はてなキーワード: 闊歩とは
けみお(kemio)が売れたのは何故か?ということについて、けみおの独自のキャラクターがウケているということになっている。
確かにそれはそうなのだが、けみおの凄さというのは、自分を置く環境をキッチリ見極め、見切ってきたことにあると思う。けみおが日本で平均的で凡庸な暮らしを続けていても、奇抜な服装で原宿を闊歩する「ギャル」として生きていても、CMに起用され、Diorのような一流メゾンと仕事をすることは無かっただろう。
その人の個性が他の競合との差別化として大きな比重を持つのが、インターネットやSNSという場所である。その場所に種を撒いたからこそ、大きな花を咲かせることになった。
もちろん、けみおにはけみおなりの「企業努力」もしている。ヒカキンにしろ、炎上ということは避けようとしているし、人を楽しませようという考えがベースにあり、薬・異性関係・犯罪などの不祥事も起こさない。今ネットで若い人に支持されるアカウントというのは、「人を傷付けない」という共通点がある。ヒカキンにいたっては、マーケティング的にそのことを意識しているのは違いない。また、幅広い人に認知されるまで、コンスタントに動画を作って、配信してきた下積み期間もある。SNSとスマホ時代の、時流に乗ったという運要素も大きいが、彼らもそれなりに努力はしている。楽をしてお金を稼いでいるようで、それなりに大変な稼業である。
いずれにしろ、自分の能力や素質を最大限に発揮したいと思うなら、種を撒く土壌は選ばなければならないと、痛感するのだ。自分の素質を客観視すること、そして自分を置く環境の大きさというものへの、本能的・直感的な察知能力について、けみおは優れていたのではないかと推察するのだ。
新しいポケモンの化石ポケモンが話題になっていて、ずばりギリシャ神話のキマイラのことではなくて、普段からよく話題になる想像上の生き物で「複数の動物の特徴を掛け合わせているやつがいたなぁ」って思ったりしてたんですよ。
そいつ「ドラゴン」とか「龍」とかいう呼び名でよばれているんですけど。
個人的な分類なのでそれが常識ということは全然ないので構えずに聞いていただければ幸いなんですが、ドラゴンって呼ぶ時は西洋伝承の竜、「龍」って呼ぶ時は東洋伝承のリュウを意識しています。西洋伝承との比較の話題のときにはわざわざ東洋龍をドラゴンとかよんだりして自分からルールを破るので、本当にそこは私事ですよね。
ちょっと前にNHKの特集でドラゴン伝説に関する番組があったりしたんです。
テロップに「人類学者」「歴史学者」「宗教学者」って表示される人の他には、古生物学者さんとか比較生物学者さん、気象学者さんなんかもコメントしていたのが印象に残ってます。あと世間話でドラゴンって話題に出すときには、地理学を勉強している知人と話していることが個人的に多かったりもしますね。結構、色んな分野からドラゴン伝承というものを話題にすることができるってのは面白いなと思います。
古生物学的な知見から語るドラゴンとはずばり恐竜の化石の話でした。僕たちの世代ともなると人間何人ぶんくらいの恐竜の化石が見つかったとして、それは人類が成立する前の時代の、大昔の生き物の痕跡であって「こんな生き物がいまも生きて闊歩している」とは咄嗟にも思わない訳ですが、それは今日に至るまでの研究成果とそれを知識として普及できる教育の賜物であって、それがなかった時代の人たちはそうは思えなかったって話です。
番組ではルーマニアで有名な翼竜の化石が見つかっていると言及されていましたが、ルーマニアはドラキュラ伝承の元になったヴラド・ドラクル公の故郷ですよね。「ドラクル」という別名は彼の自称で「悪魔の子」って意味だとよく言われますが、本当は「竜の子」とかそういう自称だそうです。言語には明るくないのでもっと正確な意訳ができず恐縮でありますが、無知の身上なので「音が似てますもんね」とか言います。どうしてそれが「悪魔の子」だなんて受け取られ方をしたかと言えば後述したいと思いますが「ドラゴンは当時の人々にとっておそろしい敵役で、悪魔に連なるキャラクター」だったからです。竜の子なんて自称するのはその宗教的事情を考慮するならば自ら悪魔の敵役を名乗る型破りなことだった訳ですね。かなり話が脱線しましたが、竜の子ヴラドの伝説的な話が根付くルーマニアで、空を飛ぶ恐竜の化石が見つかっているという話がなんだか面白いなと僕は思う訳です。「無関係とは言えないだろう」とか僕なら思っちゃうし言いたいですし、当時の文献記録に化石の発掘らしき出来事の記述とかあるならそれは想像が捗るので素敵な話だと思います。
比較生物学的な見地からはいまも生きている生き物、特に蛇が槍玉に挙がっていました。ずばりって感じがします。番組では「何故ドラゴンは火を吐く?」という疑問に対して、蛇がちろちろと舌を出す様子に触れつつ、この蛇の習性が「誤った情報伝達の仕方をして」ドラゴンに火を吐かせるようにしたのではないかという話をしていたのでこれが面白かったですね。
まずドラゴンという想像上の生き物が成立する。次に「ドラゴンは想像上の生き物で、実物を人前に持ってきて伝えることができないから」人間は想像を絵に描いて伝えようとします。この間に、ドラゴンというのは実在しない生物なので、かわりに実在する他の生き物の特徴を取り込んでイラストとして出力されてしまう訳です。無いものを描くことはできないので、かわりに実際に有るものの特徴を代用して想像を膨らませていく。会話で比喩表現を使うようなもんですよね、「奴は蛇のようにずる賢い性格なんだ」とか「鳩が鉄砲で撃たれたような顔してるぜ」とか。
それで番組に出てきた絵なんですけど、たぶん火を吐いてなかったんですよ。イラストの横に難しいラテン語でびっしり説明文書かれていましたが、「これは火を吐いている絵ではなく、蛇のように舌をちろちろさせているドラゴンのイラストです」って言われたら僕はそれで納得してしまいます。そんな絵でした。
ところで遠い土地に住んでいる人に自分の描いた絵はこういうものだと事細かく説明できますか? 僕はそういうのが得意ではないので、しばしば伝言ゲームみたいになっちゃうんですよ。これが誰もが当たり前にまだラテン語を読めなかった時代で、聖書の記述すら読み書きの技術を持つ教会の神父様に読み聞かせていただかなればならなかった時代となると、もっと大変だったと思います。もちろん、そういう誤解が広がらない為にバチカンの偉い司祭様たちは色んな対策を立てたと思いますが、果たして「悪魔の姿形まで全員の意見を一致させようと手を回す余裕があったのか」はわかりません。イラストというのは文字や言葉より強烈です、写真の無かった時代ならそれは写真の代わりすらつとまったほどに。それでもやはり限界はありますよね。実際にあるものを観察して正確に描いたものなら兎も角、空想の風景を自分が見たことのある風景に喩えながら暗中模索で描きあげたらしいドラゴンのイラストですから尚更。もちろんそれを見せる相手が目の前にいたなら言葉にして説明できたでしょうが、その絵が本に載って遠い土地にいる人たちの手に渡った時、そして彼らが字を読み書きできないとかそもそも違う言葉を喋っている人たちだったりしたら、蛇の舌の絵が火を吐いているように受け取られたりしても即座に訂正したりできないのでそのまま広がってしまいますよね。
ここでちょっと本旨に触れていますが、空想上の生き物は実際にはいないのでそれが絵や銅像といった形にされる際、実在する動物の特徴をつぎはぎにして成立する時がある、というのが比較生物学的な知見で言いたかったことであるように思います。
恐竜の化石にしたって、伝説に語られるファブニールやヒドラそのものにしか見えない代物が発掘されている訳じゃありませんから。そもそも恐竜の化石から想定した想像図が最近すこしずつ変わっているらしくて、僕が映画で見たティラノサウルスはコモドドラゴンじみた堅そうなウロコに覆われた姿でしたが、いまは鳥のように羽毛が生えていたのではないかと言われているそうです。ここはもう少し言及すると、恐竜の末裔はいまも空を飛んでいる鳥、特に渡り鳥である、なんて話にも波及していきそうですが、僕はそのへん浅学なので触るだけで容赦していただきたく思います。
最後に歴史学、人類学、宗教学、あとすごく恐縮なんですが地理学から見たドラゴンの話をしたいな、と思います。ここがすごく自分が興味ある分野になるので話が長くなりそうなんですが、そのほとんどが他の人からの受け売りの知識・聞きかじりの知識であることを先に明言してから話したいと思います。この話を僕にしてくださった皆様に限りない御礼と尊敬を。
まず、先程までドラゴンが火を吐くのは、蛇の舌の特徴を取り込んで描いた想像図を見た別の人が、その絵の様子を「火を吐いている」と誤解して広がったからではないのか、と話題にしていました。さらにここを掘り下げて「何故火を吐いている姿に見えた(誤解した)んだろう?」という話をしようかと思います。
ドラクル公の話にも戻りますが、西洋ドラゴンは悪魔に連なる存在であり、人々にとっておそろしい敵役だったと言います。これは特に難しい理由がある訳ではなくて、人間より大きく、翼を持っていたり、人間の頭を咥え込める大きな口にずらりと牙が並んでいたり、ずばり「人間に噛みついて攻撃してくる蛇という生き物が人間よりでかかったら食べられそうで怖い」という恐怖心が、当時の宗教的道徳観で形成されている独特の恐怖心とつよく結びついた結果だと思います。恐竜は人間を食べそうだから怖い、ドラゴンは人間を食べるから怖い、悪魔は地獄にいて人間に悪いことをするから怖い、というのが全部同じ話になってしまった時、「ドラゴンは悪魔の手先である」という話になるんですね。そこにバチカンの神父様まで話を合わせはじめるともう誰も待ったをかける人間がいなくなる。恐怖とは使い方があるのです。「食べ物を粗末にすると目が潰れるからしてはいけない」なんて言い回しが日本にはありますが、本当にそうなのか?といえば絶対にそんなことないですよね。それが本当の話になってしまうと、目が見えない障がいと向き合って生きている人たちはみんな「食べ物を粗末にした」罰でそうなったという理屈が通じてしまうので大変失礼な話になります。ぶっちゃけこの言い回し、嘘か本当かで言えば嘘の話ですよね。でもいま食卓に並んでいる食べ物を、少なくないお金を支払い、少なくない労力を駆使して調理し、なんとか苦労して食卓に提供し続けている親からすれば、それを子供に台無しにされるのはひどくつらいことであるしその悪癖を矯正しないまま大人になっても子供のためにはならないからなんとかやめさせたいと思うのは当然なわけです。しかし、突然の家庭不景気に陥れば金銭交換ままならず明日にでもご飯が食べられなくなるという話を、お金の単位すら知らない無知の子供に納得してもらうまで言い聞かせるのは大変な交渉スキルと言語センスを必要とされます。これが「何故人が人を殺してはいけないのか?」「何故人が人から物を強奪してはいけないのか?」というレベルから説明しなければならないとなれば途方もない気分になってきますよね。なのでそれを説明する側は、悪いことをしてはならないという理由として「悪いことをすれば怖い目に遭う」と方便…つまり一種の嘘を用いるという苦肉の策を導入することにしました。これが日本で言えば「目が潰れる」とか「人攫いにあう」とかで、キリスト教が国教である場所では「悪いことをすれば悪魔のいる地獄に落ちるぞ」とか言われるようになる訳です。ドラゴンに食べられるのは誰だって嫌ですよね、僕はジュラシックパークでティラノサウルスに食べられるレベルから嫌ですしサメだって怖いですから、悪行に対する応報としての悪魔、地獄で罪人を責め苛む悪魔がドラゴンを操るなら当時の人たちにとって2倍の怖さになる訳で、時の宗教家たちはおそろしいドラゴンを悪魔に与えることでみんなが神の御言葉をもっと信じて慎ましく穏やかに生活する世界(=悪人が悪魔とドラゴンをおそれて悪行を思いとどまったり、間違えてからでもそれを悪いことだったと反省して償いをする世界)が形成されることを期待したわけです。なので実は違う種類の複数の恐怖が、宗教道徳という枠組みの中で融合するのは全然難しい話ではないってことですね。ドラゴンが英雄に退治される話が多いのも似たような理由です。人間の勇者が悪いドラゴンを退治して財宝と美しい伴侶を獲得して幸せに暮らす…というのは敵が強いぶん本当にそれを乗り越えられるならば素晴らしい成功であるように思える訳ですね。実際に、ドラゴン退治の伝説は宗教に組み込まれた結果、聖ジョージのドラゴン退治など、有名な宗教説話としてたくさんの人々に親しまれています。強いドラゴンが悪であったほうが都合がよかった時代や場所があったということです。
この長い前提があって、ドラゴンが火を吐く話が続きます。まず多くの宗教において死者の国・地獄とは地下世界に想定されます。そして程度の差はあれど、地獄とは炎の世界で、罪をおかして死んだ者はその炎に焼かれてずっと苦しむと説かれます。これはキリスト教も例外ではないというか、悪魔が住む地獄とはその典型例であるように思いますね。何故地獄が燃えているかと言えば、人間が火に焼かれる痛みを強烈に忌避する話の他に、古い時代の街並みが火災に弱いというのが挙げられます。日本でも江戸時代の平屋づくりなんか想像してくだされば分かりますが、木材を含む家屋が道の両脇にずらりと並んでいるのは火災に脆弱なんですよ。火災の真の恐ろしさとは「燃え移る」「燃え広がる」ことです。デマゴーグが人々の間であっという間に拡散して個人の名誉毀損の度合いがもう取り返しがつかなくなってしまう様子を「燎原の火」などと喩えますが、あれは草原に火を放つと一瞬で更地になるほどの規模の火災になることのようだと言っています。この草が家に置き換わったようなことが頻発しやすい都市計画というのが密集した家屋群にあたります。隣の家同士の距離が近ければ近いほど深刻だという認識で間違いないと言えます。対岸の火事なんて言い回しもあるんですが、実は一つの川を挟んだ対岸で火事が起こっているとしても、風向きと風速次第では火の粉が飛び火してきて火事になることも珍しくないらしいです。キリスト教の地獄の話をしているのでその圏内にある国の歴史を話題にするなら、ロンドンのテムズ川を挟んだ両岸の街々が飛び火が原因の大火事の被害に見舞われたことがあるそうです(これはNHKのドラゴン特集の受け売りです)。時代が昔に遡れば遡るほど消火技術というのが未熟なので、燃え盛る地獄のイメージが成立したほどの大昔となると一度家に火がつけば街一つ灰になるのも特に珍しくなくて、それが冬越し前ともなれば家の壁と屋根なしで厳しいヨーロッパの冬を耐えなければなりません。みじめなんてものではなくて、死にます。火事から助かったとしても家も財産も食べ物も燃えてしまっていて、最悪の場合助けてくれる隣人の家まで飛び火で火事になってて誰も助ける余裕なんかないとなれば、そういうのを「地獄のような風景だ」と言うのでしょう。これを避ける為に毎晩高台に見張りを立てるなどの習慣が根づいたそうです。ファンタジーでやぐらに立つ見張りといえば敵国の侵略者を瀬戸際で発見するだとか怪物が村や街に侵入しないようにする為だとかいうイメージで、もちろんそういう意味での見張りもありますが、一番怖かったのは火事だそうです。というか、敵国の兵士に火付けされることだってあります。火攻めとか言われる戦法で、この場合は侵略者と火事が同時にやってきます。侵略者は火で街の財産がすべて灰になる前に大急ぎで火事場泥棒をはたらくので容赦する時間的余裕はありませんし、火をつけられた街の住人だって火に焼かれるか人に殺されるかの極限状態ですから狂乱しています。ただの火事より、もっと大勢が死ぬでしょう。侵略者はまさに地獄からやってきた悪魔や化け物に見えたでしょうね。そうやって実際にあった大火災の惨事の記憶が、架空の風景である地獄のイメージを補強して、いまの地獄絵図というものがあるそうです。だから「悪魔の手先であるドラゴンが火を吐く(操る)のは当然だ。地獄からやってきたのだから」と言われれば、なんだかすごく話の筋が通っているように思いませんかね?
その上で更に別の解釈を交えます。地獄は地下世界にあると先述しましたが、地下にあると言えば何を想像するでしょうか。道具や芸術品の材料や貴重品そのものとして今でも生活の身近にある鉱石や宝石も地面の下から採掘される資源です。しばしばドラゴンは財宝と関連づけられることを思い出させられますね。化石も地下から現れることが多いです。ドラゴンが地獄に住まう悪魔のペットであることと、ドラゴンのイメージを形成するのにひと役買ったらしい恐竜の化石とがつよく関連づけられるような気がしますね。それで、マグマも地下には流れていますね? マグマによる火災被害、つまり火山の噴火というのはそれほど頻繁に起こる訳ではありません。少なくとも、毎日地球のどこでも火山が噴火しているともなれば人間の生存圏はもっと狭くて、地球は人間には住みづらい星だったでしょう。将来的にそうなるかもしれませんけどね。それはそれとして、噴火は頻繁に起こらないので毎日人間がマグマに殺されているというほどではないと思いますが、それ故に今でも予測して対策が立てづらく一度起こってしまえばおそろしい被害規模となる天災でもある。邦画にもなった漫画テルマエロマエの舞台くらい昔のローマにおいては、伝説的な火山の噴火によって当時の大国が大打撃を受けたらしい…そしてそれはただの伝説という訳ではなく、地質学や考古学的な研究からも実際に大災害が起こっているという史実的な話だそうです。ところでテルマエロマエという作品に触れましたが、これはお風呂をテーマにした漫画です。日本でも観光地各地が抱える温泉施設というのは間欠泉という自然現象を利用したお風呂であることは周知ですね。この間欠泉…温泉というのが、地下の水源がマグマによってあたためられて地表に噴き出す現象で、多くの温泉はそのまま人間が入浴するには適さないほど高熱だったりします、死ぬような大火傷を負うほど熱いこともあります(程度の差はあり、中には最適な Permalink | 記事への反応(1) | 14:56
宇崎ちゃんポスターに端を発する一連の議論の中で、女性が感じる性的な目線や性的消費による不快感や恐怖を、男性が自分目線で共感して考えてもらえるように様々な例えを用いて表現しているトピックが散見されるが、どれも男性の自分的にはしっくりこない。
そこでいろいろ考えたんだが、おそらく男が想像できうる近いだろうという例えが、『老人になった自分が金銀財宝ぶら下げて治安最悪の犯罪都市を練り歩く』というものだ。
なぜこう例えたかというと、まず、視線を頻繁に感じるだろうが、それは自分ではなく自分のぶら下げている金銀財宝であろうという点が、女性の感じる『自分のアイデンティティと切り離された性の対象としての視線』に通ずるのではないかと思ったのと、金銀財宝はいつ強奪されるかも知れないし、またそれを狙って数多の犯罪者が代わる代わる話しかけて来ることが想像できれば性消費の対象としての体(金品)のせいで感じる生きにくさが想像しやすいのではないかと思ったからだ。
それから『老人になった自分』というのは体力に自信がある男性でも女性の非力さを想像しやすいのではないかと思ったから。
犯罪都市については、つまりそこは犯罪者の巣窟である。女性から見た男性全体は犯罪者ではないのは当然だが、性的搾取を強要してくる男性は金品を奪おうとする犯罪者と同列に考えうる可能性はないだろうか。
また、こうした批判をする女性たちに対し、ヒステリックに被害妄想を描いていると評する声があるが、これも「いつ、誰が自分の金品を奪うかわからない」と考える老人になった自分を想像すると分かりやすいのではないだろうか。
諸兄は今の体力が衰えきった状態で金銀財宝を身体中にまとい、殺人や強盗が多発する街を平気な顔で闊歩できるだろうか考えてみてもらいたい。
ここが犯罪都市でなければそのような格好でも視線は集めるかもしれないが幾分過ごしやすいはずで、生まれた環境や住んだ街での生活の中で、この世界が犯罪都市に見える人もそうでない人も様々な人がいるのかも知れない。
大元のポスターの件であるが、この例えで表現するのは相性が悪い。無理やり考えるなら、犯罪都市の街角に掲げられた寄付を募るポスターに金銀財宝の絵が掲げられていて、それを見た金持ちが「これは強盗を煽っている」と主張しているというところだろうか。
そもそも女性が生きやすい世界というのは「胸は出しても出さなくても別に誰もそんなに気にしないよ〜」という、胸に対して無関心な社会である。
胸が性的アイコンとして特別さを増せば増すほど、男性は女性の胸に注目する。そうなると女性は男性の目線から胸を隠さなくてはならなくなる。
ブルカなんかはその極端な例で、「女体のほぼ全てが性的」と社会に認識されてしまったからほぼ全てを隠さなくてはならなくなった例。
だから「巨乳絵を抑圧するといずれブルカになるぞ」というのは実際は全く逆の現象。言ってる意味わかる?
男による女体のエロ消費が常態化しすぎたせいで、女性保護をせざるを得なくなった状況。だからそうなる前に「女は消費物ではなく、感情を持った人間である」ということを繰り返し訴えていく必要があるわけ。
実際ジェンダー論が進んでいる北米の女は、胸の谷間出して平然と歩いてるだろ。
女性には好きな服を着る権利があるし、ボディラインを綺麗に見せたいときはそう見える服を着る自由がある。理想的には。
ただし、それが日本で実現されない大きな理由を作っているのは、蔓延する「おっぱい イコール エロいもの」という刷り込み、およびおっぱいへの過剰な執着、注目。
「二次元の巨乳を否定することは現実の巨乳の人を傷つけてる!!!」って主張する人達が一部にいるけど、別に巨乳自体を否定してるのではなく、それを「性的なもの」としてえがくイコール性的なものであるというメッセージを何度も何度も繰り返し見せつけることで、胸とエロが過剰に結びついてしまうことが良くないことなんだよ。
想像してみるといいけど、町ですれ違う知らねー奴らから「おっ、巨乳エロい」って思われない世の中の方が、現実の巨乳の人にとっては遥かに息がしやすい世の中だと思わん?
周囲が無関心になればなるほど、女は本当に自分の好きなずっと服が着られる訳で、ボディラインを出してもいいし、すっぴん芋ジャーで闊歩してもいい。
「今でもすればいいじゃん」と思う人はいるだろうが、電車に乗れば谷間をジロジロ見られたり、飲みに行けば初対面の他人から胸がどうこう言われたり、性犯罪に逢えば「そんな服着てるから誘ってると思った」「服で自衛してないから自己責任」などと言われる世の中では難しいってことがわかると思う。つまり自衛なんだ。自衛のために女は好きな服が着られていないわけ。ブコメによく現れる「女ももっと奔放になっていいんだよ〜性欲を否定するなおじさん」はこの根本の部分を勘違いしている。おじさんの求めているのはただのエロエロな世界であって、その世界は女が命の危険を感じずに暮らせる社会ではない。
男からすると「胸は性的なものではない」とか言われても、性的に見ちゃうし、困るという気持ちもわかるんだが、せめてなんでもネタにしてしまう小学生の目に触れる公の場所に置いたり、ネットで息を吸うように他人の胸のサイズを揶揄るのはやめないかって話。
下着の広告はいいのか!ブーブー!という話に関して、本当に無自覚だったら怖いと思うんだけど、当然イラストは「過剰に巨乳にすることが可能」な媒体なわけじゃん?そういった描き手の意思ってのは見る側も当然感じ取るし、仮にあれが実写であっても、公の場に貼る下着メーカーのポスターに、Pカップのモデルは使わないと思うんだよな。
閉じられた場所でやる分には好きにすれば(それが「表現の自由」の範囲)って感じだけど、
下は普通のタイトなスカートだったんだが、上半身はすごい高級そうな黒いブラジャーだけで駅の中を歩いてた。
見た目は若いスタイルの整った美人だったんだが恥じらうでもなく普通にしててギョッとした。
ひょっとしてそういうファッションなのか?と思ったのはその2人の持ち物に女性の上着らしきものが無かったから。
この人だけなら 変なヤツが居た で終わるんだが、8月に京都の南禅寺に行ったときも同じような格好の白人の女性が居た。
男5人女性1人のグループで男は普通にTシャツとハーフパンツなのだが
女だけがなぜか上半身が赤のブラだった。やはり高級感のある一品だった。
共通して自分の格好に何も疑問を持っていない様子だった。真っ昼間から酒を飲んでるようでもない、至って普通。
外人は薄着なことが多いし日本は暑いのは確かだが、だからって下着でウロウロするって文化圏あるの?
ひょっとして俺の知らないところで問題になってたりする?これ。
知人に話したら良いもの見れたな!って茶化されたけど、気分的には中年のデブのズボンのチャックが全開だったのと同じような不快感だけだった。
幹部自衛官の知り合いが何人かいるのだが(単に規模がデカくて頻度が多い同窓会をいくつか掛け持ちしてるだけであり、私に友人がたくさんいるというわけではない)、彼らの大部分が「自衛隊は何よりも優先される」と思い込んでいて非常に怖い。
某大卒の人間が特に顕著であり、なにがあっても自衛隊は優先され民間企業は一度でも自衛隊に関わったのならその組織力の全てをもってサポートしなければならないとすら思い込んでいる。世界大戦下における増長した軍属の姿そのものずばりが、令和の世を堂々と闊歩しているのである。
彼らがこんな状態になったのは、間違いなく洗脳によるものである。自分たちの都合がいい手駒を作るために彼らの思考をこのレベルになるまで破壊した者達、個々人の力では成し遂げられないレベルで洗脳を施すような巨大なシステムが存在しているのだ。なぜ……こんな酷いことが出来るのだろうか。
ワタミの社員はワタミの為に身も心も捧げるが、それはお客様の笑顔のためというお題目のためであるし、犠牲にするのは彼ら従業員の人生だけだ。洗脳済み自衛隊ファースト自衛官の思考回路はその遥か上をゆく、日本のほぼ全て、それどころか世界のほぼ全てが自衛隊という組織の円滑な活動に奉仕するために存在していると思いこんでいるのだ。
平和な暮らしを守るためなのだから、その暮らしなんて破壊されてもいいと本気で思い込んでいる。だがそれも仕方ないのやも知れない。彼らは入隊と同時に人権を一度売り渡す。人間であることを辞める。それから、自衛隊という組織によって人権の一部が返還されるのだ。人間の思考とは恐ろしいもので、一度取り上げられて返されると、それが元々は自分のものであったという自覚が薄れてしまう。彼らの精神の根底には、『人権は自衛隊様より与えられるものである』という全く見当違いの思い込みが根を張ってしまう。その根にこれでもかと栄養を与えられ、人格の奥にまでそれを張り巡らされ、やがて『星の王子さまに出てくるバオバブの木』に侵食されるがごとく元々あった精神の土台がまるごと破壊されてしまうものも少なくないと聞く。その成れの果てが俺様幹部自衛官であり、自衛隊ファースト族なのだ。
自衛隊が私達の日常を守ってくれているという側面は確かにある……あるのだが……彼らの考える日常が私達の考える日常と同じだとは思わないほうがいい。『生まれつき備わった人権を守られながら文化的な生活を送ること』を我々が日常と捉えていたとして、彼らが考える日常は『自衛隊により貸与された人権の元に日本という国家を存続させるための歯車として生涯を捧げること』なのである。実態は……我々の生活の実態が後者にすぎないのであったとしても、それを自覚し肯定するつもりは我々には毛頭ないが、自衛隊に染まりきった人間はそうではない。
私はこのことが本当に恐ろしい。
戦争映画の中に出てくるような、自分たちこそが世界の中心であり世界が滅びてでも守られるべきは自分たちであり、最悪自分たちさえ生き残ればそれが最良なのだとでも考えているような軍人は、確かに実在するのだ。この21世紀にも。令和にも。2019年にも。
全身イエローで顔がない人たちがうじゃうじゃと出てきて怖い。こっちに向かって手招きしたりガン飛ばしあったり、挙げ句の果てにはうじゃうじゃ踊りだしたりして怖い。太った人もいれば痩せてる人もいて、限りなく人間に近い容姿をしているのに顔だけはのっぺらしてて不気味で怖い。
それなのに金髪おかっぱの女の子達だけはちゃんと人間の容姿をしていて笑顔を振りまいていて、周りの全身イエローとは明らかに一線を画して存在していて、アンバランスな世界観が怖い。ネオン眩しいビルが密集している謎の空間にだだっ広いステージがあって、近未来のような過去のような既視感があるようで無いような感覚になって怖い。
一番怖いのは中盤で、女の子達が一続きになったタイヤをでかい包丁のような物でカットしているシーン。こちらに気付いた女の子たちが一瞬ニヤって笑ったときの表情が怖い。特に、左側の女の子が「あ、見ちゃったんだ…」と言いたげな冷たい目と半開きの口をしていて怖い。
CMの冒頭からの流れを思い出すと、このCMは1人称視点での映像となっていて、きっとこのイエローシティに迷い込んだ人間を描いているのだと思う。
道を見失ったこの人物はおぼつかない足取りで周りをキョロキョロ見渡しながら歩いた。不思議な人達が道を闊歩している。途中ではタイヤをカットする女の子達を見かけた。女の子達は不敵な笑みを浮かべていたが、その意味は分からなかったのでとにかく道を進んだ。たどり着いた広いホールのような場所で爆音が響く中、全身イエロー達はノリノリで踊っていた。圧倒されながらも、ふとステージに目をやると先ほどの女の子達がいた。おかしい、女の子達はいつ自分を追い越していったのだろう。まあいいか、このリズムに身を任せてみよう。ああとても楽しい、いつまでも踊っていたい、いつまでも。
そして、……。
イエローシティに迷い込んだが最後、帰ることは出来ない。イエローシティから出てくるのは店舗へ送られるタイヤのみである。タイヤの製造方法は社員さえも知らない。そして今日もイエローシティへ迷い込む人間が一人……。(おわり)
マジでこれ考えてたら眠れなくなってきた。
光の増田は非常に眩しく、輝かしさなぞ禿げ上がった頭しかない闇の増田は妬みつらみを吐き連ねる。
光の増田は簡単に言う「闇の増田の人生がつまらないのは闇の増田が楽しいことしてないからじゃない?」と。
闇の増田は憎悪をもって言う「楽しいことをしようにも社会が全く面白くないのだ」と。
「それはおかしな話だ」と光の増田は疑問の表情を浮かべ「楽しさっては自分で社会へ発信するものでしょう?社会が面白くないのはアナタが面白いものを作って自分の目の前に置かないからよ」と続けた。
闇の増田は戦慄した。光の増田は何と恐ろしい存在か。コイツは自分の視界を自分で作った面白いもので満たしてやがる。コイツの目には社会が面白いようにしか映ってない。
ちょっと前は小花柄のワンピースをきた若い子がゴロゴロいたけど、今日は全く見なかった。
みんなあのワンピ、どうしたんだろう?
ショップのお姉さんたちが着てたのは、Tシャツの肩をデロッと出してレースのタンクトップを出すお洋服。
あれ、、、お洒落なの?
サイズの合わない服を着て、下着(シュミーズ)が見えてる女の子ってさ、、、
しかもシュミーズがベージュだったりするから、白い下着が黄ばんでるように見えるし。
もう、誰か止めたげて。
衿抜きシャツも、ふつうのシャツの衿を抜くのはいいけど、そういうデザインはなんかダサく感じたんだよな(着こなしは同じなのに)
上着の肩を抜いて半分脱げかかった状態で闊歩する女子たちを見ると、「いっそ脱げや!」と叱りそうになった。
昭和の女なので。
お洒落でしょ、とばかりに。
これを小物で今年の味付けをする。
今年はやっぱりクリア素材が気になる。
すでにPVCのバックは古着屋でゲット済み。
日焼け止めの宣伝の森星さんが美しくてキラキラ輝くピアスが眩しくって。
で、ゲットしました。
黒髪で重たく見えがち(かつ地黒)な私を
明るく見せてくれる。
かわいい服に合わせるのも良いけど、デニムシャツに黒スキニーというボーイッシュなスタイルにさらっと合わせたい。
足下はヒールだな。
地味な私も光を集めてくれるかな♪