こういう価値観があると思う。
顕著な例では、運動部や体育会あたりでは、この思想が受け継がれているのではないか。
もちろん、スポーツに打ち込む人や身体を作りこまなければならない人たちは、食事の量が少なければなんにもならないのだから当然である。苦しくとも多量の食事をしなければならない世界がそこに形成される。つらくても沢山食べるというミッションを達成することによって価値が生じ、認められるのである。
そして、それを男性一般の価値として拡張してしまうときに、問題がでてくる。そのような問題は体育会系と呼ばれる職場ではハラスメントとなってよく起こるようだ。
かといって、では運動部や体育会的なものを排除すれば問題解決なのかというと、そういう話でもないように感じる。
少年漫画の主人公はよく食べるキャラが多い。大食漢という言葉もある。男子は食に対して量的に貪欲であるという表現は実に多い。
そしてそれは表現の世界ではなくてもそうであるように思う。量が少ないと満足できない、量が多ければ満足という食の接し方をしている男子はマジョリティを占めているようにみえる。それはおそらく成長期に身体が生理的に沢山のエネルギー摂取を欲しているために、しょうがないという側面がある。そして、少年たちは自分たちがそうであることについて、特に葛藤はなく、肯定的に受け入れているようにみえる。
その裏返しに、大人になって食が細くなったということを嘆く男性がよく見られる。中年の衰えの実感が食の量に左右されるというのは、アイデンティティがいくらか大食に結びついているということになる。程度の問題はあれど、沢山食べることができるということに人間、あるいは男性としての価値を置いているわけである。
そこらへんを見ると、食ハラスメントにいたりやすい土壌は男子の間に形成され、それが大人の男性にも根強く存在していることが問題になっているのだとわかる。少年時代の考えそのままで、成熟した大人の価値観を育むことができなかった人間はハラスメントをしてしまいがちである。食ハラスメントもそのひとつであるならば、単純に沢山食べることがアイデンティティとなるような感覚は、少年のうちから是正される必要性が検討されるべきだろう。
つまり「世の中には同性愛者というのがいてね…」という教育があるのと同様に、「沢山食べればいいってもんじゃなくてね…」という教育が必要になるのだ。「いっぱい食べて強くなろう」との折り合いが懸念される。