つくしあきひと氏の絵を初めて見たのは15、6年前のことである。
当時から彼は特異な才能を持ったイラストレーターの一人として知られていた。当時は彼を含む様々なイラストレーター達が、個性的なイラストをホームページ上にアップロードしており、言わばその時期というのはネット上で活躍するイラストレーターの方々にとっての『黎明期』であったのではないかと今にして思われる。
つまりは僕自身もそんな黎明期――『夜明け』の目撃者の一人であったということだ、何てことが言えるのかも知れない。
まあ、『ワシが育てた』とかそういうことを言いたいわけじゃないけれど。
とにかく当時は、センスに溢れるイラストレーターさん達が、その実力をアンダーグラウンドな世界において遺憾なく発揮していたということである。あるいは彼らは一種の探窟者であったと言うことができるかもしれない。今となっては(つくしあきひと氏を含む)その一部だけしか生き残っていないという辺りも、あるいは彼らと強靭な探窟者達との共通点と言えるのかも知れない。
さて。
というわけで第四巻を先程読み終わった。素晴らしい巻であった。
深淵を辿って降りていく人の中の、もっとも先を行くもの、白笛の『黎明郷』のエピソードが続いている。
度し難い、とは正にこのことだろう。黎明郷の生命力の秘密というのが何なのかについては敢えて口にしないが、その身体に相当な業(ごう)やらメカニズムやらが秘められているという事だけは間違いあるまい。
彼らのような人間は現実にはそう存在しない。まあ一部の創作家とか、何らかの事柄に関する探求者といった人々は、ひょっとしたら白笛達のような度し難い探求者としての一面を持っているのかもしれないが、幸いながら僕はそういう人物との関わりを現実世界で持ったことが無い。大抵そういう人々というのは生活をする中で周囲の人間の尊厳を食い潰していってしまうものらしく、彼らの英雄譚を他人事として安全距離で聞いている内はむしろ幸せであるものの、まあ隣り合わせで生活していくとなってはこれは到底耐え難い事柄と言えるのだろう。パトロンや近親者を精神の淵にまで追いやった何人かの著作家のことを、僕としては数人思い出してみる次第である。
ところで、彼ら『降りる者』の対比として容易に思いつく存在としては、『昇る者』――つまりは登山家の存在があると思う。作中において『黎明郷』の功績の一つに「新たなルート開拓」などが挙げられていたが、これは恐らく現実に存在する登山家の家業を匂わせるような表現だったのではないだろうか。
思うに、『探窟家』の存在が度し難いとするならば、『登山家』の存在もまた相当程度には度し難いと言えるのかも知れない。
例えば、世界中の八千メートル峰の全てを無酸素で登頂した伝説的な登山家「ラインホルト・メスナー」は、登山中に弟を亡くし、自分自身も数本の指を喪った。挙句、そんな地獄の登山行から帰還した後で、実弟の死を巡ってメディアパッシングを受けている。
付け加えて言えば、登山家という職業は命を喪うに易い職業でもある。
エベレスト登頂ルートの途上には、幾つもの凍死体が未だ腐ることも許されず凍じ籠められている。
先日、伝説的な登山家の一人である、スイス出身のウーリー・シュテックが文字通り伝説となってしまった。伝説。登山もまた、探窟と同じくして度し難い……まっこと度し難いスポーツの内の一つなのだ、実際のところ。
さて、この作品はたくさんのインスピレーションを読者に与えてくれる。
何らかの深淵を追い求める中で、人は人間としての尊厳をいかに保っていられるのか、あるいは、いかに失ってしまうのか。
そして、各々の探窟行の果てには何が待つのか。
『成れの果て』となってしまったたくさんの人々は、一体何を語るのか――
そういう意味でもこの作品は優れている。まるで膨大な歴史を辿り、旅をしているような感覚を味あわせてくれる――。弐瓶勉氏の『BLAME』を読んだ時の感覚と似たものがあるかもしれないが、あの作品とこの作品はまた別物である。こちらにはこちらのユニークさがあって、それが読者の好奇心を掴んで離さないのだ。