はてなキーワード: 反動とは
この系統の話題を見るといつも思うのが「ノベルゲーム製作ブーム」という要素を無視しているということ
1996年にセガサターンの18推ゲームの販売が終了すると、アダルトゲーム市場は一気に拡大する(これはサターンの反動だと思ってる)
しかしながら当時の中高生はセガサターンというエロ供給機を失い、登場まだまだ普及しきったとは言えなかった高価なPCを所有できるはずがなく、悶々とした日々を過ごすこととなる
2000年代へ入るとWindowsXPの登場やPC自作ブームとBTOの興隆によってPCの低価格化が進行し、何処の家庭でもPCを所有することが珍しくはなくなってきていた
そして興るのはオタクのクリエイティビティの発露先としてのFlash動画ブームとRPGツクール2000ブームである(RPGツクール2000は現在も販売されているほどのロングセラー)
特にFlash動画は現在ではFlash黄金期と称されるほど大人気コンテンツへ上り詰め、日々新しい表現や試み、作品が生まれていた
しかしそんなFlash動画も盛者必衰は避けられず徐々に人気が低下していった
そんな中で2つのソフトウェアがほぼ同時期に登場、それが吉里吉里2とNScripterである
それまで同人ノベゲー(当時のノベゲーは美少女恋愛ADVゲームとほぼ同義)は吉里吉里2の前身である吉里吉里かRPGツクールで無理矢理に実装するのが基本であり、この2つのノベゲエンジンの登場はゲーム製作ジャンル界隈へ大歓迎された
Flash動画が低迷しオタクのクリエイティビティの発露先が失われつつあった
紙芝居などと揶揄されるが、そんな紙芝居を楽しんでいたのがFlash動画ブームだった
皆がPCを所有し、PCが安くなったからこそデジタルへ転身する絵師が多く現れ始めた
エロ供給機たるセガサターンを失った過去はシナリオに熱いパッションを宿した
すべてが揃っていた、これは時代の必然であった、ノベルゲーム製作ブームが到来する
ここから約2年間ノベルゲーム製作ブームは続くが、やはり飽きは来るもので次第に衰退していった
ノベルゲーム製作ブームの代わりに登場するのが「新ジャンルSS」と「ねとらじ」であり、2006年末にニコニコ動画の登場、2007年ニコニコ動画βとなりMAD動画ブームが興ってオタクのクリエイティビティの発露先がニコニコ動画βとなっていく(ねとらじ民はニコ生が登場すると移住する)
https://221b.jp/h/sign-01.html から引用:
シャーロックホームズはマントルピースの角から瓶を取り、しゃれたモロッコ革のケースから皮下注射器を取りだした。彼は細く白い神経質な指で繊細な針を調整し、左手のシャツの袖口を捲り上げた。しばらくの間、彼は無数の刺し傷で穴だらけになった筋張った前腕と手首を考え込むように眺めていた。遂に、彼は注射器を突き刺して、小さなピストンを押し下げ、満足げな長い溜息と共にビロードで縁取られた安楽椅子に沈み込んだ。
何ヶ月もの間、私はこの行為を一日に三度目撃していた。しかし私は、何度見ても納得できなかった。それどころか、日が経つにつれて、この光景を見るとさらにイライラするようになっていた。そして夜が来ると、私は自分に抗議する勇気がないと考え、良心の呵責がつのってきた。私は、この件に対して意見するべきだと、何度も決意を固めていた。しかしホームズには、冷たく平然とした雰囲気があり、あえて意見を言うのはかなり難しかった。彼の素晴らしい能力、見事な手法、私が見てきた驚くべき資質の数々、これらすべてが、私の気持ちを臆病にし、彼に介入するのを思いとどまらせていた。
しかしその午後、私が昼食の時に飲んだボーヌのせいか、彼の極端な緩慢さによって、いつにも増して怒りが大きくなったせいか、私は突然、これ以上我慢できない気になった。
「コカインだ」彼は言った。「七パーセントの水溶液だ。やってみるか?」
「絶対やらん」私はぶっきらぼうに答えた。「私の体はまだアフガン戦争の衰弱から回復していない。これ以上の負担には耐えられん」
彼は私が激しく怒っているのに、笑顔を見せた。「多分君は正しい、ワトソン」彼は言った。「この効果は肉体的には悪いと思う。しかし、精神が活気付いて明瞭になるので、副作用は小さなことだと判断している」
「しかしよく考えろ!」私は必死に訴えた。「どれだけの損失を受けていることか!君が言うように、頭脳は覚醒し、興奮するかもしれない。しかしその病理学的に不健全な作用は、細胞を大きく変質させる。良くても、不可逆の萎縮が残る可能性があるのだ。それに、どれほど不快な反動が来るかも知っているだろう。これは全く割に合わない行為だ。なぜ君は単に快楽を貪るために、自分に授けられた凄い能力を失う危険を冒すのか。いいか、僕は一人の同僚として言っているだけではなく、医者として、その健康に一定の責任がある人間に対して言っているんだ」
彼は感情を害したようには見えなかった。それどころか、彼は両手の指先を合わせ、会話を楽しむかのように椅子の肘掛に置いた肘によりかかった。
表現の自由を守りたいという意見は、それを原則論として語りつつも、背後にある危機感はなんだろう。
ようするに、「快不快」によって表現の流通が左右される社会が是か否か、ということが動機のように思えた。
そうであれば、すごくよくわかる。いや、わかるというのは、同意しているわけじゃなくて、なるほどな、だから日本の表現の自由ってふわっとしてるんだなということ。
振り返ってみる。
日本の表現規制の有り様は、戦前のエロ・グロ・ナンセンス発禁にあるように、当局が国民の大多数が不快と思うであろう「不健全」で「公序良俗」に反する表現を対象としてきた。
つまり、割り切った言い方をすれば「健全」と戦っているのが表現の自由の戦士だというふうに思える。
でも、ひとたび、「表現の自由」の思想的な出発点をヨーロッパやアメリカの歴史から振り返ってみると、戦士の動機づけとしてはあまりにも心もとない。
表現の自由とひとことでいっても、思想的な背景は、それぞれ背負っている歴史が異なる。
この国の憲法や憲法判例が示してきた表現の自由は、ヨーロッパのそれとはかなり異なる。
17世紀にアメリカに最初に渡ったピルグリムファーザーズの世代は特に、当時のヨーロッパのプロテスタントに対する不寛容の被害者であった。
メイフラワー号の協約に象徴されるように、お互いに異なるFaith(信条)を持つ者同士が、どちらが正しいとして糾弾することなく、社会を構築しようという、社会の多様性の確保が原点だ。
1970年代には、ヘイトスピーチを巡ってさまざまな紛争が連邦最高裁まであがり、不協和音こそ社会の強さとまで判決の意見で述べているものがある。
当時の裁判官のたとえを援用すれば、空気を浄化しようとするやつが社会の敵なのだ。
人間は不完全なのだから、正しいものなど、最初から先験的に決められない。ということから、この国では、思想の自由市場などという言い方も生まれてくる。
しかし、他方で伝統的な価値観や習慣もそれなりに強い。いやかなり強い。
そういう土地柄では、動機づけとして、多様性の確保というのは、正直、あまりピンとこない。
むしろ、彼らの原点は、教会から弾圧された経験であり、その反動としての「神を冒涜する権利」だ。
伝統的にカトリック教徒でありながらアンチクライストを叫ぶ、そんな権利を求めている。
とくにフランスでは、公共空間を設計するにあたり、真理の判断権を持つかのように振る舞う教会がとてもまずい存在だった。
権力をふるいたがる教会に口出しをさせないことが重要なテーマだった。
それゆえ、その解決のため、一方では、表現の自由というコンセプトで権利を宣言し、他方で、政教分離という原則を確立して、公共空間設計のための理論武装をしていく。
だから、イスラムのスカーフを公立学校から排除しようとしたりする動きが起きるし、
ひとたびムスリムの神を冒涜するような表現をしたことで、襲撃を受けたりすると、社会は「涜神の権利はいずこに」とがぜん盛り上がるわけだ。
アメリカにしても、フランスにしても、それぞれ動機づけは異なるものの、表現の自由を守ろうとする信念というか確信の力は、
極めて強い。テロがあったり、社会情勢の変化で揺れ動いたりするものの、いざ事が最高裁までいくと、
じゃあ、国づくりの原点に戻ろうじゃないかという話になって、17世紀の悲惨な経験が思い出として蘇ってくる。
その動機づけの強さにこそ、新大陸にしても、旧大陸にしても、表現の自由を将来に渡って確保しようとするエネルギーの再生産があり、いわば持続性がある。
翻って、日本。
快不快のような勝手な基準で決めつけられたくはないよね、誰しも。
でも動機づけとして、やっぱり弱いんだよね。
ここで、仮に、日本は、アメリカ式の表現の自由を真似っ子しているのだ、としようか。
でも、日本社会は、アメリカほどには、多様性を求めてないでしょ。むしろ移民なんか大嫌いでしょ。
多様な意見なんか、どの組織でも出てこないでしょ。会議でも右に習えでしょ。
普段から多様性を確保しようというマインドがベースにあって成り立っている社会とは全く違う。
そんな社会では、エロい表現のときだけ急に表現の自由だのと盛り上がるのは、歯が浮くような思いがする。
公共空間におけるエッチなものの取扱なんて、はっきりいって、社会が合意していればどっちだっていい。
じゃあ今度は、大陸が17世紀に経験した熾烈なコンフェッショナリズム、この思想的な背景を
表現の自由として日本国憲法が参照している、と仮に想像してみる。
この場合、仮想敵は、いってみれば、国家神道とファシズムかな。
(*ところで大河ドラマの「いだてん」って、健康ファシズムの視点でみると面白いらしいね。みてないけど)
「国によって右へならえを強制され続けた結果、自分たちが戦争に動員されてひどい目にあった思い出」とでもいうべき動機づけは
定期的に思い出す機会があるかぎりは、ある程度は持続的たりうるのかもしれない。
でも、第二次世界大戦を思い起こしてみると、国民が国家のキャンペーンに煽られて動員させられる、というのは、
なにも敗戦国のドイツや日本に限った話じゃないし、アメリカ含め、あちこちの国でウイルスのようにファシズムが蔓延しかけていたのが現実。
またファシズムをコントロールできた国もない。その意味で、真の意味でファシズムに抗し切った国はないように思う。
表現の自由っていったところで、自然の摂理かのように、神がバランスをとってくれるわけじゃないんだよね。
そうすると、いざ日本にとって対外的な脅威(例えばアジアの隣あたりの国らへん)が増せば、
表現の自由なんか、どうでもよくなっちゃう程度のものなんじゃないか。
このあたりの感覚は、動機づけとしては重要なんだけど、日本の場合、ちゃんと思想として、自分たちの言葉で自分たちを守る武器として昇華してないんだよね。
敗戦で混乱していた時期にすかさず、日本国憲法を戦勝国からもらった、というところで思考停止になった、という面はあるかもしれない。
もらったもので、とりあえず勉強して運用してみよう、という時期が最初はあってもいいかもしれない。
でも、戦後30年、40年、とりいそぎ運用していたものが定着していく、という過程で
例えば「思想の自由市場」ってよくよく考えてみると、日本社会では、あまりピンと来なくね?みたいな気づきがあっても良かった。正直、「思想の自由市場」って日本社会じゃ、なんの役にも立たない理屈だと思うんだよね最近。
また、フランスの公立学校でのムスリムのスカーフ論争。大方の日本人は、何あれ?状態。背景となる歴史が違うんだから
それを知らずに無理やり、政教分離って憲法に書いてあることを適用しようとしてきて、実は消化不良を起こしているんだけど、
そういうことがよくわかったという話。
と、勝手に思っている話。
初めて彼女を見た時、なんて可愛らしい子が入ってきたのかと驚きました。それから天使の見た目と裏腹なキャラクターに惹かれ、完全に心を奪われました。
工藤遥さん。いつ振り返っても全てが愛おしいです。
モーニング娘。でのデビューが決まった時は心から嬉しく、ショップで写真を手に取った時の感動は今でも思い出します。
かわいくて、かっこよくて、頑固でまじめで一生懸命で。
そんな中、自分に妊娠出産というライフスタイルの変化が訪れました。
今まで気ままなオタクとして生きてきた反動なのか、情けない事に現実の変化に心が追いつきませんでした。
夫に上手く頼ることが出来ず、産後鬱に気付かず騙し騙しの育児で時は流れ、気づけば子供との接し方が分からないノイローゼ状態になっていました。
生活は無気力、趣味への興味も薄れ、可愛いはずの我が子を見るたび負の感情が湧いてくる。手をあげる妄想が止まらなくなり、心療内科を受診しました。
薬を飲む生活になりました。
少しずつ気持ちが楽になってきた気がしたので、楽しかった事、好きだった事を思い浮かべました。
それらに半ば依存するような形でしたが、なんとか立て直してこれたかなと思っている時でした。
彼女の卒業。突然のことに驚き、しばらくは悲しみ、追えなかった無念さなどが頭を巡りました。
が、アイドルから女優という新たな夢へ一歩踏み出そうとしている彼女にオタクの依存は不要なんだ。頑張るならば応援しよう。と徐々に思えるようになりました。
その頃には子供と会話が繋がるようになっていましたが、体調は十分でなくコミュニケーションに困ったらテレビの子供番組に頼る日々でした。
そこへ、再びの発表。日曜朝のヒーロー新番組「快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー」
工藤遥さんは、新しい世界で頑張っていました。キラキラ輝く姿と、希望を、TVを通じて届けてくれました。
毎週子供と一緒に見て、なりきり遊びをするようになりました。自分の影響か、子供は彼女の役を気に入っていました。
それから、買い物に行くようになりました。おもちゃ、カード、お菓子、ゲーム…わくわくしながら楽しさを共有しました。
映画やショーにも行きました。
薬は要らなくなりました。楽しそうな子供を見て、自分も笑顔になれました。
そしてこの冬、再びのショーで彼女にまた会えました。今度は子供も一緒に。
最後の挨拶、役名を呼んだ子供に「ありがとう」と笑顔で手を振ってくれたことは、一生忘れないと思います。
こんな人間が会場にいたことは彼女は知ることもないでしょうが「ありがとう」を伝えたいのは自分なのです。
新しい挑戦をしてくれてありがとう。
書いても書いても伝えきれないほどです。
役としては来月のイベントで終わってしまうけれど、きっかけをくれた推しはこれからもずっとスーパーヒーローです。
本当にありがとう。
まとめサイトから、足を洗ったタイプで今はその反動なのか、日常生活の知人と政治的な話をする程ではないにせよ、俺は政権には批判的なポジションである。
でも少し前、インドアな趣味で先人と尊敬してツイッターでフォローしてる人が趣味とは関係なしに政権擁護的なツイートをして、俺のタイムラインに流れてきた。
というか、つい最近の野党が2分の遅刻を大きく責め立てたという件を批判したもので、野党を全否定し強い口調で罵ったものだった。
正直、それを見て俺は戸惑った。確かにあの件は野党が悪いのだとは思う。でも、俺は「統計改ざんへの関与」とか列挙すれば長くなるであろう多くの政権への疑惑に対しても不安がある。政治とか経済には詳しくないから誰かに説明してもらわなきゃよく分からんのです。
これまでも、多くの政権支持野党批判を見てきたけど、疑惑に対しあの手この手で政権が直接指示したわけではない。とは言っても起こった悪事とその後始末で不安をさっぱり掃除してくれるような言説は政権支持野党批判者はしてくれなかった。
政権批判の立ち位置にいる間は政権が倒れない以上今の問題が解決のすることはないから、俺はすがりつける言説がない限りずっと不安を抱えたまま過ごすことになる。
だから、俺は疑惑を晴らすことのできない政権をのさばらせて野党を倒す人たちに普段からどういったニュースを読めば、不安を持つ必要がないのだとわかるのか聞きたい。
そして、ある特定のトピックに対して牽引してるのだと、尊敬される立場にあるのだと、そういう自負がある人には、トピック以外の(特に政治的な)話題をツイッターに流すと、フォロワーに負荷をかけるかもしれないって事を言いたい。もう、趣味に関する情報収集のはずのツイッターでいつ政治的な内容で不安を煽られたくない…
尾崎が生きていた頃は、歌詞は過激でも見た目は普通のイケメンだったので、ファンも普通の陰キャ的な子が多かったよね。
当時のリアル不良が好きだったのは、見た目もワルな横浜銀蠅とかでしょ。
中森明菜や工藤静香も不良っぽい見た目で人気だったし(今はそんな女性アイドルはいない)、
ルックスがワルっぽい芸能人が今とは比較にならないぐらいたくさんいて、それなりに支持されていた。
大体、校内暴力が問題化した反動で管理教育が肯定されて、暴力教師が普通に存在したからね。
毎月、持ち物・服装・頭髪をチェックされて、特に髪型が校則違反だと職員室で雑に髪を切られたり、
遅刻者は校門締め出し(どっかの学校で校門圧死事件が起きてからなくなったと思うけど)
体罰もビンタ、ケツバット当たり前。それも、忘れ物しただけでビンタとか。
学校で進化論をはじめて学んだとき、死ぬのが怖くなりませんでしたか?私は考え始めると止まらなくなました。そして今もその恐怖から逃げられずにいます。
進化論によれば、我々の感覚は進化のメカニズムによって調整されてきたといいます。我々に痛覚があるのは痛覚がないよりも生存に有利だったからだし、セックスが気持ちいいのはそうでない場合より生殖に有利だったからです。他のあらゆる感覚も、神の見えざる手によって、利己的な遺伝子に都合がよい塩梅に調整されています。
ですが命が消えていくその瞬間の感覚はどうでしょう?死にゆく個体がなにを感じていようと遺伝子の戦略には興味のない話。関係式は成り立たず、解は不定です。つまり、死は人間にとってとんでもない苦痛を伴うものである可能性がある。
私たちを安心させる話として、死の淵から帰還した人たちが語る臨死体験があります。死に際に脳はありったけの脳内麻薬を放出するから、人はみな幸福に包まれて死んでいく、恐れる必要はないのだと。
けれど、私の友人であった薬物常習者が語ったところによると、強烈なドラッグほどその切れ際にくる反動はキツいものなのだそうです。涅槃に登るほどの多幸感からのジェットコースターの苦しみ。それはいかほどのものだったでしょう。
脳内麻薬の効果が切れ、人の魂が肉体から離れようとするその瞬間、肉を少しずつ剥がれるような肉体の苦痛と、家族をいちどに失うような精神の苦痛を、永遠のものとして感じ続けるとしたら。有史以来、この世に生まれ落ちた生命がみな、煉獄の火に焼かれ続けて死んでいったのだとしたら。その全ての苦しみを背負える魔法少女など存在しないのです。
きっと運動と野菜と瞑想だけが私を救うのでしょう。でもそれはただの気分で
誰か私を安心させてくれませんか。
明石市長の舌禍問題について。当初の過激な言い分への批判一色模様から一転して、
神戸新聞NEXT|総合|部下に「辞表出しても許さんぞ」「自分の家売れ」 明石市長の暴言詳報
↑の市長の発言詳細が明らかになると、「悪いのは7年仕事を放置してた無能職員であり、市長はむしろ正しい。立派」みたいな意見が続出していて愕然とした。
当の市長そのものの是非については、正直それほど強い感心はない。個人的には、どんな背景があるにせよ「(市民の家に)火をつけてこい」って発言はあまりに酷すぎると思う。が、市民の安全を想う明石市長の言葉の熱意に感銘を受けたり、あるいはこれまでの功績を評価して、明石市長を支持したいという立場を取る人たちを別に否定するつもりもない。
それよりも気になって仕方がないのは、この発言の是非を巡る議論に際して、パワハラ発言の被害者側である職員が「7年間何もしてなかった無能怠慢職員」だと決めつけられがちなことで。
市長を擁護する側は言わずもがな、批判する側からも「無能職員を働き者の市長が叱責した」という前提に立ったコメントが散見されて、「いやいや、そもそもこの記事だけじゃ実際の職員の働きぶりがどうだったか分かんないじゃん。ちょっと待ってよ」と。
市長「そんなもん6年前から分かっていること。時間は戻らんけど、この間何をしとったん。遊んでたん。意味分からんけど」
おそらく、前掲の記事のこの辺のやり取りであったり、
「ややこしいの後回しにして、楽な商売しやがって」
市長のこの辺の言葉であったりとかが、職員は7年何もすべきことをしていなかった、遊んでいた、面倒な仕事を後回しにしていた、給料泥棒……みたいな印象を与えるのだろう。
でもこのやり取りは、あれだけ過激な言葉を使うほど興奮状態だった市長が、上の立場から一方的にまくし立てていたであろう状況なわけで。そんな一方的な発言だけを見て、市長と職員の働きぶりが有能・無能だったと決めつけてしまうのはどうにも不公平に思えてならない。
市によると、事業は10年度に国が始め、約200メートルの区間約1900平方メートルに42人の地権者がいた。
国から用地買収の委託を受けた市は職員3人で、12年度から個別交渉を開始。早ければ16年度末に完了する予定だった。
市によると、交渉は「住み慣れている」「権利関係が複雑」などの理由で、一部の合意が大幅に遅れた。
交渉を担当した市幹部は「最後の建物を放置していたのではなく、1カ月に1回以上は地権者と交渉していた。正式書面で金額は示していなかったが、概算額は提示していた。市長が激高した時期は契約前の最終段階だった」と話す。
市長は「7年間何しとってん。楽な商売しやがって」と怒鳴ったが、別の職員は「金額提示をしていないことを、全く着手していないと思い込んだのではないか」と推測した。
一方でこちらは、遅れて公開された職員側からの弁明記事。もちろんこれはこれで職員側からの擁護的な言い分であるわけだから、これだけを鵜呑みにして「なんだ職員側は十分頑張ってんじゃん」と判断するわけにはいかないだろう。
しかし、調べてみると用地買収の実務について知識のある人たちから、「職員が7年仕事してなかった」って取り上げられ方に同じく疑問を持つ声がチラホラ見受けられる。
明石市長の「パワハラ」案件について、自治体としてできること・できないことから考える - Togetter(例えば、この方の一連のツイートとかは知識の無い自分にもわかりやすくて参考になった。)
というか、用地買収手続きの実態とかが全くわからないにしても「複雑な事情があって難航していたんじゃないか」とか「縛りの多そうな役所の仕事だし、職員の立場ではどうにもならないこともあったんじゃないか」とか、いろいろ想像は付きそうなものだし。それを「7年何もしてなかった」とまで言ってしまうのはあまりに短絡的じゃないかなあと。担当職員が何度か交代していたというから尚更、みんながみんな揃って全くやる気の無い職員だったなんて考えづらいし。
たぶんこれが、民間企業での上司と部下のやり取りだったらこうはなってなかった気がする。
・お役所仕事の非効率さや、公務員の働きぶりそのものに負のイメージが持たれがち
・当初の報道で、市長の立派に見える発言部分が報じられていなかったことに対する反動
……などなど、いろんな要因が重なってこういう流れになっちゃったのかなあと。
まあもちろん、実際いざ蓋を開けてみたら、やっぱり職員がただ面倒な仕事を後回しにしていた、どうしようもない怠慢職員だったって話になる可能性もある。(市長の叱責の翌月には買収がまとまったって話もあるようだし)
しかし、もし職員が自分の出来る範囲できちんと尽力していたのだとしたら、今の彼らの心情を思うと何ともやり切れないなと。ただでさえ、逆らえない上の立場の人間からあんなキツイ言葉を投げかけられた上に、仕事の実態を知らない全国の人々から、無能だ怠慢だとレッテルを貼られ、「こいつが悪いんだから言われるのも当然」なんて言われるんだもの。まるで「いじめはいじめられる側にも原因がある」って被害者側が叩かれるみたいに。理不尽にもほどがあるような。
それに、例え仕事が滞っていた原因として職員の落ち度が少なからずあったとしても、「何もしてない無能」とまで言われることはないんじゃないかと。
今この世のどこか(というかたぶん明石市)に、市長の言葉と此度の件で、自分の仕事を全否定されて尊厳も名誉も踏みにじられた職員がいるのかもしれないと思うと、凄く居た堪れない気分になってくる。
今後、市長の発言の是非そのものだけでなく、用地買収経緯の実態が明らかになることで職員が「何もしてないわけではない」ということが明らかにされて、彼らの名誉が回復されていく展開が訪れるか。そうならないのであれば、彼らが実のところ本当に同情してあげる余地が全くないほど、「7年何もしてなかった」怠慢すぎる職員であってくれることを願うばかり。
ミノフスキー核融合炉から生まれる無限のエネルギーと反動質量が無から生じるミノフスキークラフトの生じる無限の比推力、さらに大気圏内航行を可能にする莫大な推力をもってすれば、シールドなしでの大気圏突入はそう難しいもんじゃないだろう。後ろを向いて全力で減速すりゃいいんだから。
ガンダムはおそらく五倍のエネルギーゲインとシールドを組み合わせてそれができる。そして関節もそのために保護されている。ホワイトベースは、もしかしたら構造材が異常に熱に強く強靭なんだろう。
ザクIIはなぜそれができない? シャアザクの三倍のスピードというのも気になる。もしかして、あの三倍とか五倍というのはザクIIを基準とした推力重量比の比較のつもりで、そしてザクIIは宇宙専用機という性質のために推力重量比が低いことが、推力再突入――揚力ではないからこう称するべきだろう――が不可能だった理由なのか?
追記: 必ずしも詳しくなく恐縮だが、MS単体の推進能力が化学推進や古典的電気推進に頼っていたのなら、推力3倍は容易に実現しうる。燃焼室圧力、電力、ノズル形状、変更する要素は色々ある。特に比推力が妥協できるのであれば推力の上げ幅は大きいはずだ。