はてなキーワード: 恋愛弱者とは
漢字の書き取りやかけざん、分数の割り算など、小学生のドリルからだ。
恋愛においてのソレは、ジャストサイズでシンプルな服やズボンをユニクロで買い、靴もシンプルでフォーマルな感じ、美容院で髪を切る。コミュニケーションも聞き上手になれるテクニックを持つ。
こういったところだろうか。
なかなか、できるようにはならないが、努力してれば少しずつこれらの能力も伸びるだろう。
だが、そっから先はどうだろう。
底辺高校ならこれでも成績は伸びるだろうが、まだ結果は出ない。
これらを伸ばすには、その業界でスタンダードといわれる問題集を解いていくことが大事だ。
つまり、演習。
理屈だけ聞いても伸びない、問題に体当たりだ。解いた問題の分だけ力が伸びる。応用問題はいらない、基礎的な問題を解きまくる。
恋愛におけるソレってのは何だろう。
ここで会話→連絡先交換→デートに誘う。ってのを繰り返すことだ。
問題演習で見につく『実力』ってのは何だろう。
受験勉強なら分かりやすい、その分野ごとに出る問題ってのは限られているからその内できるようになる。
では恋愛なら?
女性ごとのタイプ別会話だろうか。その女性ごとに合わせたキャラを選んだり、次に会うチャンスを作る能力だったり。
ラインなんかで事アルごとに連絡し続けて、定期的にデートでもできれば勝ち確なんだろう。
そして、受験校を選ぶことになる。
頭がいい奴は東大や医学部にいくだろう、つまり佐々木希クラスだ。
模試って何だろう。合コンや街コン、婚活パーティーもある、ナンパだってある。
合理的に考えれば。こういう場所で会話と連絡先渡しまくって、3日後の連絡とれますかとか、デートに来てくれますかっていうそういう結果で分かるんじゃないかなあ。
俺は余りにもこういう出会いをしなかった。
何書いても反応貰えない
女こき下ろしてみたり、在日煽ってみたり、恋愛弱者騙ってみたり、学歴、移民、生活保護、離婚、浮気、いじめ、芸能、野球賭博、なに書いてもだめだ!
どうしちゃったんだ俺
どうせこれも誰の目にもつかないまま流れていくんだろう
承認欲求が爆発しそうだ!ていうかもうだいぶ前から爆発して飛び散ってる!誰か助けて
http://anond.hatelabo.jp/20160316231324
女性と男性、労働と結婚と出産などの、ここ100年くらいの状況って総括するとどうなるんだろ?
よくまとまってる記事とかブログとか本ってない? なるべく私怨が少ないやつで。
この辺の問題を論じるとき、参加者は背景の共有ができているのだろうか。できてないと話ズレるとおもう。
要点キーワード列挙するとこんな感じ
男女、歴史的経緯、政治の無策、教育、自分で考える能力のなさ(政治の無関心)、権力構造、時代に適応して価値観を変えたり次世代に引き継ぐことができない権力層
■昔
選択の自由がない単純化されたシステムだった。キツいが、役割を果たせば成立しているシステムであった。でも役割がキツすぎたのか反発が起きていく。
男性が労働して家族を養っていた。つまりそれだけの給料をもらえていた。ただ、家庭と職場の両面で社会的重責が課せられた。その反動か家庭内では暴力的だった。
女性は労働しづらかった。だから一人で生活が不可能なので、旦那を見つけて専業主婦するしか選択肢がなかった。たとえ暴力旦那でも。
男女がお見合いで利害の一致によってくっついて家庭になるので必然的に子供もできた。
このとき男性側のメリットって何なのだろうか?メリットというよりは社会的圧力だろうか。
あまり能力がなくても就職できさえすれば年功序列によって救われた。
女性は生きていけないので、旦那がイケメンかどうかとか言ってられない、なりふり構ってられない状況であった。だからブサメン男性も救われていた。
■現代
男性の給料が減り、家族を養うどころか自分一人を生かすのも危うくなった。男性一人の収入で家族を養えるのはごく限られた一部になった。
女性は能力と意志さえあれば働けるようになり、一人で生活が可能になった。とはいえ給料は男性と同じかそれ未満。給料的に置かれてる状況は同じ。金が無い。
このことから、子供を作る場合は共働きでないと収入面で辛くなった。それでも働いているので時間がなかったりしてかなり厳しい状況なので子供を作れなくなった。DINKSという。
仕事も育児もなんでもこなすスーパーウーマンなんかはごく一部である。共働きとはいえベビーシッターを雇えるような状況でもない。
親子間での殺人事件、ネグレクト、子供の騒音問題、ベビーカー問題、子供への犯罪、養育費の高騰、核家族化による育児サポートのなさ、大学まで行かせても低い就職率、ブラック企業、日本の将来性など、子供の未来にも暗い影があることも出産を抑制している。
それに子供以前に、結婚をしなく・できなくなった。女性は自活できるので、結婚への圧力は減り、恋愛は自由競争化しお見合いが減った。なので市場価値の高いものを志向するようになった。昔の男性のような家族を養える高収入、アイドルブーム、二次元の発達による美形、などを志向する風潮。
また、労働の能力や意思がない女性は、昔の時代の女性が受けた暴力の反動を根拠とするアジテートからか、都合の良いATM旦那や家事育児旦那を求めたり、痴漢冤罪や恋愛弱者男性の迫害といった、婚前・婚後を問わない男性への社会的暴力を開始した。昔の男性の罪など知らない現代の男性にとってはこれを不服とし、「イケメン無罪」「※ただしイケメンに限る」「メンヘラ」「(イケメンには良い顔をする)クソビッチ」などの揶揄・批判用語を作り出して応戦した。泥沼化している。
※昔の男性の罪は、現代の男性が負うべきなのだろうか。罪というかみんな別々の辛さだったんだけど。その批判なら男性でなく明治政府に対してすべきでは?
男性に対する結婚への社会的圧力も減ったので、男性側も結婚を選択しないで済むようにはなった。というか市場価値不足によってしたくてもできないのも大きい。女性の社会的暴力に辟易してしまう成分もあるし、二次元の発達、性風俗に従事する女性の美形レベルの向上もある。旦那がガンになったら捨てられたりする。熟年離婚。セーフティネット、互助機能が家族から失われている。「病める時も健やかなる時も〜」という宣誓は何だったのか。昔のところに書いたように、イヤイヤでも仕方なく結婚したケースも多いから仕方ないのか。
「労働の意思や能力があり、自活できる女性はDVから救われ自由を手に入れた」わけだが、「労働の意思または能力がないので高収入旦那ATMを必要とする女性」はあまり救われてない感じである。ATM旦那を見つけたとしても、そんな妻をもった旦那のほうはイヤイヤ結婚生活であり苦痛である。鉄道模型を捨てられたりするし。
恋愛市場価値の高い男性は引く手数多であり、未婚率が男性が高く女性が低いのは、そういった男性が再婚をするからである。
恋愛市場価値の高い男性と、低い男性との間でも溝ができた。「恋愛のアドバイスだって?じゃあさ、まず女の子と食事いくとするじゃん?」といった、前提レベルが違いすぎる分かり合えない溝を産んだ。
労働の能力や意思の無い(低い)男性は、強い社会的圧力にさらされている。
昔は年功序列によって無能も救済された。だが、徐々に能力主義になっていくにつれ無能は淘汰され、そもそも入社できなくなっていく。しかし昔の無能は年功序列によって上層部になっていくので、能力主義による淘汰を免れた。いまでは上層部の中・高齢者は無能と有能が混在し、中堅以下の中年や若年には無能が存在できなくなった。そういう組織構成になった。医療の進歩で寿命が延び、高齢化社会になったのもある。
それでもニートは200万人くらいいるらしい。「働いたら負け」の名言も産んだ。デイトレードと新小岩も産んだ。
※ニートはなぜか上限が35歳までで、そこまでしか統計を取っていないようだが、あまり年齢上限の意味はないと思う。
昔から現代を通じて「男性への労働圧力」はなんら改善されていないし、反発もされていないのだが、ニート200万人が無言の反発ともいえる。
昔の男女の役割固定の価値観は、現代の役割や生き方の自由化しようとしていることと相性が悪い。男だって働きたくない、男だって家事育児したい、女だって働きたい、女だって産みたくない。昔の価値観どおりにいくのはごく限られた一部であり、多くの現代人の足かせになり、もはや適さない。誰も得せず不幸にするだけ。
現代人は昔の人に教育をされたわけなので、昔の価値観が教育されている。それがもはや現代人を幸せにしない価値観なのにも関わらず。だから価値観を再構成する必要がある。そこに気づくことのできない、"優等生"現代人が、その意味も理解しないまま社会的圧力の次世代の担い手となり、自分自身をも苦しめている。昔の人の誰得価値観を守るために。20代-30代の労働における自己肯定感の低さと自殺率の高さたるや。棄民された氷河期世代も含まれる。
結婚・出産への社会的圧力は減ってはいるが、無くなったわけではなく、むしろ昨今の年金問題と少子化問題が深刻化するにつれて圧力が復活しているようにも見える。政治的失策を国民に責任転嫁する形で。
先述の「昔側の男性」に属する為政者による発言にもそういった圧力が増えた。産む機械発言とか。それが、男性へは収入(労働)への圧力、女性へは収入(労働)と出産への圧力となっていて、男女間でのさらなる火種となっている。というかすでに炎上しているところに油を注いでいる。
どうすれば、20代童貞の理系男子大学生が、だいたい同年代の女子と出会って仲良くなれるんだろう?
べつに、(男の)友達はそれほど少ないわけじゃないと思ってる。多少コミュ障は入ってるけど。
ただ、チャラそうな人たちとは少々距離をおいて過ごしてるかも。
大学1年とかだったら、来年の新歓で女子大とのインカレに入るとかいう選択肢もあったと思うけど、もうそういう歳じゃなくなってしまった。
大学生活も後半のほう。
21歳ぐらいになると童貞はやばいらしいってどこかで耳に挟んだ。
うっせえな、どう暮らしてれば21までに女性と出会ってお付き合いして卒業できるんだよってキレたくなる。
大学の周りの人達を見てても、理系らしく結構な割合の人がおれと同じ状態だと思う。
おれが少数派ではないことに多少安堵しつつも、でもこのままだとマジでやばいぞと心ばっかり焦ってる。
けど、どうすれば現状が打開できるのかさっぱりわかんない。
今は、恋愛期間3年くらいで結婚とかじゃん。ってことは、出会いが必要なわけだ。
女なら、まあ、最悪体開けば彼氏できるから、そこはえり好みとして。
男の場合は、支援してもらわないと、できない層が3割くらいいる。
いやね。いま、法律とか制度の勉強してたら、障碍者福祉とかは充実してるのよ。
で、働けない障害者のために、訓練所とか、社会技能訓練とかあるわけよ。
それって、恋愛弱者にも応用できないかね、って思ったわけですよ。
小子化対策で、無理やりお見合いとか、婚かつとかってより、恋愛スキルをやったほうがいいじゃんって。
えっと、福祉でいうなら、三次予防(病院での治療とか)より、二次予防(予防接種とか、メタボ検診)でしょ!ってこと。
実際に終わってるアラフォーより、25くらいでの『いない歴=年齢』あたりを支援したほうがいいじゃんって。
あるいは、二次予防より、一次予防(普通の健康診断とか)って感じで、できない25歳より、10代の内に教育で恋愛学ってのもありかもしれないけどさ。
具体的には、医学のパクリになるけどさ。いない歴=年齢の男を集めて。職員と座学&実習で学ぶ。
普段の接し方、出会いの作り方、デートの誘い方とか、デートでの対応とかを、一個一個採点形式で客観的に(主観ではなく)『何ができた、何ができなかった』チェックしていく。
これができたら、恋愛偏差値とか出したりして。
岡田斗司夫さんは自分は恋愛弱者の年寄りブサメンだから、恋愛強者の若くて綺麗な女に何してもいいと思ってるような気がする。
そして恋愛強者に無視され傷つけられた恋愛弱者達は、やり返す岡田さんを見てスッとして憧れて、支持している。
彼氏三人理論とかいうのもかわいい子と恋愛は無理でもせめて一発やりたい者共には心地よく聞こえる。
キモオタだって一人くらいは彼女ができるかもしれない、高スペックは三家庭をもてて、女も彼氏三人作れてラッキーってやつ。
これはとっかえひっかえしても他に男が何人いようとも都合よく扱われようとも、俺は許すからお前も許せよってことじゃないのかね。
Aさんはその理論に最初から賛同してなかったか、賛同できなくなったかで、彼女9人にも別れにも不満があってこうなったんだろう。
口八丁手八丁でその理論をごまかして、ついてきた女性に、俺はこういうことを公に言ってんだからついてきたお前が悪いと言わんばかりの態度。
岡田さんはその理論に心から賛同できる人だけをターゲットにしてほしいなあ。
かなり限定されるから難しくなるかもしれないけど、あえてつけこみやすく、傷つきやすいメンヘラを狙うなんてかわいそうだ。
何人も傷つけてよく平気な顔していられるよ。
そもそも新しい家族形態や恋愛観を体現して自分の行動を社会的に大正義にしたいんなら最初にコラだなんて嘘つくべきじゃなかった。
自分のやり方や考え方が批判されるものであり、それが正義になんてなり得るはずもないことはわかっていて、どうにかしてその場しのぎで正当化しようとしているだけ。
岡田さんを支持する者共は性欲の塊の金持ちのブサイクなおっさんを信奉することを自分の良心がとがめないか一度考えてみてほしい。
■本文。
最終回だというのに最初からくどい話になるのだけど、インターネットなどのメディアが、世界が一体化したかのような幻想を生み出す一方で、野放図に拡大される情報社会が、心の繋がりを裁断し続けている。断片的な情報を追いかけることに躍起になるあまり、多くの価値観=ジャンルは求心力を失った。例えば、メディアミックスにしても、それぞれがジャンルという枠による秩序を持っているからこそ、混淆することに意味があったし、一体化の幻想自体が、[かつての全能感]を取り戻すための侵略に他ならない。そして、互いの領域を侵略した結果、秩序という枠組みが曖昧になったことで、インターネット上では無制限に肥大した自意識が互いに衝突を起こしている。情報という麻薬に蝕まれた中毒患者は絶えず全能感と無力感を往復しているが、目の前にある荒んだ光景は認識することができない。
そんな現代において、旧来の世界観に回帰すること=思考停止による癒しが唯一の自己防衛手段となっているケースは多い。そして、箱庭のような偽物の原風景に引きこもることで、飽くなき侵略=拡大する欲望を抑えている。自己言及的な表現を頑なに拒むのも、居場所を自壊させてしまうことへの潜在的な恐怖があるからなのだろう。そして、マッチョイズムとフェミニズムの対立から零れ落ちた層を汲み取る為に、ポルノメディアの特異点……ポルノメディアから遠く離れたポルノとして、美少女ゲームは存在している。マッチョイズムにせよ、フェミニズムにせよ、その論理は自身のセクシャリティ=現実の恋愛やセックスを前提としているが故に、現実と虚構を対比し優劣を決定する方向性で結論を出してしまう傾向が否めない。例えば、フェミニズムの功績としては、男女の恋愛関係におげる規制緩和と自由化が挙げられるが、同時にそれは恋愛における自由競争を生み出したと言えるし、当然、自由競争から弾き出された恋愛弱者も多く生み出すことになった。ちなみに、この構造は、フェミニズムをインターネットに置き換えれば、情報弱者を生み出す構造と同じになるのだが……。
美少女ゲームはポルノグラフィの枠組みから発生したものだが、その論理基盤は[男と女]というセクシャリティを巡るものではなく、[自分と他人]という基準で駆動している傾向がある。言い換えれば、自身のセクシャリティに対する意識が希薄であるが故に、全くの異物としての他者(異性)を認識することが難しく、自己の延長としての他者という方向性で純化されているのだが、同時にコミュニケーションを崇高化し過ぎるという弊害も見られる。その弊害が悪化すると[引きこもり]に繋がっていくのだけども、ユーザーの大半は普通に社会生活を送っている。理由は色々とあるだろうが、スピリチュアリズムに似た信仰システムの機能を、美少女ゲームが持っていることも挙げられると思う。
そして、セクシャリティに対する意識が希薄である=前時代的であるために、恋愛至上主義的な表現が勃興した。例えば『ToHeart』や『ONE』で描かれるセックスはあくまで婚前交渉であって、娯楽としてのセックスではない。娼婦と素人娘が厳然と分かれていて、素人娘と付き合う時は必ず結婚が前提になる時代の価値観が無意識のうちに再現されているので、『Kanon』に至っては、名雪シナリオ以外ではセックスすることを選択しなくてもトゥルーエンドに到達できる。それは、セックスは結婚後に初めて行うものと考える人々が未だそれなりの割合で存在していたということだろう。だから、美少女ゲームの一部は厳密な意味でのポルノメディアから離れつつある。風俗産業の二次元版としてのポルノではなく、結婚相談所の二次元版としてのポルノメディアなのだと考えれば分かりやすいのかも知れない。
さて、現代の物語メディアの多くが単独で成立しにくい原因の一つに、経済やテクノロジーの発達に伴い、物語の消費スピードが飛躍的に加速しているという状況がある。または、物語がパーツ単位で解体された結果、秩序を維持できなくなっていることに起因する。物語がジャンルとしての秩序を失い、単なる情報の集合体として氾濫した結果、その多くは誰もが知っている[お約束]と呼ばれるものになってしまった。そして、[物語を読む]という行為の目的が、疑似体験を介して思索することではなく、氾濫する情報を収集し続け、酩酊状態に導いて思考停止することに変質してしまった。同時に、ゲームというプラットフォームから発信される物語が、作者の意志によって導かれる連続体としての表現ではなく、ユーザー自身が演じる舞台……遊戯空間としての情報集合体へスタイルを変化させつつある。
つまり、他人の波瀾万丈な人生を追体験するのではなく、原風景としての平穏な日常を演じる媒介として機能しているケースが増えているのだ。原風景=楽園志向が悪い訳ではないのだが、美少女ゲームが遊戯空間として完成するにつれ、文化的伝統に回帰するルートとしての側面は失われつつあるように思う。
例えば、他者との関わりは、現実世界の他人や社会といった抽象的な意味で捉えられがちだが、過去から連なる歴史的蓄積という視点も存在する。おそらく『ONE』が特徴的だったのは、『ToHeart』で確立された偽物の原風景=楽園を[かつての全能感]を補完するシステムとしての機能面だけではなく、過去の価値観のレプリカと捉えた上で、同時に時間的な意味での[他者]を再現しようとしていたことだ。一見『ToHeart』の二番煎じと思われるような構造に[過去との接続]という要素を加えたことによって、ノイズと判断される危険性を孕んでいながらも、過去と現在を繋ぐ連続体=物語として作られた『ONE』が成功を収めたことで、物語に対するニーズが未だ潜在的に存在していることを証明している。
また、『Kanon』や『鈴のうたう日』では、胎内回帰的であるために閉塞へ陥りがちだった楽園志向を[共生と循環]という方向へ発展させているし、『フロレアール』『とらいあんぐるハート2』『デアボリカ』といった作品も、それぞれの方法で物語表現としての美少女ゲームの可能性を拡げている。そして、そういった作品が予想外な場所から出現する限り、筆者は美少女ゲームのユーザーであり続けると思う。
■あとがき。
本当はこれから出るゲームを取り上げて、今後の展望を書くつもりだったんですが、本業以外の分野を未来予測するのは、やっぱり難しいので、普通に連載の総括という感じになりました。
とりあえずは療養しながら、積みゲーの数々をクリアしようかと思っております。そういう訳で、今後は体調と相談しながら、不定期で登場するかも知れません。どんな形になるかは今のところ、分かりません……って、別に打ち合わせもしてないので(笑)。あと、FAKEOFFICEのホームページに、このコラムのバックナンバーを順次再録していく予定です。こちらも体調次第ですけど……まあ、そういう訳で一年とちょっとの間、どうもありがとうございました。
25年間彼女いない歴=年齢だった私だが、半年前に偶然に(本当にただのラッキーで)恋人ができて、この半年間失った時を取り戻すように恋愛について本気で考えてきた。
恋愛コンテンツを漁るように読み、ストリートではいちゃつくカップルの様子を観察し、数少ない知り合いの恋バナを聞きまくり、そして実際に彼女といちゃいちゃした結果恋愛についての認識が大きく変わった。
なんていうか社会に対しての憤りを感じている。私は自分のことを「恋愛の才能に著しく欠如したミソジニスト」だと思っていたけれど、実際はそうではなく、恋愛と女性への苦手意識は社会的に刷り込まれたものだった。
社会には恋愛についてあまりにも誤った情報が氾濫している。いやより精確にはそのほとんどは正しい情報なのだが、恋愛についての情報を読み解く為の特殊なコードが存在していることを恋愛弱者は知らないために、その正しい情報が全て誤った情報として我々の恋愛についての誤解と異性への不信感を加速させる。
「正しい情報」の具体例を挙げてみよう。
・女性はイケメンでなくても好きになれる。最低限の清潔感があればおk
私の場合は主にこの6つの恋愛についての「正しい情報」を元に非モテを完全にこじらせていた。モテなかったとき(恋愛のコードを知らない状態)の誤った理解はこうだ。
・女性は頭の良い男性が好きというがそれなりに頭が良いはずで学歴も申し分ない自分がそのことでモテるということは全くない。むしろモテない要素なのではないか。
・女性は優しい男性が好きだという。優しくというのはセクハラ的なアプローチをしない紳士的な態度のことをいうのだろう。女性に対して失礼なことを言ってはいけない。女性の機嫌を損ねてはいけない。
・俺はイケメンではないイケメンではないイケメンではない。あの人とは釣り合わない。あの人とも釣り合わない。あの人とはひょっとしたら釣り合うかも…?
・レイプはいけない。これはよく分かる。しかし女性が身体を求めて欲しいとは一体どういうことだ。身体を求めるというのはどうやってもレイプ的になってしまうのではないか。これは欺瞞だ。レイプ的野獣性に満ちた野蛮な連中が楽しむのが恋愛であり、自分にはそんなことは出来ない。
このような理解をしてしまうと女性にまったくモテず、それに伴いミソジニー的傾向も高まってゆくことになる。
上記の正しい情報を恋愛のコードを踏まえてより正しく書き換えてみよう。
・女性は自分の行動から感情を察してくれる能力の高い男性、つまり頭の良い男性が好き
・女性は察した情報を元に自分に対して適切な配慮を具体的な行動として示してくれる男性が好き、つまり優しい男性が好き
・最低限「生理的に無理」の範疇から外れれば(清潔感があれば)見た目以外の要素(上記の頭が良い、優しい等々)でも男性を判断できる女性は多い。また、長く付き合っていくにあたって見た目以外の要素がより重要であることを経験的に理解している女性も多い。一般に男性よりも女性の方が異性の魅力を多角的に判断している。
・女性は自分が認めた相手にガツガツされることなく適切に身体を求められることによって女性としての価値を確認したい
多くの女性と一部の男性は恋愛のコードを知っているため、最初の簡略な表現で十分なのだろうけれど、これくらいちゃんと教えてくれないと非モテには分からない。
恋愛のコードを理解するとはどういうことか。これは簡単なことで、男性的なコミュニケーションと女性的なコミュニケーションの違いを理解すれば良い。
男性と女性の違いについて先人が積み上げてきた知見は相当に進んでいて、インターネット上にあるコンテンツを漁るだけでも十分な理解を得ることができるし、ジョン・グレイの『ベストパートナーになるために』のような定評のある書籍を読んでも良い。
お金がないから若者は結婚できないというけれど、少なくとも私は収入の条件によって照らし合わせて妥協点を探る見合い婚などしたくないし、普通に女性と恋愛していちゃいちゃして結婚して結婚してからもいちゃいちゃしたい。
しかしそのためのロールモデルを両親に求めることはできない。私の父は恋愛についての理解度が低い家父長的な価値観を持つ人間だし(父とは色々な話をしてきたが恋愛について話したことはないしこれからもないだろう)、私の友人の父親の多くもそうだ(高校時代に一人だけ凄くモテる友人がいて、その友人は「父親と母親がいい歳していちゃいちゃし過ぎていて困る」と話していた)。
恋愛は一般に理解されているような「誰かを好きになって自然に発生するもの」では決してない。後天的に学習する必要がある。両親が教えてくれなかったのなら自力で学び取るしかない。
そして実は自分が現実に恋愛することを完全に諦めているような極まった非モテには恋愛強者になるための素質がある。
女性とセックスしたいけれどセックスできなくてもまったく問題ないというのは恋愛にとって重要な能力だ。ガツガツしている非モテは絶対にモテない。
ストリートでいちゃいちゃしている若いカップルを観察すると、男性側がいやらしい表情をしているということはほとんどなくて普通に豊かな表情をしている。この意味で草食系男子がモテるというのも真実なのだ。
男性が一方的に性的主体性を持つという社会的理解も改まりつつある。SNSの普及によって男性と同じように女性が性欲を持ち、様々な嗜好をもって男性を選別していることは容易に知ることができるようになった。
私たちが理想とする男女が対等な立場でいちゃいちゃする恋愛を実現するための土台は整っている。あとはほんの少し、ほんの少しだけコツを知ればいい。本当にそれだけなんだ。
古いアニメを持ち出すが、ゼロの使い魔のアニメ2期のEDの歌詞に『よそ見してたでしょっ 他の女の子』
という歌詞がある、これは主人公であるサイトがルイズの視点から見るとしょっちゅうシエスタやキュルケに色目を使い目移りしているように見えるということを示唆している。
しかし読者や主人公からすれば主人公であるところのサイトがずっとルイズが好きなのは明らかである。
では何故そのようなすれちがいが発生するのか、これをゲーテの名作であるところの"若きウェルテルの悩み"を読んでいたところ思いついたのでここに記してみる。
若きウェルテルの悩みはウェルテルがロッテに猛烈な恋をするが、既婚者であるロッテとの恋はどうやっても叶えられないことに絶望し最後には自殺をするという壮絶な内容であるが
ロッテが結婚したからといってすぐ自殺をしてしまったほけではなく、当然そこには過程がある。
ウェルテルはロッテがすでに婚約者であったがためにいったんよその土地へ行くがまた戻ってきてしまう、そして戻ってきたときにはロッテはすでに結婚しており以前住んでいたときの住民の近況は変化していた。
作中のエピソードでウェルテルがある口下手な作男と非常に仲良くなり、その男はある後家さんのところで働いており非常にその女主人を慕っており、女主人のほうも作男を優遇しておりにくからず思っているということが語られる。
ウェルテルがよその土地から戻ってみると、その男はウェルテルが留守にしているあいだにその女主人と腕ずくで思いを遂げようとしたがそれを快く思わない女主人の弟の介入もあり拒否され解雇されてしまう。
もちろんウェルテルはこの作男にロッテへの強烈な横恋慕をしている自分を重ねあわせて同情する、そしてこの作男は最後には後任の男を殺してしまうのだ。
作男がこの後任の男を殺したのにはもちろん理由があって、何故か女主人はこの後任の男と結婚しそうな気配があったらしい(なぜこうなったのかは私にはわからない)
ウェルテルは後任の男を殺してしまったこの作男を強烈に弁護するが周りからは受け入れられない。
他にもロッテに恋し、それを打ち明けた結果免職になり気が狂ってしまった書記の話などが語られる。
もしもまともに恋愛ができたならば当然この書記はウェルテルにとっての恋敵なわけだが、ウェルテルはこの気が狂った書記の話に対してはげしく感動をしてしまう。
なぜなら、この書記はウェルテルがやりたいと思ってできなかったことをした結果狂気の道におちいったからだ、それに対して深い同情を覚えて感動をしたわけだ、しかしこれはウェルテルにとっては絶望への一歩だったと思う。
さて前述の作男の裁判をした結果、弁護は受け入れられずウェルテルはロッテとの交流も断たれてしまい、最終的に自殺の道を選ぶことになる。
では何故ウェルテルは自殺をしたのか? ロッテが婚約しているにしても、結婚前に告白すれば万が一でも受け入れられたのではないか?もしくは他の女性を探すとかロッテを略奪するとかさまざまな道があるのではないかと読者が思うのは当然である。
しかしこれらの道はすべてウェルテルからするとすでに検討された、というか現実に試行してみたようなものなのだ。ウェルテルは発狂した男や殺人を犯してしまった作男を見て、自分の思いをうち明けたり略奪をしようとすれば同じ結末になることに気がついてしまったのだ。
とはいっても、他の土地へ移るというのもすでにやってしまった道であり、どうやってもロッテへの想いを抑えることはできないと悟ったから最終的に自殺をするわけである。
ではどうしてこういう考えに至るのかというと、告白やら略奪といった行為は男性にとって非常にリスクのともなう行為だからだ。
古来から女性には恋愛や結婚に弱い拒否権はあっても、誰々と結婚したいといった能動的な権利は与えられてこなかった、つまり求婚は基本的に男性から行われてきたのである、これは現代でもある程度同じ傾向が見られるといっていいだろう。
フィクションであれば"すばらしい新世界"などで女性から直截なセックスを求められ野蛮人(旧世代人)のジョンがショックを受けるといったような話があるが、だからこそ現実ではそうはなっていなかったということがわかる。
それはともかく、女性から求愛をするというのは稀であるというのがわかると思う、これは"据え膳食わぬは男の恥"という故事成語からもめったにあることではなくそのような事までさせてしまったのだから男は責任を取れという意味合いであると思う。
つまり求愛は男性から基本的に行われ、女性はせいぜい思わせぶりな行動しかとれずあなたは私をどう思っているのか?ということは聞けないのである、聞けば実質それは告白と同じである。
そして万が一その告白が拒否されればそれは恥ずかしいことであり自分の自尊心を大いに傷つけることになる。しかしそういったことを聞かずある程度まで仲良くする分にはまったく問題がなくノーリスクなわけである、女性の側からするとやきもきするかもしれないが男性の側からすると告白はリスクの伴う行為であり確証を得るまでは動けないのである。
告白を行うムードまでもっていけたら実質告白前に勝負は決まっており勝ちも同然である。
ある程度の仲まで持っていくのはノーリスクなのだから青年男性はいろんな女性とある程度に仲よくなったりするわけであり、それは意中の女性がいたとしてもまだ彼氏彼女の関係になっていなかったらそうなのである。
それはリスク分散という側面もあるし、単に女性と話すスキルを上げたいというのもあるだろうし、告白し失敗した場合に自分の精神を守るための布石だったり、一人の女性だけに入れ込んでいるのは怖がられそうという判断のためだったりするだろう。
しかしこれは女性の側から見たら、男性はいろんな女性に目移りしたりデレデレしているように見えるのではないかと思った。私は好きとは言わないけどあなたからは言って欲しいというわけである。好きと言ってくれなかったらそれまでの愛が憎しみに変わったりすることもあるわけで、
たとえ男の方は意中の女性のことをずっと一途に慕っていたとしてもそうなったりする。
こういうことを考えていたら、そういえばゼロの使い魔のEDにそういうような歌詞があったなと思いだされてたので文章にまとめた。
ともあれ恋愛弱者に対して死刑宣告をするような本だった、途中まであまり面白くなかったがロッテに告白して爆死した男にウェルテルが同情したあたりから面白かった。
http://anond.hatelabo.jp/20131204162437
高学歴の人々は偏見や差別と無縁の世界に生きてきたのでビッチは殺されて当然と言う人の気持が分からないという話ですが、本当にそうなんですかね? 例えばそういう人は低学歴は貧困に陥って当然とかブサイクは恋愛弱者で当然とかも思わないのでしょうか? 馬鹿は蔑まれて当然だし犯罪者は指弾されるのが当然とは考えないのでしょうか? もしそうなのだとしたら、一体この世界を、怨嗟渦巻く此岸を、彼らはどう生きているんですか、あなたはどう生きてるんですか? インテリゲンチャって、いつからか世間知らずの言い換えになったのでしょうか?
それとも高学歴の人々の世界に足を踏み入れると、貧困者や恋愛弱者や無能者や犯罪者やに無限の施しが与えられるのでしょうか? 彼らは、あなた方はいまだにセツルメント運動だとか言っていたあの時代から何も変わっていないのでしょうか?
こうも考えられます、ビッチは美人なのでインテリ層の仲間だが、ストーカー殺人を犯すようなDQNは世界を同じくする存在ではない。 そのようなもたざるものが持てるものを弑逆したというのは、我々インテリ層の支配体制をゆるがせにする行為で看過出来ない。 あまつさえそれを当然のことと嘯くなどと、到底受け入れることは出来ない。 そういうことなんでしょうか?
■ ■
ビッチは殺されて当然だと言われるのは何故か、それは単純に悲惨な事件に対して因果論的な納得を欲するからではないでしょうか。 彼女はビッチだから殺されたのであり、ここには条理がある。不条理ではない。 そう「理解」して「安心」したい。 それだけのことでしょう?
「ビッチは殺されて当然なんて言うべきでも思うべきでもない」と言う意見が出てくるのは何故か、そう言っておけば殺されるのが当然と言う世界観から自分を撤退させられるから。 殺人という不条理はそれが起こるのが当然と思っている人間の界隈で起こるのであって、殺人を当然のものと受け入れない姿勢を見せれば見せるほど殺人から遠ざかることが出来ると信仰しているから。
両者は同じコインの裏表なんじゃないですかね、穢れを外集団にアウトソーシングして安心したいただの小市民の自己防衛だと、自分は思いますけれど。
■ ■
ところでどうでもいいことですが、ビッチは殺されて当然ではありません。 そりゃあ世にはビッチだから殺されたという人もいるとは思いますが(今回の事件の被害者がどうなのかは知りません)、ビッチだから幸せになった人もいるでしょうし。 貞淑だからといって幸せになれるわけではないからで、要するにこの世界はカオスだから、AだからBされて当然なんてことは無いと思うからです。