はてなキーワード: ポップスとは
10年20年以上も前からベースレスのバンドはどんどん実験されていた
元々キックと低域の奪い合いになるから、いてもらわなくてもいいのである
なのでくるりあたりはメンバーにベースがいるので(実質ギターとベースの二人組)、一時期は逆にドラムレス(代わりにオーケストレーション)の方向に実験していたのが面白い
岸田は増田とは違って、「果たして本当にバスドラっているんやろか」とインタビューでぼやいていた
ロックが隆盛になる前、つまりジャズがポップスである頃はベースは今自分のいる位置を教えてくれる重要な楽器であった
しかし決まった曲を毎回同じように演奏するのが当たり前になった単なる様式美の時代、ベースというのは少なくともその存在価値の半分くらいは、もはや惰性や慣習でいるだけと言えるだろう
特に音楽的素養のない普通の人は、バンドの音を、ひとつの音の塊として聴く。
個々のパートを聴き分けることはできない。
この増田みたいな言説でベースが取り沙汰されがちだけど、これ言うやつはギターやキーボードに関しても聴き分けられてない。
一般的なポップスやロックの音源は、ギターが複数本重ねられてることが一般的だけど、試しにヘッドホンをつけて、曲の最初から最後まで、個々のギターを聴き分けるつもりで聴いてほしい。
最初から最後まで、どれがギターAで、どれがギターBかハッキリ分けて聴けるやつは、10人に1人もいないから。なんなら、ベースをギターだと勘違いするやつも多い。
お前はベース以外は聴き取れてると思ってるけど、そうじゃない。
Dragon AshのGrateful Daysくらいしか知らんおっさんが勿体ぶってちょこちょこいってんだろうから仕方ないけどな。
メロディアスで色恋がどうとかいうポップソング然としたヒップホップが増えたから、
今までヒップホップに関心なかった層から支持されるようになったっつうのが今のアメリカでメインストリームにいる一因とも言われてるのね。
だからむしろヒップホップの方が日本人大好きなポップスに近づいてきてんのになんでみんな聞かないの??って話になるわけさ。
まあ言うても残りの半分くらいはトラップビートの上で「コカインぷんぷぷーん」とか言ってる系なんだけどね。
俺が思うに日本人は作曲できる奴が一流みたいな謎の信仰とサンプリングに対する拒否感があって、そのためにちょっと馬鹿にされてるんだろうね。
あと元増田のコメントにもあるけど日本だったらニコ動でボカロPとか歌い手やってたんだろなって奴がヒップホップシーンにいたりすんのよ。
炎上で注目集めたりコラ画像やMADの素材にされることで人気でたりすることよくあるし
Soundcloudにあげた曲が好評でメジャーデビューとか
yo utubeにしこしこあげてたタイプビートを売れっ子ラッパーが買い取ったとか
そういう話がヒップホップドリームの定番エピソードになってる。
そういうオタクと元来のヒップホップ好きそうなヤンキーくさいのが束になって音楽シーン盛り上げてんのね。そりゃヒップホップばっかりになるよ。
ラップ/ヒップホップは2010年代より前から確かに北米で人気はあった。が、それは黒人コミュニティを中心としたもので、現在のような人種間や音楽ジャンルをクロスオーバーしたポップスとしての支持とはやや違っていた。
それを踏まえて、なぜ北米でヒップホップが主流となったのかということを推論すると、結局のところメロディアスなラップスタイル(フロウ)のアーティストが増えて聴きやすいヒップホップの曲が増えたからではないかと思う。
元増田のブコメでは「ラップにはメロディがないから日本人の趣味に合わない」という意見が多くみられたが、黒人以外のアメリカ人もこの起伏のない歌唱をすんなり受け入れられたわけではなく、いくらかのヒット曲がありつつま2000年代まではあくまでヒップホップは黒人向けのジャンルに過ぎなかったと思う。
それを時代を席巻していたラッパー、カニエウエストが2009年に歌メロをオートチューン(ケロケロボイス)で歌い上げた「808s & Heartbreak」を発表し後進に多大な影響をあたえたことや、歌うようなフロウの代表格であり2020年現在にラッパーの中でトップクラスのセールスを稼ぐドレイクの登場によりヒップホップがメロディアスで大衆受けするものに変容していったのだ。(※1)
現に2019年にビルボードのチャートトップに君臨したラップはこんな感じ。
英検三級以上の語学力とDAM精密採点で80点以上を出す歌唱力があれば、2、3回聞いただけでなんとなく口ずさめるようになるのではなかろうか?
しかも従来のヒップホップにはあまり見受けられなかった、オルタナティブロックやAOR、カントリーなど別ジャンルのエッセンスを柔軟に取り入れクロスオーバーさせている。
そしてリリック(歌詞)にギャングスタ調の拝金主義や女性蔑視が見受けられず、かわりに繊細で叙情的な表現や甘ったるい愛の言葉が散見される。
こういった曲をみんなで合唱していたり、若者に混じっておじさんが聞いているさまを想像するのは容易いことだ。今のヒップホップは親しみやすいのだ。
渡辺志保さんの2010年代総括がきれいにまとめられていたので紹介したい。
宇多丸・高橋芳朗・渡辺志保 2010年代のヒップホップを語る
荏開津広×渡辺志保 ラップが席巻した10年代を振り返る - インタビュー : Kompass(コンパス) ミュージックガイドマガジン by Spotify&CINRA
僕が思う、米国でヒップホップが流行っている理由はもう一つあって、それはあまり面白くないが、ヒップホップの曲構造や今のヒップホップカルチャーのあり方がビルボードチャートで好成績になりやすいように特化していっていることが挙げられる。
CDになんてとっくの昔に売れなくなって、米ビルボードの主な集計対象は動画再生回数とダウンロード数やストリーミング再生数である。短く印象的なフレーズ(パンチライン)を反復するヒップホップソングはネットミーム(ネタ)やTikTok等SNSの投稿に流用しやすくそこで再生回数を稼ぐためにチャート上では有利な存在になっている。
日本でも話題になった2018年の「This is America」(チャイルディッシュガンビーノ)とビルボードHot100のNo.1を争ったドレイクの「In My Feelings」は、「In My Feelings」に合わせてインスタやTikTokにダンス動画をアップする#InMyFeelingsChallengeが自然発生的にブームになったことがヒットに貢献したと言われている。
ドレイクのデビューにも深く関わったリルウェインを初め、アウトキャストのアンドレ3000やネリーなど歌うようなフロウで成功したラッパーは90年代以降少なからず存在はしていた。
Drake - In My Feelngs
自分は「バンドやミュージシャンが誰か」で音楽を聴くタイプじゃないんだ。(あ、そういえばダブステップも聴く)
ラジオを聴いて、良いな、と思うものを聴くだけ。その中でも良く聴く、気になるバンド、ミュージシャン、はあるけど。
ぱっと思いつくのは...
シンセウェーブだと、Fixions、Perturbator、MICROCHIP TERROR、The Algorithmなどなど。最近の一押しジャンル。
エレクトロポップだと、Ladytron、The Good Natured、Krause
ハッピーハードコアは、Blumchenをずっと推してる。あとはBrisk、S3RLとか
ユーロビートはavexのSEB系で古いのは聴く(KING&QUEENとかANNALISEとかVanessaとか定番なもの)
トランスやダブステップは、思い出すバンド、ミュージシャンはなくほぼ使い捨てで聴く感じ。
ロックだと、Weezer、Metallica、Museとか定番かな。
ポップスもまぁ聴くけど、これも定番な物がほとんど(Taylor swiftとかAvril LavigneとかLady Gagaとか)
...結構書いたなw
JPOPは挙げるとしたら中田ヤスタカさんかな?シティ・ポップも最近流行りだして聴きなおしてたりします(竹内まりや、山下達郎など)
昼寝猫 on Twitter: "クラシック音楽とかいわゆる古典て家庭の文化資本依存だろ?多くの場合、細民や窮民はやれない。細民や窮民はええ格好してホ−ルで交響楽なんて聞けない。サプライサイドも受益層も中産階級以上。存在がすでに「階層」を区分してる側面がある。" https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/tcv2catnap/status/1211159702446301185
演奏家を目指すのであれば、中流よりかなり上の階層出身である必要がありそうだけど、聞くだけならそれほどクラシック音楽って高いわけではなく、ソースも比較的豊富なんだよな。コンサートだってオペラはともかくとして、普通の交響楽や室内楽であればポップスのコンサートよりもぼったくってる訳でもなく、むしろ安い印象が強い。そして、ドレスコードがあるわけでもないので、普段着で行っても別に白い目で見られたりはしない。(まぁそれは個人的な経験ではあるが)
演奏家は「親がクラシック音楽が好きで親しんでいる」家庭からでないとあまり育たないと思うが、リスナーの方は「親は全然興味がない」ケースは少なくないと思うし、そういう家庭でも聴く環境というのは社会に比較的安上がりに準備されているので、多分そういう階層はクラシック音楽だけではなくてポップスを聞くこともまた難しいだろうと思う。
それは多分に日本での近代演劇がヨーロッパの演劇理論をほとんど鵜呑みにしてきたからだろうね
印欧語族と日本語では当然に言語表現のコードが全く異なるのに、上辺のやりかただけ形だけ真似るから「芝居がかってる」と悪評される
これに反旗を翻して日本独自の現代演劇理論を提唱したのがかの平田オリザなわけだけど、なかなか彼の演劇理論が映画界に逆輸入されてる気配はないようだ
これは私見だが、日本の映画界隈は学術方面に疎いというのが根本的な原因なのではないかと思う
ヨーロッパでは(アメリカもだけど)大学に演劇研究を扱う学科があるのは普通だし、演劇理論が映画界にも影響を及ぼしてる(メソッド演技法の賛否両論など記憶に新しいね)
かたや日本の映画界隈はどうだ?金儲けに走って演技理論の学位も持ってない半ばアイドル上りの俳優たちが事務所のゴリ押しで役者のポジションを得ている
全く堕落はなはだしいよ、連中は日本国内で甘い汁を吸うことしか考えてない。こんなんだから韓国にポップス音楽でも映画でも世界展開戦略で後塵を拝するんだよ
中学生とか高校生くらいで、ソロの演奏会開くぐらいになってるプレイヤーはそこそこいる。
ピアノかヴァイオリンが多いけど、その他の器楽とか、たまに声楽も。
こういうコンサートだと花束とかの贈りものは別に普通。毎回通ってると確実に覚えられる。
ポップスとかアイドルの世界に比べてすごく狭い世界なのと、将来プロとしてやっていける人の門の狭さもあるので、毎回聴いて応援してくれる存在というのは有難がられる。
そのうち楽屋にも出入りするようになったりとか。
ちょっと花開いてCD出したり上のステップに行ったりすると「無名の頃から応援してくれた人」の格が上がるっていう構造は同じ。
知り合いにもいた。純粋にそういう無名のプレイヤーのコンサートに行くのが趣味だったのか、それとも別の目的だったのかはわからないけど、対象は若い女の子ばっかりだったなあ。
「アイカツ!」シリーズの「話数が多い」というハードルを越えて視聴してもらうためにはどう勧めれば良いか、という話が少し盛り上がっていた。
その中でよく出てきた話に、見てハマった人間にとってはその話数というのはむしろ少なく感じるほどである、というものがあった。
それについては私も大いに頷くものであるが、なぜ皆がこれだけ話数の多い物語をそろって「短い」と言うのであろうか。(単純に面白いからあっという間だよって意味かもしれないが)
それを少し考えてみたので書き連ねてみる。なお、シリーズ全部について書くと本当に長くなるので第1作の「アイカツ!」に絞って書く。
「アイカツ!」は2012年10月から2016年3月までの約3年半の期間に放映されたアニメである。総話数は178話。劇場版は長編の「劇場版アイカツ!」と、ステージを中心に構成した中編「アイカツ!ミュージックアワード みんなで賞をもらっちゃいまSHOW!」、最終回後に制作された短編「アイカツ!~ねらわれた魔法のアイカツ!カ―ド~」の計3つがある。他にもドラマCDが制作されている。
そして、「アイカツ!」は放映時期と作中の時間がリンクしている。つまり、季節が現実と同じように流れ、クリスマスやバレンタイン、卒業式・入学式や年末年始などの季節のイベントのエピソードが時期に合わせて放映されている。
劇場版も公開日と合わせてあり、たとえば2014年12月13日公開の「劇場版アイカツ!」は同年12月11日放映の第112話の後のお話となっている。
プリキュア等の年間を通して放映されるアニメを見ている人にとってはさほど驚くことではないかもしれないが、1〜2クールが基本の深夜アニメを中心に見ている人にとっては新鮮かもしれない。
さらに、いわゆる「サザエさん時空」ではなく、1年経つと実際にキャラクターが歳を取り、進級したり卒業したりする。
最初の主人公の星宮いちごは第1話時点では中学1年生だったのが、第178話時点では高校2年生になっている。(ある話数の間にだけきっちり1年間のブランクが存在するが詳細は省く)
つまりは、視聴者は画面を通して「アイカツ!」の世界での出来事をリアルタイムに感じとり、キャラクターの成長を見守っていくのである。
週に1回の放映内容だけでその1週間の出来事を知る、と単純化して考えてみると、それはあまりにも時間が足りないと言わざるを得ないであろう。
漫画「スラムダンク」は週刊連載で6年連載して作中で4ヶ月の出来事を描いたのであるから、単純計算でその18倍の短さと言えてしまう。(1/3年の出来事を6年間で伝える=1/18年の出来事を1年かけて伝える)
そして、年間を通して季節に合わせて放映されていると、視聴者にとって「アイカツ!」は生活の一部となっていく。生活が終わることなんて人は想像したくないものであるから、それが終わった時の寂しさは計り知れない。
後追いで視聴している者にとっては、話数と共に季節が移り変わっていくのを感じながら見ていると、キャラクターの人生を辿っているような感覚になる。そうすると、途中でそれが途切れてしまうとなると、それがどれだけ寂しいものであるか。
最終回後に制作された劇場版の短編は、そんな人たちに向けてキャラクターから届けられた久しぶりの近況報告・贈り物であると考えてみると、それがどれだけ嬉しいものであるか。
先述したように「アイカツ!」ではドラマCDがいくつか制作されているが、劇中のラジオ番組という形をとっており、まるで実際にラジオを聴いているかのように感じることができる。ファンにとって「アイカツ!」のキャラクターはどこか現実と地続きのところに存在しているような感覚がある。
「アイカツ!」のキャラクターの誕生日を祝う時、毎年そのキャラクターの年齢を数えるファンは少なくない。今年、星宮いちごは20歳になった。
いちごちゃんお誕生日おめでとう!
はたちだね〜。出会った頃に言ってた夢が叶っちゃうね。私は来月!一緒にお祝いしよう〜🍓— 諸星すみれ (@smileysuu) 2019年3月15日
アニメが終わってもキャラクターたちは消えることなく、生きてアイカツをし続けている。キャラクターの生きる姿を描くのにはいくら話数があっても足りない。
「アイカツ!」にはたくさんのアイドルが登場する。作中でCGで描かれたステージを披露したアイドルを数えてみると、総勢28人。披露されていないアイドルも多数おり、その中に人気のキャラクターもいる。
長期放映のアニメで俗に言われるものに「当番回」というものがある。
特定のキャラクターにスポットライトを当てたお話のことを指すが、「アイカツ!」にももちろん当番回と呼べる回が多くある。
しかし、28人を超えるキャラクターの全員に満遍なくスポットライトを当てるにはあまりにも話数が足りない。当然キャラクターによって登場の頻度の差は出るので、「あのキャラをもっと見たかった」という声は常にある。
それだけキャラクターが魅力的であったことの証左ではあるのだが、178話という話数をもってしても描き切れていないわけである。
ただ、そういった「スポットライトを当てる」ことについては、第146話「もういちど三人で」で星宮いちごが語った言葉がちょうどぴったりだったので引用する。
「私ね、世の中のアイドルとか、みんなを照らすスポットライトって、ずーっと動いてる気がするんだよね。ぐるぐるって。ずーっとぐるぐるぐるぐるね。だから、その時その時で、照らされる人数は少ない。でも、照らされなかった人がいなくなってるわけじゃない。だから、次のチャンスは誰にでも来るんだよ。その場所に立っている限りね」
スポットライトの当たってないところでもアイドルたちのアイカツは続いている。
物語の舞台であるスターライト学園はアイドル学校で、つまり通う生徒たちは全員アイドルである。メインで登場するアイドル以外も皆アイドル活動をしているわけである。実は、クラスメイトにも全員しっかり設定が付いている。何気ないシーンで映り込んでいるアイドルや、一瞬映った雑誌に載っているアイドルにも名前がちゃんとついていたりする。スポットライトが当たっていない彼女たちも、「アイカツ!」の世界で生き、活躍している1人であることが想像できて、それが「アイカツ!」という作品の世界に深みを与えている。
さらに、アイドル以外にも、家族や先生、デザイナー、ファン、仕事の関係者等のサブキャラクターもアイドルに負けず劣らず魅力的である。
特にブランドのデザイナーは重要な存在で、アイドルが、自分の好きなブランドのトップデザイナーが作る「プレミアムレアドレス」を手に入れるまでの物語は「アイカツ!」のひとつの見所でもある。
デザイナーのブランドに対する考え方だったり、アイドルとの向き合い方・関係性だったりにもその人の生き方のようなものを感じることができ、それは、いろんなアイドルのいろんなアイカツの形を見るのにも似ている。アイドルでないキャラクターにもその背景や物語があるのを感じさせる。
また、当初はただのモブでしかなかったアナウンサーが、節目節目でのイベントでいつも司会者として登場するうちにいつの間にか名前が付くまでになっていた、ということもある。
何が言いたいかというと、「アイカツ!」を見ていると、登場する全てのキャラクターが魅力的で愛おしく思えるようになり、もっといろんな話が見たいと思うようになるということである。
歴代シリーズのキャラクターが大集合する新シリーズ「アイカツオンパレード!」の放映に際し、シリーズのダイジェスト動画が公開されている。
歴代シリーズプレイバック!『アイカツ!(2012年10月~) ver.』
歴代シリーズプレイバック!『アイカツ!(2014年10月~) ver.』
だいたい5〜6分の動画でシリーズがおさらいできるようになっている。
やろうと思えばアニメの内容をあらすじでさらっと伝えることはできる。主人公が「輝きのエチュード」や「SHINING LINE*」や「START DASH SENSATION」等の楽曲に至るまでの物語を理解してもらうために最低限のエピソードをピックアップすることもできる。
「アイカツ!」は基本的に1話完結のストーリーになっており、途中から見てもわかるような配慮もされている。単話で見ても面白い回はたくさんあるので、つまみ食いでもきっと楽しんで見ることができるであろう。
この回が良い、この回が好き、といった話に花を咲かせることもよくある。
それでもやっぱりファンとしては全話見てほしい。全話が全部大事な話だ、と本気で思っている。
星宮いちごが歩んだ道のりを軸に、物語上の重要なエピソードだけをピックアップすることになったとしよう。
そうすると、例えばいちごたちがただオフタイムを過ごすだけという第24話「エンジョイ♪オフタイム」は、含めなかったとしても物語の説明は可能である。でも、ファンとしてはこの話は絶対に外したくない。
また、いちごがメインでない他のキャラの「当番回」、例えば藤堂ユリカがメインの第89話「あこがれは永遠に」も含めなくてよいだろうか。確かに、なくてもいちごの物語を語ることはできるであろう。だがこの回で描かれた藤堂ユリカのアイドルとしてのあり方やデザイナーとの関係、ファンとの向き合い方、そういったものが全くいちごと関係ないなんてことはなく、作品を通して描かれているテーマの根幹に通じているものがたくさんある。
例えば「SHINING LINE*」の歌詞を紐解くときに、ただ美月といちごとあかりにだけ注目して考えるのでは、やはりもったいない。いろんなアイドル、いや、アイドルでないキャラクターたちにもそれぞれの「SHINING LINE*」があるし、「最初の風」もある。
「アイカツ!」の楽曲は、キャラソンというわけではなく、「アイカツ!」の世界で歌われるポップスであり、普遍性を持った歌詞になっている。もちろん、これは誰々が歌っているという「持ち歌」の考え方はあるが、ある楽曲を別のアイドルが歌うことでまた別の新しい意味が生まれる、ということが「アイカツ!」にはよくある。
などといろいろ考えていると、どの話も外すことができなくなってくる。いろんな人のいろんな出会いが物語を紡いでいる。全ての話が全部つながっている。
「アイカツ!」を代表する曲のひとつに「カレンダーガール」がある。
この曲には「何てコトない毎日がかけがえないの」「何てコトない毎日がトクベツになる」という歌詞がある。
詳しい説明は第22話「アイドルオーラとカレンダーガール」に任せるが、彼女たちの今日をかたちづくっているのは日々のアイカツであり、そして今日のアイカツがその先の未来をつくっていく。
私たちが「START DASH SENSATION」で涙するのは、そうした彼女たちのアイカツをずっと見てきたからである。
当方今年三十路。GLAYファンの姉と米米CLUBファンの母の影響で小さい頃から流行りのJ-POPをよく聞いてた。初めて買ってもらったCDは小沢健二「痛快ウキウキ通り」。
高校からバンド始めて、大学生時代は完全に拗らせてしまって、ポストロック〜エレクトロニカからニッチな沼にはまってノイズもミニマルテクノも現代音楽も、聞いたことのない音を探すのが大好きだった。
で、ここ近年の日本のインディシーンのシティポップリバイバルの波にはガッツリ便乗して楽しませてもらったし、洋楽のトレンド追うのも楽しんでたけど、ど真ん中の邦楽シーンは面白くないなぁ(正しくはいくらいい曲でも素直に受け入れたくないっていう拗らせの名残)って思ってた。
あいみょんも最初名前だけ見たときは「はぁ?」って感じだったし、『マリーゴールド』が話題になったときに友人と車中で聞いてみたんだけど「イントロのギターリフの歪ませ具合がまんまマイラバの『Hello,Again』と一緒じゃんwwえ、そこ参照するのww」とか話し合ってたわけ。紅白すごいねー(同じ関西人として)ぐらいだったわけ。
それがさ。
少し前にメンタルやっちゃって今も療養中なんだけど、鬱やらかすと感情の起伏がやべぇんだよね。調子いい時もふとした拍子にアップダウンのスイッチが入っちゃって。
特に(ほんとはダメだけど)アルコール入るとエモさの幅が今まで有り得んかったくらいグワングワンになるわけ。
そんな状態である夜たまたまYouTubeで『マリーゴールド』改めて聞いて、もう信じられないくらい泣いちゃったんだよ。もうBメロ終わりからサビ直前の展開でブワーーーって涙出てきて。
ヤベェ。脳の中で「虚構の青春回想モード」入った。こんな恋愛してねぇのに。マジ涙止まらんってなって。
多分音楽演奏する側に立った人なら分かると思うんだけど、一旦そっちの視点獲得しちゃうと、音楽を基本的にまず演者視点で見ちゃうと思う。
ポップスなら歌詞の展開とコード進行の関係とか、各パート毎の音の質感とか。
そうやって分解してみると、『マリーゴールド』ってマジでクリシェの塊なわけ。
先述の通りギターリフはマイラバだし、ギターロックの系譜を汲んだ90年代邦楽のバンド編成だし、コードも一聴してメジャーコードとマイナーコードだけで構成された一切気を衒わないド直球だし、歌詞は瑞々しい恋愛を歌ったこれまたド真ん中ストレート。
要素の集合として楽曲を見れば「クサすぎる」わけ。邦楽業界が一番潤ってた頃のど真ん中ポップス。ミスチルやスピッツみたいな。何番煎じなんだよって。
いわば拗らせ音楽オタクとしては「絶対こんなんで心揺り動かされてたまるかよ〜!!!!」って反射的に思っちゃうのね(でも拗らせてるからoasisは何度も聞いてその度拳を突き上げたりするんだけど)
なのにさぁ。
もう、ヤバイわけ。あああああーー音楽ヤベェよなんなんこんなベタな曲なのに新しい曲として生まれ変わった途端こんな心動かされるかよ。最高かよってただひたすら思いながらやっぱサビ来るたび号泣。
あえて理由を付けるなら、流行りが一周して90年代の邦楽が参照元として確立されたんだろうなぁってのは思う。周りに聞いてみても「懐かしい感じがする、これってどの世代が聞いても多分イケる音楽だよね」って反応が大多数。
でもぶっちゃけそんなんどうでもいいなー。ただただ新しい曲聞いて感動するってのがポピュラー音楽の一番素晴らしい部分だわなぁ。
またあいみょんの声が絶妙なんだよな。あれはほんとギフト、個人の資質だわ。
あと完全に余談だけど、Official髭男dismが流行ってるのもめっちゃ嬉しい。
個人的にはシングル曲のBメロがすげー黒いのね。オールドスタイルのR&Bや、それに影響された洋楽の美味しい部分を使ってる。で、サビがひたすらキャッチーだから繰り返し聞いちゃうのよね。今年どっちも紅白出ないかなぁ…。
Kーpopもまあ近隣のアジアでは一番エンタメがスマートに発展してるよね。(あくまで比較の問題だけど)
台湾と香港はかなり良いけど、規模がなー・・・あと香港ポップスはちょっと似たのが多い。
機械とかスナックとかも日本以外のアジアじゃ一番近代化してクオリティ高いんじゃない?あとはタイと中国かな。でもまあまだ韓国に追いついてないでしょ。台湾はいい勝負してると思う。(シンガポールみたいな金融全振り国家は除く)
なんか嫌韓親韓(だいたい親韓なんて言葉使うのは煽り目的の文脈が多いが)ってのは「韓国は全否定か全肯定かしかないんだ」みたいなカルト教団の勧誘トークみたいでキモいわ。
「大きなお友達向け」娯楽を生産するものはドラッグディーラーと同じであり、ヤク中を拡大するならいつか刺される覚悟もするべき、なのか?
件の書き込みが訴えているのは、要はその一点だと思う。
さらに言えば、歴史的に見て「若者のカルチャー」と目されてきたジャンル
先端ファッション
これらは全て、「若者」のみならず「いい年をした大人」にまで「終わらない夢」「永遠のアドレッセンス幻想」を提供することで利益を得ている。それらはいずれも「いま」を消費することで成り立っており、「未来」に何も残さない、砂の城だ。
では、これらの担い手もまた全てドラッグディーラーだということになるのだろうか?
それは、「文化」あるいは「娯楽」は悉くドラッグであるという主張と、どれほど違うだろうか?
もちろん、科学技術、知、歴史のように、「いま」を消費するだけでない、「未来」に向けて営々と何かを積み上げていく「文化」ももちろんあるだろう。だが、それ「しか」ない世界が豊かな世界だとは私には思えない。極論だが、ドラッグそのもののなかに「悪なるもの」が存在するのではない。私たちがドラッグと誤った関わり方をするとき、そこに「悪」が生まれるのだ。
だから、アニメ制作会社がドラッグディーラーだという論は、それが全く間違いだとも言わないが、その主張が何か有効な視点たり得るとも私にはあまり思えないのである。
陽気で活発かつポジティブなビッチ風女性ボーカルのポップスが景気よく鳴り響く。場面は東南アジアか南米の温かい田舎の街。昼間からバーで酔っ払うだらしのないおっさん。おっさんが女にからんだり周囲に呆れられる描写。その後突如としてパリっとした出来る男風な人物がおっさんに会いに来る。おっさんは実は出来る人物だったが過去にいろいろあり、今は飲んだくれてる。しかしとあるプロジェクトのため昔の仲間が探しにきてーー
っていうめちゃくちゃベタな描写をネトフリのサメ映画で見て、そのベタさ加減を心地よく見ていたんだけど、これの元ネタってなんなんだろう。他に例を思いつかないけどとにかく既視感ある。似た場面の出てくる映画あったら教えてください。
やっと80年代回帰が始まった。この分だと、90年代回帰が始まるのは、2010年頃になるだろうか。
ラジオから流れてくる80年代ポップスのカバー曲を聴きながら私はそう思った。
2010年。私が25歳になる年。同じ世代の大半の人がおそらくそうであるように、私は25歳の私を想像することができない。21世紀に入ってからというものの、時間感覚が酷く曖昧で、今18歳であることすら、実感が湧いてこないのである。
1995年と聞くと、つい最近のことに思えてしまう自分がいる。2001年、地下鉄の延伸。2002年、サッカーワールドカップ日韓共催。2004年アテネオリンピック開催・・・。小学生の頃教科書に載っていた未来の予定が、どんどん既成事実になっていく。あの頃の私には教科書の中の未来はどれも実現不可能なことのように思えたのに・・・。
ノストラダムスの大予言について、あれほど熱心に議論を交わしていた人々は一体何処に消えたのだろう?
ノストラダムスの予言の年、私は14歳だ。結構生きられる、と思っていた。そして1999年の7月1日のニュースでは、アナウンサーが笑顔で「さて、この世界もあと一ヶ月になりました」と言うはずだと思っていた。まるで年の瀬のニュースのように・・・。
人々は世紀末という言葉を忘れた。21世紀という言葉も、昔ほど使われなくなった。70年代や80年代のことはよく話題にのぼるのに、今が何年代と呼ばれるかについては、誰も口にしない。
物心がついてから10年余りが経った。総理大臣は何人代わっただろう。冷夏は何回あっただろう。巨人は何回優勝しただろう。
私たちの世代は昭和最後の一人になりうる。何歳まで生きたら、昭和の最期を見届けられるのだろう。明治はもうすぐだ。大正もすぐ後を追う。多くの人が愛した昭和が完全に歴史の中に入るのはいつのことだろう。
歴史は巨視的に見れば円軌道を回っているだけにすぎないのかもしれない。人はその一切片を直線であると思って生きていくしかないのかもしれない。
2020年のオリンピックに向けて作られた曲とかボーッと聞いてたんだけど、いやこれだけ長年に渡ってクオリティの高い曲を作り続けるってちょっと尋常じゃないんじゃね?とふと思ったわけ
長年に渡って活躍してるアーティストてのは他にもたくさんいるんだけどさ、とりあえず自分が思いつくのはユーミン長渕剛中島みゆきアルフィーとか。まあ他にも色々いるとは思う。
でも桑田佳祐ほどコンスタントに曲を出し続けてメディア露出もそれなりにこなしてる人ってちょっと思いつかない。やっぱ大御所になってくると露出は減るしたまに出てくるありがたみみたいなのも出てくる。
桑田佳祐ってその辺がまったくない。言い方悪いけどピッタリくるのが「なんか軽い」
これは作る曲もそうで、彼の作る曲って基本的に大袈裟なのが極端に少ない。ラブソングの名曲もサラリーマンの悲哀系世の中に問う系の重めの曲も、どれもクオリティは高いけどなんていうかあくまでポップス。これはユーミンもそうだけどユーミンはさすがに今は現役感は薄い。それに大御所感がすごい。桑田佳祐はやたらと腰が低い。これはな本人になにかしらのコンプレックスがあるのか、とにかく偉そうに見えるというのだけは絶対にイヤだという態度に見える。偉そうに見えるくらいならふざけてやろうというか。これはデビューからずっとそうなのかもしれない。
まあ本人のパーソナリティはともかくとにかく曲を作り続ける姿勢が凄すぎると思う。昔雑誌で読んだけどミスチルの人が桑田佳祐に曲を作り続けるのは大変だ的な事を話したら、いや曲なんていくらでもできるそんなのは簡単だよみたいな事を言われたらしい(うろ覚えだけど…)
しかしそうはいかないのだ。ミスチルも最近の曲を聴くとどうしても焼き直し感がある。自分の作ってきた曲達に縛られてるようにも見える。でも桑田佳祐とサザンはそういう呪縛も全然なさそうに見える。