はてなキーワード: 旧約聖書とは
結局、人生の目的は、「いま、この一瞬を生きる」ということなんだろう。
「風の谷のナウシカ(漫画版)」最後の「生きねば…」が全てを物語っている気がする。
「宮崎駿 虚無」とかでググると、彼は虚無に襲われないようにアニメに没頭したのではないかと思えてくる。
「伝道の書に書かれてる突き抜けたニヒリズムっていうのは読んでてちょっと元気が出ました。
黄泉の国に行ったら何もないよって、権謀も術策もないけど知恵も知識もない。
だからおまえの空なる人生の間は自分のパンを喜びをもって食い楽しみながら酒を飲んで
額に汗して尽くせるだけのことを尽くして生きるのは神様も良しとしているんだっていう。
すごいですねえ、旧約聖書っていうのはすごいものなんだなあっていうのを初めて知ったんです。 」
塩沼亮潤
「SWITCHインタビュー」「死ぬのは怖いですか?」という質問に対する回答
「何回か死にかけているので、もう怖くもなんともなくなった。死を意識するっていうことは全くなくなった。」
「ただ 生きられるうち、精一杯 生きようっていう気持ちですね。自分の力を十二分に発揮してこの世で終わりたい。」
西畠清順
「選ぶのは長い時間風雪に耐え、生き延びるために独特の形になった松」
人が恵まれていることは、一生懸命になれることの選択肢が無数にあることではないか。
文章を書くこともそのひとつで、この文章を書かれた「その瞬間」は、
それなりに一生懸命に生きていたのではないか?
そうでなければ、これほどのブックマークは集められないと思う。
たとえば自分の人生になんか意味があったとするじゃん。でも、それが自分のしたいこととは限らないわけよ。
旧約聖書とかによく出てくる預言者なんてまさに人生の意味を与えられた人じゃん。でも、彼らが幸せに暮らしていけたかというとかなり怪しい。神の教えを人々に伝えるとかいう使命のせいで迫害されて無残な人生を歩んだ人たちが割と多い
そう考えると人生の意味が欲しいっていうのは、もてたいとかお金持ちになりたいとかっていう人間の欲望と同列に扱えるわけよ。とはいっても悪性の欲望ではないと思うからいわゆる人生の意味ってのを探したくなったときは自分の欲望をコントロールしながら探っていくといいと思うよ。
それと年寄りが「人生の意味とか考えるなんてキミも若いな」って思うのは、子供が雲を掴みたいとか雲の上に乗りたいとかいってるのをほのぼのとみている感じに近いんじゃないかな。
雲って物理的には水蒸気の塊で、当り前だけど、そもそも雲の上なんて乗れないのよ。でも、雲の上に乗りたいっていう子供の素直で素朴な感情そのものが素敵だと思わない?それと同じで人生の意味を真剣に考えるって若さゆえの純粋な気持ちで無駄というわけではないんじゃないか。
ここに来た人の中で自分がキリスト教徒であることをはっきり言える人以外は
一度ここ読んだ方がいいね。
特に無宗教決め込んでキリスト教を含めた「宗教」の信徒を馬鹿にしている人は、知らないことがあることを知った方が後々安全。
キリスト教徒でも知らないことあるから、読んでみることをお勧めします。
http://homepage3.nifty.com/yagitani/kurihon/kurihon18.htm
結婚が一度きりに限るとか、教会が実際に結婚について信徒に制限加えるのはそれカトリックと福音派だけだから。異端は知らない。
異教徒と結婚しているキリスト教徒とか、フツーにいるから。完全にそれを許してないのはプロテスタントのうちの福音派だけだから。ロマ書読んだ?
しつこい勧誘をするとか、それ異端だけだから。伝統教派は基本「自分の意思で来る人以外拒む」し、「勧誘をする」のは三位一体や使アタナシウス信条すらアウトにしてる某異端たちだけだから。
堕胎や婚前交渉同性愛、職業選択にうるさくなるのは宗教だけが根本にある訳じゃないから。無宗教を謳う人がこれだけ多い日本で、「倫理」が何故話題になるかわかんないかな。
人類の進化を受け入れなかった、ってそれあの大所帯のカトリックが「すべての人が価値観を変えた」と確認するまでトップが受け入れたことを表明するのに慎重になっていることがわからないかな。
例えば最も保守的な正教会には「七日目」に朝があり夕があったとの記述が創世記に無いからまだ地上が完成したとは結論付けていないんだけど、それはどう考えるのかな。
そういえば、ロマカトとプロテスタント福音派や異端ばかり見てない?
狭い。カトリックの人が書いてるけど、正教も伝統プロテスタント(⇔改革派からは「福音派」と呼ばれる)もサイトあるんだから多少は自分でググってね。
カトリックだってローマカトリックだけじゃないんだよね、日本には無いけど。(つまり東方典礼カトリックを自称する日本の教会はあったら異端ってことです。)
聖書の訳も何種類も出ていて、日本聖書協会が出版していないものは完全に異端だと認めていいことも知らないだろうから、訳も調べてみてね。
お勧めは正教訳といきたいところだけど難しいので、カトリックのフランシスコ会訳と、カトリックと聖公会、ルーテル(と極少数の改革派)が使ってる最大利用者の持ってる新共同訳。
新改訳は「改悪」という評判を随分聞いてるから読んだことがないね。
「キリスト教」と一言で言っても、十戒の最大の禁忌のひとつ「偶像崇拝」の解釈すら教派によって違うから、少し勉強してから発言しないとちょっとしたことでも恥かくよ。
正直見てて痛々しい。
追記:知恵の書2章~3章をキリスト教徒の兄弟姉妹たち、今一度お読みになってください。旧約聖書続編にあるので、手元に無い場合はせめて一度読んでみて。信仰を持たない人の人生観が書かれています。
またイルカ漁まわりで燃えてるんだそうな。まあいつものことだ。
ただその宗教的信念に対する反論が以下の基本的二択なのが由々しい。
キリスト教やらその根の聖書やらと真っ向から歯向かうこういった論理は正当性は置いといて分が悪すぎる。
通そうと思ったら旧約聖書信じてる世界人口の半分と戦わなきゃならん。
できれば戦う相手は反捕鯨派だけに留めたい。
つまり連中の神を否定せず、クジラ・イルカを食べて良い論理はないものか。
聖書には明るくないのでずれてるかもしれないが、例えばこんな話は既出かな。
・クジラ・イルカは「大きな魚」やら「リバイアサン」とかいった神の使いでない。
その証拠に、かつて捕鯨してきた欧米人は天罰ではなく恵み(油)を受け取ってるではないか。
・小賢しい知性を持ち神のコレクション(漁業資源)を荒らす鯨・海豚はむしろ神の使いの皮を被った悪者。
・神は人間にそういった悪者を倒す術を授けた。神が鯨・海豚を倒すように仕向けた。だからかつての欧米人は鯨を倒し恵みを受け取った。
ずいぶん苦しい。もう少しマシな論理があればいいんだが。
連中の論理の中で反論する声が聞こえてこないと話は終わらないと思う。
『路上の人』つながりでキリスト教関係の書を読んでいる。今回取り上げるのは『人と思想 パウロ』(八木誠一・著 asin:4389410636 )。キリスト教を現在につながるものに体系化した人物であるパウロがどのような人生を歩んで、どのような思想を持つようになったのかが解説されている。
パウロを通して語られるキリスト教の「赦し」や「愛」の観念の解説が新鮮だった。キリスト教というと、同性愛の禁止といった聖書の教えを忠実に守ろうとする人びとの宗教というイメージが勝手に合ったのだけれども、そういう教えを厳格に守ることを重視するのはユダヤ教的発想で、そういう態度への批判から生まれたのがキリスト教であるとしている。
なぜ教えを守ることにこだわることが問題なのだろうか。
ユダヤ教では旧約聖書にある様々な律法を守ることで神に救われると信じる。そこでは律法を守ったか否かが重要だ。しかし、自身も厳格なユダヤ教信者であったパウロはそれを否定した。律法を完璧に守ることができる人間はごく少数であり、たいていは律法を守ることができず、絶望に陥る。または律法を守り切ったことの優越感が、やがては本来の神への信仰を忘れさせてしまい、そのことを自覚した時そこでも絶望に陥る。つまるところユダヤ教の律法主義は必然的に絶望へと至ってしまうのだとパウロは考えた。
そこでパウロは、イエスを神の子と信じる原始キリスト教に意義を見出す。すなわち、人間の罪はイエスの十字架によってすべて赦された。だから人はただ神を信仰することに集中しさえすれば救われるという理屈を展開したのである。パウロはユダヤ教の持つ厳格な律法を踏襲しつつ、それを守りきれない人間の心も考慮に入れて、堕落も絶望もしない状況に人を導くように教義を設計したのだ。
以上がパウロのキリスト教の教義への貢献であり、それがゆえにキリスト教の教義を学ぶうえで重要な人物足りうるのだという。まあキリスト教についてまともに学ぶ人からすれば当たり前なのだろうけれども、無学な自分にはパウロに対する自分の偏見が訂正されたので面白かった。
変ですね、私はあなたの親の話など一度もしていません。
それは申し訳ありません。他のツリーでの話みたいですが、同じ様な口調で同じ様な論調の元だったので同一人物だと思ってました。
ここのツリー自体も複数に別れてて、貴方の書いた、というのも見ましたが、相手が全部自分な訳でもありません。
そこは勘違いしてましたが、
といいながら、こちらがリンクを見せた瞬間に
掲載されています。
となるのはおかしい話でしょう。貴方はご存じなかったのは事実ですよね?
そうでなければ、
このような事は言わないでしょうから。
また、逆に
「異本」の訳にはこう載っている、というアレは聖書のどこに書いてあると思う?
それぞれの書の最後尾なんだ。
実質採用されていないと思って頂戴。
旧約聖書、旧約聖書続編、新約聖書をそれぞれ読んで、明日正教会かカトリック教会、聖公会、ルーテル教会に行って
聖職者たちに聞いて回って来な
残念な人扱いされると思うけどね
それはあまりにかわいそうなんで読んで頂戴。
読むだけで反論はナシ。いい?
も~このエントリ読んでさえも反論してきたらアホの子だと思われるからね。
匿名の場があってよかったね~。
「神はそのひとり子を世にお遣わしになったほどにこの世を愛された」
これがキリスト教の基礎です。どの教会でも常識となった聖句です。
そのようになさった神が罪びとに石を投げるでしょうか。ありえるでしょうか?
この辺りではっきりとそんなことはあり得ないと言いながらこちらを煽っていますが、記述としてあるわけで、
それを貴方は信じないかもしれないかもしれませんが、聖書に載ってる以上、ただただその話を馬鹿にして済む話ではないでしょう。
ましてや載ってないの?と聞いてきたことにがっかりした、なんて話はおかしいでしょ?
勿論、載ってることを知った上で、現在このように解釈されてる、私はこう思う、という貴方の最後の方の説明はそれで良いですが、
その辺り、自分の知識が足りなかったことが原因で人を馬鹿にしたことを謝罪することすら出来ないのですか?と聞いてるだけです。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1148246596
こことか。
新世界訳聖書とか「洞察」の本第二巻1130P?とかに言及があるみたいですが、そのような物はご存じないのですか?
下でいろいろ全部読んでこい、と言ってるからにはこの辺りの物も全て読んだことはあるのだと思いますが。
それとも、ここの書かれている様な事は嘘なのでしょうか?
他にもいくつかつらつら見ていく中で、その様に後から付け加えられたものだ、という物はいくつか見ました。
これ自体が「偽」であるとは解釈されているようですが、そのような物が出回ったのは事実なのでは?
単なるイエスのキャラを知った上でのジョークに過ぎない、という話がありましたが、
それとも、この時代に既にできていた「ジョーク」だという意味だったんでしょうか?
なんでそんな上から目線なのか分からないけど、別にそこまでしてわざわざ話をしてくれなくても結構です。
単に、ちょっと疑問に思ったことを気軽に聞いただけです。
間違いなら間違いを訂正してくれれば認めます。単に知らなかっただけなので。
またggrksならそれでいいので。
この辺りについてはちょっとググった程度ですが、そういうものなのかということは分かりましたので。
これは当たり前のことだと思いますが?
特に、宗教なんかは途中で論理が飛んでる所があるわけで、そこは解釈の問題でしかありません。
キリスト教自体もそれだけ分裂してることがそれを表していますし、お互いの主張が明らかに矛盾していることもあるかと思います。
逆に、矛盾してたり確かでないものを無理やり信心によって解釈しなおし、自分を落ち着かせるのもまた宗教だと思います。
それは別に悪いことと言ってるわけではなくて、宗教じゃなくても自分を無理やり納得させることはありますので。
そのような状況を、外から見て、「こういう時はどう解釈してる?」「もしこうならそれはどう解釈してる?」と聞くのは間違ってないと思いますが。単純な疑問として。
承前。
前編(http://anond.hatelabo.jp/20130825133734 )では三縞君に作品そのものについて総括をしてもらった。
彼女はあの通り真面目な人なので、旧約聖書やら仏教の経典やら沢山の資料を比較参照した跡が見える。まああとは文章の方にもう少し可愛げがあれば……なんてうっかり口にしたらまたもや新品の机を蹴られてしまった。情報庁の事務机と違って、アルコーン社のオフィスウェアは本物と見紛うばかりの高級情報材製なのだが、彼女は遠慮なくその黒いストッキングの美脚を持ち出してくる。せめて元上司を「鼻持ちならない」と無遠慮に評するところくらいは変わってほしいと思う。
で、ここからが僕の出番。
稀代の大作家・野崎まどが残した作品の中に埋め込まれた、人間の癖や偏りを利用した暗号。
といっても僕は特殊な暗号解読の専門家でも何でもないので、あのときのような成果を期待されても正直困ってしまう。
あれは先生と僕の間柄だったからこそできたことであって、大して知りもしない作家を相手に同じことができるなんて考える方が間違ってる。
けれど僕はこの仕事を受けた。
基礎コードの解析を終えた量子葉の研究はとっくに先生の意図を探ることからは離れていたし、こうして頭を使うのはとても心地良い。
だから、これはまあ、知ルが帰ってくるまでのお遊びみたいなものだ。
一般発売前の自社製ワークターミナルは唸り声ひとつ挙げずに目を覚まし、僕の電子葉とダンスを始める。啓示視界に多重展開された書字情報マトリクスが視線の導きで然るべき場所に配置され、僕はその本を〈知る〉。
ウィンドウをもう一つ開く。首振りで先のレポートを取り出して、目の前の本を固有値解析にかけた。多次元スライスされた書字情報はいくつものキューブに分裂し、吸い込まれるように消えてゆくと、瞬く間に啓示視界がウォッシュアウトされて、周囲の情報圧が低下してゆくのがわかる。
三縞君は常識人だ。凡人と取り違えてはいけない。常識人というのは世の中の人が当たり前のように知っているとされることを本当に当たり前のように知っている、得難い優秀さに与えられるべきタグだ。才媛三縞君が組み上げた意味論フィルタは時にピーラのごとく表面を撫で下ろし、時にスライサのごとく作品を賽の目に刻んでは雑味を取り除いていった。後に残るのは〝野崎まど〟という名の個性の結晶だ。
想像が始まる。僕は右脳と左脳を車の両輪のように回して脳内に〝野崎まど〟を仮定すると、感じるままにコードに潜む違和感をすくい上げていった。
少し難しい……ノイズが多い感じだ。ライトノベルをフィールドとする氏の世界描写は童話的で、本筋に関わらない部分は余計な注意を惹かないよう可能な限りオミットするのがスタンダードだ。とはいえ今回の版元は早川書房、百戦錬磨のうるさ型SF読みが相手だ。手加減はないと思っていいだろう。
思いつくまま挙げてみる。
序章。情報格差を乱用して女遊びをした僕は翌朝当然のようにバスでオフィスに出勤する。さらに車内には大声でおしゃべりに興じる女子たち——思念通話はとっくに実現されている時代だが、僕は咎めることも聴覚を遮断することもなくそれを聞いている。
やれやれ、と僕は首を振った。僕の仕事の大半は場所を問わない。だいたい情報化が極限まで進んだ社会で肉体の移動を要する業務分野といえば食事・医療・性風俗くらいのものだ。その意味での役得といえば唯一、三縞君と交わす、互いに性的関心を潜めたコミュニケーションだけだろう。この危うさだけは何事にも代えがたい。
〝先生〟について語る以前に、僕がわずかにでも興味を向けた人物がみな女性であったことに気づいただろうか。正確に言えば老婆を迎えにきた男性についてたった一行触れただけだ。京都の町は不朽を表す国家的なシンボルだ。だから、この一連のシーンで描かれているのは、僕ら男が背負うべき、いつの世も変わらぬ女性への関心に他ならない。
ジェンダー的な視点で見出すと、他にも気になる点が出てくる。京都大学の構内で赤ん坊を連れていた学生は性別不明だが、どうあれ血のつながりはないだろう。養護施設の保育士は男性だった。けれどエピローグで死に瀕した子どもに付き添っているのはなぜか母親ひとりで、これは明らかな偏りだ。「女性にお茶汲みを頼むのは性差別」という認識は根付いていても、我が子に対する愛情など僕らの世代の男性は持ち合わせていないのだ。
と、ここまで書いていたら三縞君から「あなたのろくでなしな価値観を世の男性にまで一般化しないでください」と書かれたメールが飛んできた。
退庁後の僕のクラスは、彼女は同格の4まで下がってしまっている。おかげでプライベートレイヤがだだ漏れだ。もう迂闊な発言はできない。
僕はおとなしく仕事に戻ることにした。
該当箇所をズームする。それは〝集落〟の場面。クラス0の女子中学生に対するのぞき行為が行われ、社会がそれを容認していると語られる箇所だった。
馬鹿なことを。
当たり前だが個人情報保護と児童保護はまったく別の問題だ。しかも情報格差は技術的限界によるものとされている。少なくとも一般的な認識としてはそうだ。だったら法が容易くその現状を追認することなどあるはずがない。
ここだ。ここにヒントがある。僕はそう直観した。
思考が活性化し、電子葉によって自動収集された関連情報が僕の啓示視界を埋め尽くす。
ソフトSF——純粋に人文科学に基づくSF。とりわけフェミニストSF。女性作家の隆盛。メアリー・シェリー。ベネット。ル=グウィン——違う。こっちじゃない。右脳が理屈を飛び越えて判断を下し、一足飛びにその本質をたぐり寄せる。ヒントはこれだ。
社会描写の神髄は、弱者をどう描くかに現れる
即座に理由を問う。
社会の歪みを体現する存在は常に女・子どもといった弱者であるからだ
方向付けされた認識が参考作品を引き寄せる。
過去の日本SF大賞受賞作。『マルドゥック・スクランブル』。この作品では〝戦う女の子〟を地に足がついたものとして描くために、少女娼婦の身分、戦争由来の過激な技術、ならびに犯罪的な出来事に即応するための法体制を用意した。出来上がった少女は社会的に見れば化け物でしかないというのに。
僕はようやく理解した。
それが指す存在を、僕はすでに知っていた。
誰より保護されるべき存在でありながら、誰よりも自分の身を守ることに長けた少女。量子葉とともに生体脳を育て上げた、人類初のクラス9。進化の特異点。
道終・知ルその人。
ようやくあの男について語る時が来た。
クラス*(アスタリスク)。素月・切ル機密官。主人公(僕だ)の心の闇を凝縮したような人物。
結果から言えば彼はかませ犬以外の何者でもなかった。彼の行動は無意味で無価値で、そして無残なものだった。けれどその劣悪な人間性については触れておかないといけない。
裏仕事を専門とし、存在自体が機密とされる、規格外のクラスホルダー。そうした役職に求められる一番の資質は、規律、そして良識だ。ところが素月はその逆をいった。
自らが果たすべき任務を忘れ。
14ページに渡って狂ったように女子中学生の裸を狙い続けるその様は。
ただの変態だった。
それから僕はことあるごとに知ルに対して欲情するようになった。
可憐な容姿。挑発的な言葉。妖艶ささえ感じる所作。それと同居する少女の無垢さ。知らぬ間に僕は虜にされていた。
それでもあの男、アルコーン社CEO、有主照・問ウさえいなければ、僕が女子中学生を相手に一線を踏み越えることはなかったんじゃないかと思う。
そのことを知って咎めるどころか喜んだミアもちょっとどうかと思う。
いや。
なぜそう設定したのか。
答えは簡単。知ルが初潮を迎えるその日をただ待っていたのだ。現代人としてはずいぶんと遅いように思えるが、そこは孤児で栄養状態が悪いことと対象となる異性がいないことを考慮すれば説明がつく。
本番を迎えた知ルの口から「私、セックスって初めてです」と言わせなかったことは氏の最後の良心だろう。そう信じたかった。
すっかり忘れていたが作中の三縞君の扱いはこの作者にして徹頭徹尾まるで違和感のないものだった。
長く辛い旅路だった。
結局、作者の真意は何だったのか。
僕には朧気ながらその姿が見えていた。
そう。氏は切望していた。
情報の秘匿も。
時代の空気も。
何もかもが存在しない、本物のオープンソースの世界というものを。
最後に。
解読の結果、僕がすくい上げた言葉を君たちの啓示視界に残してこの稿を結ぼう。
うわぁい、子どもの保護なんて全然乗り気じゃなかったけど、こんだけいけてるなら俺もロリコンでいいやあ!
(続かない)
これは映像で語られる新しい文学の形だと思った。今後映像作品の制作に携わる人すべてが観なくてはならない。それだけの業を見せてくれる映画だ。
この作品を読み解く上でもっとも重要なキーワードは『風立ちぬ』である。私は前情報として、この作品はゼロ戦設計者・堀越次郎の半生と堀辰雄の小説『風立ちぬ』を組み合わせたものであること、および本筋は堀越の側から採られていることまでは把握していた。そこで抱くのは「ならばなぜタイトルが『風立ちぬ』なのか」という問いであった。
商業的立場に基づいたパッケージングと広報が随所で誤解を誘発させている映画であるが、それでもタイトルとオープニングは主題に正直だった。はじめにフランス語交じりのエピグラフを見せられれば戸惑いつつもやはり「この映画で私は文学をやりますよ」という表明と受け止めるほかない。ヒロインとの出会いのシーンではなんと——技師の卵・堀越次郎としては不自然極まりない——仏文学生のようなやり取りをみせられる。……オーケーだ。心を決めよう。わざわざ飛行機と大地震という刺激的なシーンの合間に配置したのはかえって本気が感じられる。こちらもそのつもりで観ることにした。
とはいえ、映像作品と文芸作品——殊に私小説とでは観る/読む姿勢に質的な隔たりがある。作者はこれをどう翻案してくるのか? ここでもキーワードは『文学』と『風立ちぬ』である。
多くの人が指摘しているように、劇中には『風立ちぬ』以外にも旧約聖書や『魔の山』といった西洋文学の中心作品からの引用がちりばめられている。しかしおそらくその意味や出典を理解することは求められていない。これは作者からのシグナルとして受け取るべきだろう。——あっ、今なんか文学っぽいこと言った。そして風が吹いた。そう感じた瞬間、我々は観客から読者へと推移する。実際、そのために尽くされた工夫こそが本作をこれまでにない映画として成り立たせている。
日本文学の伝統たる私小説とは一般には作者の個人的な体験を語ったものと定義されるが、その実は読み手が(多くは情緒面に欠陥を抱えた)〝私〟の情動を追いかけながらその文脈に自己を編み込んでゆくことで成り立つ極めて対話的な芸術形態である。ゆえにこれを映画で実行するためには観客からどうにかして主体性を引き出さねばならない。一体どうするつもりなのか。
一番にあるのは人物の造形と描写である。だいたい主人公からしておかしい。はっきりいってこんな身勝手な男には作者自身を除いて誰も共感などできまい。そのくせ彼の心情を伺えるのは原点である飛行機作りへの衝動のみであり、主題の一つに思える恋愛さえ観客からすればずいぶんな距離感をもって描かれている。この映画をいわゆる娯楽作品として楽しむのは大変な難行であろう。しかしそうした人物の〝得体の知れなさ〟と突き放した映像表現こそが観客を読者に変える上で重要な機能を果たしている。——いざ事件が起きた。けれども主人公がどんなリアクションをするのか、我々には予想もつかない。そこでその人物の行動と周囲の出来事だけが語られ、心理も感情も置き去りにされればどうなるか。我々は残る最後の手——自力でそれを補うことを選ぶほかない。振り返れば人物もまた文学を行う道具にさえ見えてくる。
しかしたくらみどおりに人を動かす要はやはり映像にある。シグナルである〝文学っぽい〟セリフに続くのは決まって突風と変事だ。さあっと吹く風に引きずられてカメラが空へ向かい、これまで観客が寄り添っていた主人公が突如フレームアウトする。視点人物の喪失が自然と不安をもたらし、そこでさらに思いもよらぬ出来事や主人公の行動を目にした観客は解決を求めて必死で事態を追うよう仕向けられる。こうして観客は気づかぬうちに主人公の心理を己の内に抱え込む。かくして映像言語による小説的描写が果たされる。みごとである。
そうして状況が収まり、不安が解消された次に訪れるのは〝平常〟である。正常にせよ異常にせよしばらくは事態の変化はなく、そうである限りは主人公の行動も我々の予想の範囲に収まる。主人公はどんな状況に置かれても自分の夢につながる道を一途に辿り、時には常識によって非難される。「だいじょうぶです。あなたの頭の中にある人物像はそれほど間違っていません。そのまま続けてください」そういう作者からの配慮を感じるひとときでもある。
このように、物語の進行は事件とそれに続く平常との繰り返しによって綴られている(それがふさわしい時代でもある)。
そして繰り返しの合間は主人公の夢を再確認する時間だ。飛行機への憧れを描くこのシーンは物語を区分けすると同時に、現実との対比を描く場でもある。印象的なのは、夢の中では誰もが等しく飛行機に乗り、笑顔でいるということ。理想が、道徳が語るものを主人公は明確に認めている。にも関わらず現実の彼はためらいを見せることがない。風は——? 空を飛んでいるかぎり、止むことはない。
先の見えない時代。戦前の文学の匂い。そして変事の前触れたる風。それこそが物語を支えるビートである。そのためにこの作品は『風立ちぬ』を必要とし、ゆえにこの映画のタイトルに『風立ちぬ』以外の選択肢はありえなかった。
(続く)
「はるかぜちゃんの記事は分からん」と言ったら「キチガイ」「韓国人」と言われた - Togetter
はるかぜちゃん「ぼくに否定的な意見を書いた人を、ぼくを守るという名目でいじめるのはやめて下さい(ω)」 - Togetter
はるかぜちゃん( @harukazechan )の「晒しリプ」という「集団リンチ」・「言論封殺」に批判集中! - Togetter
はるかぜちゃんの言っていることは正しい。あまりにも正しすぎる。炎上処理も一品だし、本人は荒っぽい発言をせずフォロワーを諌めもする。
冷静に問題に対処するし、3歳からブログを書いているというのだから、まぁ手慣れたものなのだろう。
強くて頭が良くて自制心のある良い子。しかも子役タレントなだけあってかわいくもある。素晴らしいもんだ。私なんかとても真似できない。
彼女が彼女に対して批判的な意見をRTすれば、その大きな影響力で信者が殺到し、良くて非難殺到、悪ければ罵倒の嵐で袋叩きだ。
この結果は何度も繰り返してきたことだし、彼女が知らないはずはない。でも、彼女はそれを続ける。確かに引用元を明らかにしながらRTすることや、批判的な意見を紹介することは基本的に正しいし、それは彼女の言う通りである。
問題の発端となった朝日新聞での記事もそうである。彼女の言っていることはあまりに正しい。私は彼女の言葉に反論するすべがない。
さて、ここで正しくない大人の代表としてコラムニストの小田嶋隆をあげたい。
AGFをたった一年で退社し、しかもその理由は会社勤めに合わないという話。さらに辞めるときも親に甘やかされて帰ってきたという次第。
その後もよくわからない仕事を半端にやりながらの若旦那。ライターになってみてそこそこ売れたと思ったらアル中になり生活と仕事が破たん。
twitterでも、妙に攻撃的な発言や小馬鹿にした発言や皮肉を振りまく。
見栄えだって小太りのオッサンだ。美しくもかわいくもかっこよくもないというか、むしろ不細工だ。
でも、私は、そんな小田嶋隆が大好きだ。正しくなくてカッコよくない大人の小田嶋隆が大好きだ。
はるかぜちゃんの正しさは、あまりに正しいがゆえに救いようがない。だから、はるかぜちゃんの正義になじめない、反対する人間はその中で生きていけない。
だから、はるかぜちゃんの正義に反する人間に、はるかぜちゃんのフォロワーはいくらでも残酷になれる。なぜなら、正義に反するからだ。
小田嶋隆には正義がない。あるのは皮肉や諦観や小言だ。だから私は小田嶋隆が気に食わないことを言えば実名で批判もできるし、何も恐れることはない。
でも、はるかぜちゃんを批判するなら、増田か2chを私は選ぶ。なぜならば、彼女の正義が恐ろしいからだ。
私も小田嶋隆と同じ、正しくなくてカッコよくない大人だ。でも正しくなくてカッコよくない大人は良くわかっている。
その正義が危ないこと。
世の中は正しくないし、正しいことが必ず通るわけでもないこと。
でも、世の中は悪意と嘘ばかりで出来ているわけではないこと。
規範意識を変容させる集団
これまで、「宗教的経験」、「恐怖心の喚起」について述べさせていただきました。次に、これらを基礎とする思想に沿うように個人の規範意識を変容させ、常識から逸脱した思考や行動をさせる集団の作用について補足致します。
オウムにおいては、集団の作用によって、教団の規範に客観的現実性が付与され、さらに、信徒の規範意識が変容したと思われます。
オウムの信徒の多くは、教義どおりの宗教的経験をしていました。そのため、次のように、宗教的経験そのものの「個人性現実性」に「社会的現実性」も加わり、信徒は個人的な非現実的宗教経験を客観的現実であるかのように認識していました。
現実性とは、当該の所信の内容が客観的現実としてあたかも存在しているような感覚の程度であり、個人的現実性とは社会的現実性の二つを仮定する。個人的現実性とは、当該の所信の内容が直接知覚や論理的推論といった個人的経験を通して客観的現実としてあたかも存在しているような感覚の程度である。社会的現実性とは、当該の所信の内容が他者の経験や他者によって合意されているといった間接的経験を通して客観的現実としてあたかも存在しているような感覚の程度である。
そして、オウムにおいては、信徒たちが客観的現実として認識していた宗教的経験を根拠とする行動規範が定められていました。ですから、信徒にとっては、その規範も現実的だったのです。
たとえば、殺人を救済、すなわち「善」とする規範は、前述(本文三十一頁)のように、輪廻転生、麻原の救済能力、および現代人の苦界への転生などに係わる宗教的経験に基づいていました。一般的な社会通念は「命は地球より重い」ということですが、それが「この世の一生限りの命」などの日常的経験に基づいているのと同様です。
ところがオウムでは、日常的経験のほうは、宗教的経験によって幻影とみなされ、無意味化されていました。そのために、宗教的経験に基づく行動規範が一般社会のものに取って代わっていたのです。
実際、信徒は教団独特の規範に従い、麻原の指示であれば殺人まで犯しました。信徒の見地からは、教義の世界が幻覚的経験によって現実として知覚され、加えて、周囲の人たちもその世界観に合致した思考や行動をしていたため、教団の規範も現実的に映っていたのです。つまり、教団内では教義そのものの世界が実現しており、信徒はその中に没入している状態でした。
以上のように、オウムにおいては、信徒の規範意識が教団で通用しているものに変容し、信徒は常識から逸脱した思考・行動をしました。集団のこのような作用について、次のことがいわれています。
そもそも人はいろんな信念を抱いている。その中には善悪の規範基準になる信念も含まれる。これらの信念は親、教師、友人、知人、などと相互作用を行いながら獲得され、社会的な共通性ができあがっている。しかし形成された信念がどうして「良い」とか「悪い」といえるかの判断基準は、所属する社会における暗黙の価値観に左右されるものであり、個人が所属意識をもって参照する社会集団によって左右される。
(西田公昭 静岡県立大学大学院准教授作成の広瀬健一に関する「意見書」)
カリスマグループでは、集団凝縮力(全員を集団に従事させ続ける影響力)、共有信念、変容意識、行為の基準、およびリーダーの魅力の影響は、公然の強制がなくても、行動の服従を強い、感情を変化させる作用をする。
バイオンやエズリエルのような集団心理の理論家は、個々の構成員の意志にかかわらず、避けられない問題が集団においては現れることを指摘してきた。不可解な個人の行動を彼らは説明するが、それは依存的傾向や闘争―逃避パターンのような、集団につきもののテーマの現われかもしれない。この点については、集団が構成員をあたかも一つの集合体に変えるようなものである。
そのほか、カリスマグループの規範が、全員の本能的要求の表出や行動を統制することが報告されています。(本文四十三から四十四頁の引用)。
以上のように、集団には個人の規範意識を規定する作用があるとされています。したがって、集団に係わる場合、それが全員の規範意識を一般社会のものと異なるように変容させないか確認すべきだと思います。
まず、集団の全員が共有する「ビリーフ」が適切に合理化されている必要があるでしょう。たとえば宗教では、教典自体には非現実的な表現が見られることがまれではありません。しかし通常は、そのような表現は、信仰と日常生活の間に摩擦が生じないように、合理的に解釈されています。集団の全員と会話をしたときに、なぜその人の「ビリーフ」が形成されたのか理解に苦しむ場面があるならば、その集団は「ビリーフ」の合理化がされておらず、全員の価値観や規範意識を不適切に変容させる可能性があります。
項目の選択に偏りがあるかもしれませんが、次の点の確認も必要でしょう。
○指導者や教えへの服従がないか
その服従が、たとえば宗教上の指導におけることのように、範囲が限定されているように見えても要注意です。実質的には、それが生活全般に及んでいることがあります。いかなる状況においても、全員個人の判断が尊重されている必要があります。また、教えに疑念を抱くことや脱会が制限される場合は問題です。
○過度に厳しい規制がないか
思考や行動に関する道徳的規則が、社会通念と比較して過度に厳しい場合は、一般社会における生活がしにくくなります。その結果、社会からの離脱が促進されることもあります。また、規制違反に対して、過度の恐怖が喚起される場合は問題です。
○自己を否定されないか
自己を否定されると、指導者に服従する結果になります。オウムにおいては、信徒は煩悩を有している。(本文二十頁)ために正しい判断ができず、それが可能なのは最終解脱者である麻原だけだとされていました。
そして、それは私にとって、体験的にも事実と思われました。私は自身が悪業(カルマ)で汚れていること、また、麻原だけがそれを浄化できることを感じていたからです。(本文二十八頁)。
結局私は、それまでの人生が煩悩や悪業を増大させるだけのものだったことを認めざるを得ず、自身の経験や知識を信頼できなくなりました。これは、私が愚かにも麻原に従った原因の一つです。
○会員が一般社会から離れ、集団生活に入る傾向がないか。
一般社会を非合理的に否定する教えを説き(本文二十七頁)、全員をそれから離し、集団生活に誘導する集団は問題です。全員の価値観や規範意識は相当程度変容していると考えられます。集団生活に入った後は、さらに規範意識の変容が深まり、違法行為に及ぶ可能性もあります。
次の内容は、麻原が信徒に出家を訴えていた昭和六十三年十一月(本文二十七から二十九頁)の彼の指示です。「人材をぬきとる」など、人材を集める強い意志が感じられます。これは教団の大師(解説・悟りを認められた高弟)のメモで、一般信徒には明らかにされていませんでした。
六十三年一一月五日は黙示録の予言を麻原が七つの予言その後世界戦争、二〇〇〇年まであろ一二年しかない
滅亡の日の出版しろと
一五日、オウムの方向性…旧約聖書によるとオウムの時間はあと七年、石油になってハルマゲドン、ソ、米、日本、世界大戦
デザイン編集がプロパガンダマシンに完璧に成りきること(人材を経済力のためでもある)
一、新信徒の獲得
八、大師(一人で二~三億)が五〇〇〇人
九、建築班一〇〇〇人
一〇、七年後大師だけで一四五〇〇億
なお、右のように、麻原は理系の人材の獲得を重視していますが、それは当時既に、科学技術を用いた大量殺人である「ヴァジラヤーナの救済」を意図していたためと思われます。実際、昭和六三年十月二十八日、麻原は出家者に対して次の説法をしていますが―在家信徒がこの説法を聞くことは禁じられていました―、「ヴァジラヤーナの救済」を宣言した説法(本文三十二から三十三頁)においても、「残すべき者以外はポアする」旨説いていました。
近ごろ私は心が少しずつ変わってきている。動物化した、あるいは餓鬼化した、あるいは地獄化したこの人間社会というものの救済は不可能なのかもしれないなと。新しい種、つまり、今の人間よりも霊性のずっと高い種、これを残すことが私の役割かもしれないなと。
【vol.6「まとめ」】へ続く。
オタクであれば大なり小なり日本史の戦国時代や幕末にはまったことがあり、
言わばオタの基礎教養としてその辺の知識はある程度備わっているもんだと信じて疑わなかったんだが、
先日、その辺の知識がほぼ皆無と言う同属さんに出会い衝撃を受けた。
幕末は坂本龍馬がいろいろやって江戸幕府をやっつけたってレベル。
オタをやってる以上その辺の知識がないと困ることもあるだろうに、
なんでそこまで触れずに来られたのか気になって聞いてみると、
「別にそんな常識でもないこと、知らなくて当然じゃないか」と怒られてしまった。
それでいてその人のはまっている作品は銀魂と戦国BASARAだというのだから訳がわからない。
確かに知らなくても生きていける類の知識ではあるけど、
どうも釈然としない。
追記
何件かツッコミを頂いて、自分が釈然としない部分が分かった気がする。
文中では戦国や幕末を例に挙げたけど、具体的にそのジャンルがどうこうではなくて、
自分が好きな作品の関連知識を仕入れようとしないことへの驚きだったんだと思う。
例えばエヴァの本放送当時、多くのオタが旧約聖書なんかの知識を仕入れようとしていた。
関連知識に興味を持たないってスタンスが自分の中ではかなり不可解だったんだ。
好きな作品の関連知識を自発的に仕入れるか否かが世代差なのかはさておき(今回の同族の方は同年代、アラサーだったけど)、
作品単体で満足できる人もいるんだという事を認識して、
大阪で、君が代斉唱時に起立しなかった教員をクビにする条例がもうすぐできるらしい。
例によってはてブでは公教育への介入だ、思想統制だ、という話になってるらしいが。
問題は、公立学校の教職員が式典に出席した上で君が代斉唱を拒否していて、
その後の校長・教育長の指導や業務命令にも従わない、ということだ。
それを思想・表現の自由としているのなら、彼ら個人の思想の表現のためにやっている、と考えられる。
これは「公務員が勤務時間中に、自らの政治的主張のために業務をサボタージュして示威行為している」、
「判断能力が未熟な児童・生徒に、教員の立場を利用して自らの政治的主張を宣伝している」ということになる。
つまり問題は日の丸・君が代だけではなく、「公務員が思想を理由に業務をサボタージュするのは認められるか」、
「教員が児童・生徒に自身の政治的主張を宣伝するのは認められるか」ということだろう。
これらを認めてしまえば、極論すれば「教員が教えたくないこと・教えるべきでないと思うことは(指導要領に載っていても)教えなくて良い」
「教員が教えたいこと・教えるべきだと思うことは(指導要領に載っていなくても)教えて良い」ということになりかねない。
公民の教科書を放り出して毛沢東語録を教えても教員の自由、歴史の教科書を放り出して歴代天皇の諡号を暗唱させるのも教員の自由、
生物の教科書よりも旧約聖書の創世記を読ませたい、国語の教科書の代わりに団鬼六を読ませよう、という教員が出てきたらどうするのか。
児童・生徒がどんな内容の教育を受けるかは、その時に出会った先生次第で構わない、と思う人がどれだけいるんだろうか。
教科書の内容も式典の式次第も、文化祭や体育祭などの学校行事も、社会が期待する一定の水準に達するために教育委員会が指導してるんであって、
その内容は法律に則っていたり文部省の指導要領に則っていなければいけないのは当たり前のことだ。
宗教って間違ってる事を主張してんのも結構あるでしょう、進化論にしても宇宙にしても宗教より科学の方が正確に把握してる。
宗教っつっても大昔の人が想像だけで考えた物語なんだから当然だけどさ。
だけどそれを認めず下みたいに学校で間違った知識を教えさせている宗教もある。
宗教には昔の人の世界の真理を知りたいって欲求に答える要素もあるんだろうけど、その分野で宗教の方が科学より優れてると思えんのよな。
>アメリカのいくつかの州では、キリスト教右派とキリスト教根本主義の圧力により、生物の授業において、旧約聖書の『創世記』に基づく創造論(人類が唯一神により創造されたとする信仰)を記載した教科書を使用して教えることが義務付けられている。
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はてなキーワードに投稿しましたが、編集合戦を避けるため、こちらに転載します。
エホバの証人とは
● http://www.watchtower.org/j/ 雑誌のバックナンバーや聖書研究の手引き書などがいくらか読める。
● http://www.jw.org 機関誌のポッドキャストフィードの受診、書籍、電子雑誌などがダウンロードできる。
● http://www.jw-media.org 広報室の公式サイト
名称の由来は旧約聖書のメシア預言のひとつであるイザヤ43章10~12節に基づく。
エホバの証人についての解説(公式サイト): http://watchtower.org/j/jt/article_02.htm
(個人サイト): http://biblia.milkcafe.to/thesis009.html
「ものみの塔聖書冊子協会」は、彼らが用いる代表的な法人の名称である。世界本部はニューヨーク法人ものみの塔聖書冊子協会にあり、出版物の著作権表示はペンシルバニアのものみの塔聖書冊子協会となっている。(ただし、「わたしたちの王国宣教」は、2009年4月以後、著作権表示がエホバの証人のクリスチャン会衆"Christian Congregation of Jehovah's Witnesses"となっている。)
なお、ものみの塔とは1879年に創刊された雑誌の名称であり、ジェームズ王欽定訳のイザヤ21章8節などを由来としている。聖書預言と照らし合わせながら世界情勢を見張っている、という意味がこめられている。さらに、1884年、この雑誌の出版社として現在のものみの塔聖書冊子協会が米国ペンシルバニア州の非営利法人法に則って登録された。したがって、彼らは自分たちを「ものみの塔の信者」とは言わない。ものみの塔協会は法人名に過ぎないからである。
また、「エホバの証人」という語は彼らが構成する集団社会と、信者各個人の両方を指す。(英語などの場合、複数形と単数形で区別する。)したがって彼らは、「エホバの証人の信者」という表現は使わない。ちょうど、「クリスチャンの信者」とか「ムスリムの信者」などと言わないのと同様である。
1870年米国にて、チャールズ・テイズ・ラッセルらが聖書研究会を結成したことに始まり、1931年、米国オハイオ州コロンバスの大会で、「エホバの証人」という名称を採択する決議が可決された。この大会は短波放送で中継されており、日本にいた数名の信者も決議に加わった。(なお、戦前・戦中の大日本帝国下では、「灯台社」という名称で活動しており、天皇は被造物であるなどと主張し、本土および台湾・朝鮮において、治安維持法違反で検挙されている。―参考: 灯台社または燈台社または燈臺社を調べるぺえじ http://www.geocities.jp/todai_sha/)
聖句と聖句を比較しながら論題別に掘り下げてゆくという19世紀の聖書研究者ヘンリー・グルーの聖書研究のポリシーが、現在でも一貫して守られており、エホバの証人出版物の特色となっている。聖書は文字通り神の霊感(インスピレーション)を受けた神の言葉であり、普遍、無謬であって、絶対に矛盾していない、という前提で聖書を調べ、矛盾と思われる箇所がある場合には、ほかの聖句を持ってきて説明しようとする。聖書で聖書を説明するのである。(ものみの塔2006年8月15日号12~15ページを参照。)
((聖書は矛盾している、との主張に対するエホバの証人の反論については、「ものみの塔出版物索引」の「聖書の信ぴょう性」の項の「聖句間に見られる調和」という見出し以下から資料を探せる。))
信者数は日本で21万人ないし30万あるいは40万とも言われ、2009年現在全世界で731万余の伝道者が活動している。
全世界の統計(公式): http://www.watchtower.org/e/statistics/worldwide_report.htm
エホバの証人の実勢信徒数の数え方: http://jwpc.milkcafe.to/media03.html
機関誌「ものみの塔」や「目ざめよ」などを配っている。最近は雑誌の朗読版(mp3およびaac(m4b))やオーディオブックのポッドキャスト配信、アメリカ手話(ASL)や日本手話(JSL)をはじめとする手話版のビデオキャスト配信、オーディオドラマやPDFによる電子書籍のRSS配信も行っている。
「目ざめよ!」は2006年以後月刊誌となり、「ものみの塔」は2008年から一般大衆向けと研究用(信者向け)とに分かれた。
出版物のダウンロードサイト(公式): http://www.jw.org
モルモン教、統一教会と並び、カトリックの総本山であるバチカンの法王庁(教皇庁)からキリスト教系三大カルト(または異端)の一つとされている。
また、カトリックと対立関係にあるが、プロテスタントではない。プロテスタント諸派もエホバの証人との教理上の相違が大きく、エホバの証人自信も自分たちをプロテスタントであるとは主張しない。
http://www.watchtower.org/j/20091101a/article_01.htm
エホバの証人のスポークスマンによると、ときおり、日本基督教団の牧師が「保護説得」などと称してエホバの証人を拉致、監禁して強制棄教を試みるといった事例が生じており、アメリカ大使館は日本の警察当局に、これを事件として取り締まるよう勧告している。((なお、宗教監禁の実態(統一協会の信者)に関する情報は、こちらの月刊現代の記事を参照。))
参考:2003年 国別人権報告書 http://tokyo.usembassy.gov/j/p/tpj-j20050601-50.html
ただし、SDA―セブンスデー・アドベンチスト教会―はエホバの証人に比較的好意的であり、国によってはセブンスデー・アドベンチスト系の病院がエホバの証人の望む無輸血医療を積極的に提供していることもある。
神の名はエホバであり、敬意を込めてその名を積極的に用いるべきである。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_01.htm
なお、「エホバ」であるか「ヤハウェ」あるいは「ヤーウェ」であるかは彼らにとって大きな問題ではない。マタイ福音書の主の祈りの冒頭にあるように、神の固有名を用い、それが神聖にされることが重要である、とする。(マタイ 6:9)
さらに、聖書を翻訳する際、神聖四字(YHWH(JHVH)テトラグラマトン)を「神」や「主」といった称号に置き換えると、読者は一般名詞としての神と固有名であるエホバとの意味の相違が識別できないという弊害が生じる。「神」(エローヒーム)と「エホバ」の違いについて、インペリアル聖書辞典(P・フェアベアン編、ロンドン、1874年、第1巻、856ページ)は次のように例証している。
「それ[エホバ]はどんな箇所でも固有の名であり、人格的な神を、そしてただその方だけを表わしている。一方、エローヒームはどちらかと言えば普通名詞の特徴を帯びており、確かに普通は至上者を表わすが、必ずしも、またいつも一様に至上者のことを指しているわけではない。……ヘブライ人はあらゆる偽りの神々に対立する方のことをthe Elohim、つまりまことの神と言う場合があるが、決してthe Jehovahとは言わない。なぜなら、エホバとはまことの神だけの名だからである。また、わたしの神とは再三言うが……決してわたしのエホバとは言わない。というのは、わたしの神と言う場合、エホバのことを意味しているからである。また、イスラエルの神について語りはするが、決してイスラエルのエホバについて語ることはしない。それ以外のエホバはいないからである。さらに、生ける神について語りはするが、決して生けるエホバについて語ることはしない。生きている方ではないエホバなど考えられないからである」。(訳文は、聖書に対する洞察、第一巻、「エホバ」の項より。)
ヘブライ語聖書中に「サタン」が登場するすべての箇所において、定冠詞が使われており、悪魔は固有の実在者であって、人の心に内在する抽象的な概念などではない。(ヨブ 1:6 脚注)
http://watchtower.org/j/20091001a/article_01.htm
神は愛の動機からすべての良いものを創造された。生きる喜びを分かち合うため、み使い(天使)や人間を、倫理的に自由な行為者、つまり神に仕えるか仕えないか、どのように仕えるかを能動的に選択できるものとして創造された。
やがて天使のある者が自由意志を誤用・悪用して神に反逆し、神の主権の正当性、妥当性、義にかなっているか否かに疑念を差し挟むようになった。その天使は、ヘビを使ってエデンの園にいた最初の男女アダムとエバ(イブ)を罪へといざなった。こうして、完全だった人間は不完全になり、原罪を受け継いで死ぬようになった。
悪魔となったその天子が投げかけた問いは、もっぱら倫理的な論争であった。つまり、悪魔は神の力を否認していたのではなく、宇宙の主権者としてエホバがふさわしいか否かを問題にした。したがって、悪魔と叛逆した人間を即座に滅ぼしても、この種の問題の解決とはならなかった。
神からの独立を望む人類社会には、神から倫理的に独立してやっていけるかどうかを試す時間が与えられた。そして、数千年の歴史の中で、君主政治、軍国主義、全体主義、共産主義、自由民主主義などあらゆる政治形態を試みることが許された。
神を愛する人には人間の政治に希望を寄せるのではなく、エホバによる神権政治を支持する機会が差し伸べられている。人間一人一人は、エホバの側につくか悪魔の側につくかを選ばなければならず、エホバの主権を受け入れることによって神の心を喜ばせることができる。―箴言 27:11。(←この側面は「忠誠の論争」とも呼ばれる。)
http://watchtower.org/j/bh/article_11.htm#q10_src
http://watchtower.org/j/bh/article_12.htm#q6_src
なお、悪魔の投げかけたこの論争は、当初から矛盾(論理破綻)していた。悪魔は、自分が論争に勝つなら、エホバは自分を生き続けさせる義務を感じるであろうと考えていたからである。神の公正に疑念を差し挟む一方で、神の公正をあてにしていたのである。(聖書に対する洞察、第一巻、「主権」の項を参照。)
イエスは、人類を罪と死から救済するために天から地に遣わされた。イエスの贖罪死と流した血によって、罪の許しの法的根拠が据えられ、人類には永遠に生きるみこみが差し伸べられた。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_05.htm
http://watchtower.org/j/bh/appendix_04.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_05.htm
http://www.watchtower.org/j/20090401a/article_01.htm
http://www.watchtower.org/j/20091101/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_07.htm
http://biblia.milkcafe.to/21-ec-12-07.html
クリスチャンは天に設立された神の王国の国民であるゆえ、地上の政治論争には一切「内政干渉」せず、神の王国の大使また公使として振舞うことが期待される。―ヨハネ 17:16。
http://www.watchtower.org/j/bh/article_15.htm#q12_src
神を愛する者は暴虐を憎まなければならない。―詩編 11:5。
http://www.watchtower.org/j/kn37/article_01.htm
(誤解されがちな点だが、彼らはいかなる戦いをも否定する絶対的平和主義者ではない。旧約聖書(ヘブライ語聖書)にある数々の戦いの記録は、将来神があらゆる悪に報復されることを表しており、「復しゅうは神のもの」と聖書にもある。また、クリスチャンは各自「信仰の戦い」をしなければならない。なお、戦争には不参加となるが、政治的な中立の観点から、戦争反対のデモなどの活動に加わることもしない。)
http://www.watchtower.org/j/hb/index.htm
地抜きされていない肉を食べてはならないという聖書の禁止事項は、イエスの流した贖罪の血に敬意を示すべきであるという考えを根底にしている。したがって、これはもっぱら宗教的な性質のものであり、物理的な意味で1ミクロンも血を摂取してはならないという意味ではなく、血抜きのための合理的な努力が払われていればそれでよしと彼らは考える。
日本臨床麻酔学会誌Vol. 26 http://www.jstage.jst.go.jp/browse/jjsca/26/3/_contents/
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_10.htm
エホバの証人はユダ王国の滅亡を西暦全607年に起きたと考えている。考古学の主流の学説とは意を異にしているが、この点は、「聖書に対する洞察」というものみの塔協会発行の聖書百科事典の「年代計算、年代学、年代記述」の項で、かなりのページを割いて論じられている。
http://www.watchtower.org/j/20051115/article_02.htm
http://www.watchtower.org/j/20051201/article_02.htm
裁くのはイエスであり、誰が救われ、誰が救われないかを決めることに、エホバの証人は関与しない。―ヨハネ 5:22。
http://watchtower.org/j/jt/article_08.htm#saved
週に2回ある集会への参加および非信者への証言活動が求められる。(ヘブライ 10:24-25; マタイ 28:19-20。)また、年に1回、地域大会、巡回大会、特別一日大会という、より規模の大きな集まりがある。(詩編 35:18。)
http://watchtower.org/j/rq/article_14.htm
唯一の式典として、年に1回、キリストの死の記念(主の記念式)が行われる。これは、いわゆる最後の晩餐(最後の晩さん)を記念するもので、カトリックのミサ(聖体祭儀)に当たる。―ルカ 22:19。
http://www.watchtower.org/j/bh/appendix_06.htm
彼らは「新世界訳聖書」という独自に翻訳した聖書を用いている。
オンラインバイブル(インターネット聖書)新世界訳: http://www.watchtower.org/j/bible/
「恣意的な翻訳だ」「自分たちに都合の良い内容に改竄している」という批判もある。
また、エホバの証人側はこれに反論している。
公式: http://www.watchtower.org/j/20080501a/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/
機関誌・書籍などで、しばしば古今の有名人の発言・著作を引用するが、前後の文脈を無視して極めて恣意的な引用をする傾向にある。(例えば、有名な古生物学者であるスティーブン・J・グールドの著作を、あたかも彼が進化論を否定しているかのような形で引用する)
しかし、この点は近年改善されてきており、2010年に発表された創造を指示する小冊子では、相当の配慮が示されている。
近年では全人類の平等を謳っているが、同協会に批判的な主張によれば、ローマカトリックを始め、他のキリスト教諸派よりもずっと後(1970年代)まで「黒人は神に呪われた種族であり、知的にも劣っており、終わりの日に遂に彼らが救済される時、彼らの肌は白くなるだろう」と主張してきたという。(下部の参考リンク「エホバの証人情報センター」の記述による。同センターは論証的な立場に立っているが、エホバの証人に対する論調は全般に批判的。1970年代およびそれ以前の、エホバの証人における有色人種の扱いについて、より信頼性の高い情報源があればご教示ください。)
世界各国に支部があり、信者のうち白人は1/3程度と推測される。「統治体」と呼ばれる最高指導部は、設立以来多年にわたり白人男性のみで構成されてきたが、1999年にメンバーにサミュエル・F・ハードが加わったことにより、統治体にも有色人種が加わることとなった。
1933年、ドイツで政権を握ったナチスがエホバの証人の弾圧を始めると、協会のドイツ支部は大会を開催して(ベルリン大会)、ナチスの政策を支持し、自分たちとユダヤ人は無関係だと主張する「事実に関する宣言」を全会一致で採択した。この大会には、当時のものみの塔協会の会長ラザフォードも出席している。しかし、世界各国に支部があり、本部がアメリカにあるエホバの証人は、この「宣言」以後もナチスの弾圧の対象となり続けた。
しかし、エホバの証人側は、ナチスを政治的に支持していたわけではないと反論する。
公式: http://www.watchtower.org/j/19980708/article_01.htm
個人サイト: http://biblia.milkcafe.to/07-jg-11-40.html
1985年、ダンプカーに轢かれたエホバの証人の子供大ちゃんが、両親の輸血拒否にあい、死亡。輸血をしても助からなかったとの見解もあるが、マスコミに大々的に取り上げられた。大泉実成著「ASIN:4768455646」に事件の様子が描かれている。
1994年、過剰な体罰、虐待によりエホバの証人の信者の子供が死亡した。
参考:http://www.jwic.com/abuse.htm
エホバの証人である高専生が宗教上の理由で剣道実技を許否した結果、退学処分を受けたが、1996年3月8日、最高裁判所は、この退学処分は違法であるとの判決を下した。
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319123008290359.pdf
なお、これは教育と信教の自由に関する日本国憲法下における重要な憲法判断である。
エホバの証人の婦人が、事前にいかなる場合においても輸血を施さないでほしい、なおかつ輸血しないことによって障害を負っても医師に責任を問うことは一切しないとの合意書に署名していたにもかかわらず、医師たちはひそかに、事前に示し合わせて、当初から輸血を断行することにしていた。手術後、内部告発によってこのことが明らかになり、裁判となった。2000年2月29日、最高裁判所は患者の人格権を侵害したと判決した。
ここでの問題は、強制的に輸血を施したことの是非ではなく、また緊急事態には輸血を施すというその病院の方針が裁かれたのでもない。むしろ、病院はそのような方針をもっているならば、密約をしたりダブルスタンダードをとったりするのではなく、誠実に病院の方針を説明し、患者の信条に沿う別の医療機関を紹介すべきであった、ということである。
エホバの証人のプレスリリース(英語): http://www.jw-media.org/jpn/20000229.htm
判決文(PDF): http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/js_20100319120604218580.pdf
このほかにも、エホバの証人は国内外で、後に重要な判例となる裁判を起こしている。
参考:衆議院議事録―第159回国会 憲法調査会基本的人権の保障に関する調査小委員会 第2号(平成16年3月11日(木曜日)) http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/010715920040311002.htm?
ttp://d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20090204/migi
最近、私が見たそんな「謎」は「右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい “But whoever strikes you on your right cheek, turn to him the other also.”」という言葉です。新約聖書マタイ伝の中に書かれているイエス・キリストの言葉です。この言葉を聞いた人が書いた、「あれ?ふつう右利きの人がほとんどですよね?だとしたら、右の手で相手をぶつんだから、(頬をぶたれる側の人からすれば)左の頬を打たれることになるんじゃないですか?最初に、右の頬を打たれたらってヘンじゃないですか?」という疑問を眺めたのです。…確かに、不思議です。世の中の90%くらいの人が右利きだということを考えると、ぶたれる頬は「左頬」が自然です。相手から「右頬」を打たれる、というのは何だか不自然です…?
そこで、Wikipedia の”Turn the other cheek”の項や、「右頬を…」という言葉を解説した文章を読んでみると、とても興味深い(もっとも支持されている)説を知りました。それは、この言葉で勝たれているのが、「右手の甲で相手の右頬を打つ」という状況だった、ということです。確かに、右手の甲で相手の顔を払うように打つのであれば、(頬をぶたれる側からすれば)右頬が打たれることになります。そして、古代のユダヤ世界では、「手の甲で相手の頬をたたく」ということは、非常に相手を侮辱する行為で、自分より「階級・地位」が下である者に対してのみ行うことが許されていた、というのです。また、当時は左手は「悪い」側の手とみなされていて、自分の主張などを行う際には使うことができませんでした。だから、「右手の甲で相手の頬を打つ」というのは、「自分より地位が下のものを、侮辱しつつ叱責する」という目的で「ごく自然に行われていた」行為であった、というわけです。なるほど、だとすると、「最初に、右の頬を打たれたらってヘンじゃないですか?」という疑問は氷解します。…だとすると、今度は次の疑問が湧いてきます。「さらに奥にある疑問」が浮かんでくるはずです。「右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい」という言葉は、一体どんなことを言おうとしてるのでしょうか?
「左の頬を向けられ」たら、(右頬を打った)相手はどうするでしょう?左手は使えませんから、左の手の甲で「左頬」を打つことはできません。だとすると、右手の掌で相手の左頬を打つことになります。…しかし、(自分より相手の地位が下だとみなす行為である)手の甲で相手を打つのではなく、「掌で相手を打つ」ということは、相手を自分と対等だとみなすことです。つまり、「自分より身分が下」だと蔑んでいる相手を、「自分と同等の人間である」と認める行為になってしまうわけです。(頬を打った側の人は)大きなジレンマを抱えてしまうことになるのです。
つまり、この言葉は、単なる「相手の暴力・差別に対して服従・無抵抗になれ」という意味ではなく、「暴力は使わず、根本の意味におけるより強い抵抗を示せ」という言葉であった、というわけです。旧約聖書の「目には目を」という「報復行為」と対比されることが多いために、私はこれまで単なる「無抵抗主義を示す言葉」だと思っていたわけです。しかし、実はそうではなかった…ということがとても面白く、興味深く感じたのです。