はてなキーワード: パトロンとは
現時点で、本人が参加を辞退している以上、もう掘り起こさなくても良いんじゃないかとも思うけど、今回の件で色々と考えさせられたので、自分の中のもやもやを整理するためにこの日記を書いています。
なので、自分と違う価値観の方には全然落ちてこない内容かもしれない。そして私は、コミケや同人誌即売会というイベントにサークル参加した経験はないが、一般参加は何度もした事があり、友人に同人サークル活動をしている人もいて売り子で協力した事があります。このため、出来る限り中立的な目線を持ちたいですが、所謂コミケ参加者側の"オタク"の価値観に寄った意見になる事をご容赦ください。
ただ、自分にも真剣に応援している推し俳優がいるので、今回の一連の騒動はなんだか他人事とは思えなかったので。
まず、問題は一つではなく複数あり、複数の問題が複合的に重なった結果、今回の騒動が起きてしまったんだと思う。混ぜて話すと分かりにくくなるので、1個ずつ取り上げてみることにする。
また、「真木よう子にコミケ参戦を促した黒幕が別にいるから彼女には何も落ち度はない」という意見もあるかもしれませんが、ここでは論点が少しずれるので詳細には言及しないこととします。
まず問題なかった点というか、これは是非とも賛同したいなと思えた点から。
「オタクは普段から表現の自由を訴えている癖に、彼女の表現する機会や表現する自由を奪った」という記事や意見を多数見かけたが、コミケ参戦反対派のオタク(以降、便宜上「オタク」と略す)の中で「写真集を作成する」という行為自体を否定している人はほぼいなかったと思う。写真集を作成し、彼女が写真やエッセイ等で自分自身を表現すること自体はとても素敵で素晴らしいことだ。今回は残念ながらプロジェクトが頓挫してしまったが、今後また別の機会があれば是非とも再挑戦してほしい。
ただしその時は、その作品を発表・発売するのに一番適切な環境や手法について熟慮して頂くことを心から願いたい。
これは既に多くの記事でも言われている通り「クラウドファンディング」自体は資金集めの手段としては画期的であるし、彼女を応援するファンが支援できる、という事は全く悪いことではないと思う。ただ、「クラウドファンディング」というビジネスモデルに頼って「多額の出資金」で作成された「プロライクな作品」を「コミケのアマチュアサークルとして頒布する」となると、やはり違和感が拭えない。
正式にルール化されていなくても、アマチュアサークルで作品を作り頒布する人のほとんどは、例外を除き自費制作が主流。これは、出す作品が同人誌でも写真集でも雑貨でもCDや映像作品でも一緒だと思う。当然、自費制作なので多額の資金を準備するのは大変だし、制作数にも限りがある。そういう制約の中で最大限の努力をして、自分の作品を出す。コミケというのはこういうDIY精神がベースに根付いているし、そういう人達の活力で出来ている。
「クラウドファンディング」の「制作したいものがあっても資金がないので、パトロンを募って出資してもらおう」という精神は今の時代の風潮に合う素晴らしいものかもしれないが、「コミケ」の中の主流である「自分達の制作・頒布するものは基本的に自分達の資金力・能力の範囲内で準備する」という精神とはやっぱり相容れない部分が大きい気がする。
多くのオタクが拒否反応を示したのはこの部分のはずなので、同じことを別の人がやってもやっぱり叩かれていたと思うが、真木さんほどの有名人がやろうとしてしまったことが大炎上に繋がったのだろう。
コミケの企業ブースであれば、出展料金はアマチュア向けブースよりもかなり高くつくものの、そもそもが商用のスペースなので、企業ブースに出展する企業とコラボレーションして参加するという話であれば、もしかしたら成功していたかもしれない。(企業ブースには声優等の有名人が登場することもある)
何故コミケに参加したいのかという質問に対し、真木さんは「ファンの方と交流したい」という回答をされているのを拝見した。コミケは、確かに作品の頒布者とそのファンが交流できる場でもある。ただそれは、あくまで作品を頒布する際に生まれる「副産物」であって、そもそもファンとの交流に適した場所ではまったくもって無い。
コミケは、毎年ニュースになるほどの人混みになる。アマチュア向けサークルのブースは基本的に長机を半分で1サークルが使い、サークル側の1ブース内に入れる人数は2人程。大手サークルでも2スペースで長机一つ分。一般参加者が歩き回れる通路もとても広いとは言えず、移動したくても身動きが取れなくなってその場で立往生するなんてことは当たり前に発生する。人混みではない場所でもブースの周りにずっと人だかりが出来ていたら、近隣のサークルに迷惑がかかる。そもそも、入場するまでの待機列から目的の場所に辿り着くまでに3~4時間以上経っている…なんてことも当たり前に起き得る。夏コミなら炎天下の灼熱地獄の中で長時間外で並ぶことになるし、冬コミなら早朝の凍え死にそうな寒さの中で長時間並ぶことになる。
そんな場所で、所謂有名人である彼女が参加することで起きるであろうリスクを考えるのは簡単だろう。コミケ参加者・彼女のファンを問わず、真木よう子というネームバリューがあれば大量の人達がそのブースに押し掛ける。コミケ参加に不慣れな彼女のファンとコミケ常連客との間でトラブルが起きるかもしれない。それによって、近隣のブースで作品を頒布するサークルに迷惑行為や被害が及ぶかもしれない。コミケに不慣れなファンが長時間外で並ぶことで体調不良者が続出したり、救急車が出動することもあるかもしれない。
こういった可能性に対するリスクマネジメントをきちんと行い、徹底的に対策することまで考慮されていたのかは定かではないが、少なくとも頒布する場所がコミケではなく、個別に専用の会場を抑えてファンミーティング・握手会等といったイベントを開催した方がよっぽどリスクが軽減されるはずである。それに、彼女程の女優であればそのようなイベントを開催することも可能なはずだ。つまり、芸能人とファンとの交流に重きを置いているのであれば、コミケという場は正直不適切としか言いようがない。
これは、自分の推し俳優に当て嵌めて考えても、やはりコミケに出たいと言われたら絶対に全力で反対するだろうし、専用の会場を抑えてファンイベントを開催してくれた方が正直何百倍もありがたい。というか、あんな過酷な空間に推しを放り出すのはファンとしてとてつもなく心配である。
あとこれは、個人的な意思が多分に含まれるが、コミケというのはそもそも芸能人とファン交流の場ではないので、それを正々堂々と「ファン交流のためにコミケに参加したい」と芸能人が言ってしまうのはコミケを私物化したいと言っているようにも捉えられかねないと思う。やはり、ファン交流が目的ならば別の会場をブッキングするべきである。
もちろん、今年の夏コミでの叶姉妹のように上記リスクを全て懸念の上、事前のリサーチと対策を徹底的に行い、かつ準備を入念にしているというのをアナウンスをしてくれれば「そこまでしてでも参加したいのであれば…」と参加を応援する声が増えていたかもしれない。コミケに来るオタクの一部は、とてもトラブルに敏感である。そして「有名人が参加する」という事はそれだけでアマチュアサークルの何倍ものトラブル勃発の可能性を内包している。有名人とアマチュアサークルのコミケ参加にはそれくらいの差があることを、彼女のファンの方々にも是非知って頂きたい。
これは想定の話になってしまうが、発表時点で「クラウドファンディングで写真集を作成をする」という事だけが公表されていて、「コミケ参加」は当選が確定した後に発表されていれば、ここまで批判する者はいなかったように思える。もちろん、コミケ参加を発表する際には、先述のリスクに関する対策案も同時に発表しなければ結局炎上していた可能性はあるが。
毎年多数のアマチュアサークルからの応募があるが、その分落選するサークルだっている。そういった背景があるにも関わらず、確定前に「コミケに参加する」という発表をするのは「芸能人だからたぶん当選するだろう」という驕りにも見えるし、「コミケ」というキーワードを使えば話題性も高まるのでクラウドファンディングで資金集めをするネタにしようとしていたようにも見える。この辺も、オタクからの反論を買うことになってしまった要因の一つだと思う。
この辺は所属事務所の規定にも関わってくると思うが、本人のみで完全に非公式プライベートでコミケに参加するというのであれば、会社員をやりながらコミケに参加するアマチュアサークルと形式は一緒な気がするが、クラウドファンディングというのは一つのビジネスであり、実際の必要経費よりはかなり少ない額とはいえ800万円もの資金を所属事務所を通さず、大々的に公表して集めて、事務所側から何も文句は言われないのか?というところも疑問である。
コミケという場を借りててっとり早く本を出すよりも、少し時間はかかるかもしれないが、事務所と相談するなり、事務所を移籍するなりして、事務所側に彼女自身が望む企画を理解してもらえるように働きかけるべきだったのではないかと思う。
今となっては、あの発表内容に書かれていた文章が、本人による言葉なのかどうかは分からないが、ファンから集めたお金を使う以上、沢山のファンやコミケに関わる全ての人が閲覧できる場所で、あの内容を「本人の言葉」として発表する事を許容してしまったのは、一端の大人であり、女優という注目されやすい仕事をしている社会人として、あまりにも配慮が足らなかったと言えると思う。
これは、かなり個人的な意見になるが、Twitterにて批判を受けた際に、数あるリプライの中から、特に暴力的なツイートを引用して、謝罪文を投稿した事は正直ドン引きだった。彼女の元に来ていたリプライを見ていた人なら分かると思うが、その中には暴言だけでなく、建設的な助言や意見が多数寄せられていた。にも関わらず、謝罪ツイートにそれらの意見を引用するならまだしも、敢えて特別ひどい暴言を引用した意図が全く意味不明だった。
正直、自分のファンに「こんな酷い暴言を受けても謝罪しているアタシって可哀想」というアピールをしているように見えても仕方ないやり方だった。事実、その後Twitterでの論争は更に広がり、彼女の擁護派対オタクでの言い争いが巻き起こっている。こういった状況を誘発する事すら想像できなかったのだろうか。
世間には何も考えずに心無い暴言を吐く人間が山程いる。特にTwitterをやっている有名人というのは、そういう人間には格好の餌食だ。そういうのを真に受ける必要はどこにもないし、逆に相手にすることによって、相手の負の感情を助長してしまう事もあるので、そういう相手へのスルースキルを持つべきである。
逆に、彼女のことを親身に考えてアドバイスをしていたオタクやファンも沢山いたのだから、そういう意見を尊重し引用すべきだったのではないだろうか。そうすることで、擁護派の人もオタクの意見に寄り添えたかもしれないし、オタク側の理解者も増えていたと思う。少なくとも、今よりもう少し、平和な状況になってたと思う。
このTwitterでの一連のやり取りから感じた彼女への印象は、SNSの煽り耐性の無い人なんだなぁ、という印象である。仮にも34歳の立派な大人なのだから、SNSで発言すること、インターネットという世界中に開かれた場所で情報を発信する意味を、もっときちんと考えるべきだと思う。
最近この騒動を受けてか、Twitterアカウントを削除されたようだが、一旦彼女自身がSNSとの距離感を考える良い機会になってくれたら良いなぁと思う。
…以上が、一連の真木さんのコミケ参入に関する一連の騒動への所感です。素人意見なので、色々と間違っているところもあるかもしれないですが、自分なりに整理してみました。
いつか真木さんご自身が、これらの問題をすべてクリアにして作品を発表できる事になったら、その時は快く応援させて頂きたいですね…!
その日が来ることをお待ちしております。
つくしあきひと氏の絵を初めて見たのは15、6年前のことである。
当時から彼は特異な才能を持ったイラストレーターの一人として知られていた。当時は彼を含む様々なイラストレーター達が、個性的なイラストをホームページ上にアップロードしており、言わばその時期というのはネット上で活躍するイラストレーターの方々にとっての『黎明期』であったのではないかと今にして思われる。
つまりは僕自身もそんな黎明期――『夜明け』の目撃者の一人であったということだ、何てことが言えるのかも知れない。
まあ、『ワシが育てた』とかそういうことを言いたいわけじゃないけれど。
とにかく当時は、センスに溢れるイラストレーターさん達が、その実力をアンダーグラウンドな世界において遺憾なく発揮していたということである。あるいは彼らは一種の探窟者であったと言うことができるかもしれない。今となっては(つくしあきひと氏を含む)その一部だけしか生き残っていないという辺りも、あるいは彼らと強靭な探窟者達との共通点と言えるのかも知れない。
さて。
というわけで第四巻を先程読み終わった。素晴らしい巻であった。
深淵を辿って降りていく人の中の、もっとも先を行くもの、白笛の『黎明郷』のエピソードが続いている。
度し難い、とは正にこのことだろう。黎明郷の生命力の秘密というのが何なのかについては敢えて口にしないが、その身体に相当な業(ごう)やらメカニズムやらが秘められているという事だけは間違いあるまい。
彼らのような人間は現実にはそう存在しない。まあ一部の創作家とか、何らかの事柄に関する探求者といった人々は、ひょっとしたら白笛達のような度し難い探求者としての一面を持っているのかもしれないが、幸いながら僕はそういう人物との関わりを現実世界で持ったことが無い。大抵そういう人々というのは生活をする中で周囲の人間の尊厳を食い潰していってしまうものらしく、彼らの英雄譚を他人事として安全距離で聞いている内はむしろ幸せであるものの、まあ隣り合わせで生活していくとなってはこれは到底耐え難い事柄と言えるのだろう。パトロンや近親者を精神の淵にまで追いやった何人かの著作家のことを、僕としては数人思い出してみる次第である。
ところで、彼ら『降りる者』の対比として容易に思いつく存在としては、『昇る者』――つまりは登山家の存在があると思う。作中において『黎明郷』の功績の一つに「新たなルート開拓」などが挙げられていたが、これは恐らく現実に存在する登山家の家業を匂わせるような表現だったのではないだろうか。
思うに、『探窟家』の存在が度し難いとするならば、『登山家』の存在もまた相当程度には度し難いと言えるのかも知れない。
例えば、世界中の八千メートル峰の全てを無酸素で登頂した伝説的な登山家「ラインホルト・メスナー」は、登山中に弟を亡くし、自分自身も数本の指を喪った。挙句、そんな地獄の登山行から帰還した後で、実弟の死を巡ってメディアパッシングを受けている。
付け加えて言えば、登山家という職業は命を喪うに易い職業でもある。
エベレスト登頂ルートの途上には、幾つもの凍死体が未だ腐ることも許されず凍じ籠められている。
先日、伝説的な登山家の一人である、スイス出身のウーリー・シュテックが文字通り伝説となってしまった。伝説。登山もまた、探窟と同じくして度し難い……まっこと度し難いスポーツの内の一つなのだ、実際のところ。
さて、この作品はたくさんのインスピレーションを読者に与えてくれる。
何らかの深淵を追い求める中で、人は人間としての尊厳をいかに保っていられるのか、あるいは、いかに失ってしまうのか。
そして、各々の探窟行の果てには何が待つのか。
『成れの果て』となってしまったたくさんの人々は、一体何を語るのか――
そういう意味でもこの作品は優れている。まるで膨大な歴史を辿り、旅をしているような感覚を味あわせてくれる――。弐瓶勉氏の『BLAME』を読んだ時の感覚と似たものがあるかもしれないが、あの作品とこの作品はまた別物である。こちらにはこちらのユニークさがあって、それが読者の好奇心を掴んで離さないのだ。
教員の友人が壊された
地方(都道府県庁から遠い)の学校に飛ばされた友人は、新しい学校で若いというだけで春夏と注目されるような部活の顧問にされた。
4月からは前任の教員が昨年から決めていた週末を練習試合で費やしていた。
日付けが変わるまで新しい環境でのカリキュラムや指導方法を検討しながら、始業前・放課後にグランドに出て指導しながら自身の練習をして、なんとかノックを打てるようになったと言っていた。
春の大会が一回戦で終わり、OBと保護者との懇談会が設けられ、彼はここで自分では難しいから色々と協力をお願いしようかなと語っていた。
その後、彼から受けた内容は懇親会なんて建前で、糾弾の矢面に立たされ訳もわからず精神的肉体的にドツかれるというものだった。
次の週末どころか秋までは予定が組まれていて、自宅には帰れずに金曜から月曜の朝までの遠征しなければならない。
授業準備や部活動、雑務は彼のプライベートな時間をマイナスにし、彼は”急病”で教壇から離れることになった。
「理科離れ」に対し科学・技術の魅力を若い人に伝えたいと語り合った友人からの連絡に、お前の役目はそれじゃないだろう!って言っても彼からの「ダメだった・・・」。
幸いなことに私は希望通りの自分の趣味に合った部活の顧問にさせて貰った。
活動の一部で道具を運搬する必要があったからレンタカーに学校の活動費を使おうとしたら例年は顧問の私費ってふざけんな。
土日の手当てどころか、金出すのかよ。
好きだったというより好きなままだけれど、好きなことは少しも過去にはならないけれど、たまには思い出話をしよう。
本郷三丁目の交差点の沿いにMitteというお店がある。私はそこが好きだった。頻繁に通ったとは言い難いけれど、お金をきっちり落とす優秀なパトロンだとは言い難いけれど、それでも私はそのお店が好きだった。そのお店は今日が店仕舞いの日だった。だからたまには思い出話をしよう。
もとより古い文具とかそういうものが好きなのだけれど、Mitteのことは他のどこの古い文具を扱うお店よりも好きだった。
どんなに外が寒い日でもお店の中が温められていて好きだった。色々なものが所狭しと並んでいて、ただ眺めるのでなくかきわけるように探していいものを見つけるのが好きだった。それで何かを買おうとするとお店の人が話しかけていろいろ教えてくれるのも好きだった。
私は街中の服屋や電気屋なんかで話しかけられるのは全然好きじゃないけど、Mitteでお店の人の話を聞くのは好きだった。ものを一つ買うにも、そのものが経てきた色々な経路とか歴史がある。私は古いもの固有のそういう遍歴が濃ゆいところが好きなのかもしれない。ものにまつわる話を教えてもらって、共有して、そのお話とものを連れて帰るような、いつもそんな気持ちでお会計をしていた。
買うのでなく連れて帰るのだった、というのが分かってもらえるだろうか。いいものを延々と時間を掛けて選び抜いて、抱える掌の熱で生温かくなってしまったようなのをレジに持っていったとき、お店の人がいいものとの別れを名残惜しむように値付けをしてくれるのが好きだった。
値付けもふつうの古文具の相場に比べてずっと良心的だった。本当にそんな額面でよいのか疑いたくなるくらいだった。なんでもかんでも安いことが素晴らしいと礼讃する気にはなれないが、良心的だったことは間違いのないことだ。
それからこれはとても個人的な話で、これから述べることがMitteを訪れた全ての人へのもてなしだったとは少しも思わないが、私はお店の人が紅茶やコーヒーやお菓子を出してもてなしてくれることも好きだった。その場所に長居して構わないような気分になるのだった。何時間も長居をして結局買うのはほんの千円だとか数千円が関の山なのだが、それでも居心地良く何時間でも吟味をさせてもらえるような場所は、世界広しに古雑貨屋多しといえど、私個人としては、ここ以外には無いと思う。
Mitteはお客さんで混み合うことが少なかった。採算がとれるか否かでいえば勿論悪いことだが、自分勝手なことを述べるのがもし許されるなら、私は自分以外のお客さんがいないMitteでひたすらものを選ぶのが好きだった。
混み合っているようなのはどうも落ち着かなくて苦手だ。繊細なものばかり並んでいる棚の前を人間が往来するのは落ち着かないものだ。その点あの場所はとてもいい場所だったのだ。それで前述のとおりもてなしまでいただくと、ああ自分の部屋もこんな風だったら素晴らしいのにな!と思わずにはいられないほど素敵だった。
Mitteはいいものがどうしてと思うくらいに取り残されている不思議な場所だった。東独の宇宙豆本なんかあまりにも素晴らしいもので一目惚れだったが、私よりかは宇宙好きな人の元に渡った方がよかろうと思い、一度見送って、数ヶ月後まだあって、まだ見送って、それから数ヶ月後の三度目にようやく、こんなに可愛いものを誰もまだ迎えないなら、私がさらって行ってしまおうと思ったものだった。さらわれた豆本は私の狭い部屋の狭い古文具入れの中に収まっている。少し運命が違えば東独博物館のガラスケース入り豆本の仲間だったかもしれないのに、豆本も数奇な運命を辿っているものだ。
それでも私は冒頭に書いたように、自身が優秀なパトロンになれなかったことを悔いている。続いて欲しいものにお金を落とすことの重要さを今までもわかっていたつもりだったが、それでもやはり手を尽くせなかったように思われる。行きたい場所や欲しいものは、それがある内に大切にしなければならない。
重ねて書いておくが、お茶とお茶菓子などの応対についてはされた人もされなかった人もいると思うが、そのことで何人たりともお店に文句を言うようなことはあってはいけない。私以上のもてなしをされた素晴らしいパトロンだって居るであろうし、私はそのことを悪いと全く思わない。逆に初めてそこを訪れた人などは相対的に落としたお金が少ないのであるから、もてなしのないこともあるであろう。もてなしは無償ではないし当たり前のものでもない。それが普通だなんて少しも思わない。それらは身に余るような優しさだったと今も思っている。食べ物は消えてしまうが、もてなしを受けたことは消えないので良い。
私は、そして私を含む古文具収集家や古雑貨好みの人々はみな、永遠などないことを知っている。東独もソヴィエトももう現代にはないものだ。それでも自らが通った場所が現代でなく過去になることは、どうしてこんなに厳しい気持ちになるのだろう。もう終わったもの、過去のもの、二度と戻れないものにこんなにも執着し心惹かれながら、自らにとって現代と思われたものが同様になるのをどうしてこんなに悲しく感じるのだろう。
Mitteには現代の品物も置いてあったことを分かった上で述べるが、古文具趣味や古雑貨趣味というのは、大きく括ってしまうと、使い終わったもの、行き場をなくしたものに、また新しい行き先を見つけていく趣味なのだと思っている。あの場所から幾多のものの新しい行き先を見出した私は、私たちは、私たち自身の行き場をひとつなくして、一体次はどこへ行くのだろうか。
それでも次の行き先をまたひとつ、そのうち見つけられるのだろう。そうやって集めた行き先の中にまだ何らかの形でMitteがあることを、私は知っている。だからなんてことはない。これは別れの挨拶でもなんでもなくただの思い出話だ。またね。
ただ、相互理解や尊重がすすみゲームに対してポジティブに語れる空気ができたらいいなってレベルの話です。
例としても上と下の極端なとこだけを抜き出して中間層を無視していると思います。
ファンなれば作り手にも関心を持つのは自然なことですし、無邪気でも心無い発言に傷ついたりするというのが
他ジャンルにくらべて軽視されすぎてるんじゃないかという話です。
そういう立場からすると消費者的な価値観を押し付け強要されてるようにすら感じてしまう、というのがたぶんまずいところなのでしょう。
最近は重度のゲーマーでも消費者ゆえの無邪気だからなにいってもいい、と開き直りが攻撃につながってるという印象もあったのですが
当人は純粋に一般人の消費者だと考えてるから温度差があるのかもしれません
ネットの普及で一般消費者の声が目立つのは当たり前のことでもあるのでしょうしそのあたり気づけたのは収穫でした。
結局、お互いが攻撃とか排除とか強要とかに敏感すぎてどっちが先みたいな話に終始してしまってるんでしょうね。
個人的な話をすればパトロンレベルで巨額を使い込めるほどの人間じゃないですが、
気に入ったゲームは数人に布教して一緒に遊んだりとか、ゲーム環境整えるのに投資したりとか趣味の範囲でお金を惜しまないという程度です。
それでもまだまだゲームはコスパが高い、他の趣味と比べても安く長時間遊べすぎると感じているので申し訳なさみたいなのはあるのですが。
「1週間以内に本屋で買ってくれないと重版されない」って脅されると買いたくなくなる | アオシマ書店 - 電子書籍の情報サイト -
上記を読んで。
その理由は、「消費者にパトロンの役割を負わせるべきではない」と思うからだ。
消費者が作品を買うとき、その動機は「自分が読みたいから」だ。
それはパトロンだ。
基本的に、なにか作品を買うという行為は、その二つの動機がそれぞれの割合で混じりあっているものと思う。
それはかまわない。
だが、創作するがわが「支援のために買ってください」と促すのは、
ここでは、パトロン的な買い物に、買う人の意思だけでなく作り手の意志が介在する。
買い手が一人で応援のために購入するならば何の見返りがなくとも構わないだろうが、
買い手に「お願いして」パトロンになってもらうならば、
そこには互いに貸し借りの概念、
そうだろうか。
しかし、現代で消費者にパトロンをお願いするとき、作りてはパトロンを選べない。
また、彼らがどんな人間か、作りては知らない。
あなたの無数のパトロンたちのそれぞれの期待に、あなたは答えきることができるのか。
または無視することができるのか?
個人的には、それができなくて、がんじがらめになっているのが
相手の男は就活等で散々お世話になった40代の会社員。過去に彼女に対して好意を持ってアプローチしており、ブランドもの等も買ってもらうパトロンのような存在だった事もあるらしい。
俺と同棲し始めてからは、俺の存在を相手の男にも伝え、好意を持たれても恋愛関係にはなれない事は伝えているらしい。彼女は、相手の男には友人として感情しかなく恋愛感情は一切ないと言っている。今はプレゼント等ももらっておらず、数ヶ月に1度食事に行っているだけとの事。
これが本当かどうか、確認するといい。たぶん、本当だろう。
だとしたら、「別れない方がいい」と忠告しておく。
過去がどうだったかじゃない。これからの自分たち二人がどうかが問題だ。
ここで別れたら、のちのち、ずっと後悔するだろう。彼女に匹敵する女性は、たぶん現れないだろう。
相手の男と彼女との関係みたいなことは、長い人生ではしばしばあるんだ。
増田はそれが理解できないのだとしたら、たぶん非モテ人生だったのだろう。
長い人生で、最初に出会った一人だけを生涯愛し続ける、なんてことは、あまりない。
増田の彼女はたぶんその男性を(少し)愛したことがあるのだろうが、
その愛情を増田が捨ててしまうのだとしたら、あとできっと後悔するだろう。
増田は彼女が嘘をついているのではないかと疑う。今後も寝るのではないかと疑う。
それはある意味、仕方ないかもしれない。また、その可能性は皆無ではない。
彼女が増田を裏切っていないのに、増田が彼女を捨てたとしたら、
それはたぶん取り返しの付かない人生の大失敗となるだろう。
「たとえあとで裏切られてもいい。自分はこの女を愛する。だから信じる」
と思ったのなら、その言葉を彼女にはっきり告げるがいい。真っ正面で。
オマケで一つ言っておく。
「自分は愛されていないのかも」という疑心暗鬼が、真の愛情をぶちこわす。
どれほど愛しあっていても、疑心暗鬼があると、愛情はあっけなく壊れる。
トラバに答えておく。
彼女がその男性をいくらか思いつづけるということは今後もあるだろう。というか、きっと思いつづけるだろう。
だけど、それは、「寝る」というのとは違うよ。
相手の男もそれはわかっているはずだ。
まあ、恋愛経験の少ない男には、違いはわからないだろうけどね。
※ 特に、知性的な男女の場合には。(知性の低い男女を除く。)
パパ活というのはいわゆるパトロンを見つける活動のこと。「パパ」なので肉体関係は持たない。食事やデートをして、お小遣いをもらう。それがパパ活だ。
8月、私は度重なる出費でどうにもならなくなっていた。そのとき、なんとなく知っていたパパ活をすることに決めた。正直、おじさんと食事するだけでお小遣いが貰えるなんてそんな楽なことでお金を稼ぐなんて最高だと思う。かくして私は出会い系サイトでパパを募集しはじめた。
これを読んでる多くの方々は「食事するだけでお金がもらえる甘い話があるのか?」と思うだろう。
あるのだ、これが。出会い系サイトでパパを募集し始めて半日で食事1時間に付き合ってくれたら5千円くれるという人が現れる。結論から言うと1時間どころか喫茶店で20分いっしょに過ごしただけで5千円もらえた。これを機に私はパパ活を本格的にはじめることになる。
しかし始めて約2ヶ月、今日新たなパパ候補であった高齢の方と食事をして、やめる決心がついた。
以前「大学時代バイトしまくってたけど、それって親が高い金出して買ってくれた膨大な時間をバイト先に安く売ってるだけだと気付いた」という内容のツイートを見たことがある。
たしかにそうだなと、そのツイートを思い出して思った。まだバイトの方が有意義だと思う。友達や先輩に囲まれて働く方が価値のある時間の使い方をしている。私は好きでもない、サイトで出会ったおじさん…いや、もはやおじいちゃんと呼べるほど高齢の男性と食事をしてお金をもらって、こんなの無価値で有意義でもなんでもないと気づいてしまった。
実は今日会った方に「食事1時間2万とは別に渡すから、ホテルでイチャイチャしよう。付き合ってくれたら4万先払いで渡すよ」と言われていた。正直すごく迷っていた。話によると、セックスやフェラはしなくていい、ただイチャイチャしてほしいとのことだったので、全然ないとは言えないけれど抵抗も少ない条件だったし誘いを受けるつもりで今日その人と会ったのだが、食事している間に自分のやってることとこれからやろうとしていることに冷めた。食事後、「やっぱりこの後やめておきます。」と断ると、「今日何のために来たんだよ」と怒鳴られた。「いつもこんなことしてるのか?」と聞かれ黙っていると、「こんな女に金払う意味がわからないわ」と言われ、立ち去られた。
帰り道、定期的に会っていたが、「あなたのことが好きになりそうです」と言ってきた40歳上の方のメアドを受信拒否した。出会い系サイトも勢いで退会した。
http://anond.hatelabo.jp/20161017134547
もうサイゼリアで例えることはできないんだけれど。
WEB小説(発の商業小説)って、人によっては微課金なんだと思う。無課金でも楽しめるけど、5~600円くらいならって敷居が低い。
昔は、全米が泣いた!! みたいな、ネットで2000万PV!! みたいな売りで普通の人に売ってたんだろうけれど、
今は、特典付けたり、作者がツイッターや作品の前書きやら活動報告(ブログみたいなもん)でそもそも無料で読んでた読者に働きかけてる。
一部は、アニメ化の影響とか口コミで売り上げ伸ばしているなろう発ラノベもあるだろうけれど、ほとんどは元々の読者が、
無料で楽しませて貰ったお礼に、とか、付いてくる書き下ろし短編のために(書店毎に内容が違ったりもする、CDの形態違いの商法)、
折角再読するんだから、編集の手が入ってクオリティの高いものを
みたいな意味合いで買ってるんじゃないのではなかろうか。宣伝だってするし。
パトロン的な考え方もできるし。小銭で好きな作家がプロになって更新速度やら質やら上がったらウィンウィン。
ハンバーガー屋とかは元々有料だから例えに無理は生じるんだけれど、期間限定メニューとか出たらついつい食っちゃうみたいな。
そもそもにして、購入者確保の点からいえば、新人賞の大賞作品なんてなんの売りにもならない時代。
それよか、ネットで一定数以上の評価を既に得ているWEB小説読まない層も安心して買って読めるのかも。
何となしに選んだ、『郷愁』という1988年の映画。とんでもない神映画だった。
父親は働かない画家だが、女のパトロンおばさんがついたために楽な生活をする。家にはお金を入れない。
母親が父親の職として学校の先生を言い出すも、「画家が他人に雇われるなんてできるかよ!」と突っぱねる。
一家の収入は長女の稼ぎしだいである。長女は大学を中退しているが、賢く美しい。最初は電話交換手として働いているが、全然お金は稼げない。エリートなのに田舎に来ている理解者の英語教師の男と付き合いだすも、金がないため嫁には行かせられないと断る。
さらに、その理解者のエリート教師も教え子を不注意から殺してしまい、罪の意識からダメ人間となり地元の人たちと同じ知的レベルまで落ちてしまう。
夜の仕事場に父が来る。パトロンも順調についていて楽しく過ごしているらしい、そんな父が見とがめて「こんな仕事やめろ!」
しかし、長女は、どこまでも落ちてやるんだと、水商売先の客と寝て借金を肩代わりさせたり、どうしようもないバスの運転手と付き合ったり。
で、主人公は、こんな家の次男坊。口下手で、地元の人たちに流されるまま過ごしている。
どうしようもなく崩れていく家族。地元の土着的な性に対する汚い行い。
どうしようもなさに流されて、自分の意志でやることと言えば、金を得たら売春なり。誰もいない滝で叫んだり。
まあだいたいそんな感じのストーリーをものすごくいい映像でやる映画なんだけど。
もう本当に、こうやって人間ってどうしようもなく落ちていくんだなあってのがわかる。
いや、作曲家すごーくたくさんいて、宗教曲も世俗曲もどんどん新曲作られてたよ。
1人で何百曲も書く作曲家だっていたし、有名無名合わせて一時代に何百人と作曲家はいたから、新しい音楽はいくらでも溢れていた。
昔から伝わる民謡だとか、伝統的なグレゴリオ聖歌ばかりを延々歌ってたわけじゃなくて、その時代の作曲家がその時代に作った音楽が普通に歌われていたんだよ。
当時の音楽はパトロンが大枚はたいて作曲家に書かせるものだったから、そりゃあ確かに"ヒット曲"なんて概念は存在しなかったね。
でもそれはお金持ちだから仕方ないよね。みたいにみんなが羨んでた。
一方で、すごく可愛いんだけど、片親で学費もギリギリみたいな女の子がいた。
そのおじさんのカードで服やアクセを同じようにおじさんのカードで買いあさっていた。
それに対してはみんなは、ヤリマン、ビッチ、異常者、男好きだと中傷して遠ざけた。
それが本当かどうかはわからないが、仮に本当に体の関係がなかった場合、
彼女を責めることは正当なのかと今になって思う。
当時は、なんとなく悪いことで、悪いことをしているから悪い!って自分では思ってたけど、
お金持ちの女の子と、お金持ちを見つけた女の子の違いってほとんど無いように思える。
お金持ちが若かったら、お金持ちと交際していたら、、条件を変えても、
大体わかった。
パパ側はパパ活している女性が金銭感覚崩壊させて人生壊れるところを観察したいのであって、
自尊心を満たしたいだとか愛が欲しいとかそんな理由からパパをやっているのではない。
金で人の人生を壊してそれを観察するという物凄いコストパフォーマンスのいい娯楽をしている。
可愛い子であればあるほどその子の人生そのものをレイプするのを楽しんでいる。
性的な要求もなく単にお金をあげているだけなので違法性も全くない。
パパ活してる女はこのどこまでも暗い欲求に気付かない、金の方が眩しいから。
パパ活は金をそういう使い方をするしかコミュニケーションを取れなくなった男の最後の希望であり娯楽。