はてなキーワード: 現状認識とは
現時点では概ね同意だけど楽観的すぎるな、という印象もある。「狙ったシチュエーションのイラストを出しづらい」といった弱点は、まさに技術の進歩で克服可能なわけで。
また、ここまで呑気に構えていられるのは単に、ご自身の成果物を学習されてコピー乱造されたり改造されたりという経験をしていないからだろう。
現状の絵師界隈の阿鼻叫喚はアメリカの銃規制に似たものを感じる。「もう普及しちゃってんだから規制しようがないじゃん」というのは正しい現状認識に基づく指摘だが、
だからといって銃で撃たれた経験のある人が「銃を規制しろ!」と叫ぶのも当然というか。
「技術面の不理解によりトンチンカンな対策を取ろうとしていること」
赤旗だけやれるなんてのは幻想で(なんか知らんカタカナ語)の(なんか知らんカタカナ語)!
いや、赤旗が大事で政党がないと続けられないことなら、それこそ選挙で大敗したことをちゃんと振り返りしないとダメなんじゃないの?だって政党なくなったら赤旗できないんでしょ?
赤旗の購読数は劇的に増えたぞーってなんか大本営発表してたけど、政党がなくなったら何もできないのなら大事なのはむしろ購読数じゃなくてむしろ議席なんじゃないの???
ブコメの多くの人は赤旗くん頑張ったねと思ってるけど赤旗くんを無くさないようにしないと!とは思ってないと思うよ。比例は共産に入れたってコメントあったけど、国民アンケートの結果は議席に出てるよね?はてなブックマークでいくら星入っててもなんの成果にもならんよ。(ここは当該コメントの人をくさしてるのではないです)
赤旗だけやれば?ってのは、「やってくださいお願いします!」じゃなくて、「あんたら生き残りたいならそうすれば?」って話なのであって、議席がないと赤旗もできねーんだよ!って言うなら、いや知らんよなら選挙ちゃんと票取れる活動しろよ、としか思わんわけ。
そんで支援者かしらんけどよくわからんカタカナ語使ってブコメでニヒルに頭いい風でコメントされても、そもそも「あなた達より頭悪い」ブクマの言ってる本質すら捉えられてないんじゃ救えないなぁと。
今回で赤旗が必要不可欠だ!と思った人ってほんとごく少数だと思うよ。赤旗くん頑張ったね!って思ってくれた人すら貴重なんだと認識したら?と。支援者から現状認識ちゃんとしないとさ。支援者側から総括に対して総括出すくらいビシッとしなさいよ。
『議席なくして赤旗なし!議席を減らすとは何事か!言語道断、国家のために首脳陣は責任を取るべし!』
くらいは言ったらどうか。
日本の解雇規制については、そもそもの現状認識に論争が起きることが多い。
一方が「規制が厳しすぎる」と言えば、他方は「OECDの指標はそうではない」と反論するのがお決まりになっているが、これはどちらも正しくてどちらも間違っている。
日本の解雇規制の特徴は「厳しい」と「緩い」の二層構造になっていることである。
大企業や公務員では、コンプラがしっかりとしているところほど、厳しい解雇規制を遵守している。
一方で、コンプラ意識の低い中小企業や、非正規雇用においては、何の補償もない安易な解雇がまかり通っている。
だから、金銭解決の解雇を容認すれば、これは前者にとって規制緩和になる一方、後者にとっては規制強化になりうる。
(現状の判例から成り立っている漠然とした規制に対し、払った/払っていないは明確に判断できる話なので労働者としては訴えを起こしやすくなる。)
解雇規制緩和に反対する立場からよく引き合いに出されるOECDのEPL指標だが、内訳を見れば正規雇用に関連する要素は値が高い一方、非正規雇用が要因となって低い値となっている。
また、当のOECDもこの二層構造を問題視しており、社会保障を非正規雇用に拡大する一方、正規雇用への雇用保護を弱めるべきだと主張している。
まあ現状認識としては(確固たる根拠はないものの)遠からずだと思うんだ。
野球のピッチャーやゴルフ選手がなることがある「イップス」にも似ている。そこまでひどくはないものの。
抜け出すのは簡単ではないのかも知れない。
ただ気にしないようにする、肩の力抜く、だけで良い方に転がりだす可能性もあるし、そんなんじゃ効き目ない可能性もある。
深刻な脳の病気としてのいわゆる精神病とは違うだろうけど、メンクリに相談するのは逆にアリだと思う。例えばだけど安定剤の頓服持っとけばお守りになるだろう。
大原則として「困難は分割せよ」ということがある。別の表現では「スモールステップを設定せよ」
つまり一度にあれもこれもとか、一気に何かを成し遂げようではなく、緩めの目標を設定していこうということ。
テンパった時に深呼吸できたらその日は自分にハナマルあげましょう、みたいなしょーもないやつ。
「以前はあれもこれも完璧にできてたのに、どうにか100%に戻さなきゃ」とか思い詰めると結局「大き過ぎるステップ」を置くことになる。まあまあぼちぼちまで戻せれば生きていくには十分だろ、以前だってそこまで切れ者だったわけでなし…という“意識の低さ”が重要だろう。
あと困り気味の現状をわりとダダ漏れに周囲に(あるいは信頼できる人に)開示しておくのもいいのかも。精神的に鎧をしっかり着込んで身を固めるのは本来いいことのはずなんだけど、それが逆効果になる場合がある。
まあ調子に乗って素人のくせに知ったふうなことを述べてしまったが、自己責任で部分的に参考にするなり笑って読み捨てるなりして貰えれば。
いい方向に転がればいいですな
わいがしていること
いいかい、自分のセックスを第三者視点から見るということは難しい。
そこで自分のハメ撮りを見てみよう。
するとどうだろうか。
男優の皆様に比べて、圧倒的に下手くそな自分がそこにいるのだ。
そんな物事でも、上達するにはまずは現状認識をしっかりしなくてはならない。
セックスのときに、自分が発情マックスの状態で、客観視するのは難しい。
そこでハメ撮りだ。
現状をはっきりと認識することで、目指すべき目標との差を把握できるようになる。
さぁ、みんなもハメ撮りしよう。
女性がー! 女性がー! っていうけど女性だけじゃなくて男性の若者も地方から出ていってるっつーの。
長く続けると人間性も歪むしな。
だから若い人達には都会に出る様に勧める人間がほとんどなんよ。
「地方に若者を!」とか言ってるのは社長とか市長とか町長みたいな人を使う側の人間ばっかりなんだ。
使われる側の人間は年寄りだろうが若者だろうが、地元をクソだって思ってるよ。
でもなー中年以上の人間は都会に出るには歳食いすぎてるからな。
地元に残りたい! って言う子も頑張って説得して送りだすんだよ。
なけなしの金集めて餞別渡したりもするんだ。
ブクマカの皆さんは地方民は現状認識もできないバカの集まりくらいに思ってるんだろ?
んなわけないってーの。
現状をしっかり認識した上で諦めちゃったやつと、未だに諦めきれずに無駄なあがきを頑張ってる奴が居るだけなんだよ。
そりゃ長く住んでりゃ地元に愛着はあるんだけどさ、それに若い世代を付き合わせるのはダメでしょ。
それくらいは分かってるよ。
ムリです。
学生運動は暴力やデモを楽しむバカを動員することでなんとかあの勢いになりました。
そういう即効性の”楽しみ”がなくて勢いが出るかな?
現状認識については同感ですが
その根本的な改革の骨子ぐらいは決めておかないと著しく参加率は落ちるでしょうね
ふわふわしてきた
敵の設定が下手っすねえ
どういう政治家がカスでどういう政治家を推すべきなのかぐらいはあんたがまず言わないと
具体性がないっすねえ
明確に老人へのいきすぎた福祉を敵視して
あなたは改革改革と言いながら自分の具体的方向性はなんかないんですか。
「知ったこっちゃない」と言う態度はポルノ業界にもあまりいい結果は出ないんじゃないかなあ。少なくともポルノ業界と利益造反するフェミニスト業界と思われる人は、一応政府機関に食い込んでるわけよ。勝ち負けで言うと、どっちが有利かなあ。女性側の不利益だけで済むのかなあと思う。そもそも元記事の返信読むと「ポルノ業界が性犯罪に悪影響かは認められてはいない」「分かってない」って現状認識なら、そりゃ犯罪防ぐ確率の多い活動に金や予算は流れるよ。
調べる時間ないんで2例だけで申し訳ないけど、フェミニスト業界?の人は、エビデンスが弱くても、こうゆう人引っ張り出して今、現在の性犯罪という問題に対応できそうな人を引っ張るだけの政治力あるわけ。実は昔NPO団体のメンバーだったキャリアあるんだけど、この手の省庁絡む活動、税金絡むからもうバッチバチにアカデミアやら公共団体の職員やら動員して用意してくるのよ。
最初の法務省に資料提出した大学の先生、認証心理士としちゃ結構なキャリアよ。そりゃ発言力あるよ。
https://www.nhk.or.jp/minplus/0026/topic058.html
現場で犯罪被害の対策してるような団体だと「男性優位社会に過剰対応」って書いてあるのよ、完全に男尊女卑の構造がある!って感じで対策考えてる。
http://vsco.info/270725kouen5.html
「性犯罪 原因」でググったらこんなんばっか出てくるのよ?そりゃ政治力で負けてるポルノ業界不利じゃね?
政治力だけで物事が決まるのはまずい。その活動がエビデンスが弱い、問題があると思うなら、なぜ男性のポルノを守る活動に人や金、実際の活動につぎ込まないのなぜ?ておもう。フェミニスト業界の人はやってる。ちな女性団体って政治的なやつから草の根まで少なくとも戦後すぐぐらいから歴史あるから70年はやってて、今この結果とは言っておく。
今回の戦争、当初はあっという間にウクライナはロシアに占領されて終わり。
しかし、色々な現状認識の間違いがあったことでそういう風にはならなかったというだけだ。
こうして振り返ると、そもそもアメリカはウクライナがロシアの庭になってもそれはそれで仕方がないと考えていたということだ。
これは守りたくても手筋が存在していない・それをするとロシアと全面的に争うことになるからだった。
問題なのはその立ち位置が現在では変化しているのかどうか?ということだ。
これまでの経過を見るとそれほどには変わっていないと結果的に判断できる。
どうせ最後にはフルコミットしなければならない事態(=第三次世界大戦)になるのなら火種が小さい最初のうちにやっておいてほうが良かったよね。
というようなことは十分にあり得ることだ。
本人いわく刊行前に炎上し、刊行後も批判ばかりで正当な評価がされていないという、みの『にほんのうた:音曲と楽器と芸能にまつわる邦楽通史』。「議論のきっかけに」「集合知を歴史観につなげたい」と言いながら誰が何を言っても「村社会」「リンチ的」としか言わないのは正直どうなのかと思う。絡むのと晒し上げられてめんどくさいし下手をすると訴訟とか言い出しそうだから匿名で自分が気になったことを書いといてあげよう。
これは複数人から指摘されている「どこが地の文でどこが参考文献の主張なのかわからない」問題と同じだが、歴史の設定や「音曲」というワードなど、この本の全体をつらぬく視点と前半の記述に既視感しかない。上積みやひねりがあるのかと思ったら、ない。これには何も言いようがない。「数百冊」音楽書を読んだのなら、先行する言説をどう扱うかくらい身につくと思うのだが、それもまったくない。自分では十分に言及しているつもりなのだろうが、複数の人から複数回同じようなことを言われているということは文章として失敗しているということです。
どこの世界でも誰かになにかを教えてもらうときには礼儀も対価も発生する。「有識者の今後のご活躍を待つ状況です」じゃなくて、自分が聞き手になるなり、間違えていてもいいからたたき台を作るべき。だれも「ぼくはみなさんの成果物だけかすめとります!」と宣言されたらいい気分はしない。
リスナーには毎度コメント欄で褒めちぎられ、レコード会社にはSNS向けのちょうどいいインタビュアーとして使われ、DJイベントに呼んでくれる老人からは若いのに頑張ってると褒められていると妙な勘違いをしてしまうのはわかるが、もうすこし謙虚になったらどうなんだろう。わざわざ見に来ている自分のリスナーが知らないだけで、世の中の人の知識量を舐めないほうがいい。すでに知っている情報に人は興味を持たない。あなたより若くて物知りで頑張っているライターもミュージシャンもたくさんいる(YouTuberにいるかは知らない)。
この本を出して、参考文献にあげた人たちから一切言及されていないということが何を意味しているのかもう一度考えるべきでは。
揶揄しているようなコミュニティは残念なことに存在していない。そもそも儲かっていないから利権の取り合いもない(一部御用ライターのようなものもいるにはいるが、そういう賢い人はSNSをやっていない)。だからといってこれまでの批判を貧乏人からのやっかみや人気者への嫉妬のように感じているのだとしたら、性格が歪んでいるので直したほうがいい。硬直化した、一般の人を置き去りにした議論に風穴を開ける!という構図に魅力を感じるのはかまわないが、現状認識が幼稚すぎる。これは『土偶を読む』と似ている。しかしそもそも数百冊の音楽書を読んでいるのならこういう考えに至らないと思うのだが…
ついにしびれを切らして「定員20人時間2時間」という議論の場を設けたようだが(これに来ないのなら口を出すなというような姿勢も見えるが)、この設定では誰一人として十分に話ができない。議論やシンポジウムというものをしたことがない、見たことがないのだろうか。結局ファンミーティングになるのが目に見えているし、そりゃ誰も来ないでしょ。本当に議論したいなら自分から頼んで声をかけましょう。
結局のところ「日本すごい」が言いたい本なのだと思うが、そこに大半の人が乗れていないように見える。ジャンルが外国から規定されることへ嫌悪感があるのだとしたら、その意識自体が現在の音楽をとりまく状況や、あなた自身の偏った認識を示唆しているように思う。そこを客観的に見れないなら「歴史」を書くのは無理。筋が悪すぎて箸にも棒にもかからない。『日本国紀』じゃん。本人は枝葉末節を批判されていると勘違いしているようだが(枝葉末節にこだわってる人もいるが)、根本が厳しい本だと思う。だから批判するのにもコストがかかるし、結果的に無視をするようなかたちになっている、ということくらいはわかってほしい。
しかしもともと雑誌や本に書かれていた評価評論ランキングをそのまま垂れ流す動画を作っていて、どうしてこんな本を書いてみようと思ったのでしょう。なにかコンプレックスがあるようにも思えないし(あるの?)、出版社に焚きつけられたのだとしたらちょっとかわいそう。実際のところ、自分でもあんまりよくなかったんじゃないかと思い始めているでしょう?
がんばってとは思わないけれど、恥ずかしいことはしないほうがいいよ。もう少し本を読んでからがいいと思う。数百冊は読んだそうだからたぶんあと3冊くらい読めばいいんじゃないかな。
〈佐藤優現象〉を支えている護憲派の中心は、雑誌としては『世界』であり、学者では山口二郎と和田春樹である。この顔ぶれを見て、既視感を覚える人はいないだろうか。すなわち、「平和基本法」である。これは、山口や和田らが執筆し、共同提言として、『世界』一九九三年四月号に発表された。その後、二度の補足を経ている(56)。
私は、〈佐藤優現象〉はこの「平和基本法」からの流れの中で位置づけるべきだと考える。
同提言は、①「創憲論」の立場、②自衛隊の合憲化(57)、③日本の経済的地位に見合った国際貢献の必要性、④国連軍や国連の警察活動への日本軍の参加(58)、⑤「国際テロリストや武装難民」を「対処すべき脅威」として設定、⑥日米安保の「脱軍事化」、といった特徴を持つが、これが、民主党の「憲法提言」(二〇〇五年一〇月発表)における安全保障論と論理を同じくしていることは明白だろう。実際に、山口二郎は、二〇〇四年五月時点で、新聞記者の「いま改憲は必要なのか」との問いに対して、「十年ほど前から、護憲の立場からの改憲案を出すべきだと主張してきた。しかし、いまは小泉首相のもとで論理不在の憲法論議が横行している。具体的な憲法改正をやるべき時期ではないと思う」と答えている(59)。「創憲論」とは、やはり、改憲論だったのである。
同提言の二〇〇五年版では、「憲法九条の維持」が唱えられているが、これは、政権が「小泉首相のもと」にあるからだ、と解釈した方がいいだろう。「平和基本法」は、戦争をできる国、「普通の国」づくりのための改憲論である。同提言は軍縮を謳っているが、一九九三年版では、軍縮は「周辺諸国の軍縮過程と連動させつつ」行われるとされているのだから、北朝鮮や中国の軍事的脅威が強調される状況では、実現する見込みはないだろう(60)。また、「かつて侵略したアジアとの本当の和解」、二〇〇五年版では、周辺諸国への謝罪と過去清算への誠実な取組みの必要性が強調されているが、リベラルは過去清算は終わったと認識しているのであるから、これも実効性があるとは思えない。要するに、同提言には、論理内在的にみて、軍事大国化への本質的な歯止めがないのである。
佐藤が語る、愛国心の必要性(61)、国家による市民監視(62)、諜報機関の設置等は、「普通の国」にとっては不可欠なものである。佐藤の饒舌から、私たちは、「平和基本法」の論理がどこまで行き着くかを学ぶことができる。
馬場は、小泉純一郎首相(当時)の靖国参拝について、「今後PKOなどの国際的軍事・平和維持活動において殉死・殉職した日本人の慰霊をどう処理し追悼するか、といった冷戦後の平和に対する構想を踏まえた追悼のビジョンもそこからは得られない」と述べている(63)。逆に言えば、馬場は、今後生じる戦死者の「慰霊」追悼施設が必要だ、と言っているわけである。「普通の国」においては、靖国神社でないならば、そうした施設はもちろん、不可欠だろう。私は、〈佐藤優現象〉を通じて、このままではジャーナリズム内の護憲派は、国民投票を待たずして解体してしまう、と前に述べた。だが、むしろ、すでに解体は終わっているのであって、「〈佐藤優現象〉を通じて、残骸すら消えてしまう」と言うべきだったのかもしれない。
ここで、テロ特措法延長問題に触れておこう(64)。国連本部政務官の川端清隆は、小沢一郎民主党代表の、テロ特措法延長反対の発言について、「対米協調」一辺倒の日本外交を批判しつつ、「もし本当に対テロ戦争への参加を拒絶した場合、日本には国連活動への支援も含めて、不参加を補うだけの実績がない」、「ドイツが独自のイラク政策を採ることができたのは、アフガニスタンをはじめ、世界の各地で展開している国連PKOや多国籍軍に参加して、国際社会を納得させるだけの十分な実績を積んでいたからである。翻って日本の場合、多国籍軍は言うに及ばず、PKO参加もきわめて貧弱で、とても米国や国際社会の理解を得られるものとはいえない」と述べている(65)。
元国連職員の吉田康彦は「国連憲章の履行という点ではハンディキャップなしの「普通の国」になるべきだと確信している。(中略)安保理決議による集団安全保障としての武力行使には無条件で参加できるよう憲法の条文を明確化するのが望ましい」と述べている(66)。川端と吉田の主張をまとめれば、「対米協調一辺倒を避けるため、国連PKOや多国籍軍の軍事活動に積極的に参加して「国際貢献」を行わなければならない。そのためには改憲しなければならない」ということになろう。民主党路線と言ってもよい。今の護憲派ジャーナリズムに、この論理に反論できる可能性はない。「8」で指摘したように、対北朝鮮武力行使を容認してしまえば、改憲した方が整合性があるのと同じである。
なお、佐藤は、『世界』二〇〇七年五月号に掲載された論文「山川均の平和憲法擁護戦略」において、「現実の国際政治の中で、山川はソ連の侵略性を警戒するのであるから、統整的理念としては非武装中立を唱えるが、現実には西側の一員の日本を前提として、外交戦略を組み立てるのである。」「山川には統整的理念という、人間の努力によっては到底達成できない夢と、同時にいまこの場所にある社会生活を改善していくという面が並存している」と述べている。私は発刊当初この論文を一読して、「また佐藤が柄谷行人への点数稼ぎをやっている」として読み捨ててしまっていたが、この「9」で指摘した文脈で読むと意味合いが変わってくる。佐藤は、「平和憲法擁護」という建前と、本音が分裂している護憲派ジャーナリズムに対して、「君はそのままでいいんだよ」と優しく囁いてくれているのだ。護憲派ジャーナリズムにとって、これほど〈癒し〉を与えてくれる恋人もいるまい(67)。
10.おわりに
これまでの〈佐藤優現象〉の検討から、このままでは護憲派ジャーナリズムは、自民党主導の改憲案には一〇〇%対抗できないこと、民主党主導の改憲案には一二〇%対抗できないことが分かった。また、いずれの改憲案になるにしても、成立した「普通の国」においては、「7」で指摘したように、人種差別規制すらないまま「国益」を中心として「社会問題」が再編されることも分かった。佐藤は沖縄でのシンポジウムで、「北朝鮮やアルカイダの脅威」と戦いながら、理想を達成しようとする「現実的平和主義」を聴衆に勧めている(68)が、いずれの改憲案が実現するとしても、佐藤が想定する形の、侵略と植民地支配の反省も不十分な、「国益」を軸とした〈侵略ができる国〉が生まれることは間違いあるまい。「自分は国家主義者じゃないから、「国益」論なんかにとりこまれるはずがない」などとは言えない。先進国の「国民」として、高い生活水準や「安全」を享受することを当然とする感覚、それこそが「国益」論を支えている。その感覚は、そうした生存の状況を安定的に保障する国家―先進国主導の戦争に積極的に参加し、南北間格差の固定化を推進する国家―を必要とするからだ。その感覚は、経済的水準が劣る国の人々への人種主義、「先進国」としての自国を美化する歴史修正主義の温床である。
大雑把にまとめると、〈佐藤優現象〉とは、九〇年代以降、保守派の大国化路線に対抗して、日本の経済的地位に見合った政治大国化を志向する人々の主導の下、謝罪と補償は必要とした路線が、東アジア諸国の民衆の抗議を契機として一頓挫したことや、新自由主義の進行による社会統合の破綻といった状況に規定された、リベラル・左派の危機意識から生じている。九〇年代の東アジア諸国の民衆からの謝罪と補償を求める声に対して、他国の「利益のためではなく、日本の私たちが、進んで過ちを正しみずからに正義を回復する、即ち日本の利益のために」(69)(傍点ママ)歴史の清算を行おうとする姿勢は、リベラル内にも確かにあり、そしてその「日本の利益」とは、政治大国を前提とした「国益」ではなく、侵略戦争や植民地支配を可能にした社会のあり方を克服した上でつくられる、今とは別の「日本」を想定したものであったろう。私たちが目撃している〈佐藤優現象〉は、改憲後の国家体制に適合的な形で生き残ろうと浮き足立つリベラル・左派が、「人民戦線」の名の下、微かに残っているそうした道を志向する痕跡を消失もしくは変質させて清算する過程、いわば蛹の段階である。改憲後、蛹は蛾となる。
ただし、私は〈佐藤優現象〉を、リベラル・左派が意図的に計画したものと捉えているわけではない。むしろ、無自覚的、野合的に成立したものだと考えている。藤田省三は、翼賛体制を「集団転向の寄り合い」とし、戦略戦術的な全体統合ではなく、諸勢力のからみあい、もつれあいがそのまま大政翼賛会に発展したからこそ、デマゴギーそれ自体ではなく、近衛文麿のようなあらゆる政治的立場から期待されている人物が統合の象徴となったとし、「主体が不在であるところでは、時の状況に丁度ふさわしい人物が実態のまま象徴として働く」、「翼賛会成立史は、この象徴と人物の未分性という日本政治の特質をそれこそ象徴的に示している」と述べている(70)が、〈佐藤優現象〉という名の集団転向現象においては、近衛のかわりに佐藤が「象徴」としての機能を果たしている。この「象徴」の下で、惰性や商売で「護憲」を唱えているメディア、そのメディアに追従して原稿を書かせてもらおうとするジャーナリストや発言力を確保しようとする学者、無様な醜態を晒す本質的には落ち目の思想家やその取り巻き、「何かいいことはないか」として寄ってくる政治家や精神科医ら無内容な連中、運動に行き詰った市民運動家、マイノリティ集団などが、お互いに頷きあいながら、「たがいにからみあい、もつれあって」、集団転向は進行している。
ところで、佐藤は、「仮に日本国家と国民が正しくない道を歩んでいると筆者に見えるような事態が生じることがあっても、筆者は自分ひとりだけが「正しい」道を歩むという選択はしたくない。日本国家、同胞の日本人とともに同じ「正しくない」道を歩む中で、自分が「正しい」と考える事柄の実現を図りたい」と述べている(71)。佐藤は、リベラル・左派に対して、戦争に反対の立場であっても、戦争が起こってしまったからには、自国の国防、「国益」を前提にして行動せよと要求しているのだ。佐藤を賞賛するような人間は、いざ開戦となれば、反戦運動を行う人間を異端者扱いするのが目に見えている。
この佐藤の発言は、安倍晋三前首相の目指していた「美しい国」づくりのための見解とも一致する。私見によれば、安倍の『美しい国へ』(新潮新書、二〇〇六年七月)全二三二頁の本のキモは、イランでのアメリカ大使館人質事件(一九七九年)をめぐる以下の一節である。「(注・反カーター陣営の)演説会で、意外に思ったことがある。人質事件に触れると、どの候補者もかならず、「私は大統領とともにある」(I am behind the President.)というのだ。ほかのことではカーターをこきおろす候補者が、そこだけは口をそろえる。/もちろん、人質にされている大使館員たちの家族に配慮するという意図からだろうが、アメリカは一丸となって事件に対処しているのだ、という明確なメッセージを内外に発しようとするのである。国益がからむと、圧倒的な求心力がはたらくアメリカ。これこそがアメリカの強さなのだ。」(八七~八八頁)
文中の、「人質事件」を拉致問題に、「大統領」を安倍に、「アメリカ」を日本に置き換えてみよ。含意は明白であろう。安倍は辞任したとはいえ、総連弾圧をめぐる日本の言論状況や、〈佐藤優現象〉は、安倍の狙いが実現したことを物語っている。安倍政権は倒れる前、日朝国交正常化に向けて動きかけた(正確には米朝協議の進展で動かされたと言うべきだが)が、こうなるのは少なくとも今年春からは明らかだったにもかかわらず、リベラル・左派の大多数は、「日朝国交正常化」を公然と言い出せなかった。安倍政権が北朝鮮外交に敗北したのは明らかである。だが、日本のリベラル・左派は安倍政権ごときに敗北したのである。
〈佐藤優現象〉は、改憲後に成立する「普通の国」としての〈侵略ができる国〉に対して、リベラル・左派の大部分が違和感を持っていないことの表れである。侵略と植民地支配の過去清算(在日朝鮮人の人権の擁護も、そこには含まれる)の不十分なままに成立する「普通の国」は、普通の「普通の国」よりはるかに抑圧的・差別的・侵略的にならざるを得ない。〈佐藤優現象〉のもとで、対北朝鮮武力行使の言説や、在日朝鮮人弾圧の言説を容認することは、戦争国家体制に対する抵抗感を無くすことに帰結する。改憲に反対する立場の者がたたかうべきポイントは、改憲か護憲(反改憲)かではない。対北朝鮮武力行使を容認するか、「対テロ戦争」という枠組み(72)を容認するかどうかである。容認してしまえば、護憲(反改憲)派に勝ち目はない。過去清算も不十分なまま、札束ではたいて第三世界の諸国の票を米国のためにとりまとめ、国連の民主的改革にも一貫して反対してきた日本が、改憲し、常任理事国化・軍事大国化して、(国連主導ではあれ)米軍中心の武力行使を容易にすることは、東アジア、世界の平和にとって大きな災厄である(73)。
改憲と戦争国家体制を拒否したい人間は、明確に、対北朝鮮武力行使の是非、対テロ戦争の是非という争点を設定して絶対的に反対し、〈佐藤優現象〉及び同質の現象を煽るメディア・知識人等を徹底的に批判すべきである。
註
(1)岩波書店労働組合「壁新聞」二八一九号(二〇〇七年四月)。
(2)ブログ「猫を償うに猫をもってせよ」二〇〇七年五月一六日付。
(3)ただし、編集者は佐藤が右翼であることを百も承知の上で使っていることを付言しておく。〈騙されている〉わけではない。
(4)「佐藤優という罠」(『AERA』二〇〇七年四月二三日号)中のコメントより。
(5)インターネットサイト「フジサンケイ ビジネスアイ」でほぼ週一回連載中の〈 Permalink | 記事への反応(0) | 18:37