はてなキーワード: イコールとは
君の考えを引用を中心にまとめるとこうなると思うんだよね。
「彼の心理を理解したいから」、「彼がどういう心理状況で日々を暮らしてきたのかを真剣に想像してみよう」。そのための道筋として、「これまでの経験や嗜好というドットのつながりと、起こした行動の間に、関連性を見出すのは自然だ」。というのも、自分自身の「これまでの経験や嗜好というドット」をつなぎ結ぶことで人は誰しも自分の「人生のストーリーを描いて」いるからだ。それは時として当人にとっても「明確に意識されていない」ものかもしれないが、必ずや「ある種の心理的状況」を作り出すことを通して、「自分自身を把握し、ある行動を起こす」ことへと導くものだ。だから、「この犯人の場合であれば」、たとえ「アニメ・カント・博士課程無職」といったそれぞれの単体では心理や把握している自分の人生というものに影響をもたなくとも、それらの「組み合わせというのが、犯罪と密接な関係を持っているということは認めるべき」だ。
この考えの前提の部分はともかくとして、気になるところがいくつかあるんだよね。
一つ目。君は個人を構成する「経験や嗜好」そのものではなく、それらの組み合わせが人格を作り上げると主張しているようだけど、ここでは「経験や嗜好」や経歴をそれ単体だけで取り上げた、何の変哲もない感想しか述べられてないよね。たとえば、博士課程へ進学しながら「まともな職を得られないというのは、精神的にきつい」としている。また、美少女アニメは「容易に現実逃避の対象」となるので、「それが現実対処能力を下げうる危険性がある」としている。そしてカント好きという要素についても、カントの理解に「誤解が生じた」、あるいは「なぜカントの言葉に従えなかったのか」という問いを立てている。これらはいずれも「組み合わせ」をもとにして作り出された「人生のストーリー」などではなく、単体の要素から「人物判断をイコールで導き出し」てしまっている好例ではないの? これがステレオタイプとどうちがうのか私には分からないんだよね。君は報道された経歴や嗜好をひとつひとつバラバラに一瞥する。「高学歴無職ってきつそう」「美少女アニメ好きって現実から逃げてるよね」「カント好きならこんなことしないよな」と、ありきたりな印象を述べながら。そして次に、そのように吐き出された感想に自分自身で同意するかのように、君は犯人に対して「共感」を示す。「ああ、こういうことの組み合わせで、こういうことを起こす心理状況になるのは分からんでもないなぁ」と。でもそれは「人生のストーリー」を形作る組み合わせでもなんでもない。もしそうなら、どうして犯人と同じ経歴や嗜好を持つ人が同じ犯罪を起こさないのだろうか? つまりこれはただのステレオタイプの組み合わせなわけで、君は君自身が抱くステレオタイプを用いて他人の心理状況を説明してしまっているんだよね。君の共感というのも、説明づけられた他人に対してではなく、ステレオタイプで分類された他人に対して示されたものではないの? 君はステレオタイプが確かに正しかったという結論に「empathy=in+pathos」したのではないの?
二つ目。君は自分の考えの前提と実際にやっていることのズレに半ば自覚的なようなので、こんな答弁を返しているね。
「経験は無数なのだから、どれをつないで自分のストーリーを作るかは恣意的だ。」
どうせ「恣意的」なのだから、みんな好き勝手に解釈すればいいし、自由に「彼のストーリー仮説」を作ればいいとちゃぶ台を返してしまうことで、君は犯人の「心理的状況を真剣に考え」るという当初の名目をもはや捨て去っているように見える。それでも君は自分の感想は「否定されること」ではなく、当初の目的に沿ったものだと弁護してこう言い張っているね。「人の心理を想像するうえで、そういった作業は欠くことができないとさえ僕は思う。」ここで、奇妙な言い換えが起こっている。君は始め、ステレオタイプに頼らず「真剣に想像」することは彼の心理を「理解」するための方法だという主旨を述べたはずだよね。ところがここでは、みんなが自分の立場から好き勝手に感想を言うことそれ自体の重要性をアピールしている。こうなってしまうと、「これまでの経験や嗜好というドットのつながり」や「人生のストーリー」が個人の心理を解き明かす上でどのように求められるのか分からなくなってくる。それどころか、君はむしろ好きこのんでステレオタイプに基づいた判断をしたがっており、「人生のストーリー」というものが「人物判断をイコールで導き出」されたものの美辞麗句にさえ思えてくるんだよね。
三つ目。「人の心理を想像するうえで、そういった作業は欠くことができない」というが、なぜ心理を想像するのに報道やマスメディアの断片的な情報があえて必要なの? 君は人生のストーリーを把握するためには「彼の供述を待つ必要がある」、「インタビューしてみないと分からない」と述べている。にも関わらず、供述を待つまでもなく、君は自分の感想を積極的に垂れ流しているよね。これによって、経歴についての君の感想は心理を理解するための方策ではなく、心理を想像するための過程ですらないと告白してしまっているように見える。ではそれは何なのかというと、報道をもとに君が抱いたステレオタイプな人格に他ならないんじゃないの? そしてなぜそのようなありきたりな感想に対して慎重に対処しようとしないの?
まとめると、君は終始、他人の人格を自分の偏見をもってステレオタイプに説明づけることしかしてないんだよね。そして他人からこの事実を指摘=説明されることから逃れるために、ありもしない高尚な動機を後づけでくっつけているように見える。君は二枚舌を使いまわしてこう主張する。「犯罪と結びつけるステレオタイプは排除しなければならない」。たとえ自身がステレオタイプにはまっていようとも、それは犯人の心理を理解したいから彼のストーリー仮説を作っているからであって、誤りではないということだ。
さらに滑稽なのは、「人の心理を想像するうえで、そういった作業は欠くことができないとさえ僕は思う」と、下衆な報道を野次馬的に楽しむことを高らかに正当化していることだよね。カントは、ある善を実現するためには、それを信奉する万人が等しく同一の道徳規則に無条件にしたがわねばならないとしている。君の場合はまるで逆だ。君は君の判断を正当化するために、あるはずもなかった善を先取りして捏造してみせた。そしてその結果として君の行為はゆいいつ美しいものとなるはずだったけど、あまりにも目論見が馬鹿げているために君はそれさえも失敗した。紆余曲折したあまり最後には、ステレオタイプに基づいた判断のすべてが個人の心理状況を理解するための尊い「哲学的な問い」だという結論に逢着したようだけど、なるほど、これは確かにカントを逆順に理解したものだね。君は自分自身の身勝手な行為から出発して万人に当てはまる倫理を作り上げたんだよ。
カント愛した元院生、存在感薄く 岡山・女児監禁容疑者:朝日新聞デジタル
監禁事件の犯人が、阪大大学院博士課程でカントを中心とした倫理学を専攻していたという報道があり、
当初の報道では「アニメ好き」に焦点が当てられていたこともあり、
ネット上では「カント好きだと犯罪者になるとか報道しないのかね」といった皮肉が多く見られた。
確かに、何か単体のものが犯罪と結びつくという短絡的な発想は戒めなければならない。
「アニメ好き」だろうが「カント好き」だろうが「無職」だろうが、それらを犯罪と結びつける報道はあってはならないだろう。
しかし、現実的に何か複数のものの組み合わせというのが、犯罪と密接な関係を持っているということは認めるべきではないだろうか。
この犯人の場合であれば、「カントなどの倫理学・哲学専攻」の「博士課程に行くも論文かけず、就職失敗」した一方で、「美少女アニメの愛好」という趣味を持つ人物であった。
これらの組み合わせは、明らかに今回の犯罪に結びつく心理的要因の大きな要素だったと言えると思う。
実際、哲学や倫理学というのは、思考や常識の前提に対して疑問を投げかける学問で、かなり危険(社会性の逸脱という意味で)なのは事実である(「カント危機」という言葉さえあり、クライストはそれで精神を病んだ)
博士課程(しかも阪大)に行って、それなりのプライドを持つに至る一方で、周囲がエリートコースを歩みながら、自分はまともな職を得られないというのは、精神的にきついのは事実である。
美少女アニメというのが、現実のつらさを忘れさせてくれるもので、容易に現実逃避の対象となり、それが現実対処能力を下げうる危険性があるのは事実である。
もちろん、これら単体と犯罪を結びつけるのは戒めなければならない。
いわゆる「カント危機」と称される精神的危機を乗り越えて、独自の哲学や思想を築き上げた哲学者、思想家は枚挙に暇がない。
博士課程に行くも、周りはうまくいく一方で自分は就職に失敗し、生きる気力をなくしてしまうも、その挫折を乗り越え、その後の自分の人生を誇り高く納得して歩んでいる人は数え切れない。
美少女アニメを楽しむことと、現実社会とうまく付き合っていくことを両立させている人は、必ずあなたの周りに一人はいるだろう(隠しているかもしれないが)。
だから、これらを犯罪と結びつけるステレオタイプは排除しなければならない。
しかし、これらの組み合わせが、今回の「少女監禁」という犯罪に至った心理的要因ではなかったかと意見を述べることがタブーであってはならない。
事実として、複数の状況や要素の組み合わせは、共同体の常識や規範を乗り越えさせ、犯罪を犯す要因となるのだ。
僕はあの秋葉原の加藤の供述を読んだときにもそう思っていた。単体要因の「非モテ」でも、「母親との関係」でも、「職場でのトラブル」でもなく、それらの組み合わせが犯罪へと向かわせたのだと。
あるいは、また思ったのだ。「灘・ハーバード・楽天」という組み合わせが悪いのだと。別に、灘や、ハーバードや、楽天が悪い訳ではないと。
どれか一つ、それが「公立高校」であったり、「慶応」であったり、「Google」であったりしたら、こんな女性トラブルを起こさなかったのではないかと。
ある単体の要素と、そこから人物判断をイコールで導き出してしまうのは、単なるステレオタイプである。
しかし、複数の特定の要素や経験の組み合わせというのは、明らかにある種の心理的状況を生む原因となりうる。それは事実である。
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<追記>
"容疑者は、他者を道具化したいとの傾向性を克服すべくカントを敬愛していたが、ついに自己の傾向性に負けた、とするのが妥当な解釈。容疑者とカントの親和性は明らか"
https://twitter.com/Sukuitohananika/status/492910624356065281
"実際にカントはこういうタイプの人間たちに向けて倫理学を書いたとすら言えるのではないか。事件とカントは無関係、風評被害と言ってる人はちゃんとカントを読むべし"
https://twitter.com/Sukuitohananika/status/492911628392742912
こういうのは匿名ダイアリーで言っても耳を傾けてもらえないが、実名で哲学の教授が同じようなこと言ってくれると信憑性が増すなぁと思った。
「カント好きは犯罪者」と「犯罪を起こした彼の心理の中で、その行動とカントへの偏愛とのつながりがありうる」は全然違うんだよ。何か前者とともに後者もタブーにする傾向が最近見られるのが好きじゃないのでこのエントリーを書いた。
そう、今分かったけど、この前者と後者が混同されつつあるのが嫌なんだ。あと、俺は偏見を生みたい訳ではなくて、同じカント好きとして、彼の心理を理解したいからこう言っている。
「カントと犯罪が関係あるわけない」と簡単に言い切ってしまえる人は、彼の心理的状況を真剣に考えたくもないのだと思う。
博士課程まで行ったけど年も食って就職がうまくいかないだとか、カントへの偏愛だとか、アニメポスターを部屋中に貼るとか、彼がどういう心理状況で日々を暮らしてきたのかを真剣に想像してみようとも思わないのだと。
彼が美少女誘拐を行おうと思った時に「傾向性」という言葉がよぎらなかった訳がないのだ。
もちろん、犯罪者の心理なんて理解したくも想像したくもないという立場はそれはそれでありだとは思うが。
だから、僕は秋葉原の加藤も、許されざる殺人をしたのは事実だけど、「ああ、こういうことの組み合わせで、こういうことを起こす心理状況になるのは分からんでもないなぁ」と僕は共感(empathy=in+pathosという意味で)してしまうのだ。
コメントを見ると、僕の表現ゆえだろうけど超誤解を生んでいるし、誤読から変なステレオタイプを生みそうなので、このエントリーは消そうかなと思ったけど、一応残しておく。
つまりさ、ジョブスが言った「connecting the dots」に近い話なのよ。人はある特定の要素や経験を結んであるストーリーをつくり、自分自身を把握し、ある行動を起こす。
彼の中で、アニメとカントと就職できなかったことというのは、何らかの形で結びついて、あるストーリーができていると思う。
もちろん、彼の供述を待つ必要がある。でも、それは明確に意識されていないので供述されないかもしれないとも思う。これはインタビューしてみないと分からない。
とにかく、これまでの経験や嗜好というドットのつながりと、起こした行動の間に、関連性を見出すのは自然だろう。
もちろん、そのつながりというのは「恣意的」に行われる。経験は無数なのだから、どれをつないで自分のストーリーを作るかは恣意的だ。僕も勝手に彼のドットをつないで彼のストーリー仮説を作っている。
だから、「アニメ好きで・カント好きで・博士課程無職」に加えて「恩人との出会い」というドットをさらにつないで、挫折を経た最高の人生のストーリーを描いている人も恐らくいるだろう。あるいは「博士課程無職」を何らネガティブなドットとして捉えない人もいるだろう。
どんなに否定的なドットの積み重ねにも、肯定的なストーリーを描く人はいるし、あるいは、肯定的なドット一つで人生展望ががらっと変わるというのはよくある話だ。
だけど、今回犯罪を犯した彼はどうだっただろうか、「カントへの偏愛や就職失敗や美少女アニメ好きは彼自身の心理の中では少女監禁を起こすに至るような関係があったのではないか」と考えるのは、否定されることだろうか。
人の心理を想像するうえで、そういった作業は欠くことができないとさえ僕は思う。
あと、カントは「他者を手段としてのみならず、目的としてとらえよ」と言っているのは有名だし、傾向性に逆らえと言っているのは常識として書いたので、そこに誤解が生じたのかもしれない。
そんなカントの言葉に彼がなぜ惹かれたのか、彼自身が善きこととは何かという問いを抱えていたからだろうか、最終的になぜカントの言葉に従えなかったのか、などと考えるのは彼の心理を探る上で重要だろうとやっぱり思うし、それは哲学的な問いでもあると思う。
まったくのイコールではないよね。位相的に類似する点があるという程度で。
つまりまだまだ生産性が頭打ちになっていないのにコンドームによって(精)子捨て状態になっている可能性があるとにらんでいるという話。
フェミニストに限らないけど特定のグループの権利を他のグループ以上に拡大しようと活動してる人たちは皆差別主義者でしょ。
あるグループが利するように働きかけることは相対的にその他のグループを差別するということ。
そして人は本質的に自分が属しているグループを利することに熱心。強者も弱者も差別が大好き。強者は支配的に、弱者は弱者という立場を利用して自分のグループを利することにご執心。
差別イコール悪と掲げて差別撤廃を訴える人たちも、自分の中の「差別大好き」を必死に飼い馴らし、その上に倫理・道徳観を積み上げて二階部分で「差別イコール悪」を叫んでいるよね。
研究室の先生にさー、何回か「どうせ彼氏いないんでしょ?」って言われたんだよね。いやいや、普通にいるし、そもそも学生に対する発言としておかしいでしょ。「彼氏いるの?」は定期的にセックスする相手がいるかどうか尋ねているのと同義だからセクハラって聞いたことがあるけど、「彼氏いないんでしょ?」もセクハラでいいのかな?「彼氏いるの?」の例にならって考えると、「彼氏いないんでしょ?」は「セックスしていないんでしょ?」に換言できることになる。セクハラだよね?セクハラかどうか関わらず普通にうざいな〜。先生からみて性的に魅力的じゃなかったとしても、学問の場で私を学力以外でジャッジすんなよ。異性からの評価を勝手に想定して言及すんなよ。お前の評価は私に対する全ての評価とイコールじゃない。しかも要するに「あなたを魅力的に思う男性なんていないよね?」って言ってるのと同じだからこれ、悪口じゃない?「彼氏いるの?」よりむかつく気がする。そもそもわたしがセクシャルマイノリティだったらどーすんの?学科で人気の先生だから友達にも相談しにくい。「え〜、そういう毒舌なとこが可愛いんじゃん!ツンデレだよ、ツンデレ」とか言われそう。っていうかその先生の別のアカハラっぽい発言について愚痴ったらそう言われた。そういう学科の雰囲気も気持ち悪い。だからなんで学問とか教育の能力以外で教員を判断すんの?かわいかったらセクハラも悪口も許されるの?大人としてどうよ?「福山雅治だったらセクハラ認定しないんだろ」とか言うやついるけど、福山雅治でもキモいしうざいよ。実際その教員も一般的にイケメンって言われてるしさ。でも世の中には福山雅治やイケメンとセクシャルで親密なやりとりをしたい人やそういう人が多数派だと思っている人がいて、そういう人たちが実際の被害を茶化したり大したことないと思っているんだろうな。確かに好みのタイプの人にプライベートな場で性的にジャッジされるのはまんざらじゃないときもあるよ(それにしたって「彼氏いないんでしょ?」は普通に悪口だと思うが)。だけど、TPOってあるんじゃないの。学生と教員の研究室でのやりとりはどうあがいてもプライベートで親密なものではないよね。繰り返しになるけど、学問の場で私を学力以外で評価するな。そして悪口を言うな。そいつが大教室で「この作品のジェンダー批評的解釈は〜」「マイノリティに対する抑圧の象徴が〜」とか言ってんだよ。まずてめえの言動を反省しろよ。ちゃんちゃらおかしくてヘソで茶だぜ。ゼミ変えたいなー。
人間は人間に対して残忍な拷問をしたり、事故であったり、そもそも動物界では、生きながら食べられたりと
たいていは他人事だが、まれに共感能力によって、その苦痛を自分のものとしたり、
また少数の人や生物は実際に拷問を受けたり、齧られたりして苦痛を感じている。
この文章を読んでいる人はほぼ全員が
「自分があんな目に合わなくて良かった」という他人事の立場だ。
私もそうだ。
しかし、自分が当事者になる可能性を考えると、たまに言いようの無い恐怖を感じる。
プレス機を止められないと理解しつつ、ゆっくり鉄板が自分を押しつぶすのを待ってる時のことを考えると怖くて仕方が無い。
私以外にもそんな人は居るだろう。
しかし、絶対にそういう苦痛から逃げられない可能性があり得ることに気がついている人は居るだろうか?
自分とはなんだろう?と考えたとき、たいていの人は追求しきれずにうやむやになってしまうと思う。
多くの可能性の中で「自分とは、もしかしたら神かもしれない」と思った人も居ると思う。
(神という表現に違和感がある人は「共有意識」とでも何とでも読み代えて欲しいが、ここでは便宜上「神」とする)
この世界を観察、体験する為の主体を追求すると神に行き着き「自分の体験はイコール神の体験じゃないか?」という発想だ。
この発想では全員のコアが神だということになる。
などという思考や情念は自分の脳が作り出すが、それを体験しているコアは神だ、という発想だ。
ついて来れているだろうか?
この部分の意味が分からないと、この先は全く理解できないと思うので、分からない人は、ここで読むのをやめるか、何度も読んで理解するかして欲しい。
もし生物(に限らない。意識を持ちうる物質全て)のコアは神で、全生物の体験は神が体験しているとしたら?
もしそうなら、ビルゲイツの富もイチローの栄誉も野々村議員の羞恥も実験モルモットの苦痛も全て自分の体験である。
先週の金曜日にかけた商品の発注の桁を間違えていることに今朝気付いた私も、
それを怒りつつ、事態をどう収拾しようか胃に穴をあけながら悩む上司も、
商品をキャンセルされて土日に無理した受注企業の社員や社長も、
すべては自分である可能性があるので、あまり私を怒って苦しめないで下さい。
それがあなたの為です。
この文章を家を出なければならない時間までに書き上げられなければ、今日は会社を休もうと思っていたが、
体重1kgを減らすには約7000kcal消費する必要があるというのをどこかで見た。
で、これをどう消費しようかって話なんだけど、
まず、運動を大まかにカテゴライズすると無酸素運動と有酸素運動に分類できると思う。
その上で、有酸素運動は脂肪の燃焼に効果的ってのもデブの基礎知識として知っている方は少なくないとは思うんだけど、
結局のところ、有酸素だろうが無酸素だろうが7000kcal消費できれば単純に1kg減量できるって認識でいいのだろうか。
だとすれば、例えば、ジョギング10キロと100m全力疾走10本がイコールならば時間効率的に無酸素運動に軍配があがるんじゃなかろうか。
つまり、短時間で強度が高く消費カロリーの大きい運動(=無酸素運動)のほうが、時間効率がよくストイックに鍛えられるんじゃないか。
どうだろう?(アイスを舐めながら)
自分のことを醜いと思う。人並みにはなれないと思う。
イコール自分のことをブスだと思っている、かと言えば別にそこまででもない。
中学生の頃、化粧したらクラスで一番かわいいかもとネクラな私に言ってくれた女の子がいるくらいだし、
かわいいねと言われたことが全くないくらいブスなわけでもない。
ただ、醜いと思う。内面も外面も醜いと思う。
兄が自分(兄自身)はブスだと一時期ひとりごとのようにねちねち言っていたのに影響されたからかもしれないし、
小学生の髪の毛をぼさぼさとさせているときに(私は当時髪を切りに行くのがとても嫌いだった)ブスとののしられたからかもしれない。
ただ、醜いことを私自身が言い訳にしていた結果なのかもしれない。
他人の目を見るのが嫌いだったり、他人と目が合ったことが体に残るように感じてぞっとする私は「自分が醜いから見られるのだ」
といったように言い訳をして理由づけをしていたのかもしれない。
変な、恥ずかしい行動をしていたからというよりも、自分が醜いことに言い訳をすることの方が楽だったのかもしれない。
朝鏡を見た時はかわいかったのに、外で自分を見るとブスだなんて、別にありがちなことなのだろう。
自分が醜いという言い訳はそろそろ手放さなければならないのだろうか。
まぁ、人の自由か。
職場結婚してる夫婦って、つまり、仕事の場イコール出会いの場と考えて仕事してたわけで、次のステージには、仕事の場イコール恋愛の場として生活してたわけで、真面目に仕事一筋で頑張ってた人と比べたら明らかにふざけてない?
さらには結婚して、女は産休と育休とって仕事もしてないのに職場を腰掛けにしてるわけで、その後に職場復帰しても時間短縮措置とかで朝夕2時間短縮勤務とかで1日4時間しか仕事してないのに その4時間分の給料しっかり貰ってて。(他の社員は朝早くきて仕事の準備や段取り、残業未満の明日の準備とかしてて8時間分の給与なのに、ピッタリ4時間で仕事も楽なの回されてて、それでしっかり4時間分の給与キッチリ確保なんて明らかにオカシイ)
旦那側は、嫁が産休や育児で大変なので 早く帰りますとか平気で口にして、上司も容認してて、人事異動の際も「大変な部署は無理です」とか「ワークライフバランスがとうこう」とか平気で口にして。夫婦で会社の福利厚生サービスも使いまくって。
あんたらが負担軽減されてる分、誰が埋めてると思ってるの?その分の負担押し付けられてんのは独身社員なんですけど。
それでいて、職場結婚じゃない社員や独身社員を影で笑ってるとか本気?
なんなのこれ。
いや、仲良くなって売るのは騙してるよ。
そのお客さんにとってベストのプロダクトが自社のものじゃないなーって思っても
そりゃ自社製品売るよ。仕事だもの。胸を張って『御社にとってベストの商品です』って言うよ。
エンジニアが常に業界トップかつお客様にとってベストな商品を作れるなら話は別だけど
そして、俺が営業として高い給料を貰ってるってことはイコールで
エンジニアがカスってことで。商品力で他社を圧倒できるなら営業に金かける必要ねーからな。
「カスにガラクタ作らせて、詐欺師に売らせる」なんて大抵の会社でやってることだよ。
特に、我が社のプロダクトは超カス。営業の浸透度が高いから売れるけど、
こんなもん買ってる顧客どもは本当に頭悪いなーと常々思ってる。まぁ、ありがたい限りだけど。
「~さんに任せておけば大丈夫」って思考停止させるだけの簡単なお仕事だよ。
「~さんだから大丈夫だろう」ってハンコ押してるそこのおまえ、いつもありがとうございます。
男のアナルから赤ちゃんが出てくるようにならないと男女平等は実現しません。
そこを屁理屈で同一のものと見なすからキチガイになってしまうのです。
欧米の女性は性欲処理とピストルの弾除けとしてのみ使われていた期間が長かったので
家庭や医療福祉の業界、公共地域社会における地位が高い日本の女性と違って、
成功とは男と同じことをすることだとしか考えられないのではないでしょうか。
おっぱいは男女平等です。乳が出てくる男性も居るらしいですし、
また一つ賢くなりました。ありがとうございます。
「こうあるべきだ」という理念を軸にするのではなく、
時間と体力という、限りがあるリソースを分配するという観点に立つなら・・・
欧米の男女平等は「男も女も同じことをする」発想に立っているので
女性固有の負担の上に男性が行っていた負担を積み重ねるという結果となる。
見かけとしては男性と女性は同じ地位・権限・自由を手に入れたが、実際には欧米型男女平等は男だけが楽になった。
日本においては女性管理職が少ない、女性の賃金が少ない、女性は非正規雇用だらけだと統計数字しか見ない
欧米と日本のお馬鹿から批判されているが、そもそも身体構造や生殖機能が男性と女性で違うので、適用される法律も違うし、そうなると役割も違う。
労働基準法、育児介護休業法、男女雇用機会均等法などの労働法規で男性よりも取り扱いに制約が多い女性の待遇を男性並みにしようとするなら、
さらに資金を投入して女性に下駄を履かせるか、男性の待遇を女性並みに下げるしかない。
男性よりも出来がいい、家庭に入ると勿体無いという女性がいるのは、試行錯誤が許されるほど資金に余裕がある企業や元々女性労働者が中心だった業種および企業、
男女の身体的差異がハンデにならない頭脳労働や事務作業をする業界職種で多い話。
昔の日本は共働きだったと言うが、親世代と同居して子育てをアウトソーシングしやすい環境だったこと。
専業主婦と同様に、親元から遠く離れて核家族世帯を築くライフスタイルも戦後の一時期のみだったという史実には目を塞ぐ。
企業が従業員に対して転勤などをさせにくくなるから、誰も声を上げないのである。
出産や産前産後の身体的不自由を背負う代わりに企業での正規雇用(義務)を免除され、家庭における女性の地位を日本社会から承認されてきた。
欧米と違って日本女性は管理職や政治家などという形で男性ほどの活躍はしておらず、それがお馬鹿のメガネには女性差別に映る。
しかし個人の負担「量」という観点で考えると日本における男性と女性はイコールであるか、まだ男性の負担のほうが大きい(自殺者数などから)。
世界からは差別されているように見える日本女性は生活に満足しており、もともとの女性固有の負担の上に男性と同じ役割もしなくてはならなくなった欧米女性は生活に不満である。
AするためにはBが必要
この単純な公式だけで行動する人は危ない
単純に思いつくのが
・がんばれば結果が出ます
目標:結果
戦技:戦法を選択する理由と成りえる要素
戦力:戦技を使える要素
の組み方ではないか
例
戦術:毎日飲む 毎日のめるものを選択する 毎日のんで結果がでることを確認する
戦法:味量タイミングを確認する 価格入手方法を確認する 自分に効果があるか確認する
戦技:(携帯を持っているので)わすれっぽいので携帯にアラームを仕込む お小遣いをためる 他の同じ成分でも自分にあっていたので効き目があると推測する
戦力:携帯の扱いが苦手ではない お小遣いに余裕をつくれる ダイエット成分について知っていることがある
目的:携帯のアラームでも忘れるなら使用をやめる お小遣いに余裕がなくなったらやめる 成分に効き目がなさそうと判断したらやめる
目標をまず掲げてあとはヤレという教育形態で育った人間は目標と目的だけあれば、あとは行動すれば結果がついてくるといった戦い方をすべて時の運まかせに無計画にすすめるのでサラリーマンは良く育つがリーダーは育たない土壌がある
列挙すると上から順に一つずつこなしていけばいい流れ図のように見えるが、それぞれの段階でそれぞれの取捨選択やそのための要素を収拾、調整する必要がある
図にしたならねずみ講の図のようになるだろう
三日で5キロやせるのにサプリを飲んだらやせる、実際やせましたといわれたら痩せるのかと
サプリが飲みたいのか痩せたいのかお金を払いたいのか何なのかはっきりすべき
痩せたいのであれば戦略的に運動、食事制限、サプリ、その他などからサプリを選ぶべきなのか
戦法的に他の戦術を選択するより有利な条件がすでにそろっているのか
ここまで見て、目標を変えるか戦略を変えるかする必要があるはず
その後はオンゴーイングで現場を調節していく、みため「不可能を可能にする指導者」系や、戦力を準備していて予定を調和させていく「軍師といわれる指導者」系などにわかれる
携帯は日常的につかってるしこれをダイエット×サプリの組み合わせに応用できるなら有利な点が一つふえる、といった形で多く選択の価値があるなら戦略を進める方向で決定づけれるし
戦力的にだれかがそれをしてくれる、またほかに自分が戦略を進める方向にあったときに補助となる問題回避策があればなおよし
これを「やっているうちにみつかる、やっていれば自然とあつまる」といった運のよさだけで乗り切るのは「乗り切った人の後日談」しかのこらない そのため成功率の伝聞は聞いた人としては「かなり高確率」
さらに「やってみなくてはわからない」につなげる人もでてくる 失敗したりもとより無理な可能性が大きいものにただ従わせるだけになることもある
最終的に戦力を投入して実施をした場合、どの段階で続行か中止かなどを検討するのに目的を設置していく
まず飲み始めでまずいとおもったらやめるか、やめないか 二日目では 結果はどの段階で など
三日目にならないと痩せるかどうかわからない(完遂しなくては結果ではない)とすれば、損切りができない
サラリーマンは月ごとに給料がでなくてはやる気にならないし、教育も定期的に点数がでないと将来役に立つといわれても微妙
実施の段階に合わせて実施結果に対する報酬を設定することを行動の目的とし、その結果ごとに戦略の維持や方向転換、中止などを検討する
半年がんばったが戦略を中止することになる などのアクシデントも発生するが、他の戦略立案の際に戦技、戦力として維持引継ぎを考えて戦略を練ることで「無駄ではない」という事が出来る
戦略の立案に際して「やればできる」とその内容関係なく開始をすると、その以前の結果で出来た資産をすべて放棄して取り組むことになる
毎回ゼロからはじめることに対しては大きなチャンスだが、少なからずなにかしらの経験や元手がある人間にそれをいきなり全否定されて、半ば洗脳のように「やればできる、実例がある」で
取り組ませるのは異常でもあるし、現実味がなさすぎる気がするがそうは感じないか?
同じものを食べても日本人はすぐに糖尿病になるが白人はその何倍も許容量がある デブ大国でも糖尿病がすくない現実がある
でも同じ人間だしとか意味不明 人によって結果が違うのだから 取組みも人によってことなるはず それは人種性別関係なくみな違うのだから皆ちがうはず
実際にやって背中をみせて俺はうまくいった それはよかったが それが隣の家でもできるかというのは 家族構成や条件や状況、それまで経過した中での運などもあわせてそっくり同じにできる方法がなければ無理だろう
それをこまかく記録して全部再現できるようにできれば応用もできるだろうけどもそんなデータを集めているのか
集めていないなら、それはたまたま運がよかった おちてた1000円ひろったと同じだろう
1000円の拾い方とか方法が確立できて本がかけるのかといえば 実際に拾ったんだからで通じるのか?
戦術:おもしろい教材をつかう 勉強すること自体が楽しいと思わせる 勉強以外にすることをなくす
戦法:IT教材を選択 勉強すればなにか結果を体感できる 勉強以外の時間を自然と減らす仕組みをつくる
戦技:学校教育と教材について検証と結果のデータ 教育方針の適不適判断 テストを自主的に行いその結果でご褒美を出す テレビやゲームなどの時間制限
戦力:学校教育と教材について幅広い知識の友人がいる 定期的なご褒美でもマンネリ化しないもの 抜け道のない空き時間管理または寄り道回復方法
目的:毎週自主テストの結果により毎週ご褒美 ご褒美がほしいから勉強するだけという単純な行動意識により継続をはかる また勉強させたい期間に対して継続や変更のタイミングをみる
最低限これくらいは考えて勉強の必要性を納得させにいく姿勢なく、エリートになった人をつれてきて勉強すればこうなると見せ、それに興味をもった子供が懸命に勉強した結果
不慮の事故で障害をもって予定していた道のすべてが閉ざされたとき、ふつうに絶望しないか?
はいまたやりなおし、新しいゼロからの戦略でいまからやりなおそう、って助言が救いになりそうか?
天才とよばれて幼少期をすごしてきてただの人になったら、ふつうの人になったときに軽く絶望しなかったか?
過去の経験がなにも役に立たない、再利用がきかない、無駄な時間、ただのたのしい思い出、になってしまっていないか?
また戦略どおりに行動が完遂したとして、出来上がるのは「勉強好きな人」ではないか?
勉強の結果を充分に発揮して「おかねをかせぐ人」になるのであれば「勉強好き」と「お金を稼ぐ」はイコールでつながるのか?
「そんなのやってるうちに」で作戦行動を開始して、その結果が運以外の何で構成されるというのか
べつに何事もがんばれば上手くいくってのなら問題ないしこんな話はきかなくていい 何の意味もない話だろう
もし明日の予定も完全ではなくなにか変わる可能性があるのだとしたら、変わったところで無駄になったところで、それを踏まえてさらに時間をすすめていける対応策は必要ではないか
やったらできる、やったからこうなったって姿をみたから、これだけですむならこんな話は全部無駄で意味がないノイズだ
自分が取り組んだことに対していろんな利益がついてきた、こんな幸運はめったにないだろう
それは姿勢とか考え方とか関係なく、むしろ運がいいと括られるものではないだろうか
資格や英語 の資格と英語に限って取り組む戦略を立てた時点で ほかの情報に対する勉強や交流や投資などを捨てていることになる
毎日早い時間に出社していたら、などの取組をしていない、この例をつかって早起きは大切だという事はいえなくなる
早起きはしていたかもしれない じゃあ新聞は読んでいたか 何新聞だったか どの記事でつかめたはずのチャンスを逃したか
言い出せばきりがないが それは戦略を選択した時点での取捨選択であり 運でもある
フランス語にしておけば利益は倍でとどまらなかったはずなのに などの可能性もあるかもしれない
イタリア語にした場合は家族離散で自殺、ということもあるかもしれない
またほかの人が英語からはじめてみよう、としたところで結果はわからない
それは戦力と目的で「英語が自分にとって武器となる」その効果を選択できるときには大いに力になる可能性はあるが
「そんなものはわからないが、成功例があるので自分にも適合するかもしれない」として
伝聞による情報のみで自分自身の状況と環境を加味せず選択したとすると、成功率は半分ともなれるか不安なところだ
単純な人間製造に貢献した戦後教育のおかげでサプリや情報商材が売れに売れて電話一本で詐欺もできる便利な時代が到来したわけだが
最初に書いたとおり、危ない安直さだが愚直だからこそ結果が大きく返って来るということもいえるだろう
悪くはない、人にやらせたければまず自分がやる、というのは自己の戦略のための戦力を準備する意味でもかなり意味があることだろう
今の時代背景的に、自分がやったから子供がついてきた結果家族円満、というそれだけの内容でも受け入れられるだろう
ただ、その方向で進んできて育成された文化がいまの若者を中心に街にある状況だ
私は、あんまりそれを良しとは思わないな
普通、日本語の文章で書かれた日記を見ると、普通は「日本人」という感想よりも前に、この人の日記は面白いな、この人の批評は痛烈だなと思うのが一般的な慣例だったはずである。
それなのにわざわざ「日本人として」とか「日本として」と書くのは何でだろうと思う事がある。
「日本人」という単語がそれほど大きな効力を持つとは考えにくいが、多用する事で訴えたい何かがあるのだとすれば、それは陳腐な事だろう。
実際の所、これを多用するのは自分自身に後ろめたい事実があって、それを「日本人として」という事に置き換えてるのではないか、と考える。
総じて、「日本人」が「日本人として」と書くのは実にヘンな話である。
昨今は隣国との冷えた関係から嫌韓や反中がネット上での常識となり、その国や人となりを風刺するのが常となって久しい。
されば、それがイコール「日本人」への愛着に繋がっていったのでは、というのが一般的な見方であろうと推測されるが、
筆者に言わせれば、それは虚実である。
いちいち「日本人」を多用して「日本」を祀り上げずとも海外での評判は概ね良い。
和食が無形文化遺産に指定されたのを始め、日本のありとあらゆる伝統が外国人の心の拠り所となりつつある。
それらを踏まえれば、「日本人として」と表現する人達の閉鎖的で独善的な感性は何とも言い難いものがある。
あるいは、彼らのアイデンティティーとは昔ナチスが「ゲルマン人こそこの世の最高である」と宣言してたモノに近い。
ところで最近、やたら愛国主義を謳う人が急激に増えたように感じる。
それそのものは良い傾向であろう。
しかしながら、問題は謳っている人間が一方で森林を伐採し、地球温暖化を早め、また労働者を家畜同前の扱いにし晩婚化を進めては少子化が激増する一方であり、日本人の尊厳を踏み躙る行いをしている事である。
そういった人間が一方では「日本人として」景観や自然を守ろうと言うのであるから滑稽である。
日本という国は、古来から八百万の神を信仰し、またシャマニズムを尊び、上も下も豊かであろうと心がけて来た国であるはずである。
にも拘らず、「日本人として」と謳う昨今の愛国主義者たちは、同じ愛国主義者を使役し捨石のように扱い、今度はお国のためと言って戦争に駆り出すのである。
お国のため、としながら他国を蹂躙、凌辱する事は果たしてナショナリズムに合った話なのだろうか。
また、それが謙虚を美徳としてきた「日本人」のあるべき姿だとは、とても思えないのである。
「日本人として」国を愛する心があるのならば、自然や景観を守り、他国を謗ったり、他人を誹謗中傷しない、世界が認める謙虚を美徳する民族であろうと努力すべきではないか。
やたら「日本人」を強調する人というのは、結局日本人である事の誇りを知らない非日本人であり、またそれは歴史が証明しているのだ。
第二次世界大戦で愛国主義を謳った東條英機以下当時の政治家・軍人の類は国家を疲弊し国民を疲弊させ、その文化遺産を鉛などに使うべく溶かしてきた。
その結果が、長崎や広島への原爆により日本人の尊厳や先人の歴史的遺産が消失してしまったという、愛国主義とは程遠い凄惨な事態へと発展せしめたのである。
今思う事は「日本人として」ナショナリズムを起こすのであれば、安易な誹謗中傷よりもまず国内の安寧を図るべきであり、自国を批判する事である。