※以下で記述されるものは第一に愚痴であり、第二におそらく特殊な事例です。一般化して生活の知恵とすることはできないのではないかと私は思っているので、時間を無駄にしたくない向きや面白おかしく楽しい記事を読みたい向きはアレしてください。
※一応申し上げておきますと表現規制方面とはなんの関係もないです。
私は今日(8月31日)、ディナーとしてお好み焼きを食しました。母が心をこめて拵えたもので、大変おいしゅうございました。
ただ、その大きさが私の腹具合に対してある意味で威圧的であり、私はお好み焼きの傍らに鎮座する白米をなかったことにしました(単純に食べなかったということです)。
食事後、麦茶を飲みながら家族でバレー女子のワールドグランプリを観戦していた折、父がおもむろに戸棚からせんべいを引っ張り出してきて、母と私に勧めてきました。
これに母、「おせんべいを食べられるならご飯も食べられるでしょう」と反応。御意にござります。食わざるもの食うべからず(Google検索結果 5件)。
次の瞬間発された、母に対する父の言葉こそ、私から言葉を奪ってそのまま姿を消した、犯人です。
「そういう言い方をされたら、『じゃあいらない』と言いたくなってしまうよ」
まず前提として、父がせんべいを持ってきた時点で、私にせんべいを食べる気はありませんでした。私のぽんぽはお好み焼きで満たされており、満腹中枢は「いや本気出せばいけるよ?いけるけどねー、今ちょっとそのタイミングじゃないと思うんだよねー」とのたまう体たらくだったのです。
思い返せばそのときにいらないと言えばよかったのですが、TVはデュースを告げており、正直せんべいどころではなかったので生返事をしてしまったのです。そこへ母です。
「おせんべいを食べられるならご飯も食べられるでしょう」発言には、口ぶりに冗談のニュアンスも含まれてはおり、「そもそもすでにお腹いっぱいです」と応えれば意地っ張り感はまだあまり出さずにせんべいとお別れすることができたでしょう。しかし相手国のセットポイントに気を取られた私に隙はありまくりでした。
次の父の発言「そういう言い方をされたら、『じゃあいらない』と言いたくなってしまうよ」に対しては、もう打つ手はないように思います。これに乗っかってせんべい不要論を唱えても、その言葉に信ぴょう性は与えられず、両親に私が意固地になっていると思われることは必至です。もちろん、どちらかあるいは両方とも食べるという選択もありえません。お腹いっぱいなのですから。
最も良くないことは、ここで私が何も言わないことによって、両親の心に「私はせんべいを食べたかったのだ」という認識が帰結してしまうおそれが十分にあったことです。
この状況では、私はどうあがいても、またあがくことをしないでも、せんべいが食べたかったことにされうるのです。私の意志を置き去りにしたままで。
以上が今宵(31日)私の身に起きた大きな悲劇です。ここまで読んでくださった方には、労りと感謝の念を着払いでお届け致します。
もし上記の愚痴の内容に関わりのある、またはまさにそのものを説明している社会心理学その他学問的な文献などご存知の方がいらっしゃいましたら、ぜひお教えいただきたいです。と思っているのですが、増田ではそういうことは基本的になされないのですかね。はてなは勝手がわかりません。でもクレクレ文は書いておきます。
すごくくどい上に面白くない上に何が言いたいのか分からない。
要するに「誤解を解くのって手間だよね」ってこと? 「めんどくさくてやってられない」ってこと?