はてなキーワード: 情報量とは
『時事問題をネットで収集したり意見するネットユーザー層は「従軍慰安婦問題」しかり「南京大虐殺問題」しかり、ネットでの情報収集能力が高いため、これらの「問題」がいかに中国や韓国や日本の一部メディアにより事実を湾曲して「拡大」していったのか、よく知っている層』
『田母神氏の台頭は、「大雪のせい」ではなく、そして「日本は右傾化した」のではなく、今まで情報量が少なくマスメディアの報道などを鵜呑みにし「沈黙」を余儀なくされていた有権者の一部が、ネットなどのツールの発達により情報収集能力を高め、本当の「事実」に気づいた層が着実に増えている証左なのだと云えましょう。』
高い視座に立ちながらも自身を崖から突き落とす作業を、端的な意味を求めて満足する、これが第一段階。ここで振り落とされるのが実に85パーセント。しかしその後が辛く、大難位階に上がるためには全てを忘れなければならない。しかもこれを無意識でやるのがつらい。ここで残ったうちの99パーセントは離脱する。ただ離脱した後も平行鍛錬によって第一段階の中段に復帰することが出来るので心配はさほどない。話を戻して、無意識でありながら全てを忘れる、これは点になるということに尽きる。我々の世界は三次元で構成されているが、三次元は非常に情報量が多い。二次元、面、線、点と削ぎ落としていくことが忘却への近道となるだろう。気づいたかもしれないが私は線から点への鍛錬の途中に脱落したものだ。実体を失っている。
( 2019年春アニメ1話ほぼ全部観たから感想書く その1 からの続き )
クソザコナメクジ中学生のクラスメイト攻略シミュレーション。1話にしてタイトル詐欺、というわけでもない。友達100人できるかな。原作者は「三ツ星カラーズ」でお馴染みカツヲ。良い最終回だった。
制作はC2C。先のアニメ「はるかなレシーブ」の元請け。ちなみに監督ははるかなレシーブ10話の絵コンテを担当した安齋剛文。はるかなはスポ根系だったのでかなり動きのある作品だけど、本作は主人公の表情がよく動く。怒涛の感情変化で魅せるため、敢えて話のテンポがゆっくりしているみたい。かわいい。演出的には三ツ星よりコミカルな表現が多く、この辺もはるかなレシーブっぽいかも。キャラデザは違う人だけど、両作ともキャラの雰囲気も似てる。
脚本はモノローグに定評のある花田十輝。1話の半分以上主人公のモノローグじゃね。てかOPの曲名になってて草。主人公の中の人(森下千咲)は新人さんで、1話の台本を読んでセリフ量の多さにびびった話すき。
劇伴はMONACA。高田龍一…ハナヤマタ 田中秀和…WUG、灼熱の卓球娘。つくづく田中美海と縁のあるMONACAである。劇伴がかわいい。テイストはわりと三ツ星カラーズのそれに近いかも(カラーズの劇伴:美知留)。
主人公がクソザコナメクジっていうアニメは去年も結構あったのでそれらと比べると、「スロウスタート」は周囲と比べて主人公の影が薄く、あわあわしてる主人公の手を周りの優しい人達が引いてくれて、徐々に友達の輪が広がっていく話。「ちおちゃんの通学路」はもはやすべて諦めたので教室にたどり着くことすらない。全部まななのせい。登場人物がほぼ全員やべーやつ。「こみっくがーるず」は学校に居場所を見いだせない主人公が漫画家寮の中で居場所を見つける話。に対して本作はクソザコナメクジながらも能動的にクラスの子達を一人ずつ頭脳プレイで攻略していくお話。ただし頭のネジが飛んでいるので、必ず視聴者の予想の斜め上を攻めてくる。必ず。
三ツ星カラーズにもいたけど、頭のネジが飛んでるかわいい子が多い。特に2話から主人公の情緒不安定さ、不器用さ、行動原理の不明さがマッハで、わりと理詰めで考えがちな私からするともはやミステリー作品である。マジで、なんで縦笛持ってたの?あとなんで体操服に着替えたの・・・?何らかの意味があるはずなんだけど、丸一日考えてもわからなかった。今期最大の謎である。
あとカラーズは毎話、三人組の服装が違うっていうやばいアニメだった(キャラデザ大変だったらしい)のに対し本作はほぼ制服。でもかわいい。中学1年生によくある「成長を見越して大きめのサイズになってるせいで全体的にダボッとした制服」をちゃんと絵にしてて好き。特に主人公が小さい。そういう描き方をしてる作品って、最近だと「ヒナまつり」くらいかもしれない。あれいいよね。
原作者の要望によりスタッフ一新、原作準拠で最後まで製作予定。制作もスタジオディーン→トムス・エンタテインメントに。(本作に限らず)仮にこのアニメが面白かったとして、それは”旧作が面白くなかった、あるいは本作が旧作より優れていることを証明した”ことにはならない、という前提で観てる。1話冒頭の「行ってきます!」だけでもう泣きそう。2話で泣いた。
1話冒頭の「行ってきまーす!」だけでもう泣きそう。2話で泣いた。1話からノルマ達成。1話のシナリオは旧1話とだいたい一緒なので見比べやすい。主人公を中心に徐々に打ち解けていって、あの家がみんなの居場所になっていくお話。
大地丙太郎監督下のアニメ(めいこい面白かった)はコミカルな表現を多用し、優れたテンポ感のあるアニメだったのに対して本作はかなりリアリティ寄りに仕上がってて、コミカル表現は少なめ。朝のシーンも夕方のシーンも太陽光が射す角度までちゃんと計算しててエモい仕上がりに。特に目を引くキャラデザの違いは原作者の意向で今風にリブートされているため。透のキャラデザでいうと、リボンの色が青→黄色に。特に髪型に相当気合が入っている。短めの前髪ぱっつんがめっちゃ好き。寝てるときの髪の毛も、三つ編みの書き込みもすごく丁寧で可愛い。あと2話の夾くん初登校シーンで咲ちゃんが透の髪をコテで縦ロールにしてるシーンすき。
そんな透を演じるのは石見舞菜香。彼女は去年の劇場版アニメ「さよならの朝に約束の花をかざろう」で初主演の新人さん。さよ朝の演技でいうと「一日中仕事を探して周りへとへとになって帰ってきたら、息子が仕事道具を勝手に広げて遊んでたのでついキレちゃったシーン」がめっちゃ好き。本作は日常パート(ギャグ)~シリアスパート(凄くしんどい)までかなり幅広い展開の話なので、もう楽しみ。あと由希くんが変声期を迎えました(CV.島崎信長)。
学校のシーンで言えばモブ学生がみんな手書きな上に学校の風景を作るための装置として機能してて、旧作との如実な違いに感じた。また遠くのモブも作画が崩れてない気合の入りよう。おまけに背景はPAWORKS作品でお馴染みスタジオ・イースター。PA作品以外で見るのは結構珍しい。2話はイースター&Bamboo。2話は背景が遠くまで見えるような画角が多い(あんまり背景を省略してない)。家の前の階段と、両脇の木々と、遠くに広がる町並みとか。環境音も丁寧に付けられてて、この世界の空気を感じる(音響効果:古谷友二)。ココらへんに高い熱量を注いでいる作品みたい。要約すると「大人っぽいフルーツバスケット」。
OPは旧OPと同様リリカルな感じ。やさしいせかい。劇伴も非常にエモい(音楽:横山克)。同氏の劇伴でいうと「亜人ちゃんは語りたい」に近い感じ。作品としては「フルーツバスケットの諸問題がある程度解決した後の世界」=「亜人ちゃん」みたいな感じ?あの音楽がすっげー好きだったので嬉しい。
1話あらすじ:ひょんなことから「五等分の花嫁」1話みたいなことが起きました。学校でも屈指の変わり者である女子たちと華の学業生活をするラブコメ。
制作はstシルバー。元々エロゲを作っていた会社がアニメ制作へと華麗に転身したみたい。話題のOPは絵コンテ:松竹徳幸で、同氏の経歴を遡ってみたら、「はっぴ〜ぶり〜でぃんぐ」っていうアダルトゲームのアニメーション演出でstシルバーと繋がってたりする(Wikipedia調べ)。
そのOPだけど、3人のヒロインが持つ個性を指の先まで丁寧に描き分けていてめちゃくちゃすごい。「ああ、この子は繊細な子なんだな」「ああ、この子は快活な子なんだな」っていうのが冒頭の、寝起きの背中を見ただけでわかる感じ。この書き分けは勉強してるとき一瞬映るノートの内容まで踏み込んでいて、文字の癖からノートのとり方まで違うし。一番好きなのが、うるかがプールから顔を出してちょっと笑いながら前髪をぎゅってするカット。私が水泳部だった頃の記憶では、たいていの人は帽子とったら髪を前から後ろにかきあげてたんだけど(だって邪魔だし)、うるかが!前髪を!ちょっと気にして!!ぎゅって!!可愛すぎかよ!!!
制作会社の遍歴的に「エロアニメかな?」って思ってたんだけど案外そうでもなくて、例えば同じ週刊少年ジャンプ連載作品「ゆらぎ荘の幽奈さん」と比べてかなり控えめ(もちろんゼロではない)。今期の高校生ラブコメでいうと、なんここ>>淫青ちゃん>ぼく勉。青ちゃんと比較すると、青ちゃんが作中マジで勉強出来ないのに対して本作はかなり勉強してる。ドラゴン桜ほどじゃないにしても、2話クレジットに”参考文献:「行きたい大学に行くための勉強法がわかる高校一冊目の参考書」”ってなってるくらいには気合が入ってるみたい。4人がお互いに足を引っ張り合うわけでもなく、好きな彼を陥れようとするわけでもなく、極度に性的ないたずらをするわけでもなく、仲良く勉強してる感じが凄くすき。それに対する主人公のリアクションが割とリアルで好き。心の中では阿鼻叫喚だけど顔には出さない感じとか。流石に白銀会長ほどウブじゃないけど。
監督はみんな大好き岩崎良明。シリーズ構成も雑破業が担当してたり、かなり気合を感じる。去年の岩崎良明監督作品だと「ラストピリオド」がブラックコメディ作品だったけど、あれに恋愛要素を足した感じで結構コメディ寄り。コミカルなギャグ演出が可愛い面白い。特に停電のくだりが好き。でも恋愛要素はあくまで「青春の1ページ」で、多角的に描かれている思春期の一部っていう感じがある。「亜人ちゃんは語りたい」の町京子みたいな。ちなみに本作のヒロインはあんまり悩まずカラッとしてる。そこらへん五等分の花嫁と比べてテンポ感重視な仕上がりみたい(あっちは「最終的に全員と和解できるのか…?」っていう縦軸になっていた。11話めっちゃエモかってん)。そのため物語の導入部分もざっくり。振り幅のあるギャグパートと青春パートで劇伴の雰囲気がガラッと変わる感じがすごく良かった。
アイキャッチがかわいい。ハナヤマタとかこみっくがーるずもそうだけど、漫画の一コマみたいなやつ良いよね。2話のアイキャッチうるかやばかった。本編と関係ないけど、d’アニメストアで配信されている2話のサムネうるかがめっちゃ可愛かった。
ヒロイズムと群像劇。ワンパンマン1期の13話~。ガロウ編。せっかくなので前回の最終回を観てね。見比べる理由として、1期と2期で監督(夏目慎吾→櫻井親良)、制作スタジオ(マッドハウス→J.C.STAFF)が違う点がある。夏目慎吾率いるマッドハウスは、先のクールで「ブギーポップは笑わない」を制作していたので多分その関係かと思われ。2期としておきながら配信等で13話…と表記ゆれがあるのは多分このせい。ブギーポップ面白いからね、仕方ないね。
ほんとモブが活き活きしている。作画もそうだし演技もそう。本作における魅力の一つ。そして1話(13話)はみんなのアイドル、キングの話。原作(ONE)→ジャンプ版(村田雄介)→アニメと見比べると、特にキングのキャラクターがどんどん魅力的になっていく。彼は普段表情やセリフの感情が乏しいので、アニメ化によって情報量が増えたことで魅力が倍増した感じがある。実質主人公。そんな1話が最高だった。サイタマとキングの、最強と最弱の対比マジで好き。あの二人がゲームしてるシーンが原作の頃からずっと好きなので、アレ見れるの嬉しい。対比で言えば、作中パワーアップするヒーローはジェノスとキングくらいしかいない(特にキングのインフレがやばい)。ガロウもまたハゲマントとの対比として印象的だよね。そういう意味では一貫して群像劇としての面白さを失わない作品。余談だけど、ONE氏による原作が更新再開した模様。
ONE氏原作のアニメ「モブサイコ」も大概やばかったけど、アレや1期と比べると作画力でぶん殴ってくる感じは控えめになっている。というか1期の作画どうなってんだあれ。1話の鬼サイボーグが戦ってる感じ、エフェクトもりもりでめっちゃかっこよかった。爆風や粉塵の作画好き。1期と比べると群像劇としての側面が丁寧に描かれている印象で、特に2話のフブキすき。主人公のやる気ねえ感じとフブキの勝手に鬼気迫ってる感じのギャップでどうしても笑っちゃう。
中野の日常。悪魔の囁き、幸福の形、見る堕落。制作は動画工房。
あらすじ:小林さんちのメイドラゴンみたいなことが起こりました。押しかけ同居人との共同生活を描く日常アニメ。
公式ラジオで千孤さんの中の人(和氣あず未)が「おばあちゃん感を意識して演技してというディレクションだった」て言っていたけれど、メイドラゴンは小林さんが押しかけ彼女(妹?妻?)に「洗濯っていうのはこうやるんだ、わかった?」と手取り足取り教えてたのに対しこっちの仙子さんは「おかえり、ご飯温めるから着替えちゃいなさい」「忙しいのはわかるけど、ちゃんと朝ごはん食べなさい!」みたいな感じで完全に立場が逆。あとメイドラゴンがギャグ全振りで本作は癒やし全振り。脚本は中村能子だけどラブコメではなさそう。いや、ラブコメかもしれない。
動画工房は最近も割と幼女を扱った作品が多かったけど、その中でもダントツに背徳感がある。なぜに狐=のじゃロリなのか。監督は越田知明。監督を務めるのは続とうらぶに続き2作目。同氏が絵コンテを担当した「アニマエール!」7話がめっちゃ好きなので嬉しい。スーパー1000個さんタイム(以下SSST)を思いついたのは監督だろうか。SSSTは特に「視聴者を癒やし切るまで絶対に返さない」という強い意志を感じる。これ応援上映やってくれねえかなー。キンプリのような破壊力がある。
夜の駅前がめっちゃリアル。クレジットを読む限り背景は自前っぽい?「自宅などの狭い個室で話の90%を展開するコメディ作品ばっかり作ってる」でおなじみ動画工房がついに背景も描けるようになっちゃったのだろうか。
背景に限らず、全体的にリアリティが強め。職場のやり取りとか、終電の駅のホームとか、主人公によるセリフの多くが「ハァ…(疲労困憊)」みたいな感じとか。諏訪部順一の「くたびれたおっさんの演技」めっちゃ良いよね。自室も小林さん家と比べてリアル。そんな「一般的な社会人」として感情移入しやすく描かれた主人公の前に仙子さんが現れたもんだから、とてつもない幸福感に襲われる。多分、仙子さんは現代風にリブートされた幸福の化身なのだろう。家に帰ると「おかえり」と言われる/何も言わずともご飯を用意してもらえる/しかもおいしい/おかわりもある/「お風呂入りなさーい」「朝ごはん食べなさい!」と諭してくれる(ときに叱ってくれる)/見返りを一切求めない(メイドラゴンは「一緒にいたい」という見返りを得ている)etc。要は、かーちゃん或いはおばあちゃん。リアリティライン高めだからこそ強烈に刺さる。母親が一緒に居てくれた時間より隠れちゃってから経過した時間の方が長くなった身としては特に2話の耳かきがヤバい。つい母親を思い出して「それ以上パーソナルスペースに踏み込むな!人間に戻れなk・・・あんぎゃあああああああ!」ってなった。
縁あって「恋は光」という漫画を読みました。感受性の乏しい自分の心が大きく揺さぶられ、ぽつりぽつりと考え事をしたので日記に残したいと思います。彼らの交換日記のやり取りを見ていたら、連休の夜にしみじみとその日の考えを日記にしたためるのがとても魅力的に思えてしまったのです。
私は創作物の感情表現を読み取るのが好きではありません。多少の正解不正解はあるものの明確な真実はなく、その割に読み取った内容に優劣がつく、息の詰まる行為だと思います。ですから、創作物の好みは大味のエンタメ作品に寄りがちです。そういった作品では、無理に登場人物の気持ちを読み取らなくても、その作品を体験している間の自分の心の動きでもって、その作品を十分に楽しんだということに自信を持てる気がするのです。近年だと、「君の名は。」「グレイテスト・ショーマン」などが象徴的です。いずれも、登場人物の心の機微によって深い余韻を残すというよりは、圧倒的な映像と音楽で瞬間的な感動を作り出す類の創作物だったと思います。
「恋は光」は、恋愛に係る感情表現を主とするにも関わらず、その感情表現によって心揺さぶられたと確信が持てる、とても珍しい作品でした。自分にとって「恋は光」が特別な点は、感情表現の具体性と一意性にあると感じています。例えば、登場人物が悲しければ、どういった理由でどのように悲しいのか心の声でつぶさに語らせます。そこに独自の解釈を持ち込むことはおそらく難しいでしょう。作者が表現したい論理の構造が、一切の誤解なく、充分な情報量を伴って伝わるように漫画が作られていると感じます。これが「恋は光」の優れた点だとは思いません。論理構造が感情表現に昇華されていないといった否定的な見方もできる側面だと思います。ただ、私に適した感情表現の手法が取られていて、その手法を通して届けられた、自分にとっては珍しい豊富な情報量を伴った感情表現に心を揺さぶられたということです。
感情表現を読み取りたくない自分、という認知は時に苦痛を伴います。巡り巡って思慮の浅さや希薄な好奇心が白日のもとに曝露されるような思いを味わいます。頭を使って感情表現に向き合っている人たちの方が世間体は良いでしょうし、こちらは泣き寝入りするしかありません。創作物くらい好きなように楽しめばいいのでしょうが、感情表現に向き合っている人はその苦労に見合う喜びを確かに得ていて、羨ましいやら情けないやら、創作物を楽しむどころではないのです。しかし「恋は光」という作品は、ジメジメした乏しい感受性をものともせず、私に感情表現を楽しむ喜びを届けてくれました。そういう作品に出会えたことが嬉しく、「恋は光」は私にとって特別な作品なのだと思います。
Vtuberにじさんじが参入したあたりで飽きてみなくなったんだけど、なんか画面の情報量が少なすぎるのが原因だったと思う
このモデルこの範囲でしか動かないなってわかってしまうと、画面の隅に二次元キャラおかれてもノイズでしかない
リップシンクとかアイトラッキングとかしなくていいから、邪魔だから
薄く開いた瞼がピクピク痙攣するのとか耐えられん
のらきゃっと初期は一枚絵の横に「←うごかない」みたいに表示してたけど、あれならまだアイコンとしてわかる
はてなのアイコンが全部動くgifだったら鬱陶しいのと同じでチープな表情変化を見せられ続けるのはストレスでしかない
あとまあフォローしてた層が揃いも揃って同じゲームやるのに辟易したのもある
俺何回壺おじ見てるんだよ
本人が好きなゲーム継続的にやるのならいいが、新作ゲームの冒頭だけつまみ食いされても、反応が全部嘘くさく思えてしまう
このゲーム面白い~とか反応されても、じゃあ最後までやれよ、と
離れた後も企業が魂を大切にしてないっていうニュースが流れてくるにつけ、ああそうなんだろうなと思って楽しむ気が失せる
某チャンネルがいきなり名前変更して中の人も変わったこともあったが、最低限守るべきところは守ってほしい
チャンネル売るのは勝手ともいえるが、それ登録者を数字でしか見てないってことじゃん
中の人を大切にして、視聴者も素直に楽しめるようになってくれればいいと思う
元から見てた実況者(個人)が最近V化したのでそれは見てるが、Vである必要性はないなと思う
本人が楽しそうだからいいけども
自信を喪失した発達障害者には訓練が必要というのが当事者である私の持論だ。
発達障害者には仕事先に似た環境をバーチャルに構築して訓練させるべきである。
似た環境が用意できないならば、仕事内容だけでもできるだけ似せてほしい。
県によってはそのような訓練を受けられる場があるだろうが、事情で受けられない人間もいるだろう。
そこで現実に近い環境でログをとりながらバーチャルの訓練を繰り返し行えば発達障害者の立ち回りの癖などを把握・改善もできるはず。
ランキングがあれば自分がどの程度の仕事ぶりをできているかを把握しやすいかもしれない。
①素人がバーチャルに落とし込んだ訓練が仕事の役に立つ確証はあるのか、確証をとる人間はいるのか
②誰がそんな手間のかかるものを作るのか(モデル・アニメーション・プログラム・仕事のどの流れを移植するか考える人)
①バーチャルに落とし込んだ訓練に効果はあるのか、効果を確かめる人間はいるのか
https://www.4gamer.net/games/999/G999905/20170902003/
軍の訓練に応用する例もある
https://www.gizmodo.jp/2015/06/soldiers-on-virtual.html
素人が作ったら素人が検証するしかないです(個人の経験だと市販の対戦ゲームが仕事に役立ったことはある)
②誰がそのようなものを作るか(モデル・アニメーション・プログラム・仕事のどの流れを移植するか考える人)
私は作れませんでした。
マイクラやマリオメーカーくらいサクッと作れるようになればそれぞれの仕事先に最適化しやすそう
現実世界の要素を多く取り込むことで発達障害者の症状と向き合いながらプレイすることが大切なのだが課題が多い
フロアや柱のシミ・錆び、色とりどりの花とテレビ、人の雑談と怒号etc....
そこまでゲームに落とし込むことは現実的に難しいし、落とし込んだところで超高画質ゲームを遊べる人間がどれだけいるだろう?
断っておくが、私はほとんど毎日パソコンを使うし、比較的新しい物好きだ。
新製品・新機能はすぐにチェックするし、メモなど積極的にアナログからデジタルに変更している。
読書はもっぱらKindleで、すでに300冊を超えて所蔵している。
私は仕事で新しい知見や見落としていた知識などの整理のためにノートをつけている。
それをpdfに変換し、Dropboxにぶち込んで必要な時は全文検索で取り出せるようにしている。
間違いなく便利だ。ちょっとキーワードを入れただけでそれに関連する文献やメモが大量に出てくる。
あるとき自分の記憶している知識が極端に少なくなっていることに気づいた。
全ての知識は肌身離さないiPhoneからすぐ取り出せるのに、である。
その原因はデジタルの表示できる情報量の少なさに起因するのではないかと思うようになった。
アナログメモの時は暇な時にパラパラめくって、ああ、こんな知識あったなぁと思い出す事があって、
知らず知らずのうちに知識の復習をしていた。
デジタルに移行してからというもの、自分から検索しようとしないと、
デジタル化した本に関しても同じだ。
読んだ内容が全然頭に残らない。
アナログの本だと、パラパラめくって、時にまた読んでしまうことがあったが、
デジタルはそれがない。
同じ大きさの文庫本は二つに開いて、上手くやれば4ページ近く一度に見ることができる。
そう考えると表示できる情報量は同サイズのタブレットの倍以上だ。
さらにデジタルでは自分でその本が読みたいと決断し、探さなければいけない。
これに尽きる。
大学に入るまでは東北地方のド田舎に住んでた。周りに田んぼか畑しかないし、列車もディーゼルの汽車で終電は夜の8時に終わる。
大きな街に出るには車で一時間近く走らなければイオンもユニクロもない。
そんな街に18年間住んできたことによる弊害は「文化に触れる機会がなかったので、能動的に文化に触れることがない」ということ。
実家の街には映画館も、文化センター的な建物も、美術館も書店もレンタルビデオ店もない。
知識をインプットするということに大事な子供時代を虚無のような生活をしたせいかどうかもわからないけど、20を越しても映画を見たり、絵画を愛でることに全く興味がない。
結婚を考えている恋人がいるけど、どこか旅行に行ったり、お気に入りの画家の個展に行ったり、Amazonプライムで何回も何回もシンゴジを見ていたりする。
僕はそれを恋人と一緒に見たり行ったりするのが嫌というわけではないけれど、「前にもこれ見たじゃん」とか、「Amazonで買うので良くない?」みたいなことを言いかけてしまう。
これも文化の違いなのかなと思ったりもする。
恋人はそれなりに都会の街から同じ大学に来ている人だけど、文化の違いをまざまざと思い知らされた気がする。
たまたまそういう子と付き合っているだけかと思ったけれど、大学に入って付き合った3人の人の全てにそれが当てはまった。 (都会で育った&文化が合わない)
今都内に住んでいるけど、外を歩くという行為だけでも目に入ってくる情報量が全然違う、
昨日までなかったものが街角にいきなり出現してみたり、思いがけない細い道を見つけたり。
田舎じゃ一面クソ緑、歩いてもそこらへんにいるのは生きているか死んでるかわからないようなジジババ。
父親は長男で、高校卒業してからはずっと自分の町で働いているし、母親は隣町から嫁いできた。
現場はどんな感じなのか見たことないからわからないけど、手取り十数万そこそこで、時には暴力を振るわれながらも利用者や誇りや生活のために社会に貢献してる人に対して、この判決は酷い。なぜなら、これが国の政策だから。有権者が選んだ国会議員が決めた国家予算と運営方針に沿った法律によって定められた運営をしている特別養護老人ホームの現場の方がミスをして家族を亡くした方と親族や友人知人の実家で購読している新聞にそう書いてある。同じ法律の下に生活している全ての有権者に責任がある。にも関わらず、被告だけが有罪判決を受けてしまった。
植松受刑者は、心失者の人権を認めていない。一般的な人権の解釈とは隔たりがある。なぜ受刑者はその思想を得るに至ったのか。あるいは、どのような環境が思想を得るきっかけとなる経験を得やすいか。因果関係を明確にするのはとても難しいだろうと思う。
人の始まりはいつだろう。受精した時か、妊娠が分かった時か、身体機能が一定程度発達した時か、お腹を初めて蹴った時か。産声を上げた時か、母体から離れた時か、名前を決めた時か、名前が決まった時か、出生届が受理された時か。
人の終わりはいつだろう。誰からも愛されなくなった時か、死亡届が受理された時か。自分や家族のことがわからなくなった時か、身体機能が停止した時か。するべきことができなくなった時か、意識回復の見込みがなくなった時か。
この線引きが統一できないのは当然のことで、だからこそ、人としての始まりも終わりもない人の形をした心失者が出現する。つまり、重度障害者を人として認めない思想が出現した。思想を持つことと行動を起こすことが別系統の統制の話なのは明白なので、思想を持つことと行動を起こすことが別系統の統制の話だとは書く必要は無いが、大切なことなので二回書きました。線引きの幅に差があっても、五十歩百歩な考えを誰もが持ってる。生涯現役ぽっくり死にたい。家族に見守られながら穏やかに死にたい。家で終わりを迎えたい。ガソリン被って彼女の実家で焼け死にたい。誰からも愛されないからひっそりと迷惑かけずに死にたい。いろんな死生観があってもいい。自分の意思で決断するなら。
取るに足らないと自分が思ったことでも誰かの役に立つかもしれないからブログを書こう。
その結果が、「いかがでしたか」に代表される情報量ゼロのブログや、outdated な情報・誤り・デマを拡散するページばかりの残念なインターネットだ。
誤っていれば誰かが指摘してくれると当時のブロガーは言っていたが、誤りを指摘するのは誤りを投稿するよりもずっとコストがかかる。
考えなしに誤りが投稿されているのに、それを訂正するには正しい知識が必要で、それを誤りの数だけ行わなければならない。
誤りを簡単に投稿する奴らほど、誤りを指摘されると無視・逆ギレする。
誤りを指摘し続けるとあらゆる人に噛み付く狂犬みたいな人だと誤解されこともある。
孤独で報われない作業だ。残念なインターネットを見捨てた方が効率がいい。
このゴミの山から正しい情報を取り出すには正しい情報を知っていなければならない。
服を買いに行く服が必要、勝つためには強くなれみたいな話だ。