はてなキーワード: 負の感情とは
子供の頃から、世の中の「闇」というものに対して、異様に怖い感覚がある。
「闇」と言うと感覚的だが、「悪」の定義を少し広げたようなものだ。馬鹿にする、見下す、茶化す、ネタにする程度のものや、冷たい、メシウマ、突き放すなどの冷酷さ、そういった負の感情や行動に対する強い恐怖心がある。
そういったものは、ざっくり「闇」という名前で括っている。簡単に言えば「正義とルールとマナーが守られていて、暖かみのある人間や場所」しか安心できず、それ以外の存在に対する極度の恐怖心である。
そしてこの「闇」への恐怖心は、田舎の廃墟であったり、あるいはボロアパート、あるいは場末のスナック、あるいは薄暗いビデオショップなどの、私の中のある種の「貧しさ」のイメージと、密接に繋がっている。あとはバッドエンド系の青年向け漫画なども、そういった「闇」を感じさせられる。
子供の頃はこの「闇」が消え去った、誰も不幸にならない、完成された世界を作り出したいと願っていた。だがその闇は年月を追えば追うほど、私の生活の周りに這い上がってくる。振り解けば解こうとするほど、闇は私の近くに差し迫ってくるように感じる。
「闇」というのは、おそらくは「貧困」「孤立」に対する恐怖心の、私の中の原初的なイメージの事だ。私の家庭は一言で言えば「貧困家庭ではないが機能不全家庭」であり、故にそうした貧困への恐怖は、実際の貧困家庭出身の人間以上に、「見えない」からこその恐怖心が肥大化している。
といったルールが定められているコミュニティは決して珍しく無い
それは「◯◯支持派」「□□支持派」といった、支持派閥の違いによる対立・言い争いにより場が荒れるから、というのは理由の一つ
もう一つは、単純に『ネガティブ』な書き込みが増えるからである
増田やブクマカを見れば分かる通り、◯◯支持派による「◯◯のここが素晴らしい!優れている!」といったポジティブな書き込みよりも
「□□のここがおかしい!□□を支持している人間はゴミクズ!」といった、◯◯支持層以外をsageるネガティブな書き込みの方が多く、より反応も得られる
◯◯支持派以外を揶揄・誹謗中傷・愚弄する様なネガティブな書き込みは、例え政治に興味なくとも、単純に見かけた人間の気分をsageる
増田も近年、嫌儲から避難してきたであろう政治厨や対立煽り障害者がやれあれは駄目これは屑こいつは犯罪者、などと騒ぎ煽り立てる増田を乱発し
以前いたコミュニティも、男女対立煽りのネタが増えて元からいた層がうんざりしなくていなくなり、荒廃してしまった
増田も似たような末路を辿る気がしてならない
癌になったので臓器丸ごと手術で取ってきた。
診断直後に臓器丸ごと取るか腫瘍だけ取るかをちょっと悩んだものの、決めてからは結構さくさく進み現在はリハビリ中である。
手術前準備であらゆる科を回ったところ、だいたいのカルテに「気丈に振る舞っており極めて冷静」と書かれた。割と取り乱した側だと思っていたので頭をひねるも、そういえば自分には身近に比較対象がいないのだった。
術後の痛みの具合やどのくらい動けないかなど、体験談があれば参考に聞いてみたい。
身近にいなければネットの海だ!と軽い気持ちで検索し、難なく罹患者体験談を見つけることができた。
健康診断での疑いから診断確定までの動揺、これまでの生活の後悔、人生設計の見直しによるストレス、検査結果が出るまでの長期の不安感、癌のステージや終わりのない転移に振り回される疲弊。
体験談にはあらゆる負の感情が細かく記されており、時間が進むにつれ「これは人生の試練である」「自らの成長のきっかけである」という結論に集約されており、独特の明るさや精神的成長の記録に満ちていた。
苦手分野である。
術後のドレーンの痛み具合・退院後の一般的な療養期間・入院便利グッズなどが知りたかったのであって、他人の試練や心理的成長には興味がないのだ。
テキスト群でこれだけ感情が読み取れるのだから、医師や看護師の人たちの前ではもっと大きく感情が出るんだろう、と先のカルテの記述に思い至ったのである。
分かるんだけどね。
自分も罹患者グループ入りした手前、自分に降りかかった不幸に理由付けをしたくなる気持ちも、罹患によるメリットを体外的に示したい気持ちもよく理解できる。不安になって体験談を公開する心理は今まさに自分がやってることだし。
でも、そこまでの気分じゃない時に目に入る、セミナーめいたポエムたちはちょっと肌に合わなかった。
結局2〜3個の体験談を読んだあと、ドレーンが痛いか痛くないかの事前確認は諦めたのであった。
ちなみに、実際に入ったドレーンは痛くなかった。
ただし抜けた後の穴がなかなか塞がらず、その間に術創までの道が膿んでしばらく痛み、長く苦しみました。
常にあり方を変えてくれるナニカを求め続けている。
知らなかった頃は、愛がそれかと思った。今も彼女のことを心から愛している。最初に会った時には、ここから人生が動き出すのか、己の人生もようやく灯ったか。
本心から期待を抱いた。淡かった。私をただ認めてくれる人間の存在は、確かに助けにはなったのだが。
人は人生の問題が一つ解決しても、それだけで全て救われるものではない。
浅ましいこと限りない。どれだけ欲張れば気が済むのか。渇愛の念は弱まり、自責の念だけが残る。素晴らしい彼女からの素晴らしい愛によって、生きる理由が一つ増えた。それでも、自分にとって自分は不愉快なままだった。
生きる理由が増えたことは、生きたい理由が増えるということではないらしい。
また一つ、希望が消えた。一般的に生きる理由とされるもの。年を重ねるごとに、生きる理由の心当てが無くなっていく。私は変われないのだろうかと不安になる。
負の感情を抱くことは、それ単体で生きたくない理由になる。生きる理由のストックが減り、生きたくない理由の不良在庫だけが着々と積み上がっていく。
ここまでの思考すらも負の感情足り得る。人に救われたい。でも救われたくない。
進めないまま、ここで立ち止まって生きるしかないのか。嫌だ。苦しい。
両親は善人だ、友人は善人だ、社会に生きる人間は、随分と楽しそうに生きている。
知能も、身体能力も、感情の抱き方も、愛も、信頼も、社交力も、努力も。
社会で必要だとされているものが、全て中途半端。全く持っていなければ諦めもつく。
諦めるには惜しいだけの要素が揃い、上を目指すことだけはできる立場にある。立場上は。
周りの人間は私に期待してくれる。過剰な評価だ。根拠が弱い、そうあって欲しい願望だ。
死ぬこと自体ももちろん難しいことだ。完遂できる自信は、はっきり言ってない。
私を生かすために私以外の人間が捧げたものを返すまで、死ぬことは許されない。
現世こそ、真に無間地獄のように思う。
他人との怒りの話題で話が噛み合わないのは、マジでこれが原因だったのよね
ワイの強い怒りの衝動は、相手に謝罪や反省、負の感情を持ってもらうことを求めてはおらず、単純に破壊したいという衝動に基づいている
強い怒りを感じた場合、即座に反撃する。その場で、相手から謝罪を受けても、相手の反省のポーズを見ても、衝動はおさまらない
なぜなら、ワイの行動は破壊したいという衝動に基づいているから
えっ、何?破壊したいってどゆこと?っていうと、そのままだよね
ストレス解消のために皿などを壊したりする、“Rage Room” とか “Break Room” とかのサービスあるじゃん?(日本にも物ぶっ壊し体験としてある模様)
Rage Room
https://en.wikipedia.org/wiki/Rage_room
Rage room | CBC New
ただ、ワイは物や動物に対しては破壊衝動を感じない。『物が可哀想くない?』となったり、『物を作った人に対して悪いことをしている』となるため、物を壊すことに抵抗がある
また、関係のない人に対しても破壊衝動はないが・・・・・・・ーーー直接的な原因となった人や無形のものに対しては純粋に破壊したいと感じる(ホラー)
クソ雑魚ナメクジゆえ、他人に対して物理的な衝動を向けることはないけども、書ける(過去書いちゃった)範囲だと、例えば下記(ガン詰したから上司泣いちゃった)
この強い衝動は、水泳やジョギングをしても収まらず、瞑想や創作、ゲームや映画を楽しむために静かに留まることもできない
場合によっては食事も取れない。そもそも座っていることすら難しく、エネルギーが完全に尽きて眠るまで、対象をどう破壊するか以外にはまったく集中できない
それは1日であるかもしれないし、数週間かもしれない
怒りの対象に対しての目標が単純な破壊であるため、他人の共感を得ることもできない (むしろ、今からそいつを これからそいつを 殴り行こうか〜ってなったら怖いよね)
しかし、この強い衝動に『破壊衝動』というラベルを適用することで、ワイは以下のような認識に至りました:
以上の理由から、破壊衝動に身を任せることは避けるようにしました。万能の解決策ではないけど、多少の効果は感じてる
(そもそも、最近は怒ること殆どないけどね。気張って生きなくなったから)
あと、どんな風に考えようとも、結局、長い時間掛けて認知変えてくしかないな・・・となりました
これは自慢でも何でもなく、真剣な悩み。
内側っていうのは、もれなく矢印を自分自身に向けてしまうという意味だ。人への愚痴や陰口、悪口、罵倒ができない。その代わり、自らに向ける汚い言葉は沢山出てくる。だからそういう時は、外部との接触をすべて絶って、一人で汚い言葉に向き合う。
学校やバイト先に行くと、(ネット、あるいはここもそう、)さまざまな悪口や陰口が飛び交っている。私もたまに、友人たちのこぼす負の感情を聞く。私はそれらに「悪いこと」という感情よりも先に、「すらすら言葉にできるなんて凄い」と思ってしまう。何も言えないのだ。言えないし、分からない。
今日、かかっているカウンセリングの先生から、「〇〇さんは孤独に過ごしているみたいで心配」と言われてしまった。自らに悪口雑言を向けている時は、前述の通り外部との接触を断つ。別に、悪口は言ってもいいのだ。少しくらいは。先生が言うにはそうらしい。
ストレス発散には、多少汚い言葉を吐くことも必要なのだろうか。本当に言えない。自分には溢れるほど出てくるのに。今も、何でこんなこと書いているのかと、ずっと自責している。
本人たちは「アンチなんてしていない」と口を揃える
なのに原作の話の流れが気に食わないとつまらないつまらないって叫んでいる。
こういう展開にしろって俺の考えたさいきょー展開を垂れ流している。
不思議でならないから原作の悪口を言いながら同人誌を作るオタクがこれを読んだら教えてください。
なんで同人誌作ってんの?
原作を楽しんでる私からしたらアンチにしか見えないんだよ。原作者の悪口を言う人間なんて目に入れたくない
自衛はしてるよ
けど君たちがまるで普通のファンのような顔してそこに存在してやがるのが無性に腹立つ時があるからこれ書いてる
こういうことを言うと少しの否定意見も許せない盲目信者扱いされる。まあ好きだから否定意見を見たくないのはあるんだが…
でも同人誌出しながら悪口言ってる人たちはその悪口言ってる作品の原作者が死に物狂いで描いてるキャラを使っている自覚ありますか
でも同人誌出しながら原作に負の感情を撒き散らすオタクは大嫌いだ
存在してほしくない
同人誌出してたら文句言ったらダメなのかって言われたら私は迷わず当たり前だろって返事するよ
なぜやめない?
他人の悪口言いまくったり嫌がらせしたりするの自分の感情を抑制したりコントロールできなくて"どうしてもそうしてしまう"んだなと気づいた
増田がどんなに頑張っても人の名前覚えられなかったり使った物片付け忘れちゃったりするのときっと一緒なんだろう 脳の特性がそうなってるんだな
"感情のまま周囲に負の感情を撒き散らさない"ということができなのかもしれないと理解したらああそうなのかってなった
自分が簡単にできること他人もできるとは限らないってわかってるけど、いざ自分が全く苦もなく当然のようにやってることできない人いるとわざとやってるのかな?と思っちゃうのは定期的に思い出す必要がありそう
増田も人の名前覚えないし間違えるの嫌がらせか?とか使ったもの置き忘れるの片付けるのめんどくさくてわざとか?とか何とか思われてるかもしれんしな 肝に銘じておこう
なぜ、インターネットに悪口を書きにくくなったのか。私はその原因を知っている。匿名がどうとかいう問題ではない。簡単に結論から言えば人気者の巨大化だ。
「推し」という言葉が流行っている。本来「推す」はある地位に推薦するという、限られた意味の言葉であるが、昨今単に「好き」を置き換えたとしか思えないような形で濫用されている。この「推し」という概念は言うまでもなく欺瞞である。悪辣なアイドルグループが双方向性を捏造するために広めた概念だ。コンテンツの消費者を数字ではなく、一人の意思のある人間として扱いますという嘘だ。人のことをなんとも思っていない「人気者」とコンテンツ産業が、人々から承認を奪うために蔓延させた害悪である。
人気者とは、限りある人の認知リソースに食い込む能力に長けた人物のことで、要は好かれる性質を持った人間のことだ。インターネットはこの好かれる性質を使って金を稼ぐ狩り場に成り果てた。なぜ私が、「限りある」と強調するのかというと、人が人に抱く感情は有限の資源だと考えているからである。つまり、「人気者」に向けられる感情の総量が多くなればなるほど、私達が身近な人たちに無関心になっていくということだ。ビジネスという動機付けによって狂ったように加速していく双方向性や身近さ、帰属意識の捏造は、私達のコミュニティを破壊している。私達はコミュニティから得ていたものをコンテンツから摂取するようになり、身近な人と人との繋がりに感じる価値は絶対的に低くなり続けている。身近な他者との繋がりではなく、「推している物事」が自己を規定するようになる。限られた一部の巨大化した人気者に人間の感情は集中して向けられる。つまり自己規定も、その多様性を失いつつある。
アイデンティティが商業的に画一化された社会で、何か物事に対してネガティブなことを発言するのは、その物事に存在を依存した大量の人間を傷つける行為だ。インターネットの人気者に対して有象無象が友達のような態度で褒め称えたり慰めたりする光景を見たことがあるだろう。遠く離れた手の届かない人間に友達だと勘違いさせられた哀れな人間が、友達の成功を喜び、友達の悪口を見聞きして傷つくわけだ。なんて馬鹿らしいことだろう。コミュニティが破壊され、「推し」が自己を規定するようになった人間が増えると、悪口の影響が不必要に大きくなる。これがインターネットに悪口を書きにくくなった大きな理由の一つだ。
私はインフルエンサーの悪口を書くべきだと考えている。誹謗中傷をするやつは画面の向こうに人がいることを忘れた~とか間抜けなことを抜かすやつがいるが、それは人から好かれる性質を楯に欺瞞を広め数字を稼いで人間の生活を破壊しているインフルエンサーにこそ当てはまる指摘だ。巨大化した人気者に人間の、限りある負の感情を集中して、巨悪を打ち倒すべきだ。自分の行為と人々に感情を向けられて得た利益を棚に上げて、受けた被害ばかりをことさら強調する悪党を、許してはいけない。そして悪口によって沢山の人を傷つけることで、「推し」が自己を規定するようになってはいけないという、極々普通の当たり前のことに気付かせるべきだ。そして、嫌いなものがある人間は面白いという、当たり前のことにもう一度立ち返って、私達は、私達の隣人と慎ましく暮らそうではないか。もう一度、愛と尊敬の念を持って、私達の身近な人々と日々の生活を形作ろうではないか。インフルエンサーを駆逐せねばならない、と強く思う。
全然矯正されない、、いや、なんだかんだずっと一人になれない環境でなんとかやってるのだから矯正されたのかな?
1個アドバイスにもならないアドバイスというか、最終手段かもなんだけど、期待しなければ割と耐えられる
辛いとか悲しいとか怒りとかは相手や環境に期待しているから生まれてくるものなので、そこに希望を抱かなければ負の感情も生まれにくい
一人になれないのが辛い人って未だ一人になれるかもという希望を持ってるんだと思うんだよね
だから今後の人生でもうひとりの時間を楽しむっていう選択肢は消してしまう。選択肢があると思うからつらくなる
自由に空を飛び回れないって理由でしんどい人間っていないと思うんだけど、
もし自由に飛び回れてた人が飛べなくなったら絶望感半端ないと思んだよね
周りの友人が飛び回ってるならなおさら
だから最初からそんな選択肢はないのだと納得してしまうと良いかなと
そしてそれはそんなに悪いことじゃないのよ
9:1くらいで増田に非はないと感じる。
その前提で、相手が先行ブロックしていたのは、増田に頼らず自分の力だけでやってみたかっただけかもしれないことを言っておきたい。負の感情がなくてもブロックすることはある。
ただ、その上で増田が不快に思う気持ちは当然で、増田の行動は確かに行きすぎた部分もあるかもしれないが、その位は言う権利があると思う。意趣返しでもなんでもなく直球で文句なのだから、これはもう仕方ない。
ただ、A子さんは恐らくスキルとして自分のまずいところを察知する能力も切り分ける能力もない。
だから、そこは諦めるか諭してあげるかしてあげてほしいなという気持ちはあった。
でも、この手の人に諭してもヘイトをためて向こうが絶縁してくるだけなので、どちらにせよ不毛である。
お疲れ様でした。
インスタに子供の写真とかハイスペ彼氏の写真を上げまくってる女子、サークル時代はパッとしないか
埋もれていた人なので、「満たされている」というよりかは「満たされてなかった」人が取り戻してる感じがあるな。それで今は満たしている最中なんだと思っている。
でも「受け手を喜ばせる情報」ではなくて「発信者である自分を喜ばせるための情報」を永遠に見続けるのはストレスなので、2ヵ月くらいたったらミュートにしている。
カッコいい彼氏ができた、子供ができた、そこで舞い上がって自慢するのはわかる。
こちらも近況がわかるし、素直に喜ばしいと思う。
でも舞い上がりの時期が終わって、興味が無くなっても、
いつまでも需要の無い同じ情報を発信してくるのはささやかな加害だ。
「あ、こいつマウントしたいんだな」と思ってしまう。「そういえばこいつパッとしなかったな」「愚痴ばっかりだな」「ガキの顔上げながらガキの愚痴言うの頭おかしくないか?」「なんで知らない男の笑顔見なきゃいけないんだ?ちょっと男の顔も呆れてるし」
負の感情が増えていく。
妬みや恨み、その果てには。「お前さ、俺の事馬鹿にしてるんだろ?言えよ!」
ってなってくる。そうなったらそっとミュートする。人間性を疑う場合はブロックしておく。
ストレスを貯めないのが人に優しくできるコツだ。
喪服に腰回りが入るか心配をする季節。祖父の三回忌がもうじき行われよう、という頃であった。
祖父を追うようにして、と言うには少し年月が経っていた。そして、三回忌になる祖父の死を、祖母が認識できていたかは、はたしてわからない。
要介護4。祖母が認知症を患ってから、もう20年は経っただろうか。
合掌。
**
戦前を知る祖母。海外旅行が好きで、アルバムが何冊もある。そのほとんどをめくったことはないし、思い出を尋ねたこともないが…。実に惜しいことをした。
裁縫が得意で、幼少期に好きだったゲームキャラクターのぬいぐるみを、ねだって作ってもらったことがある。手作りのプレゼント、と思い返すと、今でも気持ちがあたたまる。
祖母は長年、自営業だった祖父の会社の経理を務める傍ら、学童保育なんかの地域活動に勤しんでいた。60歳を過ぎたあたりで、そうした仕事縁が切れてしまったようで、毎日、特にすることもなく、会う人もなく、自室に籠りがちになった。
特に具合が悪いとは聞いていないが、時おり部屋を覗きに行くと、散らかり放題。まず、足の踏み場がないくらい服が散乱している。万年床で力なく横たわる祖母の頭上には、布マスクが何枚も干してあり、床には消費期限切れのあんぱんやバナナが、袋に入ったまま潰れている。
当時はげっそりするばかりで、祖母を慮ることができなかったが、おそらく、鬱だったのだと思う。社会に、自分の居場所がなくなってしまったのだ。家族でさえも、居場所を作れなかったのだと思う。
おばあちゃん、なんかヘンだね、と家族で話題にあがることもあるが、「しっかりしてよ!」と本人に言うくらいで、解決のしようがわからない。これからしばらく経つと、祖母の口から物や人の名前が出てこなくなり、めっきり口数が減った。
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次いで、認知症らしい症状が出てくる。
自分の食事が済んで部屋に戻ったあとで、入れ歯で咀嚼に時間がかかり、食事の遅い祖父に対して「まだ食べているのか」「洗い物ができない」と小言を言いにくるようになった。…3分おきに。
あまりに頻度が過ぎるので、逆に祖母が咎められる始末。でもまたすぐに、小言を言いに戻ってくる。まるでコントのようだが、本人の言い方は鬼気迫っている。見方によっては、祖父にだけは強く出られる、…それは愛情だったのかもしれない。
わかった、わかった、と折れるが食事の終わらない祖父。 その後、また小言を言いにくる祖母。祖母が老人ホームに入るまで、夕飯時はこのシーンが毎日、繰り返されることになる。
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振り返って、認知症の決め手に思えたのが、「死んじゃいたい」という祖母の発言だった。小言を言うようになって1年ほど経った頃に、祖母がふいに口にしたのだった。
なんてことを言うんだ…! …と驚いた。家庭に、希死念慮のある人がいるとは。
「情けないよ、死んじゃいたいよ」
これを何遍も繰り返す。認知症の人は、直近の出来事の記憶はなくなっても、腹が立った、哀しかった、恥ずかしかった、という感情は残るのだという。おそらく祖母は、このときには自身の認知症をはっきり自覚していて、それに伴う負の感情が、いよいよ堰き止められなくなったのだろう。
これはもう家族の手に負えない、と思って診断を受けてもらうと、当時は軽度ではあったが、やはり認知症の認定をもらったのだった。遅かった、と悔やむが、早ければどうにかできたのだろうか。接し方くらいは、変わったかもしれない。
買い物は危ない。出先で声をかけられたのか、家族で登録済みの生協に個人でまた登録してしまったり、フルーツの訪問販売に食べきれないほど買わされそうになったり、人の良さや判断能力の鈍さに"付け込まれる"ことは多々あったが、それでも祖母は、自宅で自分の身の回りのことをやれるだけの元気はあった。
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我が家ではねこを飼っている。認知症の祖母にとっても、ともに同居する家族にとっても、ねこの存在は救いだったと思う。
相変わらず祖父への小言は絶えなかったが、ねこを愛でるときは、祖母本来の、やさしい気質を感じさせた。
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祖母と過ごした時間は、祖母が認知症を患ってからの期間の方が、ずっと長くなった。
もう祖母の思い出というと、例の夕食のシーンがほとんどだったが、あるとき反物をもらったので、これを浴衣にしてほしい、と無茶を頼んだことがある。
「ずいぶん久しぶりだから、どうかしら…」
ちょっと困った顔をしていたが、やるだけやってみる、と十数年ぶりかに、針と糸とを手に取ってくれた。
数日後、ちょっと丈の短い浴衣が完成していた。物が出来上がったこともうれしかったが、大変だったのよ、とこぼす祖母の"小言"にも、うれしさを感じた。
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それから私は家を出て、LINEで家族から近況を伺うか、たまに帰ると名前を忘れられている人になるか、そういう距離感で祖母と接していた。
認知症が進み、施設介護が必要になってきた。ショートステイから始めて、遂にホームに入居するようになった。相変わらず、祖父は食事が遅いが、それを咎められることもなくなり、家は静かになったそうだ。
一方で、祖母はホームではよく食べるようで、自宅にいた頃よりもがっちりとした姿を写真で見せてもらっていた。
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一昨年、祖父が持病で亡くなった。
"長生き"が目標。90歳を超えて、呼吸や聴力、咀嚼に難はあったが、認知能力に問題はなく、足腰は丈夫で、最後まで自分の身の回りのことはこなしていた。友人には先立たれ、お金もあまりなかったようだが、酒と煙草はやめられない。…適量でね。カメラと高校野球が好きな、元気な人だった。大往生だろう。
年齢からすると、祖母も大往生と言える。ただ、人生の後半20年は、認知症との並走だった。家族も辛かったが、本人も辛かっただろう。どんな心境だったか、皆目検討がつかない。
本人が「情けなくない」と自分に安息できた瞬間は、この老後にあっただろうか? ひとつ、ねこを撫でているときは、そうだったかもしれない。
孫の私は30歳を超えて、訃報を聞いたきょうも、だらしなく生きている。もう倍生きると、祖母の認知症が始まった歳になる。
「情けないよ、死んじゃいたい」と、私もいずれ、誰かに言うことになるかもしれない。誰に言えるだろうか? そう口にしてから、どう仕切り直していけるのだろうか?
百科のページアクセス数だけで決めているという潔さはいいのだが、そのせいで作品タイトルやキャラクター名ばかりになっている。
ダブリの管理とかも一切せずFGO・ブルアカ・ガンダム辺りから複数ノミネートが当たり前のように起きている始末。
これを見ても「何が今年話題になったのか」なんて全然分からん。
たとえば「にじさんじ」が流行語とか言われても2023年のにじさんじの何が流行したんだよとしかならなくなねっていうね……。
つうかどれも「それの何がこんなに流行ったのか」が全然伝わらねえのよ。
1人3つまで!『ガジェット通信 ネット流行語大賞2023』一般投票スタート / 締切は11月29日17時 | ガジェット通信 GetNews
ガジェット通信がやっている方。
ユーキャンがやっている流行語大賞と比べると治安の悪さが一目瞭然。
増税メガネに始まりドリル優子や公金チューチュー、教育教育死刑死刑にスシローペロペロ、最新のネタとしてデスマフィンまで取り入れる貪欲さ。
もはや私刑のセケンドレイプとさえ言えるラインナップでインターネットという空間に人々が求める負の感情が凝縮されている。
スポーツでもアーティストでもアイドルでもマイナーな趣味でもなんでもいいんだけどさ
ファンクラブに入るってことはそれだけその物事に対する熱量があるからできるんだろう
有料ならなおさらだけど、無料であっても自らファンクラブに入るって行動起こすのはそんなに簡単じゃない
増田にはそんな熱量を持てる事柄が存在しないから、そんな人は幸せなんだろうなと思う
もちろん、ファンクラブ内のしがらみがあったり、希望のサービスが受けられなかったりと負の側面はあるんだろう
世の中に対する関心が薄いかっていうとそうでもないんだよな
だからと言って、Bリーグとかほかのラグビー観るかっていうと観ない
だけどメジャーリーグは観ない
でもファンクラブに入る気はない
Abemaプレミアムに加入する気もない
ほどほどに楽しめてるからいいのかもしれないけど、もっと熱量をもったほうがいいのかとも思う
今後、どうすればいいんだろうか
いい年をして職場で押し付けられる事務処理がなかなか自分の担当というかたちから変わらず、やりたくねえなあと毎日思いながら毎日やっている。
誰に尋ねても必要性がうまく説明できない業務と、それに伴う得体の知れない数字。PCのスクリーンと紙面の両方でこれをにらんで、憎悪と疲労で膨らんでいく負の感情を、せめて、自分の次の若手はこういうくだらない作業から解放してやりてえな、という気持ちで中和しようとしながら、積み重なった量をようよう消化している。
…
あるイラストレーターがtwitterで、「自分が受けた嫌な経験を、他人には経験してほしくないと思うのと、味あわせたいと思うのと分かれ道はどこにあるのだろうか」ということを書いていた。
…
これを見て最初にイメージしたのは、中学生の頃にやったドラクエ7の石板集めのことだ。
ストーリーを先に進めるために、割れた石板のピースを集めて一枚に復元する必要があるのだが、これの一部分が欠けていると、極端な話、これまでに行ったすべての街やダンジョンを訪れて探し直さなくてはならない。ちょうどゲームの攻略とインターネットがクロスし始めた時代だったので、自宅に環境がある人なら特に困らなかったのかもしれないが、我が家はそうではなかった。一度通過した興味のない場所を嫌々たどり直す、ただただ苦痛で、うんざりさせられる「作業」に多くの時間を費やすことになった。
ドラクエ7は何回かリメイクされているようだが、もし石板集めが簡単になっていたら、過去の経験者としては少し残念? な気分がなくもない(それこそ、いまはネットに接続しない攻略環境なんてほぼあり得ないので、当時のままでも困りはしないだろうけど)。
あれが醍醐味だったのに、とは口が裂けても言えない。あの石板探しはまごうことなきゴミ要素だった。
それでも、今のユーザーにもあれを経験してほしい、と思うのは…なんだろうな?
もしも楽になってしまったら、当時のプレイヤーだけが馬鹿馬鹿しい時間の浪費に巻き込まれたことになって気に入らないから?
「まあさ、こういうゲームだったんだよ」と新規のユーザーの肩を笑って叩くため?
なんにしても後ろ向きで、なんとなく湿り気のある、あまりポジティブな感情ではなさそうだ。
ゲームの経験というのは、けっこうこういう感情に人をとらえがちな気がしていて、過去の経験者はどこかで、評判の悪い要素にブーブー言いながら、新しい参入者も被害者になるのをどこかで楽しみにしている気がする。
…
それでも、嫌な経験というのは、基本的には根絶されていくべきだと思っている。
だいたい、世代が変われば次の世代にはそのときの悪弊が新たに生まれるのだから、今あるものを積極的に無くさなければ、どんどん増えてしまう理屈である。俺が最後の世代だ。そういうつもりでやっていることがいくつかある。
…
そろそろ定年も見えてきた大変に優秀な人である。燃え尽きた、ということは過去は燃えていたということでもある。
俺のやっている気の滅入る事務処理だって、ちゃんとやらなければ会計に細かい狂いが生じたり、今後の事業計画に影響したりするので無駄とは言わないが、その人が以前所掌していたのは、組織の今後や体制にモロにかかるような仕事だった。その業務を進める過程で、組織内に一定数いる非合理と旧弊の権化のような上層と同僚と、あとは人ではない空気感みたいなものに対して戦い(別に、あらゆる古いものがすべて悪いわけではないが)、すり潰されて疲れて、最終的に2勝8敗、ぐらいの感じの人だ。
その人とこの前に話をしていた。流れで、ある事業の広報方針について「あれはどうもおかしいと思う」という話題になった。
それは以前、この人が取り組んで最後まで取り崩せなかった、企業の内部コミュニケーションの不足と各セクションごとの自負と他課へのおもねりあいが嫌な感じに複合した悪魔のような部分と関連していて、火中の栗というか、正確には昔その栗を取ろうとして大火傷をした人がいたので冷めても誰も手を出さなくなった、みたいな状態なのだが、その火傷を負った当事者であるその人は俺の話を聞きながら、(特に期待もしていないだろうし、俺は登った梯子を外されるほど仕事ができない)「今だったら、自分ならこうするな。やってみれば」というようなことを言ってくれた。俺はというと、自分でも意外だが、まあ頑張ってもいいかもな、と思った。
…
何年も前に読んだショートショートで、飲み屋で誰かが開けようとしたビンの蓋がなかなか開かず、その場にいた何人かの客が挑戦したあと、特に体格がいいわけでもない冴えない男がそれを開けてみせた、という話があった。
様子を見ていた語り手に男が聞かせたところによると、ああいうものは色んな人が挑戦するうちに、誰も気づかないうちに少しずつ蓋がゆるまっているもので、自分が成功したのは、その頃合いをちょうどつかまえただけなのだ、ということだった。
…
科学的には力が足りない者が何人挑もうが関係ない気がする。それはともかく、この世の色々なビンの蓋が、色々な人の手によって少しずつゆるまっているということを考える。
まだ蓋が固く閉まっているなら、強烈な英雄でなければそれを開けられないかもしれないし、誰も成功しないかもしれない。ただ、特に優れたところのない人間でも、単にやろうとするというだけで、結果として蓋を開ける最後の誰かになるかもしれない。
なので、くだらないことは終わりにするよう頑張りたいし、意味のあることは始めていきたい。それが凡夫の目に無価値、有意義と見えるだけで、実はちゃんと理由があって余計なことはしない方がいいことだってあるだろうが、それはまた別の話である。新劇エヴァだって、Qのあとちゃんとハッピーエンドで終わったじゃないか。まあ、それでも、ドラクエ7の未来のプレイヤーが虚ろな目で画面をにらみながら、あのくだらない石板を探さなくて済むとなると、それは多少、面白くねえなと思わなくもないわけだが。 🦑
きっかけは職場起因の適応障害でしたが、今はそれは治っていて、今後同じことが起きても適応出来るように認知行動療法を通じて自身の耐性を高める為に通っています。
認知行動療法の中にはコラム法と呼ばれる手法があるのですが、そのワークの中で
という指摘を頂きました。
これは正に仰る通り。
職場内のチームチャットにAさんが投げかけた質問に対して、その他チームメンバーが反応していなかったのを見て「冷たい人たちだ」「なんで助けようとしないんだ」と憤りやら不信感を勝手に覚えたり、
「何らか困っている人がいればそれは助けるべきだろう」という価値観に基づいて、それに反した(ように自分は捉えている)Aさん以外のチームメンバーに対して冷たい人間、ク◯共、と捉えて見下したりしていました。
自分はいじめられっ子でコミュニケーションにコンプレックスがあったことから、ネットに落ちてる情報やら心理学、果ては哲学の本も読んだりして、
的なパターンを結構頑張って勉強していて、それを元に動いているからです。
ワーク後に私は健全な人間関係を築けるように「自分にとって安心出来る関係はどのようなものか?考えてみて下さい」という宿題を貰いました。これは非常に難しい。
自分の人間関係を検討すると、ネットの情報や心理学やらの勉強のお陰でそれなりの人間関係は築けるようになったと思うし、社会人になった今は一緒にいれば楽しめるみたいな関係性の人もそこそこいると思ってます。
でも、どこまで行っても安心なんて出来ないんですよね。
世俗的には実の親との関係は安心出来るものという考えがあるのかなと何となく思っていますが、自分にとってはこれは当てはまらないので除外されます。
仲のいい人、昔からの友人、酒をよく飲む関係性、いずれを検討しても、楽しさはあれど安心は出来ない
今の自分にとって人間関係と安心は絶対に相容れない関係に思えるんですね
私にとってその答えは間違いを冒さないように神経を使わなければいけないからです
私にとって人付き合いは、その場その場で相手が求める内容を会話の流れに応じて間違えないように返答することです。
会話の流れから逸れる返答だったり、相手の求めているものと違うレスポンスを間違いと私は捉えてます。
ですが、ある程度のルールのもと成り立つのが人間関係なのではないか、という観念も同時にあって、それはもっともらしい風にも感じています。
守らなければ死ぬ!法律と同じレベルの拘束!義務!ではないにしても、互いができるだけ守りましょうねという形で定められた努力義務レベルの効力はあるものではと捉えています。
そして、それを守ることは、やはり私にとっては安心出来るものとは言えません。神経をとても使います。
守るのが苦しいのであれば
守らない方面であれば簡単な結論が一つ思いつきます。自分が何をやっても許されるってことです。
傍若無人に振る舞ったって何だって誰にだって許される。それは安心でしょう。
ただそれに対して思うのは、そんなん非現実的すぎるということと、それが私の望むような関係だろうかということ。
自分の中のいい子ちゃんが反射的な反応を示しているようにも思えますが、常識的な対人場面を想定した時に、他人に対して「あんなことこんなことやってやりてぇぜ」みたいなことはあまり思いつきません。
てかきっと気持ち悪さを感じる。なぜ相手がそんな自分を許す必要があるのか疑念が湧くだろうし、疑心暗鬼になり、そんなものは安心とは言えない。
ただ、自分はきっともう1人の自分にも気を遣うと思う。その時の私は出来るだけもう一人の自分が辛くならないように「まぁ気にしないでよ」みたいな声をかけるでしょう。
ただ、その声をかけられるもう一人の自分はきっとその声を受ける前に「マジで気にしなくていいからなんでも好きなこと言ってよ」と先制してくるでしょう。もう一人の自分なのだから気を遣ってくることは想像出来るので、相手が変に気を遣ってくる前に先制をします。
ただ、そうやって先制してくることはやってきそうだな、と私はもう一人の自分からの先制を読んで……
私がもう1人という無理筋で勝負したとしても安心には辿り着かないように感じます。
1人はとても安心します。なぜ1人は安心なのか。それは何も気を使う必要がないからだ、とすぐに返答できます。
何か試される訳でもない、求められる訳でもない、それは非常に安心します。何をやってもいいということだからです。
では、その自由さが私にとっての安心出来る要因だとして、それを通常の人間関係に適応出来るものなのか?と考えると、そんな気はしません。
気を使わないことなんてありえなくないか??と感じて袋小路に感じてしまいます。ここまで来て、手詰まりを感じて今こうやってブログにしています。
人付き合いで安心ってするんですか?