はてなキーワード: 末っ子とは
末っ子だよなぁ
高齢出産の末のこれだとすると、まあ、子供のせいとして処理するのもなんかかわいそうな気がするな。
普通の人にはできることでも、障害があるとできないことってあるからな。
かと言って、一人のミスが全体のミスみたいになるチームプレーの場だと、ほかのメンバー的には納得いかないものがあるだろうし、まあ難しいよね。
そういう時にやるのが障害がある子供でもやれるように仕組みを整備する合理的配慮ってところなんだろうけれど、配慮するだけのコストが割けないなら、撤退する所なんだろうな。
いずれにしても、子供はまあ自分で選んだわけではないから我関せずでいいと思うんだが、親父のその態度はどうなのかなと思った。
親は大人として責任を取らないといけないんじゃないのか?可能な限り家の仕組みを変え、そういう子でも動けるように作るところじゃないのかな。
女さんは弱いものや出来の悪いものを贔屓したがる奴が多いから一番未熟な末っ子が無条件に好きなんだろうな
例え話だけど特に努力しなくても頭も要領も良くて成績トップ取れる兄とめちゃくちゃ努力してるのに結果が伴わなくて成績悪い弟ならどっちを贔屓したくなる?って尋ねたらそいつらは弟って言うだろう
ママ友同士でランチ行ってその話になってついて行けなかったから。ついでに男児と女児どっちがカワイイ論争も分からない。
「私は順番性別は気にならないかな、やっぱり出来が良い子が一番可愛い」と言ったらその考え方は可哀想だし危ない、きょうだい同士の確執になるから気をつけなよと言われたがこれまた分からない。
むしろそれで僻んで不平を言ったり優秀なきょうだいに対して冷たく当たるようであれば「現に結果を出せていない人が出来ている人にキツく当たる権利は無いし、自分の不出来を棚に上げて相手を攻撃して貶める考え方が卑怯でみっともない」「それ程悔しいなら何故同じように努力して切磋琢磨するなり結果を出した人を見習うなりしないのか、それをしないで愚痴ばかり言い続けても実力差が広がるだけ」って方向性で指導するわ。
それより、産んだ順番や性別のように後からどうしようもない要素を基準にかわいがる序列が作られる考え方のほうが余程理不尽で可哀想だと思ったんだけど私そんなに間違った事言ってるかな。何で最後に産んだ子供が自動的に一番カワイイってなるの?そこで序列決まっちゃうなら普段子供の何見てるの?最後に産んだ子供の情報しか脳に印象残らないの?
結局自分は第三者なので、べつに広末氏がだれと不倫でも浮気でもするのは勝手にしていればいいと思っている。キャンドル氏がサレて憤るのも分かる気もする。鳥羽氏逃げ回ってて草、謝れる大人になれよ子供か?
確かに広末は人を魅了する才能がある、きっと異性(同性にもありうるが)に「この人は自分が守ってあげなければいけない」、と思わせる才能も持っている。その結果の男性遍歴だろうし、結婚歴だろう。これはもう開花してしまった才能なので、今更枯らすことも摘むこともおそらく難しいし、そうしたいというならば本人の努力次第。
でも結局一番つらく苦しい思いをしているのは子供だ。育児放棄はしていない、いい母親だった。とキャンドル氏は言っていたが、両親がいない間が少なくともあったはずで、その間はご長男が見ていたのだろうは想像に容易い。まあでもそんなこと実際の家族にしか分からないことなので、これは割愛。
例の会見の記事を見て思ったのは、末っ子長女はわけが分からなくて泣いている……これはしょうがないこと。長男次男が「大変だろうから母さんについていくよ」、と言ったのが気になった。一緒に様々な意見を見ていたので、経済的な理由で付いていくのでは、という憶測になるほどと思った。ATM。
父親も大変だろうにな……が第一だった。その次に湧いてきた憶測は、広末が息子たちを彼氏化しているのではないかということ。上記でも述べた通り「この人は自分が守ってあげなければいけない」という観念を、子供たちに植え付けてしまったのではないか。そうなると面倒くさい、すこぶるだるい。
ある親が保護者会に出た時、担任教師から「息子さんを彼氏と思わないでください」と言われた。というツイートをはるか昔に読んだのを思い出した(詳しくはパブサしてね)。
この先子供たちも恋愛を経験し、結婚もするだろう。でもそこに辿り着くまでに、パートナーになる人の前には「広末涼子」がそびえ立つ。しかも母親の面をした熟練彼女。どんなに付き合って一緒の時間を過ごしたとしても、広末の子供たちはパートナーよりも広末涼子を選ばれ、広末涼子と比較対照される。つらい。結婚出来ても「おふくろ」と書いてかのじょとるびがつく女が最優先になりうる可能性が高い。しんどい。
娘は分からん、母親に似るかもしれないし、母親を反面教師に出来るかもしれない。これも本人次第。
この先子供たちがいじめの対象にならないといいなと思う。親のやらかしは子供に降りかかるし、子供のやらかしは親に来る。不倫は文化なんて令和の時代に通用しないよ。
間違い電話の折り返しで母と話したとき,祖母が数か月前に亡くなっていたと教えられた.
祖父はかなり前に他界している.祖母は一人暮らしで痴呆症も進行し,介護施設に預けてから大分経っていた.
最期は呼吸が困難になり苦痛でのたうち回った.母は何度も病院に呼び出され最終的に看取りはしたが,火葬などの手続きは叔母に任せたそうだ.
年齢的には大往生と言ってよいのだろう.祖母には末っ子の一人っ子として幼少の頃は大分可愛がられた.
母から伝え聞いた話によると医者を志していた才女だったようだが,時代や親族がそれを許さなかったそうだ.
おぼろげながら思い出せる会話からも教養の片鱗は覗かせていた.
2DKの狭い実家にほぼ毎年帰省してはいたが,親子間の関係はかなり冷え切っていたように思える.
理由ははっきりしていて,母は幼いころ大叔父にレイプされたそうだ.
母は我慢強い性質ではあるものの,全てを隠しとおせるほど強靭ではない.
当時も周囲に告発したものの,祖母,つまり実の母には「お前が股を開いたんだろ」と言い捨てられたらしい.
そのときの母の絶望は想像に難くないが,当然ながらそのやり取りは姉弟にも知られ,親子関係は破滅した.
私はその経緯を学生の頃,母から涙ながらに電話で教わる.まさに青天の霹靂だった.
因果関係は不明だが,母は障碍者手帳を持つ程度には重度の双極性障害で,私は虐待を受けていた.
短気で仕事に没頭しがちだった父と母は相性が悪く,離婚していないことが不思議なくらい夫婦仲はよろしくない.
小学生の頃,母に連れられ不倫相手の家に泊まったこともある.当時はポケモンカードを買ってもらい口封じされる程度には単純だった.
いつしかその行為も終わったが当時専業主婦だった母は精神を病み,私を風呂場に閉じ込め,叩き,包丁でお気に入りの自転車のサドルをめった刺しにした.
私は逃げるように県外に進学した.小中高大院と全て国公立だったが塾に行かせ,学費も負担してくれる程度には父は稼いでいた.
勉強や研究は楽しかった.指導教員にも恵まれ,JASSOの奨学金も返済免除となる程度には業績も評価された.そこに件の電話が来た.
私は病んだ.祖母を憎悪し,母を憎み,父を恨んだ.祖母に無邪気に懐いていた自身も悍ましく思った.
ほどなくして不登校となり,カフェインのLD50を調べエスタロンモカをがぶ飲みした.ブルーシートを敷きドアノブを使って首を括ったが死ねなかった.
昨年秋に結婚式を挙げた。
半年ほど前から式場を見学してどこでやるか決め、色々準備もがんばって自分なりの良い式にできたと思う。
でも妹の出席は無かった。
いまだに気持ちの整理がつかないので吐き出すつもりで書く。
結婚式の日取りを考える時に最初に大体の時期を家族に伝え、出席できるか連絡した。
「半年後くらいに式をやるつもりだけど来れそう?既に予定がある日があったら教えて欲しい」みたいな感じで。
妹からの返事は「来月転職と引っ越しがあるからわかんない」だった。
正直言って結構混乱した。
転職と引越し同時は確かに大変だろうけど、3〜4ヶ月後に式は普通に出られないか…?
その日は引越し当日だから無理!みたいな話なら全然わかるけど、まだ具体的な日取りも伝えてないのに行けるかわかんないってそれはちょっとひどくないか?
というか身内の式って普通よっぽど険悪じゃない限り出席するもんじゃないか?
まぁ大して話すわけでもないしそんな仲良くないとは思ってたけど、もしかしてめちゃくちゃ嫌われてるのか?
これくらいの疑問が駆け巡った。
こっちはおまえの式のためにわざわざ予定空けるつもりねーから!くらいの意味に取った(今思うとこれはちょっとナーバスすぎたと思う)
「こっちもそのうち結婚するつもりで、相手の地元に引っ越すんだ」とのこと…。
えっ…!?あっそうなんだ…知らんかった…。
じゃあこっちから結婚おめでとうとか言ったほうが良いか…いや私の式の話って終わったの!?
確か前に家族に紹介してきた人とは別れたって聞いたし結婚相手は私が知らない人だよな…誰だよ…。
ていうか結婚するから転職&相手の地元に引越しって大丈夫かよ…なんかトラブルあった時生活基盤ごと移してたら絶対大変だろ…。
ここから式の日取りについて突っ込んで相談することは気が引けて、かといって妹の結婚を祝うメッセージを送る気にもなれず返信せず放置した。
その間に「妹が式に参加しないかも」という件を結婚相手にも相談した。
仲良くないとしても冠婚葬祭くらいは普通に出席してくれても良いんじゃないの、そんな対応されるのは正直びっくりと言われた。
私もそう思う。
で、2週間程度忙殺されている間に妹の方から連絡が来た。長文メールで。
要約すると
・こちらの結婚報告に祝う言葉もよこさないのは何のつもりなのか? 軽んじているにも程がある。失礼すぎて信じられない。ふざけんな
・式の予定は一応空けておくが、もし残業や休日出勤があればそちらを優先するからそのつもりで
このメールを見て「いや軽んじているにも程があるのはどっちだよ!」となった。
「結婚式の出席は行けるかもわかんないしあとから仕事の予定入ったらそっちを優先するけど結婚祝いメッセージは迅速に送れよ」って本気で言ってんのか!!?
なんかもう付き合えねーわと思った。
来たくもない結婚式にこっちが頭下げて出てもらったとして何の意味があるのか。
そんな扱いされても私はあちらの結婚を尊重して祝わないといけないのか。
そんなに存在が不愉快ならもう関わらないほうがお互いのためだろ…。
で、最終的に「結婚おめでとう。正直今回のやり取りでこちらも相当腹に据えかねてるから式にはわざわざ来てもらわなくて構わない。そちらが式を挙げる場合も呼ばないでくれ。どうしても必要なら時以外は関わらないほうがお互いストレスじゃなくて良いと思う。返信不要」と言う意味のメッセージを返し、以降一切やりとりはない(こちらから着信拒否したしLINEもブロックした)
正直せいせいした。
前からわがままで末っ子気質で家族でなければ近寄りたくないタイプだった。
(向こうもこっちを陰キャの堅物で気に食わないと思ってたろう)
でももっと良いやり方はあったのかなと思わなくもない。
ボクシングで井岡チャンピオンが指名挑戦者の中谷選手との試合を避けてベルトを返上したのね。
中谷選手ってネクストモンスター筆頭って言われてるクソ強い選手ね。
で、その時にボクシングファンは井岡元チャンピオンを中谷選手から逃げた!ってめっちゃ叩いたの。
亀田三兄弟の末っ子の亀田和毅ってスーパーバンタム級のWBAの王座挑戦権を2021年に獲得してるのね。
今のWBAのチャンピオンはムロジョン・アフマダリエフなんだけど、彼のプロモーターは
「井上尚弥がフルトンを倒して2団体統一王者になったら、年内にアフマダリエフと4団体統一戦をさせる」
と発言して、亀田は「挑戦権はこっちにあるんだから順番は守れや!」って言ったのね。
でもそれに対してボクシングファンは「亀田の試合なんか興味ねーんだよ。井上の最速4団体統一を邪魔すんじゃねーよ」って叩いたのさ。
いやさ、中谷の指名挑戦権の行使を拒否した井岡に対しては逃げたのは卑怯って叩きまくっといて、亀田の挑戦権の行使をアフマダリエフ側が拒否したら亀田邪魔すんなっていうのはさすがに違うだろ。せめてアフマダリエフは逃げた!卑怯だ!って言っとけよ。
亀田って名前が出てくるだけで発狂しちゃうのは俺もわかるけど、それでも今の亀田の順番を守れって主張は正しいよ。そういうところちゃんとするのがボクシングの素晴らしいところじゃんか。なんなら人気がある選手、金になる興行ばっかり優先されるのは違うだろ!って叩いてるのもボクシングファンだしさ。
彼の名は、ジョン・ハミルトン。彼はアメリカの西海岸の小さな町で生まれ育ちました。彼の家族は中流階級の家庭で、3人兄弟の末っ子でした。父親は自営業者で、母親は専業主婦でした。
ジョンは学校で優秀な成績を収め高校を卒業した後、地元の大学に進学しました。大学で彼は経済学とビジネスの勉強をしました。卒業後、彼はいくつかの大手企業で働きましたが、自分自身のビジネスを持ちたいという夢を追い求めていました。
ある日、彼はコストコで大量の商品を購入したことからビジネスアイデアを思いつきました。彼は、商品をそのまま販売するのではなく、希望する人たちでシェアする事業を始めました。コストコで購入した商品を適切な分量に分け、顧客に提供することで、顧客が必要な量を手軽に入手できるようにしました。
最初は小さな規模で始めたこのビジネスは、地元の人々から好評を博し、すぐに成長しました。ジョンは事業を拡大するために地元のコミュニティセンターに商品を提供することから始め、徐々にその範囲を広げていきました。彼のビジネスアイデアは、人々の需要と好奇心を刺激し、口コミによって急速に広がっていきました。
ジョンは、ビジネスが成功することで自分自身や彼の家族を経済的に支援することができ、地域社会のためにも役立つことを実感しました。彼は、自分自身の夢を追い求めることができたことを誇りに思い、多くの人々に役立つことができたことを誇りに思っています。
19歳 浪人
21歳 勉強
22歳 勉強
26歳 修了
27歳 不合格
我が家は金持ちではなかった。家は小さな戸建てでしかも借家。父は中小企業のサラリーマンで母は専業主婦。なぜ上記のような甘えた生活が可能かというと俺が一人っ子だから。
俺は同じ地区に住む同い年の幼馴染が小さい頃から好きだった。彼女の祖父や父は医師で、大きな自宅に住んでいた。4姉妹の末っ子の彼女はとても優しく、純粋で可愛かった。小さい頃は格差など気にせず遊んでいた。彼女の両親は優しかったが、彼女の祖父母は俺を見下して蔑んでいた。だから勉強して偉くなりたかった。別に勉強して偉くなった所で幼馴染と付き合える保障など何も無いし、そもそも男としてすら見られていなかっただろうが。それでも某都立校に受かった時や、一浪で東大落ちだが早稲田に進んだ時彼女は自分のことのように喜んでくれたし褒めてくれた。それがとても嬉しかった。しかし、認められたい一心で不相応な目標を立てたが故に一度きりの人生を破壊してしまった。
ちなみに彼女は幼稚園から大学までエスカレーターで女子大を卒業した後に、父の医療法人に職員として入り、昨年医師の男性と結婚した。つまり俺がこれからどのように努力しようが、幼馴染と何かが発展する可能性はない。
正直受かったところで自分の現状だと法曹職は無理だろう。つまり仕事を探さなければならない。受からなければ勿論仕事が必要になる。
絶対にやりたくない仕事は嫌な順に介護、製造、土木、物流、営業。しかし、ここから探すことになるだろう。つまり父親よりも低賃金な人生となる。また、ジャック(レオナルド・ディカプリオ)のようなイケメンコミュ強なら底辺でもローズ(ケイト・ウィンスレット)のような上流の女性を射止められるが、自分はイケメンでもなければコミュ力もないので上記の職に就いた瞬間に生涯独身が決定する。
人生100年といわれる時代(上記の職に就けば100年生きるなど不可能だが)に生きていながら、20代で人生が終了した。人生は10代後半から20代前半までの「10年かけたスタートダッシュ」で結果が決まる短距離走である。
刑訴の証拠法に関する論文問題を解き、インスタントラーメンを食べながらこれを書いた。最後まで読んでくれる人がもしいたなら、敗残者の長い長いつまらない駄文に付き合ってくれてありがとうと言いたい。
以下のくだりが、とても印象的だった。
その時にわたしの出身地の名産が好きで、通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね、とさりげなく話題をそらしてくれた年配の男性がいた。
その人が後から「あの人、悪い人じゃないんだけどごめんね、自分も神戸出身でさ」と言われた。
恥ずかしい話、「神戸出身だから」と言われて私は何も分からなかった。
私は自分が地震と津波の被災者で、東北で育った私たちが一番の被災者で、今後数十年はわたしたちが一番のかわいそうな立場だという感覚を持っていた。
「なぜ急に神戸?」とポカンとして「はぁそうなんですか…」と雑に返した気がする。
その後、関東に戻ってしばらくしてから、何がきっかけか覚えていないがオウム真理教の話になったとき、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
ひとの災害経験というのは、ほんと様々で、一概にかわいそうな被害者としてのっぺらぼうな面をみるわけにはいかないよね。
自分だけが被害者面していたかも、という気づき。こういうちょっとワンクッションおいて、時間が経って考えること、こういうのが大切なんだと思う。
ただ、被害者という言葉で共通項を見出したとしても、阪神淡路大震災を経験したひとと、東日本大震災を経験した増田がこうして、何かのきっかけでお互いの体験の共通部分に触れようとしたときでさえ、お互いが経験したものの奥行や背景は全く違う。でもそれは、もっと言葉を交わさなければみえてこないもの。
多分、増田は上記の言葉を交わしたとき、その手前でふと立ち止まって考えたんだと思う。
ひるがえって自分の親戚の話。自分語りをトラバに混ぜるのはなんだかな、と思うところもあるが、テーマの性質上書かせてもらう。津波から数日後、東北のもっとも大きな漁港のひとつで、親戚が経営していた漁業関連会社と生産工場が全滅したとの一報を受けた。一方、杜の都に住む息子娘世代は全員無事だったという朗報にほっとしたことを思い出す。
しかし、それよりも震災から半年くらい経って、父が一言つぶやいた言葉のほうが忘れられなかった。
他界した親戚一家は、さかのぼると、昭和8年の津波の前から漁港で生計を営んでいた。1933年の津波で多くの財産を失った親戚は一から再建する際に、同じ場所でやり直すのはやめるべきだと再三にわたって、周囲から助言されていたという。しかし、結局、同じ場所で人生をやり直し、次世代が引き継ぎ、そして次第に事業規模が大きくなり、津波の記憶が遠ざかっていくなかで、そのまた次世代の方々が財を成し、地元の名士として羽振りよく、親族のなかで存在感を持つに至る。そんななかで、半世紀以上前、東京に出て行った東北の令嬢が結婚前の父と出会う。
大切な令嬢(大地主の長女)をどこの馬の骨ともわからないよその県の小作人の末っ子風情に嫁がせるわけにはいかない、という大反対の嵐。本家筋からなにから親戚中の冷たい目線。結局、結婚は許されて、父は母の家系に婿として入ることになるのだが、その時に受けた屈辱を忘れられないらしく、東日本大震災で全滅した親戚に対して、天罰、という言葉で自身のつらみを含ませて表現したのだった。
父にとっては、かわいそうだね、では決して片づけられない感情。
個人的には、なにより、貧しい者も栄華を誇った者も等しくなぎ倒した大津波の、客観的な、物理的な力に圧倒せざるを得なかった。
たとえ、誰と震災の経験の話をするとしても、このようなパーソナルヒストリーの違いによる温度差は避けることができない。そう思っている。
震災を経験していようがいまいが、あるいは同じく焼け出された隣人でも同じではない。大地震大津波の破壊力を前には、あの家は無事だった、無事でなかった、そういうさまざまな経験がそれぞれにあるにすぎない。
こうしたファミリーヒストリーな視点でそれぞれの思いがある一方で、
上司が「あの年は神戸で大震災もあって、オウムの事件もあって日本は終わりだと思った」と言ってて
やっと気づいた。
という上司の言葉。そして、「やっと気づいた」という言葉。このつながり方は、大変興味深い。「あの年は~」というのは個々の経験の違いを超えた、歴史を振り返った俯瞰的な総括を含んでいるからだ。1995年という時代、そういったマクロな視点での気づきをもたらすのも災害だ。
そして、それが何かの理由で、自分自身のファミリーヒストリーや神戸出身者とのちょっとした会話と結びついたのだとすれば、それは自分のある意味「かわいそうな」私的な思いを、歴史の一コマのなかに着地させようとする、そういう覚醒だったのかもしれない。
実をいうと、よりマクロな視点で、それぞれの災害にはそれぞれの社会的な背景があり、その脆弱性が被害を増幅させている、という視点を最初に提起したのは、阪神淡路大震災だった。
1990年代以前は、災害被害者というのは、災害管理の文脈で救援対象として、比較的ステレオタイプに捉えられていた。しかし、その認識を大きく変え、都市の社会構造の脆弱性に関心が高まったきっかけが1995年の震災だった。こう書くとなにやら上から目線風だけど、阪神淡路大震災が自分が仕事として防災の世界に入るきっかけを作った。
神戸の都市としての成り立ちは、明治の初め、神戸港が開港された時から始まる。以降、港湾労働者が多く流入、低所得層が脆弱な埋め立て地や条件の悪い内陸部へ集住するようになる。他方で、20世紀の鉄道の時代に入ると、阪神間の交通網が充実し、六甲山ろくに高級住宅地が開発されるようになる。高度経済成長期には六甲の開発で切り崩した丘陵地に住宅地を建設、その残土で海岸が埋め立てられ、工場用地や港湾建設が進められていく。おりしも公害問題が深刻化した時代、都市の生活環境はますます深刻化していった。そんななか、オイルショックを契機に産業構造の転換という時代の変わり目を迎え、神戸の産業のシンボルであった造船、鉄鋼は停滞してゆく。それは関連する神戸の零細地場産業を苦境に陥らせ、今度は人口流出が起こり都市部の空洞化が始まった。都市部に残っているのは、流動性の低い層つまり高齢者、低所得者ばかりとなった(インナーシティの形成)。
これに対して1980年代、神戸市の政策的な対応としては、財政問題の打開が先行した。バブル前の当時の考え方では、大規模開発こそが地域経済の再生をもたらすと信じられていた。埋立地の利用による、ポートラインラド、六甲アイランド建設、物流機能強化のための明石大橋建設、最先端技術産業の誘致、ニュータウン建設など、新たな付加価値の創出が事態打開の切り札だった。
その一方、社会の脆弱層への支援、行政による市街地の再生は後手に回っていた。
オイルショック後の産業構造の転換で取り残された低賃金労働者の町、老朽化の進んだ木造住宅密集地域、長屋建ての住宅の占める割合の多い市街地(長田区のスラムのようなオールドタウン)は新陳代謝が進められなかった。地震対策の上でも洪水対策の面でも取り残された街となった。どのような地域であったかは番町地区で検索をしてほしい。
このような経済格差や脆弱性が生み出された、マクロな構造変動のなかで襲ったのが1995年の大地震であり、被害が社会経済的に脆弱な人々に集中した。暴力団員が懸命に救助活動していたエピソードを覚えている人もいるだろう。そういう街だった。
社会学的な視点でみれば、この地震の教訓として、被害が高齢者、低所得者に集中したのは、ある意味、歴史的必然だ。格差が生み出された背景などのマクロな政治的・経済的な動向と切り離せないということだ。
そして、このような格差や脆弱性という切り口でみる構造分析は先月発生したトルコとシリアの大地震でも、当てはめることができる。
このように、可哀そうな存在というのを社会学的に脆弱性として構造的にとらえる、ひとつのきっかけは、やはり他の災害を知るということであるし、昔の災害を知るということだと思う。
パーソナルヒストリーとしてお互いに触れあうことで、お互いに違うバックグラウンドにあることがうすうすわかってくる、それもまた、大切な気づきなのだと思う。
また、パーソナルなコミュニケーションが、例えばまさに「通販でたまに買って食べてるんだけど美味しいよね」みたいな会話、これが実はマクロな特性を知るうえでも、その人のパーソナルヒストリーをしるうえでに、もっとも重要なエントリーポイントだったりする。仕事上、ひとから話を聞くときにいつも気に留めていることでもある。
だから、トルコとシリアで現在進行形の震災について全体状況を大きな視点理解している国際機関よりも、よりミクロな視点で、特定の家族や地域の人たちにコンタクトがとれる小規模のNGOや支援団体に私自身は微力ながら支援金を送付している。たまたまシリア難民支援をしている人と知り合いの知り合いくらいの関係でSNSでつながっていたのがきっかけだ。アサド政権が物資を止めてしまう現状も現地の声としてより関心を持つようになった。そのほうが確実に、受け取った人の顔がみえ、困っている状況がミクロにもマクロにもわかってくる。自分が支援したお金が支援先の一家族あたりの支援額(しかも第一バッチ)の1/4にも満たないことを知る。こういうことも大切だと思う。
そのように、何かをきっかけに、他の災害に対して接点を持つ機会を大切にしたい。
というのは、居酒屋のトイレの洗面所とかで何気なくかわす会話、とか想像していたのだけど、そういうのが大切だよね。そういうのが心の残って覚えている、ということがさ。もちろん完全にひとのことを理解するなんてことはどんなに会話を交わしてもない。でも覚えてさえいれば、そのなぜか覚えていた思いを何かにつなげることができる。その「きっかけ」というのはとても大切に思う。
災害を忘れない、というのはそういうことだと思うので。