はてなキーワード: 成就とは
民俗学の先輩が言うには魔術や呪術の類いは人の願望の産物なのだという。どうしても欲しいけど手に入れられないものがある時、
人は魔法でも使えたらと独り言ちる。中には本当に禁断の書物を繙いて(ひもといて)しまう人もいるのだから驚きである。
日本では言霊という概念があるね。これは西洋には全く見られない独自の思想というふうに言われるけど、根っこは一緒なの。
どうしても呪いたい人がいる時オンソワカ~フンヌラバ~と呪いの言葉を繰り返していると相手にダメージが与えられないかなと願うわけ。
そういう血なまぐさい思想や技法体系は何も陰陽師さんに限ったことではなくどこの国にもある。シャーマンだってそうだ。
ただまあ現代ではそういうのは流行らない。原初的な人間文化の形態ではあるが、成熟した文化は魔術性を封印していく傾向にある。
いわゆる土俗的な文化であれその例外ではないのだよ。原住民というといつまでも魔術とかまじないとか信じてると思ったら大間違い。
なぜ流行らなくなるかという時に科学が進歩するから胡散臭い文化は排除されるというふうに説明する人がいるね。これも矛盾した説明なんですわ。
最初に言ったでしょう。人の願望の産物だと。願望がある限り魔術は生き続ける余地がある。けれどもその願望というもの自体が流行らなくなったら?
そういうことを考えてみたことはあるかね?文化が成熟して利便性が向上することで泥臭い願望というもの自体が流行らなくなる。そういう話なんですわ。
魔術と混同されがちなのがスピリチュアリズムである。これは似て非なる代物と言って良い。魔術は欲望モロ出しのおっぴろげなのに対して
スピリチュアリズムは着衣エロティシズム略して着エロでね。着メロじゃないぞ。表向きは隠すの。つまり魔術が人の願望が生み出したモンスターだとすれば、
スピリチュアリズムというのは願望をうまく手なずけ善い生き方をしようという思想(これもまた願望ともいえるのだが)が生み出したモンスターといえる。
しばしば現代スピリチュアリズムの元ネタとして言及されるのが19C前後の西洋神秘思想(occultism)であるが、なるほどそこまで遡ると
確かに多分に中世からの魔術思想に源流が認められるところはある。まあ似てるんだけど、そもそもの発想が違う。
魔術は願望の成就を目指すのに対してスピリチュアリズムと来たらどうだ、願望のコントロールを目指すのだ。スピリチュアルやね。
で、権威的な話をすると魔術とスピリチュアリズムの関係は、支配者と奴隷の関係に似ている。魔術のほうが支配者ね。魔術を使って支配するのではない。
魔術っぽさがここでは肝心なのね。何も魔術なんか実在しなくたっていい。それっぽさに一部の人々はカリスマ性を感じるわけ。ここに芸術の魔術性がある。
一時代の音楽家たちに影響を与えた書物、ピーター・バスティアンの『音楽の霊性』に書かれていたことも結局はそういうことだった。
支配と芸術の関係性を理解しているかどうかは重要よ。支配者は魔術師でありながら奴隷たちには魔術ではなくスピリチュアリズムを勧めるの。
結局これって権力というものを普遍的に語る1つのフレームワークだと思うんだけど。プロレタリアートとブルジョワジーの関係だってそう。
あまりにシンプルな内容だけに他のラブストーリーとの比較をしたくなった。
ラブストーリーで耳をすませばは外せないけれど、たぶんこのタイプ。
テレビシリーズや長期連載だと成就させるまでダラダラ見させられるのは辛いので、映画のようにある程度の尺が適しているのかもしれない。
そして結末がハッキリして後腐れないのがこのタイプの素晴らしい所だ。
このタイプには当てはまらないかもしれないが恋について名台詞が連発するQ10を挙げてみた。
高校生の主人公(佐藤健)が合コン帰りの女性(薬師丸ひろ子)に「良さそうな人いました?」と質問し女性は以下のように返している。
あのね、恋は革命ですよ。自分の中の常識が全部ひっくり返っちゃうようなものなの。
「お似合いの人」とか、「良さそうな人」とかじゃ永遠にひっくり返らないでしょ。
このセリフはとても良くたまこラブストーリーを説明できている。
たまこにとってもち蔵が特別な存在に変わり常識がひっくり返り、そこからまさにたまこラブストーリーが始まるわけである。
個別に作品は挙げていないけれど、ほとんどのラブストーリーはこのタイプに含まれると思う。
主観的にやや乱暴に2つにまとめさせてもらうが、要は恋が成就した後の話、もしくはいつでも成就できるにも関わらず微妙な関係性が続いていく話。
前者は彼氏彼女になれたはいいけれどストーリー延命の為にあれこれ試練が起きる、主に女性向けが多いラブストーリー。
後者はゴールはほぼ見えているのにストーリー延命の為にあれこれ恋敵が出てくる、主に男性向けに多いラブストーリー。
世界の中心で、愛をさけぶ、千年女優、秒速5センチメートル、百瀬、こっちを向いて。
男が過去を振り返ると女々しく見えるが、女だと颯爽として見える。
あえて国内作品限定にしていたけれど、海外ドラマは日本の恋愛事情と違うせいか生々しいのが多い。
洋画の大ヒット作はロミオとジュリエットが偉大すぎるのか社会的地位に格差がある者同士が結ばれるのばかり。
こうして分類はしてみたけれど、登場人物の年代や恋愛の重点が男女どちらにあるかによって捉え方が変わってきて、さらに高校生だったりすると青春度のさじ加減で大きく変わってしまう。
たまこラブストーリーは、男視点と女視点が3:7ぐらいで恋愛と青春要素が8:2ぐらいだと思う。
この比率が自分にあっただけかもしれないし、さらにこれをストーリー内にどう配分するかにもよって面白さは違ってくるので結局全てが良かったとしか言いようがない。
夫とはすごい仲良いし、ハグとかキスとかあるけど、とにかくセックスレス。結婚前からだからもう普通に5年くらいかなり低い頻度でしかしてない。最近更に酷い。
何回も話し合ってるけど、「今度から頑張る」みたいな話で終わり、結局何も変わらず。(というか、セックスレスに関する話し合いって、大体逆効果だよね!)
夫はモテるタイプでも全然無く、潔癖症気味なのもあり外でしてるとかでも無さそう。EDでもない。
いや、もうね、わかるんですよ。
単に、もう私はそういう対象に見えないんですよね。だから色々言われても困るんだろうね。わかるわかる。頭では。
私も、別に、性欲的な意味でセックスがしたいのかは自分でもわからん。
ただ、女としてみて貰えないと、自己否定感が強くなりすぎて本当に辛い。
セックスはたかがセックスだし、こんなことで承認欲求を満たそうとすること自体が間違っているのは解っている。
でも、もう断られ疲れたよ、私は。もー辛い。ホント辛い。断られるのマジ辛い。
誘って断られ、話し合って断られ、もう私のライフはゼロよ。
そして困ったことに、私は今も昔もそこそこモテる。
結局私の求めていることは、セックスそのものと言うより、承認的な部分が大きいので、男の子とたまに飲みに行ったり映画に行ったりしてお茶を濁している。
別に、性的なことが実際になくても、女性として扱われるだけで不安感が減る。
昨日、これ( http://s.webry.info/sp/corokkecorokke.at.webry.info/200909/article_6.html )読んで、超納得した。
まさにこれ。
私は、ここまで、性的な方向でこういう状態な訳じゃないしセフレがいたりもしないけど、恋愛対象に見られたいのにそれが成就しなくて迷走してる感じがすごい解る。
私、別にモテてようが可愛いって言われようが、「別にそんなの本質的な価値としてはどうでも良いことだし」と思ってるつもりだったけど、結局自分は男に恋愛対象に思われてないと生きるのが辛いショボイ女なのだ。死にたい。そんな事実気付きたくなかった。
そんなこんなですが、先週、会社の先輩(既婚者)からアプローチを受け、キスされた。おおっと。
いや、私も悪いんですけどね。明らかな口説きメールに対し、気のあるような無いような微妙な感じで返してたしね。飲みにも行ったしね。好意を向けられるのが好きでそれを仕向けちゃう自分が悪い。
それで誘いが「どっか泊まりに行こう」みたいな話になり始める。
断りました。
でも、断りながら苦笑だよね。なんで、私、こんなにセックスに困ってるのに、今セックスを断っているんだ!?って思ったよ。
相手が碌な男じゃないのは100も承知だけど、別に私も好きなのは夫だし、ぶっちゃけ相手からガチで惚れられても面倒だからドライな方が良いくらいなんだよ。
相手が、めちゃくちゃ私とセックスしたがっているって言うの、超痺れる。セックスしたいだけでも全然いい。
それにしたって、もうこんなクソみたいな悩みに振り回されるのは、嫌だよー。
夫が好きで、夫から可愛いって言われたり欲情されたりしたいだけなんだよー。なんでうまくいかないんだ!
これで、誰からも相手にされないおばさんになれてたらまだ楽なのに、夫以外からは今のところなんとか昔とそう変わらず可愛い女の子として扱われ続けてる。
子供でも作っちゃえばこの状況から降りれるのかなぁって漠然と思うけど、仕事的にもまだタイミングじゃないし、なによりもしそれでも降りれなかったらと思うと戦慄する。
性格も状況も変わるとも思えないから、このままの状態が続くといつか流されて浮気してしまうのではないかと恐ろしい。(むしろ、今までよくしてないよ!)
そんな私の早く死にたい気分はよそに、夫は隣の部屋で楽しそうにテレビ見てる。
でも、違うんだ。性欲でも無いんだけど、一緒に手を繋いで映画を見るんじゃ、足りないんだよ。
でも、夫は今の生活幸せすぎて、たぶん私が誰か他の男とやったりしたりしたら自殺しちゃうよ。
どうすればいいんだろーなぁ。浮気とかしたくないけど最近全然自信が無い。
◼︎追記
自分から迫れとか話し合えとか距離を置くとか、そこら辺はもう全部やったのよ。
迫ったら迷惑そうに断られ、
冷静にも話し合うと「なんでそんなこだわるの」と言われ、
感情的に泣きながら「どうして抱いてくれないの」というのもやっても、申し訳なさそうに「今度からちゃんとする」以上では無く(逆効果)、
冷たくしたらしょげるだけ…。
仕事が忙しいのもあるけど、ゲームしたりテレビみたりはしてるし、これだけ切実な問題としてうったえてるのに駄目なのは、疲れてるとか色々言っても、結局単に「今更お前じゃ無理」以上ではないとしか受け取れない。
この打ちのめされ感は、かなり大きくて辛いです。。
例外として世間一般的にはそこまでかわいくないかもだけど笑顔がかわいいってのも個人的にはあり。
その例外が自分にあるのだと思い知らされた子で、世間一般的には「よくいえば愛嬌はあるかもしれないけど、一般的にかわいいとは言えない・美人ではない」という評価をされるような子の笑顔に一目惚れした。
2年半くらいずっと片思いして最後同じクラスになったときにがんばってそこそこ話す仲になったけど、振られることが怖かったから、これは相手も俺を憎からず思っていると確信するに至るまで時間をかけた上でそれとなく告白して成就。おっぱい大きかったってのはオマケ。
でもいざ付き合えたら何をどうしたらいいかわからなくて空回りばかりして挙句の果てにちんけなプライドを守ってカッコつけて最後には当てこすりすら言ってしまって3ヶ月くらいで振られてしまった。
人生において自分が好きな相手と少しの間だけでも付き合えたっていうのはこれ以上なく贅沢なんだろう。
でもセックスどころかキスさえも、それどころか手をつなぐことすらできなかったとしても幸せだったか?
結局おまけについてきた大きなおっぱいも触れずに終わったのに?
…確かに幸せだったと思う。付き合えることが確定した瞬間は。
つきあってめでたしめでたしじゃなくて、その後に続く物語こそが本番だという意識がなさすぎた。
大学受験で燃え尽きてそれ以降落ちぶれてしまったときと同じだ。
ゴールを見誤ってしまって何がゴールかすらわからなくなってしまった。
何をしたらいいか、していいかわからないまま、付き合っているという事実だけが空回りしてしまった。
それで自信をなくしてもうひとりでいいやってなってしまった。
付き合う前は、好きだな、付き合いたいな、あわよくばセックスしたいなって思ってたけど、実際具体性をもった付き合ってからやりたいことがセックスくらいしかなかったんだよな。
いや違うや。チャリに2ケツして川沿いの土手走りたいって夢もあったけど、これは半分叶った。川沿いの土手なんかなかったけど、普通に2ケツできたことが唯一の思い出だ。
とにかく付き合いたいと思って告白するに至ってまで、付き合ってからのビジョンがなさすぎたのが敗因だった。
もはや登校途中に曲がり角で転校生とぶつかって恋が芽生えるくらいの偶然でも無い限り、自分から動こうとは思わないし、どうでもいい。
世間体が悪いのと親に対して後ろめたいのがめんどくさいだけ。
あああと小学生のときにかわいいのにこんな俺に猛アタックしてきてくれた子もいたな。
結局照れ隠しでごまかしてあいまいな関係のまま相手は引っ越してしまってそれっきりだった。
一つは、彼女は8人兄弟の長女でありながら、他の兄弟妹たちは皆身売りや奉公に出て彼女だけがキリスト教系の学校に進むようになりましたが、
その恩に報いたのかどうかです。キリスト教は「仁」や「義」、「愛」には強いと言われますが、「孝」に関してあまり聞いたことがなく余計考えてしまいます。
残念ながらWikipediaを含む百科事典系サイトには記載がなく、その後どのような生涯を送ったかは存じ上げません。
そのため、彼女を主役にするのだから当然脚色が大いになされ、その半生は偉人伝よろしく美化され過ぎるのではないかと危惧しています。
出来ればありのままの彼女を見たいのですが、どうも今度は東京スタジオさんだそうで、リアリティーよりも夢を追究してきたような性質があり、
もう一つは、太平洋戦争が始まると彼女は戦争支援を積極的に行っていました。
確かに生きづらい世の中だと思いますが、そのような女性をNHKが取り上げるとは思ってもみませんでした。
どちらかといえば反戦ドラマが多く、戦後焼野原になったわが国をどうやって立て直していくか。
苦境の中に立たされた状況をどうイキイキとまざまざと人間の生き様を描いていくか、とりわけ得意としてきたNHKにしては、大胆過ぎる試みであるのは確かです。
次回の朝ドラ「マッサン」では外国人女性が主役との事で時代背景を考えての事だと好意的に受け止める事に致します。
昨今の朝ドラは戦前と戦後を描きすぎているきらいがあり、そのため今度は戦争を支援していた側の人間像を描きたくなるのは分からなくもありません。
だからといって、彼女は戦争を生き抜いた女性翻訳家として描かれるべきでしょうから、この戦争賛美とも取れる記述(Wikipediaより)はカットした方が良いのかもしれません。
少なくともその後に不戦運動も同時に行っていたとありますので、戦争反対派として描かれた方が実像に近付くのではないかと思います。
兎角女性の権利のために戦争を支援し、その実反戦家でもあった彼女の生涯は今後とも見応えある作品に成ろうと思います。
その意味で、戦前戦後の時代を生き抜き、女性主義を貫きつつも夢を成就させていく村岡花子という赤毛のアン翻訳者の生涯をどう描くか楽しみでなりません。
こんな夢を見た。
二人はまだコトを致していないが、互いにそろそろ時期だと考えており、ラブホに入りたいと思っている。
二人は互いが制服姿であることに気がつき、繁華街の安い洋服店で買った私服に着替える。
準備は整ったが、最後の一歩を踏み出せず、二人は繁華街を行ったり来たりする。
私はそんな二人が、生徒指導の教師に見つかりはしないかとひやひやしている。
と、その時、なぜかそれとわかる、教師の携帯電話の着信音が道に響き、やがて私に朝を告げるアラーム音に変わっていった。
私はモテぬ。路端の自販機よりモテぬ。清い清い高校生時分には、夢に見た体験など起こりようも無かった。
ずっと好きだった人がいた。
青春の、一番甘酸っぱい頃の話。もう十年以上も昔のことだ。
私の好きな人は「せんせい」だった。それも若くもなければ渋くもない、どこにでもいそうなオジサンだった。それでもあの頃は好きで好きで仕方がなかった。別に同級生の多くと同じように「お付き合い」をしてそういう仲になりたい訳じゃなかった。そもそも「そういう仲」という考え自体があの頃の私にはなかった。毎日のように「せんせい」の授業を受けて、廊下で少し姿を見られたらそれでよかったのだ。一言でも話せた日は嬉しくて仕方がなかったし、これらのことを何となく目標にして毎日を過ごしていた。「せんせい」を見つめながら過ごす毎日は、とてもきらきらしていた。
このように書くと、年頃の女の子の年上男性への淡い片思いあるいは憧れとして、すてきな思い出にでもなりそうなものである。
ところで、その頃の私は家庭がやや複雑な状況になっていたために学校にいる方が好きで、学校で13時間近くを過ごすこともあるような生徒だった。当時は「それくらい学校が大好き」と思い込んでいたが、卒業して数年してから、あれは一種の逃避だったのだと気づいた。「せんせい」への恋もその一つだったのだろう、と。当時から自分の好意が「せんせい」の迷惑にしかならないことは自覚していたし、告白はおろか好意が伝わるような行動は何もしなかったから、全て私の心の内の問題でしかないのだけれど、そう気づいてからは「せんせい」のことを一方的にすてきな思い出として処理することができなくなった。「せんせい」のことを利用していただけだったのだと思うと、とてもじゃないけれどきれいな思い出になんて分類できなかった。私の恋は恋でもなんでもなかったのだ。別にそこから「私は恋愛できない人間なんです」だとかいった発想には至らないが、それでも恋にも満たなかったあの恋を思い出すと、成就しなかった恋愛のもつ痛みとはまた違う、ごちゃごちゃした家庭環境から逃げ出すために自分なりに必死だったあの頃の自分の痛々しさを今更ながら感じてしまって辛いのだ。
話は変わるが、この時期になるといつも思い出すことがある。受験を間近に控えた頃、少しでも家から離れていたいからと朝の6時半という恐ろしく迷惑な時間に登校する私のために、毎朝他に誰もいない教室のストーブの火をつけてくださった「せんせい」の背中である。私と「せんせい」しかいない教室で、いろんな話をした気がする。どれも他愛もない話だったけれど、家族以外の大人とする他愛のない話はどれも楽しくて、幸福な時間だった。何も話をしない日もあったけれど、当時少しでも親に負担をかけないようにといっぱいいっぱいだった私は「せんせい」の背中を見るだけで何だか安心できたものだった。思えばあの冬、あのストーブの火に私の体と心はどれほどあたためてもらっていたのだろう。私は無事に第一志望の大学に合格して、新しい生活を送りはじめ、私のことを好きだと言ってくれる人が現れた。あんなに私の全てだった「せんせい」は、あっという間に私の中からいなくなった。ちょうど同じ頃に、私は自分の気持ちを利用していたことに気がついたのである。
今回はてな匿名ダイアリーに投稿したのは、「せんせい」への思いと感謝をまとめたかったからである。今まで「せんせい」の思い出を誰かに聞いてもらったことはない。考えてみれば、そもそも当時から十年以上も「せんせい」への思いも誰かに話したことはなかったのだ。誰にも聞いてもらえなくていいからどこかに吐き出してしまいたくて、ここを選んだのである。
甘酸っぱい私の青春は恋とは呼べない痛々しい思い出で埋められてしまったけれど、それでも当時の私を支えてくれたあのストーブのあたたかさだけは本物で、いつまでもそっと胸にしまっておきたい思い出である。
障害者を論ずることへの根強いタブー感を身を挺して払拭してくれた彼の業績はたいしたもので、それは本当に讃えられるべき。彼の家族をはじめとする周囲のアシストごとまるまる褒め称えるべきですよね。
しかしながら『障害者の地位向上』とは、健常者比0.5とか0.6くらいだった障害者の扱いを健常者のそれとおなじ1.0にする運動です。けして、健常者比1.5とか2.0まで過剰に持ち上げるものではない。それはもう逆差別ですやんね。
で、いまさら言うのもなんだが先日の乙武炎上で真に問われるべきは、『障害者』の御紋をかかげてクソ狭い店内に強引に押し入ろうとした乙武サイドが健常者以上の待遇を店に求めた傲慢さだろう。彼らの言い分は「健常者とおなじようにお店で飲み食いする権利がある」といったところだろうが、その権利を成就するために他の健常者もおなじく持っている権利が犠牲になりますよね。営業する権利がある。落ち着いて飯を食う権利がある。そういうの。それらを一部奪わないと乙武くんはあの店で飲み食いできんわけですが、この状況でまずするべきは打ち合わせ、というか摺り合わせですよね。できれば事前に。――ちょっとカサ張るのがお邪魔するんですけど大丈夫ですか? という具合に、乙武サイドが電話一本投げときゃ済んだ話だ。そりゃいきなり凸って対応を迫ったり門前でピーピー泣きわめいたら障害者によるパワハラだと見做されても文句いえねえよ。他でもない乙武君自身の功績によって障害者にやさしくせよという世相です。それを強引に求めるのはハラスメントですやんね。
べつに障害者だから世間様にゴメンナサイして生きろ、というのではない。誰もが大なり小なり周囲に面倒をかけて生きている、そのことにもっと気を使いなさいという話です。障害者ヅラして必要以上のよぶんな便宜を図ろうとするなってことです。健常者は道をゆずって当たり前、自分らのために席は確保されていて当たり前、とでもいいたげな車いすユーザーは車いすごと蹴飛ばしたくなるわ。勘違いすんなボケー! お前らの車いすは健常者とおなじ生活をするためのただの道具であって、健常者を跪かせる王座じゃねえんだよ。調子のんな。
俺はおおむね健常者だが、障害者だろうがなんだろうが移動の自由は保障されるべきだと考える。エレベータもエスカレータも補助金出してガンガン設置していけばいい。それを皆ガンガン利用してけばいい。でもその他大勢の移動を阻害しても移動の自由が保障されるべきとは思わない。たとえば電車の乗り降りに駅員アシストがつくのは超OKだが、朝ラッシュ時はその限りではない。という具合。すべては折り合いです。みんな憲法で保障された権利を持ってるけれど、明らかな無茶を要求するなと。最大公約数を見つける作業ですね。交渉事ですね、日本人があまり上手ではない。
やっぱり結論は「お互いのことをよく知ろう」という当たり障りのないものになってしまうのですが。
車いすを実体験するのはさすがに手間ですから、キャリーカートに20kgくらい積載して持ち歩いてみると良い。だいたい車いすと同じ動線で移動することになるので、町中のどの部分で負担が生じるのか身を持って体験できます。体力もおそらく同程度消耗するはずですし。車いすと人間ってクソ重たいんですよね……車いすユーザーはだいたい肩ムッキムキになりますもん。
きっかけはWHITE ALBUM2のアニメ版のテレビ放送だった。
悪いのは、WHITE ALBUM2のアニメがあまりにグレートだったからなのだ。
起こったのはごく単純なことで、僕はネットでたまたまWHITE ALBUM2 の第1話を見て、久方ぶりにアニメの視聴を開始し、第9話をみて、PS Vita本体と、WHITE ALBUM2のダウンロード版を購入した。それだけのことだ。
そして、アニメ最終話までゲームを開始するのを我慢して、いまこうして正月休みにゲームをクリアしたというだけだ。遣る瀬ない気持ちでキモいサイトを久しぶりに巡って、こうしてどうしようもなく、テキストエディタを立ち上げて、今これを書いている。
冬馬を愛しすぎていたために、"浮気end"(冬馬ノーマルend)の近くまで全く気がつかなかったが、WHITE ALBUM2の物語構造は、裏返しの聖杯探求譚としての"指輪物語"と同じである。それは、冬馬=トラウマを捨て去る地獄巡りの物語なのだ。また、ここから、WHITE ALBUM2の本筋は"浮気end"(冬馬normal end)にあることがわかる。"冬馬end"の"雪菜end"の両者とも、トラウマを想像的に解決するに留まっている。例えば、何でもいい、エヴァでもまどまぎでも、ハッピーエンドの二次創作が描かれるのも、それは原作のバッドエンドという現実があるからこそであり、それに根ざした幻想であるのと同じことだ。
ところで、ギャルゲーにおいて、トラウマをめぐる物語はありふれている。ギャルゲーの歴史に刻まれるべき致命的な傑作である"ONE", "AIR", "Sense off"の3作品を唐突に思い返してみよう。ONEにおいては、トラウマは積極的に表象されない("みさお"という引っかかりのない固有名詞とわずかなテキスト)空虚として、"Air"においては観鈴の劇症発作の原因として釣り合うはずのないあからさまな幻想として、"Sense off"においては宇宙人や超人類といった誇大妄想として存在している。素朴な作品が、トラウマをささやかな心理学や物語に還元するのに対し、先の3作品は、トラウマを表象することの失敗を通じて異様なリアリティを放っていた。
さて、対してWHITE ALBUM2では、凡百の作品と同様に素朴に真正面からトラウマを描きだそうとするかにみえる。しかし、それはいったいなんという力技であったろう! トラウマの原テクストとしての、"opening chapter"を思い返してみよう。高校3年生の文化祭をきっかけとした主人公とヒロイン二人の三角関係の恋は、悲劇的な結末が予告されている謎めいた空間の中で進展する。自分が恋しているかも知れない女のまなざし、謎めいた行動、ほのめかし、光、音楽ー歌とピアノー、いつ痛みに転嫁してもおかしくない、危うい、享楽にも通じる喜び。無意識がすべて通じ合う、情動的な空間。そこにおいては、超絶ギターソロを一週間でマスターすることなど問題ではなく、高めの女に恋されるという奇跡がおきてもおかしくはないだろう。そして予感は、悲劇は成就する。喜びが、光が、その強度そのままにそのまま痛みに転換する。男は女を2人とも失う。女はもう1人の女と男を失う。それは、あまりにも強く3人が結ばれていたことの罪なのだろうーー。
大げさに過ぎただろうか。しかしここまででは、単に良くできたメロドラマにすぎないとも言い得る(その意味では、アニメ版の方が、ほとんどあらゆる意味で原作に勝っていると思う)。しかしほんとうに凄いのが、ここからの周到さである。"closing chapter"の入りがいい。校内ラジオからあっけらかんと流れ出す、"届かない恋"と、春希と千晶との会話のシークエンス。そう、ここでは、トラウマの種は、世界にあからさまに薄く広く偏在している。"opening chapter"では2人以外の女がほとんど存在しなかったのに対し、攻略対象の女がギャルゲーならばそれが当然とでもいう装いで追加導入され、唐突に、我々が慣れ親しんだ、おなじみのギャルゲー形式のギャルゲーが始まる。決定的なことはすべて過去に起こってしまった薄闇の世界と、主人公を慰めるための都合の良い女性キャラクターたち。ここではじめて、WHITE ALBUM2は、"ONE"や"AIR"の出発点にたどり着く。しかし、ここには冬馬が、われわれが本当に愛した女はいない。その女は選択肢に現れない。だからここで進行するのは、ひたすら耐え忍ぶ、息の長い治療の過程である。注意しなければならない。偏在するトラウマは、たえず現在の些細な出来事をきっかけに、"opening chapter"の各シーンをを縦横に引用しつつ実体化する。"opening chapter"における決定的なシーンのみならず、読んだことを忘れるようなささやかな日常シーンさえも、絶えず痛みと後悔をともなう新しい解釈が施される。"opening chapter"のあらゆるシーン、あらゆるエピソード、あらゆるささやかな喜びは、それが不在になってしまった現在に徹底的に対比され、恐るべき呪いに転換される。WHITE ALBUM2がそれを成し遂げるその執念、持続力にには驚嘆せざるを得ない。また、トラウマの作動をここまでつぶさに可視化しえた作品は他に思いつかない。つらく長い治療の過程においては、悪霊を追い払うために、3人のキャラクターが生け贄に捧げられ、物語の都合に奉仕させられ、使い捨てられる。そしてついに訪れた結末。そこでは、聖なる原典、聖なる楽曲が、新たな解釈を施され再演されるだろう。アコースティックバージョンで歌われる"届かない恋"。そこにやっとたどり着いた男と1人の女。まさに寛解という言葉がふさわしい、穏やかな時間。
冬馬かずさが回帰する。それはまさに運命的な、恐怖とも歓喜ともつなないつかない瞬間であり、われわれはただ滂沱の涙を流すほかになす術がない。これは感動などというものではない、あまりに強烈なドラッグを強制的に注入された生体の防御反応としかいいようのない、デトックスの涙である。われわれが唖然とするのは、冬馬のあまりの弱さ、あまりのいじらしさ、あまりの変わらなさである。なにしろ5年もの間ピアノを毎日10時間引き続けながら、その実、ピアノを通じて毎日はるきと会話を続けていたというのだ。なんたる痛切な、ほとんど自傷的な喜び。何も変わらない。何も終わってはいない。そして再会を果たした二人は、おたがい避け難い力でからみあいながら蟻地獄のような愛の日々に巻き込まれていく。もとより、"opening chapter"の神話的な磁場により張り巡らされたリアリティが、"closing chapter"において、はるきが冬馬曜子の雑誌記事を書くあたりでほつれてはいたものの、"coda"のマンションの隣の部屋での生活に至って、ほとんどギャルゲーのように(ギャルゲーだが、、)ほどけさってしまう。われわれは一方で熱が冷めるのを感じながら、しかし、他方では、そこで演じられる距離0の愛の関係、おたがいまるで馬鹿のように傷つけ合い、愛し合うほかはないその様子から目を離すことができない。冬馬がもともと備えていたはずの、凛とした、というキャラクター造形は、ほとんど"浮気end"の最後まで見る影もなくなっている。しかしそれは、最後の最後に鮮烈なかたちで炸裂する。ふたたび悲しみをもたらすために。ふたたび作品に残酷なリアリティをもたらすために。
"浮気end"において決定的なことが起きてしまったあと、いわば、エピローグの序曲ともなる、短い小春日和の瞬間において、ふと、この、ダンテの"神曲"のように長い螺旋を描いて進んできたこの物語の総体、ただ一人のキャラクタのためにすべての女が動員される大伽藍の起源が問われることになる。冬馬は問いかける。なぜ私のことが好きになったのかと。決定的な問いである。そして春希は惑いもせずに答えるだろう。終局において、作者に課せられたあまりの重荷、あまりの苦難のあまり、ほとんどシンジ君のように幼児退行してしまった春希が、もともと持っていた率直さ、本当に貴重な少年らしい生真面目さ、控えめな正義感、雪菜も冬馬も本当にそれが好きだったはずの少年のファルスの片鱗を、かすかに遠くこだまさせながら。
顔が好みだったからだよ!
一目惚れだよ!
これが、この巨大な地獄の起源だったのである。何とシンプルで、何と美しい言葉だろう。ふと、地獄のなかにぽっかりと真空地帯が発生し、なにごともなかったような日常の現実が発生したかのような、はっとさせる言葉だ。大団円といってもよい。我々は涙を飲み込みながら思う。これは、この巨大な物語の終局にふさわしい。しかし、何も終わらない。決して、終わることはできない。だとしても、冬馬は成仏することはない、、、
* * * * *
ギャルゲーにおいて、われわれは徹底的に受け身な、マゾヒスティックな主体たらざるを得ない。ギャルゲーにおいては、本来テキストスキップの機能など必要なく、われわれは、永遠とも思える退屈のなか、ひたすら単調にマウスのクリックを続け、何度でも、水増しされたテキストをめくり続けるだろう。なにがしかの男らしさを発揮するために、全てのヒロインを"攻略"(ギャルゲーにおいてこの言葉ほど空疎なものがあろうか)し、CGをコンプするという仮の目標を設定することはあまりにいじましい偽の能動性としかいいようがなく、雪菜を選んで胸を撫で下ろしたり、"不倶戴天の君へ"に救いを感じてしまうのはヌルオタとしかいいようがなく、よく訓練されたギャルゲーマーは、すすんで空虚のなかに留まり自らの空虚に向き合うことで快感を汲み上げ続けるだろう。そして、画面を閉じてもゲームは終わることがなく、ギャルゲーマーがとるのは、ただひたすらの"待ち"の体勢である。"coda"において、"浮気end"において物語はまた振り出しに、"closing chapter"に戻ってしまった。"opening chapter"の一撃によって生まれた世界は、"coda"によりいっそう強く永遠に閉じられてしまったのだ。われわれは、それらの各シーンをときにふれ思い出しながら、ひたすら待ち続ける。冬馬を。もう一度彼女に会いたい。いや、彼女はいる。われわれは知っている。われわれは、いや、わたしだけが、彼女が全宇宙に偏在していることを疑うことはないだろう。
ここにいたって僕に残されたささやかな唯一の希望は、アニメ版2期, 3期においてよりいっそう美しくバーョンアップした冬馬が再臨してくれることである。もう一度お別れをするために。僕は、つまりは、よく訓練されたギャルゲー的主体は、さよならをいうために、すべてが終わってしまった後の世界で、はてしなく続く終章のなか、冬馬かずさを待ち続ける、、、
学校や職場が同じ、そうじゃなくても取引先だったり趣味のサークルだったり、とにかく何らかの形で身元が保証されてないと恋愛に発展しないっていうのが、現代日本の未婚率の高さを上げてる一因じゃないかな。
学校や職場が同じじゃなくとも、片想いする事は結構あるんだよ。でもそこから恋愛成就に至らない。それどころか友人にもなれない。
例えばよく行く店の店員とか電車でよく見かける人とか、話しかけても絶対引かれると思うし。前者は上手く行ってもせいぜい常連のお客さん止まりだよなあ。後者は絶対に気持ち悪がられる。
もしまかり間違って快く受け止めてもらえたとしても結婚詐欺だとか実は既婚者で不倫になっちゃったとか、そういう可能性も高いから。そうそう自分から声をかけたりなんかは出来ない。
男は「今はすぐセクハラやストーカー扱いされるから男からアプローチ出来ない」と言っているが、かといって女の方から積極的になると引くって言うし、一体どうしろと。
そういう日常の出会いが無理だと今度は一気に婚活って形になるしかないが時間もお金もかかるしめんどくさい。
普通に生活していて、いいと思う男性は沢山いるのに、それは出会いのきっかけにもならないって現代社会は色々無駄にしている気がする。年収とか学歴とかじゃなくて、ふと見かけていいと思った直観に従った恋愛ってもっと増えてもいいと思うんだけど。今は一目惚れが結婚に結び付きにくいよね。
政府主導で恋人募集中バッジみたいなのを作って配ったらどうなんだろう。それを付けている人同士なら声をかけてOKだとか。でも既婚者による偽装も可能だから微妙か?
自分で認めちゃうけど、俺はいわゆる「モテるタイプ」の男ではない。
見た目は槇原敬之と土田晃之を足して2で割ったような感じで、よく老け顔と言われる。
中身だって、全然大したことはない。自覚している欠点を数えると片手じゃ足りないくらいだし、
それでも、だ。
そいつらが全員、彼女ができないかというともちろんそんなことはありえない。
「モテテク」とかよく聞くけど、というか実際そういう本も読んだことあるけど、
別に特別な技術を身につけなくても、清潔にしていて普通に会話が出来るのであれば、彼女くらい作れる筈なんだ。
実際、俺くらいの年になると(20代後半)、学生時代全然モテなかった奴でも普通に結婚したりする。
そして別にそのことに対する違和感はない。何であいつが??とか全然思わない。
だって女性の方だって結婚適齢期な訳だし、いつまでもイケメンイケメン言ってられないし、
というか人生経験を積んでいくに連れ、見た目とか表面的なモテテクに騙されなくなっていくだろうし。
「ただしイケメンに限る」を使うことが許されるのは、せいぜい大学生までだろう。
あえてもう一度言うけど、別に特別な人間だけが彼女を作る権利を与えられているわけじゃない。
社会生活をまともに送れているのなら、普通は彼女くらい作れる。
もちろん本当なら俺だって例外ではない。欠点が沢山あると言ったけど、どれも常識の範囲内だし、
最低限の身だしなみにも気を使っている。人付き合いは苦手だけど、談笑くらいはちゃんと出来る。
より正確に言うと、好きになった女性と付き合えたことがない。
ただし、性交をするまでの仲にはなれず、すぐに別れた。
22歳くらいまでは、いわゆる「非モテ」な仲間が何人かいたけど、
(一応言っておくけど、ここでいう「モテ」ってのは「複数人の女性に好かれること」
ではなく、「好きになった人と付き合えること」な。)
何故だろう、と思っていた。
何故俺だけが。
一応、いくつか原因を思いついたりもした。
「出会いの数が少ないから」「消極的な性格だから」「男性的魅力が乏しいから」
どれもそれらしい理由だ。これらを直そうと努力した時期もあった。
オフ会や婚活パーティーに参加したり、出会い系サイトに登録したり、
けど駄目だった。努力は全く報われなかった。
結局のところ、出会いが少なかろうが、消極的だろうが、頼りなさ気だろうが、彼女ができる奴はできるのだ。
上に挙げたモテない理由なんて、全部自分を納得させるための言い訳に過ぎなかった。
では何故俺はモテない。
見た目とか中身とかそういう次元の問題ではなくて、もっと根本的なナニカがあるような気がしてならない。
例えば、大宇宙の意思が俺に恋愛成就させまいとしている、とか。
そういう馬鹿げた発想を半分本気で考えてしまう程度には追い詰められている。
そしてそうなるともうモチベーションを維持するのは困難だ。
何やっても成功する気がしないのだから。だって敵は宇宙だ。勝てるわけがない。
そして俺は結局何を主張したかったのだろう。
・私
・好きな人(Fとする)
・Fは私をなんでも話せる女友達として見ている。
・Fとの会話は常に私が聞き役
・Fと私は仕事上のパートナーとして時間を共にすることが多い。
Fとの雑談の際、たまに元カノやねんごろになった女の子の話になることがある。
自慢話ではなく、こういうことがあった、という、本人としては笑い話、ネタ、くらいの話なのだが、嫉妬に狂ってしまって冷静に会話ができなくなる。
今までは「相槌を打つ」という対策を立ててきたのだが、感情に限界が来ている。
突然キレる、ということになりそうで、まずい気がしている。
そこで今後の対応策を考えているのだが、もしこんな戯言に付き合っていただける人がいたら、ご助言いただけますと幸いです。
ざくっと言うとこんな感じ。
「そういえば以前こういうことがあってこういう女の子と出逢ってこうだった。そのあとその子の事は押し倒した」
「喧嘩のあと、仲直りしたあとのセックスは最高に気持ちいいぞ」
私のシモネタのほうが生々しくて、Fから本気でシモネタ禁止令を言い渡されている。
現在一緒に仕事をしているため、その間もFとは顔を合わせるし、話もしなくてはならない。
1)女としての嫉妬
彼に優しく愛でられ、男モードの声で優しい言葉をささやかれ、彼に欲情されたその子たちが羨ましい。
私はセックスに対するコンプレックスとトラウマがひどく、男性と恋愛関係になることに臆病だ。(そのことはFも知っている)
セックスの快感は一応知っているが、あまりそういう機会に恵まれていないため、セックス充爆発しろ!!!と思ってしまう。
初対面の女性もほとんど落とせる。やりちんではなく、ほんとうの意味で男っぷりがいい。
「私の前でほかの女とやった話をしないでよ!!!」
「私は想像力豊かなので、お前のセックスする姿を思い浮かべることになる。恋人ではないお前の脇腹の脂肪が滑稽に揺れる様子を想像するのは生理的に不快なんだよ!!!」
告白は、今はしないと決めている。
スパっと白黒を付けたい性格ではあるが、時期と状況というものがある。
でも来年中にはすることになる。
どう伝えるか、が大事だと思う。
要は「私が傷つかないように話の内容に気を遣え」という至極自分勝手な言いがかりなのだから、「そういうことなら」と前向きな気持ちで了承してもらえるよう、伝え方を相手の立場にたって考えるべき。
この相手の立場にたって、というのが難しく、努力・工夫・成長の求められるところだ。
「私も女なので、他の女の話をされると嫉妬します」と、半泣きになりながら言ったことはある。
Fは非常に面食らっていて、「でも恋愛感情はないんだろ?つまり規格が合うということだろ」というところで落ち着いた。
Fとの仕事のためであったし、保身でもあった。そしてその頃はFでなきゃ駄目だというものでもない、とも思っていた。
Fに対して愛情はあったけれども、恋をしていなかった。
今一度、同じセリフを言ってみるとどうなるのか。
腫れ物にさわるように扱わねばならないと思わせてしまうと思う。
今でさえアスペ的反応をしコミュニケーションに齟齬が生まれやすい私にかなり気を遣ってくれているのに、さらに条件を増やすのか。
Fが私の抱えている問題は知っている。
でもここまで過敏に反応していることは知らない。セックスについて、そのくらいの話題でも傷つきかねないということを、最近の自慰の様子をもとに伝えるというのはどうか。
最近は自慰の際、AVでよがる女の子たちを見ていると、同じように乳首に当ててみた電マの音が虚しくなってタブを閉じる。
うーん、私の自慰の話を聞かされても、気持ちのよい交渉にならないよな…。
Fの思いもよらないところで私は傷つき、それについて私がFに働きかけるとき、どうあってもFが傷つくような気がする。
私がもっと器を大きくしないと駄目なのでは。
あーーーぜんぜん相手の立場に立って考えられていない。相手の立場から私を見た場合の自分の醜さ、恋愛条件に入っていなさに、耐えられない。
そもそもの問題はそこなのかと思い始める。
やはりここは3なのか
一番いいのは「自分に自信を持つ」ことではないのか。
私は自分に自信がない。
舞城王太郎の九十九十九よろしく、「こんな私、誰も好きになんかならないよ」と心の奥のほうで叫んでいる。いじけている。
自分を蔑む思考回路をもって、自分の前向きな希望や欲求を検証する癖がついている。
それが生活にも大きく影響を与えており、第三者からすれば、Fとの恋愛以前に、自分の生活、性格をなんとかしろよと言われてもおかしくないくらい、精神状態も生活状態もやばいと思われると思う。
ただ、「恋愛以前に」という考え方はしないほうがいいことを今までの経験から確信した。
だから私は生活、性格をなんとかする努力もするが、Fへの思いは人間の当たり前の感情として、抱え、持て余し、悩み、時が来たら押し付け、自爆してもいいと思っている。
なので2,3は両方選ぶことはできる。
距離を置くとかがいのだけど、状況が状況のため、常に2人でいることが多く、息抜きに他の人と話せる環境がないため途方に暮れていた。
女の部分を捨てる引き換えに一緒にいられるようなものでもあるのだけど、欲とは限りないな。
あまりに心が乱れてしまい、吐き出してしまったが、ちょっと頭が整理できた。
ここまで読んでくれた人、ありがとう。
感想でもいいかも。私がおかしいのかとか、他の人ならどうするのかなとか、そういうのも知りたい。
もしアドバイスもらえたら、嬉しいです。
君は諦めていないかい?
営業のお客さんだってそう。一回二回の話じゃ会ってくれない。
何回も何回も電話して、ようやく、じゃあ会いますよってなって、
そこが初めての始まり。
一回二回断られたからって諦めたら、
成就しないよ。
しつこいっていうくらいでやっとスタートなんだよ。
営業の仕事がまさにそう。
どんどんどんどん踏み込んで行くの。
そうしないとその先は開かないよ。
相手が迷惑かな?なんて考える優しい気持ちじゃ
達成できないよ。
強く想う気持ちを持ってやりすぎ!ってくらいに踏み込むんだ。
それで初めてスタートラインだ。
相手の事を考えて、なんて、そんな優しさじゃ突破できない。
それでやっと結婚できたよ。
36歳の今。
こういう、「全ての人間は恋愛体質」「恋愛成就が人生の目的」「常に相手を探して当たり前」「いい年して彼氏・彼女がいない奴は人間としておかしい」「美人の処女はいない、いたら性格に問題がある」みたいな決めつけは、どうして起こるんだろう。メディアなんかによる洗脳の結果だろうか。単に頭が悪いのだろうか。
酒や煙草を飲まない人がいるのと同じように、SEXしない人だっていることが何故わからないんだろう。他人は全部自分と同じと思ってるのか。自己中か。
恋愛なんて出会いが必要なんだから更にハードル高いのに。たまたま良い出会いがなかっただけの人は一定数必ずいるのに、そんなこともわからないのだろうか。