はてなキーワード: 大事な時間とは
ある炎上絡みで作ったSNSアカウントがあるんだけど、同じようなアカウントがあまりに負の感情を撒き散らしているのにあてられてしまって毎日がなんとなくつらくなってしばらく放置していた。先日、いろいろあって久しぶりにログインしたら、当時から活発に動いていたアカウントも新規流入してきたっぽいアカウントもいろいろいるけどどれも相変わらず文句を言い続けていて、みんな元気にやってるなみたいな気持ちになった。そういう気持ちになった自分に気づいて、やっとこの泥沼から出られたって感じがしてなんか自分の人生を取り戻せたような気すらしてきた。あそこは泥沼だった。同じ立場で文句を言っているアカウント同士の馴れ合いもだいぶ前から始まっている感じで、もうなんか地獄。ただ、そこに自ら足を踏み入れたのは紛れもない事実で、私自身は被害者でもなんでもなく、ただ自滅しただけのバカであることも変わりないんだけど。
その炎上案件は炎上し始めからもう随分経つけど、炎上元とその周りのある意味活発な動きにより未だに火は消えてないし、むしろここから第何ラウンド目かが始まる雰囲気もある。ただ文句を言うだけでなく解決のために実際に行動を起こしている人もいるし、みんながみんな口で言うだけってわけでもないんだけど、でも大多数は言うだけ。言うだけではもう何にもならないところまで来ているのにな。文句を言うのが一種のライフワークみたいになってるんだろうな。
私はもうそこに自分の時間と体力を使うのはやめることにした。そもそも首を突っ込むなばかたれって話なんだけどね。抜けられることに気づいたので、いい機会だから私は抜ける。文句を言い続けるのをやめられなかった人たちが、人に文句を言うことに大事な時間を注ぎ続けるのをやめて早く自分の人生を取り戻せますように。
どれだけ取れるだろうかって思うことがある。
仲が良い分、同居してた時は喧嘩も多かったから、今の距離感がちょうどよくて
1週間ぶりに会うとわーってしゃべるんだけど、ランチが終わったあたりから疲れてる。
年に2回しか会えない距離に住んでるけど、毎週のように長電話してるし
会った時はすごく嬉しいんだけど、2日目あたりから1人の時間が恋しくなる。
一緒に旅行してるのに、1人にしてって言いたくなる。
正直、彼女が近くに住んでたら、こんなに長いこと付き合わなかったかもしれない。
年に2回しか会えないからこそ、長く安定して付き合ってくれたんだろうなと。
年齢的に、本気で婚活しないと先がないのもわかってるんだけど、
結婚する気は無いんだなってことがわかった。
ウェディングドレスに憧れはあったけど、神戸の異人館でドレス体験ができたので
あの時に一緒に行った友人が、「ここで着ると結婚できなくなる!」と頑として
着ようとしなかったけど、確かに彼女怒涛の婚活の末結婚していまや双子の母。
法律でしなければならないとか言うことになれば、せざる得ないんだろうけど
それも平安時代のような男が女の元に通う通い婚でいい。
あ、でも自宅に来られるのめんどくさいから、私が通うかな?
そういう人って少ないのかなあ。
ままならない世の中で、家の中でまで、自由がないなんて人生が辛すぎるよ。
家族や友達が嫌いなんじゃなくて、自分が1番くつろげる空間があると言う事が
私にとって大事なんだ。
物語は市川視点で進むわけだが意外と市川の気持ちも分からないところがある。
だって一体どうやって、山田の猛アプローチを自分への好意に結びつけずにいられるんだ?
3巻の山田は建前はともかく、態度としては全然「好き」を隠してないぞ?
鈍感だけで済む問題なんだろうか。
LINE交換くらい陽キャにとっては日常茶飯事。僕だからというわけではない。
どれもその事に意識してしまうのは僕だけで、山田は僕を男だと思ってはいない。
たぶん授業中は気付いていなかったのだろう。僕が何だかあわてる様は面白かった?
早速母親の事をイジリに来た。耳はNG箇所で、僕がやらかしてしまっていた。
よく意図が分からなかった。やはり僕を男とは思ってはいなさそう。
お見舞いと言っても母さんがいればババロアを差し入れてすぐ帰ったろうし、仕事のない日の良い暇つぶし。
1人分余ったババロアを自分で食べない程度には風邪の責任を感じているのかも。
所詮僕は山田の実生活には影響しない壁の穴のようなものなので、気安く話せる面もあるのだろう。
やはり、男と見られていない。
いざとなれば傷つけても構わない陰キャだし。利用されただけだった。
僕が置いたティッシュと分かっている訳でもないし、物持ちの良いヤツ。
こうして見ると「男と思われていない」だけで結構やり過ごせてしまうな。
市川は自分の男らしくなさ(身長?)を大分気にしているという事だろうか。
一方では男と見られていないからこそ山田の隣にいられる、とか考えていそう。
そして市川から見ると「二人の時間は山田の人生の本筋ではない」のだろう。
だから、そんな山田に恋してしまう事は病気であって最初から未来はない、なのかも。
「山田はそんなヤツじゃない」と思い出したのならキスの振りについては結局なんだと思っているのだろう?
その時の山田の切羽詰まった顔に免じて「仕方なかった」という認識だろうか?
謎。
元増田です
トラバやブコメでたくさんの修学旅行回をおすすめしてもらえてすごく嬉しい ありがとうございます
教えてもらったものこれから読む楽しみができてほくほくしてる 読むぞーー!ってなっている
「わたモテ」は「私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い!」で合ってるかな
(少女漫画に略称が同じになる「私がモテてどうすんだ」というのがあります※旅行回あり)
2巻まではたぶん読んだけどその後の面白そうな展開をおすすめしてもらえてよかった、ぜったい読みます
「スマイルプリキュア!」もそんなに楽しいのかー!と思ってめちゃくちゃ気になる
私のプリキュアはYes!プリキュア5で止まってるのでそろそろ更新したい
「とめはねっ!」「古見さんはコミュ症です」のおすすめコメント読んで、
その人物それぞれの特性や得意、能力がいつもと違う場所で発揮されたりそれを見ることで友達の新たな一面を知ったり見方が変わったり信頼が深まったり
ふだん交流のそんなにない子とちょっとしたことがきっかけで関係を深めたりするところを見るのも修学旅行回の醍醐味だなって改めて思いました
「あずまんが大王」は読んでたはずなんだけど、修学旅行回の覚えがないということはその巻まで到達してなかったんだろうか(なおよみちゃん派)(よみちゃんはかわいい)
アニメでも修学旅行回があるみたいだからこれを機に両方改めて見てみたいと思います ところでアニメは音楽がすっごくよかった
グリーンウッドは手元にあるので今晩から久々に少しずつ読み返そうかなと 「スプリガン」も絶対に読むすごく面白そう
>河原和音『高校デビュー』を挙げようと思ったら同作者さん『修学旅行』って短編も描いてたっけ
河原和音先生作品もいいですね…修学旅行関係ないんだけど、私は「天晴(てんせい)」がとても好きです
おもしろいよね…すごく好き
>僕は文化祭回が好き。
私も好き いいよね それぞれの学校でかなりやることが違ってたりへんなジンクスがあったり踊ったりあれこれの展開が見られて楽しい
夢路行という現在はレディース誌で活躍してる作家さんがかつて少女誌で描いていた文化祭の描写がすごくいいです
画面も静かで淡々としてるけどちゃんときらきらしててすごく大事な時間が流れてる感じがあっていい
太めというレベルでない本当に太った女の子が主人公の恋物語の短編「踊りましょうか」、
それと龍のうろこを飲んでしまった女の子の話の中編「荻の原日記」の文化祭描写が特にとても楽しそうでいい
>とりあえずやっとくかーみたいなのも多くて当たりはずれ大きくね 文化祭で劇中劇やるよりはましだが
確かに当たりはずれはある
「彼氏彼女の事情」は念入りな修学旅行回(長い)とストーリーに関わる念入りな文化祭の劇中劇(とても長い)のダブルコンボがある「当たり」のほう
>糞みたいなハプニングとサービスシーン見せられるだけだろ何が面白いんだと思って読んだら、
出てくる作品群に走馬灯みたいに情景が浮かんできて涙出た。ありがとう増田。週末、吉野朔実読み返そう。
「修学旅行回」と聞いて想起される内容がその人の観測範囲というか普段読んでいる漫画のジャンルで結構違うものなのかな、
というのは今回すごく感じて一概に分けられないけれどおおまかに少女漫画
(そのうちでもラブコメとそうでないもの・掲載誌のカラーによってかなり内容が違う)と少年漫画(これも掲載誌によるだろうか)では
物語を構成する要素が相当異なるのだろうな、という風に思った 確かにテンプレのハプニングやラッキースケベ展開の多いもの、イベント消化回的なものも相当数あって
同じようなものをたくさん読めば確かにだんだん飽き飽きしてくるのかも それでもやっぱりどこかに「特別」な要素があってそういうものを見つけながら読むのがすごく好き
私は今まで読んだ少年漫画では、ゆうきまさみ作品以外では「エンジェル伝説」をすごく愛しているんだけど、すごく時間経過の範囲の短い作品で
あれに修学旅行回はなかった あったらどんなかなあ…読んでみたかったな、といまでも想像したりします
吉野朔実の「記憶の技法」は楽しい、という方面ではない修学旅行回かつひとつのある「旅」の漫画として大傑作で
あの内容をよく一冊分の紙幅でできるものだと読むたび惚れ惚れするサスペンスフルだけどすごく静かな一編で
少女漫画、女性作家に興味のない人にも一度読んでみてもらいたいです 吉野朔実作品はとてもとても良い(お好きな方がいてすごく嬉しい)
あと書ききれなかった部分では修学旅行ではないけれど旅のある作品として猫十字社「小さなお茶会」があった
夫婦生活は幸せそのものだけれど突然どうしても一人になりたくなって汽車にのって赤い屋根の家がいくつか連続していたらそこでおりよう、とか
列車のなかの物売りの描写とか駅でのお茶とか自分たちでつくるおみやげの特別さとか細やかなところがすごく心にひっかかってくるかわいいきれいな作品
星野架名「青い銀河の夜明け」は地球をなくした高校生たちが自分たちの身ひとつ校舎を宇宙船にして自分たちの未来を探して宇宙を飛び回って旅するSF
窓の外に宇宙があって茶道室で布団敷いてそこで寝る、みたいな画面が楽しい 星野架名作品はいいぞ 絵もかわいいです
決められた箱の中で思いっきり叫び、跳ね、全身でのたうち回る君は本当に本当に眩しかった
枠の中で暴れ回りながら、ギラギラと光らせる目と虚脱した笑顔、余りのいびつさに、足が竦む程の生命力を感じた
背景の私が、いつの間にか少しずつシルエットが重なって、目が合うようになって、君への現実感が増していく日々は身体の底から震えるくらいの恐ろしさだった
私を見て観察し、奥底の人となりを探って、信号を受け取りあって、笑い合い、更にはぎこちないコミュニケーションまで取れるようになった
舞い上がって噛み締める自分と、いつかこんな日が来ると思って会いに行くたび怖くなる自分が居て、とうとう迎えてしまった今日が 本当に苦しい
君の意識外というのは、そういえばこんなにも淋しいんだったなぁ
数年前、君と何も築けていなかった頃の物悲しさがまた、比べ物にならない大きさになって襲ってくる
もう、恐らく私は、君の大切な人じゃない
苦しんで、辛かった、そんな冬の間に通過した地点の一つになったのかな
会う度にくれたもの、あの時言えば良かったと思う言葉、取っておけばよかった態度、どれも過ぎ去ってからじゃ陳腐に思えて、だけどもしもやってみていたら?その先の想像出来る世界の自分があまりに羨ましくて、悔しくて、こぶしに おなかに、力が入る
どんどん剥き出しになっていった私達は、ふたりだけで言葉を持つことが出来なくて、これはつまり信じ合えなかったということになるのかな
愛情が足りなかった とか そういう事ではなくて、ただふたりの空間を持てなかった私達が、作れなかった私達が、自分を愛し過ぎていて、自分の中の相手を愛し過ぎていて、結局最後まで傷付くことが怖かったんだと思う
それでも私は手を握ってみたかったけど、同じ時間を持たない事は こんなにも距離を作るんだね
あの日から目に入り続けてしまうあの子とのやり取りを睨み憎み続けたし、そして最後まで君は何も知らなかった
嬉しくて嬉しくて恐くて苦しい私への言葉をくれる、一ヶ月に一度のその間だけ君を見て不安に思わずにいられたし、でもその大事な時間の前後や ましてや空間にあの子も居るのかもしれない、と思うたびにどうしようもなくなった
同じ指で、声で、思考でコミュニケーションを取る君に 心を許す君に あの子の前で恋愛の話だけはぐらかす君に 私はどんどん悲しくなって 悔しくなって 腹が立って 疲れて また悲しくて そうして少しずつ諦めた
まだその気持ちが大きいから心の底からは言えないけど、でも、君はずっと何も知らなくていいよ
自分が想う人を信頼して、心を開いて、そして安心して生きていてほしいから
傷付かなくていい、自分が耐えられなくなったんだと 見切りを付けてやったんだと思っていてくれればいい
いつかズタズタに傷付いたあの時のように、君はまた同じような事をしてしまっていたけど
大事な君の未来を曇らせるものはここに置いていってほしいんだよ
それが私への気持ちなら、今日に置いていってぜんぶ過去にしてほしい
傷付く姿はもう見たくない、ただ君のあるべき姿を見せ、正当に評価され、そして確実に必要とされていて欲しいから
これまで、この一年、たくさん傷つけていたらごめんね。
思いもしなかった私の行動が、君にとっての裏切りになっていたならごめん
こんな言葉も、全部がもう既に要らない物だとしたら、それもまた ごめんね
私の日の当たる部分は、笑顔は、明日への活力は、少しばかりの自信は、本当に君によって造られていて 私は文字通りずっと君に生かされていたんだよ
だから、どうもありがとう。初めて会った日から、緊張いっぱいの表情で初めて信号を送ってくれた日から、ずっとずっと 本当にありがとう。
私の人生に、可愛くて可愛くて 誰よりも眩しくて愛おしい君が居てくれて 本当に良かった
どうかこの先君の歩く道が、蹴り、跳ね易く、明るく、そして健やかなものでありますように
今日も明日も、あさっても、君が誰かとたくさん笑っていますように。
元気でね
小学校教員経験者としての個人的な意見です。といっても大卒後2年だけ勤務(5年生, 6年生担任)してその後転職してるので、経験は少ないし時差があります。ただ最近、というか定期的に話題にあがる、かけ算の順序問題について自分の考えを書きたいと思ったので
(2)かけ算を元にしたわり算の理解
という2つを考えつつ書きなぐります。
ここではかけ算の順序を固定するという表現を使ってみようと思います。まず現状としてかけ算の学習では
(1つぶんの数)x(いくつ分)=(ぜんぶの数)
乱暴な言い方かもしれませんが、このように固定するのは必要悪だと思っています。
かけ算の順序を固定する理由をざっくり言うと、かけ算の式において(1つぶんの数)と(いくつ分)のそれぞれを明確に式の中で表現するため、です。それに伴い、順序を固定する必要が出てくるということです。固定は副次的なものです。
例えば3 x 2という式において、(1つぶんの数)にあたる数は3なのか2なのか、(いくつ分)にあたる数は3なのか2なのか、順序が固定されない限り判断がつかず評価ができません。どっちの数がどっちだか混乱してしまいます。なので、かけられる数に(1つぶんの数)を、かける数に(いくつ分)を対応させることにより、明確に(1つぶんの数)と(いくつ分)を式の中で表明することができます。
あと、計算だけ指導するのであれば、順序の固定は不要です。実際に、意味がわからなくても計算ができる人は山ほど居ます。ただ、かけ算やわり算の意味をとらえるためには、(1つぶんの数)と(いくつ分)を区別して考えていかなければなりません。
これだけじゃわかんねーよって人は以下も参考にしてください。
授業をするからには、かならず評価をすることになります。実のところ、この順序をつけなかった場合、問題の文脈を正しく理解して立式したのかどうか、評価が難しいです。問題において提示されている事象、より厳密に言えば「現実モデル(*1)」を、正しく「数学化(*2)」して処理しているかどうかが、評価のポイントになるわけです。もちろん児童ひとりひとりにインタビューをして評価できれば良いのですが、ペーパーテスト上では、立式ができているかどうかをかけ算の順序で判断するしかありません。(もちろん、正しい順序で書けたからといって正しく数学的に理解できているかどうかはわかりません。適当に数字を選んで立式している可能性もあります。逆に、現実モデルは説明できるのに式でそれを表現できていない場合もあります。これは現在のペーパーテストによる評価の限界でもあります。)
このままだとわかりにくいので、次で具体的な例を挙げながら説明します。
(*1)「現実モデル」...例えば「1ふくろにつきももが3こ入っていて、それが5ふくろあります」というものが現実モデルの一例です。現実にはその場にももがあるわけではないですが、その現実事象を模したものが現実モデルです。
(*2)「数学化」...ここでは文章題から立式する過程のことを指しています。問題を数学(算数)の領域で解決できるようにすることです。数学化した時点で、現実モデルの情報はそぎ落とされます。たとえば[現実]→[数学]の動きの場合、「りんごが2こと3こでぜんぶでいくつ」→「2 + 3」と容易に数学化できますが、その逆の[数学]→[現実]の動きの場合、「2 + 3 」→「 」の部分は無限に答えが考えられます。りんごじゃなくてもも2こと3こにしてもいいし、今日は1月2日です3日後は何日ですか、でもいいわけです。数学化されたものはそれだけ抽象化されていて、元の現実モデルを言い当てるのは困難ですし、現実モデルがそもそも無い場合もあります。
よくあるひっかけの文章題では、文中で(いくつ分)をわざと先に出し、(1つぶんの数)をその後に登場させるものがあります。
「6枚のお皿にりんごが3個ずつのっています。りんごは全部で何個ありますか」
文章題の順序通りに立式すると、6 x 3という式になります。固定した順序で考えると、これは(1つぶんの数)と(いくつ分)の順序が逆になっています。この場合、実際には
1皿に3個のりんごがのっていて、そのお皿が6枚分ある(式 3 x 6)
1皿に6個のりんごがのっていて、そのお皿が3枚分ある(式 6 x 3)
という現実モデルになってしまい、結果的に6 x 3という式は後者の現実モデルを元に立式したと判断することになります。
りんごのぜんぶの数はどちらも等しいですが、6 x 3という式の元の現実モデルが実際の現実モデルとは異なるため、問題にある現実モデルを正しく数学化できたとは言えず、誤答になるということです。
(1つぶんの数)を3、(いくつ分)を6
として捉えているのか、
(1つぶんの数)を6、(いくつ分)を3
として捉えているのかには大きな違いがあるわけですが、(1つぶんの数)x(いくつ分)の順序で書こうと決めておくことで、どちらで捉えているかを特定することができるようになります。
そう考えると、順序は逆にして固定しても問題はなさそうです。今の
(1つぶんの数)x(いくつ分)
という順序は、ただ言語的な順序に従っているだけだと思います。
かけ算がたし算の延長ということを思い出すと、
2 + 2 + 2 + 2 + 2
を
2 x 5
と表しているだけで、これは
2 + 2 + 2 + 2 + 2
を、2が5つ分という風に捉えて、その順番で2 x 5と順序づけているのかもしれません。5つ分の2と捉えれば、5 x 2と順序づけてもいいので、捉え方の問題なのかもしれません。個人的には前者の方が自然に感じるのですが、刷り込まれてきただけかもしれません。
(共通性のある例を考えると、2/3という分数について、日本では「3分の2」と分母から読み、記述するときも大抵の人は分母の3から書き始めると思います。「3分の2」と考えなから、分子の2から書き始めるのは違和感があるのではないでしょうか。一方で英語圏の場合、Youtubeとかで実際に確認した限り、2/3は「two third」と分子から読み、記述の際も分子の2から書き始めます。)
繰り返しになりますが、順序自体が大事なのではなく、かけ算の式において(1つぶんの数)と(いくつ分)のそれぞれを明確に式の中で表現することが大事で、そのために順序の固定が副次的に必要になるということです。
改めて考えると、この固定というのは非常に厄介でもあります。まだ学習し始めの子どもを混乱させないために条件を固定しているという意図もありますが、順序を交換しても答えは変わらないという事実と照らし合わせたとき、納得いかないのも当然です。しかもその事実自体は小2の九九の時点で学習します。
順序が問題にならないときというのは、既に数学化されたものを取り扱うときです。つまり、そもそも数学化の過程が評価の対象にもなっていないものです。算数的に言えば、文章題のような問題ではなく、既に立式されている問題です。
2 x 3
という問題であれば、
2 x 3 = 3 x 2 = 6 答え6
と計算しても間違いはひとつもなく、正答です。2 x 3が計算できなくても、順序を変えて3 x 2で計算しても良いのです。その根拠は、かけられる数とかける数の順序を逆にしても答えは変わらないからです。むしろ学習が進むにつれて、交換法則は便利に使うことができ、積極的に使えるようにしていくべきです。(教科書でもちろん学習します。)
また、アレイ図(↓のやつ)を考える時、自分でどう括るかによって、(1つぶんの数)と(いくつ分)が決まり、どちらの順序でも考えることができます。例えば
● ● ● ● ●
● ● ● ● ●
● ● ● ● ●
上のようなアレイ図であれば、縦3個でくくれば3 x 4という式になりますが、横4個でくくれば4 x 3という式になり、かけ算の順序が逆になります。自分で現実モデルを作り出してそれを数学化しています。
わり算の考え方には2つがあります。「等分除」と「包含除」です。その違いを説明するために、虫食い算のかけ算を考えます。というのも、わり算はかけ算の拡張なので、発想として虫食いのかけ算で考えるとわかりやすいです。3 x 2 = 6と、順序を逆にした2 x 3 = 6を虫食いにして考えましょう。かけ算の順序を変えただけなので、どちらも答えは同じ6です。
・等分除
□ x 3 = 6
というかけ算をわり算では
6 ÷ 3 = □
と表します。この場合、求める□の部分は(1つぶんの数)にあたり、例のりんごと皿で考えれば、
「りんごが全部で6こある。これを3枚の皿に平等にわけると、1皿あたり何こになるか。」
という問題になります。1つぶんのりんごの数が、求める答えです。これが「等分除」です。わり算と聞いて想像しやすい、平等に分けよう、というものです。教科書でもこの等分除から学習します。
・包含除
3 x □ = 6
というかけ算をわり算では
6 ÷ 3 = □
と表します。この場合、求める□の部分は(いくつ分)にあたります。例のりんごと皿で考えれば、
「りんごが全部で6こある。1皿に3こずつりんごをのせていくと、皿は何枚必要になるか。」
という問題になります。皿の枚数が、求める答えです。これが「包含除」です。イメージ的には、6つある物を1セット3ことして何セット作れるかな、というものです。
以上のように、□ x 3 = 6と3 x □ = 6のどちらも6 ÷ 3 = □というわり算になるのですが、もともとのかけ算の式をみると、求めている□の部分が(1つぶんの数)なのか(いくつ分)なのか、という違いがあります。一見、全部わかりやすい等分除で考えればいいじゃないかともなりますが、包含除は等分除ではとらえにくい、余りのあるわり算を考えるときに非常に有用で、必要不可欠です。
この等分除と包含除の考え方は、かけ算での(1つぶんの数)と(いくつ分)を明確に区別しているからこそ理解でき、学習できることです。3回目くらいになりますが、(1つぶんの数)と(いくつ分)のそれぞれを明確に式の中で表現するために、順序を固定する必要が出てくるということが、かけ算の順序を指導する理由であり、今回書きたかった結論です。もし順序を固定しない場合、式の中でどっちがどっちなのかを示す記号を加えるなどの工夫が必要なのではないでしょうか。
単に順序を逆にしても同じ、として学習を進めると、(1つぶんの数)と(いくつ分)に区別のない世界で考えることになります。このとき、子どもにかけ算やわり算の意味をどのように指導すればよいのでしょうか。計算だけ指導するのであれば、何も問題ないのですが。
「算数的活動を通して,数量や図形についての基礎的・基本的な知識及び技能を身に付け,日常の事象について見通しをもち筋道を立てて考え,表現する能力を育てるとともに,算数的活動の楽しさや数理的な処理のよさに気付き,進んで生活や学習に活用しようとする態度を育てる。」
「算数的活動」とは「児童が目的意識をもって主体的に取り組む算数にかかわりのある様々な活動」を意味しています。先ほど考えたわり算の理解は、この算数的活動を実現しうる機会の一例そのものだと思っています。
正直、計算自体が重要なのであれば、現代では電卓やコンピュータに入力する力が求められるだけです。もっと時代が進めば、こんな等分除や包含徐を学習しなくてもなにも困らない時がくるかもしれません。もちろん、先ほどの算数科の目標は社会の移り変わりによって広義に変容するものですから、時代が変われば内容も変わるでしょう。しかしそんな中でも、根本として算数・数学を探求することが大切ということはゆるぎないと思います。
小学校の教員は基本的にほとんどの教科を一人で担当します。私は自分の算数の指導に課題を感じ、よりよい授業のために調べたり足を使って研究会・学会に参加したりしてきたのですが、正直いうとそうしてきた算数だってあまり自信が無いです。すべての教科を完璧に仕上げるのは結構な難易度だと思います。
勤めている人はみんなそうですが、現場の教員たちも同じように膨大な業務に追われています。また、子ども・保護者のトラブルの対応も多々です。学校では毎日事件が起きているといっても過言ではありません。若い先生は特に教材を研究する時間が必要ですが、所定の勤務時間内にできる時間はほぼゼロです。朝と夜の残業時間も、授業そのものに関係しない業務が多いです。学校で子どもが過ごす大半の時間は授業時間なのに、その授業の準備が満足にできないということです。経験を積めば良いと言われても、今担任しているクラスの子どもが被害者になるだけです。あたりまえですが、その子たちは一度だけの1年を毎年過ごしているわけです。貴重で大事な時間です。
現場にもっと人が欲しい、というのが素直な感想です。算数では少人数授業やチームティーチングが増えてきていますが、根本的な問題は解決していません。算数に限らず、教員がもっと授業に関することに時間を割けるようにするべきです。毎日授業があるのに、その授業の質が低くなっては意味がないです。結局、先生たちもかけ算の順序について教えてくれる人なんて居ないのかもしれません。そんな状況で教えなくちゃいけないんです。
話し合いができることも前提で、クリティカルなところはちゃんと伝えておいて、それでも変わらないところも必ず出てくるので、自分側で対処しましょう。
あと、セックス超大事。会話を始めるきっかけになりますし、お互いのことを感じて振り返られる大事な時間です。
https://www.amazon.co.jp/dp/B07739GRF7/
相手は変えられない前提で考える
悩みがあるので聞いて欲しい!って昔の女友達から連絡が来るんだけど、それを聞くと僕に何のメリットがあるんだろうね。
ぶっちゃけやらしてくれるならいくらでも聞くけど、あなた既婚だし僕も既婚なのでそんなにいいことないですよね。
なんでなんにもならないことに大事な時間割いて、メシ代払って話しを聞く必要があるのだろう。
LINEのやり取りしてるだけでも時間がもったいない気持ちでいっぱいなのだけど。
「男に相談したら「やらしてくれるなら」って言われた殺す」って増田書かれるだけだろw
最近になって煽りドライバーのニュースが放送されたり新聞になったりしてますね。
私も、そういう心の無いドライバーによって人生の大事な時間を潰されました。
まず最初に、すべてのドライバーが憎いとは思っていませんし、グッドドライバーは必ずいると思っています。
本題。
バイクで通勤していた頃の話なのですが、私は主に夜勤をメインで行っていました。
なので、朝になれば仕事が終わって朝日を浴びながら家路を走る日々でした。
そんな毎日でしたが、ある時ミニバンタイプが後ろから近づいて煽りかけてきました。
民家が多い所だったので、よく事故もあり注意して走るのは近所の人なら誰でも知っている道だったのですが
ここでミニバンがとろとろ走ってると思って煽りかけてきました。バイクの後部スレスレまで近づいてきたり。
途中で信号待ちになると空ぶかしをしてきたりと悪質です。
それでも無視をして走っていたのですが、次の信号が赤になった為に停止した所…どーんと後ろからぶつかられました。
バイクですので、私は転倒。前の車との車間は空いていたのでバイクが前に飛び出しても運良く横にそれた為
前の車には被害はありませんでしたが、私はそのせいで首の神経をやってしまい腰は骨折。
ミニバンは逃げようとしましたが、前とミニバンの後ろの車の人が降りてきた為に逃げることもできずに
煽った理由は「ちんたら走っているから」というくだらない理由でした。
警察から「ここは事故が多いのを知っているか?」と聞かれていたのですが、信じられないことに地元の人でした。
わかっているはずなのに、そういうことをしたというのが信じられませんでした。
神経を痛めた為に、私の腕と足は動かなくなりました。
時間が経てば少しずつ回復すると言われたので、リハビリを頑張ろうと思いました。
腰の骨も折っていた為に、まずは寝たきりでした。
20代の大事な時間だったのですが後半は寝たきりとリハビリ生活で費やされました。
今まで勤めていた会社も辞めることになり、治った頃には就職するにも縁がない会社ばかりです。
保険はそれなりにおちましたが、そんなことよりもくだらない事故に巻き込まれて
大事な時間をうばわれたことに対して、煽り運転などを行うドライバーが憎くて仕方ありません。
本来なら結婚も決まっていたのに、それも引き伸ばす事になりました。
そして結局、その結婚もご破産されました。もしこのまま寝たきりだったらと考えれば恋人の考えは正しい。
先が思いやられる人よりかは健康な人と一緒になったほうが良いです。縁がなかったと諦めました。
仕事の面でも、みんなが仕事をしている時間にリハビリで過ごすのは正直辛かったです。
こうやって煽り運転によって台無しにされる人もいますので、煽り運転を行うようなドライバーは然るべき罰を受けて欲しい。
できれば、もう二度と乗り物に乗らないでほしいくらい憎たらしく思います。
下手をすれば、命を奪われていたかもしれないと考えるとゾッとします。
生きていただけでもめっけものかもしれませんが、五体満足でもなく死ぬまで寝たきりだったりしたら
それは生きていても死んでいるのと同じです。
軽い気持ちで煽るような輩には、絶対に分からないと思いますけどね。
今後も願うのは悪質なドライバーは一人残らず居なくなってほしい事です。
あぁ…ほんとにくだらない内容でごめんなさい。
こちら増田。冷たさが浸食して家の暖かさが失われつつあります。今は布団に身を潜めています。どうぞ。
窓という薄皮に守られていたここはもうやられてしまった。成功などという他人の評価を自分が望んでしまった弱い心が悪い。
などと言っても自分を責めても何も変わらない世の中だ。今は変わらぬ過去を責めている時ではない。
布団という最終絶対聖域ラインにいる自分!考えろ。まだチャンスは残っているはず。頭を回転させろ。また失ってしまうのか。昨日約束したではないか。どうして、どうして、自分は。。。
ここの暖かさが怠惰を誘う。一歩踏み出すだけでいいのに、その一歩がいつもでない。
性根はなにも変わってない。それを隠そうとただ証明したかった自分。わかってたはずだった。でも認めるのが怖かった。
わかってる。わかってる。いや、分かろうとしてない。
こんなの嫌だ。変わるんだ。何をしてるんだ。ここから出るんだ。
大丈夫だよ。僕はいつも君のそばに居る。少しなら僕の残り香が守ってくれるはずだから。君一人でやることはない。
自分、やるよ。
後押しされた体は一瞬にして目的遂行を目指した。ここから出た身体は冷たさからの猛追を受ける。しかしそれが心地良い。心地良いのだ。
守ってくれてる。その実感が速さを加速させた。
最初の努めは冷たさを閉じ込める窓をロックしなければならないこと。早くそして丁寧に矛盾に満ちたこの言葉が今はわかる。
矢継ぎ早に手で窓を右にスライドさせ、流れるように歌うようにロックをした。
まだだ。
その勢い衰えず、右足を軸に方向転換。右手は休ませて利き手じゃない左手の出番。野球ドラフトでは利き手じゃない方の手で勝利を掴む迷信がある。
いいだろう。そんな質じゃないが今日ぐらい信じてやろう。
一直線に迷わず引き寄せるように伸ばした手にはエアコンのリモコン。
ピピッ
空調の低い音が冷たさの鋭い刺を奪ってく。ここにもそろそろ春が来るか。
冷たさに曝しすぎてしまった呪いで硬直したこの体も直に戻るだろう。
目からは涙が出てきたが、今日の勝利の美酒はビールにしとこう。
成功の習慣で朝は窓を開けるとよいっていう習慣を頑張ってみたものの、寒くて布団に潜り込んでしまい、大事な時間をぬくぬくとしてた朝の話。
今朝のラジオのNHKニュースで高速道路で猫がうずくまってるニュースを詳細に読み上げてて、それって、朝の大事な時間に長時間かけてニュースで読むことか?と思った
顛末としては
対応する会社の人間がかけつけて虫取り網みたいなので捕獲しようとしたが、捕獲失敗
猫は救助車の下に入り込んだ後、最終的にエンジンルームに入り込んでしまった
どうしようもなくなったため、低速運転で高速道路から出て3kmくらいの場所まで移動した
ボンネットを開けると猫は逃げたとのことです
らしいけど
他に重大ニュースなかったんだと思えばまあ平和な証拠なんかもしらんが、そういや最近政治経済系のニュースであんまり大きな話題になるのがなくなった気がする
スキャンダルみたいなことじゃなくても大事なことを税金で議論したりしてんだから、猫なんかじゃなくてちゃんとニュースを流してほしい
少年法なんていうのがあるから、調子に乗ってる子供が犯罪起こすんでしょ。
人道外れたような事件起こしている子供を少年法で守って、その理由が未来があるから更生させるって言われても
それに巻き込まれた被害者だけが、ただただ大損をしてるだけで可哀想じゃないか。
被害者はその犯罪のせいで外を歩くのですら恐怖を感じるようになるかもしれない。
一時は捕まって損をしたのかもしれないけど、それは自業自得であって犯罪をしなければ何も起こらないものだし。
結局のところ、精神的・肉体的苦痛を受けた被害者だけが、ただ不安という毎日に襲われ続けるわけで。
大した時間も経たずにしれっと出所してくる加害者は、反省した振りをして被害者が過ごす社会に戻ってくるんだね。
こんな法律の為で子供を守るなんて言ってるなら、厳罰を与えて大事な時間をごっそり奪ってしまえば良いと思うんだけど。
時間がどんなに過ぎてもクズはクズで更生するとは限らないけど、奪われた時間は一度の犯罪で引き起こした結果なんだから
後悔しようが後悔しまいが少なくとも、そいつの人生の本来多感で大事だった一部を罰で奪ったことになる。
後は出所したら監視用のGPSでも取り付けておけば良いんじゃないかな。
何にしても少年法なんて糞みたいな法は要らないよ。
上がるのはストレス値だけだ。
「あぁ、人生損してるな」と。
自分は何のために生きてるのか?
生きるために働いているけど、働くために生きてるわけじゃない。
よく、「ゆとりはプライベート重視だよなw」と言われるが、当たり前だろと怒りたくなる。
なんで自分の大事な時間を仕事に費やさないといけないんだよ。アホか。
将来は専業主婦になりたい、なんて夢があった。
でも、そんなの夢のまた夢だった。
子どもは二人くらい欲しいと思っているが、私が仕事を辞めたら生活できないだろう。
日本人は、良く裏を読む。遠まわしに伝えたいことを言う。
口に出す言葉はネガティブなことが多い。「完成できなかった」とか。
そうじゃない。言いたいことは言え。
他人事とは思えなかったので書いてみる。
ギリギリ躁鬱にはならなかったと思われるけど、毎日気分の浮き沈みがあって
周りから取り残される感覚が常にあって、全く生きている意味が感じられず、
ただただ綺麗に見える空を眺めているだけの日は数えられないくらいあった。
勿論買い物は誰も起きてない深夜が常だった。
卒業までいわゆる「立ち直る」ようなことはなかった。
でも自分にはひとつ分かっていることがあって、「仕事」をしたら絶対大丈夫だ、と言う確信があった。
自分がやってもやらなくても何にも影響がない大学での生活が上手くできなくても、
うまく仕事ができなければ、ただ自分が食べれなくなって死ぬだけだから、
大学で落ちぶれてもなんとか仕事につければ、死ぬ気で頑張れると思った。
大学で学んだものを武器に戦う就職活動なんてはじめから無理だった。
偶然声を掛けてくれた会社(保険も固定給もない会社の体をなしていないような会社だったが)で出来る限りの事を吸収して
シンプルに「大学の空気に馴染める人間」と「大学の空気に馴染めない人間」の2通りの人間がいると思う。
大学を留年してまで(増田の大事な時間を削ってまで)卒業することって何の意味があるんだろう?と思う。
単純に、増田が「馴染めない」と思う場所に無理している必要はないと思う。
「頑張る」ことは偉いことだけど、超えられないものを無理するよりは、
超えられるものも見つけたり探すほうが有意義なのではないかと思う。
自分と同じような症状になって、結局3回留年した後退学した友達も居たけど、
その後専門学校で別のことを学び直して(とても楽しそうだった)その分野で就職したりしてた。
大学が人生の全てじゃないし、人生のほんのほんの一部なんだから、
合わない!と思ったらぽいっと捨てて次に行くべきだと思う。
某グループのコンサートが開催中だが、その中のメンバー1人が喉を痛めたらしい
リハでは全く声が出ず、しかしその日の2公演はなんとかやり切ったそう わたしはこの公演に入っていないのでレポを見るしかなかったけれど
プロ意識とは何なのか
プロとは何なのか
わたしは、その人のことを掩護する必要も大丈夫だよ、と語りかける必要もないと思う それはメンバーがやっていればいいことではないのか
お金を払って、大事な時間を大事な人に使っているのに、不完全なものを見せられるというのはどうなのか
歌割が増えました、今までより増えました、大事なパートも増えました、頑張って頑張って頑張り続けていたら喉を壊してしまいました それって、まわりから励まされて慰められて…でいいのか
頑張ってるのなんて当たり前だしみんな頑張ってる 他のメンバーも頑張ってるしもちろん本人だって頑張ってる それは知っている だけど、ツアー中にそういう風になってしまったことを反省してほしいし(してるとは思うが)、周りも過度に掩護する必要はないと思う
わたしは当グループのようなものを応援しているし、それ自体に否定的な意見は持っていないし、好きだが、ファンの必要以上にメンバーを甘やかしたり心配したり庇う行為は好きではない
同じグループの中には毎日テレビに出ている人もいるが、その人は喉を壊したりしていない もっと歌割パートが多い人だっているが、喉を壊したりしていない
最近生徒同士でのいじめ以外に教師からのいじめも珍しくないケースになっている
こういったニュースを見ていると「あんなことがあったけど彼らのように自殺するまでの決断はしなくて正解だったのかもしれない」と感じてる
そう思っているのは自分もおそらく同じ当事者であったと考えていたからだ
当時12歳、前も後ろも分からない状態で当たり前のように小学校に行っていた生徒の一人だった
スポーツが特にできた訳ではなく、勉強は社会の歴史のような暗記分野であれば90点以上は取れる程度の子供でそれ以外は無知で忘れっぽい性格だ
だが、小学校6年生になった途端そんな日常の光景がいつのまにか真っ白に見えるようになった
担任になった教師は5年生の時に見て知った程度であったが、その人と会ってからクラス内の雰囲気も一変するようになった。
まだ始業式を行ってからの翌日の朝から担任から「○○は厳しいから怖いぞーっと言ったのは誰だ!」とこれが朝の日直の挨拶である
そこから何かあればこういった罵声に近い大声で生徒全員に言うことが当たり前であった
自分が実際にあったケースは、グループ分担での掃除をすることがあり、たまに担任に連絡する役割に回っていた
そこで報告すると昼休みに入って約10分程度なっただけでも「遅すぎる!何分掃除をやってるの!」とまるで自分が全ての責任を押し付けられたような感じだった
他にも授業で使う教材を探そうとしたところなかなか見つからない為、「少しだけ時間をあげるから探しなさい」と言われたが結局見つからなかった
その時に「大事な時間を使ってまでないなんて全員に謝りなさい!」と一人だけでクラス全員に謝罪することがあった
宿題を忘れた時も教育実習生と一緒に別室でやっていた時があったりした
そういったことが重なり、クラスメートとの小さないじめもあった
日に日に馬鹿にされることがあり、「何がそんなにおかしいんだ!」と廊下で叫んでしまったことがあった
標的になりやすい自分が悪いのも確かだが、そこから自分のメンタル面も崩壊していき、だんだん「死」というものを考えるようになった
提出する日記を前は何も考えずに書いていたが、その日のたびに指定された行になるまで書くということが課せられていた
それと面を向かっていくごとに日記に対して嫌いになった
習い事でやっていたスポーツも面白くなくなり、現実と向き合うことさえ嫌になっていた
その頃は毎日朝の登校時に吐いてしまったり、コンクリートの壁に向かって頭を打つようになっていた
「楽しいと思えた時間」から「死にたいと思うようになった時間」へと変わってしまった
そういった望んでいなかった日常が重なり、自分は人間不信へと心を閉ざしてしまった
中学へ進学してリセットできたかと思えば同性、異性問わず馬鹿にされただけで1年前のことを思い出してしまい、やはり抜け出せなかった
「できればこのまま時が過ぎてほしかった…」
そう思っていても自分を徹底的に落としていくことでしか価値が見出せなかった
それから約7年間は「青春」という様々ものが吸収できる大事な時期に棒を振ってしまった
やっと成人になってできることが以前よりも増えたが、もしもあの時何も考えず、当たり前のように学校へ行っていた少年だったら今より人生は明るかったのかもしれないと今だに思っている
いじめにあうというのは難しいことではなく、自分の考えに対して賛同してくれないから気に入らないという簡単な答えから始まることだ