はてなキーワード: 社会科学とは
「人文科学」って言い方に対して異議がある人へ……本当にすいません………
科学を自然科学・社会科学・人文科学と3つの分野に分ける事があるけど
自然科学の分野にいる人が「科学とは何か」について語る程には「自然科学とは何か」について語る姿を見かけない
一方で「社会科学とは何か」「人文学とは何か」について語る人達はもっといるのに
んでそれが結局何故なのか考えると
やっぱり自然科学が「科学全体から社会科学と人文科学に分類される部分を除いたもの」
現代において先に社会科学・人文科学の分野を定義せずに自然科学を定義するのが凄いしんどい
でも上記のような差集合として自然科学を定義しても全く問題で無い気がする
自然科学の定義にはとりあえず科学の大雑把な分類をするための必要性しか無い
一方で社会科学や人文学には特有の方法論があり、それぞれについて語られる事があるんだろう
そして自然科学の分野に入る研究者は差集合として定義される言葉には興味を持たず、科学全体について語るようになり
科研費は、人文学、社会科学から自然科学までの全ての分野にわたり、基礎から応用までのあらゆる「学術研究」(研究者の自由な発想に基づく研究)を格段に発展させることを目的とする「競争的研究費」であり、ピアレビュー(同業者(peer)が審査すること(review)で、科研費においては、学術研究の場で切磋琢磨し「知の創造」の最前線を知る研究者が審査、評価するシステム)による審査を経て、独創的・先駆的な研究に対する助成を行うものです。
https://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/01_seido/01_shumoku/index.html
社会科学の科学性なんて自称でしかなく、科学風味の物語に過ぎないという点で文学的解釈と等価。でもそれじゃあオマンマの食い上げ、同業他社に勝てないから科学性を嘯く。つまりコンテンツとしての演出、商標や屋号に過ぎない。経済学における純粋数学ごっこと同様に商売敵を排他するための手段でしかない。太田光を下位に位置づけているがマトモな知性から見れば両者ともどもくだらない安物語でしかない
https://twitter.com/kemohure/status/1500287047118258183
爆笑問題の割と熱心な方のファンから言わせてもらうと、太田の政治についての発言に残念なものが多いことは確かだけど、不勉強に由来しているわけでは全くない。
太田が又吉と並んで芸能界一の読書狂で文学オタクであることは周知だが、政治はまず社会科学の視点が求められるのに、太田はその文学的な視点で政治の問題を語って炎上してしまう。社会科学的には民族も国家も政治的な構築物であることが出発点であり、まずは政治指導者たちの政治な利害関心から分析しなければいけないのに、文学頭の太田は政治指導者の民族や国家に対するロマン主義的な心情を勝手に読み込むことを好む。
そういう共感的な理解を目指す文学者的な姿勢は、プーチンが何を考えているのかを理解する際に役に立つことは確かにあるが、それでウクライナ戦争全体の構造を理解できるわけがなく、さらに民族主義を本質化してその政治性を曖昧にしてしまう。在野の歴史家が例外なく素朴なナショナリストになってしまうのも、社会科学的な視点を学ばないから。勉強が足りないのでは決してなく、いくら勉強しても文学的な視点でのみ国際政治を語るとこうなるということの一例。
新しいものは常にどうなるかわからない段階からスタートしている。
100年の積み重ねというが、その100年より前は鎖国で海外列強に太刀打ちできる技術力なんかなかった。韓国、台湾なんか戦前は植民地化しての一時期しかなかった。
長期的だから検証が難しいからこそ、社会科学であとからでも検証するべき。そもそも歴史書ってのは科学すらない時代に過去の政治でどんなのが良いか悪いかを判断して今につなげるためにまとめられ、次の時代の皇帝の勉強の材料となった。
まず大学と大企業の研究所に金と時間を与えて再興するのが先じゃね?
そもそも昔の大学や大企業の研究所もその前の世代が戦後の焦土から金と時間を掛けて育んだからだ。すぐ確実な成果を求める新自由主義が故に破壊されたが、また育み直すだけのこと。
「社会科学なんて必要?」なんて態度だから、すぐ確実に求める成果と、口のうまい評論家の思いつきによる根拠があるものしか金を出さなかったからこその今の焦土化でしょ。
身長差別(英: Height Discrimination)、あるいはハイティズム[1](英: Heightism)は、身長に基づいて個人を差別することをいう。原則として、身長がある集団内における通常の許容域に属さない個人に対して行われる差別的取り扱いに関する言葉である。
身長差別は、平均身長より大幅に背の低い男性に対して行われるのがもっとも一般的である。また、こういった差別は一般的に受け入れられ、無視されている[2][3]。高身長の女性の中には、身長を小さくするため、多量のエストロゲンを使う人もいる[4]。
研究によれば、人間の脳は身長を社会的ステータスや健康状態を見極める指標として用いている傾向が確認できる[5]。脳は自動的に身体のサイズを、リーダーとしてのポテンシャル、権力、強さ、知性と結びつけている。この効果は生後10ヶ月ほどの幼児にも見受けられた[5]。身長は、ある個人の栄養状態が良いことや、高い社会的ステータスを持っており、したがってリソースを幼児に供給してくれることを示す指標となっているからだと、進化心理学者[誰?]は理論づけている[5]。また、身長は他にも一般的な健康や身体的な強さをも示すが、後者は支配力を行使する上で有用になりうる[6]。前述の特徴と身長の自動的な連想は、女性を評価するときよりも、男性を評価するときに、より強くなると見られている[5][6][7]。
ある研究によれば、環境要因を排除した場合の身長の遺伝率は55.4%(標準誤差は4.4%)であるという[8]。
"ハイティズム"という用語は、社会学者であるSaul Feldmanが、「The presentation of shortness in everyday life—height and heightism in American society: Toward a sociology of stature」と題した論文で用いたのがはじまりである。この論文は1971年に開かれたアメリカ社会学会(英語版)で発表された[9][10]。ハイティズムという用語は『Second Barnhart Dictionary of New English』(1971年)にも掲載されており[11]、1971年発行のタイム誌に掲載されたFeldmanの論文によって広まったとされる[12]。この単語は、「接辞の変わった用法」を通じて新しい単語を提供するタイム誌の慣習の一つの例であるといえる[13]。ただし、タイム誌自身は、この単語が1991年版の『Random Webster's College Dictionary』に収録されるのに反対していた。彼らは、『ランダム・ウェブスター』を「読者の気分を害さないように必死で、良い用法だけをのせる」、「疑問符が浮かぶような数多くの用法に権威を与えるが、そのうちの多数はポリティカル・コレクトネスの考え方に染まっている」辞書の例としてあげている[14]。 ハイティズムという語句は、セクシズムという語の用法を模倣するような使い方、特に偏見や差別に関係した使い方が増加していることの一つの例として見ることができる[15]。
ハイティズムはデートでの選好においても一つの要素となる。身長が、性的魅力においてもっとも大事な要素だという人もいる。
高身長の男性の方がかなりの程度生殖に成功しやすいという事実は、高身長男性がより結婚しやすく、より子供を持つ可能性も高いことを示唆する研究により証明されていた。例外は、戦争などで著しく男性が少ない社会だけだ[29]。しかしながら、最近の研究では、この理論に疑問符をつけるものも多くなっており、身長と子供の数の間にはなんの関係もないことがわかっている[30]。さらに、脚の長さや脚と体の比率に関する研究では、高身長の配偶者に対して著しい選好がみられるという考え方と対立する結果が出ているという。2008年の研究では、高身長にしろ低身長にしろ、極端な場合は魅力が減るとの結果が出ており、2006年の研究では、脚と体の比率が低い男性と比率が高い女性は美的アピール度が増してみえることがわかっている[31][32]。進化生物学的観点からいうと、これらの発見は身長と健康に関するデータと一貫性があるといえる。したがって、生物学的論拠、もっと具体的に言えば、背の高い配偶者への選好に関する進化論的論拠は疑わしく、具体的なエヴィデンスを欠いている。また、Journal of Family Issuesに発表されたある研究では、高身長への選好は進化論的なバイアスというより、社会的期待によるものだと示唆する証拠も見つかっている[33]。
行動経済学者のダン・アリエリーの研究によれば、アメリカ人女性は高身長男性とデートすることに対して並々ならぬ選好をみせ、低身長の男性が魅力的と判断されるには、高身長男性よりもかなりの額を稼がなければならないという[34]。また、オンライン・デーティングを研究する社会科学者によれば、男性も身長の低い女性を好むとされ、実際に低身長の女性と高身長の男性はより多くメッセージを受け取る傾向にあった[33]。ただし、女性は高身長の男性を理想とするが、実際のヘテロカップル間の身長差は、理想の身長差ほどは開いていないこともわかっている[33]。
2012年に行われたある研究では、男性も女性もトレードオフの手法を用いて身長差について妥協しようとしていることがわかった。男性は妻よりも1%高い賃金を稼ぐことで、1.3BMI分を埋め合わせている可能性があり、女性は高等教育を1年多く受けることで、2BMI分を埋め合わせている可能性がある[35]。さらに、2015年の研究では、男性も女性も高身長の配偶者を持つことで、利益を得ていることがわかった。夫の側では、妻の身長と相互関係にある優れた点、たとえば教育知識などに起因する長所を得ることができる。妻の側でも身長の高い配偶者を求めているが、これは高身長者は高賃金を得やすいからである[35]。また、全米経済研究所の調査によれば身長の低い男性は、若いが著しく教育水準の低い女性と結婚する傾向にあったという[33]。
それでもなお、ポスト工業化社会における文化的レベルでは、身長と魅力の間の社会学的関係は存在するといえる。この文化的特徴は、一方で近代化した世界には適応することができるが、他方では超自然的な人間の本質というわけではない[36]。ヘテロ女性の出会い系サイトでの行動に関する定量的研究では、高身長男性に対する著しい選好が示され、女性の大部分は平均よりもかなり身長が低い男性を受け入れないことが示された[37]。フローニンゲン大学とバレンシア大学での研究では、魅力があり、肉体的に優位で、社会的に力を持つライヴァルに対してもっとも不安を感じていた男性は、自分たちの身長が高ければ高いほど、嫉妬を感じにくかった[38]。この研究では、ほとんどの女性は他の女性の身体的魅力に嫉妬を感じていたが、中ぐらいの身長の持ち主はほとんど嫉妬を感じにくかった[39]。オランダとスペインの研究者によって作成された報告では、平均的な身長の女性はもっとも繁殖力が強く健康的な傾向にあるから、似た特徴を持つ女性に対して脅威を感じにくい傾向にあったと述べられている[40]。
アメリカ精神医学会の公式月刊誌である『American Journal of Psychiatry』に発表された調査結果によれば、スウェーデン人男性では身長の高さと自殺率の高さに強い負の相関関係があることがわかった[48]。これは、成人男性の精神障害の原因に子供時代から晒されていることの重大さの表れかもしれないし、低身長の男性が成人になってから生活の中で直面するスティグマや差別を反映しているのかもしれない[48]。1,299,177人のスウェーデン人男性を18歳から、最大で49歳まで追跡し、出生、徴兵、死亡率、家族、戸籍などのデータのレコード・リンケージ(英語版)による研究を実施した[48]。すると、身長が2インチ(5cm)増加すると、自殺のリスクが9%低下することがわかった[48]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BA%AB%E9%95%B7%E5%B7%AE%E5%88%A5
死刑存置派として、個人的な考えを書き記して残すことにした。これを書くのは「死刑廃止派って何がきっかけでそうなるの?」と題する増田を読んだのが切っ掛けである。
あくまでも現時点で死刑存置派なのであって、私が未来永劫、死刑反対派にならないとは限らない。
私は人文・社会科学を修めていない人間なので、専門知識がある人から見れば、私が述べることには愚かなところが多々見つかるであろう。しかし、死刑について広く社会的な議論が行われるべきであるとするならば、私のような市井の愚か者一人の考えをサンプルとして書き残して提出しておくことにも、何らかの意義はあるであろう。
「馬鹿の考え、休むに似たり」とも言うが「お前が考える程度のことは、既に先人が考え尽くし、議論し尽くしている」と、学習すべき資料などを御教示してもらえれば幸いである。
最初は箇条書きのメモ程度にするつもりだったのだが、書いているうちに思ったよりも長くなったので、分割して投稿する。
本稿では、犯罪や死刑に関連した考え、人間観とか世界観とでも呼ぶべきことについて記す。
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細胞というものは、ある程度の自立性は有るものの、基本的には有機体の一部としてしか生きていく術はない。そのため、細胞同士が連携して、有機体全体の存続を図ることには価値がある。
犯罪とは「社会という有機体の内部で発生する、病理現象」である。社会という有機体の存在無しには、犯罪という現象は起こりえない。
犯罪者とは、社会という有機体にとって「病理を引き起こす、悪変した細胞」である。
犯罪とは「悪変した細胞が、他の健康な細胞に害を及ぼす現象」である。この「害」には2種類がある。それは
・害(1):他の細胞を餌食にすること=同じ社会の構成員である、他の人間を犯罪の被害者にすること
・害(2):他の細胞を悪変させること=同じ社会の構成員である他の人間を、自分と同じく犯罪者にすること(共犯関係に引き込むことや、犯行動機の思想や犯行手口等に関する情報を与えることによって模倣犯化させること等を指す)
の2種類である。したがって、仮に社会という有機体から全く独立/孤立した状態の細胞(=構成員たる人間)が存在するとしたら、犯罪という病理現象を引き起こすことはできない。害を及ぼす対象が存在しないからである。
犯罪を「病理現象」と見なすならば、対処方法は大きく3つに分けられる。ただし、互いに完全に分離することが可能という訳ではなく、重なる部分もある。
・対処(3):リハビリテーション=治療が終了した後の元・悪変細胞や、悪変細胞によって害を被った周囲の健康な細胞へのアフターケア
捜査・逮捕・裁判・刑罰という一連の司法的な処理は、このうち対処(2)に該当する。死刑やそれに相当するような犯罪に関する話とは関係が少ないので割愛するが、対処(1)・(3)に該当するのは、主に教育、経済的援助などの社会的なセーフティーネットである。ただし、死刑以外の刑罰を受けている間、犯罪者が更生教育を受けることもあるので、ここまで簡単に3つの領域を分離できるわけではないことは承知している。
死刑に処すほどではない犯罪者は「健康な状態に戻すことが可能な細胞」である。
死刑に相当する犯罪者は「除去するしか方法が無いガン細胞」である。また、ガン細胞は単独活動による害だけでなく、周囲にシグナル(情報)を発して、他の健康な細胞を悪変細胞に変えて、ガン細胞の集団を生み出すこともある。
現時点の私が、死刑の存置に賛成する根底には、このような人間観/世界観がある。死刑反対派と存置派の対立を理解するには、両者の間に人間観/世界観の相違が有ることを踏まえる必要があると思ったので、私のそれを書いた。
おそらく、死刑反対派と存置派を分けるのは、個人の自由に至上の価値観を見出すか否かの相違ではないか。個人の自由に至上の価値観を見出すことで「死者は権利を主張しない」「だから、死んだ人間のことを考えても仕様がない」「それよりも、生きている人間である、加害者のことを優先的に考えるべきである」という考えに行き着くのではなかろうか。
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左の人が言いがちな、経済的成長は幸福をもたらさない、みたいな話にも近いというか、
集団がことなかれ主義に陥って、保守的になってるんだとも思える
つまり、実際の仕事が前進しているかはどうでもよくなっている可能性がある
文章内の攻撃的とか難しい人というのが、本当に仕事を妨害している人なのかは現場を見ないとわからない
だから、そういう抽象的な表現で、そういう人は邪魔だよね、排除した方が生産性が上がるよね、というのが寧ろ攻撃的に思える
個人的に思うのは、感情的な人が仮にいたとしても、寧ろそれに流されない方が良いのではないか、ということだ
感情的な人や攻撃的な人が悪というより、単にその感情的要素は無視すれば良い
そんなことより、仕事が前進してるかどうか、ということだけ考えればいい
そうすれば、相手が感情的であるかどうか、なんてことは、どーでもいいことのはずだ
ログミーの話は抽象的すぎるので置いておくとして、トゥギャッターの話は自分はモヤモヤする
「どうして〜なんですか?」
という疑問に返答しない、寧ろそれに苛立つ、という人の方が寧ろ感情的であり、攻撃的であるといえまいか
返答内容が、そう決まってるからそうなんです、でもいいではないか
サラッとそう流せばいい
相手がそれでも執拗に言ってきたとしても、そう流し続ければいい
どうして、それができないのか?
つまり、受け手側もその質問と同じ疑問、苛立ちを持っているとも考えられる
そういう風にしか思えないことが、仕事であれ日常生活であれよくあるように自分は思う
痛いところを突かれた、図星だ、そこから過剰な防衛反応に移行する
素朴な疑問を呈した人間は難しい人だ、
攻撃的な人、難しい人は生産性を下げるという論文がある(某メンタリストのような権威主義、恣意的な論文引用による正当化
自分が加害者でも被害者でも、そんな推論のハシゴをゆっくりなんてとっくにやってる
ゆっくり登ったって、論理的思考ができない人は圧倒的にできない
「なんで〜を選択したんですか?」
という問いに丹念にゆっくり、その推論のハシゴとかいうのを登ったところで、一番上に到達する前に相手が議論を放棄する
特に上司というか、仕事での権力の関係があれば、それは顕著になる
結論を最初に持ってくれば、それはそれで急ぎすぎだと言いつつ理解しようとしない
じゃあ、ゆっくり議論ができたらどうなのか?とできたとしても、そこには人間の思考としての意味で人種が違うという圧倒的な壁が出現する
あー、これは最初から会話にならないのに、自分は頑張ってたんだな、という徒労感だけが残る
仲良しクラブは成り立たないし、グーグルが心理的安全がどうこう言おうがクソ食らえだ
理不尽であれ、そんな丁寧な議論は、上から一蹴されるだけで終わる話なのだ
オチを考えずにだらだら書いてみたが、やはり思うのは、結局議論の意味なんてなくなるのである
これはマキャベリズムとして正しいし、意外とマキャベリズムは正しいことが多いのが現実である
ログミーなんか読むより、君主論読んだ方がいいのではないだろうか
理想的な、みんなが理解し合えるチームワークなんて絶対成り立たないことは、バカな自分でも長い人生経験で分かってる
単に目下の素朴な疑問を持つ人は、攻撃的だ、難しい人だ、で集団が追い出せばいい
いわゆる、イジメ、虐待の構図だが、それは集団社会では仕方がない面もある
しかし、これが上司、権力構造的に階層が上の方向に向けるなら話は別だ
これは日本でなくても、他の国でも変わらないように思う
端的に言えば、上司が難しい人、攻撃的、それが気に入らないなら辞めるしかない
不愉快な時間で人生を消耗するのもイヤだろうし、それが金銭的利益より優先されることもある
があって、まず3は避けたい、というのがあったように思う
それに対して、君主である自分は分からない、側近に相談しても側近も分からない、
これは当然避けるべきである
例えば、上司がその新しい技術を理解できない、これはまあいい、理解できないのは当たり前だが、
理解できる側近に騙されるのではないか、寝首をかかれるのではないか、
そういったことを考えているのだな、と思える上司、君主は非常に多いように思っている
マキャベリは、君主として自分が理解できないことがあり、側近には理解できることで側近に騙される、
そういったことに対して直感的ともいえる、側近のウソを正しく見抜く力、
そういう力がない君主は単に駄目なだけのように書いていた気がする
仮に側近が善意で行動したことでさえ、君主には理解されず粛清されることもよくある話だからである
側近を信じ切るような君主もバカであるが、疑いすぎる君主もバカであるし、
自分が理解できないことを側近が理解できることを恐れるばかりの君主は、いつしか敵に打ち負かされるであろう
自分より劣った側近を周囲に置いていないと安心しないからである
あー、書いてて思ったんで再度書くけど、
Googleがこう言ってる、
〜という論文がある、
とか、まあ、参考程度するのはいいけど、それが正しいという前提で話すとか、最近の「頭でっかち」の風潮が非常に不愉快なんだけど…
そもそも、人文科学というか、社会科学というか、研究や統計調査だって理系のものとは大分違うものだということを理解してほしい
特に「脳科学」の研究だの、そういう研究をしている、していたからって、
痴話喧嘩だの人生相談だののレベルに偉そうに口出しする女性とかがメディアに出ていたりするが、
まあ、まともに研究している人ならそんなことはしないわけで、
ソーシャルメディアというか、いわゆる「単なる目立ちたがり屋さん」に自分の人生を振り回されるの、馬鹿馬鹿しいと思うんだよなぁ…
それより、理系のこととか、法律とか、そういうことは揺らがないわけで、
というか、なんか最近の世の中は急ぎすぎてるんだか、その自分の判断だの悩むところを時間の無駄だと思ってないか?
一生結論なんてでなくていい、結論が出ないまま悩み続ければいいことに、一足飛びに答えを求める
その「単なる目立ちたがり屋さん」のYouTubeとかブログとかTwitterとかテレビとかに答えを求めて、そーだそーだ言ってる
なんか、そういうのって虚しい行為だと思うんだよね
でも、そういう虚しい行為をGoogleなり、キラキラした企業なり、起業家なりがやったり言ったりしてるんで、
それに飛びつきたくなる気持ちは分かる
そこに答えがあるんじゃないか、
いや、もう考えるの面倒だし、それが正解ってことでとりあえずやってけばいいんじゃないか、
みたいな風潮がやっぱりあると思うんだけど、
まあ、馬鹿げてると思うんだよね
人として
いろいろしくじってきたが、その後のことも考えると、人生で一番大きなしくじりだったと思う。
を検討していた。
コンピュータと人工知能に関心があったということが候補を選んだ理由だった。
当時、LinuxやFirefoxなどのオープンソース活動に興味を持っていた。
また、脳科学や認知科学、人工知能など人間の知能に関する分野にも興味を持っていた。
研究分野としてはOS・コンパイラなどのコンピュータの基礎研究という印象を受け、
工学の方が自分の嗜好に近いと考えて工学部の学科を検討することにした。
工学部機械情報学科はロボティクスを中心とした情報を扱っていて、
ロボットのハードウェアへの興味が低かったことから優先順位を下げた。
そして、
を候補として考えた。
機械系のカリキュラム・研究も含まれていて、2つの学科が扱っている分野が共通していた。
違いとしては、システム情報工学では応用物理系の内容を中心に扱い、
知能社会システムでは機械系から社会工学・経済工学まで扱っているという違いがあった。
そして、次の理由から知能社会システムコースを候補として考えた。
私は教養学部での講義からゲーム理論やシェリングの分居モデルなどの話題に触れ、
また、当時行動経済学や経済への物理学の応用などの書籍を読み社会科学系にも興味を持っていた。
人工知能やマルチエージェントや進化計算などの複雑系にも興味を持っていた。
また、自分の関心がある講義が他学科にも分散していたことから、
講義を取りやすいことも良いと考え、自立して科目を選択できると考えた。
また、製造業や電器メーカーの不調から従来の工学系学科に進んでよいのかと悩んでいた。
できて数年の学科だということで新しいことができるのではないかと無根拠に考えていた。
そうして工学部システム創成学科知能社会システムコースに進むことにした。
そうして、システム創成学科知能社会システムコース(PSI)に進学したが、
思うようにはいかなかった。
幅広い分野を扱いつつ、講義数が少ないということで全体的に内容が薄く、未消化気味だった。
また、講義間の関連性が薄く、体系的に学べることが少なかった。
などの工学の基礎となりうることは扱うのだが、基礎に留まっていた。
また、講義を受けてのレポートが中心で理工学の演習は少なかった。
工学部だから機械や電気ではなくても理数系を基礎として扱うのだろうと考えていたが、
予想とは違い少なかった。
統計は理工系でも社会系でも重要なものだからもっと力を入れて欲しいと思う。
そのため、ディスカッションやプレゼンテーションなどの機会があったが、
幅広い分野を扱っているということもあり、学生層が広かった。
その分、興味が合いそうな同級生を見つけにくかった。
カリキュラムが少ない分、就職活動を頑張って学部で外資などに就職しようという
学生も多かった。
全員が全員そうだということはなく、修士も進むことを考えている学生もいた。
他学科聴講は思ったよりもできなかった。
受けたいと思った講義の時間が被っていたり、前提知識が不足していたりして、受講が難しい場合があった。
学科での講義に関心が持てず、モチベーションが下がっていたということもあった。
研究室には学部3年後期に配属される。カリキュラムの少ない分をそこで補う想定らしい。
しかし、私が所属していた研究室では、学部就職する学生が多く、
他大学からの院生やポスドクが中心であまり教育が受けられなかった。
システム創成は機械情報学科や計数工学科と違い、情報理工学系研究科ではない。
進振り時点ではそこまで差を考えていなかったが、講義の内容やPCなどの設備が違っていた。
大学院でより専門性を高めたいと考えて情報理工学系研究科に進んだが、
実力の不足から、大した実績を上げることができなかった。
学部では幅広い内容を身に着けて、大学院で専門性を高めるということを考えていたが、
他の研究室に進学するならば、その研究室と密に連絡を取って、院進学前から
必要な勉強・研究計画作成をしないと、講義や就活で研究に必要な時間が取れなくなる。
このようなことから、大学院では成果を出せず、就職活動もあまりうまくいかなかった。
振り返ると、それまでの人生で初めて大きな意思決定をする機会だったが、そのことを十分に認識できていなかった。
取捨選択するということができず、幅広いカリキュラムがあるということから選択肢がありそうな道を選んでしまった。
安易に考えず、具体的にメリット・デメリットを書き出して、検討すべきだった。
それまでどれかができるということではなく、どれもできるようになろうとしてきたことがあり、
立花隆さんの影響を受けていて、文理ともに学ぶことに憧れていたが、
その難しさを分かっていなかった。
意思決定をするために必要な情報を集めて、裏を取るということができていなかった。
まあ、サークルに工学部の先輩がほぼいないという事情もあった。(普通工学部は忙しいからな。)
もう少し聞けていれば、進学先を再検討していたと思う。
自分が目指すような幅広い分野を学ぶということを行うのであれば、基礎を幅広く身に着けることを
念頭において進学先を選ぶべきであった。
そう考えると、情報科学科や計数工学科に進むことを考えるべきだったと思う。
理学部情報科学科については小中高からプログラミングを扱っている人が多いと聞いていて気遅れしていた面もあった。
独学で学ぶようにはしていたが、学科に進学した方が教育や同級生など成長できる機会は多かった。
学部で情報系の基礎を身に着けて、大学院で応用に広げることも十分考えられたが、当時はその想定ができなかった。
あと、当時情報科学科や電子情報学科が進振りの最低点(底点)が非常に低く、避けた方がよいかなと思っていたところもあった。
進振りで高い点のところを目指していたわけではないが、つい点数に左右されてしまった。
今の機械学習やディープラーニングは自分が当初やりたかったことに非常に近かった。
大学院でそちらに進もうとしたが、実力不足から挫折してしまった。
情報科学科や計数工学科に進学していれば、その分野に進むチャンスが大きかったと思う。
教養学部時代に自分がやりたいことについて、教授に相談したり、一般書籍ではなく学会誌を読むなどしていれば、
進路を明確に決めて、進振りでの失敗も避けられたのではないかと思う。
進振りでは点が足りなくて進学できなくて失敗したという話を良く聞くが、
これは進学先の選択を誤ったという話である。その分、あの時選んでいればという後悔が大きい。
システム創成について、自分の失敗から悪い面ばかり記載してしまった。
私の進振りでのしくじりを具体的に書くことで何か参考になればということで書いたものである。
自由度が高い分、自分で計画を立てて行動できる人にとっては良い面もあると思う。
私自身は進路・キャリアを良く決めないまま進学してしまったため、うまくいかなかった。
など学科の色がはっきりしてきて、その方面に目指す人にとっては良い学科と思う。
(カリキュラムはあまり変わっていないらしいという話も聞くが。)
失敗したと思っても、将来どうなるかは分からない。
現に情報系学科は過去は非常に底点が低かったが、今は高騰している。
システム創成ではないが、大学院で他分野に進んで研究者として業績を上げている知り合いもいるので、
あまり後悔せず、前を向いて進んで欲しい。
https://anond.hatelabo.jp/20201128150814
政府の東京五輪強行、ワクチン遅れにより東京で医療崩壊が発生し政府批判が激しくなった2021年初夏頃に登場。東京では死が身近になり当時のはてなはどこを見ても与党自民党への憤怒で溢れているような血色ばった状態であったが見事に流れを変えた。
特徴は「心情的に立憲支持だが現状ではこういうのがあるから支持できない」というレトリックを多用すること。結論は必ず野党批判になる。渉外的な仕事に就いている会社員にはお馴染みのレトリックだが、耐性が無い内勤者には刺さるようである。
また大きな特徴として選挙期間中には投稿が無かったことが挙げられる。開票と同時に投稿を再開した。
これはネット発フジTVデモが盛り上がり企業脅迫に転じていく際にそれらを一切扱わなくなった痛いニュースに似ている(最終的に懲役になった者が出た)。業務的にこなれており政治運動慣れが窺わえる。由って名の由来とした。
文章に緩急があり口語調を巧く挿入して読み易くするなどネットで文章を書く能力に長ける。
弱点は一般の新聞などから情報を得ていないこと。ほぼ全てネットメディアや機関誌から得ている。
また戦後政治史と立法や社会科学一般に関して素養が無いこと。岸田文雄がヤバくて高市早苗が保守本流と思い込むなどの常識の無さが挙げられる。
自民党員を公言。尚、自民党では家族党員制や紹介制を採っているため党費だけ払えば党員になれるという事はない。縁が必要である。この為党員が都市の会社員より地場産業従事者や宗教右派に寄っている。
「成長戦略」を述べるには「ここに金をかけたら成長する」という存在が必要なんだよな。
そこで成長戦略芸人とも言うべき、「ここに金をかけるべき」みたいな連中がいる。竹中平蔵みたいな。
でも先々成長する案件は儲けが見えてくる前は常にどうなるかどうなるかわからないものだから成長戦略芸人によって逆に潰されていくと。
まあ長期的な費用対効果も結局データ集めて科学の積み重ねでないとならない。社会科学は色々恣意的な指標が入りやすい。
それでも数を増やせば当たりそうな指標も作り得る。最も「長期的な費用対効果測定の費用対効果は?」のループに陥るw
そんなまどろっこしいことせずに口先八丁で成長戦略芸人が煽ってそのとおりにすれば反論しづらい「政策」とできる。だから重宝されると。日本のがん細胞だとは思うが。