はてなキーワード: 現実とは
あるレベルまでは、周辺環境と社会からインストールされるものであって、そこに自分なりの「味付け」をするのが精々ではないか。
もちろんグラデーション問題なので、常に自分の思考を疑い、言語化し、解体し、更新することはできないとは言わないが、それを現実の生活と並行して行うことは非常に「しんどい」。
外付けの倫理を受け入れないということは、宗教を信じず、思想的な派閥に与することを拒否し、正に「1人1派」を貫くということだ。
なぜ少子化は止められないのか
https://bookplus.nikkei.com/atcl/column/042800240/042800002/
斎藤 財源をどうするかとか、金額をいくらにするかとかの問題はあるけれど、藤波さんは、若い世代の賃金水準を引き上げたり、経済支援を充実したりすれば、ある程度、少子化問題は解決すると思っているわけですね。
藤波 いやいや、それほど簡単ではないでしょう。まず1つ、雇用環境の改善も重要です。ご存じの通り、女性の過半数が非正規雇用で働いているわけですが、彼女らの結婚・出産に向けた意欲、私はこれを総称して出生意欲と呼んでいますが、この出生意欲の低下が顕著です。
図表1をみてほしいのですが、これは、雇用形態別に、未婚女性の希望子ども数を表しています。正規雇用の女性に比べて、パート・アルバイト、派遣など非正規雇用の女性のほうが、希望子ども数が顕著に低下していることが分かります。将来、結婚をしないと考える女性の比率も、非正規雇用のほうが高いことが分かっています。
斎藤 女性の雇用形態によって、明確に結婚・出産に対する意識に差が生じているというのは驚きです。
藤波 最近、若い世代の価値観の変化から、生涯未婚を希望する人が増えているという状況にはあるわけですけれど、18~19歳の女性に聞けば、そうした意向を持っている人は、10%台にすぎないことが分かっています。すなわち、多くの女性が、社会に出て働いているうちに、特に非正規雇用の女性で、結婚・出産への意欲を失っているという状況にあると考えられます。あきらめが広がっているということなんでしょうね。不安定な雇用環境の改善は欠かせません。
斎藤 そういえば、以前、連合(日本労働組合総連合会)に取材したことがあるんですが、女性が最初に就職するときに、正規雇用か非正規雇用かで、その後の結婚・出産の状況が大きく変わってくるといっていました。初職が非正規雇用の人は、結婚・出産をする割合が明らかに低くなるそうです。
藤波 私もあれには驚きました。あのデータはレポートで引用させてもらったことがありますよ。ちょっと待ってくださいね、ああ、これこれ。図表2は、連合が2022年に実施した、現在、非正規雇用で働く20~59歳の女性を対象としたアンケート調査の結果です(連合「非正規雇用で働く女性に関する調査2022」2022年3月31日)。
「配偶者あり」は、初職が正規雇用の場合63.6%でしたが、非正規雇用では34.1%にとどまっています。また、「子あり」は、初職が正規雇用の場合は57.7%でしたが、非正規雇用では33.2%です。
最近やたらとまだ学生を含む年齢層に対するアンケートの結果を用いて「Z世代が子供を欲しがっていない」と聞くが、現実はこれである。
収入と未婚率に関係があるのは男だけであり、女は収入や雇用形態に関係なく結婚できると思い込んでいる人が多いが、現実はそうではない。
この斎藤や藤波って人もヤバい。非正規雇用の女が結婚・出産の意欲をなくすなんて当たり前なのに、一体何処に驚く予想があるんだ?
前に「チャットAIは常識(検索のマジョリティ)を踏まえて答える分、バカの浅い独自研究より参考になる」というようなことを書いたら、「AIはこんなに間違ってる!!!!!」と発狂する奴が大量に絡んできたことを思い出す。
あれも、同じことのような気がする。
バカにはマジで、「正しい」と「常識」の意味の違いがわからないのかも知れない。
というか、対話する相手が「正しい」必要なんかないということすらわかってないのか。
相手に「正しさ」を求めたいという時点で、それは自分の考えがなく口開けて餌運んで欲しいと言ってるのと同じこと。
「正しさ」は結局自分で決めるしかないのだから、相手に求めるのは「自分にない視点でヒントを出すこと」以上のものではない、というのが普通に知的訓練を受けた人の考え方だと思うけど、偽物のインテリは「答」を覚えれば良いという義務教育時代の気分のままでいつまでもいるのかも知れない。
というか、義務教育でも「答を自分で決める」訓練を少なからずする欧米がやっぱり正しいんだよな。
日本人は大学に入るまで自分の意見を言う訓練を全くしないので、「高学歴でござい」という自覚の奴らが現実問題に「正しい答」があると本気で思ってバカなことを平気で言う国になっている。
参ったものだね。
女ってこの種のお気持ちで現実を歪めてくるタイプの陰謀論をやらかすよな。
これじつは共同親権反対派も同じなんだよな。
他人の後追いでコピペをする奴ばかりでオリジナリティのある奴なんか居なくなった。
なぜか? 簡単だ。理系またはまともな職業人またはその両方を備える人間ほど、仕事の関係でネットになんておいそれと書き込めなくなるからだ。
かく言う俺も、理系大卒だが友人たちと違って不安定な進路を選んだために、ネットの使い方は学生時代とあまり変わらないままでいる。
しかし、当時の同級生、その頃は学生プログラマーとして名を知られたり、趣味のゲームの活動で全国(の同好の志)に名前を知られていたようなネットで輝いていた奴らほど、大企業勤めのエンジニアになって、ネット、特にツイッターみたいな不特定多数に見られる活動はほとんどやめてしまっている。
そういうことなんだな。
ネットのコミュニティというのは、面白い「上澄み」ほどまともな職を得て辞めていき、パッとしない後追いの真似事しかできない奴ほどリアルでもパッとしないから残っている。
結果として、女、負け犬、文系の濃度が濃くなる。(女については、男女の教育就職格差がなくなれば消えていくのだろう。ネットで今女が声高に主張して居られるというのは、ある意味で責任ある職についている女が少ないからだ。)
俺たちはみんなそういう残りカスに過ぎない。
そして、この論理で考えるなら、現実社会が変わらない限り、この状況が改善する理由もない。
ネットはもう昔のように輝くことはない。
仕事が自宅にこもりっぱなしの職種で、他人とまったく触れ合う機会がない。
成果報酬なので昼夜逆転とかも余裕だから時間感覚もおかしくなってくる。
これがネットだとなぜかそうはならない。Youtubeなんてテレビよりよっぽど視聴時間長いけど、現実感がまったくない。
移民外人にアマゾンの配達とかやらせると夜の10時11時に平気でインターホン鳴らして荷物届けに来るぞ
正規の配達員でも普通に怖いし、配達員を装った強盗の類の可能性も捨てきれない
常識なさすぎて怖い
追記です
今日1日だけで意外と多くの反応があってびびってる。
1人2人くらいに馬鹿だな可哀想だなと言われるのがオチだと思ってたんですが。
少なからず子ども欲しいという話してたけど、いつも将来的にはねみたいな答えだった。どうもそのときはそこまで深く考えてなくて、私が真剣に欲しいというので真剣に考えたら生活が変わるし子供との接し方もわからないし怖いということらしい。
そりゃそうだねと言うしかない。
・別れた方がいい
多分別れないし、やはり別れたくない。真剣に子どもは拒否されたけど、不倫やDVのような不信感を抱くはなかった。怖いっていうのがとても伝わってきたし、怖いと言われた側って別れようってならないんだなと思った。
ちなみに旦那さんはバツイチでも既に子持ちでもなく初婚。なんかむしろ私が暴走して別れられる側になりそう。
はっきりとは聞いてないけど、旦那さん的には幸せで穏やかな生活なら、結婚しようがしまいが子どもがいようがいまいが関係ないのかもしれない。結婚のときも同棲のままは嫌だとこっちから切り出し結婚した。職場は独身の人が多いらしいし、親戚付き合いも少ないし結婚してない人はおかしいみたいな偏見にも触れたことなさそう。私は肉親やら昔からの友人がそういう偏見を普通に口出す人たちなので、私はそんな偏見持たないと内心思ってたけど、結婚しないと普通じゃないって思った時点で同類だったな。
書いてて思ったけど偏見も持たない素直に今の幸せを維持したい旦那さんが正解な気がしてきた。
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私(31)はこれから先既婚子ありの人生だと思っていたのだけど、どうも旦那さん(40代)が子供を欲しがらないのと自分の子宮頸がんの検査結果(軽度異形成)のおかげで子供を諦める、諦めざるをえない気がしてきた。
まさかそんな旦那さんがそんなに欲しがってなかったとは思わなかったとか、子宮頚がんワクチン打ってなかったからとか、色々後悔してる。
けど今から別れてさっさと子作りしてくれるような相手を探して結婚するとかは考えてはみたが、ますます後悔しそうだったのでやめた。
旦那さんは家事もしてくれるし優しいし趣味も合う。子供欲しがらない時点で優しくねえだろという感じだが、どうも子供ができるのが単純に怖いということらしい。たしかに私と喧嘩もしなければ、お互い働いてるので生活も余裕があるしある程度自由で居心地がいい。その生活自体が一変することが怖いということなんだろう。
それでも、私は旦那さんの優しさにつけ込んで泣き落としで子宮頚がんになる可能性もあるし年齢的にと迫ってみたけど、お互いに精神的に不安定になってしまって関係に溝ができそうになったので私が一旦諦めるという宣言をして話は終わった。
一旦諦めるとは言ったものの、旦那さんと離婚する将来と同じように子供がいない人生もなんとなく考えつかなかった。
今までの人生、進学も就職も居住地もそんなに深く考えずになんとかなるだろうと選択してきて、まあ大体なんとかなった経験から、私は人生において何かあっても割と臨機応変にできるタイプなんだろうなと自惚れていたけど、全くそうじゃなかった
そもそもどこにも進学できないとか就職できないとか住めないとか、そんな無い状態にはならないだろうみたいなのが無意識にあったから軽く考えていられただけだった
子どもがどういう子であれきっとどうにかなるだろうみたいな気持ちにはなっていたのだけど、そもそもその気持ち自体が子どもを産める前提でいたのが否定されて、どうしたらいいのかわからなくなった。
コロンブスMVには確かに深刻な問題があるけど、この機に乗じて企業が人文系の専門家を雇用していればこんなことは防げたはず、って言ってる奴ら何なの?
「倫理観」(別に他の言葉でもいいがここでは仮にそう呼んでおく)みたいな複雑なものを一人の専門家がなんとかできると思ってる?
そもそも人文系って一括りに言うけどあまりに範囲が広すぎるしレベルも玉石混交だよね?
それに専門家だからといって信頼できない、市民の意見に寄り添えって言ってたのむしろ君たちだよね?
だいたいなんで人文系の専門家にまともな倫理観があるって前提なんだよ。
一人で解決するんじゃなくて調べたり他の専門家の協力を仰いだりする役割だから問題ない、とか言うかもしれないけど、そういうことが適切にできるかどうかだって結局同じことだよね?
だいたい、企業活動との両立なんて複雑な課題にコミットできるの?単なる言いっ放し、僕は忠告したよね?で済ませるつもり?
どうすんのさ。
それに教養が大事とか無教養とか好き放題に見下してくれちゃってるけど、そっちこそ差別意識てんこ盛りじゃねーか。むしろコロンブス側じゃねーか。
むしろ人文系の研究者コミュニティにこそそいつらの「倫理」をチェックする「専門家」が必要なんじゃないの?
そういうとこだぞ、そもそも信頼されないのは。
俺だって今の日本企業の倫理観は大いに問題あると思ってるよ?人文系に頑張ってほしいと思ってるよ?でもさ、現実の人文系がこんなんじゃいつまでたっても変わらないよ。
ヴィランである王によって治められた国が人種も性別も障害の有無も関係なく平和に暮らせる理想郷のように描かれていたときの違和感を思い出した
某🍏PVの話題の中に「誰かこれをアウトだと言える人はいなかったのか」って意見が散見されたんだけど、現実問題としては指摘したところでよくて煙たがられる、指摘内容によっては知ってる事自体が品性を疑われる原因になりかねないのがハードルなのが判明したよね
とすれば、コンプラ研修みたいなのの一環でミームについて教育すればいいんじゃね?と思ったわけです
具体的には野獣先輩語録とかをリスト化したものを配布して、そこに載ってる表現は使ってはいけないとルール化する、みたいな
いや、実施したら地獄みたいな空気になるのは分かってるんだけどさ、でもこれからの時代必要だと思うんだよね
ミームに反応して「まずいですよ!」って言える空気が社内で醸成されれば、コロンブスとかそういうミーム外の教養的な部分でのまずさも指摘しやすい土壌が生まれるんじゃない?
まずlady-jokerさんが逃げずに応答したことに敬意を表したい。
これだけではてな民の中の最良の人であって、
人格的にも能力的にもはてブ民の代表選手と見なしてよいと思う。
またこれ以前から人格的にはてなの中では抜きん出た人だと感じている。
印象としては
及第点は7と言う感じ。
>「考えるべき」ってのは具体的に何についてどんな思考をすることなの?
上記に記した「非人間化」のプロセスが我々の内面に存在していることを知り、その危険性を認識することであろう。
このような思考を積み重ねることで、己の内面において非人間化が発生した場合にはそれを検知し自省する、
他者において発生した場合には、その思考を思いとどまらせるために働きかけるなど、行動面においても変化が起きれば尚良いだろう。
「虐殺の歴史の本から我々人類の内面のおぞましきプロセスを学んだことで、
己の内面にそれが現れた時は検知して自制し、
他者に現れた時はそれを制して変化を促す行動を起こせる。」
とのこと。
パッとみ大変立派な感じだが
残念ながらそのような思考の積み重ねで人間の頭や人格が良くなることはない。
(これは後で具体例とともに説明する)
まず我々自身の心の悪い動きはそんな本をいくら読んでも検知できるようにはならない。
行動面の良い変化についても期待できない。
「「コロンブスのコスプレMVをしたミュージシャン」というその問題とかけ離れた対象にぶつけている。
どう考えてもあのミュージシャンの内面にあなたの言うようなおぞましいプロセスは生じてねーだろ。
あれを見る視聴者にしても同様。
あなたはいま歴史上の虐殺について頑張って抽象化してみせたのに
その抽象化を目の前の現実に当てはめる努力か才能が全く足りてないために
人類普遍の良くない心の動きがあると本を読んでわかった!恐ろしい!我々に出来る抵抗と警戒は?
「同じような帽子をかぶってる奴」「同じような衣装をまとってる奴」「同じ名前の奴」をキャンセルする!
これはアホと言わず何と言えばよいのか。
その内容について頑張ったであろう抽象化を並べて、
そのアウトプットがこれなんだから、残念ながらあなたが読書にかけた期待は間違いだ。
全く違う。
ウイグル話法と言うのは簡潔に
・ 「日本の左派は中韓への批判は避ける」という前提(偏見?)に立ち
・ 日本の左派がどこかの虐殺を批判したら「でもあなた方は中国によるウイグル虐殺はスルーですよね?」と言って当て擦りをしよう
「なんでアメリカ大陸入植者のおぞましい歴史への憎悪や批判の気持ちを日本人コスプレMVに向けてるのですか?」
「どうしてもその憎悪で現代の人を裁きたいなら、アメリカの人や国土の方がまだそれにふさわしいのではないですか?」
「ていうかあのバンドがネイティブアメリカンにどんな虐殺や収奪をしたっつーの?」
というツッコミ。
見てわかるように、
lady_jokerさんは「ウイグル話法」と言う概念は仕入れたものの
その咀嚼や抽象化に失敗したため自分で使える道具になっておらず、
「「~なら先にこちらを批判しろ」のような末端の表象だけで話法を判別・検出している。
lady_jokerさんの知的レベルや認知のクオリティについての重要な手がかりだと思う。
(繰り返しになるが、この人ははてな民平均よりはだいぶ頭がいい。)
しかしその本で学んだことを目の前の現実に適用したいとなったとき、
虐殺の歴史のお勉強をして義憤によって現代の誰かを殴りたくなったとき、
その本来コンキスタドールへのものだったはずの憎悪と非難が向かうべき先としてより適切なのはどちらか?
順番なら2であって、
と言っている。
別に反米しようぜとかさあ2を殴ろうとか言ってるんではなくて、
「2すら殴ってないのに1を殴るあなたはなんかおかしくないですか、再検討をお願いします」と言っている。
日頃から2を殴りまくってる人が1すら許さんぞと襲い掛かっていくなら
やべー奴な気はするけど一貫した美しい狂人だと思う。
それはせいぜい思考の混乱しきった愚図か、殴りやすいものだけを狙う卑怯者ではないですか?
こんなツッコミは虐殺と虐殺をぶつけて相殺を狙うようなwhataboutismではないですよね。
「「あんたがたは頭悪いか卑怯もんかどっちかではないですか?」と指摘しているだけ。
これは良くも悪くも(多分悪い方向に)ウイグル話法と一ミリも関係ない。
また私は過去のブコメにおいて、繰り返し非人間化のプロセスを取り上げ、その文脈でコンキスタドールの入植についても言及している。
これはある意味で一番ひどい。
同じ0点でも上2問とは深刻度合いが違う。
増田の話
「過去の「おぞましい歴史」「暗部」に関連付けて現代の誰かを殴る行動は何の意味があるのか」
「どうしても殴りたいなら一番の関係者はアメ公であろう、コスプレMVなんかに八つ当たりしてんじゃあないよ」
本当に真剣にやってる誤読なのか故意の詭弁の遁辞なのかちょっと悩むが
これ国語の点数いくつだよ。
はてな民の中では頭がいい方であるlady-jokerさんですら
抽象化とか認知と言う能力について相当ヤベーという事を見てきた。
世間的には十分知的な方の人であって問題意識もって本を読んでる人だ。それでこれ。
誰かにまとめてもらったテキストから抽象化してなお現実への適用に失敗する。
何かの「悪」の概念を憎んで闘争しようと思っても、実装としては無関係な人間をリンチに掛けるぐらいしかできない。
これはあなた方の人格が悪いからでもなく、不真面目だからでもなく、能力的な限界なんだと思う。
MVを声高に批判した人達に「どこが問題なの?」と聞いても答えが返ってこない。
具体的な説明からも、MVの内容の批評からもひたすら逃走する。
代わりに言い返せることは
「コロンブス自体がタブーだから」「バッファローの骨はシンボルだから」「常識だから」
「アメリカでそう決まったから」「不勉強」「「そんなことに疑問を持つなんてこれだから〇〇は」
(ちょっとしつこく聞いてるとどんどん差別的な悪罵になっていく。)
これらが村の迷信深い古老の警句に酷似しているのは、脳の同じ部分を使ってるからだと思う。
ガバガバフィードバックで表象を吉兆凶兆として祝ったりリンチしたりすることしかできない。
コンキスタドールの侵略と征服に宗教が重要な役割を果たしたことは
本を読むことだけは得意な人なら大体知っていると思う。
その目にはたとえば異教のアイコンなんかはさぞ忌まわしく禍々しく映っただろう。
ネイティブインディアンのトーテムなんか見た時彼等がどんな感情に襲われたか。
「なんでそんなものを拝んでいるのか」
「常識として何が正しいかわかってるはずなのにトーテムと縁を切ろうとしない」
自分達の"常識的感覚"に疑義を呈されると不快でたまらなくなってしまう者、
こいつらどう見てもコンキスタドールと同じ脳波を出してるだろ。
な?出来てないだろ?
笑っちゃうんすよね。
以上から、
あなた方は論客ごっこをしなくてよろしいと思う。そんな能力はないから。
あなた方の直観やガバガバモラルなど社会に何の良い影響ももたらさないから。
それはあなた方の人格や姿勢が悪いんじゃなくて単に能力の問題だから、別に恥ずべきことでもない。
そういう出来もしない大それたことよりも、
そういうことがあなた方を社会に参加させるしあなた方を善良な人にすると思うよ。
そういう人を尊敬する。
https://anond.hatelabo.jp/20240619014605
本文)
キャンセルカルチャーの問題点は、「悪い・正しくない」と思う倫理が内発的なものではないことなんだろう。
どこかで知った聞きかじりの「教養」に発するものだから、キャンセルすることでなんとなく自分が「正しい側」にいることに内心満足してしまう。「正しい側」にいるというのは安全地帯なので、いくらでも無知な人を罵倒し、笑い飛ばせる。その教養は実際のところ、★のたくさんついたブコメかもしれない、その程度に知った教養でも安全地帯に入った感覚を得られる。
つまり、「いーけないんだいけないんだー、センセにいってやろ」のアレと大差ない。
その程度の教養と正義感で、MVを取り下げ、ミュージシャンを謝罪に追い込む社会なわけだね。
かつて、なだいなだが、ケシカラニズムといって、理性的な正義と感情的な正義を区別し、自分のことでもないくせに感情的な共感によって主語がでかくなるのが感情的な正義の特徴だとした。そのことで人々がプロパガンダに流されやすくなる、という趣旨のことをどこかで書いていたのを思い出す。
もうひとつ思い出したのは、2年くらい前、
のなかで、人権とかマルクス主義とか、外付けされた倫理は歯止めが効かず暴発する、ということを内田樹がいっていたこと。
コロンブスとナポレオンが他所に乗り込んでそこにいた猿を使役したり自分の文化を教え込んだりする描写になんとも思わんのかお前はw
というのがあるね。
正直、なんとも思わないね、というのが俺の感想だし、植民地主義への反省なんていっても、外付けの反省どまり。
俺の中では、このMVはたわいもなくみえている。そんな他愛のないものを批判したくなるほど自分のなかで植民地主義批判は内面化されていないわ。
そんなことをいうと、すぐにいろいろな知識を開陳して説教したくなるサヨクがぼうふらのようにわいてくるんだが。
むしろMVのなかで、不快に思ったのはそこではなくて、ナポレオンなどの人物たちが「Monkey Attack」というビデオを鑑賞するシーン。負傷していまにも死にゆくハチマキをした類人猿の兵士を抱きかかえる類人猿の兵士、その場面にビデオ鑑賞していた皆が涙する、という場面だが、このシーンは、旧日本軍の兵士を連想させられ、ビデオ鑑賞で感動ポルノを消費するという行動にはイラっとさせられた。
類人猿をベートーヴェンが指導したり、人力車にひかせたりというのには何とも思わなかったのに、このシーンだけは嫌な気分にさせられた。
そう、まさに「つまり解釈の余地があるんです。」という感じなんだな。モンキーアタックビデオへの不快感はあるものの、袋叩きにしてやり込めるほどのものではない。他愛もないMVだよ。
rna氏は、ネット上では一斉に右向け右で「文明的なコロンブスたちが野蛮な猿人たちに文明を伝え、教化し、啓蒙している」という構図が大勢を占めているようだが、そうは解釈できないと述べている。
Mrs. GREEN APPLE「コロンブス」MV 問題、マジわけわかんねぇ (追記あり) - rna fragments
もっとも俺も若い頃、20年くらい前までは、人権の歴史を教科書通りに学んで、それを教養として広めていけば、外付けされた倫理は共感を呼んで広まっていく、みたいに素朴に思っていた時期があった。
https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2024/06/16/011301
みたいなことを素で思っていたというか、それこそ20年前のはてな草創期の「何とかidさんの日記」にはそういうのがあふれていた時代、、はてなにははてサと言われる人たちが多かったのだろう、そういう人ともつながった。
しかし、いつしか違和感を覚えるようになった。特に、歴史修正主義というドイツで使われた文脈の言葉を安易に日本の南京虐殺否定の文脈で使うことが一般的になり始めたころ、はてサという存在が疎ましくなっていった。
俺の違和感の正体は、結局のところ、歴史の文脈のなかで生まれた言葉には、その歴史に紐づいた反省があり、過去への抗いがあるはずなのに、いつしか「教養」として普遍化するなかで、その歴史の固有性が失われ、あたかもハンディな批判ツールになり下がることだった。
村上春樹が2009年、イスラエルの文学賞を受賞したとき、はてサは一斉に授賞式に出席しようとする村上を引き留めようとし、攻撃した。出席することは共犯を意味するとまで言った人もいた。そのとき、村上氏は自身への批判を受け、それらの情景を正論原理主義といった。パレスチナの人たちとの現実の接点をもたずに、パレスチナだ、ガザだ、人権だと漠然と騒いでいる、ごく普通のひとたち(私たち)の”寄り添い”は本当に軽いものだ。共犯という言葉も軽い。イスラエルに赴いて「高くて頑丈な壁と、それにぶつかって割れる卵の側では、私は常に卵の側に立つ」と現場で話をした村上春樹の言葉のほうがよっぽど覚悟が必要だ。それでも村上春樹を攻撃する様子をみて、俺はだんだん嫌気がさして、ブログからフェイドアウトしていった。
(追記2)なお歴史修正主義に関して、以下のブコメが目に留まった。
tick2tack ???/ 外付けの倫理の話なのに2行目で教養の話になってるのはなに。/ (歴史)修正主義という言葉は50年以上前からドイツ関係なく使われてる。
すまんが、ズレてるぞお前さん。こういうのってさ、ちょっとでもファクトチェックしてもらう手間を惜しまなければわかることなんだよ。ドイツで生まれた修正主義はその後、ソ連や中国などの共産主義社会で使われていった。イデオロギー的な対立が強い国では、ある視点や政策に「修正主義者」というレッテルを貼ることで、それを委縮させることを狙ったわけだ。
つまり信奉するイデオロギーから逸脱した奴を侮辱して叩く、こん棒として便利に使われるようになっていった、というのがお前さんのいう「50年以上前からドイツ関係なく使われてる」の実態だからな。それが90年代後半、新しい教科書問題以降、日本で使われ始め、00年代半ばには定着した、というのが俺の理解。完全にこん棒化した、っていうのが歴史修正主義の使われ方の変遷だ。「相手に対する敵意と侮蔑」そして「俺たちが正しい」以外なにも読み取れない用語になり果ててるわけ。そりゃwikipedia書き換え合戦になるわな。だから俺はこの用語が嫌いなんだよな。
(/追記2)
お前、そんなこともわからないのか、そんなことも知らないのか、といって得意げに歴史や知識を開陳する態度。
てめえだって大して現実味のないことに対して義憤を抱いてるにすぎないくせに、この尊大な態度。
サヨクに対する嫌悪感は、ここに尽きる。キャンセルカルチャーは、無力なサヨクが得意げに知識開陳して自己満足する場になってるんだよ。
言葉の軽さはどこからくるのか。ヒントになるのは、前述の内田樹の文章。
永井:それで言うと、私は本当に「人権」というものを外付けしたタイプだと思います。大学1、2年の頃、大学で平和学の授業を取ってたりしたのですが、そのときに、何が幸福なのか、他人が何を考えているのかなんてわからないと思ったんです。そして陳腐ですが、みんな正義も正しさも違うよねともやはり思いました。
じゃあ何を拠り所にしたらいいのだろうと考えた結果、「そうかそうか、人権というものがあるのか、みんな賛同してるし普遍性高いじゃん」となりました。普遍性が高いなら、「人権が著しく侵害されているのであれば、これは問題だ!」と堂々とみんなに言うことができる。そうして私は良くも悪くも人権というか権利しか見ない人になっていったわけですが、それは本当に「外付け」だったと思います。
「これは問題だ!」と深く自分のこととして考えもせずに簡単にいえてしまう、ここにこそ問題がある。
そういう義憤の正体って何だろう。
最近、朝日新聞の人生相談に回答した野沢直子に対して、それを朝日新聞記者のコメントともに、冷笑と受け取って批判している記事があった。
[B! 報道] 読者を小馬鹿にする記者の態度にビックリ…野沢直子(61)の「悩み相談」騒動に見る“朝日新聞の冷笑主義” | 文春オンライン
https://digital.asahi.com/articles/ASS5K30WGS5KUCVL02MM.html?ptoken=01J0FYBDAZQF5YH5MPNMCJH3QA
「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」とかいう50代の男性の相談。
私個人は、野沢直子の回答の感覚に近い(あ、俺はトランプ支持者じゃないけれどね)。現地に行ってみろと。行けば当事者意識を持てるから。
これは冷笑でもなんでもない。正直、野沢直子の回答を冷笑と捉える文春の批判のほうが今の時代の病を表現していると思った。
新聞で得た世界の出来事をいかに正義の言葉で嘆いても、その切実さは現場の人の感覚とは何も通じ合っていないかもしれない。
かつて、北アフリカのスーダンで、ダルフール紛争と呼ばれる、政府系の集団による虐殺が国際問題となったことがある。
日本のブロガーも反応し、かつてFinalvent氏がこの知名度の低いこの問題を何度も取り上げ、意識を高めようとするべく、記事をお書きになられていた。
最初は、自分の啓発もかねて弁当氏の言説に注目していたのだが、しかし、その後、私自身が北アフリカ地域に仕事上関与するようになってから、スーダン人とも仕事をしたし数多く知り合いになった。自分なりに関心をもって現地で情報を集めてみると、国際的に展開されているセーブ・ダルフール・キャンペーンは次第に異なる運動に映じるようになっていった。
それは当時のバシール大統領の断罪をはじめ、現地武装性組織の悪業を過剰に喧伝する国際NGO特にアメリカのNGOのキャンペーンのやり方に対する違和感だった。紛争の実態はもう終わっているにも関わらず紛争が継続しているかのような言説が多く、過剰かつ単純な演出によって集められた資金は、NGOの広告費に回っているという話まで聞いた。
正しい、とみんなに思い込まされていることでも、プロパガンダが功を奏しているだけかもしれないということだ。
弁当氏がその後、一貫してスーダンに注目していたかどうかは知らないが、やがて同氏の記事の傾向が変わり、国際問題にはほとんど言及されなくなっていった。
今、現在、スーダンの置かれている状況はというと、2023年に始まった国軍と準軍事組織「迅速支援部隊(RSF)」による内戦により、ダルフール紛争の比ではない、深刻な国内避難民が発生している。2023年末時点で国内避難民が905万2822人。これはスーダン人口の2割に相当。2003年の世界最悪レベルの人道危機と言われたダルフール紛争のときですら国内避難民は100~200万人というオーダーだったので、それをはるかにしのぐ難民が発生している今の状況がいかに危機的かがわかる。
しかし、俺は思う。当時、弁当氏のスーダン記事を読み、義憤を抱いた人の何割くらいが、現在進行形の危機を憂いているだろうかと。エジプトとトルコはスーダン国軍支援、アラブ首長国連邦はRSF支援、このように中東の中堅国らは、自分たちに好意的な顧客を武装させながらも、和平を口にする、いわば代理戦争の様相を呈している。
ただ、一方で、外付けの教養には意味がない、とは思わない。しかし、植民地主義の歴史を知るとか、外付けの倫理をいかに理解しているかという意味ではない。
普遍的な価値として、人権を外付け実装してきた日本人である自分自身がいかに受容してきたのか、それを踏まえて自分の生きる社会をどうしたいのかを知ること。
そのルールや規範の成り立ちといった背景をもう少し知る必要があると思っている。
表現の自由ひとつとってもそう。表現の自由って大切じゃないか?と少しでも思ったら、それを所与の普遍的価値だから、と思考停止しないでよくよく考えてもらいたい。
なぜアメリカの判事は歴史的な判決のなかで、空気が濁っているほうが社会は健全だといったのか。なぜフランスでは神を冒涜することが権利なのか。
なぜドイツではホロコーストの否定は表現の自由に当たらないのか。日本は公共の福祉の解釈としてそれらをどのように受容したのか。表現の自由が失われると何が恐ろしいのか、それはそれぞれの社会の文脈がある。少なくとも自分の社会ではそれは何なのか、それを知ること、それこそが教養というものだと思っているし、理性的な共感というものだと思う。
少なくとも俺が思うに、日本社会においては、冒頭のケシカラニズムが政府にとって都合よく操れる心情だろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会では、こういう感情的正義がますます膨れ上がるだろう。
表現の自由が失われることによって立ち現れる社会は、「これが正義だ!」とみせられるとすぐに無教養な人々を煽り立てることでき、簡単なプロパガンダで誘導することのできる、政府にとって都合の良い社会ということになろうかね。
MV叩いて知識開陳してマウントとってるサヨクもそれで満足ですかね。まあそういう奴はそういう時代がくれば、アカ狩りで共産党員と不倫していたことをネタに糾弾しているかもしれないし、体制寄りになってるかもしれないけどね。
世界中、世の中でいろいろと深刻で理不尽なことが起きているなか、そういう諸々には無関心で当事者意識もないくせに、「教養ある人」が突然ポリコレし始め、他愛もないMVの植民地主義的な傾向にかみついて、そうだそうだとみんなして一斉に同調した結果、MVの発表取り下げに至る、という構図は学級会のつるし上げそのものだ。
サヨクは知識マウントできて満足だし、日ごろのストレス発散になったことだろう。
朝日新聞に人生相談をした「不正義や理不尽な行動を伝える新聞報道を見るたび、怒りに燃えて困っています」という50代の男性も、MVをぼこぼこに叩いて満足するくちかもしれない。新聞を読んで中途半端なポリコレ意識をもてあましている、という輩に対する処方箋としては、野沢直子の回答はこれ以上ない的を射たものだと思った。
そもそも「人間の考え方は偏差値で区切れる」って考え方もさあ…
ASDだか何だか知らんが、極端なカテゴリ分けして語りたがるの大杉でない?
現実とかけ離れた単純な前提でレスバやりたいだけならほっとくけど
本当に世の中がそれで成り立ってると思ってない?