はてなキーワード: 同性愛とは
実家では箸置きというものを使う習慣がなかった。確か4,5歳くらいの時だったと思うのだけれども、夕食の時間に箸の置き場所に困った自分は、茶碗に盛られたご飯に箸を突き立てた。ごはんの粘性は相当なもので箸はぴたりと静止してくれた。これならテーブルを汚すこともない、何て自分は冴えているんだと当時思ってたかは記憶にないが、それを見た母親は「箸を刺したご飯は死者への食事という意味を持つのでやめるべきだ」と言って俺のことを注意した。その言葉に強い反感を抱いて、「母さんは死者が食事をすると信じているのか」「死者への食事という意味を持つからといって、自分がそれをやめなければいけない理由はあるのか」といったような反論、というか質問を投げかけたように記憶している。それに対しての母の回答は「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」「宗教的な意図に関係なくとも、単純にみっともない」といった内容だった。幼少期の自分は親にとても従順であったため、釈然としないながらも引き下がった。
年を重ねるにつれて「宗教的な儀礼を除いて箸をご飯に突き立てるべきでない」という規範は自分自身にも深く根付いていった。思春期に差し掛かかるころには「日常の中でご飯に箸が突き立てられている光景」を見て直感的に不快感を抱く程度には。
さらに長じて倫理とか規範とかに興味を抱き始めてから、幼少期のこの出来事に対して強い反発を覚えた。幼少期の自分に対して母親が示したルールは、要するに以下2つのような意味合いとなると考える。
「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」より
①自分が尊重していなくとも、他社が尊重している信仰や規範(平時にご飯に箸を突き立てるべきでない)は、自分の便益(机を汚さない)を害しても配慮すべきである
「宗教的な意図に関係なくとも、単純にみっともない」→箸を突き立てられたご飯に対して「みっともない」と感じるのは明らかに生得的ではないと考える。実際のところ後天的に植え付けられた規範からの逸脱に対して不快になっていると考えると、
②すでに共有されている規範・マナーから逸脱すると人は不快に思うため、規範・マナーから逸脱すべきでない
ちょっと露悪的に書きすぎたきらいはあるけれど、この2つのルールって本当に正しいか。
①「自分が尊重していなくとも、他社が尊重している信仰や規範は、自分の便益を害しても配慮すべきである」について
当たり前であるが、個々人によって尊重している信仰や規範は違う。ただ、共通してる部分もかなり多く、例えば現代日本人の多くは自由や平等だったり人権思想に基づく価値観(以下、世俗倫理と表記)について、強く尊重すべきものであると考えている。信仰していると言い換えてもよい。一方で特定宗教の人格神みたいなものは信じていないし、その教義の基づく規範(以下、宗教倫理と表記)に価値を見出さない。見出さないは言い過ぎにしても、少なくとも自由や平等などの世俗倫理がより優越すると考えている。自分は平均よりかなりラディカルだと思うけれど、同様に世俗倫理を支持し、宗教倫理より優越すると考える立場にある。
具体的な例を考えてみる。例えば原理主義的なキリスト教徒が聖書を引用して「同性愛者は倫理的に悪であるため社会から排除すべきである」と主張しても自分はそれを尊重しないしその思想に基づく実力行使を許容しない。なぜなら「同性愛者は倫理的に悪であるとする聖書の記載」に自分は価値を見出さない。「原理主義的なキリスト教徒が同性愛に対して抱く不快感情」については価値を見出すが、「同性愛者の幸福追求権や自由権」がそれに優越すると考える。なぜなら自分は世俗道徳を尊重し支持しているからである。宗教倫理と世俗倫理が背反するときには世俗倫理が優越されるべきで、それは世論だったり、それに実行力を与える法律や暴力装置によって施行されるべきと考える。これは宗教倫理の優越を主張することを制限すべきでないという意味ではない。あくまで思想・信条の自由は最大限尊重されるべきであり、言論によるパワーゲームは続けられるべきだと考える。
ここまでの整理については大多数の人に同意してもらえると思う。「宗教規範」と「世俗規範」が対立して共存できない問題については、他社の尊重する「宗教規範」を踏みにじってでも自分が尊重する「世俗規範」の基づいて社会が運営されるべきと考える。どれだけ他者の価値観を尊重するとは言っても、共存できないものはある。そうなったら、その社会で尊重される規範は身も蓋もないパワーゲーム(必ずしも直接的な暴力ではない)で決定されるしかない。これについてはISISの騒ぎで個人的に痛感したのだけれど、実際問題として世俗倫理に反する宗教倫理を現代で志向しようとすると暴力に頼るほかないし、それに対するカウンターだって経済的・暴力的なパワーゲームで押しつぶすしかない。人権思想よりコーランの字義通りの解釈を尊重している相手に「お前は人権思想に反している!」と言っても対立者に対してはまるで効力がない。
さて、話を戻してこの理屈が「ご飯に箸を突き立てること」にどのように適用されるかを考える。ここで対立するのは「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」自分の自由権・幸福追求権と、「ご飯に箸を突き立てるべきでない」という宗教倫理である。これは共存し得ないので、世俗倫理を尊重する立場からすると「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」ことが優越すべきであると考える。不快になる人間に配慮して箸をご飯に突き立てないことは賞賛すべきかもしれないが、配慮をしないことについて非難されるいわれはないと考える。私はシャルリーを引き合いに出してもいいけれど、他者の規範の尊重は、私の尊重する規範を害さない範囲でないともちろん認められない。人権思想や表現の自由は自分にとって宗教倫理より優越する。宗教倫理を害す表現に対しての批判、「ムハンマドの顔を書くべきでないし、揶揄すべきでない」という主張は許容できても、ムハンマドの顔を書き揶揄することは制限すべきでないし、それに対する実力行使は許容できない。なぜなら自分は「ムハンマドの表象を書くべきでない」という宗教倫理より表現の自由という世俗倫理をより尊重する立場にあるからである。
まあ、そもそもこの「ご飯に箸を突き立てる」ことに対して特別な意味合いを見出してる教義って明確にはないみたいで、「仏教・神道の教えっぽいとみんなが認知してる慣習」以上のものでは無いっぽいので、宗教倫理とするよりも単純なマナーの問題と考えたほうが筋は良いと思ってます。ということで次の話につながります。
②「すでに共有されている規範・マナーから逸脱すると人は不快に思うため、既存の規範・マナーから逸脱すべきでない」について
これを言い換えると
・上記より、マナーを破る行為は人を不快にするため好ましくない
いやー完璧な3段論法が完成してしまった。ただよく考えると「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」と言っているのと何ら変わりない発言である。そしてこの「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」という考えについて自分はそれはそれはもう憎悪を抱いている。
まず、ここでいう「マナー」という言葉について自分は「緩い規範」くらいに定義している。例えば「人を殺すべきでない」みたいな基本的に絶対に逸脱すべきでないし、逸脱したら重大なペナルティと非難が避けられない「重い規範」とは対照的に、「逸脱するのはなるべくやめたほうが良い」くらいの「緩い規範」=マナーということで話を進める。
何かのマナーに価値があるとすると、そのマナーを守ることによってメリットがある場合であると考える。なぜならマナーとは往々にして「○○をすべきである」「○○をすべきでない」とい行動の強制を伴う規範であり、選択肢を狭めるものであるからである。基本的に選択肢は多いほうがいいと自分は考える。
さて、例えば「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナー。このマナーが広く共有されていることにより、電車の乗り降りをスムーズに行うできる。確かにこのマナーを守ることによってメリットが存在するため、「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナーには存在価値があるだろう。
ひるがえって「ご飯に箸を突き立ててはいけない」というマナーに価値があるだろうか。真っ先に思いつくのが「ご飯に箸を突き立てている光景を見ることによる不快感」を回避できるというメリットだ。たださらに思考をすすめてなぜ不快に思うのか?を考えると「ご飯に箸を突き立てるのがマナー違反であるから」に行きつくだろう。「ご飯に箸を突き立てること」に対して特別な意味を見出しているのは日本だけのようだし、ご飯に箸を突き刺して悦に浸っていた幼少期の自分を例にとってみても、この不快感は生得的なものとは思えない。(このあたり、まじめな研究があったらめちゃくちゃ見てみたいので情報大募集です)多くの人は後天的に「ご飯に箸を突き立てることはマナー違反である」と学習し、そのマナーが逸脱されたことに不快感を抱いていると考えられる。つまり、「ご飯に箸を突き立ててはいけない」からこそそれに不快感を抱く人がいるのであり、そもそもこんなマナーが存在しなければ多くの人は箸にご飯を突き立てられている光景をみてもおそらく何とも思わない。
マナーが増えるということはもちろんマナー違反が増えるということでもある。つまり、マナーが増えるとマナー違反による不快を感じる機会が増えるとも言える。これは本当に声を大にして言いたいことで、「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーは不快を感じる機会を増やしているだけである。不快を感じる機会は減らしたほうがもちろん良いので、メリットのないマナーなんて無いほうがいい。ご飯に箸を突き立てて机を汚さないメリットを自由に享受できる社会のほうが絶対にいい。自分がマナー業界を蛇蝎のごとく嫌っているのはこの辺が理由で、メリットのないマナーを創作して稼いでるあいつらマジで不幸の商人だよ・・・・・と思っている。
と、ここまで書いたけれども、実際のところ「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーにもメリットはある。マナーに合理的な意味があろうがなかろうが、「その場において支配的な規範=マナーに従順でない」人間、長いものに巻かれない・巻かれることのできない人間を排除する上では非常に有効に機能する。良く言えば自立した人間であり、悪く言えば協調性のない人間だ。こういう用途で使うならむしろ合理的なメリットなんて存在しないマナーの方が有用かもしれない。とはいえ、自分の信仰としてこういった排除のロジックは気に食わないのでやっぱり「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーなんて無いほうが良いと思う。マナー業界はいち早く滅びてほしい。
ここまで読んでくれた方なら、我々はご飯に箸を突き立てるべきであると十分に理解していただけたと思う。実際問題として「平時にご飯に箸を立ててはいけない」というマナーは多くの日本人に強烈に内面化されており、箸が突き刺されたご飯を見ると理屈に関わらず一定の不快感を生じてしまう。これは自分だってそうである。ご飯に箸を突き立てる人は、間違いなく突き立てなかった時より嫌われる。それでも、嫌われるから、すでに定着してるからなんて理由で有害なマナーを継承していいのか。それがなんであり、どのような影響を与えるかについて何の疑問も抱かず、ただ「私はマナーを守っているから道徳的である」と悦に浸っているだけでよいのか。それは将来の不幸を増やしているだけじゃないか、そんなものに迎合していいのか。他人に自我を預けていいのか、自分を誇れるのか。
「ご飯に箸を突き立てるなんてマナー違反だ」という前に少し考えてほしい。なぜ?と聞かれたときに十分な説明ができるだろうか。誇りをもった説明ができるだろうか。実際、子供にそれを言わないのは難しいだろう。ご飯に箸を突き立てる子供は間違いなく悪意にさらされるし、それをはねのけろというのはあまりにも酷だ。でも、それがただの処世術だと伝えることはできるはずだ。幼児には無理でも、中学生、高校生ともなればこの理屈は理解できる人が多いはずだ。せめて、突き立てられたご飯を許容することはできるはずだ。社会は時に非合理で残酷になるが、あなた自身までそうなる必要はない。非道を止められなくとも、一緒になって非道をやる理由はないはずだ。ベストを選択できないことはベターを選択しない理由にはならないはずだ。
将来のことを考えてほしい。より良い世界のことを考えてほしい。私たちはご飯に刺さった箸を見たら不快になる。箸置きがなければ直接箸を置くしかないし、机の上はご飯粒でぐちゃぐちゃだ。まかり間違ってもご飯に箸を突き刺さないように気を付ける食卓はピリピリして緊張感に溢れている。それでも私たちがここで勇気を出してご飯に箸を突き立てれば、他人から嫌われることを厭わず「そんなマナーは無いほうが良い」と言い続ければ、そんな人が増えていけば、次の世代ではどうだろうか。「ご飯に箸を突き立てるべきでない」なんてマナーの存在を知らない世代の食卓はどんな光景だろうか。
彼ら、彼女らは箸置きがなければご飯に箸を突き立てることができる。箸置きが無くったって机は清潔に保たれるし、それを見て不快に思う人なんかいない。ご飯に箸が突き刺さっていたからそれが何だというのだ?机にへばりついた米粒なんて誰だって片付けたくはないではないか。ご飯に箸が突き立つ、そんな清潔でリラックスした食卓は朗らかな幸福に包まれている。それはささやかながら、今よりももっと良い世界であるはずだ。
これからの世界がそんな素晴らしいものであってほしいなら、これからの世界をより良いものにするため、私たちはご飯に箸を突き立てなければならない。
当事者の証言1サンプルで良いなら、ヘテロ→ゲイも先日増田で当事者が出たばっかなんだよな
https://anond.hatelabo.jp/20201007220421
これからするのは非常に複雑で難しい話だ。
まず「ゲイに掘られれば」は異性愛者に同性愛を勧める発言であり、所謂「性的指向」が後天的に変更可能である事を肯定する発言である。
一方でロリコン、ペドフィリア等は「性的嗜好」と呼ばれ、主に後天的である事によって「性的指向」と区別される。
以前、ロリコンの窮状がLGBTに例えて説明された際に「ロリコンは性的嗜好であり、LGBT等の性的指向とは異なる」「一緒にするな」といった批判がフェミニズム等から上がった事が有った。
しかし先に示した非モテ男性に対する「ゲイに掘られれば」発言もまたフェミニストから上がっている場合が散見される。
どちらか片方の正当性の検討は置くとして、両方を正しいと主張することは出来ない事を示す。
非モテ男性と非モテ女性に関する議論において、非モテ男性に対し「(そんなにセックス出来ない事が辛いなら)ゲイに掘られれば」といった発言が幾つか上がった。
発言者の内一部はフェミニストであった訳だが、件の発言は非モテ男性に向けた物であり、当然そこにはヘテロ男性も含まれる。つまりヘテロ→ゲイの性的指向の変更を推奨する物だった。
性的指向と性的嗜好は主にその先天性により区別され、通常、性的指向は先天的であり、変更不可能、性的嗜好は後天的に変更可能である事によって区別される。
件の発言はヘテロ→ゲイという変更が後天的に可能であり、「ゲイになる事」を選択可能であるとする判断に基づく。
従って件の発言は、ゲイは後天的に変更可能な性的嗜好であるか、もしくは性的嗜好と性的指向は区別されないとする主張を含むものである。
(また、これはゲイ→ヘテロの後天的変更の可能性を示唆する物でもあり、だとすると別の意味で大問題である。ゲイに対する「ヘテロになればいいのに」という発言の許容にもなり得るのだ)
以前、ロリコンの辛さや差別的扱いを説明する際にロリコンの立場をLGBTに置き換えた物がネット上で幾つか主張された。
その際のロリコン攻撃者(主にフェミニストや女性)の反応は「ロリコンとLGBTは違う」「一緒にするな」という冷淡な物だった。
ロリコンは性的嗜好であり後天的に変更可能であるが、LGBTは性的指向であり後天的に変更不可能だから、違う、という事だ。
(尚、もう一つ理由として挙げられがちな「欲望を叶えることが犯罪になるか否か」については後程触れる)
しかしこれは当然前件と矛盾する。もし仮に、「ゲイに掘られれば」発言を肯定し、且つ「ロリコンとLGBTは異なる」と主張している人が居たら、どちらかは論理的に撤回しなければならない、という事だ。
ではどちらを撤回するのか、予想してみよう。
恐らく多くのフェミニストにとってより大事なのは後者だろう。また、そもそも前者は別の理由でゲイ差別的であると批判され得る危険な発言でもある。
よりリスクが少ないのは前者の撤回であるので、そちらをお勧めする。
性的指向・嗜好の違いの他に、ロリコンとLGBTを区別する理由として「欲望を叶える事が犯罪に直結する」事が上げられがちである。
しかしこれもまた今回の文脈では実は主張することが難しい。文脈とは「非モテ」である。
「ゲイに掘られれば」発言は非モテ男性による「非モテ女性は存在しない」とする主張に向けられたものだった。さて、「非モテ」が欲望を叶えることは犯罪に直結するだろうか?
その人間が非モテであり続ける限りは直結するだろう。性交に同意可能な異性がいる状態である限り「非モテ」とは言えないので、その欲望を叶える事は同意を得ない性交つまりレイプに成らざるを得ない。
(もし「性交に同意可能な異性がいる」かつ「大事にされる等の性交に依らない恋愛的承認が得られない」状態も非モテに含めるとしても、その欲望の成就は「(恋愛的承認を得られない状態における)恋愛的承認の享受」である為、実現が不可能であるか、洗脳等の非倫理的な手段を要する)
従って、「非モテ」とは「ロリコン」と同様、「欲望を叶える事が犯罪に直結する」属性である事に成る。
フェミニスト或いは女性の一部は「非モテ女性は存在する」と主張したい訳だが、そうすると、その女性は「欲望を叶える事が犯罪に直結する」存在であり、
これまで自身達がロリコンに対してしていた「その欲望自体がギルティである」「欲望を公表する事も止めるべきである」とする主張が非モテ女性にも向いてしまう事に成る。
非モテ女性が「異性にモテたい」と言う権利を奪ってしまう事を是とするか否か、恐らく多くは否とするのではないか。
(また、私は女性を「性欲の無い清純な存在である」という神聖視を悍ましいものと考えるので、女性にも性欲は存在すると考えている。その場合、非モテ女性も「セックスしてぇ~」と主張したい場合もあり得るだろう。
それもまた彼女が非モテ女性である限り「欲望を叶える事が犯罪に直結する」欲望の告白に他ならない訳だが、その権利を私は彼女に認めたいし、多くのフェミニストもそうである事を願う)
だとすれば、「非モテ女性は存在する」か「ロリコンはその欲望を公表するべきでない」のどちらかは否定できなければ、論理的な正当性を主張できない。
以上は複数の論題に渡り論理的な整合性を保つべきという規範に乗っ取った議論であり、
恐らく多くの人(フェミニストや女性を含む)にとって非常に複雑で難しい話だと思う。従って理解されない事も有り得るだろう。
例えば「こういう問題を一緒にするべきではない」とあなたは考えたくなるかもしれない。
けれどもそれは自死の道である。「複数の異なる問題の間に論理的な整合性・一貫性を求めるべきではない」という規範は、あなたの批判の大部分をも無効化してしまう。
あなた自身も「複数の異なる問題の間に論理的な整合性・一貫性を求めるべきではない」事に成ってしまい、あなたが誰かの異なる問題に対する態度の違いや一貫性の無さを批判したい時にも、その規範は適用され、批判は意味を失くしてしまうのだ。
矛盾には一つの問題内での矛盾と、複数の問題間の矛盾があるが、当然ながら後者の方が多い、それをみすみす手放し、前者のみしか批判出来ない様自分を縛ってしまっては、
あなたは多くの批判を手離してしまう事に成る。そのようなリスクに見合う程、今回の議論の否定は大きなものではない。従って、受け入れる事をお勧めする。
ここで語りつくすことは出来ないが、興味深い論点が有る為、補記として残しておく。
ロリコン或いは女性を性的に消費するコンテンツにおいて、読者や視聴者に与える後天的な変更が取り沙汰される事が有る。
例えば「ロリ漫画はロリコンを増やす」であったり、「風呂覗きの描写は男性児童に悪影響を与える」等である。
一方で先日の足立区議会での自民党議員の発言の様に、「(コンテンツや制度的な承認により)LGBTが増える」事を危ぶむ差別的発言があった際、
「そんな事でLGBTは増えない」「あなたの生活は何も変わらない」といった反論が上がる事が有る。
これ等はLGBTの先天性を根拠の一つとして主張されるわけだが(それ故、「ゲイに掘られれば」発言による後天的なヘテロ→ゲイの変更は、これらの反論に真っ向から対立してしまう非常に危うい発言である訳だが)
この時、その先天性自体を否定する言説が現れた際、その言説に求めるべきエビデンスとは何であろうか?
通常、ロリコン或いは女性を性的に消費するコンテンツの影響を論じる際、「統計等のエビデンスを挙げろ」といった反論がされるが、多くの場合は無視される。
つまり、(その状況を肯定する限り)ロリコン或いは女性を性的に消費するコンテンツによる後天的な変更の可能性にはエビデンスは必要ないという事に成る。
これと同じ規範を適用すると、「(コンテンツや制度的な承認により)LGBTが増える(後天的な変更は発生する)」という主張にもエビデンスは何ら必要ないという事に成る。
もしLGBTの先天性を事実として保護したいのであれば、LGBTへの後天的な変更が可能とする主張にはエビデンスを要求する必要があり、
そのような規範を持つ限り、ロリコン或いは女性を性的に消費するコンテンツによる後天的な変更の可能性を論ずる際にも、エビデンスは必要と考えない訳には行かないのである。
今回はここまでにしておくが、とあるコンテンツや制度による受容者への影響、またはそれらを論ずる際に必要とするべきエビデンスの問題は、
LGBT等への配慮の問題と関係するという点でこれらの論点は非常に興味深い。
これまで主にリベラル側で軽視されてきた強力効果論等のメディア強化論のエビデンスの重要性について、再度一考するインセンティブがリベラル側にも現れたという事なのだ。
どちらでもあるんじゃない?
同性愛者への嫌悪感や存在を受け入れ難い気持ちが先にあって、そこに無理やり理屈をつけて子供を産まないことを批判している、とか。
だいぶ歳のいったおっさんだから、受け入れ難い気持ちがあるのは無理からぬことではと思ってる。みんながみんな”価値観をアップデート”できるわけじゃなし。
産めるやつは産め、同性愛は遊びつってた
いつだったか忘れたが数年ほど前に、
「それは差別的呼称であり、当事者以外の者が謙遜・自虐・卑下に使うことは適切ではない」
事実、かつて多くの腐女子は自分の嗜好について自虐する風潮があり、
(乱暴な口調=男勝りなキャラ=自分カコイイ!!、という中二病も多くいたが)
それを本来の当事者であるゲイセクシュアルの方と思われる方の一部が、
「なぜ第三者である人間に立場を低く言われなければならないのか」
と憤慨するのは、当然の流れだと思う。
wikipediaによると、「同じ、よく似た」という意味のギリシャ語から生まれた言葉だそうだ。
(ちなみにホモサピエンスのホモはラテン語で「人」を意味するらしい)
「同じ性別を恋愛対象とする人」つまり「同性愛者」を指すに過ぎないのだ。
男性の同性愛者のことは「ゲイ」と呼び分けていることが多いが、
そのふたつを総括する言葉が「ホモ(セクシュアル)」なのである。
かつては「ゲイ」という言葉すらもしょっちゅう中傷に使われていたと思う。
現在ネットやテレビを見る人で、LGBTという言葉を聞いたことが無い人は滅多にいないだろう。
「ゲイ」は差別的なニュアンスで使われることが減ったと言えるだろう。
つまり、「分類上の呼称のひとつ」という本来の意味で使われるようになってきたということだ。
2chなどで多く見られる「ガイジ」「池沼(ちしょう)」という言葉だ。
2chなどで、と前置いてしまったが、私が小学生の時(10年ほど前)、
同じクラスに自閉症の子(支援学級に入っていた)がいたにも関わらず、だ。
この競争社会に生まれ落ちた存在として容易に陥りやすい思考である。
しかし、「障がい者である」ということそのものは、本当の障がい者にとっては単なる事実に過ぎず、
「マイノリティ」に属すること自体を屈辱的、普通よりも劣っていると決めつける集団心理だ。
(グループに属せないゆえにマイノリティと呼ばれるのかもしれないが、ここではあえてこう書かせてもらう)
とどのつまりは、「自分(達)よりも能力や数で劣っている人間は社会不適合者だ」というレッテルを貼る者達が、
ここまで色々書き連ねておいてなんだが、
私個人の意見としては、ああいうものは被差別者と差別者達が議論して折り合いをつけていくものだと思っている。
つまり、特に肩を持つようなことはしないが、一方的に攻撃するのはおかしいよね、くらいの認識だ。
しかし、社会の本質として「似ている人間同士の集団」こそあれ、
もしもクローンが作られ、同じ生育環境だったとしても、それは同じことだと思う。
「自分と違う存在」「自分より一見劣ると思える存在」を容認し、
それを愛する世の中に住みたい、と私は切に願うばかりだ。
「同性愛を認めると足立区は滅亡する」に対して、特にとがめられもせず罷免も減給もなく、「よく言った!」って人が出てきちゃうなかで「同性愛による足立区滅亡アンソロ」主催が滅亡見たいだけだったとしてもそれは「発言の追認」なんだよな……。
皮肉になってない。
・初回は怖くなかったのか
・性的に求められることについて
・相手のふるまいについて
・結局、挿入も被挿入も性行為だけでOK説なのか、それ以上の交流があって良かったよって話なのか
・初回は怖くなかったのか?
それはなぜ?
▶怖くなかった(喜びが大きかった・性欲が大きかった・身体的危険を感じなかった・身体的危険は感じたがそれは興奮材料だった・暴言を吐かれなかった・暴言を吐かれたがそれは求められることなので嬉しかった・妊娠についての恐怖がないから・心の交流があったから・その他)
▶怖かった(未知のことだから・身体的危険を感じた・危険は感じなかったが、単純に身体の穴に物が入る違和感が怖かった・暴言を吐かれた・同性愛に対する社会的偏見が怖かった・その他)
・性的に求められるということについて。
増田は性行為のことを書いているが、日常生活で性的に見られることについてはどうか?
(女が「性的に見られる、求められるのが嫌だ」という時は多くの場合、セクハラを含むのでそこが知りたい)
セクハラ発言すらしてもらえなかったが、同性を性愛対象にしたらセクハラ発言をしてもらえる(≒性的に求められる?)ようになり嬉しかったということか?
多くの場合、セクハラとパワハラはセットだが、パワハラとセットで女性または男性からセクハラをうけたら嬉しいのか。
もし増田が「女がセクハラされるのは既に求められているのだから、発想の転換で喜びに変わるよ、イージーだよ」と言っているのならば…、
増田は男からセクハラされたことはあり、男を性愛対象とする前は男からのセクハラは不快だったが、男を性愛対象にしたら求められている喜びが出てきたということか?
・相手のふるまいについて。
増田に挿入した男は、女に対してと性愛対象である男に対してと、性愛を拒否する男に対して、性行為以外の部分で態度は違うか、同じか。
はてなでは男を選ばない女に対して辛辣だが、はてなにいる女が「では私はより好みをしていたようなので、それはやめて非モテ男に求められたら喜んで受け入れよう」となったらうまく行くものなのか?
増田は性愛対象になる前に男から辛辣に対応されたが性愛対象になったら案外交流できたということか。
・結局、挿入も被挿入も性行為だけでOK説なのか、それ以上の交流があって良かったよって話なのか?
両方?
何故かというと、バイセクシャルは異性愛者からは勿論同性愛者からも「結局異性と結婚するんでしょ」って叩かれやすいし、実際異性と結婚している自分のカムアウトは多方面へのエンタメ提供にしかならないと予測できるので。
足立区の区議の人の「LとGが流行ったら足立区は滅亡する」って発言には、怒りより呆れと笑いの方が強かった。性的指向が流行に左右されるという発想が面白くて。同性愛者全員がカムアウトして偽装結婚をやめたら、じゃないんだな、バイが全員同性との結婚を選んだら、でもないんだな、その程度の知識で物事を批判っていうか人間を攻撃できるのすごいなー、って感想だった。
「同性愛が流行る」なんてほとんどの日本国民にそんな発想はないし、何学的にかは知らんけど起こり得ないってみんな知ってる。と私は思い込んでいたからだ。
この思い込みがまずかった。メディアで連日報道されてんのも「すごいトンチキ爺さんが出てきたからみんなで笑い者にしようぜ」って意味合いだと思ってしまったし、実際自分のTwitterのタイムラインにはそんな感じで区議を揶揄っている人も結構いた。
イベントも春からずっと中止中止、本を出しても売る場所ないし同人自体お休みしてくさくさしてて、でも他ジャンルはアンソロとか楽しい企画やってたりして、不貞腐れてるところに一次創作(?)の楽しそうな企画。
これは区議の発言をネタにしてみんなで楽しめるなと飛びついて、参加表明した105人の中の1人になった。
あー私誰か傷付けちゃったんだな、と思ったので、怒ってる人がなんで怒ってるのかちゃんと読んで反省しよう、と思った。
2. 自分たちを傷付けられたと怒ってる同性愛者(足立区民よりは多い)
3. 同性愛者を傷付けるであろう行為に怒ってる腐女子(大多数)
正直足立区民の怒りも予想してなかった。自分は壊滅じゃなくて滅亡って単語からと、発端が区議会ということ、ピンポイントに足立区域のみが滅亡することから「自治体が機能してない状態」を想像していた。普通に葛飾区に編入されるプロット書いてた。葛飾区は今パートナーシップ制度について検討中の自治体だから、足立区がどうにかなるような未来には法案が通っててめでたしめでたしって。それも違った。怒ってる足立区民は戦争とか紛争とかって単語と共に怒ってる人が結構いた。愛する地元が壊滅させられると思ってるっぽい。大切な人がめっちゃ死んで大切な場所が壊滅するって思ってる多分。それは悲しいわ。でもフィクションの、しかも自分が読むわけじゃないアンソロの中で起こっててもそんな怒るほどのことかなって思った。
自分は昔糀谷に住んでたから、シン・ゴジラで蒲田くんが当時の家の裏の川を遡上してってお散歩コースぶっ壊してよく遊んでた蒲田駅前まで這っていくシーン観た時はちょっと悲しくて泣いた。泣いたけど現実の蒲田は無事だって知ってるし、庵野に怒りの感情とか全然ないし、蒲田を最初の上陸ポイントにしてくれて嬉しかった。だってフィクションだし。
次、同性愛者。
これも自分はバイだから当事者側だろう、という思い込みがあった。同性愛者にとっては「どうせいざとなったら異性と結婚する」バイは異性愛者側の人間なんだった。いやたまたま一生一緒にいたいぐらい愛した人が異性だっただけなんだけど。そんでその場合結婚制度を利用したらメリットが結構享受できるから利用したんだけど。転居先の自治体がたまたま若年者の家の購入に補助金出してたから運が良かったなーぐらいの気持ちなんだけど。いや結婚と内縁にすらなれない関係じゃ雲泥の差なのはわかるよ。でもバイだって結婚できるからって理由で異性選んでないよ、少なくとも私は。だからマイノリティの中で更に被差別層作って分裂させてる同性愛者の人達に「お前は当事者ではないから差別」「お前は異性愛者だから差別」って言われてもそれこそが差別だとしか思えないわ。
その中でも少なくない数の腐女子は、今回の企画の問題点が「区議のような発言をする人がまだまだたくさんいる世の中で区議の発言の通りの設定に乗っかることが差別を助長しかねない」ことであるとちゃんと指摘してくれていて、あー考えが至らなかったな申し訳なかったと思った。それはごめんなさい。自分の周りしか見てなくて世の中が同性愛者をそんなに迫害してるとは知らなかった。
でもあとの腐女子は無理。
パートナーシップ制度はセンシティブな問題、同性愛者を玩具にしてる、配慮がない、せめて参加者に当事者がいれば、ヘテロオタクの悪い癖だ。
まずなんで参加者も企画者も全員異性愛者だと思い込んでんのか意味わかんない。あなたはアンソロに寄稿する時自分の性自認とか性的指向をペンネームに添えるんですか?同性愛者を攻撃するのは異性愛者に違いないって考えもまた差別だってことわかる?
あと同性愛を面白おかしく創作に落とし込むのは当事者への配慮不足、これすごいうけるんだけど。普段この人達が描いてる(読んでる)同人誌は一体どんな当事者への配慮をしているの?それは面白おかしくないの?異性愛者が実際の同性愛者の性行為とかけ離れた描写をするBL・百合創作は同性愛者を玩具にしていないの?なんで今回のこの件だけ怒ってんの?あんたたちだって同じ穴じゃん。鏡に向かって言ってんの?
非モテ女性が居るとか居ないとか騒いでいるが、定義や基準を決めずに議論しても水掛け論にしかならないのではないだろうか?
居るor居ないの2値だけで考えるのも良い方法ではない、幾つかのレベルを決めればいい
交際経験0なら「非モテ」だ、非モテ女性もいくらでもいるだろう
ただ、交際経験を基準にすると、確かに「頑張ったらモテるのに頑張ってないだけ」とか「そもそも恋愛する気が無い」場合を上手く処理できない
物凄くイケメンで女性から好かれているが運や積極性の問題で経験0の男性や、アセクシュアルの人も「非モテ」に入ってしまうのは確かに雑だろう
なら、周囲からどれだけ好かれているかを基準にすればいいのではないか
それなら経験0のイケメンや、周囲から恋愛感情を持たれているアセクシュアルも区別できる
ただしここにも問題は存在する。「周囲からどれだけ好かれているか」は測定ができないのだ
なるべく測定可能な基準が良い、定量的でなくてもせめて判断が付くものが
あなたが1週間何も食べていない時、そこら辺の雑草すら美味しそうに見えるかもしれない、しかし満腹状態なら当然食べる気にならない、極上のステーキすら要らないと言うかもしれない
あなたがどれだけ飢えているかは、あなたが何を欲望しているかに依って測れる
ではそれを基準に考えてみよう
(以下、異性愛者の例。同性愛者の場合は「異性」を「同性」に変換する。本当は同性愛者や両性愛者も含めた書き方にしたかったが、上手く出来なかった、すまない)
非モテレベル-1:恋人がいて満足しているor恋人はいないが満足している状態。魅力的な異性にも欲望を示さない
非モテレベル0:恋人はいるが満足はしていない状態。魅力的な異性や、心の隙間を埋めてくれる異性には欲望を示す
非モテレベル1:恋人はいないが恋人候補はいる状態。選択の余地があるため、より魅力的な異性を欲望する
非モテレベル2:恋人はいないが積極的に行動すれば出来る可能性のある状態。より幸福な状態を目指し、より魅力的な異性を欲望する
非モテレベル3:恋人はおらず、積極的に行動しても望む条件の恋人は得られない状態。恋愛は欲望しないか、または魅力的かの条件を問わず、精神的な承認を欲望する
非モテレベル4:妥協しても恋人は得られない、本格的な非モテ。魅力的かの条件は問わず、また精神的な承認が無くても肉体的な充足があれば満足する
非モテレベル5:恋人以前に周囲から嫌悪感を抱かれる、非モテの中の非モテ。もはや異性ならだれでもよい
非モテレベル6:レベル5を遥かに凌駕する神話級の存在。恋愛対象ではない属性(異性愛者なら同性等)でもよい。人間でなくても生物でなくてもよい
どうだろうか、先ずは軽く考えてみた物なので荒削りでつっこみ所も多々あるだろうが、まずは素案として出してみた
これまでの議論を見たところ、男性はレベル4~5の話をし、女性はレベル3辺りの話をしている人が多いような気がする、だから噛み合わないのだ
また、女性による「非モテ男性は非モテ女性を無視している(非モテでありながら、美女だけを欲望している)」といった指摘があったが、あれも鋭い指摘だろう
そういう非モテ男性はせいぜいレベル2か3程度で、非モテとしては修業が足りないのだ、もっと妥協出来なければ非モテとは言えないし、妥協しないでいられる程度には何とかなって居るという事だ
発端となった(?)小野ほりでい氏が書いていた通り、非モテを不幸にしているのは「非モテが不幸である」という認識、つまりモテへの欲望を捨てきれない故だ
(尤も、その原因を解決または排除出来ると考えている点で小野ほりでい氏は楽観的過ぎるというのが私見だが)
つまり、非モテの不幸の本質的な部分は、そもそも「モテ」を欲望していなければ味わえない
どれだけ妥協し基準を下げても、それでも叶えられないからこそ、非モテは不幸なのだ
従って、非モテのレベルはどれほど低い基準の欲望を持っているか、によって測定できる。ステーキを求める者よりパンの耳を求める者、パンの耳を求める者より雑草を求める者の方が貧しいのだ
不幸を比較するべきでないと言う人も居るかもしれない
でもそれは、確かに優しい考え方ではあるのだが、どん底の最も不幸な者達にとっては、不幸さの程度を無化してしまう、この上なく残酷な考え方だ
最初に、元々婚姻制度っていうのは家庭で子孫を生み育てて社会を維持するのを補助するための仕組みだ、という立場です。この前提が異なる方はそれを踏まえて読んでいただくか、ここで読むのをやめてください。分かり合うことはないでしょう。
基本的には性自認とか性的指向とかは人の自由だと思うし、好きにすればいいと思います。けれども社会的な権利や義務に関しては同じように扱うべきではない場合がある、と考えています。
先に結論を書くと、出産、養育、その他のプリミティブな社会の義務や役割から逃れつつ、婚姻制度の権利だけ主張するのはありえないよね、っていう主張です。
どうやってもLGTあたりの人が子供を産むことはないわけで、この命題を解決しないで、権利だけ同じにしようというのは無理だと思うのです。これはノーマル(ストレート?)の子無しカップルにも言えるとは思います。
男女の婚姻制度とか、もっというと男らしさとか女らしさっていうのは、家庭を築いて次世代を生み育てて社会を維持するために人類があちこちの文明で作り出した叡智なわけです。男が頑張って家庭を維持するだけの糧を稼いで、女は子を産み育てる、まぁ逆でもいいし、例外もたくさんあると思うけど、マジョリティはこうあることで社会が存続してきたと考えています。
だからLGBTQだけじゃなくて「男らしさ女らしさからの解放」とかも同じで、次世代を産み育てるための仕組みを否定しているんだよね。
それを否定するなら代わる仕組みを提案しろよ、と。自分たちがマジョリティになっても持続する社会形態をね。たまたま自分たちがマイノリティだからそれを許容してもらえればいい、っていうのは甘ったれすぎていて話にならない。一人くらいプールでおしっこしても平気でしょと変わらない。
体外受精、人工子宮、あと教育の外部化くらい?なんか工場でベイビーを生産してロボットとかで教育する未来が見えるような気がするが、そのくらいやればそもそも家庭が不要になるし、LGBTQとノーマルのカップルの権利を区別する必要はなくなると思う。自分にはあまり望ましい姿には見えないけれど。
LGBTQも産まないカップルも男らしさとか女らしさとか否定する人たちも、じゃぁどうやって社会を維持していくのか、きちんと考えて提案して欲しい。今やっているのは既存の仕組みを壊しているだけに見える。マジョリティが必死に支えている義務から逃れて、権利だけ主張する人たちにしか見えないよ。
ディスクレーマー的に付け加えると、LGBTQの方にも生まないカップルの方にも事情が色々とあるのは想像できます。望んでそうなったわけじゃないという方もいると思います。そういうのは素直に同情するし、必要に応じた支援があったっていいと思うんだけど、それは同様の婚姻制度を一律に適用する、とかいう話とは別だと言いたい。もちろんどっちが偉いとかでもなくて、ただ、違うものとして扱うべきだと。
あと蛇足だけど娯楽としての同性愛っていうのは楽しくていいですよね。織田信長とか徳川家光とかみたいな話。それこそ特権階級(マイノリティ)の娯楽だけど。
そんなことを言う人が居る。
そういう人のすべてがそうではないとしても、中には、その人自身が実は同性愛者の場合もあるのではないだろうか。
……
魅力的だと感じる同性が居る。
しかし、どうやら世間では、異性と結婚して子供を作るのが「普通」らしい。
同性が好きであることを声高に発信する者たちが現れた。
ふざけるな。
異性と結婚することが「普通」であったから、「普通」になるために自分はこの生き方を選んだのに。
同性と結婚することが「普通」になってしまったら、自分を偽って生きてきた、この生き方が間違っていたことになる。
そんなこと、認められるわけが無い。
……
そんな風に思って、「同性婚など認めるべきではない」と言っている人も居るのではないか。
自分自身が結婚を考えた頃に同性婚が出来たなら、異性と結婚して子を持つことも無かったから
そんな人に、「その考えは間違っていますよ」と言ったら
そんな意味になって、その人の胸を突き刺すのかもしれない。
足立区で同性愛者同士が接触すると対消滅(アナイアレイション)が起こるようになった。それでどうなるかというと、水素爆弾10発分(広島に落ちた原子爆弾で計算すると6600発分)の爆発が生じ、衝撃波は地球を三十周する。
そんな威力なら足立区どころか日本そのものが危ないのではないか、と思われそうだが、そのとおりである。足立区が滅びるついでに日本も滅んでいる。しかし日本など足立区の付属物にすぎないので、ここでは論じない。
対消滅はある物質と完璧に対応する反物質のあいだでしか起こらない。
アリストパネスが語ったところによれば、人間はもともと頭が二つで手足が四本ずつの生物であったが、その欠けるところない有能さを恐れた神々から真っ二つに割られ、今のわれわれのような頭がひとつで手足が二本ずつの姿になった。同性愛者たちはその太古の記憶を保っているのだという。自身の完全な半身を忘れないひとびと。
そして、その熱情が、神話的な完璧がゆえに足立区を滅ぼすほどに爆発する。
滅びからまた生じるたび、足立区のひとびとはまずドクター・シライシの像を建てる。百万回以上生滅を繰り返した今となってはその業績を語る史料も残っていないが、足立区の伝承によれば、「足立区で真実の愛を発見した最初の人物」であるとされている。研究者ではなく、政治家だったという説もあるが、詳しいところは判然としない。
世界中からもうひとつの半身を求めるひとびとが押し寄せ、ささやかなマッチングが成立するたびに京すら超えて垓に達するジュールの熱を放つ。
ーーあだちというまちには、底ぢからがある。
ともに、ちから強く生きてきた、
あだちのまちの仲間たち。
だからいま、
ふみだそう、新たな一歩を。
ここ、あだちから。
なぜか?
・社会問題でもなんでもネタにして消費できれば良いという姿勢が浅はか(建前)
・足立区の治安が悪〜い!キャッキャ!じゃねえんだよ殺すぞ(本音)
・クソどうでも良い市議の発言だけで何日も騒ぎやがって、足立区でも千代田区でも何区でも滅ぼうが滅ぶまいがどうでもいいわ(本音)
・死んでくれねえかなあ(本音)
・マイノリティ差別発言を創作のネタにして盛り上がるという行為の加害性を認識するべき(建前)
・東京ローカルネタでインターネットが盛り上がってるの見るたびに俺は首都直下地震の妄想をしながら寝ていますよ(本音)
・東京23区が突然通り抜け不可能な光の壁に覆われて、都民ははじめキャッキャしてるんだけど、しばらくしてその壁の半径が1日1キロずつ縮み始めて、阿鼻叫喚の騒ぎになって欲しい(本音)
・Twitterで東京グルメ情報、東京各区のローカルネタ、東京観光ネタなどで盛り上がってた連中が迫りくる死や日毎狭くなる生活領域に恐慌状態になってるの絶対見たくないですか?俺は見たい(本音)
・TVのゴミ連中もちょっと東京で災害があると上を下への大騒ぎですが、それが本当にヤバい災害で23区民が全員死ぬことが確定してたらマジでウケるし本当に毎日楽しくニュースを見られると思う(本音)
一人の両性愛者の意見というよりも、一人の人間の戯言くらいに聞いてほしいんだけど。
性的マイノリティの尊重を声高に主張する腐女子いるじゃないですか。
(腐女子の皆が当てはまるとは思ってないし、「腐」って表現が差別だなんだって10年後くらいには「腐女子」って言葉がなくなってんだろうなとか思ってるけど、言葉の雰囲気的に一番使いやすいので「腐女子」って言います。ごめんね。)
とにかく、昨今の情勢とあわせて、BLとかGLがもっと開けっ広げに表現されるべきだという主張があるじゃないですか。
別にその主張にとやかく言ったり思ったりはしてないです。BLGLが抑圧されてきたというか、一次二次問わず「水面下でこそこそやるもの」と認識されてきた歴史に、大きな転換期が来ているのは重要なことだと思います。好きなものを主張できて、それが迫害されない世界になったらいいね、って心の底から応援してます。
でも、それを同性愛や両性愛の政治的な話と繋げ考えるのは「ちょっと待ってくれ」と思ってしまう。
「BL・GL」ってカテゴライズして、「特別なもの」他とは違うもの」として人の恋愛を消費してきたのはお前ら腐女子じゃない?
「同性愛が認められたらBLのネタ増えるわ~」って軽率に呟いた腐女子いなかった?
カフェで話しているだけの同性二人組を見て、受け攻め考えるなんて品のない行いをしたことのある腐女子いなかった?
ファッション腐女子って言葉がありますけど、今、政治的・社会的な問題としての性的マイノリティにとやかく言っている腐女子は「同性愛に偏見ないよ」をファッションにしてるように見える。
同性愛者、両性愛者に味方して、あわよくば、自分の性癖がより生産されるようにって思っているように見える。
お前ら腐女子が主張したいのは「表現の自由」としてのBL・GLであって、「政治的・社会的な問題」ではないでしょ。