だけれど何とか職場が見つかった。そこへ行った理由は、この業界にいれば、また暗い図書館での心躍る体験が、いつかできるかもしれないと、不純な希望を持ったからだ。着任した先では、学力が酷かったけれど、教員は博士号持ちの熱血教師ぞろいだった。教員たちの教育に対する熱いパッションを聞かされて、なぜだかすっかり気持ちが冷めてしまって、他に居場所を探した。転職するためには、論文が必要だったので必死に研究した。欲しがりません勝つまでは、を地で行くスタイルで無理をした。体調を崩して大病してしまった。
なんとか次の職場を見つけ、落ち着いている。学生時代の環境を思えば、ここの学生は世界が狭くかわいそうだと感じることもあるが、一つ目の職場と比べればだいぶましだ。すべては相対的だ。転職して、自分の時間が増えたのでぼちぼち研究している。いつか解明したいテーマも懐にしまっている。いつか、は来ないので少しずつチャレンジしている。だけれども、ほとんどの研究時間は一日も早く給料を上げたい、そう思って不純だと思いながら心の血を流しながら論文を書いている。僕は興味が散発的なんだ、だから論文がこれほど憎たらしく感じられるんだと思い続けている。
博士号取ったのに大学教員にならなかった氏が言うように、大学が残念な場所であるとは認める。成績不良の学生を面接したときは、部屋に一人残って泣いてしまうこともある、僕が。これから、教員の仕事どうなっちゃうんだろうかって悩みつづける。実にこの業界はジリ貧だ。だけれど、大学教員以外に僕のふわっとした欲求を満たせる場所を知らない。雑用を投げてくるスーパースプレッター同僚もいるが、傷付きやすい僕を大学以上に放っておいてくれる職場を知らない。
文科省も大学経営陣も学生も同僚もみんなクソだ。クソだけれど、僕はそんな奴らの戯言を骨抜きにしながら、今の場所に居座ってみようと思う。僕の興味と幸運の続く限り。
研究者にもなれない、だが学生を思いやる教育者にもなれなかった。一人でいたいから、学内政治家はもっとごめんだ。いったい僕は何になればよかったのだろう。
たぶんこれも40秒で支度するうちの20秒ほどの時間で書き上げなくちゃいけない今日この頃なんだけど、
街は昼間はなんだか人出は変わらないような気もするし、
飲みにも行けない盛り場が閉まってるけど、
相反してファストフード店なんかは相変わらず煌々と明かりを灯して24時間元気いっぱいに営業してるじゃない。
私の行きつけの食券制のパスタ屋さんでのちょいのみ需要が拡大してるのよ!
意外や意外でしょ?
でも残念ながらドリンクメニューがせいぜいルービーしか無いところが玉に瑕っちゃ瑕なんだけど、
とりあえずの
そんなこんなで夜も出歩けないけど
巣ごもり消費もいずれ爆発しそうな
自粛づかれもそろそろ出てきそうな昨今、
私は私でもしそうなったら1人の事務所閉店ガラガラシャッター閉めて、
家でゲームしたり本を読んだりしたり、
高校生の頃に勉強し損なった対数の本とかを読んでお利口になりたいところよ。
とりあえず、
オススメよ!
本屋のレジで何冊か買う本の一番上にニュートンを置くと明らかにあからさまなので、
2冊目ぐらいのところに挟んでレジ持って行けば、
そろそろ出掛けるので今日はここまでよ。
うふふ。
抜群のシャキシャキさ加減をもってして、
美味しく私の胃袋に収めたところで
またさらにタマゴサンドを決める!と言うほぼいつものローテーションのルーチンよ。
新しいちょっといい緑茶の茶葉買ってミルで擂り擂りしたいところだけど、
急須の持ち手のとっての中に水が溜まってちゃぽちゃぽするのがずっと気になってます。
ここ水抜いて欲しいわ!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!おー!
この記事読んでへぇーって思ってる人、はあちゅう腐す権利ないからね。
え、はあちゅうはニセ医療で、これはタイの最先端医療じゃん。全然違うだろ?
はい、そうじゃないんですよ。
医学的知識と医学的判断能力がない人が書いた医療記事はどちらも同じなんです。
仮に、はあちゅうがこの記事書いたら、みんな「へぇ〜タイ行こうかな?」って思った?
この記事の間違いは大量にあるけど、はてなにわかりやすく言えば、
めちゃくちゃ良いプログラミング教室見つけた!っていう「増田プログラミング教室」の紹介記事が以下の感じだとどうでしょうか?
最先端JAVASCRIPTを用いた画期的なホームページの作り方を教える教室です(JAVASCRIPTは世界の30億のデバイスで走る言語です)
また、最近流行りのAIの土台である機会学習を、MNISTというデータを使って、勉強できるんです。
これは、AIに知能があり、自動的に猫とおばあさん細胞が発見できるというので、
ぜひこの増田プログラミング教室で、プログラムを習いましょう。
ね、頭痛くなる記事でしょ?上記の記事のレベルはこんなもんよ。
キーワードとして、「根管治療」(英語名:Root Canal Treatment、以下“RCT”と表記)
「ラバーダム」、「マイクロスコープ」などを散りばめているだけで、上記の文章と同レベルの知識だから。
まず、日本の保険適用の根っこの治療なんて、毎回200円くらいにしかならないから数千円なんて絶対に適当。
なぜ日本の保険治療のことも理解していない人が、タイの治療については正しい記述ができると思えるのか不明。
それは国がCOBOL縛りでプログラミング書けって縛ってくるのに、
患者がグーグルマップみたいなサービス作りたいって言ってきて、
なんでも言語が使える自費診療すすめても、いや、保険きくから、COBOLでお願いします。って言ってくるからだろうが!
せめて日本の学会関係者にでも取材して、なんでこういう状況になってるのかくらい聞けよ。
そもそも日本は歴史的に総合医(ジェネラリストのまち医者)を増やすという医療政策をとってきたわけよ。
それは個人の資質うんぬんじゃないの。出羽守がすぐにアメリカでは〜っていうけど、アメリカの歯医者、全員医者だからね。
医学部卒業して、そのあとで歯の勉強した人たちでエリート中のエリート。1日に3人患者みたら、生活できるから。
15分おきに患者きて、インカムつけて仕事してる銀座の歯医者なんかと比べちゃダメよ。
日本は国民が歯医者に通いやすいように、歯学部というものをつくった経緯があるのよ。
最近は新専門医制度をつくって、分化していこうという話もあるけど、
患者側の意識が変わらないとなんでも屋を求めるから日本だとミスマッチしそうね。いろいろ面白いので調べてみてください。
あと、やぶが多いという話。うん、多いね。
じゃあ、どこの歯医者いけばいいのか?
まず、クライアントであるあなたが自分の歯をどうしたいのか、知識をつけること、
その症状に対して、得意な専門医がどこにいるのか調べること(歯学系学会で調べられる)
ここらへんでやぶはだいぶ弾ける。
え、めんどくさい?それなら、増田プログラミング教室行きですので、どうぞ。
クライアントが要件定義する能力もないのに、SIerの能力判断なんかできるかよっ!
結論ありきだが、これはどうしても一番にくる。
ナチスがユダヤ人を殺した根拠となったのが優生思想であって、まずそこの繋がりで良し悪しが決まっているところは絶対にある。現代の物理学がニュートンから始まっているように、現代の倫理・西欧人文思想はナチスの否定から始まっているところがある。学問と思想のフィールド事態がそれを肯定しにくいようになっている。
ナチス思想では、アーリア人がユダヤ人より優れているとされたが、実のところその根拠は極めて薄弱あるいは皆無だった。
では、現代で優生学をやるとして、根拠を持って何かしらの遺伝を優れていると判断できるのか? できない。
そもそも「遺伝的に優れている」という認識事態が、進化の考え方から逸脱している。環境適者が生存するのであって、他より優越したものが生存する訳ではない。従って生存しているものが優越しているわけではないし、今の環境で劣っているように見える遺伝が、将来圧倒的な強者になるかもしれない。
遺伝に優劣はないし判断できない。だから優生学は今でもなお疑似科学である。
優生学とまではいかなくとも、障害者の出生前遺伝治療、あるいは中絶という話をすると一つ問題点が生じる。治療あるいは中絶するということは、少なくとも障害者を「生まれるべきではない」と判断するということ。これは、これから生まれる子供やその親にとっては良いかもしれないが、既に生きている障害者をも「生まれるべきではなかった」と判断したことになってしまう。
現代の障害者たちは、倫理方面から、あなた方の障害は一つの個性ですよ、とか言われて生きている。しかしただ個性を持っているだけだったら、なぜその個性をもった赤ん坊が"治療"されるのか。
この欺瞞に、しばしば大きな抗議がぶつけられるのである。抗議にパワーを齎すために、こういう遺伝治療への判断を「優生学=悪」と呼ぶことがよくある(個人的にはこれは優生学とは違うと思うが、元増田が気にしているのはこっちでは?)。
http://www.phys.cs.is.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/time/note.html
今サーバがメンテナンスでみえないっぽいけどめちゃくちゃ面白いね。いまさらだけど。
メタな話をすれば、哲学者側は最先端の物理学者との対談で自分の論に箔をつけて業績にできるめったとないチャンスで、対する物理学者側は正直こんな本が出ても業績としてたいして価値があるわけでもなく、無難にお茶を濁しても誰も何も言わないだろう状況へこのガチなファイターの投入である。(ほめてる)
https://twitter.com/tani6s/status/1193542355975950336
https://twitter.com/tani6s/status/1193542463169810432
心の哲学が何を問題にしているのか、とか全然興味なかったけど、おかげさまで浅いなりに理解できたし興味も出てきた。谷村先生が頑張らなければひっそりと専門書の棚に気付かれることなく置かれてるだけだったかもしれない本だったかもしれず、関係者は谷村先生に感謝しすぎてもしすぎることはないんじゃなかろうか。
ところで谷村先生が指摘した部分というのは、理系の研究者や人間であれば多かれ少なかれ感じていたが言語化するのがためらわれた結果、これまで表面に上ってくることのなかった問題のように感じる。
学生の頃、人文系研究室の卒論と科学系研究室の卒論とを同じ発表会で見る機会があったけど、科学系の教授の人文系の発表への容赦ないツッコミを思い出した。
用語の定義にしろ立論にしろ結論を導く論理にしろ君たちあまりに緩すぎないか?というのが共通する雰囲気だと思う。
科学が発達していなかった昔、哲学は科学がまだ扱えない領域を先んじて論理の力で掘り起こす役目を担っていたと個人的には思う。(谷村先生の期待もこういうものではなかっただろうか。)
だが色彩論でのゲーテのニュートン批判とか、時間論でのベルクソンのアインシュタイン批判とか、科学が哲学に先行して真理を掘り起こした結果、取り残された哲学が宙ぶらりんのままになる状態が19世紀以降は顕著になってきたんじゃねえかと思う。まあ哲学のことはよくわからんのでアレだが。
ベルクソンとアインシュタインの対話の翻訳をネットで拾って読んでみたが、ベルクソンが長く理解しにくい文章で考えを述べる一方、アインシュタインは明晰で短い文章でバッサリと切っていて既視感がすごい(語彙力)
今、AIとか脳科学の研究が進んで、心に関する諸問題も哲学ではなく、科学の俎上で実際に解決される可能性が高くなってきたと思われる。
意識のハードプロブレムとかも、哲学側からの「まだまだ科学に扱えないものがあるんだよ!!」という断末魔の叫びのようにも感じられる。
だが科学は進む。
意識の問題も脳というハードウェア上に構築されたニューラルネットワークの状態空間として科学の領域に取り込まれ哲学の領域はまた一歩小さくなっていくのだ。
地動説で人間の住む地球が宇宙の中心ではなくなったように、進化論で人間が神に作られた特別な存在ではないことがわかったように、有機物が生命の作用なしに合成できることがわかったように、意識もまた特別な何かではなく、我々自身が哲学的ゾンビなのだということを認めざるを得ない瞬間が必ずくるだろう。
キリスト教が根底にある思想は最後まで魂の特別性に拘泥するかもしれないが仏教だと五蘊皆空と思えばどうということもない気もする。
まとまらず終わる。