はてなキーワード: 善行とは
首都直下地震M9.0が来たとして。天井を突き破る高さに積まれた怠惰と鬱憤と積ん読に、押し潰されて人生の幕が引くのだろうか。
どうせ読まない積ん読にはバタ臭いバーガーショップよろしくピックでも刺せばいいだろうが、怠惰と鬱憤に刺すとなると、これは自分の心臓を刺すも同じことだ。さしもの俺とてそこまで不精ではない。
地面に脈絡なく落ちている札びらというのは、これは非常に不思議なもので、とにかく物凄く目立つ。悲しいかな、人間の目というのは「紙幣」というものをものすごく精細に認識するように日々チューニングされているらしい。
それで、ここからが滑稽なのだが、札びらを見た瞬間、「え? 札落ちてねえ?」「いや、そんなはずないか…」 「…って、マジで札じゃねえか?」「いや、でもこんな人通しの激しいところで、誰も落とした素振りもないし、(どう見ても紙幣なんだけど)誰にも拾われず、ただ落ちてるって異常だよなあ」「ただ、どう見ても金…」という往復ビンタのような思考が数秒のうちに脳内でスパークする。
札びらという存在感とそれが雑踏の路上に無意味に落ちているという光景には、それだけ、理解を拒絶させるものがあった。俺の前を歩いていたカップルも同じように気づいていたようだが、まるで動物の死体とかエロ本とか、なんか明らかに見てはいけないものを視界に入れてしまった、という感じだった。
金を落とした当事者を除いて誰がこの金を拾うのが最善かと言えばそれは交番にちゃんと届ける気でいる人間であって、俺は俺が交番に届けるつもりなのを知っているので、思い切って俺が誰よりも先に拾う。合理的判断。のはず。
そのとき、俺の目と鼻の先で、ホームレスがうずたかく積まれた荷物の横に段ボールを敷いて横になっているのが見えた。その隣では別の男性が、あぐらをかいて雑踏を見ていた。
金はこの人たちの、ほんの数m近くに落ちていながら、誰にも気づかれず、あるいはもっと奇妙なことに、「無視されていた」のだ。この人たちもそれに気づかなかった。
俺はなんだか、札びらを指の間に挟みながら、頭がぐらぐらしてしまった。ホームレスの目の前に、元は何が入っていたのかやたらデカい空き缶が置かれていて、10円だの100円だのが、まばらに浅く積もっていた。
俺はふと、この金はあの缶の中に投下されるべきなのか? と思ったが、完全な誤謬だ。なぜなら、これはそもそも落とし主の金だからだ。
それに、ホームレスが金に気づかなかった、というのもおかしな角度のついた狂った偏見だ。ホームレスが落ちてる金を見たらそれを拾得するだろうか? するかもしれないが、それはホームレス以外でも同じだし、実際にその瞬間までどうするかは誰にもわからない。
妙な状況でテンパると酔っぱらったような発想が出てきてよくない。俺は疲労で千鳥足になりながら交番へ。
交番は遠かった。スマートフォンで地図を調べながら、人々がなんで路上の金を無視していたのか(俺にはtodokeru or hutokoro の二択だったのだが…)よくわかった。
とにかくめんどくさいんだ。俺だって札びらなんて拾わなかったらヨドバシの地下で酒買ってすぐに帰りたかった。手を出した時点で、犯罪か善行の極端などちらかになってしまう。路上の紙幣を無視、という行動にはちゃんと理屈があったわけだ。
交番には無事届け出た。
「落とし主出てきたら一部要る?」
「要らないっすね」
「じゃあ出てこなかったら?」
「もらいます」
年末ぐらいまでに誰も現れなかったら法的にも俺の物になるっぽい。慈善に使うか酒に変えるかはそのときのノリで決めようと思う。
承前 : Part-8 https://anond.hatelabo.jp/20201018143903
次回 : 予定無し
今回は路頭🙏おじさん専用回だ。毎回コメントをしてくれたお礼に救いようのない話をする。
学歴があり頭が良く生産性の高いエリート達が高給を稼いでいるように見えるシリコンバレー。
「シリコンバレーではlayoffは日常茶飯事。皆慣れたものであっけらかんと次の職に移る」
シリコンバレーで職を失うことは母国で職を失うことよりも悲惨な状況になる場合が多々ある。
まず、Unvested RSUはすべて没収される。以前取り扱ったXさんのような場合、3年目以降のvestを目前にして首を切られようものなら号泣では済まない。
場合によってはvested stock optionさえ没収されることもある。Skype買収の際の詐欺紛いの雇用契約書によるSO没収を覚えている人もいるのではないだろうか: https://techcrunch.com/2011/06/26/skypes-worthless-employee-stock-option-plan-heres-why-they-did-it/
さらに、外国人の場合visaが問題となる。H1の場合「すぐさま」(実際に何日かの解釈は未決定)次の職を見つけねば帰国しなければならないし、F1 OPTの場合は数週間だ。
Lの場合は問答無用である。さらに、こうして帰国することになった後、また米国に戻ってくるのはかなりの骨だ。求職の難易度は一段跳ね上がる。H1が取りにくいインド人などは死活問題である。
GCの手続きもやり直しだ。PERMまで終わっていれば大した影響はないが、それ以前ならほぼ一からのやり直しである。
こうした状況で心底あっけらかんとできる人はそういない。表情には出さなくても、心中は絶望と怒りで満杯だ。
社員が職を追われる状況全体を指してFiredと呼ぶ人は多くいる。これは無知かoversimplificationだ。ごく一部のみが本当のFireを経験する。つまりmutual agreementが一切無くinvoluntaryなfire for causeだ。
何故か。カリフォルニアはat-will employmentであるから、社員の首を切るのはいつでも如何なる理由でも自由のはずではないか。
現実は随分と違う。例えば、ある社員のパフォーマンスが悪かったとしよう。単なる中間管理職であるその上司が"You are FIRED!"とBTTFの一場面のようにその社員をfireしたとしよう。
何の事前準備も無く、何の契約書もない状況でそれをした場合、その社員が会社をdiscriminationで提訴する可能性がある。つまり、このfireはパフォーマンスが原因であったというのはbaseless、実際はその社員のrace, religion, genderなど法律で差別が禁止されている要素によってなされたものだ、と。実際に提訴する社員は少ないし、勝訴する可能性もそれほどではない。しかしその可能性があること、その場合の会社への損害が、特にブランドが大事な大企業の場合多大であることから、のっけから示談に持ち込まれる可能性がある。その社員は大枚をせしめることになる。そうでなくても、首を切られた社員はunemploymentを受給できる(社会通念に触るようなcauseの場合を除く)ので翌年からinsuranceに影響する。たかが一社員のために全社に関わるそんな問題を起こした中間管理職の運命は推して知るべしだ。
つまり、だれの目から見てもその社員が社会通念上あるいは雇用契約上の何かに抵触したような場合(GoogleのJames Damoreが記憶に新しい)でない限り、何らかの事前準備、あるいはその社員との間の何らかの承諾書なしに首を切ることは大企業の中間管理職にとって考慮の外なのである。一部下のパフォーマンスどうこうで自分を危険にさらす人間がどれだけいるのか。いるとしたら馬鹿である。
しかし、まだブランドを気にする段階にないstartup、あるいは法律やHRにまだ詳しくないその経営者などによってこのreal fireが行われることもある。訴訟されないのはsheer luck。後でlegalやHRに釘を刺されることだろう。
これはWork Force Reduction (WFR)あるいはReduction In Force (RIF)と呼ばれる、本物のlayoffだ。
ビジネス上の理由があり、きちんと書面で事前準備をして、その部署の全部または一部をlayoffする。
LegalとHRがしっかり事前準備をしている限り、訴訟リスクはほぼ無い。但し、その部署は縮小傾向にあることが前提なので、翌年からのH1/GC手続きに制限がかかる。
個人のパフォーマンスどうこうの事由ではないので、大抵severanceは太っ腹であり、他部署へのtransferもできるだけ支援される。
社員にとっては悲劇ではあるが、全体でみるとまだ地獄の入り口にも達していない場合である。
今回の主眼である。
その社員が本当にlow performerだったとしても、fireはできない。ではどうするか。以下のどちらかが必要となる。
どのようなlayoffだっとしても、まず一つ目の選択肢が与えられる。severanceもきちんと払われる。逆に言えばそれを人質にしてこの選択を迫る。
あくまでもvoluntaryなので離職後にunemploymentは出ない。早急に次の職を探さねばならない。
社員が承諾しない場合のため、二つ目の選択肢の準備が必要だ。これこそが恐怖のPerformance Improvement Plan (PIP)だ。
その社員は即座に辞めることを拒否する代わりにPIPに入ることを選択し、一定期間その上司と何らかの「プロジェクト」に携わる。
名前が示す通り、表向きの目的は社員のパフォーマンスを向上させることだ。実際にそういう場合もあるだろう。しかし、囁かれる事例のほとんどは訴訟リスクを下げる形式付け以外の何物でもない。
上司がせっかく用意したPIPでも向上の兆候が見られなかった。明らかなlow performerでありこれを事由として解雇する、となる。
中には明らかに達成不可能な「プロジェクト」をあたえられる場合もあるし、たとえ達成してPIPを抜けたとしても今後の出世はほぼ無理だ。
PIPをもってdeath sentenceと呼ぶことが多くあるのにはこういう背景がある。ほとんど全員が宣告と同時に職探しを始める。
想像してほしい。訴訟リスク低下のためだけに、達成不可能なように、自分で辞めるように、調整された拷問を受けるのである。
しかもそれを執行するのは自分を無能と判断した上司。実際どちらが根本原因なのか他人は知る由もない。
まさに糞である。
会社としてもこんな制度があるのは好ましくない。しかし現実には存在する。何故か。
残念ながら、この場合も多い。一流大学から来た、LeetCode面接を華麗に突破した新入社員たち。
彼ら全員が実務で使える技術者になれるか? No way!
説明が難しいのだが、実務で使える技術者になれるかどうかはその人の資質による。LeetCodeをたくさん練習してきたかどうかとは殆どかかわりがない。
脳の回線が何か違うのか、実務でとことんダメな子はいくら教育してもダメなままであることがほとんどだ。そのような例を多数目にしてきた。それこそ大事なコードを書かせてはいけない人々だ。
自分は面接でLeetCodeは一切させない。Unit testについての経験、難しかったdebugの経験などについて質問することにしている。
しかし、業界全体ではLeetCodeを多用し(楽なのだ!)、LC面接に向けて特化練習してきたダメな子とそうでないが実務で使える子と、評価が逆転することになる。
ただの暗記・努力コンテストなら四書五経の暗唱と変わりないではないか。
糞すぎる。LeetCode delenda est!
Coasterというのはもともと、ある種の成功者達を指していた。Google/FBなどが買収した企業の社員であったり、長年いて大事なシステムの難しいところをすべて心得ている人だったり、とにかく会社が失うわけにはいかない人々だ。そういった人々の中には、遮二無二働くのをやめ、会社に来るだけでほとんど仕事をしない。しかしRSUはたっぷりと支給されているので辞めるわけにもいかない。Rest and vest. Retired at office. 悠々自適の人生を送る、つまりcoastingしているのだ。そういった人々の中には年間$1Mを得ているひともいる。
ある種の糞コミュニティではこの言葉の意味を広げ、単なるslackerにも適用するようになった。
真のcoasterほど会社に必須の、高ランクの社員ではないが、長期間昇進しなくても首を切られないterminal level (GoogleのL5, AmazonのL6等)に達し、あとは流している人々だ。
会社によっては沢山いる。こういったslackerの方が真のcoasterよりも問題である。
すでに功成り名を遂げた真のcoasterは他人のプロジェクトに口を挟まず、その卓越した経験から時にpinch hitterをすることもある。彼らが高給をせしめようが、会社が傾かない限り自分はどうとも思わない。
逆に、slackerは自分の存在を正当化し、最低限必要な評価(GoogleのCME等)を得るために他人の成果を横取りしたりpoliticsに興じる場合がある。
Passive-aggressive masterも多くて非常に苛立たしい。Nefarious shxtbag. Atrocious slacker. GTFO for god's sake!
まさに癌である。是非ともPIPられて欲しい。
本当に救いようがないのはこの場合だろう。
上記のようなlow performer, slackerという判断は誰がするのか?もちろん上司である。
ではその上司の判断は常に正しいのか? NO FUXKING WAY!
実際はできる社員が糞上司に陥れられてPIPられる話は枚挙に暇がない。
大体、本当にその社員がダメだったとして、そのような状況になった原因のある程度は面接の手法だったりプロジェクトの進め方だったりにもある。
その全責任を部下に押し付けて、自分は被害者かのようにふるまうのだ。
さて、各会社でどの程度PIPが行われているのか?
糞コミュニティ筆頭blindで"PIP"で検索して出た中から、ある程度スクロールダウンした後のキーワード発生回数を見てみよう。
Amazon+AWS | Microsoft+MSFT | GOOG | APPL | Netflix | |
---|---|---|---|---|---|
653+46 | 85 | 59+16 | 55 | 40 | 2 |
単なるブラウザ上のキーワード検索なのでその会社でのPIPなのかどうかとは関係ないかもしれない。しかし、以上のFAANG+Mの中で一つだけダントツにヤバいのがいるのは確かだろう。
AmazonのPIPは際立っている。そもそも、他の企業と違い、unregretted attrition (URA)が「最低で」5-10%になるように管理職にPIP対象者選定を強制する地獄そのものの制度があるのだ。
FBのPIPもよく知られているが、少なくとも建前上は必要な場合のみ行われるもので、最低首切り率などという制度は(自分の知る範囲では)無い。
このような状況で、自分やそのお気に入りがPIPられないように、管理職はbackstab, throw under the bus, hire to fireに長けていくことになる。
まさに地獄である。いや、正直さや善行をappreciateする閻魔様に管理される地獄の方がどれだけ良いか。
ところで、上のランキングの最下位であるNetflix。ではPerformance-based layoffが無い楽園なのかというとまったくの逆である。
どんどん首を切る。制度として確立したPIPすらなく、単に首を切るのだ。もちろんseveranceは選択肢にあるが、多くの社員がそれを選択せず提訴したらどうなるのか、興味がわく。
この辺り、技術者間にランク分けがないのと合わせ、startupの気風を色濃く残すFAANGの変わり種といったところだろう。
PIPという点ではもっとも安全なのはGoogle. PIPがほぼ無く、L5に到達してCME以上なら他のチームに渡り歩くだけで首を切られることは無い。
それはいいことなのかどうか、また色々と風聞のあるGCPではどうなのか、という点まで行くとdepends on whom you ask。興味があれば自分で情報収集してほしい。
今回までで9回、時には30分よりも大幅にかかって書くことになった。
面白がってくれた人、役立つ情報として何かを学べた人、がいれば幸いである。
他に何か、多くの人が興味を持つトピックがあれば次回を書くかもしれない。
但し、「どうしたらシリコンバレーで就職できるか」などの他人任せの質問に答えるつもりはない。自分の人生は自分で切り開いて欲しい。
犬を爆笑しながらいじめる動画( https://www.youtube.com/watch?v=fdPApQrCBV0 )を過去に自ら公開しておきながら、最近は野良猫とか保護猫を大量に飼育して多くの再生数を稼ぐというとんでもない図太さを持ったyoutuberがいるんだが、視聴者ファンの心理を操作する方法がまたかなり"手慣れている”という感じで闇が深い。
ざっくり言えば、「不適切で危なっかしく、虐待とミスリードされてもおかしくない飼育の様子」を、(たぶんわざと)細切れで説明不足な状態で公開し、「これは虐待じゃないです!、投稿者さんは良い人です!」みたいな擁護コメントをいっぱい付けさせて結束させるというもの。
具体例はこういうの↓
例1:子猫を米ぬかに突っ込んで粉まみれにするシリーズで、初期の方の動画からだけ説明文からなぜか「獣医師の指導である」という説明が抜かれている ( https://www.youtube.com/watch?v=EqhPIjy9hCU )
例2:熱中症らしき症状で倒れ込む犬の様子を平然と撮影、公開し、「あとで獣医に診てもらったけど全然だいじょうぶでしたよ~」との報告を"別の動画”でする ( https://www.youtube.com/watch?v=g9aAMlF7ruQ )
動物の身に起きた不幸が、視聴時間の引き伸ばしと投稿者の”善行”を演出するための「ネタ」や「フック」として取り扱われている不審点に気づかぬまま、義憤や擁護の感情に駆られたファンは「虐待ではないことワタシが伝えないといけない!!」みたいなコメント欄でそれを発散し、結束し、結果として再生数が伸び、さらにファンを獲得する。
かくして、もの言わぬ動物を完全に置いてけぼりにした「動物思いの優しいyoutuberと幸せな動物たちの暮らし」という、外からは決して打ち崩せない、ファン視聴者にとってのみ心地のよい物語が生まれてしまった。そんな暗黒の構図がここに見えて大変憂鬱である。
近代版[2]の浦島太郎には、善行を行えば報われるという、「仏教的な因果応報思想」が意図的に盛り込まれるとの解説がある[15]。近代版には、亀が「おれいに竜宮へおつれしましょう」と語っているので、報恩の意志ははっきりしている[注 7][16]。
しかし、近代版では浦島の結末は、短く竜宮で楽しんだ後は老人となってしまう。結果的に自身が不幸に陥ることになるので、報恩といえるかどうか、疑問視もされ[17]、「アンチ報恩譚」とのレッテルを張る論文すらある[18]。お伽噺として不合理な教訓をもたらすことになっているのではないかというものだ[要出典]。また古い浦島子伝説では報恩の要素は見いだせないとされる[19]。
中世(『御伽草子』、後述)の場合は、主人公が単に老化してあるいは死んで終わるのではなく、鶴と化して「めでたき」結末となっている[20]ので、より報恩譚として成立する。これについては逆に、亀の放生を行った程度で容易に無限の宝を得られるでは釣り合わない、との批判がみられる[21]。鶴になる結末は何を伝えたいのかわからないとの向きもある[1]。
精神分析学の岸田秀は、浦島が亀[注 8]に乗って入る、時の流れのない楽園である竜宮城を、抑圧も欲望の不満もない子宮のメタファーとし、軽率に竜宮城を出た浦島が玉手箱を開けることで時間の中に組み込まれる物語は、性的欲望に仮託した子宮復帰願望の物語であり、何の不安もなかった幼い日々を失った嘆きの物語と解釈した[22]。
悟りっていいとかわるいとか決断とか愛とかそういうもんじゃないんですよ
やる気とか分別とか心根とかそういう、なにかを示す形容的なものじゃないんですよ
そうあるという状態をしめすもので、その様子を形容しているようでそれそのもの自体のことを言及すること自体であることが悟りの本質で
それがそれであるということ ということが悟りでそうであるとしているものを悟っているというのです
岩が岩であることを岩としてしめしていることを悟りと言いますし人がそういうものだと思い感じることを悟りというのです
行動したこと 迷いなく身をすて人をすくうという行為をするということがそういうものだとして行う事が悟りです
迷いなく逃げても その理由やその結果をそういうものだとすればそれも悟りです
どうすべきか 常に悩むということを続けることもそれは悟りでもあります
答えを探求するということも それも悟りです
それがそれであるということ なんていうのは当たり前だと思われそうですがなかなかそうはいきません
あの時こうしていれば 本来ならば 本気ならば 次は前のとちがうから とそれがそうではないか?という期待や希望で「それがそれである」という本質を見失いがちなのです
自分をすてて人を「助ける:救う:善行を行う:良好な結果に期待する」という行為にはそれが悪であっても最悪の結果になってもそれが責められても「行動そのものはそれそのものである」とだけ「悟って」いれば答えを求める不安に陥り不安から逃れたいという欲求から安易な選択をしないという可能性が増すということです
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それは名前という音の響きしかないので それが起きているところや時点での物体や現象を共有し他人に同じ認識をもってもらうことで現実に存在させていきます それはわたしがつくったもの いまこれをしてきた 昨日おいておいたこれは私の となりえるのです
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そんな情報を流すことで他に迷いのある他人の心に影響させ行動を変化させるという仕事を依頼したりされたりすることは「存在」しえるでしょう
いいとか悪いとか嘘とか そういう判断などになる以前に「他人の認識に干渉するもの」ということが手段として善悪や優先度に関わってくるものです
後に解体される予定で必要時に必要なだけのビルとしての存在を利用したい場合にその策を講じるのは名案でしょう
しかしその目的が建設物としての利用ではなくデコイとしてしか意味がないことには注意が必要です
もし物件として売ってしまったらそれは大きな相互の認識違いとしてうめるべき差として損失が発生してしまいます
もちろんどんな方法であってもそれが吾の意思であるとして ほかの人の吾であるという意思や認識判断をその人のものではなくさせていないのであれば問題はないでしょう
錯覚させ判断を歪ませ結果自分の思惑に同調させたのであれば 大きく問題があるのではないかということです
悟っていればどうなるんだという判断のお話などは何を選ぼうとどちらになろうとも「そう判断したものはそう判断したものである」という事について「こう判断する そうすべきと然るため」としていることが悟りであり悟っているから悟っているならばどうなるというものではありません
あなたがあなたであるということを知ったり知っているということはそれはすでに悟りです
それを人に知らしめるためには「これが悟りだ」という必要はありません 自分がそこに立っていればそこには「あなたの悟り」があるのです
もじもじしたりずっと確度をかえてみたりうしろを向いてみたり布でおおってみたり あなたが「他人にうつる吾はどういう吾であるべきか」と他人のなかの吾にうつる自分を気にすることは悟りから離れます
他人のなかにうつる吾を気にするとその吾がみている他人のその目にうつる吾のみた他人の そのまた見た吾のみている他人の ということにもなりかねません
そうすると自分が他人との間にたてるべき共通認識のなにかを生産する時間がおおきくそがれます これを小さくする練習が修行みたいなものだったりします
生きていることや経験していくこと自体がそれであったりするので わざわざ利益を排除した純粋な公平判断機材となるべき練習の修行でなくとも 社会的に営利活動をするなかでも見つかるかと思います
悟った自分をいくら他の人の心の中に作り上げようとしても 他人の心を作っているのは他人のその人そのものなので言葉をいくら尽くしても悟ったあなたも悟りもなにも伝わらない可能性があります
またもし伝わったとするならばそれは他人に私の作り方という方法を植え付けただけになるかもしれません
悟ったとして自分が自分であるという確証をもってこれからの自分の行動に自分のものであると受け止められるようになった時 きっとできることは自分の見た風景や自分の一部を他の人が見聞きして感じられるなにかにすべきかと思います
自分語りのショートショートを書くこともそれは一つかもしれません
今回は悟りをテーマにした自分の成長過程を時間のなかに刻むことが自分は悟りの点に今日きたという生産物になったともできるかと思いますが
悟りの中に悟りの解説をいれてしまうと 悟りとは何だったのかという解説の出番がなくなってしまいます
私は一個人として悟りという単語のあるべきポジションとして それは伝えようとするとほぼ自己紹介でしかない 悟っているということは自分が自分自身でブランディングできているということ
こんな使い方であったほうが そんな気苦労を減らして人生が過ごせるのではないかとおもっています
あなたが悟りと呼んだその名前を付ける作業は 人生そのもののことだと私は表現をします
むかし写真家の篠原紀信が自分の写真作品に自分を映り込ませるという事を問題視すると話題になった事や ふるくはドッペルゲンガーの話などあるように
同じ名前の定義で内包する具現化したそれを存在させてしまうと かたちを表しようがなくなってしまいます
「写真」という名前の「写真」が写った「写真」は何なのかわからないものです
攻殻機動隊で魂がどこにあるのかということがゴーストという名称で殻におさまっているストーリーでもありましたがその判断の中核にあるランダムを演算する基礎となる乱数キーのような判断基準が悟りであります
もしあなたが何かを生み出そうとして苦難を感じることがあるとするならばそれはきっとゴーストコピーの苦しみのようなものかもしれません
大きな定義の名前をつけて気苦労だけしていくのがわが人生 という生き方もまた悟りだと思いますので個性をお大事にいただければと思います
宗教改革以前のヨーロッパなら少女がマーケティングなど考える必要もなく、「貧民救済など善行こそ天国への一里塚」の精神にもとづき、教会や修道院を基盤としたカトリックのネットワークのどこかが彼女に手を差し伸べたのではないか。
ルター派を奉じる19世紀デンマークではそれに期待できない。英国国教会のイギリスでも、修道院解体後に制定されたエリザベス救貧法は貧者を労働可能な者と不可能な者に分類し、前者には労働を義務化し、強制するものであった。
近代ヨーロッパの誕生は、ヴェーバーが言うところの「経済的個人」の析出、およびマルクスで言うところの「二重の自由=疎外」とともにある。
でもキモくて金のないオッサンが善行成しても気持ち悪がって叩くかそもそも見向きもしないんですよねわかります
でもキモくて金のないオッサンが善行成しても気持ち悪がって叩くかそもそも見向きもしないんですよねわかります
まず最初に警告しておく。
タイトルにもある通り、私は殺虫愛好家であり、今から始めるのは基本的に殺虫の話だ。
もしあなたに潔癖症の傾向があるか、名前を聞くのも嫌な虫がいるのなら、どうかこの先を読まずに引き返してほしい。
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ここ数日ネットの各所では、大雑把にまとめてしまえば「社会的に認められない性的嗜好をどう扱えばいいか」という話題が飛び交い続けている。
これに対して「社会的に嗜好としての理解はされずとも、行為に対しての感謝はされる」立場、殺虫愛好家の私にも少し思うことがあったので、拙いながらも書き連ねてみようと思う。
先程から繰り返している通り、私は「虫」を「殺す」のが好きだ。
アリンコを踏み潰し、羽をむしったトンボをカマキリに食わせて楽しんでいた子供時代の精神をそのままに、罪を犯さない程度の社会性を身につけて成長した。
まだ性的興奮を覚える域には至っていないが、虫を殺すことで多幸感を得ている自覚は十分にある。
そして運良く、殺虫行為が日々の業務として認められる職種……飲食店で働いている。
はっきり言ってしまうが、飲食店の厨房から虫を根絶するのは無理に等しい。
水道管、換気扇、近隣の家屋、届いた段ボール、侵入経路はいくらでもある。
それに奴等は生命のスパンが短すぎる。いくらでも生まれていくらでも産む。
だからこそ、私のような殺虫愛好家はこの仕事を飽きなく楽しめる。
私の業務は手洗いがてら洗面台にたかるチョウバエを泡で捕らえることから始まり、店を閉めた後で厨房の床に湯を撒いて彼らの子供たちが力なく流れていく様をせせら笑って見送りながら終わる。
それまでの間にも、醤油の匂いを嗅ぎつたショウジョウバエにアルコールを吹き付け溺死させたり、積荷に紛れたチャバネゴキブリを段ボールごと踏み潰したりもする。
定期的な殺虫剤の撒布も、死骸の後始末まで含めて喜んで行っている。特にゴキブリワンプッシュ。あれはあえて隙間から明所へ出てきて死ぬよう設計されていることもあり、私との相性は最高だ。力なく這い出てくる大小様々なゴキブリをモグラ叩きのように仕留め続ける。正直テーブル拭いてるより楽しい。
毎日ではないが、野菜をおいしく食べていた青虫を虫食い共々ゴミ箱に叩き付ける日もある。電灯につられて入店してしまった蛾をそれとなく握り潰す日もある。屋根の下で横たわるセミファイナルに引導を渡す日もある。
……それ以上となると飲食店として必要な業務ではないので、わざわざ外に飛び出して殺したりはしない。それといついかなる場合もその後の手洗い消毒は忘れない。
そうした私の殺虫行為は、少なくともこの飲食店という小さな社会では満場一致で「善行」と見なされている。
店長やオーナーからは、汚れ仕事も進んで引き受ける点を評価してもらえている。
同僚からは、急に湧いた虫を始末すれば、例え社交辞令だろうとも感謝は必ずされる。
客からは、逆にもし虫が料理の中に入ってしまえばクレームを入れられているわけで、それを防げている以上は相対的に良い心象を持たれているはずだ。
と、ここまでは「私自身の頭の中で考えている以上は」美談なのだが。
この場のように、こういった話を人に打ち明けてしまうと、少なからず次のようなことを考える人は出てくるだろう。
「命を弄んでいる奴のどこが良い奴なんだ?」
「虫を殺して楽しんでる奴は、欲求がエスカレートして犬猫や人間まで殺し始めるんじゃないか?」
私だって殺虫行為そのものを、手放しに善行だとは思っていない。
どんな虫にも生きる権利が認められる世の中なら、私は快楽殺虫鬼として裁かれるだろう。ジャイナ教に従えば、来世の私は虫以下の存在になっているだろう。
しかし私は、人の飼っているカブトムシを籠から出して引きちぎるような、殺虫に狂った人間じゃない。
童心に帰り、野山の虫を惨たらしく殺してやりたい気持ちも否定できないが、社会人としてあるからには、社会として許されるまでの殺虫をしているだけだ。
それが「虫」なだけでは殺さない。それが店にとっての「害虫」ならば、実害がなくともその状況に於いて「不快害虫」として認められるならば、殺すだけだ。
仕事として認められ、誰かから感謝される行為だから、私は白昼堂々……とまでしてはいけないが、縁の下で率先して虫を殺し、それで満足している。
そして、これは私に限った話だとは自覚しているが、私は虫以外の動物を己の手で殺したいとは一切考えていない。
端的に言うと血や骨、臓腑の処理をしたくないのだ。オタマジャクシ一匹だろうが死なれたら困る。ホイホイに引っかかるヤモリとか本当にやめてほしい。
私が楽しみながら触れられる脊椎動物の死骸は、血管や臓物と切り離された、おいしい食肉やあたたかい毛皮だけだ。私の職場が調理肉の状態で届く店で良かった。
そんなように、「虫を殺して楽しい」と「飼われた犬猫や人間の殺害」みたいな、一見段階的な関係にも見える嗜好と犯罪行為との間には、社会的な規範や、倫理的な了解や、個人単位の好き嫌いなどいくつもの細かい隔たりが存在しており、それらが人を犯罪行為に走らせぬよう機能しているはずだ。
それでも、私の場合はただ、恵まれていただけだ。私が殺虫の認められる社会に所属して、私が殺虫で喜ばれる仕事を得て、私が殺虫以上の欲求を持たないから、全てが噛み合い今の今まで機能しているだけだ。
これが、物議を醸した先の人物のように、社会として認めらなかったり、正統な仕事として実行できないものだったり、満足せずに発展しうる欲求だったりしたならば、私はとてもじゃないがこんな話を増田にしたためている場合ではない。私が起こしうる犯罪について真剣に考えなくてはいけない。
いや、殺虫に関してもそれが犯罪になりうるものではないか、誰かの権利や尊厳を損なうものではないか、立ち返らなければいけないことに変わりはないが。
金が目当てだった。まあ時給1500円だけど。
面接では1年は続けられそうだと言ったが断言はしてなかった。
やってみると割に合わんなと思った。時給あと倍ないと無理だなと。
そしてうまいこともう少し稼げるバイトも見つかったので勤務先にやめると言った。初勤務から3ヶ月目のことだ。
そしたらキレられた。
子供達のことを考えろとか知らんがな。倍出せば続けるよと言ったが案の定火に油だった。
とにかく続けてくれと言われたがあと1ヶ月だけでトンズラする旨を伝えた。
非常識とか常識が欠如してるというのは何度か言われたが無視した。労基法も守らんバナナうんこはぱくぱくもぐもぐした方がこの世のためなのだ。
また1つ。私は善行を積んだ......
金が目当てだった。まあ時給1500円だけど。
面接では1年は続けられそうだと言ったが断言はしてなかった。
やってみると割に合わんなと思った。時給あと倍ないと無理だなと。
そしてうまいこともう少し稼げるバイトも見つかったので勤務先にやめると言った。
そしたらキレられた。
子供達のことを考えろとか知らんがな。倍出せば続けるよと言ったが案の定火に油だった。
とにかく続けてくれと言われたがあと1ヶ月だけでトンズラする旨を伝えた。
非常識とか常識が欠如してるというのは何度か言われたが無視した。労基法も守らんバナナうんこはぱくぱくもぐもぐした方がこの世のためなのだ。
また1つ。私は善行を積んだ......