はてなキーワード: 杜撰とは
いくら積み重ねたところで根拠とするには弱すぎるものをあげつらいすぎ。
元トピ職人の釣り解説 • [コラム]釣り分析"「歌い手」だった私にかけられた魔法が解けた
http://topisyu.tumblr.com/post/48442003797
ということらしいが、体験記は私小説みたいなもんなんだから小説言葉を使ってもおかしくないはずだ。この人の理屈だと2chの創作文化に影響を受けた文体で本当のことを書いたとしても創作認定されてしまうことになる。小説っぽい文体の人なんていくらでもいると思うんだが。そもそも「血の気が引いた」や「私の子供でもおかしくないぐらい」なんていう普通の強調表現を小説表現と断ずるところも納得出来ない。
元トピ職人の釣り解説 • [コラム]Facebookで大人気"バスの中で言葉の暴力を喰らった"の釣り解説
http://topisyu.tumblr.com/post/45845841112/facebook
なお、”ムカついたらしく”という相手の感情を表現しているのは、その後の言葉の暴力からすればその人に不快感があったのは明らかに分かるわけで、事実ならばあえて書く必要はありません。小説のように状況を説明する必要がある創作物で見られる、相手の心象を読者に理解させるための表現です。
ここでもまた小説論法だが、この程度の冗語は普通の表現であって釣りか事実かと関係があるようには思えない。
もはや言いがかりにしか思えない。釣りの証拠として何の足しにもならない。よっぽど砕けた口語じゃない限りいくらでも小説表現認定されそうだ。
この記事では、「フェイクによって釣りと同じような矛盾が出てくるのでフェイクと釣りの判別は慣れていないと難しい」という旨のことが書かれているが、自分が釣りだと認定した読み物についてはちょっとした矛盾も突付いて印象操作するので中々のダブルスタンダードだ。
ミシュランの星がついたレストランで同棲中で婚約中の彼女と食事をした
http://b.hatena.ne.jp/entry/anond.hatelabo.jp/20131015001328
これはとぴしゅじゃないけど、ちょっと前話題になったこの記事には、ただのパークアンドライドかも知れないのに「電車で運転?釣り?」みたいな反応をしてる人がブコメ・増田共にいる。この人たちはとぴしゅよりも杜撰。
やはりピカ米危険だよね…。
米のように主食で日常的に食べるものについては、ベクレル値が低くても気になってしまう。特に安い定食屋や牛丼チェーンのような、安い米使ってる所はやばそうだ。サイトで産地を公開していても「日本」としか書いてなかったり、吉野家にいたっては福島で米作るとか言い始める始末。企業の危機意識がかなり低いことがうかがえる。消費者があまりうるさく言わないからか。
去年ぐらいまでは震災前の古い米使ってるから安い店は逆に大丈夫(それはそれで好んで食いたくはないが)とも言われていたが、さすがに最近はそうじゃないだろう。
人々の警戒心も薄れてきて検査とかかなり杜撰だろうし、産地偽装やヤミ出荷はそこかしこで続いているのだろうし、出所のはっきりしない米は食わない…とするしかないではないか。10年経ってもガンが増えなかったらそこで初めて安心できる。今はまだ警戒を解ける段階ではない。
私の地域の飲食店の大体の時給相場が850円前後のところ、1200円程度。
時給400円弱の差は大きい。
たくさん稼ぐぞ、と意気揚々と登録に向かった。
しかし、高い時給につられて、深く考えずに選んだのは、間違いだった。
とにかく、全てが杜撰。
派遣元のオフィスで一時間弱の簡単すぎる研修を受けたら、次はすぐに現場。
派遣先のレストランの社員はイライラが募って私達に当たり散らすし、マネージャーはすぐに暴言を吐くし、お客様がにこやかに食事をしているビュッフェレストランの裏では阿鼻叫喚の地獄絵図。
「使えないバカをよこすなよ!研修でなにやってたんだ!」
たった一時間、教則DVDを見た後に、数分間お盆を持ってウロウロしただけです。
「お前らも仕事がわかってないなら聞け!」
聞いたら聞いたで「忙しいんだから、そんくらい自分で判断しろ!」とおっしゃるのに、一体どうすれば良いんですか。
「笑顔がない!」
暴言を吐かれ続けているなかでどうやって笑えと。
派遣先は、「即戦力」を求めて配膳の派遣人材サービスに依頼しているのだから、ただでさえ人員が不足しているときに使えない新人が来たら腹が立つのもわかる。
けれどもけれども私達だって、バタバタと忙しい中で長時間歩きまわるのに向かないパンプスに足を痛めながら、理不尽な罵声に耐えて休みなしで働き続けた6時間は苦痛でしかなかった。
思い出したくもないような、身体的なことや経歴的なことに関する暴言も吐かれたし、トイレにも行かせてもらえない、地獄のような一日だった。
何度も吐き気がこみあげて、必死で笑顔を作りながらもどんどん目が死んでいった。
無理だ、と思った。
自分が仕事ができないことに関して叱られるのは仕方がないと思う。
甘んじて受ける気でいた。
けれども、八つ当たりのように行き掛けに使えない、役立たず、時給泥棒と罵られながら目まぐるしい6時間を過ごすのは耐え難かった。
指導ではない、単なる虐めでしかなく、私と一緒に入った子たちは退勤後に更衣室で「もうこんな思いしたくない、辞める」泣いた。
アルバイトとはいえ、入ってすぐに仕事を辞める私達は確かに無責任かもしれない。
けれども、アルバイトだから、派遣だからと言って、体の良い八つ当たり道具のように扱われるのは耐えられない。
若いから、経験が浅いから、と言って虐げられるのを黙って受け入れていられるわけがない。
不当な思いをしても、耐えて働き続けることが誠実さだと言うのならば、べつに「ゆとり」だのなんだのと罵られても構わない。
1200円の時給で売り渡せるほど、私の矜持は安くないと思っている。
辞めるにあたって今回の現場について考えてみたが、問題は派遣システムにもあるのではないかと思う。
高い時給で釣っておいて、派遣先に体裁を整えるためのおざなりの研修を位置時間程度で行って、後は人数さえ合えば「働きながら覚えていけばいいから」などとまるめこんで新人を現場に放り込む。
当然、現場は期待した即戦力が来ないことで人員に対する仕事量が上手く噛み合わなくて忙しくなり、社員の機嫌は悪くなり、現場の雰囲気も悪くなる。
新人も仕事を覚える余裕もないまま、ただ忙しい中で当り散らされ、去っていく。
もうこうなったら悪循環だ。
派遣先は最初から派遣アルバイトは使えないものだ、と決め込んで虐めにかかるし、新人は虐められて去り続けるので育たない。
結果、どちらに対しても負の結果しか生まないことになるのだ。
とは言え、いくら仕事が忙しくても、人に言って良いことと悪いことの区別のつかないあのマネージャーに対しては、未だに腹が立っている。
あの口の悪いハゲは、できる限り速やかに痛い思いをして死ねばいい、そのほうが社会のためになる、と思う。
あの日の勤務の後、ストレスで夜中に吐いた。
忘れようと思っても、未だに思い出して突然涙がとまらなくなることもあるし、当分は同じようなタイプのレストランで食事はできないと思う。
勿論、今後一生私はあの店を使うつもりはないし、派遣会社とは契約解除するつもりだ。
辛い思いばかりだったが、今回の経験で、高いホスピタリティをうたう施設ほど、裏で従業員に負担がかかっているかもしれない、ということに思い当たった。
カナダ製SIMフリーモバイルWi-FiルーターをAmazon(日本)で買った。
昼ごろポチッて翌日着。速い。お急ぎ便じゃないのに。ごく自然に、脳内で「O-MO-TE-NA-SHI (CV: 滝川クリステル)」が再生された。
中身はルーター本体、USBケーブル、ACアダプター、電池、説明書。これだけ。最低限のものしか入ってない。
問題は説明書。
電源の入れ方、電池の取り付け方など、「説明されなくても分かるわ!」といったことしか書かれていない。
肝心の対応周波数帯域とか、バッテリー駆動時間とか、通信速度とかは一切書かれていない。
これは説明書なのだろうか? 滝クリのO-MO-TE-NA-SHI かーらーのー『合掌!』ほど謎である。
そう古くない(私が買ったのは新品だ)製品なのに、HPに載っていない。
必死にGoogle先生に尋ね続け、やっとのことで説明書(PDF)を見つけた。
どうやらHPのリンクは消したが、アップしたPDFは放置しているようだ。杜撰。
さらに輪をかけて酷いのは、このPDF版説明書、2種類あるのだ。
Ver1, 2のような位置づけではなく、よく分からんが2つあるのだ。
両方に目を通したが、2つとも書かれている主旨は同じ。そんでもって、ルーターにくっついてきた極薄紙ペラ説明書とも言っていることは同じ。Frequency (周波数)の“F”の字も出てこない。
「とりあえずSIM 挿してみてちょ。動かなかったらごめんね(合掌)」とか、O-MO-TE-NA-SHI JAPAN じゃ考えられない。
海外行ったことある人なら分かるだろうけど、日本のサービスが過剰なんだよね。
それこそお客さんに合掌するほど。いや、しねーよ。んなことするのは滝クリだけだよ。
1と2のファンから評判が悪い理由がよくわかった。
進めるのが苦痛で仕方ない。
言葉運びとか、シナリオの杜撰さとかバトルとかはマザーだけど、それ以外がマザーじゃない。
それ抜きにしても、1から思ってたけど、マザーはシナリオ構成みたいな人間を一人入れたらほんとに神ゲーだったのにとつくづく思う。
糸井重里のセンスと言葉運びはそのままで、全体的に伏線とかバランスをもっと調整する人間を入れるべきだった。
ストーリーっつーか、シナリオの脈絡がなさすぎたり唐突すぎる展開だったり、整合性がとれなかったり消化不良な点がありすぎるんだよなあ。。。
1とか2までは自由度もあってそれもマザーの醍醐味でお話を進めるのはついででも十分楽しめたけど、3だとマザーの一番の欠点であるつまらないストーリーを長々と見せられることになるから評判悪くなるのも当然だと思う。
しょっぱな1章で母親が死んじゃってふわふわオムレツ食べに帰るっていうマザーシリーズの醍醐味(だと自分では思っていた)イベントがないということに絶望したし、父親が荒れるのも不快だし(パパスを見習え。何が「つよくてやさしいたよれるおとうさん」だよ。詐欺じゃねーか)、2章で泥棒見習いのプレイヤーに対して父親からアホアホ連呼されてバカにされるのも不快だったし、結局父親から見つけてこいって言われて見つけたものが違うって言われてまたバカにされるし。いやそれストーリー上それしか取ってこれなかったのにそう言われても困る。3章でサルになっていうこと聞かなかったらすぐ電気ビリビリの罰ですっごいこき使われるのも不快だった。
4章でようやく本主人公のリュカになったけどクソ親父が自分をずっと放置してたと思うと憎しみしかない。
それでいい子に育ったとかほんとに奇跡でしかない。普通ぐれるだろ。
あー書いてたらどんどんむかついてきた。
サルも恋ザルを助ける見込みもないのに裏切って脱出しようとするし。
不可解すぎるだろ。
肝心の、どうやって助けたかってところが省略されて後でいきなり恋ザルと一緒にいるし。
潜入・助ける話とかあればまだしも。
とりあえずエンディングだけは見るけど、その前の盛大なネタバレを一度にだらだら聞かせられたのとかほんと読んでて嫌になったわ。
全部テキストで説明されるから見てるのも退屈だし、ほんと苦痛だった。
せめて一枚絵でもあれば違ったんだろうけど。
俺はダメだと思ってる。
推定無罪の観点から捜査を進めるべきだと思うし、何より痴漢をしてないのに“した”と無理矢理認めさせられるのは如何ともし難い屈辱だ。
警察は何に置いても被害者女性の味方だけど、先に言うと現行犯逮捕でないから、痴漢したと容疑を掛けられた時点では犯罪者ではない。
その犯罪者の可能性があるだけの人間を“罪を認めるまで拘置所で21日間抑留”するのは人権問題に当たらないのか?と思う。
弁護士を呼んだ場合でも、多かれ少なかれ示談させる方向に向かわせようとするので痴漢容疑者にとってはきわめて厳しい状況が続く。
もしかしたら無実かもしれない人一人の人生が破綻してしまうかもしれないのに、警察や弁護士、司法や社会の見る目が痴漢の有無関係なく厳しいのは異常だと思う。
そしていざ裁判になると司法は痴漢容疑者の有無を聞かず99.999%で有罪としてしまうのだから、司法社会および民主主義社会とは思えない杜撰さだ。
本来、司法というのは公的な立場から公平に裁く事を目的とする場のはずなのに、痴漢案件については物的証拠および状況証拠を判断材料にせず、ヒアリング等でまとめた調書のみで
この容疑者を裁こうというのだから、旧態依然の魔女裁判だと言える。
裁判員制度も痴漢事件のようなヒアリングのみの判断材料の元では明らかに不公平な中での判断となる。
結局は人の感情論というあいまいな判断基準の元に裁定が下されるのだから、痴漢容疑者の心理状態は計り知れないほどの緊張と疲労困憊を味わう事になるし、
裁判員の方もこれで合ってたのか、実は冤罪者を罪に陥れるんじゃないかという恐怖もあって適切に判断する事が出来ない。
まして女性は同じ女性である痴漢被害者に同情し容疑者を敵視するのは明らかだし、男性は無駄な正義感でもって容疑者を叩こうと考えるはずだ。
これでは推定有罪かつ有罪100%だと有識者から非難されるのも当然だと思う。
では痴漢冤罪の立証は不可能か?というと、仮に立証が可能だったとしても、司法というのは一度下した判決を覆すのは司法を否定することになるといったチャチなプライドから、
なので、感情論で決められる痴漢事件というのは、きわめて後進的というか痴漢事件における判断というのが状況証拠もないというのは異常だと思う。
hatena内でオススメのSFをリストアップするのが流行だ。
ホコリの被った旧作(「古典」ではない)ばかり挙げられていて本当に辟易する。
SFはアイデアの新奇性、センス・オブ・ワンダーが重要なのであって、
今さらヴェルヌやウェルズを読んだところで、価値はない(ギブスンやディックも同様)。
そしてこういう「オススメSF」の話題になると必ず出てくるので『夏への扉』を薦めてくるやつだ。
はっきり言えるが『夏への扉』を薦めるやつは見る目がなく、センスに欠けていて、信用できないってことだ。
『夏への扉』は読まなくて結構。今からその理由を端的に3つ述べる。
『夏への扉』は猫好きなら読んでおくべき、みたいな薦め方もされる。
読んでみて驚いたのだが、これはまったくもって猫小説ではない。
では、猫は何なのかというと、主人公が猫を飼っていて、たまに触れられる程度。
一緒に行動するし、『夏への扉』というタイトルは猫の行動から来ているが、
猫が作品のテーマだったり、猫の行動が何かストーリーに影響を与えるわけでもない。
ただの添え物であり、これを「猫小説」だと思ってしまうやつは、どうかしている。
最近、『世界から猫が消えたなら』という小説が20万部?かそのぐらい売れていたが、
これもとんでもない愚作で、主人公が消失物について浅い思弁を展開するだけの小説とはいえない代物だった。
どうやら世の中には猫が出ていればほかはどうでもいい連中がいるようだ。
猫好きは『綿の国星』でも読みなさい。こっちは掛け値なしの名作です。
その理由を正すために過去へと舞い戻ることになる。
主人公が未来にきたのは「冷凍睡眠」によってなので、過去に戻ることはできない。
じゃあ、どうやって戻るのか・・・というのが肝になるはずだが、『夏への扉』は驚くべき処理をする。
たまたま未来世界で知り合った男が、たまたま時間旅行を研究しているマッドサイエンティストと知り合いなのだ!
そして、マッドサイエンティストを紹介してもらって過去に戻る・・・なんじゃそりゃ?
ほかのも「たまたま」で処理される部分はいくつかある。たまたま通りがかったとか、たまたま見逃した・・・とか。
それに未来に過去へと行ったり来たりするが、そこでタイムトラベルらしい伏線を張ったり、解消したりということはない。
例えば『バック・トゥ・ザ・フューチャー』なら、「過去でのあの行動が未来にこう生きてくるのか!」という驚きがあるが、
『夏への扉』では一切そういうのはない。時間移動というより、単なる舞台移動にしかすぎないのだ。
『夏への扉』はタイムトラベルものとしても優れていない。プロットが杜撰な復讐ものなのだ。
『夏への扉』において、それは一緒に会社を興した男の義理の娘だ。
このヒロインは幼い頃に主人公になついていて、未来世界で主人公と結ばれる。
仲のいい少女がずっと思っていてくれて、未来で結ばれる、というロリコンの白昼夢のような展開だ。
しかし、それでも合理的な説明がなされていてれば文句はない。
ヒロインがなぜ主人公になついているのか、なぜずっと主人公を思っていてくれてるのか(何十年も!)、その説明がなされればいい。
だが、驚くことにそこら辺の理由が一切説明されない。
ヒロインは理由なく主人公になついていて、理由なくずっと待っていてくれるのだ。
これをご都合主義と呼ばずしてなんと呼ぶ。私は読み終わって背筋が凍った。
こんな展開を「感動のラブストーリー」だと思っているやつもいるようで、SFファンはどうりでモテないはずだと合点がいった。
オールタイムベストの類では上位には入ってこないという。
『夏への扉』が人気なのは日本特有のことなのだ。それを知ってはは~んと納得がいった。
中身はないが、何だか心地よい。日本にはそういうものに騙されるやつが多い。
なんていったって『負けないで』みたいな中身空っぽな歌がミリオンになる国だもんな!
『負けないで』に励まされるやつってどんだけ寂しい人生を送っているんだろう。可哀想だ。
うん、おれも仕事がつらいときにたまたまラジオから流れてきて、泣きそうになっちゃったけどな。
お前ら、他人の評価に惑わされるんじゃねえぞ。お前にとって何が面白いのか、知っているのはお前だけだ。
参考記事
http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20130511/1368241656
■読んでいてもたいして良いことはないSF名作私選十作
http://d.hatena.ne.jp/Lobotomy/20130511/p1
■お前らわざわざ無理してSFなんて読もうとするんじゃねえよという6冊
http://banraidou3rd.hatenablog.com/entry/2013/05/12/021854
■全部読んでるとコイツヤバイ(!)ってレベルのSF小説家 6選
http://d.hatena.ne.jp/kwsktr/20130512/1368303146
http://d.hatena.ne.jp/pub99/20130511/p1
http://d.hatena.ne.jp/NOV1975/20130511/p1
http://azanaerunawano5to4.hatenablog.com/entry/2013/05/11/165646
人権というものを語るとき、必ずといっていいほどまで言われることがいくつかある。
たとえば、「人権というものは近代国家を満たす要件のひとつだ」というぐあいだ。
ホッブズは社会契約説として自然権を考えたが、彼の見据えた先は絶対君主制であり、巷で言われるような近代国家とはまた異なる。
ロックは間接民主制を見据えていたので、これはさらに民主主義を推し進めたという意味でより近代的である。すなわち、近代国家というのは民主的であるというのも大事なのだ。
他に言われることとしては、「障害者に人権がなかったら、虐殺される」というものや「お前みたいなクズが生きていられるのも人権のおかげだ」というたぐいのものだ。
常識的に考えてみて欲しいのだが、人権の有無と虐殺の有無は異なる。人権がなかろうと人を殺せば刑法に触れるのであり、ふつう虐殺など起こらない。人権がない、すなわち無法地帯というわけではないのだ。後者に至っては発言者のゲス具合が遺憾なく発揮されており、恫喝以外の何物でもないと考える。
さて、憲法改正議論にあたって基本的人権の尊重などというのが槍玉に上がっている。これを廃することは、近代国家の否定だという人が思ったよりいる。
少しシミュレートして欲しいのだが、この国から人権を廃して、何か変わるだろうか?
警察の対応が杜撰になる?そんなことはない、もとから人権など顧みない杜撰な組織だ。
国家が国民や他国の人間を守らなくなる?そんなことはない、人権等より実質的な国家的相互監視によって、そんなことは許されないし、軽微なものならこれまでも無視されている。
自由が奪われて息苦しい時代になる?そんなことはない、それはある程度は景気の問題であって、人権があるかどうかと自由があるかどうかは関係ない。人権があろうとなかろうとわれわれはこれまでも「公益及び福祉のため」にこれを実践してきたし、人権の有無にかかわらず公共の福祉のために衝突があれば調停してきた。
ここまできてわかっただろう。この国に人権などいらないのだ。人権などいらないと言いのけても矛盾ないほどまでに杜撰な国家に杜撰な国民、杜撰な社会だと言うのもいいし、人権などいらないと言うまでに自律的かつ他律的な国家国民社会なのだ、と言うのもいい。
いずれにしても、民主的手続きで人権を放擲するならそれは最大限尊重されてしかるべきだし、今回の改憲が実現したとして人権がきれいさっぱり憲法からなくなるというわけでもないのだから、反対派にしても良かったじゃあないか。
目標がないと人は虚しくなり生きている実感がわかなくなるらしい
確かに現在の自分は、今を消費することに忙しいふりをして目標を見いだすことはできていない。
その原因は他人から聞いた抜け出すことのできない悩みによるものかもしれない。できれば関わりたくないような不幸のループ。そういう物を聞いてしまった。
私に話してくれたが、そのことがその人々の役には立たったわけではない、むしろ迷惑をかけて仕舞っている。他人の扱い方が杜撰だったんだろう。
今の私の寂しさを紛らわすために人を使っていた。それでもいいから一緒にいたいと言ってくれる人もいたけど、
普通の人は嫌がるのだろう、「私は何かの代わりじゃないの、寂しさを埋める代用品じゃないの」と。
色々信頼できる人に相談してみたらとりあえずは落ち着いてきた。逆に私はその人たちの生活や精神をかき乱してしまったかもしれないが。
前に大切な物のために生きようと思ったけど、今はその大切なものに助けられて生きている。こんなんじゃ本末転倒だ、駄目だ駄目だ。
体は元気なのに虚しい気持ちが続く。こんなにつらいことだとは知らなかった。体は特に欲求を持たない。
だけど気持ちは沈んで、何か晴れやかな気持ちを待ち望んでいる。切望しても手の届かないものを追いかける。つらい。
沈むとか落ち込むというよりも、とにかく虚しんだ。TVで笑っている芸能人の顔を見ると作り笑いに見えた。そんなこと今までなかったのに。
まぁだからといって自分は作り笑いしているわけではなくて、たまにおかしいことがあれば笑う。でも5秒後にはまた空しい自分に戻っている。
だけど仕方がない、これも私の人生の一部なんだと思うしかない。
本来の目的はどうしたんだろう…。目標に近づけば近づくほど失望の嵐が続くんじゃないだろうか。きっとそうだ。だって人はいつか死んで行くのだから。
(このへんは他人が読んでもイミフだろうな)
ここで他にも救える人がいるって考えなきゃだめなのか。どうして私は無力(無職)のくせに他人の力になろうとするんだろう。しかも中途半端な…
誰も私を必要としてなくてもいいじゃないか。いつから正義感を持つようになったんだ。他人が笑わないなら、余計なお世話なんだろう…
関係を切りたいくらいだ。
あぁ
ヒートアップしてるよなあ。
いじめられたころの記憶が蘇ったのかは知らんが、感情的になり、一連の事件を俯瞰的に見れなくなってる。
「じゃれあい」「被害届け不受理」は自殺した生徒および両親に対して、
学校、教育委員会、警察が行ってきた発言や行動をそのまま返した、いわゆる因果応報的な皮肉なのに。
やるんやったら確実に仕留めやな!
でもナイス!
みたいな明らかに悪乗りしてる奴や
みたいなネトウヨとはお近づきにはなりたくないし、こいつらはこいつらで糾弾されるべきだと思う。
でも、今回の件に関しては元増田も言ってるように
があるから、それに関する批判をしている人も多くいる。
私は刑法には疎いということを承知の上で読んでください。
さて、私の常識では、日本の刑法は「法を犯した者」と「法を犯させた者」、前者の側が槍玉に挙げられるケースが多いと感じます。
と言うよりかは、日本の刑法のほとんどは、前者のケースばかりではないでしょうか。
教唆犯のようなケースぐらいしか後者には当てはまるものはないのではないか、とも思います。
ここ最近、自動車事故の厳罰化を求める主張が増えてきたように思います。
それに対して批判をしている人は、概ね構造に目を向けています。
その主張、私は概ね、いや、間違いなく正しいと言い切れますが、それだと、かなり大変なことになるように思えるのです。
まず、軽犯罪を例に取りましょう。
窃盗を犯したものが補導、逮捕されたとして、では、その店に責任はないのか、ということです。
万引きされやすいところに商品を陳列させていないか、売り場に一人しか人間がいなくて、目の届かないような態勢になっていないか、商品を盗まれないような工夫がされていないか、
などなど、店側の問題も考えられます。また、万引きをスリルで楽しんでしまうような学生は、その生活環境はどうなのか、など、構造に目を向けると枚挙に暇がないと思います。また、最近の店は、たぶん窃盗ごときに対策してられないほどに経費を削減していると思われます。
まあ、これは軽犯罪の例ですから、今回の自動車で人を轢き殺してしまったような事例とは比べるべきではないという人もいるでしょう。
でも、私は構造に目を向けるとは結局こういうことなのだと思います。
構造に目を向けるのは、はっきり言ってキリがありません。どこまで、という線引きが出来ますか?無理でしょう?
だからこそ、始末をわかりやすくするために「やった人とやりそうな人だけ」が責められるような状態になっているのだと思います。
ところで、構造と言えば、先の震災で東電管轄の原発整備が杜撰だったことがいろいろ暴かれましたが、彼らが逮捕されないのは多くの人から批判されようと、原発が爆発しなかったから一線は越えてない、ということでいいんでしょうか。
ブラック企業で過労死した人が外食チェーンにいましたが、企業経営者が罪に問われないのはやはり一線は越えてないから、ということでいいんでしょうか。
構造が変われば、彼らは裁きを受けるのでしょうか。
オウムの信徒制度には、在家のほかに出家がありました。オウムの出家とは、世俗的な関を一切絶ち、麻原に全生涯を捧げ、人類の救済―最終的には解脱させること―と自己の解脱に専念することでした。
出家者は教団施設内で共同生活をすることになります。家族とも絶縁の形になり、解脱するまでは、会うことも、連絡することも禁止でした。財産はすべて教団に布施し、私物として所有できるのは、許可されたもののみでした。飲食は禁止でした。本、新聞、テレビ、ラジオなど、教団外の一切の情報に接することも禁止でした。これらの戒は、苦界に転生する原因となる執着を切るためのものでした。
入信時、私は出家をまったく考えていませんでした。長男という立場上、親の老後を見たいと思っていたからであり、また私が出家すると家庭が崩壊しかねないとも思っていたからです。そもそも、入信前に読んだ麻原の著書によると、在家でも解脱可能だったので、そのような無理をしてまで出家する必要を感じませんでした。
自分が培ってきたものを崩すのは真に恐いことです。入信間もないころ、私はある在家信徒と話をしました。彼は出家の準備のために定職を捨て、アルバイトをして暮らしていました。その話を聞き、私は恐怖心を抱いたのです。実際、昭和六三年十月の私について、母は「就職の内定を喜び、安心している様子だった」旨法廷証言しており、その時点で出家の意志は皆無でした。
ところが、私は出家することになりました。私の入信後、勢力拡大のために、オウムが出家者の増員を図ったのです。私の入信前の一年半の間に約六十人が出家したのに対し、入信後の一年間には約二百人が出家しました。
「現代人は悪業を為しているために来世は苦界に転生する。世紀末に核戦争が起こる。(本文二十一頁)」
―麻原は人類の危機を叫びました。そして、その救済のためとして、信徒に布教活動をさせたり、さらに、出家の必要性を訴え、多くの信徒を出家させたりしました。
このように、一般社会は苦界への転生に至らせる世界として説かれていましたが、それを聞いているうちに、そのとおりの体験が私に起こりました。
私の公判において、友人が次の証言をしました。昭和六十三年晩秋か初冬に私が話した内容です。
町中を歩くとバイブレーションを感じること、電車内のいかがわしい広告を見ると頭が痛くなること、繁華街の近くにいると体調がおかしくなるという話がありました。
当時、私は街中を歩いたり、会話をするなどして非信徒の方と接したりすると、苦界に転生するカルマが移ってくるのを感じました。この感覚の後には、気味悪い暗い世界のヴィジョン(非常に鮮明な、記憶に残る夢)や自分が奇妙な生物になったヴィジョン―カンガルーのような頭部で、鼻の先に目がある―などを見ました。この経験は、カルマが移り、自身が苦界に転生する状態になったことを示すとされていました。さらに、体調も悪くなるので、麻原がエネルギーを込めた石を握りながら、カルマを浄化するための修行をしなければなりませんでした。
また、一般社会の情報は煩悩を増大させて、人々を苦界に転生させると説かれていました。そのために、情報によっては、接すると頭痛などの心身の変調が起きたのです。
他方、当時、日常的に麻原からの心地よいエネルギーが頭頂から入って心が清澄になり、自身のカルマが浄化されるのを感じました。
これらの経験によって、一般社会が人々のカルマを増大させて苦界に転生させるのに対して、麻原だけがカルマを浄化できることをリアルに感じました。そのために私は、麻原の説くとおりに一般社会で通用する価値観は苦界に至らせると思うようになり、解脱・悟りを目指すことにしか意味を見い出せなくなりました。
この状況に関連することとして、検察官の「広瀬から出家の原因、理由を聞いたことがあるか」との確認に対して、私の指導教授は「結局、神秘体験だと言っていた」と法廷証言しています。(当時、私は教授にも入信勧誘していたのです。)また、出家することが、苦界に転生する可能性の高い親を救うことになるとも思うようになりました。子供が出家すると、親の善業になるとされていたからです。出家にあたり一番の障害は親子の情ですが、それを除くために、オウムではそのように説かれていたのです。
こうして、私は出家願望を抱くようになりました。世紀末の人類の破滅というタイム・リミットをにらみながら、家族の説得に要する期間や就職が決まっていた事情なども考慮して、二、三年後の出家になると思っていました。
このような昭和六三年の年末、私は麻原から呼び出されました。麻原は救済が間に合わない、もう自分の都合を言っていられる場合ではないと、出家を強く迫りました。私は麻原に従い、大学院修了後に出家する約束をしました。そして、平成元年三月末に出家しました。
私の出家後、平成元年の四月から、麻原は「ヴァジラヤーナ」の教義に基づく救済を説きはじめました。現代人は悪業を積んでおり、苦界に転生するから、「ポア」して救済すると説いたのです。「ポア」とは、対象の命を絶つことで悪業を消滅させ、高い世界に転生させる意味です。この「ポア」は、前述(二十一頁)のように、麻原に「カルマを背負う―解脱者の情報を与え、悪業を引き受ける―」能力があることを前提としています。
その初めての説法において、麻原は仏典を引用して、「数百人の貿易商を殺して財宝を奪おうとしている悪党がいたが、釈迦牟尼の前生はどうしたのか」と出家者に問いました。私は指名されたので、「だまして捕える」と答えました。ところが、釈迦牟尼の前生は悪党を殺したのです。これは殺されるよりも、悪業を犯して苦界に転生するほうがより苦しむので、殺してそれを防いだという意味です。それまでは、虫を殺すことさえ固く禁じられていたので、私にはこの解答は思いつきませんでした。しかし、ここで麻原は、仏典を引用して「殺人」を肯定したのです。
ただし、このときは、直ちに「ポア」の実践を説いたわけではありませんでした。最後は「まあ、今日君たちに話したかったことは心が弱いほど成就は遅いよということだ」などと結んでいます。私も、実行に移すこととは到底思えませんでした。
ところが、麻原は説法の内容を次第にエスカレートさせていきました。その後の説法では、「末法の世(仏法が廃れ、人々が悪業を為して苦界に転生する時代)の救済を考えるならば、少なくとも一部の人間はヴァジラヤーナの道を歩かなければ、真理の流布はできないと思わないか」などと訴えています。それに対し、出家者一同は「はい!」と応じており、「ポア」に疑問を呈する者は皆無でした。(『ヴァジラヤーナコース教学システム教本』―教団発行の説法集より)
前述(二七~二八頁)のように、私にとっては、現代人が苦界に転生することと、麻原がそれを救済できることは、宗教的経験に基づく現実でした。ですから、私は「ヴァジラヤーナの救済」に疑問を抱くことなく、これを受容しました。なお、麻原は、私が述べたような宗教的経験を根拠として、この教えを説いていました。
さらに、私はいわゆる幽体離脱体験(肉体とは別の身体が肉体から離脱するように知覚する体験などもあったので、私たちの本質は肉体ではなく、肉体が滅んでも魂は輪廻を続けるとの教義を現実として感じていました。そのために、この世における生命よりも、よりよい転生を重視するオウムの価値観に同化していました。このことも「ヴァジラヤーナの救済」を受容した背景だと思います。
このような説法が展開されていたとき、私は解脱・悟りのための集中修行に入りました。第一日目は、立住の姿勢から体を床に投げ出しての礼拝を丸一日、食事も摂らずに不眠不休で繰り返しました。このときは、熱い気体のような麻原の「エネルギー」が頭頂から入るのを感じ、まったく疲れないで集中して修行できたので驚きました。
この集中修業において、最終的に、私は赤、白、青の三色の光をそれぞれ見て、ヨガの第一段階目の解脱・悟りを麻原から認められました。特に青い光はみごとで、自分が宇宙空間に投げ出され、一面に広がる星を見ているようでした。これらの光は、それに対する執着が生じたために、私たちが輪廻を始めたとされるものでした。その輪廻の原因を見極めることは、輪廻から脱した経験(=解脱)を意味しました。
解脱・悟りを認められた後は、以前は身体が固くてまったく組めなかった蓮華座(両足首をももの上に載せる座法)が組めるようになりました。教義によると、これはカルマが浄化された結果と考えられました。また、食事が味気なく、砂でも噛んでいるように感じ、食事に対する執着が消えたように思えました。さらに、小さなことにこだわらなくなり、精神的に楽になりました。
以上は麻原の「エネルギー」を受けた結果のように思われたので、彼が人のカルマを浄化して解脱・悟りに導くことの実体験になりました。
平成二年四月、麻原は古参幹部と理系の出家者計二十人に対して、極秘説法をしました。冒頭、「今つくっているもので、何をするか分かるか」と私に問いました。しばらく前から、何らかの菌の培養を指示されていたのです。目的は聞かされませんでしたが、指示の雰囲気から危険な菌らしいことは分かりました。私は、「ヴァジラヤーナの救済」とする旨を答えました。一年間説法されて、その実行が当然のことのようになっていたのです。
麻原は、「そうか、分かっていたのか」と言い、「ヴァジラヤーナの救済」の開始を宣言しました。
「衆院選の結果―平成二年二月の衆院選に、麻原ら教団関係者二十五人が出馬し、全員が落選―、現代人は通常の布教方法では救済できないことが分かったから、これからはヴァジラヤーナでいく」
そして、麻原が指示したのは、猛毒のボツリヌストキシンを大量生産し、気球に載せて世界中に散布することでした。私たちは、その場で各人の任務も指示され、直ちに作業に取りかかったのです。私はボツリヌス菌の大量培養―容量十立方メートルの水槽四基―の責任者でした。
作業は過酷でした。ヴァジラヤーナの救済になると麻原は血道を上げるので、指示を受ける私は寝る暇もないことがありました。私は約三か月間教団の敷地に缶詰めにされ、風呂にも二度しか入れませんでした。それも関連部品の購入のために業者を訪問するときなどに、指示されての入浴でした。そして、安全対策も杜撰で、非常に危険な状況での作業でした。結局、種菌さえできていなかったことが後で判明したのですが、できていたら私たちが真先に死んでいたと思います。
私たちは、一般社会では無差別大量殺人とみなされる行為を指示され、しかも厳しい作業が続きましたが、誰も疑問を口にすることなく、淡々と行動していました。外部の人が見たら、殺人の準備をしているとは思えなかったでしょう。
それは、私たちにとって、「ヴァジラヤーナの救済」が宗教的経験に基づく現実だったからです。(本文三十一頁)そして出家後も、次のように、そのリアリティは深まるばかりでした。
一般社会が苦界への転生に至らせることに関しては、出家後初めて外出したときに、以前に経験のないほど厳しくカルマが移ってくるのを感じて(本文二十七、二十八頁参照)、危機感を覚えました。出家者に対して外部との接触を厳しく制限するなど、教団が外部の悪影響を警戒していたことが暗示になったのだと思います。また、テレビ・コマーシャルを視聴したところ、その音楽のイメージが頭の中でぐるぐると繰り返されるようになり、集中力が削がれる経験がありました。それは、選挙運動中に、麻原の指示でオウムに関する報道を録画したときのことでした。私の変調に気づいた麻原が、「現世の情報が悪影響を与えている」と作業の中止を指示したので、一般社会の発する情報への警戒心が強まりました。
一方、麻原の救済能力に関しては、その「エネルギー」によって解脱・悟りに導かれたと感じる経験をしたために、さらに奥深さを知った思いでした。
ボツリヌストキシン散布計画が中止された後、私は集中修行に入りました。そして、自分の意識が肉体から離れ、上方のオレンジ色の光に向かう経験などをして、ヨガの第二段階目の解脱・悟りを麻原から認められました。また、認められたその場で、毒ガスホスゲンの生産プラントの製造計画(平成二年十月から三年八月、中止ーオウムでは、次の計画の指示が入り、前の計画が中止されることが多かった)に加わるよう指示されました。その後も、プラズマ兵器、レーザー兵器の開発(同四年十一月から五年十二月、中止)、ロシアにおける武器調査(同五年二月と五月)、炭疽菌の散布計画(同五年五月から六月、失敗)、オーストラリアにおけるウラン調査(同五年九月)、自動小銃AK七四千丁の製造(同六年二月から七年三月、一丁完成、逮捕のため中止)などを麻原から指示されました。
このように、オウムにおいては、「ヴァジラヤーナの救済」の実践は日常的なことでした。
そして、平成七年三月、私たちは地下鉄にサリンと散布する指示を村井秀夫から受けました。麻原の意志とのことでした。その指示は、当時の私には、苦界に転生する人々の救済としか思えませんでした。一般人が抱くであろう「殺人」というイメージがわかなかったのです。
地下鉄サリン事件に関するある共犯者の調書を読むと、私たちが事も無げに行動している様子が散見されます。そのような記述を読むと、残酷な事件を平然と起こしたことについて、自らのことですが戦慄さえ覚え、被害関係者の皆様に対しては心から申し訳なく思います。誠に愚かなことでしたが、オウムの宗教的経験に没入している状態でした。
[ただし、私は決して軽い気持ちで事件に関与したわけではありませんでした。救済とはいえ、「ポア」の行為そのものは、通常の殺人と同様に悪業になるとされていたからです。それまではカルマの浄化に努めてきたのですが、救済のためにカルマを増大させる行為をすることが「ヴァジラヤーナの救済」と意味付けられていたのです。そのカルマは、修行によって再び浄化する必要がありました。さもないと、「カルマの法則(本文二十一頁)によって、自身にも返ってくるとされていたからです。実際、地下鉄から下車した後、私は突然ろれつが回らなくなく、サリン中毒になったことに気付いたのですが、そのときは「カルマが返ってきた」と思いました。]
以上のように、オウムにおいては、非現実な教義が宗教的経験によって受容されました。そして、その教義が社会通念と相容れないものだったために、逸脱した行動がなされました。
他方、「禅」も宗教的経験を起こす技法を用いますが、「悟了同未悟―悟り終われば凡夫に立ち返る―」という教えがあります。これは「禅」の瞑想技法によって起こる日常生活への不適応(本文二十五頁)を防ぐ安全装置ではないでしょうか。何代にもわたって存続している宗教には、問題が起こるのを回避する知恵の蓄積があるのだと思います。
宗教的経験を起こす技法やその経験に基づく思想に係わる場合は、その弊害の予測が困難なので、このように経験的に安全性が保障されていることを確認する必要があるでしょう。
また、私は宗教的経験によって教義の検証が可能と思いオウムに関心を持ったのですが、それは大きな誤りでした。人間の感覚は決して常に真実を反映しているわけではありませんでした。神秘的体験の心理状態は次のようにいわれており、幻覚を真実と認識してしまうこともあるのです。
神秘的な状態は比量的な知性では量り知ることのできない真理の深みを洞察する状態である。それは照明であり、啓示であり、どこまでも明瞭に言い表されえないながらも、意義と重要さとに満ちている。そして普通、それ以後は、一種奇妙な権威の感じを伴うのである。(前出ジェイムズ)
幻覚的な宗教経験によっては、決して“客観的”な真実は検証できません。できるのは“主観的”に教義を追体験することだけです。それ以上のものではありません。
ですから、宗教的経験はあくまでも“個人的”な真実として内界にとどめ、決して外界に適用すべきではありません。オウムはそれを外界に適用して過ちを犯したのです。
【vol.4「恐怖心の喚起」】へ続く。