はてなキーワード: 旧約聖書とは
その本質は「恐怖」なのではなかろうか。
あそこであのアナウンスをしなければ上司にドヤされるという考えがよぎった事、それが直接の理由だと私は考える。
相撲協会では常日頃から伝統が重んじられ、その文脈を味方につければあらゆる暴力や不条理が許されてきていた。
つまり、相撲協会にとっては伝統が絶対であり、本来であればその伝統を破ることは許されないはずだ。
伝統を重んじるという行為は、今現在そこに起きている現実を軽んじることに他ならない。
今そこで何が起きているかそれが現代のモラルや法律と照らし合わせて正しいか否か、そういった事柄を徹底的に軽んじた果てにあるものが伝統の重視である。
そして、相撲業界が生み出した伝統の中に息づいているのは「相撲は神事である」という宗教観だ。
これがまさに地獄を産んだのだ。
神や精霊という形而上学的故に理解の及ばぬ存在のご機嫌を伺うために、ありとあらゆる理不尽を受け入れることが宗教のあるべき姿なのだ。
相撲を奉納する相手たる神が何を望むのか、それを必死に考察(もうそう)した結果として産まれた女人禁制の掟。
故に、あの場でああいったアナウンスが流れたことは相撲としては「正しい」のだ。
それをトップの人間が「人の生死がかかっている状況では掟も絶対ではない」などと軽々しく言うことの方がおかしいぐらいのはずだ。
なぜなら、彼らは今まで散々相撲というカルト的な伝統の力を借りて好き放題を繰り返してきたのだ。
それを今になって引っ込めるのに言う言葉がそんなに軽くていいものだろうか?
今回の事件は決定的だ。
相撲という宗教が現代という社会の中でその神性を失った事の象徴だ。
リンク先の本を買って読んだ。
https://twitter.com/alpaca_mofu/status/943446184676306944
私にとっては本当に辛い記憶でありこれまで「ネタにするくらいしか昇華しようがないかなー」と漠然と考えていた体験だが、このような本に巡り会い昇華の方法として素晴らしいと感じた。
この記事を書くに至った衝動はいくつかあるが、1つはかの宗教に地域性とローカルルールが豊富であることに由来する。
Amazonのレビューや著者の方を含めたツイッターでの会話を眺めたら「まさにそうだった」「うちはこうだった」「それはなかった」といった感想を目にした。
この宗教に関わっていない方にとってはどれが正しいかわからない状況かもしれないが、きっとどれも正しく、単に環境が違ったのだと思う。
この記事もあくまで私の体験であり他の方と一緒かもしれないし違うかもしれない。
ただそういう経験をしてそう感じたと書く。
各々信じたいものを信じ、やりたいことをやるしかないのであるし、公序良俗というやつに反しない限りそうあるべきなので特定の個人を貶める意図はない。
また、正式名称「ものみの塔聖書冊子協会」通称「エホバの証人」についても賛成も反対もなく信教の自由は保証されてしかるべきなので信奉したい人はどうぞ。
「ものみの塔」とか「エホバ」とか書くの本当に久しぶりだが手が震える。
コメントorツイッター( https://twitter.com/s_fjw )で質問してもらえたらできるだけ書く。
いわゆる「元2世」というやつで、親が入信してたので必然的に参加していました。
かの団体は地域性とローカルルールが多いことが知られており「いつ」「どこで」「どれくらい熱心だったか」という前提が欠かせないのでまずそれを書きます。
西日本。
年1回の「地域大会」というやつはスペースワールドの近くで開催されるやつに割り振られていた気がします。
洗礼受けてから脱退すると「排斥処分」というやつになって以降かの団体の人々との交流を一切禁じられるが、洗礼を受けずに諸々の行事に参加しなくなっただけなので、扱いとしては単に「信者候補が『世の人』(信者ではない人の呼称)になった」だけ。
「排斥処分」の有無は感情や精神に色々影響与える場合があるらしいのでここに状況を明記する。
父母私。
父→大きく賛成も反対もせず。一時母の勧めで「研究」に参加した模様。
母→熱心な信者、たぶんまだ現役。
前述の通り心理的に脱退済み。
たまにフラッシュバックして死にたくなる。
かの教義には賛成も反対もないので自分の意思でやりたい人はやったらいいんじゃないんですかね。
書く。
本当に体験が近しくてびっくりした。
が、ごく一部私の体験と違ったので書く。
悪いことを「サタン」と言うことはあった。
これは十戒あたりに「神の名をみだりに唱えてはならない」とか書いてあって、私の周りでは「良いこと」を表すために神の名を使うことはそれに沿っていないと考えていたか、あるいは単にそういう用法を思いつかなかったのだろう。
なお彼らは主に新約聖書を教義の根拠として用いるが、旧約聖書も参照する。
繰り返すが地域性やローカルルールが多彩であり特定の人の記憶や考えを否定するものではない。
今のところこれくらい。
他は本当に体験が近しくて驚いた。
悪いことばかりというのはあり得ず、このような環境で過ごしてよかったこともあるので書く。
気力が戻ったら書く。
思い出すだけで辛いし得損なった15年ばかしと数々のチャンスを考えると何かを呪わずにいられなくなるんだ、わかる人にしかわからないだろうが。
この件を考えると人に優しくできない。
クルアーンの注釈書(『タフスィール・アル=ジャラーライン』)を買って読んでる。
・キリスト教勉強してたら、そらぁイスラムも気になるわな、という感じで買った。
・その辺に売ってるイスラム本は入門書ばかりで、肝心のクルアーンの注釈書がどこにもない。
・と思ったら、日本ムスリム協会というところで注釈書が格安(1冊3000円で3巻セット)で頒布されていた。
・Amazonだと買えない。
・メールで注文した際、後払いで良いと言われてびっくらこいた。善良というかお人よしというか。信仰の為せる技なのか。
・本のサイズがクソでかいのには面食らった。A3サイズ?携帯は不可能。
・このサイズで1500頁ぐらいあるので、トータルで約1万円ってのはやっぱ安い。
・『タフスィール・アル=ジャラーライン』ってのは「2人の著者によるクルアーンの注釈書」ぐらいの意味らしい(?)。
・著者のマハッリーさんとスユーティーさんは大体1400年代(!)の人。
・この本はめちゃくちゃ簡潔なのが特徴で、簡潔すぎてわけが分からないので、”注釈書の注釈書”があるとのこと。
・その”注釈書の注釈書”のうち、ジャマルさんという人のものを、日本語訳者が適宜織り込む形で出版されたのが本書。
・ちなみに日本語訳者は中田香織さんで、有名な中田考さんの奥さん。
・あとクルアーンの全訳(?)も付いてるので別途クルアーンの日本語訳を買う必要は無さそう。
・1400年代の本が読めるのかって感じだったけど、割と易しく書いてあった。
・ただ途中で気づいたんだけど旧約聖書の知識があることを前提に書いてあるので、何も知らんとキツい。
・聖書の人物の名前がアラビア読み(?)になるので一瞬「誰だよそいつ」ってなる。イエスはイーサーで、ダビデ王がダーウード。
彼らは、「ユダヤ教徒、またはキリスト教徒でなければ楽園には入らない」と言った。それが彼らの望みである。言ってやれ、「おまえたちの証拠を持って来い、もしおまえたちが正しいのであれば」。(2:111)
・ただ多神教(≒不信仰者)disはもっとすごいので、それよりかはマシぐらいの感覚なのかも。
・アラブの人たちが日常生活で直面する困難や疑問に対して神の言葉が下されるという形で書かれた章節が多いので、最初のほうからやたらと具体的。離婚したら慰謝料払えよー(2:241)とか、アナルセックスするなよー(2:222)とか。
・これは良いなぁと思ったのは、人の善行が神に対する「貸し付け」となって、死後何倍かにして返されるよ、みたいな言葉。これはキリスト教にない発想よね。
アッラーに良い貸し付けをする者はだれか。彼はそれを倍加し、数倍にもなし給う。アッラーは締め付け給い、また気前良く広げ給う。そしておまえたちは彼の御許に帰らされるのである(2:245)
長くなったので以上。
性教育ってあくまで薬物で言う所のハームリダクションにみたいに行われるのが良いんだと思ってる。性行為に関わる様々なリスクを回避しようと思ったらしないのが一番なんだけど、なくすことができないから対策を教えるみたいな。そういうスタンス以外ありえないでしょ。
その思想はたぶん明治期か戦後か知らないけど西欧で劣勢になって日本に逃げ延びてきたプロテスタント系潔癖主義で、真理とかではなく舶来品崇拝と精力的な布教で進んだ観念のように思い込まれているだけの、認知的不協和から快感を引き出す一種の性的嗜好だと思う。
生殖を最低限必要な限度に抑えた形が生物として優れているというのはおかしいでしょ。繁殖をしろよ。旧約聖書だって「生めよ,増えよ,地に満ちよ,地を従わせよ」って書いてあるだろ。DQNのように増えろよ。そして確実に増やす算段をしろよ。
この世(宇宙)の始まりは知性とともにあった。即ち「光あれ」(※1)の言の波とともにこの世が生まれたとあるように、「光とこの世」の前に存在したのが知性なのだ。この状態は混沌というわけではない。知性とは「Cogito ergo sum」※2 が個に生じた状態であり、その思念こそが創造の源となる。
自己を知覚した存在が「光」を欲すれば、「光」が生まれる。そして「光」の前に存在した「言」(※3)こそが、知性が行動を起こしたときに生まれる「想い」、即ち「思念」なのだ。知性の存続は時空間という概念を超えたところにある。つまり「Cogito ergo sum」という瞬間がいずれかの時空間軸で萌芽した時点でそれは「有る」。またそこに「有り続ける」。結果として、知性の存在は「場所や物質的なものに一切依存する必要のない」(※4)、言い換えれば、知性は時空間という概念から独立して存在しうる。つまり、これは世に出現するあらゆる現象(色)は本質ではなく(故に「空」であり)、世におけるあらゆる現象から独立して存在する知性(故に「空」)こそが本質(故に「色」)であること--「色即是空、空即是色」(※5)を意味する。
知性の繁栄とは、複数の知性が如何に結びつくかを示し、そこには2つの類型しかない。一つは、相互依存による共存共栄による知の拡大である。もう一方は、一個性による他、そして多の支配による侵略の拡大である。一方は永遠なる存続と相互補完により実現する存在であり、他方は、一個性の支配下により存続が左右される。
Cogito ergo sumは一般的に「我思う故に我あり」と訳されるが英語などでは、「I think Therefore Iam」、直訳すると「I think Therefore Am」となるためより「I」の存在そのものを強調した表現となっている。
※5 般若心経
覚醒したり、パワーアップしたりするときに長髪になるキャラって多いですよね?
ぱっと思い付くだけでも、
・うしおととら(1990~)の潮(獣の槍所持時)
※厳密には髪が伸びているわけではないらしい
・幽遊白書(1990~)における幽助
などなどたくさんいます。
(変身すると髪が長い、というとWILD HALF(ワイルドハーフ)もそうですね。)
なぜみんな髪が伸びるのでしょう?
まず、覚醒したり、パワーアップしたりしたことを分かりやすく示すためには、見た目ががらっと変わることが必要です。
そのような演出上の必要性があるから、髪が伸びるのかもしれません。
・眼の色が変わる、瞳に模様が浮かぶ
ハンターハンターのクラピカ、NARUTOの写輪眼、輪廻眼、仙人モード、BLEACHの虚化、Get Backers-奪還屋-の聖痕(スティグマ)、新世紀エヴァンゲリオン
※ブコメで指摘を受けて、キング・ブラッドレイは削除しました。
・髪の色が変わる
ドラゴンボールのスーパーサイヤ人、武装錬金のヴィクター化、東京喰種
・肌の色が変わる、紋様・模様が浮かび上がる
武装錬金のヴィクター化、七つの大罪のメリオダス、アメコミのハルク、ONE PIECEのルフィのギア4、進撃の巨人、金色のガッシュ!!
・光をまとう
ドラゴンボールのスーパーサイヤ人、テニスの王子様の無我の境地
これらのパターンと違って、髪が伸びた場合、キャラクターのシルエットそのものが変わるため、使い勝手が良い、ということはありそうです。
江口洋介や木村拓哉などに人気が出て、男性の長髪が流行したロン毛ブーム。
これが起きたのが1990年代でした。
当時の、男性の長髪がかっこいい、という風潮が影響しているのかもしれません。
覚醒すると、強力になる代わりに理性を失ったりするのもお約束の一つです。
そういった性質の象徴として、髪が伸びて野生化した姿になるのかも。
ライオンのたてがみのイメージが根底にあるのかもしれませんね。
覚醒シーンにおいては、その人物の怒りが伴うことも多いです。
「怒髪天を衝く」という言葉もあり、髪の毛が逆立つのは怒りの表現。
髪の毛が伸びて逆立つのは、そのキャラの怒りを象徴とも読み取れます。
詳しくは知らないですが、プリキュアシリーズ(2004~)や美少女戦士セーラームーンシリーズ(1992~)など、魔法少女モノでは、変身して髪が伸びるイメージがあります。
これらについては、ターゲットとする女児のあこがれ、「大人の女性」の象徴として、髪が伸びている側面もあると思います。
ただ、少年漫画等とも、「髪が伸びて、変身・パワーアップ」というところでは共通しているので、こちらの方にルーツがあるのかもしれません。
旧約聖書の登場人物、サムソンは、怪力の持ち主ですが、その力の源は、髪の毛にあります。
髪の毛が力の源という発想は、このあたりから来ているのでしょか。
※ブコメでの指摘によると、髪の毛がというより、髪の毛を切らないという誓約の問題のようです。
丑の刻参りの方法として、相手の髪の毛が必要とされる場合があるように、宗教・呪術的にも髪の毛が重要な場合があります。
http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=507
きちんと確認できていませんが、ギルガメシュ叙事詩におけるギルガメシュ(ギルガメッシュ)は、長髪が抜けると力を失うようです。
ギリシャ神話では、髪の毛に関するエピソードとして、メドゥーサやかみのけ座の話がありますね。
古来から髪の毛には何らかの力が宿るとされきたんですね。
憶測と疑問形だらけで結論は分かりませんが、思っていた以上に「覚醒して髪が伸びる」のルーツは古いところにありそうです。
あれは、アンパンマンのビジュアルありきの設定なのと、髪の毛があったころが描かれていない(たしか)のでちょっと事情が違いそうです。
フリーザは、元々髪がないですが、シルエットがすっきりするという意味では逆のパターンですね。
ブコメでは、時間の経過の表現、異形化系の説話と設定上の都合、動物の威嚇、成熟期の発毛、歌舞伎など色々な指摘があって興味深く読ませていただきました。
「shi3zの長文日記」がホッテントリに入っていますが少し言葉足らずかなあ…
http://d.hatena.ne.jp/shi3z/20160607/1465246379?_ts=1465261918
”また、いま普及している聖書は基本的にさまざまな本の断片を集めた合本であるため、訳者によっても微妙に解釈が違う。そもそも原著はヘブライ語で、ヘブライ語聖書からそのまま翻訳しているわけでもなくて、一度英語になったものを翻訳したりするわけだから話がさらにややこしい。”
上記は旧約聖書にはあてはまりますが新約聖書にはあてはまりません。
http://www.bible.or.jp/know/know07.html
”旧約聖書はヘブライ語で記されている。ごくわずかの部分はアラム語である。”
ですが
”新約聖書はギリシア語で記された。このギリシア語はヘレニズム時代に地中海世界で共通語となったコイネ-と呼ばれるギリシア語で、古典ギリシア語とは異なるものである。使徒たちによってキリスト教が伝えられていったのは、このコイネ-・ギリシア語の世界であったので、新約聖書はコイネ-・ギリシア語で記されたのである。”
イエスが生きた時代のパレスチナの日常会話はアラム語であり、ローマからオリエント世界における国際共通語はギリシャ語でした。
一般にイエスが実際に発した言葉はアラム語で、その言葉を使徒が書留め、書簡に記したり布教に使用したのはギリシャ語だったと考えられています。
”イスラエル民族はカナンの地(パレスチナ)に定着してからヘブライ語を使用したが、後にアラム語が使われるようになった。このアラム語はアッシリア、バビロニア、ペルシアで用いられていた。エズラ記のアラム語部分はペルシア王との間に交わさた手紙であるが民衆は理解できなかったことを示す記録が列王記18:26にある。アラム語は次第にイスラエルに浸透するが、バビロニア捕囚はそれに大きな役割を果たしたと考えられる。ギリシア支配時代以降ヘブライ語は聖書その他の宗教文書に用いられ、一般にはアラム語が日常化していった。イエス時代のパレスチナではアラム語が用いられていた。福音書記者はイエスの語られた言葉の中に、ごく少数ではあるがギリシア語と並行してアラム語を保存している。「タリタ・クム」(マルコ5:41)「エッファタ」(同7:34)「アッバ」(同14:36)「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(同15:34)がそれである。”
http://anond.hatelabo.jp/20160604173035
上掲の雑文についたコメントの中に、「自分も『聖書』と『資本論』を読んでみたい」というものがあったのですが、ガイド無しでいきなりこれらの本にぶつかると、誤読する可能性が高いと思い、追記させていただきました。
まず、『聖書』についてですが、これは新共同訳のものを普通に読んでもらえれば大丈夫です。スマホ用アプリの中に聖書が無料で読めるものがあるのですが、訳が古い(?)ため、分かりにくいです。
読んでいてよく分からない点があれば、各種文献に当たるか、詳しい人に聞くと誤読せずに済みます。私は『新共同訳 旧約聖書略解』をよく参照していたのと、牧師さんがYouTubeでやっている聖書解説をよく観ていました(布教活動みたいになるのでURLは伏せます)。
次に『資本論』ですが、これは読んでいると言うだけで偏見を受ける本なので、必要がないならあんまりお勧めはしません。
それでも読むという場合、注意点があります。それは、『資本論』は全3部が有機的に繋がった本だということです。第1部で残された謎が第2部第3部で解決されたり、また、その逆もあったりするので、注意が必要です。読む場合はきちんと第3部まで読み通さないと、確実に誤読します。
この点、『資本論』をいきなりそのまま読んでも挫折するので、多くの人は入門書か解説書の世話になるかと思います。こういった本の中には、残念ながら、著者が第1部しか読んでいないと思われる本が多いです。第1部だけ読む場合、『資本論』の意義はきわめて矮小化されてしまいますので、第3部まで解説された(つまり著者が全ての体系を押さえている)本を選ぶのが肝要です。特に、インターネット上の『資本論』について書かれたサイトはほとんどこのたぐいのものなので、信頼しない方がよいです。
それと、私の表現が悪くて、あたかもビジネス本と『資本論』が同内容かのように思われた方が散見されたのですが、もちろん両者は異なります。そもそも書かれた目的が異なるので相違点を挙げていけばきりがないのですが、一つ言えることは、『資本論』は金儲けに伴うグロテスクな部分(ビジネス本の多くはこれを伏せているか、気付いていない)を明らかにしているところが大きく違います。
旧約聖書さみえる気によるとイスラエルとペリシテの戦いの際にペリシテの巨人戦士ゴリアテがイスラエル軍に行った1の戦いを挑んだ。この際イスラエルの少年ダビデが透析紐と5つの意思のみでこれに応じ透析の一撃でゴリアテの頭を砕きイスラエルに勝利をもたらしたと言う話。
この話は今までがどちらかと言うと軍人経験の話を強調していたのに対して、考古学あるいは美術に関する太一の知識を披露する会。今回もダビデ像の真贋を太一が鑑定すると言う話になっている。
太一はフリーの保険調査員なのだけれども1人でやってるわけではなくて仕事をとってくる代理人が入るこれがパートナーのダニエルである。
新作の話はジュリオロマーノと言う芸術家の話1,276にフレンチ生まれです
これに対して間作者はロマーノの死後50年後に現れたマイスターリンツ。
「私は血も涙もない債権者ども色じゃなかった特にあのパーマを。やつは財力と評論家の店をバックに、美術品取引を支配する頃ゴリアテだ。
あんな奴には日の究極ダビデの蔵絶対に渡したくはなかった私は自分の持っていたリンツのダビデ像とロマーノの本物とすりかえたのだ。」
(いとくほうえん)
老子の言葉。これを日本語にすると怨みに報ゆるに徳を以てす(うらみに むくゆるに とくをもってす)。
ひどい目にあって怨みを抱くような相手であっても、仕返しをするのではなく、 許しの心で、あたたかく接するべきである、ということ。
怒りの感情というものは、多くの場合、ささいなことが原因で起こるものです。
たとえ憎いと思っても、できるだけ相手を許し、逆に恩恵を与えるような気持で 接するべきである。ということのようです。
このことわざは、老子の言葉ですが、論語の中にも書かれているようですから、中国では、 かなり古くからあった言葉のようです。
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=377286345747800&id=287957014680734
老子がこの言葉を言ったのは、「以怨報怨」つまり「怨みに報いるに、恨みを以ってす」だと、恨みの連鎖が起きて
何時までたっても怨みは解けず、復讐が復讐をよび報復合戦になってしまう。
そうならないためには「怨みに報いるに、徳を以ってすべきである」という意味であると解釈されています。
旧約聖書とコーランを基とする「目には目を、歯には歯を」の反対の考えです。
「目には目を、歯に歯を」を信奉している、アラブとユダヤの間で三千年も争いが続いていることを考えると、
この老子の教えは的を射ているのかもしれません。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1394880143
砂に埋もれてくしゃくしゃ
地は侘しく平らかに均された
跡なき力強い御手によって
遺跡に遊び
ポリ袋を叩いて鳴らした
勇敢なる男たちと女たちは神を敬愛し
朽ちた襤褸たちの知るところとなった
口ずさむ:私を愛していますか?
私をおぼえていますか?
私のうえに雪がつもる
幾重にも幾重にも層を成して:
これも神の掌のうちなのか
他の娘たちは埋葬される
無縁墓地*4の土のなかへ
日々を刻んで通りすぎる
二万の死者たちがあなたの歩みに寄り添うところ
気だるい鳥達のさえずりのなかで失われていった彼らの死因
彼らの残した記録はどうしたって謎めいている
すべては廃れて消えた
蛍光なしではね
私もがんばってきたんだよ でも
私の愛していたものを思い出して、私を抱きしめて、なんて言わない
なんどもなんども医者を呼んだ
そして絵の中に生きる
彼は言った:
「大丈夫」
「もう終わったよ」
そして飛行機に乗った
ベルトを締めずに
彼はとんでもない向こう見ずで有名で
“ぼうや”と呼ばれ
落下へと突き進んでいった*7
そして私たちは水準をあげる
狩人たちは
そして驚きをもって見つめて
私たちの髪をピンと逆立てると誓って
慈悲を! 神よ!
出て行って、狩人が石碑を解読するのを待って*9
この街の下に何が横たわり、去っていったのか
見よ、そして絶望せよ
見よ、そして絶望せよ
---
1 シェリーの詩『オジマンディアス』より。古代エジプトの「王のなかの王」オジマンディアスを詠った詩。このあと続く砂漠や遺跡のイメージはシェリーの詩に準じている。全体をつらぬくモチーフでもある。
3 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ作の絵画についてのエピソード。この作品は長いあいだ、旧約聖書外典トビト記を下敷きにしたポピュラーな宗教画モチーフ「トビアスと大天使ラフェエル」の絵だと信じられてきたが、のちの研究でもともと「母親と子供」の図として描かれたものをティツィアーノの弟子が宗教画へ改変したものと判明した。
ちなみに「トビアスと大天使ラフェエル」はこんな話。ユダヤの盲人トビトの息子トビアスは、父親から昔貸した金を回収するように命じられてメディアの地まで旅をする。そのとき同行者として大天使ラファエルがトビアスについてくる。トビアスは旅から帰るまで、自分の同行者がラファエルだと気づかなかった。
4 歌詞では「potter’s field ポッターズフィールド」。無縁墓地を指す。語源は新約聖書のマタイの福音書。銀貨三十枚でキリストを売ったユダは自責の念からクビをつって自殺。ユダから押し付けられた銀貨のあつかいに困った祭司長たちは陶器職人(potter)の地所を購入し、行旅死亡人の墓地に定めた。
5 ワシントン・スクエア公園のこと。パリの凱旋門をモデルにしたワシントン・スクエア・アーチが建っている。もともとは貧困者用の無縁墓地で、今もその下には2万人以上の遺体が埋まっているという。
6 オーストラリア人画家アーサー・ストリートンの絵『Spring』の元ネタになった人物のこと。ストリートンの恋人だったらしい。
7 「ニューヨークの市長坊や」の異名を取ったジョン・パーロイ・ミッチェルは1914年から17年までの三年間、ニューヨーク市の市長を務めた人物。彼は当時ニューヨークを仕切っていた悪名高き集票マシーン(一種の政治団体)タマニー・ホールと激しく対立し、17年の選挙で落選するや第一次世界大戦に参加するため空軍へ入隊した。入隊の翌年、彼は飛行訓練中の事故で死亡。原因はシートベルトを締めなかったことによる落下事故だったという。
姦淫の罪を犯した女は石で撃ち殺せ。父母を殴る奴は死刑。目には目を。歯には歯を。
それがイエスだ。
人が人を裁くな。隣人を愛せ。
多くの人がイエスに従った。
ある者達は彼を救い主(=キリスト)と呼び、ある者は彼を預言者と考えた。
君はレイプされた少女が石打ちの刑で処刑されるニュース映像を見たことがあるかい?
あれは厳しいよ。厳しすぎるよ。
弟子達ががんばったり処刑されたり弾圧されたりしつつも信者を増やして行った。
さらにいろいろあってローマの国教になり布教されていった。(civ4 的な意味で)
たぶんだいたいローマのせいじゃないかな。
なんでお前の家には仏壇があるの?と同じくらい意味のない質問だとおもうな。
うちのばあちゃんが教会に行けとうるさいとか。最近の若者はサラートしないとか。うちの親戚がお盆に帰らないと煩いとか。
聞く分にどの宗教も「どうでもいいと思っているけれど習慣とかしがらみとかで」という人達がそれなりの割合を占めているように思える。
すれ違いが起こる原因は「クリスチャンの家庭ではキリスト教で倫理教育を行っていること」ではないかと思う。
たまに聞かれる「なんで日本人は無宗教なのに犯罪が少ないの?」なんて質問はこの辺りのすれ違いから来ていると思う。
日本の一般家庭はお父ちゃんお母ちゃんが倫理教育をしているんだよね。
「人に親切にしなさい」「人にして欲しいと思う事を人にしなさい」「差別はいけません」(注1)
だいたい新約聖書に書いてある事と一緒だよ。
http://anond.hatelabo.jp/20150607042259