はてなキーワード: 少年漫画とは
世間話をしよう。
今日では、男性嫌悪なおばちゃんが何かと槍玉に挙げられる。こんなの↓(見なくてよい)
https://twitter.com/kobayashigiriko/status/826378866646081537
これは「女性嫌悪がネットにもいっぱいあるから、男が嫌いにもなる」と読める。なるほどワシも男じゃ。正直、スマンカッタ。
ちょっと昔の、2000年代的なネットの負の側面は加藤智大に象徴されると思われる。(※加藤智大は2008年の秋葉原通り魔事件の犯人。この事件で加藤は17人を負傷させ、うち7名が死亡した)
結果が出ないからなにもしなくなる
まずそれに気付きましょう
そして受け入れましょう
顔だよ顔
全て顔
とにかく顔
顔、顔、顔、顔、顔
……00年代のネットでは「非リア(友達が一人もいない人々)」がまだ目立っていて「リア充(話し相手が一人はいる恵まれたヤツラ)」への、どす黒い感情が渦巻いていた(※アンサイクロペディアの該当ページぐらいにしか名残がないけど本来、非リアは完全に孤立した人間の意)
ちょっと昔のネットの中には、こんなへんないきものが、どうもいたらしいのです。ブサイクで、ハゲで、チビで、デブで、ガリガリで、友達が一人もいなくて、家族からも疎まれている。おっさん? おっさんかも。
つまり、みんな非リアのことを忘れちまったのです。
どうしてネットで女性が「マンコ」「ま〜ん(笑)」と呼ばれたか。友達が一人もいない男にとって、女性は全く接点がなくて人間ではなかった。人間以上のもの、人間未満のもの。幸福や社会や抑圧や差別の象徴だった。
ちょっと前までネットの女性蔑視は弱者の声だった。素直な感情だった。
今となってはネット人口が急増したことも気づかない。「リア充爆発しろ」「他人の不幸でメシがうまい」は死語で、非リアの原義も忘れ去られた。普通の人がネットをするようになった。
そうすると素直な感情論でおばちゃんが「女性蔑視はひどい! 男性嫌悪にもなるわ」と言う。男性保育士にザワザワして少年漫画にザワザワして巨乳とか童顔のオタク・アートにザワザワしたりする。
言わせてくれ。2ちゃんねるが始まってから我々は全く進歩していない!
男性嫌悪も女性嫌悪も否定されるものじゃない。どれも弱者の声、どれも素直な感情かもしれない。
でもこれ、結局はカウンターカルチャーですよね? 正義ではないよね?
別に男女の話だけじゃなく。政治にしても。北方領土どうにもならないから反露親米になったり沖縄基地どうにもならないから反米親中親韓になったり。左翼にしても右翼にしても。ただの反発なのではなかろうか?
ネットやってると「四月入社の新社員にアドバイス」とかいう、どうでもいい内容がアクセス数を稼ぐわけですよ。あたかも会社が絶対悪みたいな。みんなはヒラ社員だから長時間労働がヤバいとか会社はキツいしか感想がないんだろうけど、経営陣もツラいからね? アレな社員もいるからね?
育児の話題になったら親を叩いとけば無難みたいな。毒親とか言ってる割にみんなみんな毒子じゃろ。きいつけや。「育児は大変」と「子供は最高」は両立できるんやで。子供がテストで0点取ってきた時の正解なんてないからの。
最初の三行だけ読んで脊髄反射でレスくれるんだろうなって分かってます。つまりそれなんだよ、ネットの性格ってさ。
(※ネトウヨが2ちゃんねる発祥とか、アメリカのトランプやフランスのルペンがネット的な風潮から誕生したんではなかろうかとかは、あまりにも安直なのでカットしました)
(※昔のネットには負の側面ばかりじゃなくてアスキーアートのような、創造的な、人生楽しくなかろうがどんちゃん騒ぎで祭りじゃワショーイ的なムーブメントがあった。ヌクモリティのガイドラインを読め。ネット出身の漫画家の作品が死ぬほどアニメ化されてんだろ! ネットが好きだ! 俺の想いよネットへ届け!! ハルケギニアのネットへ届け)
なんかベイマックスの時もこういうノリの人多かった気がする
んでポリコレに縛られててうぜえとか言い出すのが出て来るのも定番だが
ディズニーが恋愛入れなかったり、一見女児向けなのに内容を少年漫画風味にするのは
恋愛を入れると子供にウケなかったり親に嫌がられる(男児は勿論幼い女児もオッサンが思っている程は恋愛に興味ないし
親も恋愛に興味ない娘にわざわざ女=恋愛脳と言う刷り込みをさせたくないと考える人は多い)
&女主人公ものだろうと男児もターゲットにしているから、ってだけなんだけどね
あまりに凄すぎたので、とにかくこのホットな感動を伝えたいという衝動に突き動かされて今これを書いている。
もう本当に凄い。
クオリティという意味でもそうだし、面白さという意味でもそうであるし、何かもうこの映画の全てを総合して凄いとしか表現しようがない。
もう色々な人に出来る限り観に行って欲しいくらいに素晴らしい映画なのだが、その中でも特にオタク達に観に行って欲しいのだ、この映画を。
何故ならこの映画は普段のディズニーアニメのメインターゲット層であるお子様達よりも、素敵なお姫様と王子様とのラブストーリーに憧れる少女達よりも、大人になってもディズニーラブなお姉様方よりも、それらのどの層よりも、何より冒険と戦いと伝説の勇者にいまだに憧れる馬鹿野郎共にこそ深々と心にぶっ刺さる熱い熱い熱い映画であるのだから。
そう、この映画は大いに感動も出来るし、ハートフルな気持ちにもなれるという普段のディズニーの看板を全く偽ることなく、果てしなく広がる海を旅する冒険と、心を奮わせる激しい戦いと、熱き血潮と筋肉と入れ墨をも同時に詰め込んだスーパーマッチョアクション巨編なのである。
しかしこのまま熱く内容についても語り尽くしたいところではあるのだが、まだ公開して一週間も経っていない今そこまでネタバレしてしまうのは気が引けてしまう。
何よりこれを書いている目的はより多くの人にモアナを見て欲しいという気持ちからであるからして、そんな未視聴の人達から初見の感動を奪ってしまうのも忍びない。
なので、大筋のネタバレを避けつつ「モアナと伝説の海」という作品の魅力をいくつかピックアップして紹介していきたい。
1.ストーリーがいい
すでに巷では海のマッドマックスだのワイルドスピードだのと評判であるが、まずモアナは決してそんなインパクト重視な部分だけの映画ではないことを強く主張したい。
確かに途中から明らかにマッドマックスだし、終盤のセーリングバトルはまさしくワイルドスピードである。
そういう面がモアナのわかりやすくキャッチーな面白さであることは否定しないが、それらに劣らぬ魅力がそんな荒唐無稽な描写を単なるパロディやギャグで終わらせない骨太なストーリー展開にある。
序盤の展開を少しネタバレしてしまうことになるが、ここで軽くその一端を語らせて欲しい。
・村長である両親や周囲の期待に応え、村を継ぐという自分の将来がすでに決まってしまっている少女・モアナ。
・しかし同時に彼女は小さい頃から抱き続ける、海を越えて旅することへの憧れを捨てきれずにいた――。
ここまではディズニーでよくある抑圧されたプリンセスという構図であるが、モアナはここからが少し、いやかなりいつもと違う。
・しかし、村長の娘として過ごす内に、彼女が暮らす島には徐々に異変が現れ始める。
・島の命が涸れていく――。
・異変の原因は、今も口伝で伝わる神話の昔に起きたある伝説に原因があった。
・伝説は嘘ではない。海へ出ることを夢見るモアナの唯一の味方である祖母は、島に危機が訪れた今こそ彼女に真実を語る。
・島の先祖達の真なる歴史、そして島の中のとある場所に封印された船達。そして幼少の頃より海に選ばれし者であった自分の運命。
・島に、いやこの世界全てに危機が迫る今こそ、少女は己の運命と先祖から受け継いだ血に突き動かされて、封印された船を駆り、世界を救う旅へと出発する――!
そう、もう完全に少年漫画なのだ。ジャンプに連載されていても違和感がないほどに完全に少年漫画なのである。
何だったら船をロボットに置き換えても通じる。
飄々とした老人が語る真実。選ばれし血筋と運命。島に封印された兵器で世界を救う旅に出る少女。
まさしくロボットアニメ文法そのまんまである。そんな作品を見てみたいと思わないオタクがいるだろうか。
俺は見たい。そして実際に見た。凄い。この序盤以降も、もう本当に自分が望むままの血湧き肉躍る冒険活劇が繰り広げられるのである。
この時代にガッチリと、一分の隙も無く見事な、全く伝統的でブレることなく王道を真っ直ぐ突き進む冒険活劇が見られるのだ。
それこそが、そんなストーリーこそがモアナ最大の魅力であると、自分はまず自信を持ってオススメしたい。
そして二つ目のポイントもそのストーリーに掛かってくる部分なのであるが、「この映画は全くラブストーリーではない」というところをそれとして挙げたい。
そうは言ってもディズニーで、一応プリンセスが主人公なんだぜ? ラブストーリーじゃないなんてことあるの?、と思われるかもしれない。
自分のようにモテない独身男が一人で観に行っても全く闇を抱えることがない程に、清々しいくらいにラブストーリー要素は一切ないのである。(一応カップリング的なものはあるが、あくまでファンの受け取り方次第である)
前年度のディズニー映画「ズートピア」も恋愛関係というよりはバディものに近い関係性であったが、モアナはそれよりも更にバディもの、なんだったら師弟もののような関係性となっている。
一応に一応を重ねて今作のプリンス的立ち位置であるマウイというキャラクターは存在するし、彼と二人でモアナは旅をすることになるのだが、映画全編通して二人の間には一切恋愛を匂わせるような心の交流は存在しない。
しかしだからと言って二人の関係が薄いということは全くなく、冒険を通じてモアナという少女とマウイという英雄の間には友情のような、あるいは兄妹のような、あるいは師弟のような、固い固い絆が結ばれることになる。
そしてそこに恋愛というモチーフが一切入ってこないというのが、本当に爽やかで気持ちよく思えるのである。
恋愛的感情の一切無い男女のコンビというと「シュガーラッシュ」の例も存在するが、デフォルメの効いたキャラクター同士であるあちらよりも一人の人間としての形を色濃くデザインされた男女二人が恋には落ちないモアナはより珍しく映るだろう。
そしてそんな関係の二人だからこそ、シンプルに恋愛だけでない複雑な魂の結びつきを感じる余地も生まれ、キャラクターとしての奥行きを生み出しているようにも感じられるのだ。
独身男の心を傷つけない優しさという点だけではなく、そういう作品的な深みを生んでいる意味としても、ラブストーリーでないということはかなりオススメ出来る点であると個人的には考えている。
3.単純な悪役のいる物語ではない
これまたストーリーに掛かっているポイントであるが、個人的にもこのポイントは独立したものとして強く推したかったので語らせて欲しい。
さて、ディズニー映画と言えば必ずわかりやすいヴィラン(悪役)がいるというのが御約束である。
時には極悪非道、時にはコミカルで憎めない、そんな多種多様なヴィランがディズニー映画には登場するのだが、彼らはまた必ず物語の最後には主人公達に打倒されるものでもある。
単純な小悪党というパターンも多いが、彼らは多かれ少なかれ作品内の歪みを体現した存在でもあり、彼らが単純に倒されるだけでいいのだろうかというモヤモヤを残していったりもする。
それをして作品に奥行きと考察の余地を与えたり、現代における社会問題を反映させた構図としてみせたりするのがディズニー映画の一つの魅力ではある。
それは個人的にも長所ではあるとも思うのだが、やはり作品を見終えた後でいくらかの引っ掛かりや疑問を抱えたままになるし、それがあまり気持ちのいい感情ではないことも否定は出来ないだろう。
しかし、今回のモアナにはそれが一切存在しなかった(と、個人的には感じている)。
単純に歪みと闇を抱え、倒されるだけのヴィランというものが存在しないのである。
確かにモアナの冒険の途中には、モアナ達を狙う敵達が登場したりはする。
しかし、いずれも己の信念、というよりは生き方に基づいて立ち塞がるのであり、憎み合う敵というよりは障害物に近いものとなっている。
そしてその全てが憎めなくてどこか面白い、魅力のあるキャラクター達となっているのだ。
だからと言って、モアナという作品がそんなただ優しいだけの世界を描き、テーマ性の薄いものになっているのかというとそんなことも一切ない。
作品のテーマは最後まで一本筋の通ったものが存在しているし、それは様々なことを深く考えさせられるものである。
モアナを取り囲む世界も優しさに満ちていることは否定しないが、時にどうしようもない厳しさというのも十分に描かれている。
そして、この世界におけるこれまでのようなヴィランが体現する歪みというものは、モアナとマウイを含む全ての人物が己の心の中に持っているものとされている。
モアナとマウイは冒険を通じて自分の歪みと向き合うことでそれを打倒し、誰にも押しつけることなくそれを昇華する。
だからこそ、明確なヴィランの存在しない物語というものが存在し得るのである。
そして、そんな物語の迎える結末というものが、もう本当に、涙が出るほど清々しく、爽やかな気分にさせてくれるのだ。
何の引っ掛かりも疑問もなく、ただただ爽快感だけを残してモアナという作品は終わってくれるのである。
単純なハッピーエンドではなく、みんながこれからも考え続けていかなければならない。確かにそういう作品は大事だし、素晴らしいこともわかる。
しかし、たまにはここまで気持ちよく、優しい世界を描いた作品を讃えるのもいいではないか。
さらに加えてこの作品はプリンセスの不遇を描くに辺り、誰かしらや何かしらからの悪意が存在したりしないことも個人的には素晴らしいと思っている。
物語の序盤のモアナは抑圧された状況下にあることは確かなのだが、それは全て優しさと正当な理由があってのことなのである。
だからこそ、モアナの旅立ちのシーンが本当に胸を打つものになっている。
そしてそれはプリンセスの生い立ちや状況だけでなく、マウイという存在や行く手を阻む様々な困難の全てに単純な意地悪や悪意だけで構成されているものがない。
そういった部分も、この作品の優しさと爽やかさと気持ちの良さを支えているように思う。
作為的な悪というものが存在しない点。それもまたこの作品における重要なオススメポイントとさせていただきたい。
これについては今更自分のような者が語ることはないほど周知されていることだとは思うのだが、それでも今一度ここではモアナの魅力としてオススメさせて欲しい。
そして透き通るような美しさを持ちつつも精巧な絵画のように鮮やかな色をも見せ、生き物のようにうねる、これがアニメーションで可能なのかと驚愕しきりの海の表現。
愛くるしくも時に凜々しいキャラクター達の活き活きとした表情と動き。
そして何より激しいアクション! グリグリと動きまくる格闘戦! ド迫力な神と英雄のバトル! 躍動する筋肉! 精緻な美術設定によって作られた変態改造船舶!
もう枚挙に暇がないし言葉も足りない程に美しくて活気に満ち溢れた、そして過激かつマッチョなモアナの世界がスクリーンの向こうには広がっているのだ。
なのでこれはもう是非ともディスク化を待たずに劇場へ足を運んで、ドデカいスクリーンでこの映像美を拝んでいただきたい。
そのマッチョでマッハなアクションにはとてつもなく興奮することは間違いないし、そのあまりに美しい世界観に感動することもまた間違いがない。
特に予告編でも一部見ることが出来る夜の海を光る船団が行くシーンは本当に、本当に美しすぎて溜息が出るので絶対に劇場で見て欲しい。
そして海のマッドマックスと呼ばれる所以たるシーンも併せて是非。いや、マジでスゲーのよ。
5.挿入歌の使い方が最高
これもまあ今更自分が語るようなことではないと思うのだが、それでもあまりに感動したので書かせて貰いたい。
劇中歌の強さで天下を取ったディズニー作品と言えば「アナと雪の女王」が記憶に新しいが、個人的にはモアナのそれはアナ雪に勝るとも劣らぬ力があると感じた。
その上で、更にアナ雪よりも強いモアナの要素として劇中歌が挿入されるタイミングがとにかく最高ということが個人的には挙げられると思っている。
アナ雪で一番有名かつ作品のテーマソングともなっている「Let It Go」であるが、実は劇中での使用は一度のみなのである。
それもエルサが城から逃げ出して自身の能力で氷の城を作り上げるという、映像的には圧巻の美しいシーンではあるのだがタイミングとしてはいまいちカタルシスを感じていいのか微妙な部分で使用される楽曲であった。
対してモアナにおけるメインテーマソングである「How Far I'll Go」は、作中で数回に渡って使用される。
そして、それは主人公であるモアナが悩む時、壁にぶつかった時に、己を慰めるように、あるいは鼓舞するかのように歌い上げるのだ。
この劇中歌の流れるタイミングと、ストーリー的なカタルシスの一致がとにかく素晴らしいのである。素晴らしいシンクロ具合を見せてくれるのだ。
そしてこのテーマソングが一度ならず幾度も使用されるというのもありがたい。
作中のシーンに合わせて幾つもの曲を書き下ろすディズニーにしては珍しいしそこを欠点に感じる人もいるかもしれないが、一つの曲を大事に使ってくれる今回の方が個人的にはより好みであった。
そして何より言うまでも無いこの「How Far I'll Go」という楽曲自体の素晴らしさ。
切なくも力強いこの曲のサビの部分は、何度も使用されてこの歌を覚えていくことで作品の後半に進む程により心を震わされ、感動させられる作りになっているように思える。
更にモアナ役の吹き替え声優である屋比久知奈さんの歌声もこれまた最高で、これがあってこそと思えるものであり、この歌声と曲が合わさる相乗効果は本当に言葉にならない。
そして無論、「How Far I'll Go」以外にもモアナには素晴らしい劇中歌の数々が存在しているし、それらの使い方も言うまでもなく素晴らしい。
特に「We Know The Way」という曲はこれまた複数回使用される曲なのだが、映像と力強いメロディーとを合わせて自分の中の冒険心というものをこれでもかとかき立てられる素晴らしい曲であった。
とまあ、とにかくモアナの劇中歌は「曲自体の素晴らしさ」、「それが使用されるタイミング」、「その曲を覚える程繰り返し使用してくれる演出」と三拍子揃ってとてつもない感動を与えてくれるものとなっているのだ。
そしてそれを劇場の迫力ある音響で堪能出来る至福といったらもう、是非とも映画館に足を運んで味わって貰いたい。それ程大きなオススメポイントである。というかモアナでも極上爆音上映とかないですかね……。
さて、以上が自分のモアナという作品で素晴らしいと感じたポイントであり、オタク達にオススメするポイントである。
いかがだろうか、正直書いてる内に止まらなくなって自分でもちょっと引くほど長くなってしまったが、それくらい情熱に任せて書いてしまえる程モアナという作品は面白かったのだ。
なので、これを読んで少しでも食指を動かされた人には、本当に是非、すぐにでも劇場で観ていただきたい。
というか今すぐ観よう、今日のレイトショーで観よう、明日のレイトショーでもいい、休日は言うまでもなくモアナで予定を埋めよう。
誰に何を言われたからでも、観覧特典のような配布があるわけでも、ディズニーから金を貰ったからというわけでもない。
ただただあの優しくも熱い冒険の世界をまた味わいに行きたいからである。
そしてこれを読んでいる皆様にも、是非ともそれを味わっていただきたい。
純粋にそう願いながら、この文章をようやくここで終わらせることにしよう。
いや、やはり最後にもう一度。
…
……
………
…………
……さて。おまけで、かなりネタバレになってしまうがもう一つのオススメポイントを書き残しておきたい。
6.特殊性癖
巨女こそが女神の姿であり、自然であり、豊かな緑であり、巨女が島となり、大地となり、命を生む!
この映画は紛れもなく巨女信仰映画であり、子供達に巨女属性を幼い頃より刷り込ませ、更に一般的認知をも拡大せんとする目的で作られた映画であることは間違いがないだろう。
ちょっと前に、「ラブライブ!」が某バラエティで紹介され、ライブシーンのVTRが流されているときに、ワイプに写っていた芸人が「これ少女マンガ?」とつぶやいていたのが気になった。
私自身も、田舎に行ったとき家から持って行った「ぱにぽに」を読んでいたら祖父から「お前、男なのに少女マンガ読んでいるのか!情けない!」と言われたのを覚えている。
また、軽巡「矢矧」の生き残りであるハウステンボス経営者への雑誌の取材で、艦これの矢矧を見せたら、彼は「最近は女の子も船に興味を持ってくれてるんだね」的なことを言っていた
私のようなオタクからしたら、このような系コンテンツはどう見ても男性向けとしか思えないので、不思議だった。
中年以上には、萌え系コンテンツは女向けのように思われてしまうのだ。
でも最近ようやくわかった。彼らは男向けのコンテンツとは「巨人の星」や「あしたのジョー」みたいに、ほとんど男しか出てこないコンテンツと思っているのではないかと。
逆に女向けコンテンツも「アタックNo.1」、「エースをねらえ」のようなほとんど女しか出てこないコンテンツと思っているのではないかと。
逆なんだよなぁ・・。むしろ今では「女ばかり出ている」作品こそ男向け、「男ばかり出ている」作品こそ女向けなんですよ・・。もちろん例外はあるけどね。
女性向けソシャゲ市場であんさんぶるスターズ!の二匹目のドジョウを狙いたいソシャゲ会社ーーーーーー!!!!!!!!
まず絵をアニメ寄りのかわいいやつにしろーーーーーー!!!!!!!!
有名イラストレーターに頼むとネームバリューにファンがついてるけどその個性故に敬遠する客もいるぞーーーーーーーーーー!!!!!!!
乙女ゲーによくあるくどくて使い古された絵柄は乙女ゲーに抵抗のない客層にしか響かないぞーーーーーー!!!!!!!!
さっぱり目のそれこそ京アニとかに寄せたような絵柄にしろーーーーーーーー!!!!!
ガチャの単価を下げろーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!
乞食って言われそうだけど、一般的に女性の平均年収は男性の平均年収を下回ってるから、男性プレイヤーが主要顧客のアプリと同じくらいのガチャ単価に設定してるとそれだけでちょっと敷居がいんだと思う。
中にはじゃぶじゃぶお金をいれられる廃課金の女オタクももちろんいるけど、微課金層を取り込んでいきたいならガチャ単価は1万円で30連じゃなくて1万円で40連に調整するといいよ。
ちなみにあんさんぶるスターズは5400円でダイヤ360個買えるので、ダイヤ135個使う10連を2回回してもちょっとダイヤが手元に残るくらいの感覚だぞーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!これめちゃくちゃ絶妙だし課金への敷居さげて微課金層増やす要因になってると思うぞーーーーーーーーー!!!!!!!
あとピックアップガチャのピックアップ確率を上げろーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!
☆5とかURの排出テーブルにのってもほしくもないキャラの恒常高レアがきたところでドブはドブだーーーーーーーーーー!!!!!!
そこで絞るより最高レアのテーブルにのったら確実に限定カードが出るくらいの調整の方が女の財布の紐はゆるむぞーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!
あと乙女ゲーは女オタク至上ではニッチ市場な部類だから完全にオタク女を狙うなら無理にキャラクターとの恋愛を推さんでいいしキャラクター同志の関係性を描けーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!
腐女子の食いつくCPとかを狙わなくていいから普通に人間関係とかを描けーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!勝手に食いつくから少年漫画みたいな作風を目指せーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!
イケメン○○みたいな乙女ゲーっぽいのに食いついてる女性客と、女性オタクの客層は似て非なるものだと思うぞーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!
普通にあんスタageてガチャゆるめてほしい乞食のたわごとだと思われそうだけど、あんスタがどうして微課金層を幅広くつかんで女性向けアプリらしからぬ売上を維持しているかの理由は、プレイしてドはまりした自分や身の回りの経験から
・気軽にガチャに手を出しやすいガチャ単価・ガチャ内訳の設定と、イベントを走れば確実にもらえる☆5報酬の設定
・匂わせはあるけどがちがち恋愛要素絡めた乙女ゲーにしないキャラクターとプレイヤーの距離感
あたりがでかいのではと思っているという話で、ヒットしてそろそろ2年たつのにいまだに後追いゲーが出てこないのなんでだろうなあって不思議に思っている。
こういう価値観があると思う。
顕著な例では、運動部や体育会あたりでは、この思想が受け継がれているのではないか。
もちろん、スポーツに打ち込む人や身体を作りこまなければならない人たちは、食事の量が少なければなんにもならないのだから当然である。苦しくとも多量の食事をしなければならない世界がそこに形成される。つらくても沢山食べるというミッションを達成することによって価値が生じ、認められるのである。
そして、それを男性一般の価値として拡張してしまうときに、問題がでてくる。そのような問題は体育会系と呼ばれる職場ではハラスメントとなってよく起こるようだ。
かといって、では運動部や体育会的なものを排除すれば問題解決なのかというと、そういう話でもないように感じる。
少年漫画の主人公はよく食べるキャラが多い。大食漢という言葉もある。男子は食に対して量的に貪欲であるという表現は実に多い。
そしてそれは表現の世界ではなくてもそうであるように思う。量が少ないと満足できない、量が多ければ満足という食の接し方をしている男子はマジョリティを占めているようにみえる。それはおそらく成長期に身体が生理的に沢山のエネルギー摂取を欲しているために、しょうがないという側面がある。そして、少年たちは自分たちがそうであることについて、特に葛藤はなく、肯定的に受け入れているようにみえる。
その裏返しに、大人になって食が細くなったということを嘆く男性がよく見られる。中年の衰えの実感が食の量に左右されるというのは、アイデンティティがいくらか大食に結びついているということになる。程度の問題はあれど、沢山食べることができるということに人間、あるいは男性としての価値を置いているわけである。
そこらへんを見ると、食ハラスメントにいたりやすい土壌は男子の間に形成され、それが大人の男性にも根強く存在していることが問題になっているのだとわかる。少年時代の考えそのままで、成熟した大人の価値観を育むことができなかった人間はハラスメントをしてしまいがちである。食ハラスメントもそのひとつであるならば、単純に沢山食べることがアイデンティティとなるような感覚は、少年のうちから是正される必要性が検討されるべきだろう。
つまり「世の中には同性愛者というのがいてね…」という教育があるのと同様に、「沢山食べればいいってもんじゃなくてね…」という教育が必要になるのだ。「いっぱい食べて強くなろう」との折り合いが懸念される。
http://news.denfaminicogamer.jp/column01/pokemon-contribute
例えば、子供のケンカに大人がしゃしゃり出るのは変だし、スポーツで監督が試合中乱入するのも変でしょう
乱入して一緒に戦わないからって、それは決して、仲間を見捨てるとか安全圏で好き勝手言うとかではないのは理解できるはず
なのに、ポケモンを戦わせるだけで自分は戦わないからってサトシが卑怯だとか奇異だとか、はあ?って感じ
自分のポケモンが負けそうになったからって、トレーナーが殴りにいっちゃおかしいでしょうが
仲間と共闘してるというより、ポケモンバトルをしている、という大前提を忘れちゃいかん
自分も殴りに行かず鼓舞するだけ、という行動に対して卑怯だとか思ってしまうのって、やっぱり友達至上主義文化に犯されてると思う
何よりも仲間が大切とか、仲間を切り捨てるのは鬼畜の所業とか、ああいう刷り込みってどこから始まったんだ?
それぞれがそれぞれの責任と役割を果たすことが集団の利益になるというのも、またひとつの正しいあり方だと俺は思う
その過程で仲間を直接的に助けないことがあっても、それはそれでひとつの正義だろう、と俺は思うのだが、日本の漫画文化では、これは絶対悪とされている気がする
この刷り込み教育によって、従順な社畜が量産されているような気もする
最近の、仲間に溶け込まないゆとり新人みたいに言われる人って、こういう仲間至上主義少年漫画を読まず、無気力省エネ主人公のラノベで育ったんじゃないかって思う
これはこれで問題もあるのかもしれないが、仲間至上主義一色よりは絶対にいい
いや、色んな考えがあって世の中は良くなると思う
野良生活中は喧嘩に明け暮れていたようで、頰の皮膚は硬く、おたふく風邪のようにぶっくり膨らんでいる。
体の皮膚には生々しい傷跡がイッパイアッテナだ。彼が少年漫画のキャラなら確実に元傭兵だし、暗い過去を背負っているだろう。
ビジュアル的にはかのスプラトゥーンに登場するジャッジくんに激似なので、そんな感じでイメージしてほしい。
彼の名前はそのままブチ。
祖母の家にはミーコというメス猫(手術済み)がおり、彼女を追っかけて庭先に来たのがきっかけらしい。
祖母は大の動物好きなので、ブチが来るたびに喜んで餌を与えていた。
野良生活には安定した餌場が必要なのだろう。この家は安全だと判断したブチは、そのうち毎日来訪するようになった。
先述したようにブチは大変凶暴そうな顔をしているため、当初は祖母と猫好きの伯父以外の親族に恐れられていた。
ブチ自身も人を警戒していたし、家に上がり込んでも人の姿をみるとすぐに逃げていた。
しかし時間が経つにつれブチは家の奥の方まで入ってくるようになり、一昨年あたりからついにリビングで家族と一緒にくつろぐまでになった。
少しずつ接触を図っているうちに、背中を撫でてやればゴロン、と寝転んで腹を見せるようになった。
猫好きの伯父は、ブチが撫でるのを許した頃からフロントライン(ダニノミ駆除薬)を施してやっていた。
ここに来ると良いことがあると学習したのだろうか。
徐々にブチは祖母宅に居る時間が増え、ついに去年(2016年)、祖母宅で寝起きをするようになり、ほとんど敷地から出なくなった。
人間に「ブチちゃん」と呼ばれると、くるりとふりかえって目を細め、ニャーンニャーンと鳴く。
祖母いわく「もうウチの子」だそうで、元野良でトイレをなかなか覚えられないブチの粗相の始末をせっせとしている。
辛い目にもイッパイアッテナだろうにニャーンと嬉しそうに鳴いてくれるブチを見ると、何だか抱きしめたいような気持ちになる。
年始の挨拶に祖母宅に行ったとき、重ねた毛布の上でまったり牢名主しているブチを見て書いてみた思い出話。
余談だが、祖母宅のミーコはブチとは対照的にクール&バイオレンスな猫猫しい女子なのだが、ブチは彼女が非常に好きでいつもそばに居ようとする。
ミーコが居なくなるとナオーンナオーンと鳴いて呼ぶ。
基本2匹はとても仲良しだが、ミーコは気分次第でブチを猫パンチで殴ったり、ヘッドロックをキメて首筋に甘噛みしたりして、その都度祖母に叱られている。
ブチ自身は幸せそうなので良かったが、古傷だらけの暗い過去背負い男が気の強い女と長い交際を経て同棲ってパーフェクト死亡フラグやないかいと思ってしまう自分がいるのだった。
本当は少女漫画ってものすごくジャンルが豊富で面白いものなんだけど、
少女漫画を読んでいる層が、一定ジャンルを強烈に拒否ってる感がものすごくある。
原因はオタク臭さだ。
例えば、「花とゆめ」は少女漫画に含まれない(「赤ちゃんと僕」までは含まれたが、その後オタク色が濃くなって拒絶された)
正統派の少女漫画はファンタジーやSFであってはいけない。ギャグであってもいけない。メカや戦闘シーンがあってもいけない。
ひたすら好きだ嫌いだと言い合って、他人との関係が変化して愛を囁くだけのものが少女漫画だ。
花より男子や、NANAじゃないと「少女漫画」とは呼ばれない。
子供のころ、「銀曜日のおとぎばなし」という漫画が大好きだった。
高河ゆんを読んでいると言ったらクラス中から失笑された。「そういうのは私達はちょっと…(笑)」と言われた。
「風と木の詩」や「BANANA FISH」は最高に面白いのに、いわゆる少女漫画には含まれない。他に分類先が無いから仕方なく少女漫画と呼ばれている名作漫画だ。
女の下着なんて興味ない男の方が多いと思うけど
昔の少年漫画に出て来る下着好き男(ギャルのパンティ欲しがるウーロンとか)を見てあれが本当だと思い込んでるだけでは?
格闘などゲームのシリーズが続いていくとデブやチビなど美しくない色物キャラが削られていき美形キャラばかりが残っていく事はよくある、大概極端な体型のキャラは使い勝手も悪いので仕方がないと言えば仕方がないが似たようなキャラばかりと戦うのは面白くない。
でもキャラバリエーションは作品の魅力に繋がる、集まった時のシルエットではっきり見分けがつくとそれだけでワクワク感があるし、美形ばかりの中で髪形目の形服筋肉などで細々と変化をつけるより解りやすく取っつきがいい、そして美形キャラの存在も映える。
キャラバリエーションの取り揃えはバトルありの洋画やアメコミや児童向け漫画ではかなり意識されてると思う。
少年漫画はワンピースのヒットで美形一辺倒にストップがかかった感じがあるが、意識的に色んなシルエットのキャラを取り揃えてほしい。
ワンパンマンのサイタマに対してこうあって欲しいという思いが見る人ごとに異なっている。
俺のサイタマは最強だが日常を逸脱することができず、就活という変化すら許されなかった男だ。
ヒーロー活動に本来の自分を取り戻したように見えて、実は3歩後退したまま突き抜けてしまったように見える。
ずば抜けた力を認められるわけでもなく、ただ日常が過ぎていく。
一方で村田版サイタマはコミュ力が高く、好奇心旺盛で、己の力を試し、誇示し、世界に影響を与えたいと願っている。だからその他大勢の主張には深い信念がこもっており、それを理解した上でぶっ壊す所に面白さの重点を置いている。
ONE版サイタマは世界のルールを理解できない。だからその他大勢の正論が的を外しているように描く。サイタマは真剣に相手のルールを理解しようと試みるも、いつもすれ違ったまま勝負がつく。そこに笑いの重点を置いている。
俺が見たサイタマと、そこから弱虫ペダルの小野田と僕のヒーローアカデミアの緑谷が進む道を重ねて見れば
強大な力を持ちながら一番大切なものをことごとく守れていない共通点を見出すことができる。
彼らは本来一番大切であったであろうもの(髪の毛、アニ研、生まれつきの個性)に救いが無い。
物語の構造的に異世界転生して無双するパターンに類似している。
だから俺は誰にも憧れることができず、ただただ救われてほしいと祈るばかりなのである。
村田はよく自分の限界とどう向き合うかというテーマを描いている気がする。
努力と根性で好きなだけインフレできる少年漫画でやる内容じゃねえなと思いつつも俺自身そのテーマは大好きだ。
結局は気持ちの問題で解決するしかないのかもしれないけれど、読み手に生きる希望を考えさせるきっかけになる。
そういう状態になるために一回死んで異世界転生すればいいよっていう救いを物語は与えてくれる。
そうではない結末を見せるために、
LGBTや女性の苦しみやポリティカル・コレクトネスなどを知ってしまった知識人からしたら少年漫画なんて楽しめなさそう。。。
むしろそういうリアリティがあるからこそヒットしたんだと思ってたけど
あれ、原作のみくりは別に美人ではない平凡な女性なんだよね、絵面的にも設定的にも
「冴えない童貞男の元に美少女が舞い降りて世話焼いてくれる系男向け萌え漫画」と同じだと勘違いしている男が多いけど
元から原作はそういう漫画じゃないし、ドラマ制作者の意図もそんなんじゃない
そういう勘違い男に受けたのはあくまで予想外で、あれはあくまで女性向け漫画が原作の女性向けドラマ
え!そうなの?
少年漫画のテンプレってラスボスが実の父親パターンが多いのかと思ってた。刃牙とか、幽白とか、あと細かい作品いろいろ。
H✕Hは父親を「絶対に追いつけない偉大な存在」にしておいて、作者が年食ったらオヤジ目線にシフトしていったのが面白いなと思ってた。
今40~50代くらいの男作者って戦争経験者のジジイとか、高度成長期で一財産築いた団塊世代の父親にプレッシャーかけられて育った世代だから、父親を「超えられないもの」みたいに萎縮しちゃってるみたいでキモいと思ってたんで、それに真っ向からアンチテーゼ唱えたジョジョはやっぱすげえな、先見の明があったなって素直に感心するわ。