はてなキーワード: 学問とは
池田信夫とか古市って化学の研究者が水素水H10Oとか言ってるレベルでとても学者を名乗れないようなことをバンバン言ってもノーダメージじゃん。社会学とか経済学って終わってるなって思うんだけど、奴らに学問の顔させてていいわけ?
確か、上智の教授に国際基督教大学の講師している人がいて、夏の山梨の合宿に「ICUの女生徒はモテねーんだよ?」と言ってくる先生がいて、キョトーンとした表情に「なんで?、って返すから(そう、これがクリティカルシンキングです)」って会話をしてきたよね。というか、国際基督教大学は学問うんぬんよりはカフェテリアの食事は値段と味はどうにかならんのか?フェアトレード以前に、なんとかすることあるだろ。
そういえば、横文字の名前のついた棟においてあった「絶頂(ハングルを添えて)」というタイトルの BL が放置されていたのは今もあるの?
ごめん、スレッド外で話せば見つかんないと思った。
とはいえ、「新自由主義」を否定したくても、無理なんですよ。今の日本国で「1ドルイコール360円」なんて不可能です。そんなもんしてみろって、アメリカやユーロ、チャイナとアセアンと、台湾と韓国がブチギレするじゃん。21世紀の「パールハーバー」を経済でするのかいな。
フリードマンやハイエクの主張は「正しくない」かもしれないけど、大きな政府が有効なのは、民間資本が劣っているときだけです。今の日本やアメリカのような先進国の公的セクターの投資がうんこ以下のパフォーマンスなのはパクリ先がなくて海外に負けるからであって、やがてパクる相手のいなくなった中国でも「巨額の不良債権でにっちもさっちもいかなくなる」のは時間の問題で、実際に今の中国が巨額の不良債権を抱えているのは新自由主義を唱えた連中の懸念どうりです。諦め給えよ、もはや経済学は「負けないための」学問に成り下がったのだよ。いまや、世界は「否定することができない」モノたちが評価される時代にあって、テメーの理論の是非は誰も評価しません。
1人で飯が食えないタイプだ。誰かと同じことをしていないと不安になってしまう人間だ。
当時、全く面白くもない『ダウンタウン』のお笑い番組だとか『エンタの神様』だとか、興味もない『ミュージック・ステーション』を見て、クラスメイトと話を合わせていた世代だ。
トレンドで言うなら、何が楽しいのかわからないけどオリンピックで金メダルすごいね!と語るタイプのつまらない人間が俺だ。
現代風に言うと、陰キャ。でも、人と話を合わせることで、なんとか立ち位置を獲得していた。
当時はハルヒやコードギアスが流行っていた。あとはスクールデイズだとか、ひぐらしだとか。とにかくそういうものが好きだった。今より少し、深夜アニメを見ていると公言するには恥ずかしかった時代だ。
名前を仮にNとしよう。
Nは学活というものを極端に嫌うやつだった。合唱祭の練習だとか、文化祭の手伝いだとか。
「みんな積極的に出ようね」という空気はとにかく読まず、自由参加と銘打たれた活動に一切姿を現したことがなかった。
でも、頭はよかった。5教科の総合成績で、いつも1番か2番になっていた。特定を避けるために詳細は書かないが、とある学問分野で全国的に表彰されたりもしていた。
だからものすごく嫌われていたと思う。そして、多分Nも俺達のことが嫌いだった。給食の時間だとかに、Nが口を開いているのを見たことがなかった。
Nはバラエティ番組の話を一切しなかった。オリンピックの話を一切しなかった。
大衆娯楽というやつを、Nはとにかく見下していたのだと思う。やつは二次元狂いだった。昼休みは常に図書室に籠って漫画やラノベを読んでいた。
なんでそんなことを知っているのかというと、一時期、俺も昼休み、中二病にかかって、図書室でラノベを読みに通っていた時期があるからだ。
その行きと帰りの道で、必然一緒になって、Nと話す機会が何度かあった。教室に戻ると、Nはとにかくこちらから話しかけてもほとんど空返事しかしない男だったので、その道中で話すしかなかった。
Nは話してみると面白い人間で、オールラウンダーなヲタクだった。
少しハルヒの話を振ると、Nは「ハルヒは嫌いだ」と前置きをした上で、元ネタのSF小説の話を初心者にもわかりやすく、ジョークを交えて教えてくれたし、歴史系の話をすれば、聞いたこともない武将や各時代のエピソードを色々と語ってくれた。
アニメや特撮についても勿論詳しくて、押井守の批判だとか出﨑統のすばらしさを語って(今思うと彼も中二病だったのかも)、まんだらけに行って原画や資料を眺めるのが楽しいと嬉しそうに話していた。
映画も大量にTSUTAYAで借りて見て、聞いたこともないような芸術雑誌や文芸雑誌、科学雑誌を何冊も買っているようなやつだった。(Nは俺がそれらのジャンルを知らないとわかると、一切その話をしなくなった)
ただ、Nにバラエティやオリンピックの話をすると、途端にやつは不機嫌になった。俺は慌てて話題を変えたものだ。
その時に、Nは言っていた。「パチンコだとか競馬だとAKBだとか、ああいう趣味にハマっている大人はダメだ。嫌いだ」と。
俺はなんとなく、鼻が高くなったのを覚えている。多分、俺はNの存在に救われていたのだと思う。
きっと、キョロ充である俺が到達するのは、そのような「つまらない大人」に違いないと諦めていたからだ。そして多分、俺もまた人とのコミュニケーションにうんざりしていたからだ。
人と同調して中身のない会話をして、なにやら冗談を言って笑わせて。自分のためではなく他人のためのコミュニケーションが、俺は嫌いだった。
俺は無能だったし、人から孤立するのが怖かったから、キョロ充をしていた。でも嫌だった。N以外のクラスの人間と話したり遊んだりするのが苦痛でしかなかった。
でも、Nは違った。自分の能力で他人を黙らせて、好きな物だけ摂取して、自由に、生きたいように生きているように見えた。
他人に流されない、気高い孤高の男で、俺はいつかNみたいになりたいと思った。
ヲタクとして、Nはきっとクリエイターや評論家になって、多くの人を唸らせるような、美しいものを表現するに違いないとすら当時の俺は確信していた。学生時代にコイツと時間を共有したことをいつか誇ろうと算段していたのを覚えている。
前置きが長くなった。
卒業と同時に離れ離れになったNと、先日、俺達は東京で再会したのだ。偶然のことで、たまたま映画館で『閃光のハサウェイ』を観た時、横で限定版のBlu-rayと『夏への扉』のパンフレットを買っていたのが、Nだった。
Nに話しかけ、俺のことを覚えていると知った時、嬉しくなって、うっかり「飯でも食わないか?」と誘った。
「しまった」と思った。
Nは、これからハサウェイのBlu-rayとパンフレットを自宅に帰って観るのを何より大切にするような人物だと覚えていたからだ。
だが、Nは、「いいよ」とアッサリ快諾してくれた。
俺もまた、ウマ娘をやっていたので、「推しはタキオンなんだよ~」とか、中身のない会話を続けた。
Nは、俺とアイドルライブの話をした。BTSの話をした。オリンピックの話もした。
俺は勝手に失望していた。Nは、きっとあの幼き日に、彼が嫌っていた大人そのものになっているように見えた。
酒の話、サウナの話、競馬や野球の話をする。全てNは自分の体験談も交えて応じてくれた。
試しにパチンコの話をすると、ミリオンゴッドとかいうよくわからない機体の話をペラペラと話していた。
Nは、大衆に呑まれていた。低学歴のオッサンが好むような、侮蔑するべき酒だのサウナだのパチンコだのアイドルだのの話をしていた。
一番やつが嫌いそうな、バラエティ番組にも、随分と詳しくなっているようだった。
どうしたのだと聞きたくなった。
お前は、俺とは違うんじゃなかったのか。
他人なんて気にせずに、自分の道に邁進して、人の顔色を伺うようなつまらないコミュニケーションは決してしない、そういう男ではなかったのか。
学生時代にお前が探求していたに違いない、美しいものは何処に行ってしまったんだ。キョロ充の俺とは違うんじゃなかったのかと。
孤高のヲタクは、どこにいってしまったのだ。俺は辛かった。そして、その辛ささえもあまり感じなくなっていた俺自身が、何よりも辛かった。
若い日の憧れも、時間と社会経験によって、すっかりと洗い流されてしまっていたのだ。だから、きっとNもそうに違いないと思った。
社会は独りで生きていけるようにはできていない。今は特にそうだ。
1億総オタク社会だとか、1億総陰キャ時代だとか揶揄するやつがいるが、それは違う。
今は、『1億総キョロ充時代』なのだ。SNSは、下らないキョロ充を量産するための装置に違いなかった。常にみんなが、人の顔色を伺ってコミュニケーションを取っている。
キョロ充だけれど、きっと充実しているのだろう。だからいいじゃないか、としたり顔の大人達の声が聞こえてくるような時代だ。
だから仕方のないことだと思った。Nも、「上手く他人と生きる」つまらない人間、否、正しい人間に進化したのだと、自分を納得させた。
他人が見たい仮面を必死に作るのが、正しい生き方でありコミュニケーションの本質である。そして低学歴趣味とは、その本質にとって最高に都合のいい道具なのだから。
でも、それでも俺はNに、お前、どうしたんだよと聞きたくなった。
聞きたくなったので、聞いた。正直に、「パチンコとか競馬とかバラエティとか、あと流行りのウマ娘とか、そういうの嫌いだと思ってた」と。
Nは、俺の顔を見て、笑って言った。
「当たり前じゃん。今言ったやつ、全部大嫌いだよ!」
Nの目はドス黒くて、世の中全てを見下していて、それでいて、とても楽しそうだった。
俺は、最高に嬉しかった。その後のことは、あまり覚えていない。とにかく、Nの職業が何なのかは、あえて聞かないで別れた。
何故なら、確信したからだ。やつはきっと、多くの人を唸らせるような、何かを創り上げているに違いないと。
勿論その日、NとLINEの交換はしなかった。
ちがうだろ、バカが「自分のリスクを背負って、新世界を切り開いてくれた」のだから、その対価は市場経済を通じてペイされるべきで、先進国民にはお手本が存在しないのだから、それ以外に彼らは報われないと思うのだ。
西周はエコノミクスを「経世済民」から作り出したけど、それ自体が偏見の原因じゃないか。そうだよ、世の中を良くするには「金持ちになろうと志す人の欲望に(フリーライド)することはできない」ということだろ。もっと歴史に学べよ。
ひろゆきかよお前。
違いますけど。
難癖つけて、経済理論上の乗数効果いわれてもそんなもの信じてるのみたいに反論にならない反論をして、夢想的にリスクをとれとほざくだけが反論か?
だから、現実と一致しない学問に何の意味があるんだと聞いてんじゃねーか。間違っているのに信じろって、俺は学問の奴隷じゃないぞ。
アホか。
新しい物事の前には積み重ねがある。
新しいものは、(1)何に使えるかわからない段階、(2)着想を得たが、市場と商品技術が合致したプロダクトマーケットフィット(PMF)がなせていない段階。(3)PMFがなせたが、企業がリスクを取れる段階。(4)企業がリスクを取れる段階。と歩んでいく。
はじめから3以降のものがあるはずだとアホをおだてて無理強いした結果、皆地獄に落ちているがゆえの今の衰退という側面がある。(1)(2)は政府の基礎萌芽研究投資で育むしかないが、選択と集中で破壊した。(1)(2)を政府支出と教育で育み直すことしかない。
だ。なのに、リスクを取ることが必要だと「他人に強いて煽って」実際そいつらはゴミクズのように扱われてる現状がある。起業家や若手研究者だ。すると当然新しいものなぞなくなる。それが新自由主義の結末。
そこを開き直ってデフレのほうがマシだそれを望んでるなんて馬鹿としか言いようがないな。経済学は哲学者がやってたから精神論になるだぁ?ちょっとは実態を見てその実態から得られる事象を見て考えろや。
まずは「他人が危ない道を歩めば、そいつが死んで、俺達は豊かになる」みたいな腐った根性なら一生黙ってろ。経済学は経世済民と言って、世の中を良くするための学問だ。
マクロ経済学無視した結果が今の衰退でしょう。資金循環で他にまともな理論があるの?
リスクを取れ?
だから、共産主義というマヤカシに対してケインズが「資本主義社会でもやり方でうまくいく」可能性にかけたのがマクロ経済学じゃん。当時の連中ですら共産主義が持続不可能なのを、イギリスにいた連中はスペイン・ポルトガルの価格革命を通じて知ってるのだよ。もし仮に共産主義がメリットがあったら、イギリスが選挙で採用して共産国になってたっぺ。連中は共産主義に欠陥があるのを、空想的社会主義たちが馬鹿なことをして、無理なのに気がついてたのだよ。
金が無いやつは絶望的に弱いよ。そして金が無いゆえに食い物にされてうまくいない。一方で、こういう物ができると口先だけの詐欺師もうごめく。
だから、自前で通貨を発行するメリットがあるのじゃん?ギリシャはユーロでなければ、通貨を安くして国際競争力を高められたのに、通貨発行権がないから詰んだじゃん。
いや、詐欺師ももともと本当に何かを作ろうとしていたが口先だけで金を得られる美味しさを知ったのか、それともいろんな関係者に縛られて引くに引けなくなったゾンビか。
「ヤクザ」ってやつだろ?
まあ、基礎研究投資を復活させるしかないわ。コレ自体短期的に「本来だったら圧倒的な差のつく個人間の能力の差」があるものがあるって幻想でぼろぼろになってしまったものだからな。
理系の学問は世界中で使えるから、逆に先進国民にとってはコスパ下がりますやん。アホらし。それだったら、才能ある連中に抜けてもらった方が Win-Winでは?まさかだけど「アメリカ人と中国人では知能指数が近いから、給料も一緒で良いよね?」なんて言うなよ。アメリカが金持ちなのはジャック・マーみたいなのを否定しないからじゃん。
えっ、まだマクロ経済学のようなまやかしを信じてるの?馬鹿だな。
今は複雑系という学問が出てきて「需要と供給」という二元論的に経済を分析することが不可能なのを知らないの?残念だけど、資本主義社会においては富のインフレーションが発生しているから、同じ労働で同じ対価を得ることが不可能なのがわかってきているのだから、経済学で「〇〇だから✗✗」という演繹的推論をすると一致しないことになることが知られているのですよ。
例えば、ノーベル賞をとった現代ポートフォリオ理論は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という故事を説明できるのですよ。リスクをとらないと、リターンを得られない。このとき「リスク」というのは不確実性だけど、これは「確実性をとると、リターンを失う」ということだから、民間資本が充実して「先進国とキャッチアップ」という手法ができない今の日本に、昔のように政治力を介した直接投資をしても未来の負債をこしらえるだけです。
ディズニーの看板借りて NRIの出身者とスクエニとアニプレでやってる二次創作的タイトルがあるんだけど、
近親相姦とかペドとか獣姦とか満載だぞ。メインキャラクターの公式設定
ディズニーの看板借りて NRIの出身者とスクエニとアニプレでやってる二次創作的タイトルがあるんだけど、
ディズニーの看板借りて NRIの出身者とスクエニとアニプレでやってる二次創作的タイトルがあるんだけど、
これがもう、差別・海外文化の不理解・常識レベルの学問知識の間違いのオンパレード
海外研修行ったり、海外と縁がそれなりに深い高学歴な方々なはずなのになんでそうなるんだろうって思ったけど
自分が言ったことを親が覚えていないのだ。適当に聞き流して相槌だけ打っていたのならまだしも、しっかりと会話として成立し「じゃあお母さんがやっておくね」と言ったことが為されていない。行動を起こしていないことではなく、「やる」と言ったことを覚えていない、ましてや「そんな約束した覚えはない、自分に都合のいい嘘をついてるんでしょ」と責任転嫁してくるそのことがとにかく腹立たしかった。私たちは確かに2001年1月16日にその話をしたというのに!!!(約束の内容は実に子供らしい取り留めのない話なので割愛する)
あまりいい親ではなかったのでそういうものなのだろうかとも思うが、家庭から出ても「自分が何度も言ったことを相手は覚えていない」という事態に遭遇する。流石に幼少期よりは歳を重ねていたので地団駄踏んで怒ることこそなかったが、「この話5回したよ」「もう4回聞いた」「2回も言わないでもわかる」というような台詞は何度吐いたかわからない。その言葉を投げかけられた友人たちが不快になっていたであろうことは大人になってから理解し、反省した。
中学以降は自分が小動物的容姿なのも相俟って、わざと抜けたことを言ってはいじられ、ペットのように可愛がられるというそこそこの立場で過ごしていた。
どうせ理解してもらえないのなら、自分から話題を振るよりも他人の話にカービィみたいに相槌を打っていればいいのだ。「ほょ〜?」とか言えるのは若さゆえの特権。
だから大学で一番楽しかったことは、「バカのふりをしないでいい」ということだったな、と最近思い出す。
大学でできた友達はみんな外山滋比古もクィア理論も御館の乱も当然の教養として知っていた。全員が全員その道のオタクや研究者ほどの知識があるわけではないけれど、受験勉強で触る程度の知識は当然みんな持っていた。喋る前にいちいち前知識の説明をしないで済むということがこんなに楽だなんて知らなかった。
専攻は本当に楽しかったし、充実した4年間だった。
当時バイトは知り合いの紹介で事務をやっていたけれど、その知り合いを含めほとんどの人が高卒で、大学に進学した同世代よりも先に社会に出ていることを誇りに思っているような人たちばかりだった。
実際、自分が大学でのんべんだらりと『西瓜糖の日々』なんか読んでる間にも実務経験を積んで自力でお金を稼いでいた人たちのことをすごいと思う。
初めて任された業務について先輩に質問をしていたら、「大学行ってまで何学んでんだかw」と笑われたことがある。
「少なくともこの会社の顧客リストのコピーの方法ではないですし、他人にそういうことを言わないような教養ですかね」と口に出すのはなんとか堪えた。
自分には確かに中卒・高卒の人たちが築いてきたキャリアも考えもわからないけれど、彼らも大学生・大卒の人間の学んでいることを知らないのに何故こうも馬鹿にして下に見るのだろうか。
「大学に行ける」という選択肢を持てた立場の傲慢なのかな、とは思いつつ、それでもやっぱり自分が愛した学問を理解もせず見下していた彼らのことは苦手だ。
ちなみに上司にセクハラとパワハラとモラハラをされたので勤務時間内に「今からバイト辞めます」と宣言して辞めた。時給はちゃんとその時間までで出ていた。
『勉強できる子卑屈化社会』という本があるそうで、まだ機会がなくて読めてはいないのだけれど、タイトルや書評だけで深く頷いてしまった。
自分が同年代の平均より知能指数が高いであろうことは自覚しているけれど、それがあたかも嫌味なことであるかのように扱われ、出身大学を尋ねられたら「あ、一応○大です」と「一応」をつけなければいけない気がする。
スポーツ得意とか、料理が上手とか、そういうノリで言っちゃダメなの?「僕は頭がいいです」って。
あと一つ言っておくけど、「本当に頭の良い人なら頭が悪い人にもわかりやすい話ができる」っていう論調やめてくれねーか。
あれわざわざお前のレベルに合わせて話の知能指数下げてるから情報取りこぼしてるんだよ。
そもそもその「本当に頭の良い人」とやらに一方的に負担を強いて喜んでるのマジで何なの?お前もちゃんと原文で理解する努力をしてくれ
大学進学率50%を超えてるこのご時世に高卒なのはめっちゃコスパ悪い(一部の優秀な人を除いて)
というか、高卒に比べて大卒のコスパよすぎ。タイトルこっちにした方がよかったかも()
この記事は公務員試験とセンター試験の両方を受験した、ガチガチ文系の24歳高卒税務職員が書いてます。そのことを踏まえて読み進めてください。途中自分語りや愚痴がでてきます。
早速ですが、大卒に比べて高卒のコスパが悪いと思った理由をざっくり箇条書きでまとめて、それについての解説と自分の考えや疑問を書いていきます。
それでは1から
大学進学率が50%以上のこのご時世に高卒だと、かなりの確率で頭が悪いと思われます。これ住んでる世界や関わる人のレベルによりますが、自分の周りは結構思ってる人多いです。
おそらくは、進学率が50%以上なのに高卒なのは、その中に入れなかった人、というレッテルを貼られるのかなと。
学ぶことに意欲的な人は基本的に大学進学→つまり進学してない人は勉強嫌いor勉強できない人
みたいな感じ。
とか
って面と向かって言われました。
なんでって…このご時世に高卒は頭悪いだろ
って返答だったので、このご時世ってどういうことだ???と色々調べると、どうやら大学進学率50%以上指しているのだとわかりました。
ネットでもこのご時世に高卒なのは…といった意見を目にすることがあるので間違いないとおもいます。
これが最初に書いてある大学進学率が50%以上の〜と思った理由です。
ただ、個人的な意見を言うと、私立大学の偏差値45ってかなり頭がわるい人達が集まらないと出ない数値だとおもうんですよね。
なぜそう思うかと言うと、自分は勉強が苦手で頭が悪く、大学には行かずに高卒で就職しよう。出来れば公務員がいいなー、って高校生の時考えてました。
そんな人間でも、学校で強制受験させられる模試で高3夏以降の3教科偏差値は55〜60、センター試験は3教科75%でセンター利用で近畿大学法学部に合格できました(近畿大学法学部は偏差値55)
だから自分が受かった大学より偏差値が下の大学行く人ってめちゃくちゃ頭がわるいか勉強サボった人がいくイメージなんですよね。家庭の事情で仕方なくとかを除いて。
つまりそのレベルの大学って言わば高卒以下、下手すると未満の学力の人達が集まってる可能性が十分にあると。
でも高卒で就職をすると、そんな自分よりも学力がない努力しなかった人達にレッテルを貼られて見下されるなんて事が起こります。これっておかしくね???
皆さんもそう思わないですか?
あなたよりも偏差値が上の大学に合格した人に頭が悪いといわれたとします。悔しかったり嫌な思いをするかもしれません。
でもその人は自分よりも偏差値が上なので自分よりも頭が良かったか、もしくは努力してその結果を手に入れたわけですよね。
だから見下して良いと言うわけではありませんが、自分よりも優れた結果の人が見下してるといった状況です。
逆の場合だとどうですか?
自分よりも偏差値が下の大学に合格した人が、偏差値が上の大学に合格した自分にむかって頭が悪いと言ってきました。
おそらく自分よりも頭が悪かったか努力をしてこなかった人に見下されてる状況です。
いやいや、どの口が言うてんの?ってなりませんか?笑
かなーり話が脱線しましたすみません。今回は1例のみですが、どうやら世間には
みたいな風に考えてる人多いなーと感じる体験をすることが度々あります。
そういう考え方になる人ってどんな経歴なのか自分はめっちゃ気になるんですよね。
皆さんは気になりませんか?
東大京大などの旧帝大や早慶の人が言ってるかもしれないし、地方国立marchの人かもしれませんよね。
なんなら日東駒専の人かもしれないし、Fランかもしくは高卒の自虐ネタの可能性だってありえます笑
受験した人なら分かると思いますがこの人達って、難易度や卒業したら享受できるメリットとか違いますよね。
旧帝大や早慶に進学できるなら、高卒で就職するよりも進学した方がメリット大きいと考える人が9割だと思います。
日東駒専だとどうなんだろう…自分の場合は大学に求めているものと家庭の事情で高卒就職を選びま
したが、進学8〜9割だとおもいます。
皆さんに聞きたいんですがこれって不思議だと思いませんか?
国立私立はあれど、全部「大学」という同じ括りなんですよね。東大もFランも大学なんですよ。
大学、大卒という言葉は日本だと上は東大、下はFランと凄ーく含みをもった言葉になるわけですね。
大卒という言葉を使えば、東大卒もFラン卒も同じ扱いなんて自分はおかしいというか違和感感じるんですよね。
例えば、堀江貴文さんとか東大中退だったはずで、彼は高卒の扱いになるはずです。同じ高卒という括りになるんですね。
でも高卒という言葉は基本的にそんな堀江さんみたいな極端な例を指すのではなく、自分のような底辺を指す言葉だとおもいます。
大卒という言葉は基本的にどの程度のレベルを指して言っているのか、ということですね。
確かに傾向としては間違いないと思います。平均なら絶対に大卒>高卒です。
で、この大卒というのはどのレベルの大学を指して言ってるんですか?って話なんですよね。
それをわかってないと、親が身を粉にして働いて貯めたお金で大学にいって遊び呆けて、無条件で高卒よりもいい人生がおくれると勘違いする馬鹿が出来上がります。
1年前に、Fランで遊びすぎて就職できなかったから国立の大学院に通っている、高校の同級生とたまたま再会しました。
なんでお前は高卒で働こうと思ったの?人生損してると思うな〜。親の金でタダで大学いって遊ぶのめっちゃ楽しいのに!
と、言いました。
この時高卒という肩書きはほんとーーーにゴミでコスパが悪いなと心底思いました。
なぜか?
こんなふざけた発言を、申し訳なさも悪びれもなく平気でできる人間性の終わったクズにすら見下されるのが高卒という肩書きだからです。
勉強のできない高卒とかたや真面目で勉学に励んでいる国立大学院生
こんな感じでしょうね(諦め)
圧倒的不遇、圧倒的理不尽
奨学金は借金だから借りるな。(そもそも世帯年収の上限超えてて借りれない)
生活費は家賃込で月8万欲しいので4年で約400万。そこに利子がつくわけで、大学卒業後に1000万近い借金が確定。
そんなリスク取るなら高卒で公務員なろ!なんて安易な考えだった自分への罰ですか?
このご時世、大学くらい出ておかないとね。
自分の周りではよく聞く言葉です。こう思ってる親御さん多いと思います。
大学進学率が50%を超えてるこのご時世、大学くらい出ておかないといい人生を送れない、といったニュアンスでしょうか。
この意見、半分正解で半分間違いだとおもうんですよね。個人的には
大学くらい出ておかないとね、ではなく
ではないのかなと思います。
この行く価値というのは、正直わかりませんwその人の求めてるものによると思うので。例えば
学歴を求めて
学歴求めるなら東大や医学部であったり、就職なら早慶やmarchの人もいるかもしれません。
4年間のモラトリアムと人の出会いを求めるなら都会のFランでもいいですよね笑
学問を修めに行くなら本人のやる気があるなら地方のFランでもいいですよね。
自分の場合、大学は就職予備校で大手企業に就職できないなら行く意味がないとおもっていました。
大手に就職が現実的になるのはmarchから上のクラスかなーとおもってます。
いやいや、大卒なら高卒と違って応募資格があるからどの大学でも大手に採用されるチャンスはある!って反論もあるかもしれません。
そんな人に聞きたいのですが、
と聞いてどう思いますか?確かにそうだな!高卒も立派!なんて思いますか?
何を一部の極端な例を持ち出してるんだ
こう思う人が多いと思います。
大卒なら大手企業にも応募できるから採用されるチャンスがある!
確かにそうかもしれません。でもそれってごく一部の人ですよね。
仮に1000人いて1人がたまたま大手に採用されたとして、それを大卒ならチャンスがある!のはどうなのかなと。高卒で堀江貴文みたいな有名人になれる確率よりは高いと思いますけどね笑
自分はその1割に入れる自信がなかったのもあり高卒で税務職員になりました。
世間では4年間頑張って働いた高卒よりも遊び呆けたFラン大卒の方が社会地位は上。
だれも中身なんて気にしてない。肩書きなど上辺ばかりを気にしてる。
親のスネかじりした無能と、親孝行した無能、世間はスネかじりの方を評価するので積極的にスネをかじりつくそう!
まとめようと思ったけど文章力的に無理だった。やっぱ高卒はゴミ
2.3はまた今度書きます。
古市憲寿が小山田の擁護のつもりで「裁判するにも頭と金が必要だからね」と火に油を注ぎ、それへのフォローのつもりで「あれは結婚祝い」とか変なこと書いてまた炎上しているけど
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/poe1985/status/1416750358521475073
あれってわざとナンセンスな事言って「相手にしてない」って態度示してるだけだと思うよ。
2chで正面切って異論を唱えるIDが来た時に、住民が延々と「好きな寿司ネタ」とかの話をし続ける事があるが、あれよ。
80年代地続きの90年代前半を吹っ飛ばしたのはオウム事件なんだが、この時思想的に責任がある中沢新一は「あれはネタだし」って事を言って呆れられ更に叩かれる事になった。
数年前に衝撃的自死を遂げた西部邁は東大教授だったのだが、80年代末に「あれは学問ではない」と中沢の研究を認めない東大教授会に対抗して中沢擁護の論陣を張り、結局退官してしまった。
そんな西部が体張って人生掛けた自分の研究、カッコつき「学問」はネタだと言ってしまった。んでついでに自分も身に覚えがある浅田彰は「自分も構造の中で逃げろと言ってた訳でw」とか言っちゃった。
ネタだから、本気じゃないから本当の自分は傷つかないのって事を公の場所で言った訳で、自意識のコップの中であーだこーだ言ってたのがバレちゃったのよ。
めいろまなんかも言ってる事だが、そういう文化的土壌というかサンドボックスを吹き飛ばしてしまった、或いはサンドボックスの外郭を外からサーチライトで照らし、それがガキの遊びだったって事を知らしめたのがオウム事件で、その後はオウム以前の言説、思想商売なんか全く出来なくなって環境が一変してしまった。
今回の小山田の問題はそのオウム前のサンドボックスでやってた事がオウム以後である現在、しかも五輪プロデュースという究極の「オウム後」で参照されてる事にある訳だ。
言うまでもないが被害者にとってはそのサンドボックスは機能していなかった。小山田とサブカル糞連中だけが中で遊んでただけだ。
1985年生まれの古市はオウム事件では10歳であるのに、何故かこの思想的サンドボックスを巡らすとリアルから保護されるという認識を持っている。不思議だ。
知のサンドボックスは学問とか大学には必要なものだが、それを現実に影響するところでやると「構造の中で逃げろと言ってた訳でw」って言う羽目になる。
そして今おっさんになって渋谷系のリスナーなんて居なくなり、更に五輪の楽曲担当に選ばれてしまった小山田の立場というのは「内向きのノリ」で擁護できるはずがない。
その辺はオウムの時に10歳だったので判らないのだろうが、浅田彰に聞いてみるとか島田裕巳(オウム事件で大学解雇)に聞いてみるとかあるだろうと思う。