はてなキーワード: 帰結とは
本好きの高じた結果、その購入物によって汚染された室内は、積読現象によって室内の壁際を、二周ほど周回したころから、家主は、危機意識をいだいた。購入欲求から出発した恒常的な床不足と家計破壊は、室内に家主の生息をゆるす状況ではなくなり、電子化は必然であった。
だからといって、本当に床が抜けてからでは、家主は、裁断機を運用し、自炊する力もなくなってしまうだろう。
電子書籍リーダーの導入は、家主は部屋とともに死にむかうのではないかという認識が、本好きからひろがった時に生まれて、電子書籍の購入が開始された。
電子化が開始されれば、すべての蔵書を均一に電子化させる、という家主の決意は、まちがいではない。
しかし、特例事項があったことが、その後の過ちをうんだ。家主が必要と認めた書籍は、部屋に蔵書できるという規定である。
条件はあった。
入手が困難な希少本と、画集のような今の形に意味がある書籍という規定である。
規定は、理想的にその理念を行使するということはないし、一般的な人びとの視点からみれば、床が、抜けていると見えないことが、この規定を拡大解釈して、運用されたのも当然である。
さらにいえば、本好きから産まれたビブリオマニアが、紙とインクのフィーリングを忘れることができるものではないからこそ、そこに、無条件に規定を無視したくなる思いがうまれた。
その欲求は、正しい。
しかし、ビブリオマニアのもっとも深い罪業は、積読の増殖が、室内環境と家計にとってもっとも危機的なものであるという認識を認知しないことにあった。
しかし、電子化は、その代償を家主みずから支払わなければならない時代であり、電子書籍時代とは、技術革新の時代でもなければ、祝福された時代でもないのである。
その認識から生まれたフラストレーションは、ますます本好きの人びと、ビブリオマニアたちに、物理本回帰の欲求に火をつけるのは、逆説的ではあるが、当然の帰結であった。
増殖した積読という本が、たえず回帰する形は、物理本でしかないという欲求は、ビブリオマニアの二重の罪業である。
しかし、床を完全に再生させるためには、千冊以上は処理しなければならないだろうし、千冊処理するあいだに、積読は、さらに増殖するだろう。
つまり家主は、すでに、蔵書全部が部屋におくことはできないと、覚悟をしなければならないのである。
これも、本好きには、容認できる認識ではないのだ。
しかし、現代は、すべての例外規定が排除されて、ビブリオマニアは、電子書籍リーダーに逼塞しなければならないのである。
『……でなければ、版元が起こした反乱も、あの時、死んでいったストアたちの霊もなぐさめられない……』
マスダは、そう思う。
俺以外の奴が返答して伸ばしてるね
置いてかれたw
さっきも書いたように、個別に対応できるならしたほうが、理想としてはいいんだと思うよ。
ただ現実には、どのみち数年待てば自動的に得られる(しかも生存に必須でもない)権利を数年待たされる程度の「抑圧」と、
いちいち「計測」するコスト、「計測」の方法や基準について社会的合意を形成するためのコスト
その他諸々はかりにかけて、許容範囲の「抑圧」だと社会的に判断されてるんでしょ。
色んな人間が多数集まって社会をつくれば、そこに「抑圧」が全くゼロになるってことはないよ。
みんな多かれ少なかれ何かを「抑圧」されている。
就活もスタートし毎日きゅうきゅうとしている学生達はみんながみんな(主にツイッターなどで)「内定欲しい」とつぶやいている。
それを見ると私は日本人の誇り高さに感服せざるをえない。
他の民族にとって仕事とは罰であり、金を得るための手段でしかない。
奴隷をたくさん持っていれば自分はしなくていいことを、奴隷を持っていないがために自分がしなくてはいけないのである。
そういった人にとって、真っ先に出る言葉は「金欲しい」なのだ。
「仕事が欲しい」ではない。
しかし、それは他に手段がないから仕方なくするのであって、真っ先に欲しいものではない。
それは社会に正のフィードバックを与える立場を欲しているのである。
人の役に立ちたいのである。
どんなに茶化していても、「竹やぶで一億円拾いたい」とは言わないのだ。
は、興味・コミュニケーションについて特異性が認められる広汎性発達障害である。
興味の面では、特定の分野については驚異的なまでの集中力と知識を持ち、会話の面では、聞かれたことに対して素直に答える(「空気を読む」などの行為を苦手とする)、といった特徴を持つ。 日本語ではしばしばアスペルガー, アスペとも略して呼ばれる。
各種の診断基準には明記されていないが、総合的なIQが知的障害域でないことが多く「知的障害がない自閉症」として扱われることも多いが、自閉症と言っても決して他者との会話を避けようとするようなものではない。
は人間に身体的・精神的に不利を強いることとなる欠点が存しており、それを原因として社会などといった対人関係を必要とされる場面で十分なコミュニケーションをとることができなくなるという障害。コミュ障と略されることもある。
人間は他者を認識する能力を身につけ、社会生活を営んでいくうちに、「誰かから認められたい」という感情を抱くようになる場合が多い。この感情の総称を承認欲求という。承認欲求は、主に子供や何らかのハンデキャップを抱えている人々などの社会的弱者、劣等感に悩んでいる人間、そして情緒が不安定な精神病患者やパーソナリティ障害を持つ者に強いという傾向がある。その反対に、自閉症などの他者とのコミュニケーションが難しい、あるいは既に承認されたという経験があるので、それ以上の承認を必要としない人間は、それほど強い承認欲求を抱えない。以上の理由から、承認欲求は先天的な欲求ではなくて、対人関係を学習する過程で育まれる後天的な欲求である可能性が高い。
承認欲求は承認されたい対象によって、おおむね2つのタイプに大別される。ひとつは他人から認められたいという欲求であり、もうひとつは自分の存在が理想とする自己像と重なるか、あるいはもっと単純に今の自分に満足しているか、という基準で自分自身を判断することである。前者を他者承認と呼び、後者を自己承認と呼ぶ。劣等感の強い人間や、情緒不安定な人間は自己承認が困難だったり、あるいはその反対に過大な自己評価をしがちであることは、よく知られている事実である。また、思い込みが強い人間や被害妄想に囚われている人間の中には、幻想の他者を造り出してしまうために、自分が他者承認の問題であると思っていても、実際には自己承認の問題であるという錯誤がしばしば発生する。
また、承認欲求は、どのように認められたいのかという『認められ方』の違いによっても、おおむね3つのタイプに大別される。ひとつは上位承認で、自分が他人よりも優位な関係で認められたいという欲求である。こうした欲求を抱える人間は、極度のナルシストか、あるいは他者に対して強い猜疑心や被害妄想を抱えているケースが多い。つまり、他人が信用ならないから他人を支配する存在として振る舞いたいか、あるいは自己を過大に評価した帰結として、自分が他人より優れているのは当然であると考えなければ、上位の存在として認められたいとは思わない。
もうひとつは対等承認で、これは読んで字の如く他人と自分の関係が平等であることを望む欲求である。これは、「人並みに認められたい」と考える劣等感の持ち主にしばしば見られる欲求である。そして、最後のひとつである下位承認は、自分が他人から蔑まれたい、あるいは吹けば飛ぶような存在だと思って欲しいという欲求で、被虐的な性癖のある人物や、社会的・道義的な責任を背負いたくないと考える人間、そして他人に依存したい、保護されたいと思っている人間が抱きがちである。
承認欲求は以上のように分類可能であるが、現実の人間はこれほど単純ではない。たとえば、強い上位承認欲求を持っている人間が、わざとへりくだった態度をとって相手に優越感を持たせ、そのことで他者の感情をコントロールしよう、といった行動をとるケースは非常に多い。これと類似のケースとして、病人や怪我人であること、あるいは不幸な環境に置かれていることを大げさに吹聴することによって、他人からの同情や歓心を買う(承認される)ケースなどが挙げられる。
RTで個人の発言が出回る時は
大体この2通りだと思う。この発言は後者の前提で出回ってる。
誤読される理由がわからないそうだが、最初から悪意を持って客観的に読んでみるとわかるのでは。
『言い方は悪いが所得の低そうな人ほど、牛丼チェーン店で店員に「ごちそうさま」と言う(本来不必要なレベルの)礼儀正しさを備えているように思えるのは興味深い』
(1) 言い方は悪いが所得の低そうな人
「自分がこう思うだけかもしれないんだけど」という弱気を前提にした一節らしいが、傲慢を前提に読むと真逆になる。
・書いた人の意図 『(あくまで僕の基準に照らしあわせたうえでの)低所得そうな人』
・読む側の捉え方 『(他人を表現する上で悪い言い方ではあるが、誰がどう見ても)低所得そうな人』
・書いた人の意図 『ごちそうさまを言うのは義務ではないのに』
・読む側の捉え方 『ごちそうさまを言うことは本来不必要だというのに、無駄に』
(1)の傲慢前提と組み合わせると、
『低所得者ごときが、ごちそうさまを言うことは本来不必要だというのに』
に悪意が肥大化する。
(3) 備えているように思えるのは興味深い
婉曲表現に期待しすぎ。「いるように思える」も「いる」もツイートごときの文脈ではたいして区別してもらえない。
あと、「興味深い」はネットだと丁寧っぽいだけの煽り文句として使われがち。 例:「>>1はこの糞小説が面白く読めるんだ、興味深い頭してんなー」
煽る相手は誰かと読み手が想像すれば、ツイートの最初にある「低所得」だろう、という結論に至る。
・書いた人の意図 『あくまで僕の中のイメージだが「備えている」ように思える。このことを僕個人は興味深く感じる』
・読む側の捉え方 『低所得者ごときが備えているんだ、面白いw』
こんな流れで、悪意的に読む側の立場からツイートを再構成するとこうなる。
『低所得な奴ほど、牛丼チェーン店で店員に「ごちそうさま」って言う。言う必要なんかないってのに、低所得者ごときが無駄に礼儀正しくて面白いw』
じゃあ、真意を伝えるためにはどう書けばよかったんですか!?とnanaoku氏は思うかもしれない。
個人的な意見でしかないと自覚してることはtwitterなんかで書くな。自分のブログなりチラシの裏に書け。
そもそも、容易に誤読される内容を140文字で書けると思うな。どうしても公開したいならすべての誤読の可能性を潰す勢いでブログに書け。
最後まで泣くんじゃない。
システム一式○○万円でござい、と出すと「もっと具体的な根拠を出せ! そんなんで当社の社内決裁通らんわ!」って言われる。言われた。
具体的な根拠(=原価見積もり書的なもの)って何?っていうと、労働集約型産業なので、そのシステム作るのに何人が何ヶ月張り付いたか、に帰結するんだよね。
プログラムコードの行数で原価算出する手法もあったりするんだけど、古い大企業や公的機関といったお固いところほど、人月による詳細内訳が【求められる】。
「発注の前に、プロジェクトのメンバー構成表(各人の実名入り)出して」とかね。開発現場激励という名目の視察チェックが不定期に入ったりとかね。もうね。なんだろうね?
人月計算で見積もり出してプロジェクト動かしてるにも関わらず、システム会社の人間が死んだ魚の眼で一日中キーボードを叩き続けてる理由。
・技術力および経験不足で見積もりミスってる。(および、競争入札で一番安いとこに発注するって言われたから無理なダンピングしてる)
・進行中のプロジェクトにおいて、上流マネジメントの失敗で追加仕様や仕様変更が頻発してる。
・開発メンバーの中に役立たずが混ざってる。
この全てでございます。
最近は裁量労働制がトレンドだから遅くまで煌々と働かせても残業代払わなくていいし、生かさす殺さずで搾り取ろう! ふぁいと!
なんで大きな開発案件ほど、UI 設計にちゃんとした時間と工数割かずに適当にやっちゃうんだろうね? 不思議。
設計の最初の段階で【画面仕様書】という名のポンチ絵を書いて、ユーザ承認が降りたらもうあとは動かしたりしないんだけど。
おおむね、システム開発一筋30年みたいな大ベテランが伝統の技を活かして固定画面でキーボード操作オンリーの前世紀 UI になるか、ロクな経験も無い頭でっかちの若手がドヤ顔で最新トレンドを取り入れてメニューがやたらパカパカ閉じたり開いたりする落ち着きの無い UI 設計になる。なった。
激しく使いづらいと、作ってる側も認識してるけど、その段階ではもうどうしようもない。ゆくみち戻れず。
実現場の利用ユーザには大変申し訳ない限りだけど、これはもうシステム会社まかせにしてても現実問題どうにもならんです。
だって、システム会社は納品済ませれば仕事完了だし。その先毎日10年に渡ってうんこ UI と延々付き合い続けるのは、あなたがたなのだから。
画面仕様書が提示されたら、懇切丁寧に読み込んでチェック入れて赤字だらけにしたものを「バーカバーカ」って言いながら突き返しましょう。
その手間隙は絶対に惜しんではいけない。
開発会社から「ユーザインタビューの時間を下さい」って言われたときに、日常業務が忙しくて時間が取れないって断るのは自殺行為だ。残業してでもたっぷり時間取れ。
エラーメッセージに意味不明のシステム情報出すのは、システム会社が100%悪いですね。
さすがにそこまでユーザ側に設計チェックさせろというのも無理筋な話。TCO に密接に関わるんだからおざなりにせず、もっと気合入れて丁寧に案内作りましょう。
全メッセージ「システムに不具合が発生したため処理を中断します。詳しくはシステム担当にお問い合わせ下さい」とかやらないように。約束だよ?
本業の利益ベースでウン億円も稼ぐ苦労に思いをはべらすと、感情的にもなりますわな。日々 100 円単位でコスト削減努力に血道をあげてるっていうのに!
このあたりはシステム会社の営業がちゃんと、ユーザが心から納得できるように丁寧に説明して理解させろ。頑張れ。超頑張れ。
まあこれについては根本、大規模システムにおける競争入札制度の欠陥ってのが何十年も前から指摘されてて、全く改善の目処が立っていない絶望的な今が有るわけです。
ユーザ側企業は「こんなこといいな、できたらいいな。空を自由に飛びたいな。さて、ハウマッチ?」で競争入札を求めてくるし。
システム企業側は「え? もうちょっと詳しく話を聞かせてくれないとなんとも…あ、とりあえず予算組のために総金額だけ知りたいですか。入札日は2週間後!? あわわ…えーと、んじゃ、どんぶりで…こんぐらい?」って杜撰な見積出して来るし。
まあそんな適当な入札、勇気を出して見送ればいいんですよ。でもそんな適当入札しかないんですよね世の中。武士は喰わねど高楊枝、なれど妻子は喰わしていかねば。
スタートラインがそんなだから、ボタンの掛け違い一つで開発プロジェクトはいともたやすく炎上するし、末端の開発人員はブラックだし、上層部はいつまで経っても終息しない開発とテストのエンドレスエイトに夜も眠れぬ日々を過ごすし、できあがったシステムはうんこでユーザ側も大変だし。幸せってなんだっけ?
システムの要件定義契約と、実際のシステム開発契約を分ければいいんじゃないって皆が思うのだけれど、まあ現実問題これもなかなかねえ。どうすればいいんでしょうね?
酒飲みながらそういう話してたんだ。
私がうぶすぎたのかしら、
完全に悪の権化、嫌々、何それセクハラやめてよの対象として捉えていると思っていたのだけれど、
実はそんなことなくて。
ちょっとあんためくってよ的なテンションだったりしたんだって。
そんなアホなって。
その子はその子でなんか勝ち誇った感でその時は丸く収まったんだけど。
そして、その話をまた別の機会に持ちだしたんだ。別の同世代女子に。
すると、やっぱりそんなの常識で、
むしろ、パンティめくられる順番決める為に打ち合わせしてたとか、
めくられないけれど、いざという為に
パンティめくりの達人、クラスで一番かっこいい男子の和也くんの、
いや、私あほだったな。
全然そんな曲線見えてなかったわ。
需要過多で私のまわりは物凄いかわいいパンティだらけだったかもしれない。
と言うことを考えながら山手線の中、
危ない、妄想に侵されかけた。
おまわりさんおれです。
本当に恐るべきバカだなキミは。
前提に間違いがあるがゆえに、論理的な帰結を間違えたんじゃない。
小学校で教えられている方法は浸透しているという前提には十二分な妥当性がある。
交換法則は小学校で教えられることであり、キミの周囲の大人たちは単にそれを応用しているだけであると考えることも出来るし、
「小学校で教えられている方法」とは「順番はないよ派」の主張に基づいたものだと考えることも出来る。
単にキミの主張している
「4人のお友達に3コずつアメを配ります。アメは全部で何個必要ですか?」って文章を数式に引き直したら4×3だろ。3×4じゃない。
「4人のお友達に3コずつアメを配ります。アメは全部で何個必要ですか?」を数式にひきなおした時に、日本人の多くが3x4と認識するならば、3x4が正解。
基本的には数字の出てきた順に書くのが一般的。まあ、個別に順序のルールが定着しているものはあるけど、小学生に教えるならまずはこの一般的な順序からでしょ。
つまりキミが認識している「順序は大事」「一般的なひきなおしかた」がキミの誤認によるもので全く一般的ではない、という結論に至る。
それ以上に、ただでさえネットで妙なデマが出回っていて悪い話ばかり信じられてしまうという困った状況を打破するために監査に入ってもらってリリースまで出しているのに、虚構新聞みたいな、ヘタすると「本物のマスコミ」と誤解されることすらあるような有名所が足元からひっくり返すようなネタをばら撒いたら激怒するだろ…
日本ユニセフを単純に「この世全ての悪」にして喜んでるボケナスにとっては「日本ユニセフはネタも分からない」「実は事実」と勝手に帰結しておけば済む話かも知れんが、ネタが許されるかどうかは時と場合による、ってのはわりと常識的な話だと思うんだが。
少なくとも面と向かって泥塗った上に「うっそでーす」とか言ったら、相手に張り倒されても文句言えないだろうに。
http://b.hatena.ne.jp/entry/hotentry.hatenablog.jp/entry/2013/11/05/182712
はてなが身内によるブクマを禁止してるどころか、ソーシャルとしての可能性にかけてみた。なのは当たり前なんですよ。
お前らの記事が単純に
つ ま ら な い か ら
に帰結するんですね。
もはやダブルスタンダードどころじゃない。
俺らは仲間内でも面白い記事ブクマするけど、お前らは仲間内だと糞記事ブクマするからやめろ。
このジャイアンスタイルは、本質的に間違ってない。というか、君らも心当たりあるから謝罪とかしちゃったね。
というより、自称情強のはてばかブックマーカーが日夜戦い続けてる普遍性という「理不尽な空気」そのものなのよ。
ブラックの恩恵を受けながら、ブラックを批判する。そういうダブスタこそブックマーカーの本質なんだよね。
理論が間違ってるなら、誰かに責任なすりつけて批判とか出来るから。はてなというアーキテクチャのせいとか。
なに村人に謝罪回りしてるの?
いや、違うんだよね。
君らは、本来はてななんてどうでもいいと思ってる。
はてなを動かす人達のアホくさい宣伝を「利用」しようとしただけ。
それを「利用」したら、なぜかほかのユーザーに叩かれた。
理不尽だ。でも、よい。だって。君らの目的は、はてなじゃない。
ともだちの空気読んではてぶを利用しようとして怒られたら
ともだちの空気読んではてぶに謝罪する。
一番慰めてくるのは、アクセスログの人数なんですけどね。
@kaolu4s @pendulumknock 10;それは結局、彼を選挙で当選させてしまった10;東京都民の問題に帰結する処でしょうね。10;一票によって行使される権利が如何に重いか、10;もっと認識しないと…— Xephyr (@Xephyr2009) October 31, 2013
少なくとも俺は山本に票落としてねえんだが?
ふざけんじゃねえよ馬鹿が
山本がどんなバカ野郎でも票が入って当選してしまったのは事実だ
だがその1票1票は少なからず投票者の思い入れがそれなりにあったに違いない
そういう所から否定をかます奴は心底の屑野郎だ。人間としての神経をも疑う
結局のところこういう奴等は「俺が気に入ってない奴に票を入れる存在は全て愚衆だ、死ね」と思い込んでいるんだろう。救いがたい馬鹿だ。
こういう奴等のいう選挙とは既に当選すべき人間が予め決まっているクイズゲームで、それを外す奴等はとても許し難いんだろう。とんだ茶番だ。
@Xephyr2009のTL覗いてみたがまあ酷いのなんのって
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@kaolu4s @pendulumknock 10;天皇が"象徴"だったのはそれこそ平安期からずっとですよ。10;まぁ例外的な事例もありますが、それが日本の"かたち"。10;それを否定する原理が日本にはなかったので、10;"朝幕併存"という独自の国体が維持されてきた。— Xephyr (@Xephyr2009) November 1, 2013
@kaolu4s @pendulumknock 10;そもそも、やめる必要あります?— Xephyr (@Xephyr2009) November 1, 2013
@kaolu4s @pendulumknock 10;皇室外交 10;でググることをお勧めします。— Xephyr (@Xephyr2009) November 1, 2013
@kaolu4s @pendulumknock 10;そう思う人が多ければ、10;"何れは"それが世論の主流になるでしょうね。10;現時点では必ずしもそうなってはいませんし、10;これからそうなる保証も出来かねますが。— Xephyr (@Xephyr2009) November 1, 2013
@kaolu4s @pendulumknock 10;だからこそ日本の看板(つまり"象徴")としての利用価値がある、10;というのが俺の持論です。10;天皇の存在はまさに日本の独自性。10;独自性とはつまり、"他にないもの"ですから。10;他国に日本という国を印象づけるまたとない宣伝材料ですよ。— Xephyr (@Xephyr2009) November 1, 2013
@kaolu4s 10;国際社会に於けるその"好感度"の高まりこそ、10;相手にとっては兵器以上の"切り札"に使えるものですよ。10;威力を用いた恫喝でないから表立って反対も出来ないし。— Xephyr (@Xephyr2009) November 1, 2013
蟻と違って人間は近道をする動物だって話を、どっかで聞いたことがある。
エスカレーターに限らず、交通、とくに鉄道まわりは、まともにキャパシティプランニングできてないくせに、事業者でも行政でも立法でもなく、あれもこれも任意のルールに「ご理解とご協力」だとか、マナーを守れという所に帰結させ過ぎ。
車内での携帯電話やベビーカー、女性専用車両も全部根っこは同じ。
みんな思ってるんでしょ?ズバ抜けて儲かってる埼京線が、どんだけ混んでんだよ、とか。あんだけ深くなった東横の渋谷駅なのに、階段もエスカレーターも足りてねぇじゃねぇかよ、とか。
力を入れて人を押しのけないと降車できない通勤車両。小柄な女性は「降ります!」と必死に声を上げている。溢れる人を押しこむ駅員。その上「エスカレーター歩くな」なんて言われたらもう、自分はブロイラーだと思うしかない。
おかしいよ。やっぱり。
それで意味あるじゃないの。少なくとも学生はバカでもなんでもなく、合理的に行動しただけ。
合理的に行動してる相手の行動を責めるのは簡単だけど、それじゃ世の中どころか研究室の中の事すら変えられない。
世の中の役にたってないと思うなら、変わるべきは大学や研究室、教授であって学生じゃあない。
2年で単位と就活と研究全部やったらどれか中途半端位なるやつはそりゃあ出てくる。
現状じゃあ、真面目に研究して就活が中途半端になって、博士課程に進んでポストのないポスドクになる方がリスク高い。
そのリスク高い道をあえて選ぶのも選択肢だけれど、そうじゃない人を責めるのは間違い。
※以下で記述されるものは第一に愚痴であり、第二におそらく特殊な事例です。一般化して生活の知恵とすることはできないのではないかと私は思っているので、時間を無駄にしたくない向きや面白おかしく楽しい記事を読みたい向きはアレしてください。
※一応申し上げておきますと表現規制方面とはなんの関係もないです。
私は今日(8月31日)、ディナーとしてお好み焼きを食しました。母が心をこめて拵えたもので、大変おいしゅうございました。
ただ、その大きさが私の腹具合に対してある意味で威圧的であり、私はお好み焼きの傍らに鎮座する白米をなかったことにしました(単純に食べなかったということです)。
食事後、麦茶を飲みながら家族でバレー女子のワールドグランプリを観戦していた折、父がおもむろに戸棚からせんべいを引っ張り出してきて、母と私に勧めてきました。
これに母、「おせんべいを食べられるならご飯も食べられるでしょう」と反応。御意にござります。食わざるもの食うべからず(Google検索結果 5件)。
次の瞬間発された、母に対する父の言葉こそ、私から言葉を奪ってそのまま姿を消した、犯人です。
「そういう言い方をされたら、『じゃあいらない』と言いたくなってしまうよ」
まず前提として、父がせんべいを持ってきた時点で、私にせんべいを食べる気はありませんでした。私のぽんぽはお好み焼きで満たされており、満腹中枢は「いや本気出せばいけるよ?いけるけどねー、今ちょっとそのタイミングじゃないと思うんだよねー」とのたまう体たらくだったのです。
思い返せばそのときにいらないと言えばよかったのですが、TVはデュースを告げており、正直せんべいどころではなかったので生返事をしてしまったのです。そこへ母です。
「おせんべいを食べられるならご飯も食べられるでしょう」発言には、口ぶりに冗談のニュアンスも含まれてはおり、「そもそもすでにお腹いっぱいです」と応えれば意地っ張り感はまだあまり出さずにせんべいとお別れすることができたでしょう。しかし相手国のセットポイントに気を取られた私に隙はありまくりでした。
次の父の発言「そういう言い方をされたら、『じゃあいらない』と言いたくなってしまうよ」に対しては、もう打つ手はないように思います。これに乗っかってせんべい不要論を唱えても、その言葉に信ぴょう性は与えられず、両親に私が意固地になっていると思われることは必至です。もちろん、どちらかあるいは両方とも食べるという選択もありえません。お腹いっぱいなのですから。
最も良くないことは、ここで私が何も言わないことによって、両親の心に「私はせんべいを食べたかったのだ」という認識が帰結してしまうおそれが十分にあったことです。
この状況では、私はどうあがいても、またあがくことをしないでも、せんべいが食べたかったことにされうるのです。私の意志を置き去りにしたままで。
以上が今宵(31日)私の身に起きた大きな悲劇です。ここまで読んでくださった方には、労りと感謝の念を着払いでお届け致します。
もし上記の愚痴の内容に関わりのある、またはまさにそのものを説明している社会心理学その他学問的な文献などご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひお教えいただきたいです。と思っているのですが、増田ではそういうことは基本的になされないのですかね。はてなは勝手がわかりません。でもクレクレ文は書いておきます。
http://anond.hatelabo.jp/20110824143747
そもそも大企業における人事部の仕事とは何か。それは「人事ポートフォリオの管理」です。
企業が大きくなればなるほど、現場単位での採用というのは非効率を伴います。欧米のようにジョブ単位での管理がしっかりなされていれば、それでも「ここの課でこの仕事をする人が1人足りない」という形で標準化でき、HumanResourceはそれを機械的にアナウンスするだけ(そして労働市場もそれを前提に回る)ですが、新卒採用が中心でジョブ対職業能力の関係が標準化されておらず、メンバーシップ外からの調達が難しい日本では「この仕事のためにこの能力を持つ人がほしい」となったときにわざわざそれをひとつずつ探すのは大変な手間がかかります(もっとも最近はネット転職サイトなどのおかげでそのための環境も少しずつ整備されてきていますが)。
よって大企業における人事部には、長期的な視点のもと計画的に人員を育成し、いつどこで欠員や人員需要の変化が発生してもある程度は組織の弾力性が吸収してくれる体制を逆算して作り上げる責任があります。これが“日本における”人事ポートフォリオの管理であり、その逆算の起点こそが新卒採用になるわけです。
このような視点から新卒採用というものを見ると、理想の新卒とは「どのような職場にも適応でき、あらゆる技能を吸収できる」ような人間ということになります。もちろん現実にはそのような人間はいませんから、そこを「コミュニケーション能力」なり「人間力」なり、あるいは元エントリのような減点主義なりで繕ってみるわけですが、もちろんそれが欺瞞であることはおわかりでしょう。そしてこの欺瞞で自分自身までも騙してしまった結果、上記エントリのような無能人事部員が出来上がるというわけです。
(「リーダーシップ」なら、長期的な視点から見ても新卒採用において求めうる要素かなぁと多少は思います。現在のシステムでそれを適切に評価できるかどうかは別として)
このような「人事部中心主義」が「組織の官僚化」以外にどのような帰結を生むかについては、まぁhamachan先生の本でも読んでください。(というか基本的にこのエントリここまでhamachan本の丸写しだし……)
http://anond.hatelabo.jp/20130826033127
こういうベンチャー企業の場合、人事ポートフォリオという概念がそもそも存在しません。そもそもの企業規模が小さいので弾力性を持たせようがないうえに、必要となる職業的能力がコアすぎて新卒採用からゆっくりとやっていては倒産マチガイナシです。ゆえにこの方の感覚は非常に正しいと思います。ただ、企業の規模が今の100倍になったときに同じ感覚ではいられないでしょうね。
http://anond.hatelabo.jp/20130826163155
「中小企業に大卒が増えている」理由は、大卒率の増加だけでなく大企業側のメンバーシップ枠が縮小していることも原因です。このエントリで書いたような原理を理解せずとりあえず大企業の新卒システムを形だけパクってみました、というところが実に多い。少なくとも減点主義は中小企業では明確にアウトです。規模がないのに新卒を採ると結局長期的な育成ができず使い潰すか腐らせるかの2択になりがち(→「すぐ辞める最近の若者」orブラック企業化)です。ただ、上記ベンチャーほど必要となる職業能力がコアでない(=「人間力」で回ってしまう)というところも中小ほど多いのは事実なので、トンデモブラック以外はなんとかなっているのでしょう。
「うちら」の世界 — http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/06/155425
私のいる世界 — http://luvlife.hatenablog.com/entry/2013/08/07/221155
「低学歴」って言うな。— http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20130810/1376143977
SNS炎上と"低学歴の世界"の構造を分析。 — http://togetter.com/li/545991
ここ最近、「低学歴の世界」というワードを目にする機会が増えました。発端となったブログの内容と、自分の周りで議論されている内容、そして自分が考えていることは方向性が違うのですが、その「低学歴の世界」のあり方や「高学歴の世界」との関係、溝、そしてネーミングそのものが議論の対象になっているので、自分も思うところを書いてみようと思います。
・教養の低さ
・ローカル性
という特徴を持っているとされています。前提として、このような特徴を持ったコミュニティ、世界が現実にあるのだということは、このノートを読んでくださる人々に認識していただきたいと思っています。程度の差はありますが、上記5つの記事に書かれている内容でおおむね合っています。
ネーミングについて
僕自身もその「低学歴の世界」に、身を置いていたとは言わないまでも、通りを挟んで向かい側くらいまで近付いたことがあります。そこで感じたのは、そういう世界に身を置くかどうかは、(親をはじめとする周囲の)学歴という要素はとても大きい、ということです。分かりやすいレッテルを貼っているだけだ、とか、学歴で切り分けるな、とか、上から目線だ、という批判もありますが、現実にそういった世界をのぞき込んでみると、決して外れてはいないな、というのが思うところです。(また、全く次元の違う話ですが、これが例えば「下層の世界」というネーミングだったら、ここまで話題にならなかっただろうと思います。この話題をここまでバズらせてくれたという意味でも、この名前には功績がある、と思うのです。)
「低学歴」という呼び名では、単に「学歴が低い人々の集まり」くらいにしか聞こえないので、本質をとらえきれていない、という批判があります。上記の記事や自分なりの体験をもとに、この「低学歴の世界」の特徴を考えてみたいと思います。
究極のローカル性
この「低学歴の世界」の最大の特徴は、小中学時代に形成された地縁社会がほぼ一生続く、という究極のローカル性です。
低学歴の世界って何と無くわかるんだよ、高卒とか地元の専門、地元のFラン卒業して、中学の時の奴らとつるみ続けて、世界を知らない、それでも彼らは幸せなんですよ。
法律や経済に無関心、それで生きていけるから、ITにも無関心それで生きていけるから、大切なものは地元の友達だけ、地元最高みたいな人が。
本来ならば"低学歴の世界"の人々は親や先生との対立によって自らを止揚させて行き、大人になるが親や先生の能力が低いと止揚ではなく社会からの逃避によって解決を図る。
お互いに逃避した友人と遊び、逃避した同士自らをさらけ出し、自らの文化(culture)を養成していき、自らの常識を育んで行きます。
テレビの世界は全く違う世界の出来事を映す、代官山のお洒落なカフェ、原宿のお洒落な洋服屋さん、六本木の華やかなクラブ、それは"低学歴の世界"から見たら全くの虚像なのです。
彼らが持っている世界は小学校のころから使っていたコンビニ、最近出来たバイクで20分のトウキョウのシミュラークルとしてのイオンモール、それと国道沿いのチェーン店と出身中学・高校くらいなものです。
なぜなら決して地元から離れる事が出来ないから(考えすらしない)、"低学歴の世界"の交遊関係は幼少のころから続いており新しい環境に行くことが出来ない、疎外されるからです。
この記述は、その特徴を痛々しいほど正確に切り出していると思います。"彼ら"はとても世界が狭い。このような世界で、子供達は学区制に従って地元の小中に通い、テストの点数に従って近場の高校に通い、多くはそこで卒業して就職し、一部は地元の専門学校か大学に通い、一部が進学や就職でコミュニティを離れ「外の世界」に出て行く。これらの区分けのうち3つ目と2つ目の一部だけが「低学歴の世界」を(一時的に)脱出し、多数派の1つ目、2つ目の一部が「低学歴の世界」を構成する次世代となります。
ネーミングにも表れている「低学歴(※字義通り)」という特徴は、確かに当たっている、と言えます。彼らは多くが高卒、または地元の専門学校卒で、大卒者は少ない(大卒者は大学に依ったコミュニティを作ってしまうので、関わりが薄い)。それはローカル性と一体のものです。大学入学にはもちろん学力の問題もありますが、そもそも「低学歴の世界」の人は大学に進学することを考慮していない人が多いのです(理由は後述)。地元を出て高い金を払って進学しようと思わない、かといって就職のために県外に出るのも、という人が、地元で職を見つけて大人になっても地元に留まります。必然的に、構成メンバーが「低学歴」寄りになるのです。
しかし注意しなければならないのは、その「低学歴(※)」というのはどちらかといえば「低学歴の世界」が作り出した結果に近いものであって、その世界を成り立たせている要因ではない、ということです。「低学歴の世界」が「高学歴の世界」と断絶してしまっている最大の要因は、その世界の子供が、親世代から「低学歴の世界」を脱出できるような教育を受けられず、「低学歴の世界」が再生産されていく力が強い、ということです。
つまり僕が「低学歴の世界」の大きな要素として挙げたいのは、先程のローカル性に起因することですが、「自分の慣れ親しんだ世界の外に出て行く、子供を送り出す」という意識が、「低学歴の世界」に欠けていることです。だからこそ、自分が通ったことがない「大学」に子供を通わせようとも思わないし、海外に旅行する必要も、就職のために大都会に送り出す必要も感じない。インターネットをはじめとするツールは「世界」の仲間と交流するためだけに使えばいいから、きちんと学ぶ必要はない。
そこから生じる一つの帰結として、「子供を教育し教養をつけさせる」という意識が子育てをする家庭や地域に欠落していることも、この世界が持続する要因となります。自分がかつてそうだったのと同じように、また周囲と同じように、小中学校での教育に関心を払わない(払えない)、大学進学の必要を感じない。この意識の欠落によって、次世代が低学歴(※)を受け継ぐばかりか、「低学歴の世界」そのものが次世代にも再生産されていきます。
自分が暮らしている世界で事足りるのだから、子供もそれで十分だろうと思う、その意識が「低学歴の世界」という閉じたコミュニティを再生産していきます。
ここまできてやっと、学歴そのものは本質的な要因でないことが分かります。たとえば、中/高卒の芸能人なんか山ほどいますが、彼らの多くが「高学歴の世界」の住人である...とは言えないまでも、上記にあるような「低学歴の世界」の住人ではなさそうだ、ということは、感じられるでしょう(彼らの中には「低学歴の世界」出身の人も多いはずですが、容姿や芸能のセンスを武器にその世界を出たのだ、と言えます)。これを読んでいる「高学歴の世界」の皆さんは、将来自分の子供ができたとき、勉強が不得意で、東大や医学部どころか大学進学もおぼつかないくらいだとしたら、どうしますか。それでも必死に教育するでしょうし、学歴は身につけられなくても教養は教え込もうとするのではないでしょうか。「教育を受け(させ)教養をつけ(させ)る」「自分の慣れ親しんだローカルな世界の外に出(させ)る」という態度の有無が本質なのです。
こうした「子供を教育する」「子供を外の世界へ送り出す」意識は、もちろん親の学歴や経済力で生まれる面もあるし、土地や人間関係にも左右されるが、親世代の「『低学歴の世界』の外を見た体験」の有無、これが決定的な差を生みます。たとえ親世代に学歴や教養がなく、「低学歴の世界」に身を置いていても、外の世界を知って子供を送り出そうと思えば、経済大国であり、不十分ながらも支援システムがある日本でなら、可能だからです。「子供を外の世界に送り出す」というプロセスに成功すれば、その家庭はそこで「低学歴の世界」から離脱することになります。
しかし、ここに最大の隔たりがあります。「『低学歴の世界』の外を見た体験」というのは、基本的には学生時代を終えてからは体験することができず(もともと「低学歴の世界」にいる人間は、そのままでは大人になっても「低学歴の世界」に身を置いてしまいます)、非常にチャンスが少ないものです。さらに、「低学歴の世界」に身を置く人間が何らかの要因で「高学歴の世界」との接触しても、次世代ではその世界から脱出してしまいますから、そのコミュニティ全体に影響を与えることはありません。「低学歴の世界」にはその世界しか見えない人だけが残っていきます。こうして、「低学歴の世界」というものが強固な形で生き残っていくのだと考えています。
再度、ネーミングについて
そのような「低学歴の世界」は、上記の「私のいる世界」にあるように、学歴以前の段階であるはずの中学・高校ですでに生まれています。「低学歴(※)」が「低学歴の世界」を作るのではなく、「低学歴の世界」が「低学歴(※)」を作るのですから、本当の意味で適切な命名ではありません。「超ローカルの世界」とでも言い表した方が本質を捉えていると思いますが、これでは意味が容易にわからないので、まだ「低学歴の世界」の方が分かりやすい、ということでしょう。
何が問題なのか
で、問題点ですが、そんなものは存在せず、彼らは自分たちの世界で満足してやっていきます。自分たちの世界に閉じこもっていれば快適、というのは学歴や社会に関係なく、どこにでもあることです。そもそも、こういった「超ローカルの世界」はそれこそ士農工商の時代から存在したわけで、むしろ人間は地縁に従って一生を終えるのがスタンダードな時代もあったわけですから、問題などもとから存在しないのです。
では、なぜ今このように話題になっているかというと、社会全体の形が変化したために、「低学歴の世界」を脱して「中/高学歴の世界」に移り、そこで「カルチャーショック」を受ける人がいる、ということが要因として挙げられるでしょう。もちろんこんな現象は100年前からあったはずですが、そういった「低学歴の世界から脱出した人の体験談」みたいなものがインターネットにどっと表出してきて、話題になっているという側面があるのでしょう。ネットでは「同窓会コピペ」なんてものが流行ったりしていますが、地方で育って高学歴を得た人の視点から見る「同窓会」というのは、まさに「低学歴の世界の再発見」と呼んでいいだろう、と思うのです。
もうひとつの原因は、やはりインターネット技術によって、そういった世界を外から垣間見ることのできる人が増えてきた、ということです。彼らが冷蔵庫に入ったり、商品の肉を咥えたりするなんて現象は、たぶん昔からあったはずです。彼ら「低学歴の世界」の文化ではそういうことは普通であって、問題ないわけですが、それが「外の世界」の常識に合致しないものですから、何て連中だ、と言われて「炎上」する。ただ、上の記事にもありますが、彼らは外の世界に対して無関心ですから、「ちょっとふざけたらバレて怒られた」としか思いません。実際、地元に帰れば「この前○○が商品の肉をかっぱらって食ってたらバレてクビになったらしい」くらいの話は地元の同級生から聞くことができると思います。このように、本来は閉ざされた存在であった「低学歴の世界」が、主に情報通信技術の存在で外に姿を現すようになって驚かれている、というのが昨今の現状ではないか、と思うのです。
どうやって解決(?)するか
先に書いたように、この「世界」はそれ自体問題なく機能しているのですから、果たして何らかの手段をとる必要があるのか、ということから考えなければなりません。こちらから見ておかしいからといって、自分たちが正しいと思う世界観を押しつけるのはただの傲慢でしょう。しかし、そういった「低学歴の世界」もとい「超ローカルの世界」が巨大な世界として存在することが、社会全体にとって不利益であり、その世界を縮小していくことが当人達にとっても全体にとっても有益だと感じられるならば、ゆるやかに解決を目指す必要がありまます。しかし、これは新しい問題ではなく昔から連綿と続いてきた社会形態のひとつに過ぎないので、「低学歴の世界」がなくなる、なんてことはまずありえないでしょう。
どうやって対処するか、ということを考え出すと、まだまだ長くなってしまいそうなので、この辺で終わりにしたいと思います。お疲れさまでした。
まとめ
・「低学歴の世界」は、小中高時代の共同体で一生を過ごす人の集まり、「超ローカルな世界」である
・その世界の住人には、「外の世界に出て行こうという意識」と「教育に対する関心」が不足している
ボラリティリティ程度も間違ってる自分が言っても納得出来ない所があるでしょうが...(すいません、今まで完全に間違って覚えてました...)
別に過去の検証とはそれほど関係がない話だと思います。2+3はいままで5だったけど、それがこれからも5だと思うのは、これまで5だったからじゃなく、論理的な帰結ですよ。
関係あります。2+3=5に関してはある程度の範囲で定義です。(厳密には数字を最初から定義していく必要がありますが)
株の動きに関してはランダムとは言え簡単に完璧にモデル化出来るものでもなく、
サンプルが限られている上、サンプルを選ぶ事に関するバイアスがどうしてもかかるので、
完璧に統計的な予測は出来ないし、つまりはリスク自体も読み間違えている場合がある、と。
単に、システムが過去検証により可ならず成功するべきものでなくてはならない、と言っているのではなく、
事象が少ない上に、さらに言えば現段階での状況と同じサンプルはないので予測は非常に難しい、と。
違います。そのように仮定して、計算で導くこともできますが、別に導く必要はありません。
絶対もうかる、絶対損するなんてことはないが、どちらかというと儲かると思うなら投資を考える、どちらかというと損すると思うなら投資はしない。それだけです。
仮定して導く、と言うのはちょっと語弊がある言い方でしたが、ある範囲からくる値はこれ、またこの範囲からくる値はこれ、と一意に決まります。
(計算方法にも違いが出るかもしれませんが、それもこの計算方法でこの範囲で、と決めたらかならず決まるようなもの)
自分より優れたるものを自分の周りに置きし者ここに眠る。カーネギー
自分で仕事をするのではなく、仕事をさせる適材を見つけることが大切だ。 アンドリュー・カーネギー
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