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はてなキーワード: 媒体とは

2024-10-08

anond:20241008123356

媒体って別にTwitterでもいいと思うよ。

活字にうらみでもあるのか。

anond:20241008043926

生計は立てる必要がないにしても客観的詩人であることを承認してもらわないと自称詩人のままなんじゃないか

そういう意味媒体は何であれ詩人自称したうえで詩を公開する必要があるように思う

2024-10-03

椎名林檎が追いかけてくる

この令和6年に椎名林檎(決して東京事変ではない)の歌詞をもじったネタが入った作品に数日ぶっ続けで出会ってしまい、私が知らないうちに椎名林檎(東京事変ではない)リバイバルが起こっているのかとソワソワしてぐぐったりした。

椎名林檎マーシャル匂いでとんじゃって大変だったのって約20年前…だよね?

大層売れたけど、その時の中高生って今はもう中年というくらいの大人だし、私が手に取ったゲームや本は対象年齢がおそらく、おそらくだけどF1層な気がしている。

私自最近の娯楽知らないしたまにはやるかーという気持ちで期待せず手に取ったら連続であの頃の椎名林檎出会ったというわけ。

えー!!?こんなところにいたの!?知らなかったー!全然変わんないね!!!懐かしいなぁ、それに比べて私はつまんない大人なっちゃったな笑

という痒痛いような嬉しい気持ちがぶわっと膨れ上がって止まらない。

ていうか今の中高生元ネタの歌知っているのか知りたい

(知らなかったら一度聴いて見てください)

全然違う媒体で、違う作者や脚本家で、あの時の椎名林檎が断片的に薫ってくることあるんだ

と、思ってたらまた見つけてしまった。

なんなんだこれ。

私は一生他人記憶の中にもある椎名林檎に追いかけられ続けるかもしれないしそうなって欲しいなと思う。

なので、インターネットの向こうにいるあの時中高生だったあなたに向けてこのダイアリーを書きました。

多感な時期に吸った椎名林檎後遺症だよ

2024-10-01

anond:20241001134159

昔なら雑誌とかで当時の空気を知ることはできるけど、今は紙媒体はなくなっちゃったからねえ

2024-09-25

anond:20240925053922

「なろうを語ってやろう」という奴らが判っていないのは

 

なろう=web小説というのは、要するに発表媒体のことを言っているのであり

その発表媒体には無数の書き手流入している。

それを語ろうとして起きることしているのは、

ミステリを語ろう」「時代小説を語ろう」と同じ話などではなく

角川文庫を語ろう」「海外翻訳小説を語ろう」ですらなく

強いて言えば

ブックオフを語ろう」とか「紀伊国屋書店文庫コーナーを語ろう」とかに近い

無限例外が発生し、すべての語りが誤りになる。

 

もっと用語を変えて、ジャンルを絞るべきなんだよ。

10年代webでよく読まれた、男性向けファンタジー小説、だとか。

2024-09-22

anond:20240922114633

いや読解力のなさを認められないといつまでたってもそのままだから

君が普段読むような非論理的媒体文章を書くことはあんまりいから、我々が二度と遭遇しないことを祈ろう!

2024-09-20

日本報道の自由は無い

国際問題に両足突っ込んでる日本人女性による子供誘拐をほぼ全ての媒体スルーしている

ここまで大きな問題政府ではなく「女性」に阿って報道しない国が他にあるだろうか

2024-09-17

不徳のギルド最近エロがなくてグロけがある

アニメ化もした「不徳のギルド」は、従来人間殺害しようと襲うだけだった魔物たちが「性的に襲う」という異常行動を取るようになり、女の子たちが乳首まんこを責められて感じまくるエロファンタジー

アニメでは地上波BS円盤など媒体ごとに4段階の規制が敷かれ、見比べる楽しさがあり円盤不況の近年の中でわりと売れた

アニメエロパートだけで終わったが、原作シリアスな戦いとエロパートを交互にやっている

現在シリアスパートをやっている

メインとなるのはモグラモンスター

モグラ突然変異で生まれつき知性と強い能力があり、人々から崇拝対象となったことで神格を得て村の守り神をやっていたが、20年前に失墜

20年前、銃器発明され文明の発展が著しかったが、世界神の一角がそれを不快に思い文明を望ましい位置まで引き下げるため、人類千万人を殺害する間引きを行った

モグラ地方神様やってただけにすぎず、世界神と渡り合えるほどの能力はなく、なんとか世界神の遣いの進路を曲げて村人の命は救えたが居住区や、他の村へつながる道は破壊された

命だけ残っても暮らしいけず、道がなくては支援を待てないと村人たちは怒り、モグラへの信仰心を失った

世界神に間引き対象にされた地区とそうでない地区があり、その基準不明意図があるのかランダム不明だが、モグラのいた村が襲われたのはモグラなんかを祀っていたせいではないかと噂され、村人たちは弱ったモグラ殺害しようとした



逃げ延びて人里から離れた後、無垢魔物たちに知性を授ける能力を持っているため魔物たちに自らを信仰させることで神格を維持した

恩義を捨て迫害してきた村人への恨みと、守り神なき後で村人に危険がないか心配する思いを抱えつつ、モグラ魔物サークルでその後十数年平和に生きた

村人はモグラ復讐される可能性に怯え続け、守り神がいないためたまに起こる軽微な魔物から攻撃モグラ差し金と思った

山の魔物モグラ魔物サークルに隷従して人を襲わなくなったのも、来たる復讐の日に備えていると解釈された


山に迷い込んで負傷した女性モグラは助けてあげた

彼女は恩を感じてモグラにたびたび会いに来るようになり、そしてケモナーなのでモグラを愛するようになった

モグラもヒトナーなので二人は相思相愛になり、来たる日に結婚式を挙げることになった

しかし挙式前に女性は死んでしまい、事故のように装われていたが殺人だと判明した

彼女殺害したのは村人だった

魔物に知性を持たせ信仰させることで神格を維持するという仕組みに村人は気づいておらず、密かに信仰を続ける人間がいるせいでモグラ能力を維持していると誤解したのだった

魔物サーで平和に生きていくつもりだったモグラ恋人殺害によって村に攻め入ることを決意した

過疎化の進む村には魔物と戦える者がいないので、違う村に住む主人公たちが戦うことになった

主人公たちはモグラの悲しき過去を知り非常に戦いにくいし、モグラターゲット女性殺害実行犯20年前から確執のある村の老人たちだけなので、部外者主人公たちとは戦いにくい

モグラの部下のアナグマ魔物主人公らによって瀕死状態にされ、知性ある存在を殺したくないか投降するよう求められる

アナグマヒロイックに描かれ寝返りそうな雰囲気も出していたが、結局は最後の力を振り絞り女性殺害主犯格を襲う

アナグマ植物を操るスキルを持ち、主犯格身体中に木の根のようなものを突き刺し肉体を植物化させ、パキラとかみたいに首をねじねじする

主犯格は木になり、殺されない限り永劫に肉体を植物に犯される苦しみを感じ続けるようになった

今までのこの作品では見られなかった、ホラー漫画のようなグロ描写だった

それと引き換えに魔力を使い果たしたアナグマは死亡

アナグマはいわば主犯格との相打ちのようになり主人公らが手を下すことはなかったが、モグラは殺しちゃうのかな

エッチコメディ漫画だったのにどうしてこんな鬱ストーリーなっちゃった

モグラ死なないで

2024-09-15

昔の同人誌は凄かった(意味深)

20年以上同人誌を作ったり買ったりしている。

これくらい同人界隈にいると同人誌イベントサークル文化の変遷やら事件やら、まあ色々なものを見て来ている。

歴が長くなると昔と今を比べたがる人も多くなる。

最近同人誌無味乾燥ものが多い、あとがきすら無い」というご意見を見た。

五千年前からある「最近の若者は~」論だ。

かに同人誌はある程度の画一化というか

「これこれこういう構成でこういうものを載せたら同人誌になる」

「こういう同人誌を作るのだったらこれを参考にして」

というセオリーがある程度出来上がっているし、非常に作る敷居は低くなっていると思われる。

(ここでこの作り方についての昔話をすると長くなるのでまた別の機会に)

昔の同人誌は作り方や指南書が少なく、(マニアック雑誌特集ではあったとは思う)参考が既に同人活動している先輩からの伝え聞き・先方の同人誌のみという時代も確かにあった。

自由度はあったと思う。凄かった。

「凄かった」というのは昔は悪い意味でも凄い本が多かったのだ。

自分が見た例をいくつか紹介する。

・「表紙は完成しているのに中身(本文)が未完成

同人誌を買っている人でこれを見た人は殆どいないし、今こういう本ほぼ見ないと思われる。良い時代になった。

いわゆる「天ぷら本」と揶揄された奴。

昔は「イベントに合わせて本を出す」事に意義があったのと表紙で判断して購入する(しかない)環境であった為、表紙だけ綺麗に仕上げて中身は下書き状態ハンターハンターの下書き掲載…と言えばわかる方も多いだろうか)で発行している本もあった。

・「表紙と中身(本文)が別ジャンル

マジであった。

流石に丸々別ジャンルという本は少なかった(あったんだよ…)が〇ジャンルの表紙で〇の話の後に急に「今ハマっている×ジャンル漫画トーク」が挟まっているとかは割とあった。

・「書き手の近況や同ジャンル者同士の対談や語りのPが何Pもある」

極めるとこれだけで本を出しているサークルもあった。

今より作者のアイドル性が高かったように思う。トーク面白いと「サークル●●のトーク」だけで価値があるのだ。

因みにこのトーク内容はジャンルに関するもの…では無く作者の近況だったりする方が多かった。

Twitter(X)でこの文化はほぼ絶滅したと思う。良い時代になった。

・「本文内にサークル紹介・次回イベント参加情報・既刊宣伝がある」

これで5~6P、いや下手すると10p以上は使っているサークルもあった。

NAVIOやPixivTwitter(X)は無い、個人サイトさえ無い時代なのである意味当然なのだが、自分サークル活動状況を知らせる媒体が限られており、発行物に含ませるしかなかった背景もある。

しかしあまりに長々とあるとP数稼ぎか…?となる。

実際にサークル紹介Pは作っておけるので、コピーコピーデータでは無く実物のコピー)を延々してそのPだけ画質が悪くなっているのもまあまあ見た。

新刊は●●Pと書いているが、このサークル宣伝Pが大体6Pぐらいあるから、実際の漫画小説は〇〇Pか…」という悲しい推察をしながら買った経験をしている人は自分だけでは無いと信じたい。

・「他漫画トレースパロディ

当時はまだ問題性が周知されておらず黙認されていたが今やるとアウトの事例。

「他漫画トレース」というのは例を挙げると「ジョジョ漫画の絵やコマ割をそのままトレースして髪型服装だけジャンルキャラクターに変換させてジョジョの名場面をジャンルキャラに喋らせる」というものだ。

ファンロードという雑誌の「今月の見たいものand見せましょう」というパロディ企画で用いられたり、朝目新聞でこのようなパロディファンアートとして有り、広く用いられている為、

同人誌にも用いて大丈夫という認識があったように思う。

これもだいぶ議論余地はあるが、上記の例に沿うと「ジョジョ漫画の絵柄のみを似せて描き、ジャンルパロディとして自分の考えたストーリーを描く」なら現在でもまあまあ見かけるし、問題にまではなっていない。

・「歌詞掲載

同人誌タイトルに歌のタイトルを使う」迄は著作権侵害に当たらないが、歌詞楽譜音楽著作物になる。

https://www.riaj.or.jp/f/leg/copyright/music/qa_internet.html

イメソンとして歌詞丸々書いたり漫画小説内で使いまくった同人誌多かったよマジで

今は歌詞引用するにしても、ちゃんジャスラック許可を取って歌詞使っている同人誌を見た。強い。


ヘイト創作特定キャラへの過度なネタやらまで列挙すると個人の好みの問題になるので取り上げない。

勿論挙げた中の例でも「それが好きで買っていた」人もいるだろう。

しか玉石混交というが、昔は玉を見つける為の買い手側の労力がかなり必要だったのは否めないと思う。

昔の同人誌中古ショップ等で購入する際は表紙やP数や分厚さだけで判断しないでね!

anond:20240915111909

横だけどゴティックメードはあらゆる媒体個人視聴が不可能やねんで。

DVDBD販売されてないしもちろん配信もされてない。

2024-09-14

anond:20240914161715

bioだけでおもろい

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2024-09-13

anond:20240913142018

そうだよ

fictionは生まれた時点から死んでるの

それは死んだ媒体に記録された人為的情報

知る過程には変化があって、生きているかのように錯覚する

物語が、描写が終われば、新しい刺激はなくなり、変化がなくなり、死に気づく

人は死んだ、刺激を与えてくれないものを、愛し続けられるほど忍耐深くはない

そうして、2次元人間関係は、常人感性だとあまり長続きしない

2024-09-12

anond:20240912210315

悲しいなあ。

もう売ってないもんの紙媒体を手に入れるのはとってもたいへんでなあ。

はてなブックマーカー文章が読めなくてビックリ

https://note.com/syosin_kai/n/n86f654833d52

1997年から2002年ゲーム関連の店舗の減少をあげて、何があったのかを解説した記事なんですが、これに対して「なぜダウンロード販売の影響を書いていないんだ。この記事は信用できない」って反応があってとてもビックリしたことは心に残っています。そして教訓になっています

https://x.com/syosin_kai/status/1833986674063487342

 

おそらく人は(自分を含め)、書いてある文章を読むことができないんだなということを肌感覚理解しました。

https://x.com/syosin_kai/status/1833986885938741525

上記note記事では、序盤のほうで1997年から2002年までの店舗数の激減をデータとしてあげており、その後の文章でも2002年までに刊行された文献を参考に当時の状況を分析している。ダウンロード販売話題が入る余地がないことは明らかだ


しかし、当時のはてなーの反応はこのようなものだった。題名しか読んでいないはてなーしかいない

tsutsumi154 ダウンロード販売に移行してるのに旧態依然だったからでは CD屋と本屋物理媒体必須としないのに勘違いしてる まだ物理

workingasadog-kt ん?ダウンロードする方が便利なのに実店舗いらんやん、で終わる話と思ったけど違うんか…(ビデオレンタル店が消えたのと同じ話じゃないの)

tettekete37564 中古対策としてベスト版出し始めたのとダウンロード販売一般化。中古屋のネット移行、のあたりと思われ。/ あー確かに> “店舗に行ってはいものの、店頭にある情報は参考にしていない”

lex010 少子化通販ダウンロード版の登場かな

mayumayu_nimolove ダウンロード配信主流になったからでは。あ、その前にAmazonが現れたからもあった。

aratety 競合となる蔦屋が現れた(そしてそれは町のゲーム屋としてカウントされない)・ネット販売が普及した・DL販売などの直販が普及した これに対してプラス要因は0 そりゃ潰れるわ

https://b.hatena.ne.jp/entry/s/note.com/syosin_kai/n/n86f654833d52


こちらは文章が読める変わった人

UhoNiceGuy ダウンロード販売Amazonが普及する前の2000年より前の話やぞ//ゲームソフトが小規模店に合わなかったのかねぇ。でも、個人店の八百屋も見なくなったし、小規模店は現代では厳しいのでは ゲームマーケティング歴史

他の媒体でよく見るイラストプリントされてるだけのグッズじゃ満足できない皆さ〜〜〜〜ん!!!

2024-09-11

エロ漫画でよくあるシーンにツッコミを入れてください

(例)・いつまで紙媒体エロ本部屋に隠してんねん!今令和やぞ!

2024-09-10

anond:20240910124221

その割にネットの付き合いか婚姻に至る……というのがマッチングアプリかい宣伝広告ありきの媒体以外でも多発しているという

弱者男性の俺も相手同性だけどオフ会あるわ

縁切りご自由にとか大分凄いことを言うなあと俺も思うけど、連中ストリーマーに頭やられてるから著名人とかじゃない一般人を虫けらかなんかと思ってるのかもよ

2024-09-07

音声を流そうとする広告なんなん?

音楽聴きながらWeb記事を流し見してるときに、急に音楽を止めてくるサイトなんて、二度と見たくなくなるんだが

掲載媒体側も、ブラウジング体験を棄損するような広告監視して制御した方が良い

UI/UXだなんだと言いつつ、広告は別部署なんで…とかひよってるとサイトがクソ化するぞ

2024-09-06

“きみの色”の広告

もともとリズと青い鳥とか好きだし山田尚子さんの新作まあ行くかくらいの気持ちで予告を見たところ、“天然そうな主人公サブカルバンドやろうぜ的なノリで音楽やって結局青春やってライブとかなんだかんだ上手くいく的なよくあるお話ね”、と別に気乗りもせず、SNSでも“話がない”などと書かれているのを見て、ルックバックを映画でみた時くらいいまいち乗り切れない気持ちになったらどうしようと心配していたのですが、開始10分後にはその心配は見事に打ち砕かれ、言語化できない感情の波を視覚的に示されつづけたことによって私は目から水を流し続けるただの機械となりました。人に感情強制的に感じさせる機能を備えた映画ってすごくないですか?それなのに、あまりにも予告編で得られる情報と実際の映画の良さが違いすぎて皆さんに伝わらないので広告を書かせていただきます

まず、予告ですが、予告だけ見ると全く面白そうな映画に感じません。予告が面白くないのは、たしかにこの映画に話という話がなく、予告として周知すべき展開がないため、日本映画広告で求められるストーリー性(タイムスリップして女子高生特攻隊に恋をした、など)が薄いからなのでしょうね。

そもそもこの映画には、人間の”視覚化された感情”とそれを表現するためのモチーフ連続けがあります。なので、予告というシステムでシーンをピックアップして繋げることで良さを伝えるのは無理なのかもしれません。

この映画を端的に説明しようとすると、他人のことが色で見える主人公が、いろいろ事情のある同級生と一緒に困難を乗り越えて青春とか恋とかありながら成長する物語って感じになってしまい、正直「薄っ!」ありきたりすぎて、色が見える=共感覚とかなに、中二病?って思ってるしまうんだけど、正直話とか設定とかキャラクターとかもう全部あん関係ないんですよ。多分この映画監督インタビューで言ってたのでそうだと思うんですけど、人(特に若い)の感情を描こうと思ったということだったので、色が見える(共感覚?)という設定は、映像という媒体の中で感情表現をできる限り視覚化することで、表現したい感情概念を観ているみんな(余す所なくみんな)にわかやすくするため便宜上そうしてるだけなのだと思います。なので、みていて中二病とかイタイなとか感じる場面は(私はそういうのを感じやすいほうですが)ほとんどなかったですね。なので、話とかそういうのじゃなくて、ただ、若くて未熟(いや、成熟しているといえる人間などいるのか?)な人間内面を眺めに行くと考えてこの映画に臨んでもらえると受け入れやすいのではと思います

主人公のこと、ほんわか系とか不思議系とか天然とかってまあ一般的には表される雰囲気なので、予告見てそれがちょっと抵抗感に繋がったという人もいるんじゃないかと思うんですね。ただ、この映画の中ではとにかくその人が外から見られたときにどう見えるかってことは全く関係なく、常にその人の内面が見えるように設計されているのです。例えば一般的にどんな天然でほんわかしている女でも家では彼氏や夫と普通にエロいセックスしていたり、普通にいい生活してる人に嫉妬したり人を見下したりすることがあるように(本作の中ではそういう描写はありませんが)、この映画主人公も外からみたらほんわか天然ふわふわ系なんだけど、普通に普通人間として思考していて、それが当たり前のように表現されていて、その人間グロさがリアルでよかったです。

あとは、今作はヒロインが非常に美しいのだけど、美しさとは真逆に感じられる幼さが、非常に人間的でまた美しかったです。

人間グロさ、美しさをきれいな映像で眼前に叩きつけられたい体験をしたい人に強くこの映画おすすめします。

2024-08-28

anond:20240828230515

この件については、増田普段からいる人というよりも

「な ぜ か 増田の使い方を知ってる(はてなID)を持っている人」

ですね。

媒体で、住んでいるところから顔まで自分晒しているので、オンライン上には証拠が揃ってます

要は「匿名荒らし」に書かれた悪口レビューかと思いきや、「意外と身近な人物」だと増田を使って特定できたということです

単著を書いたはいいけど、理不尽レビューをつけられ、増田犯人を見つけた話

電子書籍単著を書く

アマゾンに、本編とは全く関係ない理不尽レビューをつけられてる

いくつかの媒体で、その人が悪口や自慢話をする時に、「責任」という言葉を使いたがる。

誰に聞かれたわけでもなく、関係あるはなしでもないのに、やたらと「責任」という言葉を多用することに気づく。

(著書のアマゾンレビューにも「責任」という言葉が入っていた。)

増田で、その人の名前を出したネタを書いてみる

見事に本人を名乗る人物が登場。本当に「責任」という言葉を使う。(他にもその投稿の中でボロを出して、口調そっくりな書き方で悪口を書いてるところが見つかる)

アマゾンレビュー理不尽レビューをつける状況証拠がすべて揃う

動機あり・口癖一致・性格的にやったという前科もある)

これで、アマゾン理不尽レビューをつけた犯人実質的に判明。

いやぁ〜たまには増田も役に立つ

次にくるマンガ大賞とか本屋大賞とか

幅広い人が投票できるタイプ多数決なので、結局知名度の高い(既に一定程度きている、売れている)作品の追認になり新鮮味に欠ける。

特に次にくるマンガ大賞は既にきているか看板に偽りありではとか、知名度勝負の中では掲載媒体の影響が大きすぎるとか、既存作品や有名IPスピンオフが入っているのはどうなんだとか色々引っかかる。

2024-08-25

北村紗衣と須藤にわか論点はずれているが、共通問題あぶり出している

太田出版Webマガジンにおける北村紗衣氏の連載に対して、須藤にわか氏という映画ブロガーが異議を唱え、それに対して北村紗衣が反論してホッテントリ入りしている。

私は須藤にわか氏のように映画を多く見ているわけではないし、北村紗衣氏のように多数の先行研究に実際にあたったわけではないが、発端となった連載と二人のやり取りをみて、話の主眼がずれていると感じた。同時に、二人とも結局、「ニュー・ハリウッド」という批評の枠組みに問題があることを浮き彫りにしているとも思った。

発端となった元連載の内容

まず連載の企画趣旨は以下の通り

映画を見た後に「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人のために、フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載

北村紗衣氏の主な論点は以下の通り

①初めて見た『ダーティハリー』はサスペンスとして全然面白くなかった

自分アメリカン・ニュー・シネマが好きではない

60年代後半から70年代に、アメリカン・ニュー・シネマ英語ではニュー・ハリウッド)という潮流があった

④ニュー・ハリウッド反体制的な要素と、あからさまな暴力セックス表現が主な特徴として挙げられる

アメリカン・ニュー・シネマはかなり男性中心的な潮流

⑥『ダーティハリー』はニュー・シネマの影響下にある警察映画

北村紗衣氏の素朴な感想は、末尾にある「名作と言われてみんなに愛されている作品でも今見て面白くなかったらけなしていい!」と結びつくが、③~⑥の知識を持っていると『「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人』でも理解が深まる、というのがこの連載の趣旨みえる。

須藤にわか氏の異議

これに対して、須藤にわか氏の主張は以下の通り。

①「あからさまな暴力セックス表現が主な特徴」という認識は実際のアメリカン・ニューシネマからズレている

アメリカン・ニューシネマフィルム・ノワールと同様に映画批評家らによって作られた映画分類のカテゴリー

アメリカン・ニューシネマは「ヌーベルヴァーグ」や「ドグマ’95」のような映画運動ではない

④「アメリカン・ニューシネマ」と「ニュー・ハリウッド」は分けて考える

⑤ニューシネマは「暴力セックス」の映画ではない

⑥「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーは(白人の)批評のために作られた作為的カテゴリー

⑦「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそも批評カテゴリー自体差別的

北村氏の反論

須藤にわか氏の異議に対する北村氏の反論は、目次にわかやすくまとまっている

①New Hollywoodの特徴のひとつセックス暴力があげられるのは当たり前

②New Hollywoodが男性中心的であるということは1970年代からずーっと言われている

③広く使われているジャンル用語勝手に変更しない

論点のズレ

須藤にわか氏の明確な誤り

須藤にわか氏は

例の著者は自分で決めた「これがニューシネマ」というカテゴリー自分で見て「このカテゴリーには黒人映画女性主人公映画が入ってないか差別的」だと言っている

と述べているが、これは明らかに違っていて、

北村氏がいうように、

決めたのは私じゃなくて今までの批評

まり北村氏は一般的な「New Hollywood」解釈を述べているだけなのだ

ただし、須藤にわか氏が本当に主張したいところは上記にあるのではなく、「New Hollywood」というカテゴライズのものに反発している。

北村氏は出典をたくさん挙げているが、須藤にわか氏の主張であるそもそも『ニュー・ハリウッド』が作為的カテゴリー」への反証ではない。須藤氏のいう北村氏本人への批判、「知ったかぶりして、しか知ったかぶりした上でこれは差別的だとかなんとか非難」への反証である

(「たくさんの出典があってすごい!」的なブコメの反応は、ただマウント取りたいだけのリアクションに見える)

さらなる食い違い

須藤氏は北村氏の姿勢について、

「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーが(白人の)批評のために作られた作為的カテゴリーであることを度外視した上でそれを非難している。

と言っており、

北村氏は

「(白人の)批評のために作られた作為的カテゴリー」なんだから批判されて当然ですよね?

という。ここは互いに噛みついていながら二人とも同じことを言っているように見えて混乱したが、批判対象範囲が違うようだ。

須藤にわか氏はそもそも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴリーのものが、当時の映画作品群を評価するのに適切ではないと主張している。一方の北村氏がいう「批判されて当然」の対象は、須藤氏と同様にカテゴリーのものであると同時に、カテゴリーに含まれ作品群も含まれると私は解釈した。

須藤にわか氏の論の本質と、北村紗衣氏の指摘

須藤にわか氏の論で一番重要なのは、元の北村紗衣氏の連載にあった以下の部分への反論ではないだろうか。

60年代後半から70年代の潮流であるニュー・シネマは、それ以前にあったいろいろな制約が外れ、暴力セックス描写ができるようになり、そしてアメリカの秩序を問うような映画がたくさん作られた時代です。

そのくせに、結局は男性というか、主に白人男性が中心であることは問い直してないんですよ。

これに対して須藤氏は、

だいたいニューシネマは映画運動ではないのだから「問い直していない」って誰に対して言っているんだろうか?運動実態がないもの運動責任を問うたところで、まるで意味がないと思うのだが。

アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそもそうした批評カテゴリー自体差別的

この点、北村氏も、

>>New Hollywoodを決定づける作家主義的な監督の大半が白人男性であり、白人男性主人公にした物語代表作として受容され、研究白人男性監督だけを対象としてきたこはいたるところで指摘されています<<

と述べているように、「ニューシネマ」というカテゴリーのもの問題があることは認識しているように見える。

まり、二人とも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴライズ問題があるという点では、共通認識がある。そのうえで、北村氏は、「須藤氏のニューシネ解釈一般的ではないから、私を嘘つき呼ばわりするのではなく、自分で論を立ててね」としている。

しかし、「ニューシネマ」というカテゴリーのもの問題があるなら、北村氏の連載における「『ダーティハリー』はニュー・シネマの影響下にある警察映画」という紹介の仕方も、「ニュー・シネマが男性中心的だ」というのも、安易に見える。元の連載において、ミステリサスペンス的にいまいちという北村氏の感想にはうなずけるが、「ニュー・シネマ」という潮流の紹介は片手落ちで、「研究白人男性監督だけを対象としてきた」ことも含めて紹介すべきだったのではないだろうか。

なお、北村氏のいう「問い直してない」というのは文系学問によくあるレトリックで、須藤にわか氏の「運動実態がないもの運動責任を問う」ているように見えるというのは、本質を突いていると感じた。

「問い直してない」論法は、レッテル貼りに使いやすい。

ダーティハリー』含む「ニュー・シネマ」と呼ばれる作品群は、「男性白人中心主義」的であることを「問い直せていない」からダメ作品だという、作品ファンが反発を覚えるのも無理はないだろう素人批評を容易に生み出す。(なお、これは北村氏の主張ではない。北村氏はあくまでニュー・シネマが好きではないだけだ)

須藤にわか氏が作品擁護する姿勢理解できる。

増田感想

文系学問特に文学社会学)においてありがちな、世の中の傾向や潮流を仮構して、ミクロ作品人間を論じるスタンスは、使い方を間違えると、色々なことを損なう。その作品人間もつ、複雑さや豊かさが捨象されるし、俗流に応用されれば簡単差別につながる。「この時代に生まれ人間は●●である」と決めつける世代論などを見ればわかりやすい。もちろん社会を論じるなら、そういう傾向を仮定して話を進めざるを得ないが、学者でもない人間が個々の作品人間評価するのであれば、マクロ的な枠組みでは拾えない面白さや豊かさにも目を向けるべきだろう。

少なくとも発端となった連載は素人映画をより深く鑑賞する視点提供するものだったはずだ。北村紗衣氏の視点須藤にわか氏の視点を踏まえて、もっと映画を楽しみ人生を豊かにしたり、世の中を考え直すきっかけを得たりするのが、私のような素人にとってはいいのではないだろうか。

たとえば北村紗衣氏がいうように、

「やっぱり、この映画ハリーのことをどう捉えているのかの解釈が難しい」

というところが、「ダーティハリー」を考える上でおもしろそうな部分で、北村紗衣氏は第一印象がつまらなかったため深堀りすることはないだろうが、「ダーティハリー」をこれから見て逆に「面白い!」と感じた場合には、ハリーを起点に「ニューシネマの影響下に本当にあるのか」などを考えるとまたおもしろそうだ。

あるいは、須藤にわか氏のいうように

そういう自分の知らないものとたくさん出会えるのがニューシネマの面白さで、あえて一時代アメリカ映画をニューシネマとして括る意味があるとすれば、それはその作品群がこうした「新しさ」を観客に与えてくれるから

ということを踏まえて、様々な作品に触れれば見えてくるものもあるだろう。

須藤にわか氏のエントリについたクソブコメ

serio フェミニストはありとあらゆる事象フェミニスト視点から語ってしまうので、たまにホームランを打つことがあっても、バットキャッチャーを殴って三塁に走り出すみたいな大外しをすることがよくある。

→元連載は「フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載」なので、北村紗衣氏が好きに「ありとあらゆる事象フェミニスト視点から語ってしまう」わけではなく、そういう企画趣旨に基づいて仕事としてやっている

hazlitt アメリカン・ニューシネマってカテゴリーとして昔からよくわからんなとは思っている。わりとどうでもいいが野次馬的には町山某が反応すべき話題だな

→「わりとどうでもいい」と保険かけながら野次馬根性さらけ出しているのがキモい

jassmaz 文学理論批評理論を知らないオタクの見当はずれな批判。この時代アメリカ価値観完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力である。87年出版アラン・ブルームアメリカン・マインド終焉』を読もう。

→「この時代アメリカ価値観完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的」北村紗衣氏も須藤にわか氏も言っていない新たな論点。見当はずれはこのブコメでは

北村紗衣氏のエントリについたクソブコメ

tokuniimihanai あちらの記事批判相手職業を間違えている時点で無知あるいは礼儀知らずなので読む価値がないと判断したが、やはり読まなくてよかったな。引用部分だけでも論外とわかる

→読まずに断じているゴミ

takeda25 こういうの、詳しくなければとりあえず態度を保留するのが賢明なはずだけど(現にこちらのブコメはそういうのが多い)、女性叩き側のブコメでは調子に乗って叩く人間大量発生するのが歪み

→態度を保留するって、どういう立場後出しジャンケンに勝ちたいだけの姿勢が見えてキモい

ponkotsupon 須藤氏の批判記事は出典やら参考文献やら先行批評への言及が何もなかったのに対し、北村氏は複数の出典と研究史を出してるので、学術的には(須藤氏が再反論で論拠となる文献を示せなければ)これで勝負ありよなぁ

そもそも商業媒体ブログ応酬で、学術的な議論ではない。かつ、出典と研究史さえ出せば「勝ち」というのは学術的でもないだろう。

どちらのブコメにも共通していえること

二人に対するクソブコメの数々は

権威主義的で映画のものにも映画史にも興味がなく、自分では頭を使わず他人が貶されるのを娯楽として消費するだけを生きがいとする、野次馬根性と異常マウント欲、ハエ以下の精神性で駆動する人工低能

ではないか、ということを己に“問い直して”みてはいかがだろうか。

2024-08-22

anond:20240821194634

作家側の「女の自由解放」「強い女」に対するだいぶ攻撃的ですらある固定観念強迫的なこうだろ?感が透けすぎててつらい、という話だったらよくわかる

ブコメ漫画演出論の話になるってあるけどそんなかんじ

ハイスペ男になぜか愛される系健気な私スカッ作品あんまり違いがないくらいもうど定番中のど定番展開になってるから不自由に感じるんだと思う

女性向けのエンパワメント作品にも類型定型ができてしまって、しかもそれは共感ベースになっているのでその型から外れない、外れてはいけない、女性だったらきっとわかるしわからなくてはならないでしょ?という感じが現実と作中のキャラクタと二重構造になってこちらに迫るのでそこに苦しさをおぼえるのだという気がする

みんなバービージェーンスーさんラジオを聞いているのだろうかしら…みたいな作品通底した匂い感触みたいなさ

こういうものも多分話売りとか商業的な媒体であればあるほどある程度はトレンドがあるもので、仕方ない気もするけどね

最近ラジオで流れてたキンチョー朗読ドラマ仕立てのCMで、意思人格もしっかりありそうな女性描写なのに「男と別れて髪を切る」の類型を結局まだやらせていてうへっとなったものだけど、要するに「女には思いを込めて断ち切るものや変化するステップとしての行為があるのだ」という類型がだいぶ強い思いこみに感じるし押しつけがましくて、変化のスタイルや本人の感情動機ベクトルがどの向きであれ「キャラクタにこの思想やらせよう」が隠しきれてない場合にはどれもあんまり根っこが変わんないよな……って嫌さがあるのかな

同一パターン外の物語が見つけづらいだけであるにはあるのだと思う

入江喜和とかわりとそうかな

トラバの凪のお暇もそうかも

(結局テーマ作りや演出の巧い作品では類型もそのキャラクタの行動の一部として不自然とは感じられず、類型を描くことそのもの目的になっていることがはっきりしている拙い作品では目や鼻についてしまうだけの話かな…とも思う)

  


追記

漫画じゃないんだけどインド映画マダムインニューヨーク」はこの「一歩踏み出し、冒険をして自分を認めて、自分が欲しいものはただ敬意なのだと表に出せるようになる」ことへの変化をとてもすっきり美しく清々しくスカッとでもなく描いていてとてもすばらしいと思ったものだった

打ち負かすか逃走か、自己の獲得において常にその二つのしかないわけではない、という広がりが気持ちを楽にさせてくれた

まあ日本インドじゃベースになる状況が全然ちがうけどさ

主人公はそれまでの自分を捨てない、生活は続く

強くなくても攻撃的でなくても描ける自由はあるよね


追記2

ともすれば髪型を「強く」変えることが積極的自由選択からではない虚勢や逃避に見える場合があることも苦しさの一因かもしれない

そんな小さな変化にしか我々には自由が許されてないのか……みたいな、あるいは増田が書くようにこれまでの自己を捨て去って獲得する自由の道しかないみたいな、そんな現実にも確実にある抑圧の強さをよりわかりやすく感じさせる痛々しい、息苦しい描きかたの漫画もあるしね(読み手としてそれに触れたときつらくて苦しいことがあり、その感情の正体を元増田を足がかりに考えてみたい…というだけのことで、こちらの思うとおり描けとかやめろとか納得できないとはまったく書いていないので、そこを曲解されると非常に困ります)

基本的にそういう作品世界キャラクタ自分を追い詰める敵と闘争(なのでトーンが攻撃的になるのは当然と言えるかも)してるわけで、その動機から本来理由がなくともカジュアルに、自分の好きにしていいはずの髪型の変化自体武器武装化手段化してしまうのを目の当たりにしなきゃならない苦しさもあるかなあ……

そのもがきや闘争はつまりスタイルの獲得のためで、それ以前は自己スタイルがない状態として物語規定されている上に、変化後のパターンすら概ね決まってしまっているのならば、結果その一本道しかないその状況や環境に苦しさを見出すのは当然かもな…という気もする


追記3

誰もが菱沼聖子さんのように生きられるといいのに

(彼女場合は周りの環境が整っていたのが大きいけど)

2024-08-18

anond:20240818180703

AIの中の低知能層とその擬態をしている反反AIは、GrokとXを認めている

それ以外の反AIは、他媒体で同等のインプレッションを獲得できる場所が見つかるまで、苦虫を潰して待っている感じ

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