はてなキーワード: 恋愛至上主義とは
悪役令嬢の中の人ってなろう作品、コミカライズの第一王子と剣聖のBLが女性オタクに大人気で今最も流行っている旬なジャンルらしいけれど。
主人公の悪役令嬢が、元の乙女ゲーのヒロインになってる女キャラを拷問強姦させる結末らしいと知ってドン引きした。しかもその拷問の描写がやたらと細かく猟奇的で、成人向けじゃないのが不思議なレベルだという…
普通は同性だったらいくら嫌いなキャラであっても性的な虐待は胸糞悪すぎてさせないものだと思うんだけど、
ゲゲゲの謎の父から娘への近親レイプ妊娠出産や愛妻家キャラの不倫の流行といい、
女性の被害をあまりにも軽く扱う創作物が流行り過ぎてて胸糞悪い。
こういうのってそれこそフェミニストからは叩かれそうなものなんだけど
何故か全然叩かれないんだよね。
マケインが人気になって良かったなあってほんと思った。
男向けのハーレム系ラブコメって結局恋愛至上主義みたいなとこあるじゃん。
美少女ゲームの影響が大きいのかどうなのかわかんないけど、フラレたら負けみたいな扱いで幸せじゃないみたいな。
ゲームであれば個別ルートがそれぞれあるのが前提で自分で選択してフルわけだからまあありなのかなと思わなくもないんだけど、漫画とかラノベでそれだと窮屈だなあって思うところがある。
漫画とかラノベでフラれたらそれで不幸せ確定みたいな書き方するのは流石にあんまりないけど、サブヒロインがフラれるときってほとんど完結寸前でフラれたあとの描写はほとんど書かれないじゃん。
フラレる=不幸って書き方じゃないのは確かだけど、でもフラれたあとの彼女たちはどう立ち直って行くかっていうのは書かれないわけよ。ニセコイもそうだし、いちご100%もそうだし神のみもそう。
五等分の花嫁は家族だからヒロイン同士で支え合うみたいな感じで、これは確かに一つの発明ではあるけど設定依存が大きすぎるから置いておく。
もちろんフラれたあとも書いてるのがないわけじゃなくて、古見さんとかアオのハコとかはその辺りちゃんと書いてる。
ただこれも結局新しい恋愛を見つけて幸せになるみたいな、そういう恋愛至上主義の中で立ち直って行くという恋愛の枠組みの中でしか幸せになれないって側面が残ったままで、
結局失恋=負け≒不幸みたいな価値観が残ったままなんだよなあって感じがするんだよ。
その価値観が極まったのがぼく勉で、恋が成就しないと女は幸せになれないみたいなノリで各ヒロインの個別ルートを書くとかやったのを見たときは
美少女ゲームの影響を受けたラノベから影響を受けた漫画がついに先祖返りを果たして行き着くところまで行ったなあって感じがした。まあこれはさすがに茶番感が強かったのか評判は悪いみたいだったけど。
別に良し悪しの話じゃないんだけど、フラれたあとの姿を描かないか、過去の恋を吹っ切って新しい恋を見つけるかしか失恋後の扱いがないのが凄く引っかかってて。
こういう恋愛の枠組みでしかフラれたあとの立ち直りを書かないのは窮屈だなあって思ってたからマケインを見たときは新鮮だった。
フラれても好きなんだって気持ちを抱えたまま、それを吹っ切ったりしないで新しく友人を作って人生を楽しんで行くっていうところが、特別なことではないんだけどこれを中心に据えて書くのは意外と今までないタイプで面白い。
高校生で青春で、失恋したってそれでも人生は続くし好きなままでいたっていいし、それはそれとして高校生活を楽しめる。恋愛が青春の全てじゃないっていう視野の広げ方が自由に感じていいなって思った。
美少女ゲームから一番遠そうなジャンプが旧来のオタクカルチャーの象徴みたいなことやって、美少女ゲームのライターが大勢いるラノベ界からそのアンチテーゼみたいなのが出るのがまた面白い。
ジャンルの幅広さと書き下ろしがゆえのチャレンジのしやすさがラノベの強みだよな。
マケインは世間的にも評判がいいみたいで、恋愛至上主義的な窮屈さを感じていたのも自分だけじゃなかったんだなって嬉しかった。(これは評判の良さとは関係ないかもしれないけど)
この作品が最後まで恋愛的な方面に進まないのか、それとも誰かとくっつくのかわからないけど、自分としてはフラれたあと恋愛に逃げずに日常を送ってるところが見られたので今の段階で十分見たいものは見れたかなって感じはしてる。
唯一無二の運命でスピンオフじゃない主役な彼女らの生き様が見ていて楽しいって思うので、そこがブレずにアニメの最終回も原作も楽しめたらいいなって思う。
15年以上前、アラサーだった自分は新人文学賞などを目指して小説を書いていた。
土日の大部分は小説を書く作業と、小説を書く人が集まる社会人講座の授業に費やしていた。
5年位は続けていたが、やめてしまった。
自分が書くべきことが次第に思いつかなくなってしまったことと、他の受講者の作品や本屋さんで売っている小説を読んでいるうちに、自分には向いていないしセンスがないことがだんだんわかってきたからだ。
ところが最近、自分のパソコンのフォルダを漁っていたらその頃の小説のpdfが出てきた。書くのをやめてばかりの頃は恥ずかしいし痛いから二度と読むまいと心に決めていたが、今の心情としては死ぬ前にあと1回位は読んでもいいかもしれない、小説の見え方も書いていた当時とは大分違うかもしれないと思い、斜め読みでもいいからとりあえず読んでみることにした。
登場人物やあらすじについては触れない。
A
小説を書いてみたいと思って社会人講座に通い始めて間もない頃に初めて書いた。原稿用紙350枚ぐらい。
登場人物の言葉遣いが汚い。直情的すぎる。登場人物の中でホモと疑われる教師がいたのだが、今の時代ではアウトすぎる表現だった。
物語の展開が都合良すぎる。
恋愛描写がくどい。多分これが、よく言われるところの、素人のおっさんが初めて書く小説にありがちな痛さかもしれない。
書いてる時には恐らく頭の中で見えていたはずのものが文字になっていないからなんのことだかわからない記述がある。
過去の知り合いを物語の中で過剰に美化している。つまり、自分の当時の人生観が未熟で甘いということだろう。
主人公がずっと目指していた目的地がいつの間にかすり替わっているのに物語中では一切理由がわからない。
親の心とかの描写が表面的すぎる。
内容をほとんど忘れていたので次の展開が読めないところは楽しみでもあった。
瑞々しい恋心みたいなのはちょっとよみがえった気がした。今よりも恋愛至上主義が強い世相の中で流されつつ抱いた渇望感みたいのを思い出した。
小説すばる新人賞に応募したが1次選考にも残らず。当時はなんで?なんで?って感じだったが(それも恐ろしいことだが)今読めば選考に残るわけないのは十分納得。
B
Aの2年後ぐらいに書いた。原稿用紙500枚。
主人公の思考、社会への目があまりにもすさんでいる。それは当時自分がそうだったことの裏返しだろう。
弱者を執拗に否定しようとする力の存在をことさら強調し絶大視しようとする描写がいくつかあって、それが自分の人間的未熟さというか卑屈さを浮き彫りにした。
犯罪のトリックが稚拙。USBメモリ紛失をでっち上げただけで大企業の情報漏えい事件発生というのは無理がある。
簡単に人が死ぬ。こんなに登場人物をたくさん殺しているのにその必然性も後片付けもないと、当時通っていた講座の講師にも指摘された。
書いた当時の10年後つまりここ最近の時代が舞台なのに、現代のキャッシュレス社会を予見できなかった。虹彩認証でコンビニで1000万円までの現金を下ろせてしまうという設定にはあまりにも無理があった。
刑事がすぐに暴言を吐き暴力を振るう設定が安直すぎる。下手をすれば職業蔑視とも受け取られかねない。
いい奴の主人公が最初のシーンだけめっちゃ嫌なやつ過ぎてその後のシーンでの性格とあまりにも整合性がつかなすぎる。
氷河期世代負け組アラサー男性の絶望感と人生をやり直しの希望みたいのは出たと思う。
当時の自分は成功したあっち側ではなく、だめなこっち側の人間なんでこっち側の怒りや絶望を描いたつもりだったのが、その描写に卑屈なところがあるため、かえってこっち側の怒りを買いそうでなおかつあっち側からは苦笑いか同情でもされそうな残念感が今も残る。
「このミス大賞」に応募して、もちろん1次選考には通過しない。当時はそんなもんか、という印象だったが、今だったら通るわけないと十分納得。
C
Bを書いた後に、今度は誰も死なない話を、なるべく心温まる話を書こうと奮起して書いた。原稿用紙350枚。
登場人物で、モデルとなる実在人物がそれまでで一番多い。そのためか痛さが際立っている。
物語の展開にAやBほどまでの唐突さはないが、それでも十分唐突。
今どき年寄りしか使わないような方言を若者世代にまで喋らせていてあまりにも無理がある。
難しい命題を掲げておいて導き出した答えがあまりにも安直で稚拙。主人公は大学生なのにこれじゃ中学生かよって感じがしてしまう。
書いている当時は見えていたものを本文に描写していない(書いた気になってる)のでなんのことかわからないシーンが一箇所あった。
主人公のイチャラブシーンがくどい。がそういうのがいい人はいるのかも知れない。ただし、人物描写に深みがないからやはり読む人が読めばつまらない。
もし登場人物のモデルとなる実在人物にこんなのを読まれたらと思うと恐ろしい。
縁あって知り合いの編集者の方に読んで頂いたところ「よいところは何一つない」と断言され、大沢在昌の小説入門のような書籍で勉強することを真剣に勧められた。(一通り読んでみたが実践にまで及ばず自分の血肉とはならなかった)
小説すばる新人賞に応募し、もちろん1次選考に通過しなかった。当時の印象としては、やっぱそうだよなって感じだった。
D
Cを書いてから2、3年後に、通っていた講座の課題として書いた。原稿用紙100枚。
書くことがなくて無理やりひねり出した感が強く出てしまっている。
既存の小説のシーンを堂々とパクっている(ある小説で、土砂を積んだダンプカーが横転して人が生き埋めになるのを見て笑う男のシーンがある)
書いている当時頭に思い浮かべていたシーンと実際に書かれた描写とでまだギャップがある。
(全体を通して…)
読み返す前は「小説家になろう」とかにupしてもいいかなーとか思ってたが、読んでみると、、やっぱり、、、無理だわ💦
(追記)
増田の反応が意外と生ぬるい称賛みたいのが多くて拍子抜けした。
きしょっ💦💦
クソワロタwwwwwww
みたいのを想像してた。
時間と労力をかけて書いたものでも、客観的に見るととても拙く、世に出るレベルに至ってないというのが、趣味としてやるにもなかなか難しいところであることを実感した。
しかもそうやって自分の作ったものをある程度客観視できるようになるのに10年以上も寝かせるというのもある意味めんどくさい。
よく、10000時間修練すればいろんな趣味や技術はモノになる、というようなことを言われるけど、自分の場合、多分10000時間には届いていないのでまだ努力を続ける余地はあったのかも知れない。
(今じゃほとんど)自分より若いデビュー小説家や芥川賞直木賞受賞者の方は努力もすごいがやっぱりセンスとか目指してるものとか見えてるものが自分とは全然違うんだろうなと改めて思う。
あと、時代の移り変わりが早いのを改めて実感した。
LGBT関係やセクハラパワハラ、キャッシュレス社会、スマホや携帯、若者の言動とか、書いてる当時は気にならなくてもたった10年程度で違和感ありありなのがすぐに浮き彫りになってしまう。
(追記2)
ブコメの中で、自分以外の人に読んでもらったほうがいいというアドバイスをされた方がいたので補足すると、当時通ってた講座の受講生の方にはABCDいずれも読んでいただいたし、一部は友人数名に読んでもらう機会があった。授業で頂いた色んな人の講評などがノートに書かれていたはずだから、後でそれも引っ張り出して読んでみようと思う。特に、通っていた講座の講師の先生には要所要所の指摘やアドバイスを頂き、温かい目で見守って頂けたので今でも感謝している。
つまんなそうとかこんな増田じゃものになるわけないみたいなブコメもあったが、まあその通りだと思っている。自分は、仮に誰もが有無を言わさず好きでも嫌いでもとにかく原稿用紙1000枚ぐらい書いてみればとにかく書きさえすれば100人中50人ぐらいは自分のより面白いのができると思っている。本当に違うのは、書くか書かないか、ただそれだけだと思ってる。
(追記3)
E
ABCDより少し後に読み直した。
Dを書いたよりも1年前ぐらいに書いた。原稿用紙360枚。小説すばる新人賞に応募して、1次選考に通過しなかった。
地元に古くからあったドライブインや商業施設などを舞台として、20代の男女の恋愛とか和解などを描いた。
時代設定を明確に2011年としていたので当時と今とでは大きく時代が変わってしまったことを改めて実感した。
ブログとか掲示板、当時のネットスラング、どれもみな、今ではほぼ絶滅してるようなものばかりだった。
登場人物の人間性に触れるような描写はそれまでの中では一番ましだったと思う。
一方で、あらゆる出来事や現象に理由や理屈をつけなければならない、本文に記述しなければならない、というような思い込みを感じるところがあって、それが読者に違和感を感じさせる要因になるのではないかと思った。理屈じゃない出来事を理屈で説明しようとしている感じ。
ファッションや料理に関する描写が出てくるシーンを書くのが難しかった。その方面の知識や経験の浅さ乏しさがどうしても浮き彫りになってしまう恥ずかしさがあった。
書き始めた頃よりは少なくなったが、登場人物の直情的で暴力的な部分への違和感が残った。自分の中で、世の中はそういうものだという固定観念がまだ残っているようだった。
ABCDに比べて、読むときにもっと気恥ずかしさが残っていて、主観的な視点が抜けきれてない感じがした。
物語のテーマが大きく2つに割れてしまっていて、片方は潔く捨てるべきだったのかも知れないが、どう捨てたらもっと面白くなるのかはちょっとよくわからない。
って思ったけど、作れないよな
こちとら身長166cm、体重49kgのクソチビヒョロ独身アラサーだけどさ
マッチングアプリでも結婚相談所でもそもそも表示されないし、ネットを介さない場所で彼女を作れるような人間ならそもそも彼女いない歴=年齢になってないし、そもそももう周りにいる人たちには殆どパートナーがいて入る隙間がないし
そいつは身長177cmだからマッチングアプリで普通に「存在する男」として認識された
もちろん彼女いない歴=年齢だから最初にマッチした女性とはうまくいってなかった(ドタキャンされたり2回目がない)けど、試行錯誤を積み重ねるうちに人生初の彼女ができて、彼女できた瞬間にモテ始めて今じゃ3人の女性と同時交際してる
俺みたいな低身長はそもそもそういう「痛い経験をして成長する」という機会がないんだよな
だから低身長男性専用の出会いの場って作れないかなって一瞬思ったけど、そもそも女性からしたら存在してないんだから作った所でチビ男しかおらず女性0人のコミュニティになるに決まってるわ笑
まあ劣った遺伝子を持って生まれた俺が悪いんだけど、やっぱり悲しいよな
職場の飲み会とか言っても彼氏彼女や結婚の話ばっかりだし休日もつまんねえしそもそも寂しいし
うちの親父も俺と同じ身長で、歳いってからのお見合い婚だから恋愛経験や女性から好かれた経験は皆無
それでもお見合いがあったから結婚できたけど、客観的スペックのみが重視される現代型恋愛至上主義社会では遺伝子的に太刀打ちできないわ
南無三南無三
なんだか随分と遠くまできた気がする。
でも自分の年齢のおかげというよりは2000年頃から社会の潮目がだいぶ童貞よりに偏ってきてくれたおかげだと思う。
というか、童貞かどうかを確かめられるような発言をされたのが30ぐらいまでだったと思うから、本当にそれぐらいから色々と変わってきた。
やはり時代の流れなんだと思う。
童貞って恥ずかしいよねヤバイよね!結婚しないとかありえないよね!みたいな価値観がだいぶ静まっていった。
景気の良さが社会の多様性を上方向に押し上げ、そのあとで不景気が下方向にも押し広げた。
広がった中間ゾーンの中に「なまじ金持ってるせいで変な奴しかよってこない異性恐怖症」とか「金がなさ過ぎて子供作れないから結婚自体やめた人」とかが飲み込まれていった。
それらに比べれば「別に女が嫌いなわけじゃないけど、わざわざ恋愛するよりエロゲでシコってた方が手っ取り早いから童貞」という俺みたいなタイプは全然普通寄りでいられた(具体的に言えば「異常者ではあるがこっちまで巻き込まれそうではないタイプ」という扱いだろうな)。
恋愛至上主義や家族至上主義が社会から消えていき、女性の社会進出もあってか独身がドンドン増えていく、その枠の中では恋愛経験の有無なんてもうもうどうでも良くなっていったんだろう。
極めて狭い人間関係、それも性欲や保存本能に突き動かされたものに人生を依存させるという選択肢が当たり前なはずがないんだ。
孤独死するとき部屋が訳アリ物件になってしまうことについても、今後孤独死が増えれば時代が勝手に解決するだろう。
俺は逃げ切ったぞ。
行くんじゃなかった。少なくとも俺は風俗に行くべき人間ではなかった。と言うより、俺はセックスに向いていないんだと思う。今物凄い自己嫌悪が止まらない。
今後俺は彼女を作ることが出来ないんだろう。今までにも一人、高校生の時に付き合っていた人はいた。あの時は彼女を性の対象として見てはいたが、そこには少しばかり神聖なものとしての側面があった。女性を、女体をどこか神々しいものであって断じて肉の塊ではないと思う節があった。
その幻想を俺は自ら破壊してしまった。もしかしたら賢者タイムに今在るのかも知れないが、そうとはしても前なら綺麗だと思えただろう街ですれ違う人を見ても、認識論としてただの肉塊にしか見えなくなった。
物事には順序があり、人には人の順序があったんだろう。俺の場合は恋愛の果に据えるべき、そしてこれからを繋ぐ行為としてのセックスだったのだろう。
そして俺は今こそ己を知った。恋に恋をするような人間ではないが、確実に恋愛至上主義であったのだろう。
今後仮に何かの切っ掛けで彼女が俺にも出来るかも知れない。でも、彼女に指一本触れる事は出来ない。後ろめたさ、と言うのもあるし、何より自分から進んで電話を掛けて予約を取って、自らの足で赴き行為に及んだにも関わらずペニスがまるで起たなかったからだ。
どこか義務感のように、このままでは申し訳ないし、高い金を払ったその義務感で事に及んだこの記憶は生涯消えないだろうし、出来るかも知れない彼女との行為の前にもフラッシュバックするのは確実だからだ。
セックスは気持ちが良いものとする認識がある程度の人類の共通したものなのだろうが、まるで気持ちよくなかった。ただひたすらに気持ちの悪いことだった。他人と肌を重ねること自体も纏わりつくような相手の肌と、自分以外の体臭を嗅がなければならない行程、まるで柔らかいだけのマネキンを触るような異質感、腔内に侵入するエイリアンとしか言えないぬめぬめとした感触、とにかくすべて強烈な違和感を捩じ込まれるような、単語にすると穢れてしまった事実そのものが具現化、実体化してしまった。
童貞を捨てて知った。失った童貞は、その無垢であったあの頃はもう戻らない。残されたのはただの自己嫌悪と女体そのものに対する忌避感だけだった。
現在50代のおじさん達が会社や飲食店の若い女性達に対してやばいアプローチしてるけどさ。
80年代、90年代って本当に恋愛至上主義が過熱してたやばい時代だったんだなと思うよ。
俺は「おじさんになるとおかしくなる」のかと思って戦々恐々としてたけど、現在50代半ばの母親によると短大生時代、結婚前の会社員時代は
・朝、アパートに迎えに来る
これらを付き合ってない男性はもちろん、普段あまり会話や親交のない男性でも普通にやっていたらしい。
そんで、母親はそれを気味悪がったり不快に思っていないようで、寧ろちょっと誇らしく思ってるようである。
最大の問題点はここだろうな。
おそらく、当時の大学や職場における女性コミュニティでも「自分はこんな風に男からアプローチされた」話で盛り上がっていたんだろう。
現在母親と同年代のフェミニストが先鋭化して発狂してるのは、そんな狂った価値観の中で誰にも理解されず(職場のおじさんのセクハラや電車での軽い痴漢なら「もう!」「あはは」で済まされる)に生きてきたからなんだろうな。
そう思うとちょっと同情する。
"清潔感"における"清潔"とは、"けがれ”を落とすことである。ここでいう"けがれ"とは、本来の意味ではなくて、もっとライトな"けがれ"的思考を指す。『うんこ触ったあと、念入りに手を洗っても、手がなんか汚い感じがするやつ』そういったものだ。清潔感とは恋愛的"けがれ"認定される要素を落とすことを指して”清潔感”と呼ぶ。なので、本来の意味の清潔も含まれるが、もちろんそれ以外の要素も含まれる。
相手に触れたい、触れられたい(触れられてもいい、触れてもいい)と思えるかどうか、が恋愛においては大事な要素である。逆に触りたくない、触られたくないと思われたら終わりなのである。なので、"清潔感"が大事だ、という話になる。そもそも"汚い"ものと接触したくないので"清潔"という言葉が使われるようになったのではないかと予想するが、それは実際に清潔であるかどうかが問題なのではない。"けがれ"と思われてはならないのだ。もちろん人によってそのラインは異なる。服装、肌の色つや、髪型、爪、眉、鼻毛、ムダ毛、歯並び、もちろん顔面の美醜等、すべての外見を総合的に見て、"清潔感”のあるなしが個人個人の内部で判断される。なので、顔面がブサイクだと"清潔感”がないという感覚が発生する可能性は大いにある。例えば、ファンタジーにおける醜い見た目のモンスター、ゴブリンやオークがめちゃめちゃつやっつやの清潔で、清潔な布を纏っていてもそれらモンスターを"清潔感”がないとみなす人は一定数おろう。まさしく"けがれ"的な考え方である。
ただ、世の中の多くの夫婦や恋人達は美男美女ではないことからもわかるように、一般的に言われている"清潔感"とは顔面の美醜に細かく言及するような大変で不可能なことではないはずだ。恋愛とは個人間のマッチングである。個人の趣味嗜好とタイミングや押し引きで、許容範囲内に収まった二人がそうした関係になったり、許容範囲外になって離れたりする。恋愛強者や恋愛至上主義の人々のいう条件は厳しいかもしれないが、そんなものは"清潔感"について考えているような人間には関係のない話である。地に足をつけて、恋愛における平均的"けがれ"を落としておくこと(="清潔感"がある状態になっておくこと)は、そのマッチングの最初の段階ではじかれる可能性を下げ、許容範囲内に収まる可能性を高める。もちろん、顔の美醜ではじかれることは大いにあるだろうし、顔の整った人間が恋愛競争において有利なのは間違いないし、広範囲にモテることは望めないかもしれないが、最低限の"清潔感"をもっておくことは、決して無駄にはならないだろう。
生まれた時の性別とスペックにより、その時点で「異性とセックスできないまま死ぬ」ことが決まってる個体がいるの残酷だよな
もちろんその時点でそれが発覚するわけじゃなくて、徐々に時間をかけて主に思春期や成長期にかけてうっすらと自覚し、20代、30代で気がつくわけだけど。
やっぱり近代から昭和にかけての女性が主体性を持って生きる選択肢がない社会形態が理想だよな…。
「高等教育を受けたりキャリア形成して社会で活躍できないもん!くやちい!」っていう女性の辛さと「一生女性と金銭を介さないセックスできないまま死を迎えた…」っていう男の辛さだったらどう考えても悲惨なのは後者だし、どちらを犠牲にしてどちらを救うべきかって考えても前者を犠牲にして後者を救済すべきだと思う。
○マホカンタ : 自分に向けられた「キモイ」等の罵声をそのまま相手に返す
○サイレス: 空気を読めないとんちんかんな発言で周囲を絶句させる
○マヌーサ: 自分自身に幻影を見せ、現実に対する命中率を下げる
○グラビデ: 重苦しい雰囲気や嫌われオーラで周囲の人間を疲れさせ、体力を削り取る
○ラスピル: 周囲の人間を精神的に疲れさせ、精神力を削り取る
○トラマナ: クリスマス等にカップルだらけの街を一人で歩いてもダメージを受けない
○スカラ: 周囲の「キモイ」等の罵声や嫌がらせに対する忍耐力アップ
○死のルーレット: 練炭自殺する仲間を周囲の人間の中から無作為に選ぶ
○レムオル: 周りから注目されません。空気のようにいないと認識されます。
○ルーラ: 仕事が嫌になるとバックレ、自宅にひきこもる 唯一の安息の地である家にまっすぐ帰る
○メガザル: 合コンに行くことで周りの男の評価を相対的に上げます
○バシルーラ: バイト先などで人がどんどんやめていきます。もしくは、自分を転勤で地方に飛ばします。
新入社員として入社してからずっと仲の良かった会社同期が結婚した。
大手企業勤務の旦那で、半年後から約五年の海外赴任についていくらしい。
そんな彼女が結婚してから旦那中心の生活を始めて、それが少し気に入らない。
家庭の在り方は人それぞれなのはわかるけど、友達同士の集まりに旦那を連れてきたり
稼ぐ旦那なので家計は旦那一本柱なのかクレカを使う前にいちいち連絡入れているのを見たりすると
今まで同じ会社で同じようにやってきたのに急に同期が他人に支配されているみたいで気に障る。
会社の人間関係の話を聞いていても、なんとなく上の考えをそのまま良しとして汲み取りそれを疑っていない
でも、入社当初あんなにやれあれはおかしいこれはおかしいと愚痴を言い合った彼女はもうどこにもいない。
もちろん私がとやかく言うことではないので、そっと離れる以外に方法は無い。
彼女は恋愛至上主義で家を一番に考えたい人で回りの人間が大事で人に順々だった。それだけ。
そして、私はそうじゃなかった他ならない。
じゃあ私はどうしたいかと考えた時に結婚相手といつ別れてもいいように常に自立していたいし、
この不安定な日本社会からあぶれないようにいたい、同じとこに留まって同じ考えの人たちとおかしいことも気づけないくらいに小さくまとまるのが怖いから
違う会社も知っておく必要があるし、社内調整だけだとつらいので外回りしていたい。
彼女との関係を切るわけでは決してないし、学ぶこともあったし、尊敬している点もあるけど