はてなキーワード: 現実性とは
消火器じゃあ爆燃するガソリンに勝てないだろうなぁ、それこそ着火直後のコンマ数秒くらいしか猶予がないだろう
気化したりし始めると途端に手が打てなくなる
今回のは窓から脱出するのが一番よかったんじゃないかと思っている
対策はコレ、しようがないよ。気が狂った人を前にすると、それに対処するコストやフィージビリティが現実性を失う
まあガソリン販売を厳格にするのはありうるだろうなぁ。ただ、コレも車から抜いたりできるから、根本的にどうかというと微妙だが
→適当な住所氏名を書いて身分証明書を偽造した場合,窓口担当者がそれを見抜ける?
→全国にうん万とある雑居ビルのオーナー全てがやるわけねーよ。カネねーんだし。
今だって消防署の指摘なんてガン無視されまくりだよ。絶対に機能しない。
ただしこれができないと仕事にならない業界があるかもしれない。
→ガソリンスタンド据え付けのごっつい電子キーが無いと車の給油口が開けられないようにする。
なおかつスタンドからオンライン認証で車両所有者の中国ばりの信用情報の審査が必要。
スタンドの設置業者以外は物理的にガソリンを得ることができない仕組みにする。
現実性?無いよ。
→いやー無理だね。
ポリタンク持ってるいかにも怪しい男がいたって、こっちが先に飛び掛かって制圧するっていう判断ができるか?
ぶちまけて着火するまでの間なら?できねーよ。
結論としては、1部屋1個ぐらいしかない消火器をガンガン増やすしかない。
1本1万円もしないぞ。ガンガン買え。
これは同意するけど、
それは「異性愛者男性用に偏った」と関係なくない?「異性愛者女性用」の「レイプものとかぶっかけとかさ、泣き叫んで嫌がる男を無理やりとか」っていくらでもあるけど、それを見ても同じ感想を持つってことでしょ?性的指向・性自認の話からいつのまにか嗜好の話にすり替わってない?
全てのセクシャリティは政治的に平等であるべきだという意味で、「異性愛者男性向けに偏りすぎだから平等にしよう」というならわかる。「女性向けや同性愛者向けを増やそう」っていう解決策もある。
私は二次専でロリコンでリョナラーですが、私自身もそういう世の中の方が生きやすい。まず現実性愛向けに偏った世の中をなんとかして欲しい。
それは災害救助という分野での予備自衛官やOB的な存在としてという意味合いでですかね
だったら人数の分布としてさすがにそれは希望的観測が過ぎるしそうでなくても当時の訓練として知識としてレスキューの災害救助隊の錬度からしても自衛隊が災害派遣隊であればレスキューなんか目じゃない知識を持って高い意識が周知されていたはず、というのはやはり説得力に欠けるように思うしそれを根拠に比較とやって分母を大きくして批判的に選択への罪悪感的なものを刺激するのは何にしても単に反感を買う因子の方が大きく賛同を得るには拙いやり方だなと思う
自分は共産党は立場も思想もハッキリとしている分嫌いではないけど(大阪で対維新で自民と組むみたいになってたのはどうかと思ったけど)民主主義の中でその政策が選ばれないのは当然その有用性や現実性説得性の面での主張の不備にも責任があるように思うし(政策自体の不備ではなく)実際共産党の議員さん自体も選挙において現実的に311以前以後に争点として強くそこを据えて推し進めて詰めて来たかと言えばそうでなく政策をやる当の議員さんがそんなで実際国や命に関わる大きな事を変えるというのに有権者がはいそれで、となるわけはないように思う
そういう意味ではもしかしたら共産党がしっかりしていれば自衛隊が無くなりはしなくても阪神淡路や東日本の後に災害派遣の要素の更に強い部隊が別の形で出来ていた可能性もあったかもしれない
そこで国民が自衛隊を捨てられなかった結果だ、というのはむしろ端から政策立案側の共産党の議員さんが追う責任を無いものとしている、然も丸投げのようでそういうところなんだと思う
本来ならあなたのような支持者であり大事な票を入れた人こそが(違ったらごめんね)代表たる議員さんに対してむしろなぜそこをちゃんと主張しないのだと不甲斐なさに憤るべきなのに、と思う
元日に母親にあけおめメールをしたら、今年こそは早くあんたの子供の顔が見たいねぇって内容の返信が来た。
で、ふと思った。
よくよく思い出せば、機能は備わっていた。でも、だいぶ錆び付いているし、メンテナンスも2ヶ月くらい忘れてる。
というか、性行為自体が金を払ってサービスを受ける物もしくは動画の中で自分の自慰行為の為に他者が行う物って認識でしかなくなっている。
相手を見つけるという行動も、選ばれたイケメンだけが可能な行いで、目の前の現実の中でイケメン以外が主体であっても行われる事って認識も薄れてた。
孫が見たいと言われても、現実世界で自分が子供を作ることそのものの現実性やリアリティが完全に失われているのである。
この人との間に子供を作りたいという愛情や、その手前の性欲に振り回されたような独りよがりな恋の感情ももう手元には無い。
これが老いであり、恋愛と縁遠い人間の末路であろうとひしひしと感じている。
お母さん、ごめんなさい
私にとって子作りはあなたの死と同じくらい、知識としてはあっても、現実のものと想像できないことなんです。
今年も私の孫は生まれそうにありません。
元々、ただのオタクリーマンだった自分が4月頃にツイッターを眺めてたらキズナアイの動画が流れてきて
そこからVtuberの存在を知った。最初は、今でいう大手(キズナアイ、ミライアカリ)の動画だけ見ていたが
に〇さんじのVtuberを知り、恥ずかしい話ドハマりしてしまった。可愛いキャラが可愛い声で自分の好きなゲームやアニメの話をしてる。ハマるにはこれで十分だった
このサイト見てる人間に若年層は居ないと思いながら敢えて書くけど、自分は所謂「ちょwwおまww」(この表現も古いかな)
みたいな人間とは相容れないと思っていたが、コメントしそれにVtuberが返事をくれるのは嬉しいものだった。
そこからはそのVtuberのツイッターもフォローして、配信がある日は上司に早上がりを願って配信の前にはPCに立つ自分がいた。それだけ興味を惹いていたコンテンツだった。
でも、ある日の配信でVtuberが「〇〇さんって絵描きの方が~」とか、みたいな事を自慢気に話していた。何気なく見ていたが、
心の底で「羨ましいな、自分も絵が描けたら~」くらいの感情が浮かんでいた。でまたふとある日に、Vtuberが絵描きと仲良くリプライを飛ばしあってるのを見て
自分の中の黒い感情がハッキリと浮かんでしまった。「絵が描ける奴が羨ましい」これだ。色々オブラートな書き方も考えられたが、多分これが一番伝わりやすいだろう。
そもそも何も生み出さない有象無象の中であるファンの一人を認識しろなんて事は言わないが、やっぱりファンの中で一部の人間とだけ関わってるのを見るとどうしても嫉妬してしまった。
こんな事で嫉妬する自分が情けないと思いながらも、嫉妬心という物はどうしても湧いて出てくる物で辛かった。
じゃあお前も絵を描けばいいじゃんという話だが、自慢じゃないが自分はピカチュウを描いて10人に見せて3人がピカチュウと認識出来るレベルの画力なので、ファンアートなんて投稿しようものなら
Vtuberがコメントに困りながら「独創的ですね」みたいな気まずい返事をされる事だろうと思い、描けなかった。
その感情が生まれてからは、そのVtuberがリツイート也でファンアートの紹介やリプライで絵描きと慣れ合うのを見て、辛くなりツイッターのフォローも外して見なくなってしまった。
それ以来、Vtuberの動画はあまり見てない。こんな日記書いてる時点で未練タラタラだが、辛くなるのが分かってるので見なくなってしまった。
距離感の近いのがVtuberの人を惹き付ける所でもあり、また離れる原因にもなるのだろうか?それともこの感情を持ったのは自分だけなのだろうか。それが知りたくて日記を書いた。
勘違いされたくないので最後に書いておくが、絵描きとだけリプライを飛ばしあうのも、Vtuberの「自身の知名度を上げる」という本来の目的の一つだろうし何も悪い事はしていないと思う。寧ろ正解である。
Vtuberを嫌いになったのではなく、自分が辛くなるから自分から距離を置いただけの話だ。
思いの外反応を貰ったので驚愕している。黙って絵を描く努力をしろという意見や、他の創作物で、無産の嫉妬etc等の言及は正直最初から来るだろうなと思っていたし、
が、「Vtuberになればいい」等の意見が点々あるのを見て驚いた(現実性は兎も角として)。全く自分の中にその考えが無かったし、これもまた的を得ている言及だと思った。
最後に、自分は"まだ"誰も嫌っていないという事だけ伝えさせて欲しい。強いて言及するならこんな情けない記事を書いている自分くらいのもの。
こんな記事書いておいてなんだが、自分が絵描きだったらVtuberとリプライ飛ばし合ってるだろうと考えるし、そもそも好きなキャラクターの絵を描いている人間を嫌う訳が無い。
彼等はコンテンツの拡大という点において凄まじい貢献をしている。嫉妬と憎悪はかなり近い存在だが、本質的には別物と考えている。
昨日だか何だか、メールを3000通裁く部長素敵って書いた増田です。
自分の仕事でやるべき目標を決めて半期で行動していく!みたいなやつで
私はこの業目面談、大嫌いでした。
課長はダメ出ししかしないで、アドバイスくれなかった。キツかった。
今の業務から改善すべきところを適当にあげ、マニュアル作成したり。
KPIだか何だかで数値で目標決めれるよう頑張らないといけなくて本当に苦痛だった。
「もっとやりたい事をやって欲しい」って言われて泣きそうになった。
仕事においてやりたいことはあった。
ただし現実性というか夢物語だったりしたし、どうすべきか自分でも分からなかった。
今期は「マニュアル作成」は無くなった。全ての業目が「私の得意分野」に変わった。
評価の為の基準が決めれず相談したときも、嫌がることなく聞いてくれた。アドバイスもホイホイくれた。
なんなの惚れる。素敵すぎかっ。
その昔、
「Linuxのオススメのディストリビューション教えろください」
と言われたらFreeBSDと答えるのがベストアンサーだった。
それくらい*BSDはLinuxに比べてゴチャゴチャしておらず、シンプルかつ堅牢なOSだったのだ。
同時に、SystemV系のようにrc.*経由でデーモン操作なんてタルいことをせず、プロセスをより直接的に操作できる柔らかさもあった。
ちなみに代表的な*BSDといえばFreeBSD・NetBSD・OpenBSDだが、これがちょうどつぶあん・こしあん・白あんみたいなモンで、まあそういう定番が3つもありゃ十分だろうと。
とにかく*BSDであれば、何かをやる方法のバリエーションは最大でも3パターンにしかならないわけで、上述の通り本当にシンプルで手堅いのである。
一方のLinuxは「誰が食うんだこんなもん」みたいな内容のディストリビューションが乱立しまくっていて、その乱立振りもあってか、/etc以下は壮絶にカオスである。
多様性というが、現実はディストリごとの細かな操作の差異だの方言だの、本当にくだらない事に手を煩わされる、まさしくヒマな大学院生の習作から出発した感が溢れる、頭の悪いOSという感じ。
だからLinuxなんて登場当時はいっときの流行り、或いは時代の徒花くらいに捉えられていた。
それこそ、OSの世界はWindowsと*BSDでほぼ二分される未来のほうが、WindowsとLinuxで寡占された未来よりかは現実性がある…と思ったものだ。
ちなみに今のWindowsのベースは、あのカトラーが人生を賭けて作ったものなので、そうそう色褪せる可能性は低いわけで、軽んじることは出来ない。
しかし、実際のところはそうならなかった。
本当にLinuxがここまで世界に広まったことが不思議でならない。
広まる要素なんて全くもって皆無だったじゃん。
UNIX系の中ではかなりゴチャゴチャしていて、それは今も変わらないわけで。
ディストリビューションについても違いが小さくなるどころか、RedHatとUbuntuでは同じLinuxと思えないくらい違っている。
というかそれぞれの用途に各システムでめちゃくちゃにカスタマイズされまくっていたりで、ある環境でLinuxを触っていたからといって、他のシステムでその経験が通用するとは限らない。
確かに炎上した元ツイートはどうしようもないその人の特性(男であること)で排除している点で差別だと思う。この人からはそんなに感じないけれど、この人を擁護する意見には、それは流石に男憎しがすぎて論理的ではないのでは…みたいなのもちらほら見受けられたし。
でも現実性なくない?とか、犯罪みたいな都合の悪いことを全部男に押しつけて女同士で起こる可能性考えてないのかよ、みたいな反論はあまりにも的外れだと思った。
そもそも元ツイの人は男が全部悪い!という意味じゃなくて、性犯罪の面で、ただ一部の危害を加えてくる人のせいで全ての男の人にビクビクしないといけなくて辛い。いつ何されるか分からないからいつも気張ってないといけなくてしんどい。疲れた。みたいな、愚痴まじりのつぶやきだったはずなのに、え、公用地ですか?インフラは?っていうのが論点になっているのが謎すぎる。そんなの明日会社行きたくねー!爆発しろ!みたいなつぶやきに、爆弾自分でつくるんですか?そんな知識あるんですか?入手経路はどこから?って返すのと同じでしょ。
あと、男全員を悪者にするなよって意見は本当にその通りだと思うんだけど、どうしても女の人は警戒しなきゃいけないんだよ。別に男が嫌いな訳じゃない。少なくとも自分は。自分は恋人もいるし、話してて楽しい男友達もそれなりにいるけど、やっぱり夜道で後ろに人がいたら速歩きで距離取ろうとするし、知らない男の人に話しかけられたら女の人に話しかけられるより冷たい態度をとってしまう。それはやっぱり、一部の男の人に当たり前に危害を加えられるからであって、その人が危害を加えてくる人か分からないから。例えば、街を歩けば強引にナンパされて、断ったら死ねよブスって暴言吐かれて。女性専用車じゃない車両に乗ったら痴漢されて。ヒトカラしてたら男子大学生の集団がいきなり入ってきたり、夜道で家まで送りましょうか?って声かけられたり、3万でどうですか?って急に言われたりして。全部自分が経験したことだけど、電車の中で痴漢されて精子鞄にかけられたり、スカートの中盗撮されてた友達たちも居るから自分はまだマシな方なんだなって思う。こんな一回されるだけで自尊心がボロボロになるような経験が、女子会で笑い話として消費できるくらい日常的なことになっている。
そんなしんどい毎日があるからこそ、多分女の人が男の人を警戒するのは、小学生が変質者避けの為に大人全員を警戒するのと一緒で、もちろんいい人が99%なのは分かってるけれど、目の前にいる人がもし残り1%だったら?と疑ってしまう。本当は男か女かなんて意識せずに暮らしたいよ。こんにちは、って言われたら笑顔でこんにちはって返したいし、夜後ろで人が歩いてたら、純粋に今日もお仕事お疲れ様って心の中で思いたい。たまに街で道を聞いてきたおじさんに、ありがとう、助かったよ。とか言われると罪悪感でいっぱいになる。ああ、なんでこんないい人疑ってしまったんだろうって。人を信じられないってなんでこんなにしんどいだろう。
この件で、男の人はなんで理解できないんだ!というつもりは全くない。だって本人の経験してないことはやっぱり理解しづらいと思うから。自分だって他のマイノリティの人達のつらさは本質的には理解できてないと思うし。でも、この女だけの街のツイートへの反応に、女の人がいつも感じていないといけないリスクのことだったり、行動が嫌でも制限されてしまうことへの言及が全然なくてなんだか虚しくなってしまった。マイノリティがする差別は綺麗な差別、なんて言うつもりはないし、擁護するつもりもないけど、実現性とか排除の論理とかの話をする前に、どうしてツイ主がこんなツイートをしたのか考えてほしかった。少しでもいいから言及してほしかった。皆で関係ないところで叩きあって、どんどん断裂を深めていって。多分ツイッターで議論してる人たちにとっては、この女特有のしんどさは議論する価値もないどうでもいいことなんだなって、別に特筆すべきこともないし心を痛めることもない被害妄想にすぎないのかなって、きっとこのまま無視されて明日も明後日もこんな日々が続くのかなと思って絶望した。本当につらいんだよ。助けてよ。でもこんなこと言ったら、女は何かをしてもらうのを期待してばっかで何にも自分で行動を起こす気ないじゃないか。結局特権階級が欲しいだけじゃないか。って言われそうで言えない。
どういうことw
先の投稿で述べたリャンメン演出は「通常の衣服をふつうにを着ている」というタテマエを捨て去った演出なわけですが、露出の多いイメージ作品(着エロなどと呼ばれます)ではこの「タテマエの放棄」が作品全体に及びます。
イメージビデオは「日常の中にひそむセクシー」を切り抜いて、そこを誇張して想像力を刺激する映像にしますよね。たとえば縄跳びとか、洗車とか、飴をなめるとか、そういった「タテマエ上は普通の行動」を(やけに薄着で)させて乳が弾んだり衣服が透けたりするのを楽しむわけです。
ところが着エロなどの成人寄りのIV作品になると、露出を増やそうとするあまりモデルがとる行動が日常性・現実性からどんどん乖離して、いったい何のために何をしているところなのかさっぱりわからなくなっていきます。
「洗車してるんですよこれでも一応」みたいなタテマエは失われ、そこでは「珍奇な衣装をまとって泡だらけで自動車の前でめちゃくちゃアンバランスなポーズをとっている女性を無理なアングルから執拗に接写」みたいな不思議な映像が展開されます。
多くの人が誤解していると思うけど、大きく問題視されているのは、税金のように徴収される受信料制度を支払わない自由ではなく、その制度相応の放送の品質があるかという問題である。
なぜ同じような裁判がイギリスで起きないのかといえば、BBCは国営放送相応の品質があるから。
ようするに、受信料の強制徴収制度に見合ったNHKの運営がなされていないのが問題視されているのであって、別に支払わない自由とかは問題視されていない。義務教育を拒否する親がいて、そいつらが裁判起こして、最高裁が義務教育制度は合憲であると判断されるのと同じ。
もっとわかりやすくすると、例えば高校生が通常は通学で利用しなければならない公共交通機関を「公共交通になっていない」という理由で利用を拒否して自転車だの二輪車だので登校して、学校による改善命令や懲罰などを「公共交通を利用しない自由」「現実性のない校則の改正要求」で跳ね返せないのと同じ。
マジこれ。
アニメにせよ映画にせよ小説にせよCMにせよファッションショーにせよ、美しいものを見る娯楽にどうして「現実に即したバランス」「政治的に良いバランス」を求めるんだか。
いや、色んな娯楽があるのは大変いいよ?
現実に即したバランスがあることを楽しみたい人向けの娯楽、政治的に良いバランスなことを楽しむ(というか政治的にダメだと萎える)人向けの娯楽、マジョリティ的には醜いものを好む人向けの娯楽、それぞれあっていい。
同様に「現実性や公平性を切り捨てて、美しさという作り手の美意識基準で選別された要素だけで作られた美しい世界を、その美しさに共感する人が楽しむ娯楽」もあって然るべきだろっていう。
黒人カッコイイぜって人が黒人出しまくりの作品やイベントやってもいいし、白人最高マジ天使って思う人は白人尽くしの作品作ればいいし、黄色人種is so coolってんなら黄色人種モリモリやればいいし、人種混じってんのがエモいって人は混ぜればいいし、人種どうでもいいなら他の能力だけ見て出演者決めてやればいい。
辛い状況の子供が助けを得られずに終わる映画がある。違う感想を持つ人ももちろんいる。それでも私にはそう捉えられた映画がある。
大人は判ってくれない、スイート・シックスティーン、パパは出張中
この三作品は特に衝撃的だった。主人公と視線が合う場面で私は面食らった。大団円ものに慣れきっていたし、この作品もそうなると予想していた。製作者の意図や作中描かれることの現実性について、主人公たちのその後を時々私は思った。その衝撃はなかなか頭を離れなかった。
ムーンライトは特別な映画だという人は大勢いる。そうした人たちの感想を私も楽しく読ませてもらっている。私もムーンライトが好きだ。これは私にとっても大切な映画だ。
ムーンライトのラストに、子供時代の主人公・シャロンがカメラを振り向く場面がある。それを観た時、私は確かに救われたと思った。彼ら主人公と私とでは立場や境遇が違い過ぎる。共感すると言うのもおこがましいかも知れない。それでも私は他の映画とともに、主人公と自分を重ねて観ていた。
ムーンライトは穏やかに終わる。成長して居場所を得たシャロンは、当然のことだが他作品の主人公たちのようではない。前記の三作品はそれぞれに完結していて、現実には、今この瞬間にも苦しんでいる子供たちがいる。
三人の主人公たちが感じただろう辛さは、私の中にわだかまりになって残っていた。シャロンが成長する姿を観ることで、それが癒えた感覚でいる。
私はこの映画たちが好きだ。苦い部分も含めて愛おしいと感じる。これからどう生きていくか、大人になった自分に何か出来ることはないのか、などと考えさせられる作品でもある。
他の人の文章に触れて、ムーンライトについて自分でも少し書いてみたくなった。
もし気になっていて迷っている人がいれば、ぜひ観てほしいと思う。
科学的には死刑が凶悪犯罪抑止にならないとされてる。個人的には科学が億単位の国民の凶悪犯罪と死刑の関連を証明できる段階にはないとは思ってるけど。
と言っても、科学先生の方が個人的な感想よりはマシなのは間違いないだろう。
ただ、死刑が凶悪犯罪抑止に繋がるように啓蒙して、結果抑止につながる可能性ってのはあるんでないか?日本で、死刑廃止を訴えたって実現の可能性が少ないのは廃止派の人が一番よく分かってると思う。
実現不可能なことを考えるよりも、今ある制度の中で凶悪犯罪抑止の可能性を高めるようや方法を考えるってのはあかんのけ?
【追記】たくさんブクマが付いてたので、気になったのは返信していくぜ
※なんかあんまり伝わってない感じがしたので内容に付いて補足説明
啓蒙っていうのは、死刑があるから日本では凶悪犯罪なんて割にあわんと周知するイメージ。方法はなんでも良い。宗教、映画、言論、死刑のドキュメントなんかでも。これは性犯罪が厳罰化されたから、厳罰を強調して性犯罪がちょっとでも減ったらいいなと一緒だと思ってる。そんなおかしいけ?
id:t-tanaka 個人的には同意。刑罰は被害者の報仇感情の充足ではなく,犯罪の抑止を目的に課されるべきだ。死刑を存続させるのならば,その抑止効果を証明し続け,また高め続けなければならない。
→今のところほぼ唯一の賛成意見。俺が言いたいのはこれ!かしこいひとの言葉は違うな。
id:FTTH 死刑が凶悪犯罪抑止に効果がないことをお前に啓蒙したとして、「なるほど死刑に効果無いですね」って考えに変わることに現実性感じるかね?
→全然変わる可能性はあるな。大麻がドラックだと思ってた時期もあるし。そう思えないのは、本文とトラバ参照。
id:teebeetee 「悪いやつは死んで当然」みたいな浅い正義感が公的機関から肯定的にばらまかれてる社会のほうが、一人ひとりの殺人への抵抗感は薄れるんじゃないか。
→なんでそんな浅い正義感ばら撒くの?凶悪犯罪をしたら死をもって償わなきゃいけなくなるとかでいいんでない?
id:ChieOsanai 広場で処刑を見世物にしてた時代でも凶悪犯罪バンバン起こってたからなぁ
id:IkaMaru 死刑廃止が実現する可能性が低いという理由で、もっと実現性のない提案をする意味がわからない。
→そこまで実現性ないかね。解明はできないだろうけど色々な啓蒙活動が凶悪犯罪を予防してることがありそうだけどな。
id:oka_mailer いやーこれ、啓蒙してでも死刑に意義を持たせたい、存続したい、みたいな話になってるで。
→意義っていうのが、凶悪犯罪の予防効果ってことならその通りやで!存続については、自分の思いとしては死刑の肯定に予防効果あんまり関わってこない。
id:sangping 本来抑止力のない死刑に運用次第で抑止力を発生させることができるなら
→できるってより可能性があるくらいにしか思ってへんな。なんで、死刑を絡めるかはトラバ。
id:kimitama74 なぜそこまでして殺人を肯定する理由を探すのか。殺人が禁忌であることを理解させるには死刑ですら許されないことを教えるべき。
→死刑を殺人を一緒にする部分に違和感。懲役を監禁強制労働と言わないの同じ。あるいは、正当防衛をした人に殺人者と言わないのとも似てる。
id:megazalrock その論理だと死刑になるために凶悪犯罪を起こす人間を助長することになっちゃうよ
全人口に対するネットユーザーの比率はビックリするほど増えた割に
ネットでメジャーになる思想の極端さもまたビックリするほど顕著である
はたまた時代による考え方の移り変わりなのか
自分の回りには自分とともに年を重ねた人間しかいないので今ひとつ分からない
中庸とはかけ離れたある種の怨讐じみた極論が支持を得がちである
個人的に特に分からないのが、運動音痴な連中による体育への怨嗟である
単に体育嫌いが分からないという話では、もちろんない
体育会系の「ノリ」も大嫌いで、徹底してそういう連中とは距離を取って来た
分からないのは、これらの怨嗟がことに目の敵にする「ポイント」の微妙なズレである
ネットの「声」曰く、ドッジボールは「暴力的」で「特定の個人を集団でいたぶる」ことができ、「いじめに繋がる」そうなのだが
寡聞にしてドッジボールがそんな風に受け止められているところをこれらの人々の書き込み以外で見たことがない
ドッジボールは標準的なルールに則れば「顔面セーフ」「一回当たったら外野」「敵は全員平等に倒さないと勝てない」はずなのだが
一体どういう風なローカルルールを作り上げれば「いじめられっこが集中的に狙われる」事態などが起こりうるのだろうか?
ドッジボールと「称して」ボールをぶつける暴力行為の存在は容易に想像出来る
しかしそんな事を言い出したら「野球と称して」棒切れで叩くいじめもあれば
「サッカーと称して」集団で足蹴にするいじめもあることも普通は知っているはずだ
なぜドッジボール「だけ」にこの何か特殊な怨讐は狙いを定めてしまったのか?
ドッジボールに対しては、自分の知る限りでは他の球技に比べより平等な楽しみ方ができる中庸なものという捉え方が多く見られる
「逃げ回ってれば良い/人に隠れてれば良い」から運動音痴でも楽しめたという声は数知れず
とあるノスタルジー系の漫画でも「女子と男子が交じって遊べる」球技として言及されていたし、
「アメリカではドッジボールは実際禁止のところもー」なんて怨嗟連は言うのだが、明らかにオタク系のアメリカ人も
HxHのドッジボール編の感想で「ドッジボール好きなんだよねー」と漏らす始末
もちろんドッジボールにいやな思い出がある人間の存在を否定するものではないが
どう考えてもそういう経験、考え方の方が特殊事例であるように見えることは否めず
どうしてここまで「ひた隠しにされていた真実」といった感じの風を吹かせているのかただただ理解に苦しむ
ことがたかがドッジボールだから大げさに聞こえるかも知れないが、非現実性で言えば「ムー」ともタメを張っている
何のこととは言わないが「ネットの声」というものはおおむね他の事例もこのような極端さを持っている
一、極端な思想は極端な声の大きさを持つ
いわゆる反知性主義という奴か、ドッジボールのような「味方も多い」ものこそ噛み付きたいのかも知れない
コンビニなどで商品への要望を客に聞くと、必ず健康的な商品などが上げられるのだが、実際出しても売れないのだそうだ
自分はこれを「アンケートに答えるような奴は賢しらにアドバイスがしたいだけで本当の要望なんて本人にも分かってない」からだと思っている
有り体に言うと「言ってみただけ」
とにかく何か槍玉に挙げてみたかったからマイナーな攻めどころを探しただけなのだ
少年達が世界を変えることはなく、目指していた場所はすでに手に入っていた
というのが結論なのだろうか。
劇的な革命による世界変革ではなく、中庸を保ちながら無事着地させる終わり方でよかったと思う。
アニメや小説にはどうしても伏線だったり物語性が欲しくなるけど、現実社会には偶然に偶然が重なって進んでいくのだから、現実性と任侠話を重視するとこの終わり方は仕方ないかなとも思う。
が、個人的にはあくまでフィクションなんだから、現実社会と同じでダメな奴は報われないまま終わって、居場所はもともとそこにあった…って最初からなにも成長してないってことかと、スッキリしない。
最終回予想で言われてた、マクギリスがバエルのチート能力を発動させつつガンダムに飲み込まれて三日月に仕留められるか、MAを起動させて三日月に仕留められる展開を見たかった。
二期で気になったことが背景描写不足。
なぜキャラがそのような行動をとるのかいまいちわからなかった。
シチュエーション的になんとなくわかるのだが、前からそんなこと言っていたかな?というパターンが多かったような。
話の展開上ご都合的に動かされている感じが否めなかった。
マクギリスについてはアグニカカイエルのことをもっと早く言っておくべきだった。
特に二期登場キャラは描写不足を感じる。
ジュリエッタ、(石動も)なぜ主人にあそこまで仕えるのか不明。
(ジュリエッタは作中まともなキャラなのに、なんで蝶々食べた)
ラスタルが民主的なシステム構築をもともと目指していたような終わり方だったが、マクギリスのクーデターに便乗して美味しいところだけ持って行ったようにしか見えず、実はそんなこと考えてたの⁉という印象。
もし、マクギリスがクーデターを起こした本当の理由が、人心掌握権謀術数に長けかつ民主的な社会を目指しているラスタルに自分を打たせることで、ギャラルホルンの膿を出し、自分の理想の社会を構築することだったのなら
逆にラスタルがマクギリスを利用して…という展開もあるが、どちらも描写がないので違うと思うけど。
あと、ライドがノブリスを暗殺する場面は蛇足。
わざわざ見せたのはイオクに次いでカタルシスを生み出すために入れたのだと思うが、クーデリアがライド達がいない&ノブリスが暗殺された…と伝聞調に話して推測させるので十分伝わったのでは。
酷評もあるけど、伊藤悠のキャラが動くのを見るのはとても嬉しかったし、ガエリオがとりあえず幸せになってくれたから2年間楽しかったです。