はてなキーワード: 引き起こしとは
http://d.hatena.ne.jp/tokunoriben/20131126/1385471119
メーカーが出荷する段階での原価がどれくらいかは知らないが、そもそもコンビニでのお茶のいまの標準的な売価は125円。原価については、平時でだいたい35%くらい。なんらかの条件がついたときは50%くらいなので、50円から60円が店に入荷したときの原価というところ。ひとまず細かい計算がめんどくせえので店の利益は50円だとする。んで、そのうち半分が本部チャージ(もちろんチェーンによって違うし、契約の形態やら年数なんかでも違うけど)なので、この時点で店の取り分はだいたい25円くらい。ここから諸経費差っ引かれたぶんが本当の利益となる。
ちなみに本当の利益はだいたい1日の平均的な売上がそのまま月の収入になるってところ。なので、売価に対してだいたい30分の1が実際の利益となる。お茶1本売るごとに4円くらいが利益ってわけだ。となると諸経費は21円ってところである。経費の半分は人件費なので、ジュース1本につき10円が人件費。さらに残りの半分が電気代なので、5円くらいってところか。なおこの数字はわりとてきとうである。現実的には、たとえば現金過不足とか棚卸ロス、あるいは逆に利益率のいい商品がバカ売れとかいろんな要因があるので、商品ひとつあたりでの計算は不可能。計算できるのは粗利までかなー。
まあそんなわけなので、お茶単体で、っていうことになると計算は途端に難しくなる。なぜなら店では冷蔵庫が必要ない商品も多数あるからで、しかもジュースを陳列してある扉のないタイプの冷蔵庫(ウォークインと呼ばれる)は、扉がないだけに特に電気代がかかる。実質の電気代比率はもっと高くなる可能性がある。
なお、お茶を店頭で客に渡すまでのシステムが確立するためには、個々の兵員の優秀さよりはシステムづくりのほうが影響が大きいと思う。つまり物流拠点や配送網だ。これがグダグダだとどうにもならない。そのとき売れるものを適切に店頭に陳列するためには、多品種小ロットの商品を物流の時点で管理する技術と、メーカーと店舗間の流通経路の短絡が必須で、その短絡っていうのは特に時間的なことだ。つまり「注文したら可能な限り早く店に届く」ということ。
リンク先の文章が言うようにコンビニの品揃えってのは兵站思想が極端に充実した結果のものなんだけど、それを消費者に理解しろってのは無理。なぜなら「極端」にまで進化したものは、もはや関係者にしか理解できないから。仮にそれを理解しろというのなら、それこそ消費者個々人の「温情」や「理解力」に期待するってことになる。理解できないものを理解しろというのなら、それは「よくわからないものを丸呑みにして受け入れろ」ってことになって、それはそれで別の問題を引き起こしそうで恐ろしい。そこまで消費者に従順であることを期待できるはずもない。消費者はコンビニで消費者やるだけが仕事じゃないので、それぞれの消費シーンに関して兵站の思想を理解しろっつったってそりゃ無理。教育でどうにかなるレベルの問題でもない。
うまい棒については原価はだいたい8円くらい。なので単体でいくらいくらってかたちで儲けが出るわけではないが、そもそもうまい棒を1本で買ってく人は少ない。子供くらいだけど、きょうび子供だって10円玉握りしめてコンビニに来るようなことはほとんどないからねえ。あと商品にはマグネット効果ってのがあって、大なり小なりすべての商品がそれを持っている。目的買いというやつで「それを買いたいがために店に来る」という性質のもので、うまい棒に関しては比較的その効果を期待できる。なぜならあれほど著名な同タイプの商品はほかにないから。ワンアンドオンリーは強いねえ。ことほどさように、商品ひとつとってもその関係は相互に複雑で、最終的には「率」で判断するほかない。ジュースでは確かにコンビニは儲けを出しているだろうが、弁当やデザートは、単体ではメーカーも本部も、そして店も採算ラインとしてはきっつい、みたいなことも多いはずだ。
さて、個人的な考えなんだけども、ふつうの人が「事象を様々な局面や視点から考えて張り巡らせる」ってのはかなり難しいんじゃないかと思ってる。これほどいろんなことが高度に分業化し、かつそれぞれが効率化(数十年前とくらべてどれほど進んでいることか!)している状況では、たいていのシステムは関係者以外からはブラックボックスにしか見えない。考えることはもちろんけっこうなことだが、ブラックボックスについて思考することは、わりと陰謀論と相性がよいため、自分はあまりそこには期待していない。むしろいまの日本の息苦しさというものは、この効率性への過度の期待にあるんじゃないかと思っている。ビジネスにおけるシステムというのは、巨大な資金力を背景にした一種の「発明」であり、発明であるだけに、だれもがそれを効率的に作れるわけではない。逆にいえば、だれしもがそのときどきの最大の効率を追求しているはずなのだが、そこに「まだやれるはずだ」「もっと安くなるはずだ」「サービスが足りない」という有形無形のプレッシャーがかかることが息苦しさなのではないか、と。
じゃあどうすればいいんだって話なんだが、これに回答が与えられるくらいなら、増田で書いてないで政治家やら経済学者にでもなったほうがいい。心情的な問題としては「みんながやるだけのことはやってるんだ」という穏やかな共感、許しのようなものが相互にあればいいと思うんだが、上述したようにそれはそれでけっこう難しい。仮にできたところでそれは同調圧力につながるし、その反作用のひとつのあらわれが、ここんとこの炎上騒ぎなんじゃないかとも思える。
結局は体力的な意味での流血沙汰のサバイバル勝負になるしかねーのかなーと思ってる。つまり、最大のコスパ叩きだしたもん勝ち、ということだ。
せちがらいよのなかですのう。
兵站の思想にからめていうと、これは物流だけがそうなので、あとの店舗に入ってからのことは兵站というよりは戦略になるんじゃないかしら。つーかロジスティクスってまさにそういうことでしょ。
サードブロガーとは、はてブスパム問題を引き起こした奴らである。
ようするにmixiと、はてブの違いが区別出来ずに、足跡代わり免罪符で、ホッテントリ狙いのスパム行為した馬鹿である。
http://anond.hatelabo.jp/20131025170009
http://anond.hatelabo.jp/20131008150622
このサードブロガーは、二つに分けることができる。
「はてブスパムとブロガーの呪縛 - あざなえるなわのごとし」
http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2013/10/26/004018
http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2013/10/30/150443
彼の増田への反応の良さは素晴らしく、はてな村への反骨精神は、次第にサードブロガーに受け入れられて行く。
http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/archive/category/%E3%81%AF%E3%81%A6%E3%81%AA
はてブスパム問題は、彼らの純粋アピールにより、「身内ブクマ問題」という名前に変えられていた。
「身内ブックマーク問題」
http://blogos.com/article/72979/
http://hotentry.hatenablog.jp/entry/2013/11/11/184316
身内ブクマ問題は、はてぶ自重して、スターをやれよ。に落ち着いた。
身内ブクマをやめれば当然アクセス数は減る。それについて文句を言いだした。
彼は、それをすぐに拾い上げる。
「最近、はてなスターが増えてブクマが減った - あざなえるなわのごとし」
http://b.hatena.ne.jp/entry/azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2013/11/18/171027
でも、彼は既に個人ではなく、サードブロガーの船頭になっていた。サードブロガーは彼に続いた。
「当ブログの「はてなスター」を削除しました。 - 大彗星ショッカ...」
http://dshocker.hatenablog.com/entry/2013/11/18/210045
http://anond.hatelabo.jp/20131119003941
彼とは違う彼らは、本音を丸出しにしてしまい、これまでの問題はただのスパム行為だったのが露呈する。
「増田:虚構新聞叩きを煽動してるのは、はてなのid:kanose」
http://anond.hatelabo.jp/20131121174203
「虚構新聞ネタを取り上げるとPVが上がるらしいが、PV乞食じゃないので、時期を間違えないようにとりま時系列でまとめただけのリスト」
http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2013/11/21/154100
「虚構新聞を批判する人々は2パターンに分類できることがわかった【ユニセフ記事の魚拓あり】」
http://dshocker.hatenablog.com/entry/2013/11/22/184648
「虚構新聞叩くならアンサイクロペディアも叩けよ - 反社会的な中学生」
http://takeiteasy.hatenablog.jp/entry/2013/11/22/195745
面白くなることを祈って、30分で書いたよ。
ジャニーズ山下智久とダウンタウン松本の筋トレ前と筋トレ後を見れば分かるとおり、筋トレをすると鼻が太くなる
また、顔の骨格が肥大化する為パーツが真ん中に寄る
筋トレ前は山下智久は白人にしか見えなかったのに今はただのアフリカのマサイ族にしか見えない
これは筋肉を落としても一生治らない
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また筋肉はムダ毛の増加や頭髪の抜け毛、ニキビ、毛穴の広がり肌のきめの粗さ、皮脂の増加、体臭の増加を引き起こし寿命も7年縮める
筋肉の恐怖↓
イギリスの大衆紙「The Sun」に「筋トレが脱毛を促進する」という記事が出た。
「45分間の筋トレを週三回、2年以上続けると男女ともに若ハゲになる」のだとか。
記事ではテストステロンの影響にも言及しており、女性でも筋トレをすると抜け毛を引き起こすことがあるとしている。
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↓記事はこちら(英語です)
http://www.thesun.co.uk/sol/homepage/news/article1092628.ece
これで今まで保守系学者が「筋肉はテストステロンだけが増えるのでDHTにしなければ大丈夫」とうそぶいていたものが完全に崩された
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・おまえは何者だ?
・おまえはどこにいる?
的な事を言われた。
元々主体性のないことが自覚していて、自分の事も第三者的な感じで話すことが多い(但し感情的になり易いが)。
今の現状を引き起こした事象についても、極めて淡々と話し、その事象に対しても後悔している点は殆どと言っていいくらいない(但し自慢はしていない)。
更にはもう一度やってみようか?的な考えも出てきている始末。
誰か助けてよ・・・、って言いたいけど、
そいつは そいつが得た経験値によって出来たフィルターを通して物事を判断、文字列を投げてくる、返してくる。
そんな分かりきった事に対し、自分の感じたモノを文字列で話したって無理。
態度/行動でも同様。
マジ疲れるわ~。生きるってさ。
若かりし頃もこういう事を考えたりした事はあったけど、それ以上に"生きる"って事に夢中だったような気がする。
何処でそれが無くなったんだろう??
ここに署名する我々は,グラフィックデザイナー,写真家,そして学生である。我々は広告技術・機構こそがもっとも有利で,効率的・魅力的な我々の手腕の活かし方だとされる世界に育った。キャットフード,胃薬,合成洗剤,毛生え薬,縞模様のついた歯磨き粉,髭剃り後ローション,髭剃り前ローション,痩せる食品,太る食品,におい消し,ソーダ水,タバコ,伸縮下着,ゴム入りズボン,スリッポン。こんなようなものを売るために技能と想像力を売り飛ばす人々を賞賛し,広告こそが正しいと主張する出版物に我々は責め立てられてきた。このような,この国の将来にほとんどないしはまったく貢献しないどうでもいい目的のために,広告産業に従事する人々の途方もない時間と労力が無駄になっている。
市民社会の拡大とともに我々はある飽和点に達しており,もはや押し寄せる消費者向けの販売攻勢は騒音以上のなにものでもない。我々は我々の技能と経験を活かすより価値のある仕事があると考える。例えば道路標識,看板,書籍,定期刊行物,カタログ,取扱説明書,工業写真,教育補助のためのツール,映画,テレビ番組,科学・工業出版物,我々の産業・教育・文化,そして世界の人々の意識に貢献するすべてのメディアがそうだ。
我々は消費者向けの激しい広告を廃止せよと主張しているのではない。そんなことは不可能だ。楽しい仕事がしたいというのでもない。より有用で持続的なコミュニケーションのために優先順位の反転を提案しているのだ。我々は販売のためのギミックやセールスマン,悪辣な隠し広告,そういったものに人々が辟易とし,そして我々の技能が有用な目的のために活用されることを希望する。この考えの下,我々は我々の経験と考えを共有し,関心を持つ仲間や学生等に供することを提案する。
簡単な解説:この宣言はイギリスのグラフィックデザイナ-,ケン・ガーランドによって63年11月29日に起草され,翌年4月,22人の署名とともに発表された。発表後400人以上のグラフィックデザイナーやアーティストが支持を表明し,デザイン雑誌を中心とした多くのメディアに掲載された。また,共感した英国議員トニー・ベンによってThe Guardian紙にも掲載された。当時,グラフィックデザインは経済成長に後押しされた広告産業の拡大によって急速にその主とした職域を広告産業へと移行しており,その形態・質が大きく変化しつつあった。ガーランドを始めとする一部のデザイナーはこの変化に危機感を持っており,ある種のバランスのとれた世界を目指した。この宣言は「グラフィックデザインは伝達されるメッセージに対して常に中立的であるべきなのか。あるいは中立的であることが可能なのか」という今日まで続く議論を引き起こした。後にこの宣言はカナダのAdbusters誌に再度掲載され,2000年に改訂版が各主要デザイン誌上で発表された。
キリスト教徒なんですけどね。
なんか書くの余計かなとか思うんだけど書いちゃうんだよね。つい。
「戒律」についてできなかったことを「ゆるしの秘蹟」(告解は古い言い方)で神様の代理で「言葉ではっきり」赦してもらうんだよ。
でも信仰があるんだから、行いに顕れるべきだ!ってことで、「正しい」行動をするように奨められる。
あれはただそれだけのことなんですよ。
http://www.pauline.or.jp/yamamoto/yamamoto_56.php
「体はひとつでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である」という感じに
「いい人も悪い人もすべてキリストの体(教会、の暗喩)の一部」と求道者には初心者のうちに教えるのが普通なのよん。
で、これに続けて、あなたへの答えが載ってる。ついでに書いてみよー。めんどくさかったら読まなくていいよ。
あなたの投稿を見て、「はて?」と思った人のために書いてるつもり。
「あなたがたに最高の道を教えます…(中略)…愛がなければ無に等しい」。
現実、真面目な信徒や真面目な子供は教会の外でも中でも「いい評価」を受ける。
でもそれがどうかしたの?っていうのがキリスト教徒の長所であり短所なんだよね。
悪いことやりたい放題してても、「ごめんなさい」で済ませるのが教会。
この点で不愉快な思い、たぶんする人多いんだろうなあ。
それについては本当に申し訳ない。ウチらの優先順位は神様なんだ。
もしキリスト教徒が誰かに悪いことしたのに謝りに来なかったらそれはちゃんと伝えるべき。
その時怒っても当然だと思う。
非キリスト教徒は「罪を悔い改めた罪人は、等しく神に愛された存在であって、『ずっと正しく生きてきた信徒』と同じように救われる存在だ、という感覚が本当に持てているの?
どこかで、昔からの仏教のような感覚で、「より修行をした僧は、より仏に近い」「偉い」存在だ、という感覚がありはしないか。」と疑っちゃうんだよね。
気持ちはわかるんだけど…死ぬ間際に簡単な洗礼を受けて天の父の元へ一直線しちゃうのも別に構わないよってのも、伝統的な教会は受け入れるよ。(※教派による)
しかもそうやって亡くなった人の死者のためのミサ(プロテスタントなら日曜礼拝の時に同時に祈る)もやります。
カトリックなら大概は来週~再来週辺りにやることも多い(ハロウィン・死者の月・11月参照)。
「大いに罪を犯し、その罪を大いに悔やんで赦しをいただきなさい。そして、その赦しの大きさ(愛)を感じて、他者を愛せ。」
とね。
余計な散文お目汚し失礼しましたー
いろいろと問題を引き起こしたのかもしれないが、あの人は人の心をつかむ天才でした。
今も日本のどこかで、人の心をつかみまくっているのでしょう。
元記事:http://yukihara.jp/?p=336&preview=true&preview_id=336&preview_nonce=d45193537c
昼食後の事であった。過食嘔吐を抑えていると、久々に殺人衝動が湧き上がる。安定剤の経口により治まりを見せたが、いつにも増してそわそわしていた。気を紛らすため、同室の中原さんと談笑していた。名前は失念したが、昨日話し掛けてきた叔父さんも会話に加わる。叔父さんと中原さんは二人で入院病棟の昔話に花を咲かせていた。しかし、互いの距離を測りかね、間も無く解散する。夕食後、移動売店で購入したカップヌードルを詰め込もうと思ったが、ココアを飲むことで落ち着かせようと知恵を働かせる。ココアを飲み干し、すぐに歯を磨く。が、一度何かを摂取してしまうと、抑えが聞かなくなり、本日二度目の安定剤を服用する。イライラは収まらない。夕食前、読書、WEBでの学習を90分ほど行っていたので、再び手を付けようとするも、読字障害を引き起こし、文字を読むことができない。どうしようもなくなったので、僕はThe Comes「No Side」を子守唄代わりに聞きながら、窓辺にて佇んでいる。大病院の5階から見下ろす冬景色は、僕をより一層苛立たせた。
その後、カップヌードルを食らい、ミルクココアの粉末をスプーン山盛りで掻き込んでいた。自責の念はあったものの、嘔吐をすることはなかった。しかし、精神科病棟というのは、どうなっているのだろうか。過食嘔吐の経験は前以って知らせたはずであるが、どういうわけか、「おやつ規制」の対象となっていない。問診の際、精神医学准教授の診察を受けた。准教授はそこで、「リストカットと過食は若者のストレス解消の手段だからねぇ」と述べていたが、薬によって治療すべきでないということか。私の症状は錯綜を呈しており、診断も付かない状況である。不安ばかり募る。いっそ、死んでしまいたいとさえ思う。
主にTwitterやFacebookなど、SNSにおける炎上などのインシデントが後を絶たない原因については、いろいろ考察がなされているところだし、まあどれが正しいとも正しくないとも証明することは難しいと思うので、どれも「一理ある」程度で受け止めているところです。
でも、最大の原因はおそらく「SNSユーザーの絶対数が増加したこと」なのでしょうね。
元々人間は、SNSなどがなくてもリアルの人間関係を築いてきたわけですが、SNSはその上にソーシャルの人間関係をかぶせてきただけ、言い換えれば、リアルとソーシャルという2つのレイヤーの人間関係がある、というイメージでとらえています。実際は交わりがあるわけですが、まああくまでイメージということで。
個人の視点で見れば、リアルのみの人間関係よりも、SNSを使うようになると人間関係が「広がる」イメージになるわけですが、例えば日本人全体で見ると、SNSがあろうがなかろうが分母は変わらないわけで、レイヤーが2つになって変化するのは「広がり」ではなく「濃密さ」ではないかと考えるわけです。
何かで読んだのですけど、「知り合いの知り合い」という言い回しが界隈で聞こえたりするわけですが、「知り合いの知り合いの知り合いの知り合い」とたどっていくと、ほぼ全ての日本人は4人目で明石家さんまさんに到達できる、という説があるそうですね。一瞬「そんなことないだろう」と思ってしまうのですが、よく考えてみると4人目だとかなり楽々到達してしまうように思います。非常に雑な計算ですが、知り合いが平均100人しかいないと考えても、4人目になるとのべ1億人になるわけです。知り合いが100人いないって、よほどの子どもか仙人でもない限りいないと思うわけです。
例えば私自身で考えると、どうやら私は3人目で明石家さんまさんに到達できるようです。つまり、私をハブにして、私の知り合いは全て4人目で明石家さんまさんに到達できることになりますね。
「知り合い」も人間関係には違いないですから、これはいかに個人の人間関係というものが無意識に広がっているものなのかということを逆説的に考えた面白い説ではないかと思います。
ソーシャルで人間関係が濃密になるということは、明石家さんまさんに到達できる平均人数が4人目から3人目に近づいていくことなのかもしれません。
伝言ゲームも、4人ぐらいならあっという間に到達してしまいます。SNSの発言の広がり方がイメージできない人たちが、インシデントを引き起こしているのであろうことは言うまでもありませんよね。
学者の評価が下がってる、ってのがどの分野で何の事を言ってるのかがまず分からないけど、
逆に学部生に関してはアホみたいな大学が増えて、誰でも行けるような時代になってるんだから全体として質が落ちてるのは疑いようが無い所。
同じ大学、とかに限って言えば、指標が難しい。
少し前なら学んだら「新しいこと」だったことが、その業界ではもう前提知識として知ってないと話にならない、というものがドンドン増えるので、
ある時点で、上の人と肩を並べようとするのにより多くの学習時間が必要になってることは確実なので。
全く関係ない。全体へ与える影響の人数にしたら誤差にしかならないでしょう。
この国、っていうか、どこの世界でもそうな?人間でなくても、何でもかんでも。
努力なんてのは本人がしてる、って言えばしてる、ってだけの話で、そんなもん測り様がない。
結果で見るしか無い。
その「結果」のみかた次第で変わる、と言うようなこと(例えば、大きな最終結果にはつながらないけど、他の人が嫌がる雑用を積極的に引き受けた、とか、実質的に何か行動を伴うこと)
単に、1日10時間勉強しました、ッて言われても、それで東大受からないならそこまでだし、むしろ努力したのに結果出ないなんてそれ以上要求のしようがないし駄目だろ。
※努力をしないひとを養う余裕はなくなってきているし、今を食いつぶす結果は否定されるべきだ。
???数十年前に比べたらだーいぶ余裕は出てきてると思うんだけど。。。
バブルの時なんかは努力しないでもいくらでも仕事があったから自分で稼げたけど、そこで今みたいに鬱だとか、何もしたくない、とか言ってたら今より生きてくの難しかったと思うけど?社会的理解なんて皆無だし。
まあ、今の欝が社会が引き起こしてる、ってんなら、それはホントにただの「甘え」だし、そうは言っちゃいけないところでしょ?
んー、なんともな反論にびっくりした。
「賛否両論なのはわかっていました」、っていう後出し辞めよう。カッコ悪い。
あのなあ、賛否両論なのはわかっていました、っていうのは、敗北宣言だよ
賛否両論なんてのはな、意味もなくやっちゃったら、もうそれは「混乱を招いただけ」なんだよ。
トイレの便器を「泉」として美術館に出展する、女性天皇についてTV番組で特集する。
当然「賛否両論」が界隈で起こるだろう。でもそれには意味がある。
「芸術とはなにか?」、「憲法や天皇制」についての議論が、そんなこと絶対に興味のない連中にまで行き渡り
そこかしこで議論が行われることになるからだ。それはまったくもって「意味のある」ことだ。
だからやる意味がある。賛否両論を引き起こすことに、意味がある。
賛否両論を引き起こしたい確信犯(誤用)は、「しめしめ」くらいに思ってないとダメなんだ。
そして、思惑通りいかなかった場合の、失敗のリスクもきちんと引き受ける。
俺たちの描く最も美しいシナリオは「コレ」だったんだ!!!って、胸張ってくれよ。
俺たちのFree!は「コレ」だったんだって。でもそれは受け手にはさほど評価されなかっただけなんだって。
混乱を招いて終わった。それを認めろ。賛否両論とかで逃げるな。
「賛否両論を引き起こすのはわかっていた」なんて言うな。恥を晒すな。
撃たれる覚悟のないファンを撃つと決めたのは、京アニ、お前たちだ。
罪を犯して罪を償うのは、当然のことです。では、犯罪者から命を奪えば、彼(ないしは彼女)は「罪を償った」ことになるのですか?
それで「イイキモチ」になるのは、ハッキリ言えば事件に関係のない第三者だけではないですか? いい気味だ、ざまあみろ、自業自得だ、正義は為された。…etc。そんなことで、被害者の心は本当に癒されるのでしょうか?
大阪教育大附属の児童殺傷事件の犯人、宅間守は、「死にたかったが自殺する勇気がなかった」「死刑になれる相手なら誰を殺してもよかった」「子供をねらったのは殺しやすかったから」そして、死刑判決が出て、遺族に何か言うことがあるか、と聞かれ「あの世でもう一回お前らの子供を○してやるわケッケッケッ」…という趣旨の発言をしたそうです。
こういう人間をただ殺して、それで遺族は本当に心が癒されたと思いますか?
日本社会では、問題が起こると、当事者が「責任をとって辞職」したりします。しかし、それは本当に「責任を取った」ことになるのでしょうか。
特に、事故など、今後の対応が重く、長く、苦しい、果てしないものになることが想定されるとき、そんな対応から逃げ出したくなっても無理ありません。そんなとき、「辞職したから責任取った」と得意気に言われると、むしろ殺意が湧きませんか? それはむしろ「無責任」の一形態に過ぎないのではないでしょうか。
私が死刑などやめた方がいい、と思うのは、それが無意味だからです。本当の意味で「罪を償わせる」ためには、生かして、生かして、長生きさせて、どんなに苦しくても一生をかけて自分のやったことと向き合わせる。「償う」などということが実際に可能であるか否か、それは分かりません。しかし「罪を償う」などということが、もしできるのだとしたら、そういう地道で苦しいやり方の中にしかあり得ないと思うからです。
よく主張される「死刑は見せしめとして役に立つ」という意見。ですが、これまで死刑が廃止になった国で、凶悪犯罪が増大したというデータはないので(むしろその逆です)これは否定されます(※)。死刑に「犯罪抑止効果がある」という意見にはエビデンスがない。また、死刑には、受刑者本人に対する教育的役割(刑を受けることで、罪悪感を感じ、社会復帰への道が開ける)がないことは明らかであり、経済効果についても、無期刑に比べてコストが安いということも無いのです(人を監禁して殺す、というのは簡単なことではありません。そのための特別の施設、管理者、担当者、手続き……様々に膨大なお金がかかっています)。
更に、よく言われることですが、死刑は不可逆であるというその性質から、冤罪が発生したときに取り返しのつかないことが起こりかねない、もっと言えば、取り返しがつかないだけに「『取り返さないでおこう』という圧力が発生する」という危険も指摘できます。
死刑制度には、合理的に見ればこれだけの問題があり、普通に考えればむしろ「無くす」のが当然の立場なわけです。ご理解いただけたでしょうか?
それでは、次の問題。これだけ問題のある死刑制度が、アジア圏で根強く残るのはなぜなのか? これを考えてみたいと思います。
死刑を残す国々(日、韓、中など)は、どれも同程度に人権意識が低いのでしょうか? これらの国々は、民主主義的にみせていても、その実、全体主義的な管理社会だからなのでしょうか?
…
いろいろな理由は考えられますが、私は、これらの社会が、依然として「家、一族」を基盤とする封建制社会の気風を残しているからではないかと考えています。
「家、一族」を基盤とする封建制社会は、「個人」に対する毀損を、「一家、一族」に対する毀損と見なします。「個人」を基盤とする社会にも、もちろん特定の個人との絆からくる個人的な「復讐」は発生するわけですが、「家、一族」を基盤とする社会では、「個人」に対する毀損が「家、一族」あげての「復讐」、つまり「敵討ち」を引き起こしかねない。だから、これらの国家で秩序を保つためには、国民が勝手に「敵討ち」をしないようにする…つまり「公権力による敵討ち代行」を、制度として保証するしかない。それが、これらの国における「死刑制度」の意味なのではないか。
「日、韓、中」が、近代社会における刑罰としての「死刑」制度に合理性がないと分かっていながら、その廃止に踏み切れない理由は、これらの社会がもつ潜在的な「敵討ち」の論理のせいであり、これらの国で国民に死刑が支持されているのは、依然としてこの国の人々が「敵討ち」大好きだからなのではないか、と思っています。
従って、核家族化が進行し、家族関係が欧米化していけば、いずれは日本でも、死刑は廃止されるのではないでしょうか。ごく自然の流れとして。そうなっても不思議はない、と私は考えています。少なくとも、死刑を廃止した国々が「人の命を軽んじている」わけでも、「罪を償わせるシステムをもたない」わけでも、被害者を軽んじているわけでもない、ということさえ理解していれば、死刑廃止論というのを、まるで非現実的な論のように批判するのがおかしいことは、理解できるはず。そこで考えるべきなのは、「なぜ他の多くの国と違って、これらの国では死刑がなくせないのか」です。
(6)終わりに
死刑廃止論を感情論だと決めつけて、叩く。そういうのを「案山子論法」と言います。相手の実体でなく、自分が勝手に想定した案山子のような無力な「敵」を相手に、(自分の中では)華麗にワン・ツーを繰り出し、ノックアウトする。気持ちいいかもしれませんが、それはただのオナニーです。
死刑廃止論を批判するなら、もう少し死刑や法律、社会に関する勉強をしてからにした方がいいと思います。
追記
※参考:抑止効果という神話 http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20070901/1188667970
発展途上国で言えば、インフラ整備のためだ。日本だって鉄道を引いたし、スポーツ設備を作った。
新幹線は今でも役に立ってるだろ。モチベーションを上げる。という意味では役に立つし。
観光客を呼べる。
アメリカに関して言えば、スポーツが好きだし、消費の国だからな。ガス抜きは必要だし。
第一、実力主義で、資本主義のアメリカが、採算を考えてないわけがない。
バカなんじゃなくて、スポーツで採算をとることが上手いのがアメリカ。もっとも大借金に悩んでいるのも事実だがそれでもアメリカAs No1であることも事実。
首都高なんかの整備は必要だが、それは、純然と計画的にやるべきものであって、オリンピック予算でやるものじゃない。
次に、日本のスポーツはアメリカほど採算に乗せているわけじゃない。
それに何より、海外がバカなんじゃなくて、日本の公共事業費の使い方が問題で、 高速道路の天井が整備不良でおっこってくるような事態を引き起こしておいて
大規模公共事業投資って言われても トンネルの天井が整備不良でおっこってくるような事態をひここす様な組織のまま、大規模公共事業投資をしたいって本気か?
っていうのは間違ってるか? トンネルの天井が整備不良で落ちてきたんだぞ? 整備不良だぞ? 大規模公共事業を本当に『仕切れる』のか?ってのは不安になるだろ。
何をやるにしても、タイミングが悪すぎる。不安になるのも当然じゃね? 返すがえすも、祭りを成功させて欲しくて苦言を弄するわけだが・・・
そんなに大きな罪じゃないと思う。
あのまとめのコメント欄をながめてもはてブのコメントを眺めても全然建設的な議論になってない。
まあこれは程度問題で白か黒かで結論が出る話だとも思わなかったけど、それでも佐々木さんの発言はひどかったとおもう。
「吹聴するのがなんでいけないの?」
「そんな事を気にするくらいならなぜ中国野菜を使った弁当を食べられるの?」
他にもっと悪い事があるからこっちはええやん、という言い方は理性的ではないし反感も招くのは当然。
こういう言い方を変えれば話の流れも少しはかわったのに、と思ってます。
実際佐々木さんに否定的な意見をもったひとでも、あのアイスクリームをまちがえて食べたからって健康に影響が出るとか、
そういうふうに考えてる人は少ないと思うし、言いたかったのはそこじゃないと思う。
Togetterのコメントでも多かったけど、「俺も昔は悪かった、若いときはみんなそうだろう、通過儀礼じゃないか、なぜ寛容になれないんだ」
的な物言いに反感を抱いた人がいたんじゃないだろうか。
自分もそんな偉そうなことを言えるような倫理的な人間じゃないけど、でも能動的に人の迷惑をかけるような行動はしてこなかったつもり。
だからといってむかしバカやった人の事を責めてるんじゃなくて、でも過去の自分のバカを少しは反省してるようでないとこっちはイラつく、てのが正直なところ。
昔バカやった人が今一丁前の大人になって分別ありげに「こんな息苦しい社会じゃだめだ、寛容さはどこへ行った」ていうのは簡単だけどね、
その「バカ」「ヤンチャ」のかげで汗を流している人のことは忘れたらいけないと思う。
「ウェーイ」て居酒屋で騒いでグラス割ったりこぼしたり駅でゲロ吐いたり、どんだけいい思い出か知らないが、それを陰で片付けてる人は必ずいる。
壁にかかれた落書きのスプレーを必死で消してる人もいるだろう。チャリンコ盗まれて困った思いをしてる人も多いだろう。
佐々木さんの一連のツイートからはそっち方面への想像力が感じられなかったなぁ。
「昨今の倫理を過剰に求めすぎる社会は」とか、悦に入って論じてるひと、言葉だけ聞けばそれは全く正論だけど、倫理や規範は厳然としてあるんだよ、
そこをふまえた上ではじめて、「ゆるそうや、固い事いうなよ」、ていう話が出てくるんじゃないの?逸脱する為にはその元となる規範がいると思う。
実際に「社会」を成り立たせてるのは、黙々と道のタバコのポイ捨てを拾ってる人とか、理不尽に客に絡まれる駅員さんとか、そういう地道な人の営みなんじゃないの?
そこに目を向けずに「昨今の社会は」とか能書きたれられてる様な気がして、その「寛容」論は、違うやろう。という気になる。
で、そういう人の営みに敬意も何も抱いてないから、ああいう写真をアップする輩が出るんでしょう?
彼らは別に冷蔵庫に入る事が主目的じゃないよね、SNSにアップして注目を浴びたい、承認欲求を満たしたいからでしょう?
これは別に今に始まった事じゃなくて、海水浴場で監視員の制止を振り切って高い岩場から飛び込む若者とか、ある種普遍的な事ですよね。
そしてそれを自らネット上にあげる。それを見かけた我々がそれに対して「否。」ということがそんなに悪い事だとは思わないんだけど。
時にはそれがすごい数の否定が突きつけられるかもしれない、でもそれが社会的に間違った行為なら、それを指摘するのは間違っているとは、おもえない。
そこで悪い事を悪いと言わない事が寛容さでは、ないと思う。そしてそれは、「その店の関係者でも直接的な客でもないのに言う資格がない」
という話でもないと思う。だって彼らはアイスやピザを汚して、客に売りつけようとしてやった行為ではないのだから。
もっと普遍的な、人の仕事の、社会の営みの重さを知らずに、いちびりが賞賛を得られると思って世に吹聴する、という行為を目の当たりにして、
それは違うと意見表明するのはそのコンビニやピザ屋の客であるかどうかは、さして重要ではないのでは?
だってかれらは、SNSを通じて、我々の目に届けてしまったのだから。そして我々もそのコンビニに行かずとも、意見を表明する場を得てしまったのだから。
ネットにあげられる前なら、その店の上司が、社内規定をまげて温情で彼らをゆるす、ていうのはあるだろう。
そういうのは今までも、現在もよくある話なんだと思う。それを否定する気は全然ない。
その上司なりが自分の責任の範囲において規範をちょっと逸脱させて部下を許す、そういうのが「寛容さ」ではないのかな。
ただ彼らはいきなりそれをネットにあげてしまって、ローカルな問題をグローバルな問題にしてしまった。
ローカルでは逸脱できる規範も、グローバルではそういう訳にもいかない。規範をすべて壊してしまう訳にはいかないから。
ルーターがサブネットマスクを設定するように、身内と世間でルールを使い分ける、こういうタテマエ論が社会の規範を守ってきたのではないのかな。
今までは一つの出来事でドミノが一つ倒れるだけだったのが、今では一気に100個も1000個も倒れちゃう時代なんだと思う。
佐々木さんは最初のドミノを倒す人の事は放っておいて、末端のドミノに踏ん張れ、倒れるな、って言ってる印象なんだよなあ。
こういう事件があった時、我々はその商品を買う消費者であり、事件を起こした企業の一員であり、同時にネット上の傍観者であり得る。
無責任にならない為には、いろんな立場を考えて行動、発言しないといけないとは思うけど、事件を引き起こした彼らの立場は、いちばん共感し難い位置にあるのは確か。それに対して「俺も若いときは悪かった」てな事で共感はできないし、それができる人間にも共感したくない。
彼らの事をネット上で非難する人達は、決して安全なところから暇つぶしに言ってるんじゃなくて、
消費者としての自分、当事者の企業の一員になった自分を想像するからこそ、否定的な意見が出るんだと思う。
もちろんそれでネットによる過剰な叩きを肯定するわけにはいかないんだけど、でもやっぱり「悪い事は悪い」。
日記を書くきっかけははてなに次のエントリーが飛び込んできたこと。
Wikipediaの「化学物質過敏症」の記事から、「化学物質過敏症に関する議論」の節が削除され、記事に「懐疑的意見が存在する」という事実(査読論文が出展)が消されてしまったようなのである。あらら…
私は、「化学物質は身体に甚大な悪影響を引き起こし得る」ことを否定するつもり毛頭ない。当たり前だ。
ほんの僅かでも「化学物質」(種類は問わない)が存在すれば、それは悪影響を及ぼすだろう、という過激な過敏症理論を批判したい。(洗剤の残りカスとか、濃度測定済みの建材とか)
また、高濃度の化学物質による身体影響は、「化学物質過敏症」という曖昧な病名ではなく、もっと正確な記述でないと治療の妨げになるだろう。
まず、過敏症の話の前に、疑似科学の代表として「ホメオパシー」について語らせて頂きたい。
「ホメオパシー理論」の問題点を明らかにした上で、“一部の”過激な過敏症理論がこれと似た点を持つことを示すことで、これを批判したい。
健康食品や特殊医療は数あれど、ホメオパシーほど現代科学に真っ向から対立している治療法はなかなか無いと思う。
ホメオパシーは、アレルギーなどに対し、病原物質の10倍希釈を30回繰り返したものを作り、これを服用することで、その物質に耐性が付けるというものである。
だが、10倍希釈を30回繰り返すと、コップ1杯に存在する原因物質の量は分子1個程度または0個である。
つまり、「ホメオパシーに効能がある」というのは、「病原物質の分子の個数がほとんどど0個の水溶液を飲むことに効果がある」ということを示し、『病気の原因が分子・原子に還元されない何か』に由来することを認めることなのである。
現代科学が『何か』の存在を見落としているという可能性が絶対に無いとは言えない。(例えば、18世紀末まで、科学者は空気中に二酸化炭素より多く存在する成分(アルゴン)が存在することを見落としていた。)
しかし、そんなことを言い出したら、幽霊だの怨念だのと言ったオカルトでさえ否定できなくなる。(幽霊だって存在する“証拠”はあるのだ。例えば、心霊写真など。)
この点でホメオパシーは、コラーゲン健康食品やゲルマニウムなど「有意性が無い」という実験結果によって疑似科学だと結論付けれる例とは、明らかに異なっている。(コラーゲンやゲルマニウムは、これを否定する実験結果に対して、ちゃんとした実験結果付きの反論を持ってこない。)
(仮に、実験でホメオパシーの有効性(心理効果を除く)が確認されたら大事件である。世界中の教科書を書き直すだけでは済まない事態になるだろう。)
私は「化学物質過敏症」の研究自体を疑似科学だとは思っていない。もっと正確な記述をするべきだと思うが…
それでも、一部の理論ではホメオパシーに類似したものがあるのだ。
“一部の”化学物質過敏症、機械で測定できないレベルの微量物質が原因となっている「病気」を引き起こす、というそれである。
引っ越しして新生活が始まったけど、体の調子がどうも悪い。それならば、シックハウスを疑ってみるのは良いことだろう。
信用ある業者に環境濃度測定をやってもらおう。
結果、濃度が高かったら、不調の原因はシックハウスである可能性が高い。
そうでなかったら、体の調子の悪い原因は、化学物質ではない。日射環境や食生活など別の可能性をあたってみるべきだ。
ちなみに。ホメオパシーが「病原の分子の1個程度を摂取するのは体に良い」と言ってるのに対し、過激な過敏症理論は「病原の分子の僅かでも摂取するのは体に悪い」と言っている。
だから、このホメオパシーと“一部の”過激な過敏症理論は、互いに対立し合っている理論である。
間違っても、化学物質過敏症の治療にホメオパシーに頼ったりしないようにしよう。いや、これに限らず、ホメオパシーを頼ってはいけないのだけど
「嘘も方便」という言葉は好きだったけれど、
相手にとって悪くないよう嘘をつき続けることは精神衛生上よくなかった。
最初は、よかった。
嘘をつくことで、話がこじれず円滑に進むことを知った。
嘘により相手を安心させることもできた。
嘘は便利だった。嘘は簡単だった。
そのうち、苦しくなってきた。
嘘をつくことは、衝突を避ける楽な道を選ぶことだったから、
一旦その道を選ぶともう元に戻すことは難しかった。
さらに、一度ついた嘘は、つき通さねばならない。
気がつけば、相手に対して反射的に嘘をつくようになっていた。
相手の喜ぶツボに合わせて嘘をついていた。
嘘は楽だった。けれど、嘘は同時に心苦しさも生み出した。
私は、相手にとって都合のいい人ではなかった。
しかし、一緒にいるためには、相手にとって都合をよくするには、
嘘をつくしかなかった。
「嘘も方便」だと自分に言い聞かせていたが、やはり嘘はよくない。
私は自ら自分の首を締めていった。
あの時、嘘をつかなければ良かったのか?
…否、嘘がなければ、衝突は避けられなかったし、
いずれ別の問題を引き起こしていたに違いない。
相手は特に何も感じていなかっただろう、しかし私は限界だった。
嘘をつくことに疲れてしまった。
嘘の結果、待っていたのは別れだった。
嘘は最後までつき通し、
嘘の関係に別れを告げた。
私は誤っていたのだろうか?
嘘をつく他に道はなかったのだろうか?
…楽な道を選ぶ限りはこうなっていたのだろう。
仕方のないことだった。今はそう思うしかない。