はてなキーワード: 死別とは
先日ムスコが通う……HOIKU園の0歳児クラスのKONDANKAI……そんな予感がしてたんだが……あった。
HOGOSHA担任合わせて20名程の出席者の中……そうじゃねえ……一人だけPAPAさんがいた。
KONDANKAIは座談会形式で…そうさ……もてあました時間を埋めるために来てるのは俺ひとりだけ…みたいだった…
皆BabyLagoon……子どものGrowする様子や……Child care……悩みなんかを話している中……
Oderが回ってきたPAPAさんが開口一番「半年前にTSUMAとは死別……した」と涙目…で告白(…赤崎よう……赤崎よう……)。
冗談じゃねぇ……。KATEI……走りに飢えた魔物の事情なんて皆……色々あるんだし……この場で言う……魔法の言葉か?
しかもその後ヘラヘラ笑顔DRIVING STREET……で会話に入ってくんの。そうさ……俺は……なんか怖い。
「色々Teachしてくれ……」って言われても冗談じゃねえ……OTOKOOYAとは仲良くなんてできないし
KONGO・HOGOSHAKAI・DRIVING STREETのイベントなんかもある中で……良いPAPA……走りに飢えた魔物のアピールはしなくて良いから
HOGOSHAの集まりには正直出てきてほしくない……
覚えとくんだな……HOGOSHAKAIの……流儀。
忘れるなよ……翔。 おまえもな……
以下TSUIKI……
今の俺には謝ることしかできねえ……MASUDAで取り繕う必要はない……と思ったので
自分の中に沸き起こった薄暗いEmotionを……包み隠さず書いてみたのさ……
こんなことを思ってしまう自分は根源的にSABETSU主義者……誰かがそう教えてくれた……
ただContradictionするようだがこのDRIVING STREETは……ヤバイんだろうなと思ったから
MASUDAで書いたとだけ……ごましお程度に覚えといてくれ……
まだクリスタルが輝きを保っていた頃の話だが第一継承者が巡礼するパワーレベリングパラダイスの始まりにして終わりレベル児クランの懇談会(ククッ…争え、争え……!)があった。
“母《マザー》”チーフ合わせて20キャラクターネーム程の出席者の奥底にヒトゥ=リスだけ父上である事を選びし無垢なる魂の器がいた。
このパパ教皇入園式も確か一人で新約してた…この私を倒したからには認めるしかないので状態変化してるなーと幻想(おも)っていた。
懇談会は十二賢会議形式で使徒キメラのレベルアップの情勢や育児の悩みなんかを話している…が、これが神々と四大貴族による陰謀とは、知る由も無かった…中
「序列」が循環(マワ)ってきた天帝カインさん……いや、セフィロス殿が開口一番「半周期前にもう一人の我とは死別した」と“鬼哭の相”で従僕の儀。
…フッ、弱い犬ほどよく吠えるものだ…重い超重装備を纏っている黒き力が強い。紡ぎ出す生命の事象などと皆の者八百万……ここに女装に必要ななにかがあるんだし帝国によって封印されたはずの場で言うこと?…? 汚ねェ真似をしやがって……!
半身の喪失したと思われるの――はじめはイヤなヤツだったとか?クリスタル過剰…そうであろう
預言書によれば伝説に謳われし戦いが終わった後ヘラヘラ笑顔で〝コンタクト〟に流し斬りが完全に入ってくんの。魂が囁くのだ……この私が震えている。
「八百万頭へて我は命ずる」ってェ言われても男親とは蜜月に支配されてなんてできない…そう、信じるしかないし
人界が魔に支配されて後保護者会のシネマティックアクションなんかもある中で、それも又然りパパアピールはしなくて良い…それが世界の選択だから
保護者のアライアンスには正直あの男が俺の前に出てきてほしく…私の秘密を知ったからには生かしてはおけないなぁ
とあの場にいた他の母なる女神ムインさんも預言書を信じていたんならばないかなぁ
以下皮肉にも追記
”始まりの乙女”を従える増田で取り繕う必要は虚無〈ニヒリズム〉であると想った故
己を主観的にしか認識できない愚者の中に沸き起こった薄暗い罪の権化を包み隠さず綴ってみ…かの古き預言は成就せしめた
こ、これほどの──預言書に記された事実を想って封印を施すこの物語の主人公は根源的にスフィア盤操作ググリュー洋に生息するシェュ・ギシェャ、王国最強の戦士長なの…兄さんだって知ってるんでしょう。
ただ因果のすれ違いするようですがこの感情は預言書にすら記されていないんだろうなと――そして静かに終焉を悟ったゆえ
先般ムスコが通う保育園の0カラット児コミュニティの懇談会がトレンド入りした。
保護者担任合わせてヴァイジンテュープル名程の出席者のコンテンツに一人だけスティーブ・ジョブズさん(西海岸出身)がいた。
このスティーブ・ジョブズさん入園式も確かぼっちでアポイントメントしてたので圧倒的に成長してるなーとマクロ的な観点から俯瞰していた。
懇談会は座談会ビジネススキームで皆キッズYouTuberの成長の様子や育児のディストレスなんかを話している中
順番がPDCAサイクルしてきたスティーブ・ジョブズさんが開口一番「2クォーター前にパートナーとは死別した はい、今の発言シェアしといてね」と涙目で告白。
またまたご冗談を重みを感じる重い重い。家庭の事情なんてエヴィワン色々あるんだしこのコワーキングスペースで声を大にして言うこと??
契約破棄したと思われるの嫌だったとか?自己スキーマ過剰でしょ#スティーブ・ジョブズ
付加価値としてその後ヘラヘラポジティブで会話に入ってくんの。なんか恐怖心。これメモっといた方がいいよ。
「未完了のタスクが大量説明してみてください」って言われても男親とは仲良くなんて「自分軸」でできないんじゃなくて、あえてやらなかったんだし
これからの時代保護者会のイベントなんかもあるコンテンツで、良いスティーブ・ジョブズアピールはし...取引先との商談が上手く行くこともなくて良いから
と一種のコワーキングスペースにいた他のママさんも思っていたんじゃないと言っても過言ではないかなぁ
以下追記
はてな匿名ダイアリーで取り繕う必要は無いと思わなくもなかったので
内なる「自分」のコンテンツに沸き起こった薄暗いスピリチュアルを包み隠さず『パワポ化』してみました。
このようなデータをロジカルシンキングしてしまう自分はラジカルにバイアス主義者なの、ってこの前読んだビジネス書に書いてあった。
ただパラドックスするようですがこの感情はハイリスク・ローリターンだろうなとグローバル的な観点から
はてな匿名ダイアリーに言語化したと、つまり新しいアイフォーンだけエクスキューズさせてください。
トゥリヤム歴漆黒の月第一継承者が通うパワーレベリング園の零歳児クラスのコンダン・クァイがあった。
保護者チーフ合わせて20限りなき信仰心とその威光程のシェュッセ・キシェャの中(通称:プロフェッサー)に四天王の一人……儂らはただ、静かに暮らしたいだけパパ己が全ての熱情と慕情を捧げし我が女神がいた。
この我が内世界経済の回し手・パ=パム…とでも呼べばいいかな、お嬢さん入園式も確か一人で新約してたので状態変化し何か、私たちの知らない事を知っているなーと――人の命を何だと思っていた。
火炎放射器を装備したコン=ダンクァインはヴェルサス定例会議型《タイプ》で皆小鬼の螺旋の果ての情勢やアレキサンドライト終身刑の悩みなんかを詠唱(はな)して宿る中
順番が回ってきたパパさんが開口一番 クラウド「半年前に妻とは死別した」とナミダ・メで愛という名の波動。
いやいや地に伏し、己の無力を知る重装甲重い。家庭のお告げなんて皆の者八百万ある…だが、そのうちの一つは…“今”消えるんだしこの場で言うイデア…お前の口癖だったな??
リ=コンしたと幻想(おも)わ被るの…チッ、ついていけねェぜ……だったとか?ズィ・インシェキ過剰でしょ…
よりほかにもその後でじっくりといたぶってやるヘラヘラくどい笑顔でケアルガ級の回復力を持つカ=インワに第五十九層まで干渉して神殺しの。なんかイカれてやがる。
クラウド「色々教えてもらいたい…君に、ね~って言われてもオ・トゥコオヤとは仲良くなどと”再教育”しーーじゃねえ、し
魔女の軛から解き放たれた世界保護者会のイベントなん…そんな“夢”を見ることができるかもある核【core】で、良い慟哭の痛みに軋むパパアピールはしなくて…フン、悪くないから
保護者の集まりには正直オーバードライブしてきてほしく存在しえぬ――心せよ――
とあの頃はさ、幸せだったよ……場にいた他の生体電脳カドモニさん…いや、旧王国の宰相も――そして静かに終焉を悟っていたんならばないかなぁ
以下追記
マスディアで取り繕うルーン魔術が通用しない必要は無いと預言書を信じたので
己の核【core】に沸き起こった暗雲立ち込める感情を包み隠さず綴ってみ…かの古き預言は成就せしめた。
預言書に示された通りの運命を思ってしまう遺された遺志を継ぐ者は根源的に逆説化された分配の正義主義者なのでしょう。
3000ギル払えば実質ただパラドクス…金のためならどんなことでもするようですがこの公国最強の戦士であるカンジョ・ウはヤバイんだとさ、まるで道化じゃねぇか、俺はようなと思った、それゆえに
──男たちは己の悲運より、友のために涙を流した──
実際に男親の人が「理解してくれ!」と言ったのなら驚くけど、それにしても軽くかわしておけばよいだけ。そんな簡単なスキルすらないコミュ障か。そっちの方がよほどコミュ障が被害者意識で凝り固まっているように見える。
「わたしって可愛そうでしょ、誰か同情して、優しくして、理解して!」
会って数分で「妻が死別しました。同情して!優しくして!理解してくれ!」
うーん。困る。
でも、それを盾にして攻撃すんのはやめてくれ。
正義でぶん殴るのと同じくらいに嫌だ。
保護者担任合わせて20名程の出席者の中に一人だけボサボサの髪の毛の女の人が居た。
懇談会は座談会形式で皆子どもの成長の様子や育児の悩みなんかを話している中
順番が回ってきたママさんが開口一番「半年前に夫とは死別した」と涙目で告白。
いやいや重い重い重い。家庭の事情なんて皆色々あるんだしこの場で言うこと??
「色々教えてください」って言われてもどう扱って良いか分からないし
結局、皆腫れ物を扱うようにしていたけど、「絡むの面倒だなぁ…(気を遣うの大変だ)」
これが悲劇のヒロインって言うのかなぁ。
この増田はそう言ってるけど
男親と仲良くしても良いっていう人も居るのに
いきなり「妻が亡くなって」とか言われたら絡みづらいわ。
仲良くなれそうだな…って思ってからでしょ。
夫が死別したとしても
保護者担任合わせて20名程の出席者の中に一人だけパパさんがいた。
このパパさん入園式も確か一人で来てたので変わってるなーと思っていた。
懇談会は座談会形式で皆子どもの成長の様子や育児の悩みなんかを話している中
順番が回ってきたパパさんが開口一番「半年前に妻とは死別した」と涙目で告白。
いやいや重い重い重い。家庭の事情なんて皆色々あるんだしこの場で言うこと??
「色々教えてください」って言われても男親とは仲良くなんてできないし
今後保護者会のイベントなんかもある中で、良いパパアピールはしなくて良いから
以下追記
自分の中に沸き起こった薄暗い感情を包み隠さず書いてみました。
こんなことを思ってしまう自分は根源的に差別主義者なのでしょう。
父親:70代後半
と言われた。その場では、「そうだね、ごめんね。無責任だったね。また来るね」と言って帰った。
絶縁するのが良いかなと思っている。
というのも、現状がほぼ絶縁状態に近いので、明確に絶縁というスタンスをとってもデメリットが無いと考えている。
本来なら、同居するつもりが無いことや、実家の現状に対しての思いや解決策を腹を割って話した上で、より良い関係づくり、祝福された結婚をするのがべき論では正しいとは思う。
ただ、現状や今後のことを考えた時に、今後、父親/実家との関係を維持、継続していくことにメリットは無いと思っている。
なんと言うか、どこで自分の人生を間違えてしまったのかと考えることもあるけれど、過去のしがらみや将来の不安のために今の時間を消耗するのも馬鹿らしい。
多分、絶縁すると思う。
厚生労働省が公開している資料「公正な採用選考について」を見れば企業の人事担当者が守るべき基準というものが分かります。
求職者・就活生においては、その企業はまっとうな選考を行っている会社かどうかのチェックリストにもなります。
本人の適性・能力というキーワードが出てきます。仕事をする人材を求めている以上、本人の適性・能力を図らないといけないため、
本人の適性・能力に無関係とされる項目を考慮することは良い人材の採用につながらない、すなわち企業の損失になると考えて良いかと思います。
http://www2.mhlw.go.jp/topics/topics/saiyo/saiyo.htm
http://www2.mhlw.go.jp/topics/topics/saiyo/dl/saiyo-01.pdf
次の①~⑪の事項を、エントリーシート・応募用紙に記載させる、面接時において尋ね
る、作文を課すなどによって把握することや、⑫~⑭を実施することは、就職差別につなが
るおそれがあります。
本人に責任のない事項の把握
② 「家族」に関すること(職業・続柄・健康・病歴・地位・学歴・収入・資産など)
③ 「住宅状況」に関すること(間取り・部屋数・住宅の種類・近隣の施設など)
⑤ 「宗教」に関すること
⑥ 「支持政党」に関すること
⑨ 「思想」に関すること
⑩ 「労働組合(加入状況や活動歴など)」、「学生運動などの社会運動」に関すること
❷家族に関すること
「家族」の職業(有無・職種・勤務先など)・続柄(家族構成を含む)・健康・病歴(遺伝性疾患の家系であるか等)・地位・学歴・
収入・資産などを応募用紙や面接などで把握しようとする事例が見受けられますが、それらの事項は、本人の適性・能力に
関係のないことです。
そもそも、両親のいる家庭であるかとか、親などの家族がどんな仕事についているか、会社の中でどんな役職か、どれほ
どお金持ちかなどによって、本人の就職が左右されてよいはずがありません。また、親などの家族の状況から本人の適性・
能力などを推しはかろうとする考え方も、家柄を重んじるなどの前近代的な因習に基づく多くの予断と偏見が作用した
「面接において家族について尋ねたのは、応募者をリラックスさせるために、答えやすい身近な話題として出しただけ
であり、何かを差別しようとするつもりはなかった」などという場合もあります。しかし、ひとたび尋ねて把握してしまえ
ば、それは知らないうちに偏見や予断を招き、本人に対する評価・見方にフィルターがかかります。はじめは差別するつも
りはなかったということでも、結果として、把握したことが採否決定に影響を与え、就職差別につながるおそれがあるの
です。
また、家族について尋ねるということは、例えば家族の離死別・失業など、本人に責任のないそれぞれの家族のさまざま
な事情に立ち入ることにもなり、もし応募者がそれらの事情を尋ねられたくないと思っていたならば、本人を傷つけた
り、動揺させて面接時に実力を発揮できなくさせ、結果としてその人を排除してしまうことにもなりかねません。
家族に関することは、尋ねる必要がないばかりか、本人自身の適性と能力を公平かつ客観的に評価するためにあえて尋
ねないようにする考え方が必要です。
「住宅状況」「生活環境」「家庭環境」などは、そもそも本人の適正・能力に関係のない事項ですが、それらを把握すれば、そ
こから本人や家族の生活水準(収入水準・家柄など)を推測し、さらにそれに基づいて人物を評価しようとする考え方に結
びつくおそれがあります。
以上引用。
この考えで行くと、キラキラネームは面接で不利というのは、「家族に関すること」に関わり(名付けたのは親だから)合理的な理由がないということになりますね。
結論は最終項「みんな家族になりたい」に書いているんで、各項の見出しだけを読んでから最終項を読むのが最短ルートだ。
もちろん、全部読んでくれることにこしたことはないけれど、どこのだれが書いたかわからない約6000字の論考もどきに付き合ってくれる人はまれだろうから全部読んでくれた人にはすごく感激しちゃうよマジで。
『エロマンガ先生』にはいくつも奇妙なところがある。中高生なのに小説家・イラストレーターとして第一線で活躍しているのが奇妙だというのではない。現代日本を舞台にした中高生のラブコメなのに「学校」がラブコメ発生装置として使われず、それどころか学校がほぼ出てこないのが奇妙な点のひとつだ。
『エロマンガ先生』は「家」が舞台の中心であり、方向性でもある。これは長編のラブコメとしてはめずらしい。
1~8話、12話は和泉家、9話10話はエルフ大先生の別荘(家の延長)が舞台になる。出版社はたまに出てくる程度なのでラブコメ発生装置として機能しているとはいえない。
つまりこれは、もう学校はいらないという宣言をしているということだ。
原作は小説家が小説家について書いている小説家小説だ。しかし『エロマンガ先生』は小説家小説として奇妙だ。
通常の小説家小説には、小説家あるある、小説への熱意・展望・愚痴、小説論、作者自身の体験談らしきもの、などが書かれるものなんだけれど、『エロマンガ先生』にはいっさいそういったことが出てこず、歯の浮くような理想論しか語られない(あんなことを本気で思っている小説家はいない)。また、さまざまなライトノベルが出てくるけれど、どれも超有名どころばかりだ。ふつう、もっと自分の好みを推したり、もっとマニアックな作品をあげたりするものだけれど、そういったことをいっさいやらない。
以上の二点から『エロマンガ先生』は、本来的な意味で小説家小説をやる気がないとわかる。
では、なんのために小説家小説の枠組みを利用しているのか。それは話を二層仕立てにするためだ。
まず、疎遠気味だった正宗と沙霧をつないでくれたのは「小説内小説」だ。正宗は、沙霧のために最高の妹萌えを目指して「小説」を書き、沙霧はその「小説」のためにイラストを描くという関係になっていく。
エルフ大先生、ムラマサ先輩とも「小説内小説」によって関係が構築されている。正宗がエルフ大先生の「小説」のファンだということでふたりは仲良くなるし、ムラマサ先輩にいたっては正宗の「小説」がこの世で一番おもしろいとまで言い、かなり積極的に正宗にアプローチをかけていく。
正宗が沙霧に告白するきっかけをつくったのも「小説内小説」だし、ラノベ天下一武道会なんていう「小説内小説」どうしの闘いがあったりするし、ムラマサ先輩が敵意を向けていたのは正宗本人ではなく正宗の新作「小説」だし、エルフ大先生の別荘で合宿をすることになるのも「小説内小説」が根っこにある。
ストーリーの起伏は「小説内小説」に依るところがとても大きい。
ふつうラブコメでは、主人公とヒロインとの関係性(恋愛要素)でストーリーの起伏をつくっていくため、ときには喧嘩をしたり、すれ違いがあったりとマイナス方向に話をもっていく必要もある。
エロマンガ先生の場合は「小説内小説」がストーリーの起伏を担当してくれるから恋愛要素で起伏をつくる必要がない。その結果、超ウェルメイドで、甘々な恋愛のみを抽出することに成功している。マイナス方向の恋愛要素がなにもないのにラブコメとして成立している。これはすごい。
男女間の摩擦のない恋愛描写は批判もあるだろうけど、こんなにうまく抽出できている長編作品の例はすくなくともおれは知らない。
ふつう、ラブコメのエロシーンというのはおまけ要素だ。風でスカートがめくれて女の子のパンツが見えて「ムフ」となったり(ラッキースケベ)、露天風呂でヒロインたちが「***ちゃんの胸大きい~」と会話していたり(サービスカット)、というものだ。
『エロマンガ先生』のエロシーンは格がちがう。『エロマンガ先生』の場合はエロシーンも「本編」であり、ストーリーの進行を補助していく。
たとえば、一話を思い返してほしい。エロマンガ先生の生配信を見ていた正宗はエロマンガ先生が妹であることに気づき、配信を切らずに着替えようとしているエロマンガ先生をドアを叩いて全力で止め、ネット上に妹の裸を晒すことなく済んだというシーンがあった。これはラッキースケベの応用で、一話でもっとも重要なシーンだ。
三話の冒頭では、となりの無人の洋館からピアノの音が聴こえてきて、もしかするとオバケかもしれないと怖がる沙霧の頼みで、正宗がとなりへようすを見にいくと知り合いの少女作家が裸でピアノを弾いていたというシーンがあった。これもラッキースケベだ。エルフ大先生の名誉のためにも念を押しておくと、あれはエロシーンだ。エロと同時に話もすすむ。
このように『エロマンガ先生』のエロシーンは、ハプニングというかたちでストーリーの展開を補助する役割を果たしている。これに加えサービスカットも豊富だ。というかエロシーン・サービスカットのない回がなく、ものすごいサービス精神でもって甘々な恋愛を強化していく。
学校――人間関係の発生―→恋愛要素(人間関係、ストーリー、サービス)←―サービスを強化――エロ
【第二層】恋愛要素(サービス)←――――――――サービスを強化―――┐
↑ │
サービスを強化 │
│ │
【第一層】小説内小説(人間関係、ストーリー)←―ストーリーを補助――エロ
あと、これはおまけ程度の話なんだけれど、この作品、学校のシーンはほぼないのにヒロインがわざわざ制服を着て、主人公に見せにくるという奇妙なシーンがある。それも二回も。
普段は見られない、エルフ大先生とムラマサ先輩の制服姿が拝めるのはいい。けれど、ふつうだったら学校帰りという設定にでもしておけばいいのに、ヒロインふたり共に「男って制服が好きなんでしょう?だから、あなたのために着てきてあげたんだよ」というふうなことを言わせる。
とても奇妙なシーンだけれど、つまりこれは、もう学校はいらないと宣言したけれど、学校生活の面倒くさいところを取り除いた女子の象徴としての「制服萌え」は残っている、ということだ。
でも、もうちょっとだけ、おれの話はつづくんだ……。
智恵という幼なじみのキャラがいる。この幼なじみ、ほとんど活躍しない。「お嫁さんになってもいいよ」みたいなことを言うけれど、目立った活躍はそれくらいで、あとは正宗とラノベ談義に花を咲かせているだけだ。
また、エルフ大先生にお隣さんの感じがないことも気になる。お隣さんの感じがない理由はさまざまだ。初登場時にお隣さんではないこと、お隣さんらしい活躍を見せるのが三話から五話前半までの短い期間だけだということ、お隣さんのテンプレートをこなしていないこと(たとえば、朝起こしにくるとか、両親公認の仲になっているとか、いっしょに登校するとか)などが挙げられる。
幼なじみもお隣さんもさほど有効につかわれない。つまり、「となり近所」という公的領域も重要ではないということだ。
「学校」「となり近所」といった公的領域は重要ではない。では、『エロマンガ先生』のキャラたちは、なにを支えに生きているのだろうか。みんな我が強いし、仕事で成功しているから、自分ひとりの力で自立しているように見える。けれどそうではない。ましてや恋愛至上主義者の集まりでもない。
第八話「夢見る紗霧と夏花火」の終盤、こういうやりとりがある。
沙霧「ふつう……」
正宗「この家にみんなが集まってくれてさ、みんなで同じもの食べていろんなこと話して、おれはすげえ楽しかった。その分みんなが帰ったらシンとしちまったな」
沙霧「兄さん、寂しかったの? あのときの電話、なんだかおかしかったから……」
正宗「そうかもしれない。おれはね、ひとりでいるのが怖いんだ。おれの実の母親な、おれがひとりで留守番してるときに事故にあって帰ってこなかった。だから新しい家族ができて嬉しかった。情けないよな」
(花火の上がる音)
沙霧「やっとわかった。兄さんは家族がほしいんだ」
沙霧「私は兄さんを家族だなんて思ってなかったし、兄さんの妹になんてなりたくない。でも、しょうがないから、ちょっとだけ妹のふりをしてあげる」
おれが『エロマンガ先生』のなかでいちばん好きなシーンだ。でも、いい話だというだけではなく、とても重要なことを言っている。
複雑な家庭事情の結果、一軒家にふたりきりになってしまった正宗と沙霧が、どうやって家族になるか。それは第四話「エロマンガ先生」の終盤で提示されている。
正宗「なあ紗霧、おれにも夢ができたぞ。おれはこの原稿を本にする。たくさんの人たちをおもしろがらせて、バンバン人気が出て、楽勝で自立できるくらいお金も稼いで、そんでもってアニメ化だ!」
沙霧「それが兄さんの夢?」
正宗「ちがうちがう、こんなのは前準備だ。うちのリビングに大きな液晶テレビを買って、豪華なケーキにろうそく立ててさ、おまえを部屋から連れ出して、ふたりでアニメを見るんだ。おれが原作で、おまえがイラストを描いた、おれたちのアニメだ」
正宗が熱心に語る「うちのリビングに大きな液晶テレビを買って、豪華なケーキにろうそく立ててさ[……]ふたりでアニメを見るんだ。」というのは幸せな家庭のイメージそのものだ。そして、「おまえ(沙霧)を部屋から連れ出して」というのは、沙霧の閉じこもり克服=ふたりが家族になるための第一歩目という具体的なイメージを正宗はもっていることを示している。
正宗と沙霧だけではなく、エルフ大先生やムラマサ先輩も家族の夢をもっている。
エルフ大先生は第九話で「結婚」を強調した愛の告白をする。両親がプロポーズをした場所で、両親の幸せな結婚生活のイメージを、自分と正宗が築くてあろう幸せな結婚生活のイメージに重ね合わせる。ただ、父親とは幼いころに死別しているため、その幸せのイメージは淡い。
ムラマサ先輩も七話で、正宗に「わたし専属の小説家になれ」「印税のすべてをあげてもいい」と言い、後に愛の告白もする。セリフからは「ヒモ」のようなイメージが浮かんでくるけれど、見方を変えれば、世帯主の女が男を養うという家族といえる。
ただし、正宗と沙霧が共有している「仕事 → 家族」というとても明確なヴィジョンに比べて、エルフ大先生とムラマサ先輩のもつヴィジョンは不完全だ。エルフ大先生のは曖昧すぎるし、ムラマサ先輩のは一方的すぎる(そもそも無自覚だ)。ついでにいっておくと、智恵(幼なじみ)は「お嫁さんになる」というフワ~ッとしたことしか言えてないので蚊帳の外だ。
ここまでの話で「仕事 → 家族」という考え方はおかしい。「仕事+恋愛 → 結婚 → 家族」と考えるのが常識なのではないかと思う人もいると思う。
率直にいうと、家族をつくるのに恋愛・結婚をする必要はかならずしもない。『エロマンガ先生』において恋愛はおまけにすぎない。
前述したとおり、『エロマンガ先生』は小説内小説=仕事さえあれば人間関係を構築できるし、ストーリーがすすむし、家族の夢に向かって前進することができる。恋愛はあくまでサービス要素にすぎず、あってもなくても、なにも影響しない。つまり、おまけだ。
『エロマンガ先生』における各要素の重要度は「恋愛 < エロ < 仕事 < 家族」というふうになる(学校、となり近所は除外)。
このなかで恋愛はおまけだから簡単に省ける。エロはストーリーの補助をしてくれるけれど省こうと思えば省ける。仕事(小説内小説)はストーリーや人間関係などさまざまに絡んでいるので必須だし、家族は最終目標だ。
家族をつくる=(常識で考えれば)結婚する、ということに恋愛はいらないんじゃないかとおれは思っているし、国や会社やとなり近所が直接的に手助けしてくれるわけでもない。会社がしてくれるのはあくまで金銭的な補助のみであり、仕事をしていないとその恩恵にあやかれない。国はほんとうになにもしてくれない。仕事こそが最重要だ。おれは会社に生かされている。そして日々の辛い業務から離脱すべく、おれはマンガやアニメに没頭する……(宗教? 芸術? 知らない子ですね……)。
『エロマンガ先生』はこういったおれの(おれたちの、おまえたちの)現実をしっかりと的確に描きつつ、荒唐無稽なエロバカアニメを全力でやっているところがすばらしいところだ。
※追記 指摘のあった箇所を修正
前に飼っていた猫は乳癌で長く闘病していたのだけど、生まれた時から一緒に育った猫だったので大変辛かった。
その頃のことを思い出したのは元増田の記事を読んだからじゃなく、昨日、その後に飼った別の猫が死んだからだ。便乗するのを許して欲しい。誰かに読まれたいわけじゃない。吐き出さないとつらい。
今回の猫は心臓の悪化?から肺機能が低下して内蔵まわりを水びたしにして呼吸困難で死んだ。
そんな疾患を意識したこともなく、ほんの三日前の午前中まで元気に普段通りに過ごしていたので寝耳に水としか言いようがない。
細かく書こうとしてみたが、すでに出来事の順番が曖昧になっていることに気づいたのでやめた。ともかくジェットコースターだった。レールが出発地点に戻らずちょん切られていて池の中に放り出された感じだけど。
前述の癌の猫について、飼い主の都合で痛みを長引かせてしまったという自覚があることと、呼吸困難の苦しさ(丸二日間ずっと苦しみ続けて睡眠もとれないのを目の当たりにみしている上、完治の見込みは一切無い)を考慮して安楽死を選んだ。
選択自体には後悔は一切していない。猫はもちろん一秒でも長く生きることを選ぶだろう、意識だってまだあるのだ。自分の顔を声を、撫でる手を認識している。酸素室で比較的楽な一瞬、しっかりとこちらを見て立ち上がった時、確かに意識はしっかりしていた。でも、苦しさが限界まできてから眠らせるんじゃ意味がないと思った。少しでも早く楽にさせてあげたいと思った。口から垂れた水滴がうっすらと紅色だったのを見て、呼吸困難の後、血を吐くというのは本当なんだと思ったし、そこまでさせるのは本当に可哀想だと思った。前日の夜、撫でさすりながら「この呼吸困難は落ち着くことはない」と悟った時の悲しさは深くて、その時にもう決断したのだ。落ち着かないんだから、早い方がいい。でもそれは今日その日のことだとはわかっていても、何時何分になるのか、どうやって決めればいいのか。その瞬間までずっと考えていた。今はまだ撫でれば寄り添ってくる。声をかければ反応がある。尻の付け根を撫でればしっぽも跳ねる。でも決めてしまったら最後もう二度と触れあえない。
バックヤードに入って声をかけてから、就業時間ギリギリまでそばにいる許可を得て、酸素室のそばの椅子に座って猫をずっと眺めていた。猫は午前中は水を飲んだりできるまでに安定していたが、午後からは酸素室に入れる前のように口を開いて呼吸する状態に戻っていた。心臓を圧迫するから俯せになるより座る姿勢の方が本来は楽なのだが、疲れているので伏せっていた。どうにもできないのでアクリル板の前で声をかけていた。顔と顔を付き合わせてスリスリするのが好きな猫だったので、なるべく顔を近づけて、たまに話かけるようにしていた。
しばらくして猫が体を起こした。そのまま頭をアクリル板に擦り付けスリスリとした時、私は撫でてやることができなかった。すぐに猫は座りなおし、また伏せてしまった。この仕草が猫からの最後の要望だったこと、それにその瞬間に応えてやれなかったことだけが、後悔として未だに引っかかっている。最後の瞬間まで何もかもを飼い主が勝手に決めるんだから、その時の「撫でて欲しさ」くらい絶対的に満たされるべきだった。
その後、酸素室を明けてもらってチューブを口元に持って行きつつ撫でたりもしたし、それで尻尾はピンと張ったけど、そんなの飼い主が触りたくて触っただけだし、今こうやって失われた手触りを惜しんでボロッボロに泣いているのも飼い主の勝手なのだ。
死も病も生きとし生けるもの、代謝を続ける生物すべてに降りかかる災難であって、この出来事もことさら特別な運命ではない。だけど、なんでついこの間までピンピンしてたのに撫でて温めても治らないのかわけわかんないし、その直前に何か特別なご褒美がないものか、よくわからんと感じてしまうのだ。ペットとして生きものを振り回している人間の罪悪感から来ているとか、そういうたいそうなもんじゃなく、あの時に応えてあげたかったと、叶わなかっただけに後悔というより残念感がドーッと心を浸したまま浮き上がることはたぶんない。
安楽死は想像よりも一瞬の出来事で、ハッキリ言ってまだ生きてる状態なのではと思いつつ死体を抱えて帰宅したが、やはり運動としての反応がない以上、死んだものではあった。体温は一月の寒さ程度では全然去らず、猫を抱えているとき特有の暖かさがあった。その意味ではまだ肉体は生きていた。肉体が生きている、感触は変わらず生前のままなので、猫とはまだ別れていない、「魂はまだ離れていない」という感覚がストンと理解できた。通夜をするのだと決めた。
猫を抱いた人は了解されていると思うが、猫を抱くというのは小さいものの魂を抱くということだ。あれの温かさはそういう種類のものだ。スピリチュアリズムとかではなく、あんなに小さくて柔らかくて温かい繊細な感触をするものが、電池もなしに瞬発力を持って動くことに感動する。あの感触を得るために(あと鳴き声や舐める舌を得るために)人間は猫を飼っている。
この撫で心地を一瞬でも多く体験したいと思って、コンパクトな姿勢にまとめて、体から熱が去らないようにバスタオルで包みながらずっと撫でていた。
やがて家族が飯の支度が出来たと呼びに来たので、二回目の呼び立てで立ち上がって猫を置いた。いつまでも続けているわけにはいかないのは分かっている。ただ、失われるものを少しでも得たいという、やはり飼い主の勝手な欲望であって、そんなものは不純な気もしたが別れの儀式なのだと思えば許されるのではという気もした。
寝る時はベッドのそばのローテーブルに安置した。なかなか寝入れないので無料ガチャを回そうとソシャゲを起動したのだが、そういえば一昨日もこれをプレイしつつ俯せになっていたら猫が胸の下に入り込もうと邪魔をするので追い払っていたなと思い出した、とその時は泣かなかったが今泣いている。そのことは特に後悔はしていない(猫は実際に邪魔な時は邪魔だ)のだが、失われた瞬間の尊さときたら途方もない。猫が生きている時は「寂しい」の気持ちは押し込められていて、ともかく理不尽な病に苦しめられている猫の「運命」が「可哀想」だという気持ちで頭がいっぱいだったのだが、死んでしまうと寂しいに浸ることが許される。寂しいは自分の状態への反応なので、順番を間違えてはいけない。
翌朝、猫の体は冷えていたが、水が溜まった下腹部がぶにぶにとしているせいで毛並と相まって生前の手触りを保持していた。腹に顔を埋めると猫本来の香りは一切しなかった。発症してからの口臭や小便の匂いもせず、口鼻や肛門に詰め込まれている綿と、昨夜寝かせる前に口元を拭った時の消毒剤の匂いがした。
その後、猫を弔ったわけだが長くなりすぎたので割愛する。
私が猫を看取ったのはこれで六匹目になる。回数を重ねるにつれ慣れるものだと感じていたのだが、正確ではなかった。この最後の一匹になる前は多々飼いをしており、一匹が死ぬことで猫の気配がなくなるということはなかったのだ。
最後の一匹になってから四年。この一匹だけは老衰でヨボヨボになりボケてあちこちに放尿するのを世話しながら息を引き取ることになるのかなと、なんとなく考えていた。
例えばこの文章を書きつつ号泣するというのはよくわかる。自分で体験を振り返り、気持ちを盛り上げて文章化するものだからだ。
だが、なんの切っ掛けもなく涙がこぼれることがあって、その時の心境は確かに「悲しい」だから心体は一致しているものの、ささいな刺激で表出するので本当に困る。「悲しい」には悲しいし、寂しがっているのだが、そうしたいと思っていないのに気持ちが昂ぶってしまい困る。
その一方でその気持ちから断ち切られたくないと考えている自分もいる。猫の感触を仕草を声を忘れたくない。何度も振り返って記憶に焼き付けたいと願っている。その中でその愛している相手がこの世のどこにも存在しないことを感じて自動的に涙が流れる。
時間が解決することはわかっている。涙がなくても気軽に思い出せる日はたぶん遠くない。でも今はいっぱい悲しい。悲しいので涙が流れるし鼻水は垂れるし、一昨日からずっと目蓋が腫れぼったいしおでこまわりが熱いし、今年はもう必要ないなと思っていた鼻セレブを買った。
猫のことが悲しすぎない心持ちになったら、また新しい猫を引き取ろうと思う。一匹目の生まれた時から一緒にいた猫と死別した後、猫はあの一匹だけだと思っていた自分を変えたのは昨日看取った猫だった。
猫は猫それぞれで全然違い、個性や猫格を持っている。上手く付き合える確証なんてない。でも捨てられたり放棄された猫と暮らすのはどんな相手だろうと悪くないものだし、そのことで幸せになれる猫がいるなら今までの飼い猫たちにも報いることにならないだろうかと、そうも思うのだ。それこそ飼い主の勝手な解釈で猫にしてみたらどうでもいいだろうが、一匹でも多く飯で腹いっぱいな猫が増えるなら猫好きとしては嬉しい。
一匹目の猫は乳癌で死んだ。
腹が腐る匂いと一緒に眠っていた。腫瘍の膿を拭って消毒液をかけないといけないのだが、大きく身をよじって嫌がるので雑な対処しかできなかった。爪を切られるのさえ嫌がる猫だった。
最期が近くなるとトイレがうまくできなくなり、尻まわりに糞をつけていたので臭かったが、その頃になると体もうまく動かせなくなっていたので拭き取ること自体は楽だった。しかし、腰が抜けて糞尿の上でのたうつようなことが度々あり辟易した。
最後の日、私が居間でインターネットをしている時に「ニャア」といつもの声で呼びかけてきたが、私は怒っていたので相手をしなかった。
学校から帰って死んだ猫を見つけた時、ついに来ものが来たということはわかっていたが、そのことが理解できなかった、というのが当時のノートを読み返してよくわかる。生きていた時なら絶対にしないことを猫にした。首を持って持ち上げた。そのまま持ち続けていたが、反応がなくて、手を離した。床に落ちた。現象として確認した。信じられないものを目の当たりにしたあの時の気持ちを私は今でも忘れていなかった。紙から取り出せる。いつでも。
風呂場に遺体を持ち込んで糞と膿を荒い流している間、全世界への呪詛を吐きながらずっと泣いていたことも覚えている。初めて触れた身近な死だった。なんて残酷なんだろうと思った。
あの頃のように大声を出して泣くことも、荒々しい気持ちになることも、もうないだろう。
https://anond.hatelabo.jp/20180212233657
数年前、大学時代同じ部活だった友人が20代の若さで事故で亡くなった。
ちょうど仲間内の1人と交際しており、婚約直後だったと聞いていた。
その婚約者の友人から知らせを受けた直後は、気が動転して意味のないことを口走りながら、友人として諸々の手続きを引き受けることにした。
母親にどうすればいいか聞いて葬儀社に電話をして、言われるがままに一番大きな供花を注文した。
葬式には大勢の部活仲間と参列した。亡くなった友人は事故に遭ったのが嘘のような、まるで眠っているかのような顔で棺に収まっていたので、どうしようもないとは思いつつ「今までありがとう」と声をかけてみた。
親御さんからのお願いを受けて、みんなで棺に花と思い出の品を入れて、最後は霊柩車が式場を出て行くのを見送った。
今でもこうしたひとつひとつの出来事を鮮明に思い出せるし、「悲しい」以前に「受け入れがたい」という気持ちが消えない。
ただ、その時自分が持っていた感情が理解できない。その時の自分は、行き場のない悲しみ以外に一種のドラマ感を味わっていた。
葬儀の前日、悲しみを通り越して感情が表せなくなった婚約者の友人の顔を見ながら、亡くなった彼との思い出話を聞いていた時。
婚約者の友人の代わりに花を手配し、初めて会った故人の親御さんから「ありがとうございます」と言われた時。
故人と親友だった友人が棺の前で泣き崩れ、背中をさするために座り込んだ時。
私は心のどこかで「非日常のわくわく」や「非日常でちょっと活躍できる自分」に興奮していた。
もしかしたら、単に緊急事態でアドレナリンが分泌されて、混乱した心が「高揚している」と勘違いしただけかもしれない。
でも、あの時の自分がもし親しい人との死別という悲劇をエンタメとして消費していたなら、八つ裂きにされてもおかしくない程の残酷な性癖に当たるだろう。
誰にも言えずにしまっていたけど、この機にそっと投げておく。この気持ちを合理的に説明できるならありがたいし、同志がもしいるならそれもありがたい。罵倒されたとしても、ようやく自分の罪を断罪してもらえるならそれでもいい。