はてなキーワード: オスカーとは
2023年の新日本プロレス「G1クライマックス」は内藤哲也の勝利で幕を閉じた。ファンの方は嬉しかったことだろう。
しかし、今回のG1は確実にある男が話題の中心に居続けたのは疑いようのない事実だ。
その名は清宮海斗。プロレスリングノアの若きエースといわれる男である。
今年1/21のオカダへの「蹴撃」から始まった清宮の行動は他団体のシングルリーグ戦出場へとつながって、リング内外で想定外の渦を巻き起こした。それが何を示しているのか。
まず、今回のG1への清宮参戦はどちらの希望だったろうか。これに関して私は新日本側の要請とみている。ここでの参戦が大きな話題になることは自明であり、チケット売上や専用アプリへの登録数を
増やせるいい機会である。ここで新日本側から感じるのは自団体の試合内容やレスラーへの自信だ。きっかけさえあればある程度以上の他団体ファンのとりこみが容易だと判断したのだろうと思う。
ノア側からみても清宮には良い経験になるし、知名度に劣り、参戦発表段階では新日本ファンからは諸手を挙げて歓迎されているわけでもない彼への「誤解」を解くいいタイミングでもある。
加えて若いとはいえ団体最高王座に2度(一度目は最年少記録での戴冠)就いた選手である。無碍な扱いをしないような話はあったろうし、そうでなければ送り出すようなこともないはずである。
しかし、ここから(おそらくどちらの団体からしても)想定外の事態が起こりまくった。
まず、新日本での発表時にファンから想像以上の歓迎を受けたことだ。おそらく新日本的にはブーイング半分の状況を想定していたのだと思う。それが想像以上の歓声とともに受け入れられたのだ。
次に新日サイドが目の当たりにしたのは、当初の予想や見積もりをはるかに超える技量をいかんなく発揮する清宮海斗のレスラーとしての能力だった。条件の厳しい(全くのアウェイ+一般的ではない20分一本勝負)中出る試合出る試合で、様々なタイプの対戦相手の特徴を引き出したうえでそれを超えてみせるという、清宮にとっては当たり前の、だが新日本サイドとしては予想だにしなかった状況を現出させたのだ。
その技量の突出の度合いが令和三銃士と名付け、なかで団体としては筆頭扱いであった辻陽太戦で現れた。この試合での清宮は普段の試合では見せない挑発的な技も駆使しつつ、最後は完勝としか言いようのない組み立ててで勝ってみせたが、現場やフロントはここまで技量差を見せられるとは思っていなかったろう。さらに海野翔太戦でも技量で圧倒しつつも海野の気の強さを存分に引き出して引き分けに持ち込んだ。さらに現IWGP世界ヘビー級王者SANADAとの試合でも試合をリードし、最後は時間ギリギリの敗北となったが、王者を差し置いて週刊誌の表紙にまでなってしまう状況となった。こうなればファンは正直である。新日本のファンが一目置くのは必定だ。
自団体の選手を差し置いて会場(=ファン)の信頼を次々に勝ち取っていく清宮を見て、新日本のフロントや現場は何を考えたろうか。その一端がゲイブ・キッド戦で現れたのではないか。
この試合、挑発的ヒールファイトをするスタイルに隠れているが、明確にゲイブは試合を壊しにかかっていたように見えた。清宮は最初受けるスタイルで修正を試みていたが、ある段階で完全に「これは違う」と判断したようだ。
セコンドも連れず、文字通り「単身」敵地に乗り込んでいる彼は試合そっちのけで自らと団体の尊厳を守る行動に出る。最低限の行動(眼球への攻撃や急所への打撃を行わない)は守りつつ立ち向かったのだ。ちなみに観客席で自らの頭を椅子で殴ってから相手に襲い掛かるという奇行ともいえる行為も、湧き上がる怒りを抑える行動とすれば納得もいく。清宮の突然の「試練」に対しても全く臆することなく、むしろ敢然と立ち向かう姿に、おそらくレスラー間で彼を見くびるものはいなくなったはずだ。
だが、一部の人間がそれを完全に脅威としてみたこともまた真実だろう。
私は、この試合を見たときに「これが<仕掛け>であるなら、予選突破はないのかもしれない」と思い始めた。普通に試合を行っても引き分けは当然あるわけだが、この引き分けはそういうものとは違うと見え感じたのだ。その後報道で清宮がスタッフを突き飛ばした、という記事が出た。普段は試合後でもそのような態度をとらない彼がとった行動はその内容が全く予想外であったことを示している。このあたりから、当初の思惑とは違う流れが起こっていたのではないか。
話は飛んで清宮は成田蓮戦で「まさかの」敗北を喫しあえなく予選落ち、となったが、翌日にノアの副社長を兼ねる丸藤正道がかなりセンシティブな内容のツイートを行った(https://twitter.com/noah_marufuji_/status/1687979081059762176?s=20)。真意は以前丸藤との対戦を希望した成田の勝利後に自身と対戦すると清宮のランクが下がってしまうということ、と言っているが、タイミングがタイミングなだけに鵜呑みにはできない。時系列の文脈からすれば成田の勝利を隠れ蓑にしてG1興行全体のピエロとして清宮を扱ったのはおかしい、という風に解釈するほうが無理がないからだ。丸藤の立場でこの発言をしたこと自体、新日本側に対するけん制の意味があるわけで、けん制せねばならない事案が起こっていたという推論にたどり着くことになる。
リーグ戦敗退後もG1興行に参戦を続けた清宮を待っていたのは、なんとほぼ第一試合でのタッグマッチ、というものだった。当初から決まっていたグレート・O・カーン&ジェフ・コブ戦はともかく、その後のマイキー・ニコルズ&藤田晃生、天山公吉&マスター・ワト、矢野通&オスカー・ロイベとの試合とあっては、いくら興行のハナが大事だといっても他団体のトップレスラーをあまりにもぞんざいに扱いすぎている。これはなぜだろうか?
私は準々決勝の組み合わせでAブロックの選手の相手を見たとき、ふと「ヒクレオのところにSANADAが、SANADAのところに清宮がいたほうがはるかに盛り上がったのではないか?」と感じた。これだと内藤がSANADAに勝利していたろうし(結果として優勝後の興行の流れもこのほうがスムーズだった。)、清宮とEVILの試合は相当に盛り上がったはずだ。しかもここで清宮が勝てば準決勝でオカダ戦ということになり、興行の盛り上がりは最高潮だったろう。
しかし、それこそが新日本側の最も恐れていたことではないか。清宮がG1興行の柱になってしまうのだ。この流れでオカダが清宮に勝っても決勝でその盛り上がりを上回ることができるか。決勝は内藤でもオスプレイでもそれは盛り上がるだろう。しかし、仮に清宮がそこまでの試合のようにベストマッチ連発の内容を見せていたらどうなるか。清宮の試合の積み重ねが新日側にあった「自団体の試合内容やレスラーへの自信」を揺るがせたのではないだろうか?
そうなれば最も安全なのは「観客の記憶の奥に清宮の存在を眠らせる」ことである。それはノア側の「想定外」だったろうことが丸藤の態度に表れている。
しかし、両団体にとって(良くも悪くも)更なる想定外は「G1によって清宮の支持が大きく広がった」ことではなかったか。
清宮敗退の報がネットに流れた際、新日本の方針を批判する発言が多く流れ、想像以上の数の新日本のファンがそれに賛同していたのは正直驚きだった。会場でも第一試合や第二試合の出場であっても大歓声で迎えられた。新日本側のレスラーたちの思いも天山戦後に天山自身が清宮を讃えた態度で伝わってきた。そしてなにより清宮本人が腐ることなくしっかりと試合を行いファンを裏切らなった。これこそ清宮が再三言っていた「ノアを広める」が具体的な形になった瞬間ではなかったか。
清宮は正式に使用技の伝授をされている関係から武藤敬司の影響が語られることが多いのだが、元は三沢光晴に憧れノアの門を叩いた生粋の「三沢チルドレン」である。ここまでの清宮の行動を見ればわかる通り、「レスラーは試合で魅せる」「いざとなったら筋を通す」「ファンを裏切らない」という三沢光晴の思想が彼のレスラーとしての行動に裏打ちされている。彼の恩師である小川良成の指導が大きく花開いた瞬間でもあったと思う。
さらに、清宮はあの若さにして日本プロレス発祥のプロレス技術の継承者としての側面を持っている。彼と新日本でタッグを組んだ大岩陵平は清宮にスカウトされる形でノアに留学となったが、すでにノア道場の道場主でもある清宮は指導者としての側面も期待されている。
◆はくばく 水出しでおいしい麦茶
https://www.hakubaku.co.jp/products/barleytea/41/
激安の麦茶に比べると高いけど、水出しで美味しい麦茶ができるので重宝してる。
https://www.kaldi.co.jp/ec/pro/disp/1/4940072300201
実力でFormula-1に上がってくるドライバーであれば、
速いマシンに乗せれば全員が輝きを見せるのは間違いない。
しかし如何せんF1の世界はマシン格差が大きいことが常態化しているので、
なかなかその才能をわかりやすく発揮することは出来ない。
そういう意味で脅威のルーキー、オスカー・ピアストリが輝きを放っているのも、
マクラーレンのマシンがアップデートにより競争力を発揮しているがゆえであるのは言うまでもない。
それにしてもである。
ときにランド・ノリスを上回るパフォーマンスを見せるルーキーなど驚異としか言いようがない。
とはいえ、彼が将来のワールドチャンピオンである、と太鼓判を押すまでには、そのパフォーマンス面では実績を重ねてはいない。
輝きを放ったルーキーが壁にぶつかり、埋もれていくことなどトップスポーツの世界ではよくあることだからだ。
ただ、それでも彼が将来のワールドチャンピオンである、と予感させる足り得る彼の資質で、もっとも称賛に値するのは、その冷静沈着さであろう。
それは、彼の無線によく現れている。
通常、エンジニアとドライバーがレース中に交わす無線での会話では、ドライバーがエキサイトしている。
そりゃ興奮していて当たり前だ。
エンジニアはその興奮しているドライバーに引っ張られないように、
淡々と現在の状況とレースにおける戦略目標をドライバーに冷静に伝えるのが役目だ。
しかしだ、彼、オスカー・ピアストリの無線を聞いていると、どっちがエンジニアなのかわからなくなる。
氷と氷が会話をしている。
彼のあまりに冷静沈着な受け答えに本当にレース中なのか?という疑問を抱くほどだ。
この常に冷静さを保つことが出来る彼の資質。
これこそが彼の最も優れた点であり、将来のワールドチャンピオンを予感させる最大の要因だ。
結局、どのような競争の世界でも最後に勝負になるのは精神の世界だ。
最近少し賃上げの動きあるから~とか言い出す人が居そうだが…そういう話じゃない。もっと前からの話。
例えば4年前購入した新築物件は今手放せば以前と同じか少し高めの価値になる。
うまくやれば車のローンも払えてしまう。
中国人がコロナ前に買って行ったところは今、所有されたまま空き家になっている。
これはまったく良くない傾向だ。
ちょっと違うのだが勉強にはなるオスカーノミネート映画「マネー・ショート」がアマプラで配信中なので見たことない人は見たほうがいいかと思う。
難しい話を噛み砕いてポップに説明してくれる。
一つ言えるのは何があっても死ぬなということだ。
ちなみにマネーショートはセックスシーンはないが乳首が丸写しになるシーンがある。
序盤は家族で見るのは気をつけよう。
〜あらすじ~
若い頃にアメリカに来てコインランドリーを経営している広瀬香美は(若い頃の)ジャッキーチェンと離婚危機にあり、認知症の養父、橋爪功と大学を辞めてタトゥーを入れたレズビアン娘、渡辺直美と暮らしていた。
「僕は君の夫じゃ無い」と言い出すジャッキーチェン。広瀬香美は混乱の中、襲ってくる敵と戦っていくことになった。
そして広瀬香美はジャッキーチェンと結婚しなかった世界線の広瀬香美Bの人生を知ることになる。
マルチバース上の彼女はあるときはカンフースター、あるときは歌手、ある時は足が器用だった。マルチバースの記憶を共有することで、広瀬香美は格闘技をマスターし、最強の広瀬香美となるのだ。
広瀬香美はミシェル・ヨー、ジャッキーチェンはインディージョーンズやグーニーズのあの男の子という映画好きの日本人なら結構興奮するキャスティングだったりする。他にもアジア人の映画オタは知ってる有名人たくさん。
インディーズ映画なので予算も低いらしいが、そうとは思えない映像の凝り方やCGの使い方は圧巻だった。スタッフロールに日本人名もちらほらあったのが嬉しい。日系人のオスカー部門賞受賞も期待している。
まあいわゆる「ハリウッド映画」は世界中が見てきてると思うがエブエブはそれとは全く違う。
日本人も親しんできたカンフー映画前提で、日本の邦画要素も強くあり「なんでもオッケーだよ。好きなことをしよう!黒澤明はもちろん、ナンセンスギャグもジャンプレベルの下ネタも、ごちゃごちゃごった煮でいこうぜ!中国政府の規制?貴様は無視だ!」というアジアの良いところが詰まっているのだ。
だからお上品な映画が好きな人は避けてほしいし、ボーボボやマサルさんと言われるのだろう。
マルチバースの解釈はスタッフにアベンジャーズシリーズでお馴染みのルッソ兄弟が入っているので、マーベル好きなら特に抵抗感なく見れるだろう。
ここまでの話では奇抜だという印象を持つと思う。
しかしこの映画、メインストーリーが恐ろしく素晴らしく、そしてシンプルなのだ。世界観のカオスさを超えて真っ直ぐテーマが突き刺さり、何もよくわかっていないのに感動が押し寄せてくる。
石と石が喋るシーンが本当に泣ける。画面には声もない。石に字幕がついてるだけだ。それなのに何故だか頬に涙が伝っていた…。
予測もつかない展開だ。説明も難しい。だからこそ一度見てほしい映画だ。映画好きならきっとこの映画を愛してしまうだろう。
それにしても最近、大人が肩車をよくするのを見る気がする。あれはRRRだったか。アジア人は肩車をするものだと西洋人が勘違いしたらどうしよう。
期待に答えて練習すっか…。
※広瀬香美さんはミシェル・ヨーに似てるからってだけでエブエブの日本公開応援ソングを歌っておりますが、めっちゃ世界観あってるので一度見てください。
私は切り抜き動画をハナクソ穿りながら見たことがあるだけなので
シャアがザクの安全装置を全部オフにしてものすごい速度を出したということになっているようだ(アホか…)。
ルウム戦役でシャアはマゼランとかサラミスを踏み台にして足で蹴飛ばしてから
エンジン全開でバーニア吹かしたからすごいスピードが出た説、とか。
でもサイド7でムサイから射出されたザクがホワイトベースに向かっている宙域に踏み台にするようなものはなかったからこの説はあまり意味がない。
誰が言い出したことなのか?
といえばホワイトベースのオペレーターのマーカーとオスカー(だっけ?)のどちらかだ。
「通常の3倍の速度です!」
って言ったわけだ。
と。
これがな。元凶でみんなを悩ませてきた。
誤認なんだよ。
まずスピードの比較対象がルウム戦役では主力だった旧型ザク、ザクⅠとの比較なのだ。
ホワイトベースもムサイから遠距離射撃とかはされていたかもしれないけれど
モビルスーツを迎え撃つのは初めてのことでそこらへんに混乱があったんだ。
オペレーターも新造戦艦で使い慣れてない機器を使いこなすのに忙しくてうっかりミスに気づかなかったんだ。
なんか一台だけ異常に早いザクがある。
2倍?いや2.2倍?これ3倍くらい速いんじゃないのか?
とか思ってしまったんだ。
これでいいと思う。
こんばんは、定期的に増田で燃え上がるファッションネタを楽しく拝読しております。
ファッションはコミュニケーションだ、いやプロトコールだ、ダサいが移り変わるとか難しすぎるだろとお嘆きのあなた。もう大丈夫です。
一生使えるコーディネイトの秘密を開示して、無難な服が変わってしまうのは何故かを簡単に解説します。
なおポジショントークを多分に含んでおります。あ、男性向けをベースに話しますが、女性向けも同じです。
服を買いに行く服が無い、そういう人はたぶんファッションや服装にそんなに興味が無いんでしょう。
そういう人が一生使えるコーディネートとして、スーツがあります。
ダークネイビーかダークグレーのスーツを買いましょう。ネイビーとかグレーって書いてあるスーツで明るいと感じなければ良いです。
シャツは白、ハンカチも白。ネクタイはネイビーもしくはグレー。靴下はスーツと同じ色で膝下までの長いもの。ダークブラウンの革靴と、靴と同じ色合いのベルトを選んでください。
そして、どこに行くにもそのスーツを着てください。
これで、一生困りません。
でも、ファッションに興味が無い中で無難な服が知りたいってことは、ファッションに脳みそを使いたくないんでしょう?
想像してください。
銀座の三越で、秋葉原の秋月電子で、札幌のススキノで、大阪のスタジアムで、新潟の商店街で、熊本の空港で、アメリカはニューヨークで、霧煙るロンドンで。
その場所に、ダークネイビーのスーツの人が居たとして、あなたはその光景に違和感を覚えますか?異質でしょうか?
ありとあらゆる場所でそれなりに使えるものが、真のスタンダードです。
はい、その通りです。
XXXには「友達と遊びに行く」「バーベキュー場」「ユニバーサルスタジオ」「大学」「山登り」などが入るかもしれません。
ありとあらゆる場所に溶け込めるのがスーツですが、友人とディズニーに遊びに行くときや、バーベキュー場で集まるとき、大学に行くときにずっとスーツなのは嫌ですよね。
それがファッションであり、オシャレです。
相手からどう見られるかがファッションの本質であり、どう見せたいかがオシャレの基本です。
さて、なぜダサいや無難が移り変わるかの前に、服装の持つ三つの要素の話をしましょう。
まず理解しやすい身体保護から。寒さから身を守る、日差しを防ぐ、夏に蒸れず冬温かい。服の持つ「機能性」に注目する部分です。
次に社会的な記号です。制服が自らを何者であるか示すのと同じように、服が持つ「ある集団の中で持つ意味」に注目する部分です。
最後は自己表現手法としてです。好き嫌い、好きな色嫌いな形、服が持つ「自分はどう服装と向き合いたいか」に注目する部分です。
社会的な記号が強く求められる場所、例えば警邏中の警察官は、自己表現の手段として勝手に制服を改造して自己表現することは好ましく思われません。
それでも、その職業の制服であるという意味合いを維持したまま、身体保護として夏蒸れない、冬に体温を奪われないという機能性の向上は行われ続けています。
また、自己表現手法として、自分が可愛いと思う服装として、冬にヘソを出すような服装を好んで着ることもあり得ます。機能性を犠牲にしても好きな服を着るわけですね。
さて、無難なファッションとはなんでしょうか。ダサく見られたくない、普通の服装だと思われたい。そんなところでしょう。
では逆に、オシャレな服装とは何でしょうか。そう、無難ではない服装です。
新しいインスピレーションを基にした、オートクチュールやオーダーメイド、プレタポルテのショーを起点とすることが多いですが、ファッションには流行があります。
映画「プラダを着た悪魔」で監督のデビッド・フランケルが、たったの2分で説明しきったファッションの流行についてのシーンを引用しましょう。
アン・ハサウェイ演じる主人公アンドレアが、ベルトの細かな差異に真剣な周囲に思わず笑ってしまった時に、メリル・ストリープ演じるファッション誌編集長のミランダがこう言うのです。
「あなたがいま着ている青いセーターは、自分は服装に興味が無いと世界に主張している。でもあなたは知らないだろうけれどもそれはブルーではないし、ターコイズでもなければラピスでもなく、実のところセルリアンだ」
「あなたはオスカー デ ラ レンタがセルリアンのガウンのコレクションを発表したことも知らなければ、イブ・サンローランがセルリアンのミリタリージャケットをショーで見せたことも知らないでしょう」
「その後、8人の異なるデザイナーがセルリアンのコレクションを発表し、デパートメントストアにそれらが流れ出し、あなたが見つけたカジュアルコーナーにも流れたでしょう」
「皮肉なことに、あなたがファッションに興味が無いと思って選んだその青いセーターは、この部屋の人たちがあなたのために選んだセーターなのです」
そう、誰かが流行を作り出し、そのトレンドに乗って何百万人もの服飾業界人が文字通りの意味で働いた結果が、オシャレを作り出すのです。
そして、オシャレな服装が行き渡った結果として、陳腐化し、そして、ダサくなる。なぜならば流行に、トレンドに乗っていないから。
その通りですが、少しだけ違います。
数十年スパンで変わらないと考えられるスーツに象徴されるように、変わらないものも存在します。
ただ、服装のもつ3つの要素のうち、特に「社会的な記号」というのは、自分の周辺環境に強く依存します。
強いものは国ごとに法で定められており、弱いものでも場違いな感覚を自身に与えることがあります。
それでも、いくつかの要素を抑えれば、トレンドを理解することはできるのです。
カジュアルというのはリラックスした普段着です。ドレスはカッチリとしたよそ行きの服ですね。
俗に、ドレスアップ、カジュアルダウンと言うように、良い意味でくだけた、悪い意味でだらしない恰好がカジュアルです。
これにビジネス、つまり仕事着かどうかという目線を含めて、おおむねスタイルが決まります。
スーツはビジネスでありドレス、かっちりしているわけですね。寝巻みたいなのがカジュアルの極致でしょう。
キッチリしているか、仕事で使えそうか、リラックスしているか、くらいでとらえてください。
流行るからダサくなる、そしてトレンドは次に向かうとなると、実はシルエットはわかりやすい部類です。
つまり、スキニーのようなキツメのぴったりしたものが流行った場合、次に来るのはゆったりとしたオーバーサイズです。
色合いは、日本は独特で黒が好まれる傾向にあります。スーツが通用する国では、わりと珍しいです。
モノクロが流行りだしたら、次はカラーです。これも違いが分かりやすいからね。
スーツは嫌だ、自分のスタイルは無い、でも無難な服装は着ておきたい……
大丈夫。
GUのサイトに行って、季節のコレクションのページに行きましょう。いまなら春ものですね。
シルエットはどうですか?はい、わかりやすくダボっとしたゆったり目のシルエットですね。ワイドとかオーバーサイズとかです。
色はどうですか?黒か白、デニムもあるかな。あんまり原色系の鮮やかな色味は無いですね。
スタイルはどうですか?まあGUですしカジュアルが多いですよね。でも全体的にキレイ目かな。
「じゃあ、無難な服装は、シルエットがダボっとしていて、色は黒と白、スタイルはキレイ目あたりかな」
逆に女性側は流石に春らしい色味で、スタイルはわりとビジネスに寄せてきている感じですね。
ま、日本で暮らす分には、正直全身真っ白にしておいて違う色のジャケットを羽織る、全身真っ黒にしておいて白いインナーを着る、とかでもそれっぽくは見えます。
そうすると、スタイル、シルエット、色のうち、色はモノクロで抑えられる。シルエットはGUの季節のコレクションでわかる、スタイルだけ考えれば良くなります。
スーツを着ろ派からすると、可能な限りドレス側に寄せて欲しいところですが、そこは個人の好みもあるでしょう。
これだけ覚えて帰ってください。
そして無難を選ぶ限り、追い続けなければいけないのです。
シルエットはGUでチェックしましょう。使う色は少なくしましょう。スタイルはキレイ目に寄せましょう。
身体保護か、社会的記号か、自己表現手法か、どれを重視するかを考えて服を選んでみましょう。
そして、身体保護の観点から、服は定期的に買い替えましょう。トータル1年着たら限界だと思ってください。おすすめは毎年買い替えです。
全然違うんだけどね。英国のほうの冗談は妻に向けたものでない可能性も高い、それで妻が(自分への攻撃だとして)怒ったから夫も怒ったというのは、妻の勝手なアレルギーだし、追従しかしない夫もあほやし、あと冗談で差別対象にされた側へも失礼やし。差別的な冗談言ったやつは元より…ただその冗談はプライベートな場の発言ではあったはず。
「同性愛は精神障害」で語る人々の大半が同性愛に気遣うあまり、精神障害にブーメラン投げ付けている事に気付いていない事が、この国全体の精神障害への意識の低さを表しているんだよなあ……。
オスカーのほうはがっつり妻へ向けたもの。いじり目的で差別が前面に出てるわけじゃないが怒るに足る発言なので、妻には理解いくというか問題と言える余地はほぼなし。
そうした、独りよがりで怒ったわけじゃない妻に対して、こちらでも夫はただ追従して怒ったのか? というと、衆目があったから微妙。だからこちらのあほさは前者と異なる。
あまりに他者への敬意がない冗談は無論ぴええなんだけど、一人相撲を取り沙汰させて同情買わせたりヒーロー視させるのもな〜って思ってた。
でもそうした感覚が情報受ける側の肌についてって一人相撲勢が台頭するかもしらんと思うとうええ〜。頭悪くて声だけでかい人が強いのは元からだけどそいつが一人相撲のくせに市民面すると思うとげえええ〜〜〜
ハラスメントが受けた側判定なのは、受けた側が正しいからじゃなく、いらんネガティブ感情を生んでしまうからなんだよな。善悪は明らかに倫理的な問題あるなら第三者の、軽微なら相互コミュニケーションの範疇で、受けた側が愚痴や陳情や感情の発露でなくただ被害者面して悪口言うのは筋が違うよな。いや加えた側にしてもそうだけどもな。
まあ、ハラスメント、道義的にはそんな感じで思ってるんだが、それと別に実用的に考えたいなとも思ってて。年下と話すときにそう言われる余地を少なくしたい。めんどいよね。
最近「褒めるのもだめ」って記事見たんだが。いいこ症候群な若者たちは褒め言葉をプレッシャーに思うからって。
ただ、それこそ受け手主義じゃない?とも思って。それこそ一人相撲だわ、年上は喋るほど損するし喋らなければ無愛想で怖い人やん。いや、わかるんだけど、無愛想怖い印象を回避するくらいの付き合い方をやればいいって。でもそれ得させる都合いい先輩しか受け入れられないことになりがちじゃんずるいわ〜切ないわ〜てなるのよな。
いや、元よりそんなもんか?
いっこ考えてたのが、自分に長けててかつ美徳としてそうな概念であんま積極的に褒めんほうがいいのかな〜と。
痩身頑張ってる人が「痩せた?」て言う感じのやつ。悪意はないけど価値観の押しつけになるので。
自戒。誠実に仕事してる自分マンセーで「あの人は誠実に仕事されてて…」みたいな言うもんな。いや職場が誠実さを求めてるならいいだろうが、それより作業効率増やせよってとこならいらん価値観だもんな。職場燃えろ。
差別についてだったかな、輪投げの近さで表現されている言説があって。
自分のほうが近い目標物について、そのように語らないのがいいよねというか。
別の目標物があることを、ちゃんと認識して、その認識がうまく相手に伝わるような(伝えるのではなく伝わるように)コミュニケーションをとれればいいよね、という理想。
同時に他者への敬意もそうだよな、と思ってた。
これ、今思うと、横に切り離すなら自他境界線で上下に切り離すなら差別だな? 上でちょくちょく触れた一人相撲なら自他境界線が引けてないってこと。
これさ〜上下に切り離しときながら私は横に切り離してるから〜みたいな面する人結構いるよね。他者蔑みながらそいつらが自分の正しさをわかるべきだと周りにアピールするけど当の他者には無関心面して受容させようというコミュニケーションはとれない人。愚かなコミュ障が正義を騙るな。
みたいな感じ。
よしまとまった。すっきりした〜
アカデミー賞授賞式でのアジア人差別ジョークが波紋…アン・リー監督らが抗議
https://www.cinematoday.jp/news/N0081261
正式に抗議しても改めなかったんだね…
「現地時間2月28日に開催された第88回アカデミー賞授賞式でアジア人に対する「趣味の悪い、侮辱的な」ジョークがあったとして、映画『ブロークバック・マウンテン』と『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』で2度のアカデミー賞監督賞に輝いたアン・リー監督や「スター・トレック」シリーズのジョージ・タケイら25名のアジア系アカデミー会員たちが、アカデミー賞を主催する映画芸術科学アカデミーに抗議の手紙を送った。The Hollywood Reporter などが報じた。
【写真】問題となっている場面…アリ・Gにふんしたサシャ・バロン・コーエン
問題となっているのは、司会のクリス・ロックがアカデミー会員の投票を集計する会計士としてアジア人の子供たちを紹介するという、“アジア人は数学が得意”というステレオタイプを強調した寸劇と、プレゼンターを務めた『アリ・G』のサシャ・バロン・コーエンが「なぜ彼らのためのオスカーがないんだ。とても勤勉で、ちっちゃな性器のついた黄色い人たちに」(その後、「わかるでしょ? ミニオンズのことさ」と続けている)というジョークだ。」
30 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です 2022/03/30(水) 01:00:13.93
https://i.imgur.com/llB5ELK.jpg
俺は普段セレブの話とか興味ないんだけど、何が驚いたかってこの件に関する韓国とアメリカの反応が全く違うってことだわ。
アメリカ人はこれに関して暴力振るったウィルを批判してるよね。「クリスはただジョーク言っただけ。ウィルはそんな風に振る舞うべきじゃなかった」が俺が見た中でアメリカ人の一般的な意見。
でも韓国人の意見は違うっぽい。韓国人の殆どは家族の病気を嘲笑ったクリスが責められるべきだと言ってる。クリスは一線を超えてるし、ウィルの行動は間違ってるが理解はできるって。
で一番驚いたのはこの件に関してアメリカそのものを憎んでる奴が多いことだわ。
アメリカの「ただのジョークだろ」って文化、その偽善性に激怒してる。
例えばクリスは前オスカーでアジア人に対する差別的なジョークもやってるし。
全米からポリコレの名のもと、選ばれたオスカーという名を持つ十二人の怒れるオッサン達が怒鳴りあいながら選定してるんやで(でも最後は相互に解り合ってハグしあう)アッー
アカデミー賞でオスカー俳優のウィル・スミスがコメディアンの司会クリス・ロックを平手打ちし、賛否が挙がっている。
賛否の境界線として、日本人と米国人という大きな分水嶺がみられる。どういうことかと言うと、
日本では、「人」としてどうなのかという点でウィル・スミスが賞賛され、米国では「プロフェッショナル」(社会人)としてどうなのかという点でウィル・スミスが批判されている。
むろん全員ではないにせよ、マジョリティの意見がそのように違っている。では一体何が両国の人々の着眼と賛否を分けているのか。
私の仮説はこうだ。
日本では会社や公において、個性を出さないことが基本的な美徳とされている。
反対に米国では、個性を主張することが基本的な美徳とされている。
この前提の違いゆえに、日本でウィル・スミスの振る舞いは、「普通」は我慢するべきところ、ちゃんと人として家族である妻のために怒る振る舞いをして偉い!という評価になっている。
反対に、米国では「普通」は個人として主張するだろうが、それをプロフェッショナルであることを忘れたかのように、そのままエゴ丸出しでふるまってオスカーの舞台をぶち壊してけしからん!という評価になっている。
おそらく日本人の常識からすると、何か公の場で理不尽なことなどを言われても笑顔でその場を取り繕うということは、多くの人が当たり前に経験していることなのではないだろうか。
反対に米国の常識からすると、主張するべきは主張する文化なので、それをオスカーという公の大舞台の場で暴力という最悪の表現で返すという<我慢できなかった>未熟な奴だという評価になってしまうのだろう。
それぞれの文化の背景にある「普通」からの距離感が、つまり日本では公の場において普通ではない振る舞い<あえて>した人物として賞賛され、米国では普通の振る舞いを<おさえられずに>した人物として批判されているのではないだろうか。