はてなキーワード: 地位とは
エッグの本が来ない。正座をしていても来ない。不在票も入らない。
「発送しました!」が、来たのが今日だ。そんなにすぐは届かない。大人だから騒がない。
東京ではゴリラのごとく雨が降り。ネットで見た街は洪水のようだった。
そんな日にも本を届けてくれる人たちがいるらしい。
そんな日に、本は届かなくても問題ないだろう。
宇宙のスケールからはマイナーPASSできるような小物たちだ。
星々の運行にはたぶん1ミリも影響しない。人類も特に宇宙に影響はしない。
宇宙からしてみれば、太陽・・・アー、あれね?知ってる知ってる!
せいぜいそんな感じだろう。無だ。我々は無なのだ。
宇宙がなんといおうと、おれはそうすると決めたのだ。
正直、おれは本を入手しても、せいぜい書影をネットにアップするみたいな、
本の内容をどうこう言える身分じゃない。
ただちょっと、たまにウケウリぐらいはさせてもらうかもしれない。
あいつには黙っておこう。
おれは暇すぎて考えている。
なぜ、エッグのようなやつは今までいなかったのだろう。
昔は監査の教科書といえば、重厚な異常点みたいなオブジェだった。
きっと大先生が書いたに違いない。そんなアトモスフィアをまとったやつだ。
かつておれを「ちょっと来たまえ」したような世代とは、どうも違う。
新たな年長者像とはそういうものなのかも知れない。
「最近の若者は」なんてことは、塀から落ちても言わなさそうだ。
思えば、おれがヤングだったころの大先生は、まさにアガリという雰囲気だった。
パソコンができなかろうが、会社のことが何一つ説明できなかろうが。アイツらはなんかエラかった。
彼らが何をなした結果そうなれたのか、それを詳しく聞くことができなかったのは残念だ。
カネボーとかと一緒に、そういったものはあっという間に過去のものとなってしまった。
エッグは次の世代だ。会計がビッグバンし、監査は脱魔術化された。
なんとか時代について行こうと必死だった、アイツならそんな風に言いそうだ。
そうなんだろか。
そのうち何割の者が、しがみつこうとしたら本当にしがみつけるレベルの人間だったのか、
おれは疑問に思う。
ともかく。
それがエッグのようなやつが生まれる土壌を作った要因のひとつなのではないかとおれは思う。
あと、考えられるのは、やはりインターネットだろう。
エッグはSNS越しにすら人柄のパワーでヘイトを遠ざける特殊能力をもったスゲエやつだ。
退職後、直ちにSNSの荒海に乗り出し、あっという間に確固たるポジションを気付いた。
その力をどうやって養ったのか、ヤツが死ぬまでに、いつか問い詰めてみたい。
小一時間ではすまない。
そもそも、リアルワールドで盤石な地位を気付いたアラ還枠に、ネットはさほど必要ではない。
そこに敢えて進出し、柔軟にカルチャーを学び(もともと親しんでいた可能性はあるが)、
だいたい仕事が忙しくなったりして、すぐにフェードアウトしてしまうもんである。
そこを、しつこくやり続ける、それがエッグだ。
おれも、結構な期間、noteを毎日更新したことがあるので知っている。
週3日であっても、書くことを続けるのは非常に難しい。
実践するのが極めて難しいこともまた、誰もが知っていることだ。
独立会計士なら、わかると思うが、仕事を「やらない」ことはとても難しい。
エッグほどの重鎮であれば、ひっきりなしに色んな誘いがあっただろう。
仮に、そういうのにホイホイ乗っかっていると、いまのエッグはない。
自らMVVフリークと言っているように。やること/やらないこと、をハッキリ決めているのだろう。
確かに、彼がミッションとしている、「若者のサポート」のためには、
ネットコミュニティにポジションを確保するのは、必要なことだ。
てらいなく正攻法ができるのは、王道を歩んできた者ならではの強みなのかも知れない。
そんな風にも思う。
とにかく、エッグは時代とテクノロジーと個人の資質がかけ合わさって生まれた、
他にも何か要因があるのかも知れないが、おれはそこまで頭が良くないのでわからない。
エッグが唯一無二とは言わない。空いているポジションは誰かが埋める。それも宇宙の法則だ。
しかし、そんな時代にも、主人公になれる可能性を持ったやつとそうでないやつは間違いなく存在する。
その秘訣はいったい何なのか。おれはそんな視点でエッグの本を読むつもりだ。
心底、待ち遠しい。
そんな時代に、業界のすみっこで生きられたことを、おれは嬉しく思う。
「お前は何も頑張ってない」みたいに人をdisるでしょ
でも最近は開示してったらめっちゃ地位ある教授だったりすることもあったり別の分野ではすごかったりするパターンもチラホラ出てきたから絶対関係ないよね
ちなみに俺が人の活躍とか努力をdisるのはどんなに小さくても勝ち続けるため
スポーツとか芸能は常勝が基本的にない分野だから俺はやらんけど安全圏からのdisとか結果論叩きつけるのは小さいけど勝ちは勝ちだし
午前2時頃に舟渡2丁目にいくとそこに住んでいる奴が全員寝ていてばっくれている、何が住んでいるか分からないという点について黒羽で長谷川がぶちきれており、長谷川の子供の
田辺かつきが、午前2時の舟渡2丁目とか様々な場所がばっくれていることについては同調するが、お前も同じようなものだし、少なくとも、俺がそこで放言している内容に同調していない
から、お前は俺の仲間ではない。エストッペルの原理とは、主張と矛盾する態度に出てはいけない、という民法第1条から導出される法原理だったと思うが、
禁反言の法理(きんはんげんのほうり、英語:estoppel、エストッペル)とは、一方の自己の言動(または表示)により他方がその事実を信用し、その事実を前提として行動
これはこのご時世、あんまり言っちゃいけない話な気がするけど、まともなやつは結婚する。子供も産む。
いまのインターネットの風潮だと、結婚しなくても幸せになれるし、金銭的にも制度的にも子育て世代に厳しい時代なので子供を生みたいとはあまり思えない、もしくは子供を幸せにできるかどうかわからないので生みたくない、という意見が多いが、そういうことを言っているのは性格的にちょっとズレているやつか、金のないやつ、社会的に地位のないやつ、家庭環境が悪いやつ、インターネットに毒されすぎたやつなど、とにかく何かしら問題があるやつだと思う。
自分自身もどちらかというとそちら側で、みんな今どき結婚も出産もしないものと思っていたが、数年前に上京し、エリートだらけの会社へ転職したときに結婚適齢期のほぼ全員が結婚出産してめちゃくちゃ驚いた。どいつもこいつも、ちょっと変わってるやつ気取りのやつも、全員結婚出産した。本当にびっくりした。
育ちが良く、きちんと物事を考える頭があるエリートたちは、将来を一緒に歩むパートナーを選び、選ばれる能力があるし、逆風の中でも子供を産むという選択肢を取れるし、育てられるのだ。
エリートしか結婚・出産ができないというわけではない。エリート以外もしている。ただ、まともなやつで結婚・出産をしていないやつはほとんどいない。不妊は除く。
結婚する必要がわからない、子供に厳しい時代すぎるなどの意見は、まともに見えてそうではないのかもと思う。時代や環境を言い訳にしている層を横目に、大きな問題を抱えてないエリートはほぼ全員結婚して出産しているから。
どう考えても差別化できない気がする。
バーモントカレーとジャワカレーくらいなら、好みの違いはあるだろうけど、ラックスとパンテーンの違いなんて、目隠しでどんだけわかるんだろうかと思う。
今でも売ってるIvoryというPGの石鹸は、今でこそ自然派みたいなイメージで売ってるが、当時は純度が低い茶色っぽい石鹸が多い中、高純度で象牙色、しかも個別包装で地位を築いたそうだ。
で、ラックスとパンテーンとTSUBAKIといち髪とエッセンシャルとアジエンスで違いなんかあるんだろうか。
香り。
泡切れ。
これも自分が思ってるよりよくすすいだろうがいいよ。泡がきれてもすすぎきれてるわけじゃないから泡切れは無視したほうがいい。
きしみ。
きしんで当然で、髪が濡れるってそういうことだぞ。キューティクルが逆立つんだから。シャンプーできしんでもコンディショナーやトリートメントするんだから気にするなよ。
と、妻に言うと怒られる。
え、これ正解だよね?
少なくとも正解の1つというか。
みんなから好かれてたら、どんなアホな発言したってそんな扱いにならないし、
とある高名な環境建築家(YouTubeに動画も上げている)が省エネ建築の経済的・社会福祉的合理性を説明するときに、「ちゃんと計算すれば小学生でもわかる(のに、相応の地位にいる人がいい加減なことを言うのはけしからん)」という言い回しを多用する。
いや、実際のところ、自分にとってそれは余りにも耳慣れたフレーズのため、特に気に留めるほどのものとも思っていなかったのだが、ある動画に「小学生だとか人を馬鹿にするような言い方はやめろ」とクレームがついていて驚いたのだ。
それなりに整った環境で理系教育を受けたものにならわかると思うが、「研究発表は『頭のいい小学生にならわかる』ようにせよ」というのは誰がいつ言い出したかもわからないくらいあまりにもそこら中で聞く言葉で、これを特に何かを見下したとか馬鹿にした言い方だと思う奴はいない。
何故ならば、ここで言う『頭のいい小学生』は『特に専門知識はないが理解力は深い人』を意味するのであり、具体的には『専門分野の違う他ゼミの教授陣』のことを指すからだ。
これが「人を馬鹿にした言い方」だと思う時点で驚き、非アカデミックなキャリアを詰んだ人々との文化の壁をまずは思わざるを得なかったが、よく考えるとこれこそがつまり『理系』という知性の特殊性と汎用性を表す側面なのだと思うに至った。
『小学生』と比較されると、普通の人は怒るらしい。何故か。小学生を劣った存在だと思っているからだ。
この人たちにとって『小学生』と呼ばれることは『頭が悪い』とか『未熟』とかを意味するのだろう。
しかし、理系の認識においてはそんな意味合いはほとんどないと言って良い。
理系は思考力の学問なので、「知識がなくてもわかる奴には説明すればわかる」「わからない奴、考えようとしない奴はどれだけ本を読んでもわからない」という認識が当たり前だからだ。
これらの競技が若いうちに才能を発揮できなければ辛いと言われるように、数学や物理の仕事も若いうちにできなければその後もあまり希望はない。
若さは可能性ではあってもなんら見下す要素ではないのが理系の世界だ。
さらに考えを深めてみよう。
将棋や囲碁は、ルールはシンプルだが組み合わせが複雑で、知識より思考力がいるものだというのは誰にでもわかる。
しかし数学や物理は難しい数式や抽象的な概念を覚えなければいけないから、小学生に難しい問題は理解できないはずだ。と、考える人も多いかも知れない。
だが実のところそれ自体、そんなことはないと証明されているのだ。
チューリングマシンという概念がある。イギリスの数学者アラン・チューリングの考えた計算モデルで、現在のコンピュータの元になっている。
さて、ではなぜチューリングマシンは「コンピュータの元」たりうるのか? 言い換えれば、「チューリングマシンには何ができることが保証されているのか」?
この答えが、まさに「理系の議論に『小学生にもわかる』説明を義務づけることができる理由」である。
チューリングマシンは、本来ただの計算機のアイデアではない。それは『数学自体の定義』である。
『計算とは何か』『計算できるとはどういうことか』この答えを探した結果チューリングが得たのが、『計算とはチューリングマシンで解ける問題のことである(意訳)』という、現代ではもはや計算の定義、数学の定義として認められている回答である。
計算とはチューリングマシンで解けるもののことなので、どのような数学的問題もコンピュータのプログラムとして書き、計算することができる。
コンピュータのプログラムとは、ifとgotoを伴った算数レベルの計算の連続のことなのだから、これはつまりどのような数学的問題も、深い思考力さえあれば『算数』レベルの説明に落としこんで理解できることを意味する。(方程式がなくても鶴亀算が解けるように。)
ここで必要なのは、純粋に算数程度の知識と、それを深く複雑に組み合わせる思考力だけである。
従って、理系の説明、数学的に表される定量的な議論というものは、説明者にきちんとした理解があれば必ず算数レベルの話に落とし込める。
最近は、ネットの声の大きいマナー講師たちによって「専門的なことを誰にでもわかるように説明することなんてできない」という言い訳を聞くことが多いが、少なくとも理系の問題において、定量的な議論をする限りは、『数学』は『算数』の複雑化、抽象化に過ぎないのであり、必ず噛み砕いて説明することは可能だ。
ただし、ここで聞き手に求められるのは、何をおいても『算数レベルでならしっかり理解できる知能』ということになる。
つまり『頭のいい小学生』には必ず理解させられても、算数すら苦手な『馬鹿な大人』に希望はないということである。
『小学生でもわかる』は、小学生を劣ったものと考えている言葉では決してない。しかし、それ故にこそ、小学生レベルの算数も覚束ない大多数の大人が、劣ってるどころではない論外の存在であることを突きつけてしまう厳しい言葉なのだ。使い方には気をつけなければいけない。と思った。
『以下の信頼できる出典を基に、奴隷制度に関する明確な定義と共通の特徴を説明します。
1. **国際連合人権高等弁務官事務所 (OHCHR)**:
- OHCHRは奴隷制を「人間が所有物として扱われ、売買され、強制的に労働させられる状況」と定義しています【UN Human Rights Office】。
- デイヴィッド・ブライオン・デイヴィスの「奴隷制の歴史」(The Problem of Slavery in Western Culture)などの研究は、奴隷の法的地位や自由の欠如について詳述しています。デイヴィスは、奴隷制が個人を財産として扱い、世代を超えてその地位が引き継がれることを強調しています【Davis, David Brion. The Problem of Slavery in Western Culture. Oxford University Press, 1966】。
- オーランド・パターソンの「自由の社会的死」(Slavery and Social Death)も、奴隷が法的に無権利であり、自由を奪われた存在であることを明確に述べています【Patterson, Orlando. Slavery and Social Death: A Comparative Study. Harvard University Press, 1982】。
3. **アメリカ合衆国国立奴隷制博物館 (National Museum of African American History and Culture)**:
- この博物館では、奴隷制を「強制的労働と個人の所有権による経済的搾取」として説明しており、奴隷の法的地位や自由の欠如について詳述しています【NMAAHC】。
これらの出典に基づき、奴隷制度には以下の共通の特徴があるといえます。
1. **法的地位**:
- 奴隷は法的に個人の所有物として扱われる。デイヴィスやパターソンの研究は、奴隷が売買され、所有者の命令に完全に従属する存在であることを強調しています【Davis, 1966】【Patterson, 1982】。
2. **自由の欠如**:
- 奴隷には自分の行動や生活の選択に関する自由がない。彼らは所有者の命令に従わなければならず、自分の意志で職業や住居を選ぶことができない【OHCHR】。
- 多くの奴隷制度では、奴隷の子孫も自動的に奴隷とされることが一般的であった【NMAAHC】。
4. **強制労働**:
- 奴隷は強制的に労働を強いられる。報酬はないか、あっても非常に少額である【OHCHR】。
- 古代ローマやギリシャ、アメリカ南部のプランテーション、イスラム帝国、アフリカの一部地域など、歴史的に多くの社会で奴隷制度が存在し、それぞれの地域や時代においても、上記のような共通の特徴が見られる【Davis, 1966】【Patterson, 1982】。
って詩を改変、引用してくるの大好きな奴いる
自分に関係ないからといってナチス放置してたら最後には誰も自分の味方してくる人はいなくなったって話なんだけど
しかもこの時代の牧師はエリート。今でいう子供の頃から成績優秀で医者になるみたいなルートで生きてる人
いつ声をあげようが常に誰も味方してくれない弱者の話ではなく
特権階級でかつのうのうと暮らしているわけじゃない弱者にそれいうのはお門違いで
専業主婦や高所得者ってむしろ自分には関係ないといろんなことに無関心で
味方がいなくなった牧師側なんじゃないですか?
というツッコミをしたくなる。
これは弥助問題の元ネタ論文でも何でもない可能性が高いので,論文をちゃんと読んでください。
っていうか,こういったテーマについては,藤田みどり『アフリカ「発見」――日本におけるアフリカ像の変遷』(岩波書店,2005年)っていう研究書がちゃんと出ているので,ネット上でかしましい皆様におかれてはまずはそういった文献もあたってみてください(ちなみに,この研究書のもとになった博士論文は国立国会図書館デジタルコレクションで読めます)。
注をよく見てみましょう。おや? 日本語の文献が引用されていませんね。日本語の文献を引用せずに日本史研究ができるんでしょうか? これは問題ではないのですか?
はい,問題ありません。なぜならこれは,タイトル「アジア人と黒人のあいだでの人種と人種観の利用――日系・アフリカ系アメリカ人の場合」からも分かるように,日本史の論文ではなくアフリカ系アメリカ人を主題にした論文だからです。
これはどう読んでも,アメリカの黒人の日本人観および日系人との関わりについてカリフォルニアを中心に調査した論文,つまりはアメリカ黒人の歴史に関する論文であって,ロックリー氏や岡氏がこれを読んでいないと断言することはできませんが(誰しも専門分野外の本や論文を読むことだってあるでしょう),わざわざこれを「元ネタ」にするなどということはとうていあり得そうもないことです。彼らがこの論文を参考にして立論しているのでは? などというのは,馬の心肺機能に関する研究が『ウマ娘 プリティーダービー』を参考にしているのでは? と言っているようなものです。ジャンル違いすぎるわ! あとドリームジャーニー引けなくて凹むわ! っていうか今回のLoHは千直だから荒れそうって言ったの誰だよ! ふつうに安定して英雄譚取れたから拍子抜けしたわ!
こういうときは注を見て,どんな文献に基づいてこの話をしてるのか? っていうのをチェックするんですよ。弥助が出てくる部分の出典は,第一にMichael Cooper, comp. They Came to Japan: An Anthology of European Reports on Japan, 1543-1640 (Berkeley: University of California Press, 1965)っていう本の66ページで,これはまあ当時のヨーロッパ人が日本について書いたものをまとめて英訳した,っていうやつですから,多分日本語でも同じコンセプトの本はあると思うのでそれを探せばいいでしょう。第二は,Gary P. Leupp, Images of Black People in Late Mediaeval and Early Modern Japan, 1543-1900, Japan Forum 7, no.1 (1995)っていう論文で,ペイウォールの向こうに行ければ読めます(https://doi.org/10.1080/09555809508721524)。要するに,著者のデイヴィド・ライス氏(カリフォルニア大学バークレー校所属)は日本語読めないので,英訳された史料や英語で書かれた論文を典拠にして,本題に入る前のマクラとして弥助についてちょろっと書いたということでしょう。
仮に彼が日本史の研究者なら日本語を読めないのは問題外ですが,論文の内容から察するにあくまでアメリカ黒人史の研究者なので,それならまあ日本語の論文読んでないのも仕方ないかなという感じ。なんだろう,アーサー王伝説そのものについて研究するなら,古い時代の英語とかウェールズ語とかの史料が読めないといけないけど,「日本人がどんなふうにアーサー王伝説を受容したか」という研究なら,『Fate/stay night』が読めれば十分で,アーサー王については日本語の本を参考にしてても構わないじゃないですか。この論文もそんな感じです。
なので,ふつうの日本中世史研究者が,この論文を典拠として用いることはまずないです。だって普通に考えて,こんなの典拠にならないっしょ? 中世ヨーロッパ史の研究者が論拠として『Fate』を参考にするなんてあり得ると思います? そりゃ絶対あり得ないとは言えないけど,そういう蓋然性が薄い推測をわざわざするならもっと直接的な証拠(本の中でこの論文を引用してるとか)を持ってきてもらわないと……
(もちろん,最近は中世ヨーロッパ史の研究者が日本におけるヨーロッパ表象の研究に手を出していたりするので,そういう研究で『Fate』を史料として用いるのは全然あり得るっていうかもうやってる人はいたはずなんですが。そのへんの研究動向は,たとえばhttps://doi.org/10.34382/00003197とかhttps://doi.org/10.34382/00003198とかの論文を読んでもろて……あ,話がズレた)
この論文,表象の研究としてはまあ手堅いので,弥助論争に巻き込まれて変な受け止められ方をするのは気の毒だと思いました。ただそれはそれとして,日系サイドの話もアフリカ系の新聞に基づいて書かれているきらいがあるので,論文のタイトルから「アジア人」「日系」を外して黒人についての論文だと明確化するか,あるいは日系人についてもちゃんと彼らの出してた新聞を読み込んで「日系から見たアフリカ系」を調査しないとダメなんじゃないかなぁ,とは思います。まあ,当時の日系人が出してた新聞って日本語で書かれたやつがいっぱいあるので,単純に読めないのかもしれませんが,だったらなおさら「これは2つのマイノリティについての話です(キリッ」と謳うんじゃなくて,「これはあくまで黒人史の話でっせ」という断りを入れた方がよいような。日系人の歴史は黒人史の添え物とちゃうねんで。
ちゃんと読むっていうのは,この論文のテーマは何で,どういう史料を使っていて,という,基本的なことを確かめながら読むことです。そうすれば,どれが話のマクラに過ぎず,どれが本題なのか,っていうのがわかって,「アメリカ黒人史の論文が日本中世史研究者の元ネタだったんだよ!」なんていうアホな主張をすることもなかったはずなので。
ってフィクションには夢があるけど…
侍をリスペクトしてんなら日本を舐めすぎ、織田信長を舐めすぎだろwww
派遣社員じゃねーんだぞw
お前らが夢見る「侍」ってのはなぁ、そんな安っぽい地位じゃないんだ。
でも、サンパウロのカーニバルで題材に選ばれたり、ブラジル大使館が侍だと言い切ったりするくらい、
駐日ブラジル大使館 - Embaixada do Brasil em Tóquio
ブラジルのカーニバルに日本が参戦! 2023年のサンパウロのカーニバルでサンバチーム「モシダデ・アレグレ」がチャンピオンに選ばれました。同チームは、日本初の黒人侍弥助の物語を語りながらパレードを行いました。モザンビークで生まれた弥助は1579年に日本に連れて来られ英雄となりました。
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O Japão no Carnaval do Brasil! A escola de samba Mocidade Alegre foi escolhida campeã do carnaval de São Paulo 2023. A Escola desfilou contando a história de Yasuke, o primeiro samurai negro do Japão. Nascido em Moçambique, Yasuke foi trazido ao Japão em 1579 e tornou-se um herói. Você conhecia essa história?
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Japan in Brazil's Carnival! Samba group Mocidade Alegre was chosen the champion of the 2023's carnival in São Paulo. The group presented the story of Yasuke, the first black samurai in Japan. Born in Mozambique, Yasuke was brought to Japan in 1579 and became a hero. Did you know this story?
真田広之の『SHOGUN 将軍』で、なぜ黒人が居ないのか?とボヤる程度、英語のコミュニティできゃっきゃやってる界隈がある程度には知名度あるようです。
なので、黒人侍の存在を史実として認めないと、人種差別者扱いされます。そもそも、それを積極肯定している日本の大学教授もいます。(そして、英語圏のメディアに引用されてる)
日本の学者や研究者を名乗る人がYASUKE肯定した結果、それを根拠にして、日本の人種差別主義者ガーとか英語コミュニティでコメントが付いてる一例 ↓
However, a recent, widely shared post from Japanese historian Yu Hirayama argues that Yasuke was indeed granted samurai status by Nobunaga. Hirayama cites Yasuke’s stipend, housing, and sword afforded him by Nobunaga, but acknowledges that Nobunaga’s enemies did not view Yasuke as a samurai.
(しかし、日本の歴史家である平山優氏による最近の広く共有された投稿では、弥助が実際に信長から侍の地位を与えられたと主張しています。平山氏は、信長が弥助に与えた俸禄、住居、そして刀を根拠として挙げていますが、信長の敵対者たちが弥助を侍とみなしていなかったことも認めています)
↓ 対するコメント
racist in Japan and racist in the rest of the world get to work hand-in-hand now
(日本のレイシストと世界のレイシストは、今、手を取り合って働く)
https://www.polygon.com/24204308/assassins-creed-shadows-yasuke-samurai-ubisoft-controversy
While there’s some question as to his exact role, Yasuke was a real person and, as a Japanese scholar has recently pointed out, there’s no doubt that he was a samurai, which is a social status that can encompass a variety of duties.
(弥助は実在の人物であり、日本のある学者が最近指摘したように、彼が武士であったことは間違いない。)
https://metro.co.uk/2024/07/23/ubisoft-apologies-assassins-creed-shadows-doesnt-say-21281545/
しかも、その影響範囲は大きく、ご先祖様が武器を持ったことがあればみんな武士(侍)の子孫だし、新しい武士(侍)の定義を知らなければ、日本人は人種差別者と誹りを受ける。
羽振りのいいヘッジファンドくらいの高給を払わず、やりたい人の情熱と能力と使命感と倫理観だけに全てお任せしてしまった日本国民の自業自得なんでしょうかね?
(ゆうて、現状もだいたいの日常の困難は消えるレベルの高給は払ってるんですけどね・・・)
なので、肌の色が濃いキャラクターや、顔立ちの異なるキャラクターが登場する現代劇やフィクションの時代劇はもっと増えてほしいです。
日本の学者や研究者を名乗る人がYASUKE肯定した結果、それを根拠にして、日本の人種差別主義者ガーとか英語コミュニティでコメント付いてる例
However, a recent, widely shared post from Japanese historian Yu Hirayama argues that Yasuke was indeed granted samurai status by Nobunaga. Hirayama cites Yasuke’s stipend, housing, and sword afforded him by Nobunaga, but acknowledges that Nobunaga’s enemies did not view Yasuke as a samurai.
(しかし、日本の歴史家である平山優氏による最近の広く共有された投稿では、弥助が実際に信長から侍の地位を与えられたと主張しています。平山氏は、信長が弥助に与えた俸禄、住居、そして刀を根拠として挙げていますが、信長の敵対者たちが弥助を侍とみなしていなかったことも認めています)
↓ 対するコメント
racist in Japan and racist in the rest of the world get to work hand-in-hand now
(日本のレイシストと世界のレイシストは、今、手を取り合って働く)
https://www.polygon.com/24204308/assassins-creed-shadows-yasuke-samurai-ubisoft-controversy
While there’s some question as to his exact role, Yasuke was a real person and, as a Japanese scholar has recently pointed out, there’s no doubt that he was a samurai, which is a social status that can encompass a variety of duties.
(弥助は実在の人物であり、日本のある学者が最近指摘したように、彼が武士であったことは間違いない。)
https://metro.co.uk/2024/07/23/ubisoft-apologies-assassins-creed-shadows-doesnt-say-21281545/
この炎上の根本原因は、アジア人蔑視、アジア人の透明化、そして日本文化の軽視だろ
実際のところ、『アフロサムライ』や『キンバリー』、Netflixの『弥助』、『Rise of the Ronin』のような時代劇ゲーで主人公を黒人にできるオプションなどは、
だから、この問題を『主人公が黒人であること』だと逆張りでミスリードするのはやめろ
つか、増田はいつもの逆張りでも、ガチで『サムライの中には黒人もいたはずだ』『白人によって歴史が消された』『もしかしたら日本にもいたかもしれない』と
信じてる人たちもいるわけ。それは長年にわたり、一部の人々の間で下記の言葉が信じられて来たからだ
For a Samurai to be brave, he must have a bit of black blood
この言葉や歴史観は、子ども向けのウェブサイトや書籍、教師向けの資料にも掲載されてたりする
これは、一部の人が司馬遼太郎の作品を事実として信じているのと似た現象なんだけど、アメリカの黒人公民権運動で利用されてきたっていう歴史がある
そのため、本心で下記みたいになる人もいる
Where Are The Black People in 'Shogun'?
このような人々のさらなる誤解をさらに深めるような無意味な逆張りはやめろ
anond:20240724130753 anond:20240724183209 anond:20240724193537 anond:20240724215021 anond:20240724215021
anond:20240724211603 anond:20240726211114
追記があったので。キミがnoteで逆張りをおやんなさいanond:20240726185220
元々侍と武士は同じ意味だったが、時代を経ると侍は高位の武士の意味になってる。
侍(さむらい、サムライ)は、古代から中世にかけての日本における官人の身分呼称、あるいはそこから発展的に生じた武士の別名である。
「侍」という言葉は元来は、朝廷の実務を担い有力貴族や諸大夫に仕える位階六位下程度の下級貴族(官人)を意味した
武芸を仕事内容とする技能官人である武士が発達すると、「侍」は武士を指すようになった。
さらに、武士階層の裾野は広がり貴族に連なる支配階層に加え、本来は百姓身分である地侍や徒士、卒、足軽なども武士に含まれるようになると、「侍」は武士の中でも比較的高い地位にある「騎馬戦闘の権利資格を有する階層以上の武士」を指すようになった。
足軽(あしがる)は、平安時代から江戸時代の日本に存在した歩兵の一種。
概念によっては、雑兵(雇い兵)と混同されることが多いが、足軽は正式に登録された下級武士であり、雑兵は戦いがあるたびに金銭で雇われる軍兵のことである。
弥助が侍かどうかの話があるが、そもそも侍の定義を明示してないと話が始まらない。
足軽だったとしても下級武士であり武士=侍の時代の定義に従えば足軽も侍と言うことも可能なので議論する上で当たり前だがそもそも言葉の定義についてはっきりさせておく必要がある。
いやUBI(アサクリ)はUBIで普通に問題なんで。そもそも、下記についてなにも説明もないよ?
なので、日本で販売しない or 日本語版出なかったら フツーに弥助問題は勝利条件クリアじゃない?テッテテレーー🎉
(もっとも元から日本でさほど売れてるタイトルじゃないので、日本以外で売れるならUBI赤字にはならないだろうけど)
ただ、アジア人蔑視それに付随する日本の歴史改竄は一朝一夕にはどうにもできないのでは?
(水俣病やコロナやJAXAの時のよう。いつもの日本の風景。これで子どもたちが学者に憧れるとかあるわけないでしょ)
日本の学者や研究者を名乗る人がYASUKE肯定した結果、それを根拠にして、日本の人種差別主義者ガーとか英語コミュニティでコメント付いてんね。当然だわな
一例
However, a recent, widely shared post from Japanese historian Yu Hirayama argues that Yasuke was indeed granted samurai status by Nobunaga. Hirayama cites Yasuke’s stipend, housing, and sword afforded him by Nobunaga, but acknowledges that Nobunaga’s enemies did not view Yasuke as a samurai.
(しかし、日本の歴史家である平山優氏による最近の広く共有された投稿では、弥助が実際に信長から侍の地位を与えられたと主張しています。平山氏は、信長が弥助に与えた俸禄、住居、そして刀を根拠として挙げていますが、信長の敵対者たちが弥助を侍とみなしていなかったことも認めています)
↓ 対するコメント
racist in Japan and racist in the rest of the world get to work hand-in-hand now
(日本のレイシストと世界のレイシストは、今、手を取り合って働く)
https://www.polygon.com/24204308/assassins-creed-shadows-yasuke-samurai-ubisoft-controversy
While there’s some question as to his exact role, Yasuke was a real person and, as a Japanese scholar has recently pointed out, there’s no doubt that he was a samurai, which is a social status that can encompass a variety of duties.
(弥助は実在の人物であり、日本のある学者が最近指摘したように、彼が武士であったことは間違いない。)
https://metro.co.uk/2024/07/23/ubisoft-apologies-assassins-creed-shadows-doesnt-say-21281545/
あと、基本的に英語圏・英語コメントでもUBI否定の反応が多いけど、アサクリ シャドウズ騒いでるのに関わりたくないから黙っているだけで、
実は買う気満々の欧米人それなりにいたりしそう
アジアにゆかりがある人をのぞいたら、アサクリ シャドウズ の関連問題に関心がない・気にしてないって人が多くても別に驚かないなぁ
一例として、フランスの某元ゲームマネージャーとか、『騒ぐ奴は人種差別主義者』だとか『日本人が黒人以外に置き換えられたら騒がない』とかやってるしな😑
https://x.com/gyojvfr/status/1815799450046194020?s=61
ゲームメディア以外でも取り上げられる機会がもっと増えたら、日本の歴史改竄に関する風向きは、お気持ち程度になら変わるかもね
でもまぁ基本的に歴史改竄は、アジア人蔑視と日本軽視が根本の問題だから、解決には長い長い時間が掛かる(同じアジアでも中国に対してなら、たぶんUBIはやらなかった)
anond:20240724041000 anond:20240723184517
二番目のポイント「欲張らない」ということについて少しお話いたしましょう。私たちは普通、欲で生きています。「自分を良くしたい」と思いながらも、結局は「ああなりたい、こうなりたい」「あれが欲しい、これが欲しい」と欲のことを考えているのです。服を持ちたくなる、家を持ちたくなる、お金を持ちたくなる、家族を持ちたくなる、地位や名誉、権力を持ちたくなります。人生を良くしよう、成功させようと思って、所有することを考えているのです。でも「何かを得よう」とすると、身体も心も固くなり、失敗しやすくなります。あまりにも欲が強いと、すべてパーになります。欲しいものが得られないだけでなく、今持っているものまでなくなるのです。
それから死が訪れたとき、得た物はすべて置いていかなければなりません。財産を置いて死ぬのです。一つも自分のものではないです。家族がいても家族を残したまま自分が死ぬのです。あるいは逆に、家族が自分を残して先に死んでしまうのです。「これは私のものだ」と思っていても、死ぬときは全部置いて行かなければなりません。ですから物を獲得することに頑張ることは無意味なのです。
しかし、死ぬときに持っていくもの、自分のものといえるものが一つだけあります。それは、性格です。死ぬとき、性格だけは置いていくことができません。ですから、生きているうちに清らかで良い性格をつくることが大切です。この世に置いていかなければならないものを必死に集めても意味がありません。持っていけるものを集めましょう。善行為、いわゆる功徳は、持っていくことができます。死ぬまでに何を獲得すべきかというと、功徳です。これは、自分といっしょなのです。
岸田と増田は、高校時代からの親友だった。几帳面で大人しい印象の岸田と、雄弁で人情味あふれる増田。
一見正反対の二人だが、互いの長所を認め合い、卒業後も親交を深めていった。
社会人となった二人は、同じ政治家の道を歩み始めた。岸田は着実に実績を積み、党内での地位を固めていった。
一方、増田は弱者の声に耳を傾け、熱心に支援活動を行っていた。
ある日、重要な法案の採決を前に、岸田は増田に協力を求めた。「この法案は経済を立て直すために必要なんだ」と岸田は主張した。
しかし増田は、「でも、この法案は弱者を切り捨てることになる」と反対の姿勢を示した。
岸田の目に、普段は見せない冷徹な光が宿った。「増田、君はいつも損ばかりしている。政治家として成功したいなら、時には冷静な判断も必要だ」
増田は苦悩した。弱者のために戦うべきか、それとも岸田の言う通り現実的な判断をすべきか。結局、増田は自分の信念を貫くことを選んだ。
法案は可決され、岸田の評価は上がった。一方、増田は党内で孤立を深めていった。それでも、彼は弱者の声に耳を傾け続けた。
年月が過ぎ、二人の立場は大きく変わった。岸田は首相の座に就き、増田は地方議員として細々と活動を続けていた。
再会した二人は、互いの人生を振り返った。岸田は権力を手に入れたが、孤独だった。増田は貧しくとも、多くの人々に愛されていた。