はてなキーワード: 信頼関係とは
似た感じを少し前に経験したから言ってることすごくよくわかる。
途中でgdgdになったらごめん。
もしかするとブコメや他増田で同じこと言われてるかもしれないけど、同じ部署か他部署でも仲良くなれそうな人に声かけて、ごはんでもお酒でも行ってみるといいと思う。そうして仲良くなっていくと、徐々に「お育ちの良い部分」じゃないところも見えてきて、キラキラしてこの人たち住む世界が違う…って絶望感からは少し解放されるよ。あ、同じ人間なんだ、と思える。そうなってくると「知らないほうがただ羨ましがってるだけで済んでよかったな〜」って思うことも出てくるから注意は必要だけど。
もちろん、それでも増田とは元々の育った環境の差みたいなものはあるし個人差もあるから、実はドロドロな人もいる一方で本当に聖人君子みたいな人もいて、そういう人に当たっちゃった場合はあまり突破口にならないかもだけどw
それからドリルだけど、私も実は買ったことがあって、10マス計算ドリルから始めた。しかも10マス計算だけやって満足して、中学の数学ドリルも一緒に買ったのにそっちはずっとやらないままの体たらく。
ただたぶん勉強しろってブコメの人が言ってるのはそういうんじゃなく、仕事についての勉強だと思うのね。でも増田が派遣としてどの程度仕事を任されてるのかわからないから、誰にも具体的なアドバイスができないんだよね。事務かなと思うけど事務じゃない場合もあるし、事務だったとしても経理事務なのか営業事務なのかでも全然違う。
だから今言えることとしては、勉強じゃないけど例えば誰かに資料探しを頼まれたとして、その仕事の後に手書きの書類提出がいつもあったとしたら、その書類の出力も一緒にしておきますか?って声かけたり、少しだけ先回りして+αの仕事することを心がけていると「増田さんは仕事するとき気を遣ってくれる」って仕事上の信頼関係を築けるようになるってこと。そうして信頼関係を築いた上できっちり仕事ができるようになってくると、学歴やら育った環境での劣等感って薄れてくるんだよ。自己実現なのか承認欲求が満たされたからなのかはわからないけど、自分がちゃんとやれてることで他のことがあまり気にならなくなるというか。
綺麗さっぱりなくなることはないし、時折ジリジリしちゃうこともあるし、特にその会社で好きな人ができちゃったりするとこれまたその劣等感で苦しんだりしちゃうけど、それでも今よりは劣等感の薄れた状態で働くことができると思う。
でもドリルも意外に面白かったりするから、仕事とは別に趣味でドリルやるのもいいと思うよ。
私も「旅行ならカンクンおススメ!1週間の滞在なのに50万くらいで済むよ!」って言われて旅行で50万とかどういうことなの…ていうかそれ以前にカンクンってどこだよ国名なのか都市名なのかさえわからないよと戸惑ったりしたけど、今は劣等感からは結構解放されて仕事できてる。その理由を考えると、やっぱり人となりが見えて「私と同じ人間だ」と思えたことと、仕事していく中で信頼されて仕事任されることが増えたからじゃないかなと思うんだ。だから増田も同じように感じることができたら、劣等感から少しは解放されるかなと思って書き込んでみた。増田に書き込むの久々すぎて「どっからどうすんだっけ…?」というところからのスタートだったけど、なんとか書き込めそうなので安心した。
元増田に触発されて、大学時代に自分が自殺未遂をしていた頃のことを思い出していた。自殺未遂と言っても、救急車や警察のお世話にもならない程度に自殺を企てて失敗して諦めるようなものではあった。とはいえ、今思い返してみると自分の人生ではそれなりに重要な位置づけにあった出来事だったように感じるので、供養のために当時のことを思い返して書いてみようと思った。
大学の頃はとにかく自分の不甲斐なさ、生きる才能のなさに絶望していた。バイトでも研究室でも上手くいかず失敗ばかりで常に低評価、何をしても上の立場の者を怒らせてしまい下の立場の者からは憐れまれる、同期も含めて誰とも信頼関係を築けない、などで常に悩み苦しんでいた。いつだったか、親に「普通のことが普通にできるようになって欲しい」と言われた。自分も心底そう願っていたのだが、周囲が普通にできていることができないまま、失敗体験ばかりが積み重なっていった。
その社会的に上手くいかない大部分は、今顧みると自分の発達障害的な特性に起因していたのだと思う。だが、その頃は発達障害に対する知識量が乏しく、自分が発達障害であると疑いもせずに、漠然としつつも強い社会不適合感を感じながら生きていた。
そのうち、何か現実で失敗して大きく自分に失望する出来事があったとき、自殺を試みるようになった。
ある時は凍死を試みた。当時は北海道に住んでいたので、冬の夜に外で寝ると簡単に凍死できる。酒をコンビニでたくさん買って、酩酊したのちに雪の中で寝ることで死のうとした。だが、いざ酒をしこたま飲んでも「ここで寝たら死ぬ」という本能的な危機意識が強まり、意識が覚醒するばかりで思うように酩酊することができなかった。結局、1時間半ほど雪中にいたのちに無理だと悟り、冷え切った指をさすりながらフラフラ家に帰った。
ある時はヘリウム自殺を試みた。本当は数百リットル入っている大きなヘリウム缶を購入した方がよかったのだが、実家住まいだったため家に持ち込むのは現実的でなく、結局十数リットルの小型缶を2本買った。ビニール袋を頭から被り、その中にヘリウムを充満させ、呼吸すると酸素不足で意識を失いそのまま死に至るという寸法だ。結果はまあ当たり前だが、ヘリウムの絶対量が足りず、意識を失うことすら叶わなかった。「死ねなかった…」と独りごちたとき、例のパーティ用ヘリウムを吸った時の声が高くなる現象が起き、思わず笑ってしまった。一瞬だけ、自殺に失敗した絶望感が紛れた。
他にも非定型首吊りを試みたりと何度か自殺を決行した。だが、いずれも準備不足だったり、途中で怖くなってしまって未遂に終わることを何回か繰り返した。そうしてまた現実に向き合わなければならない絶望感を抱えつつ、辛くて苦しい日常に戻っていった。ただこの自殺失敗は無意味ではなく、いつでも死ねるという選択肢があると自分に言い聞かせることで、現実の辛さから目を背ける逃避行為になっていたと思う。
そうして毎日をやり過ごしていたところで、大学院の研究発表が間近の冬の時期に、これまで数ヶ月かけて実験してきたデータが使い物にならないと判明した。自分のこれまでやってきたことが無為だと感じたときに、なんとか生きようとしていた気力の糸が完全に切れてしまった。この出来事自体が大きい意味を持っていたというよりは、これまでの失敗体験により自分への失望や将来への希望の無さが雪だるま式に積み重なっていって、この出来事で許容値を超えたと言った方が正しいと思う。この先生きていても苦しいだけで希望も何もない、自分は何も成功を収めるすることができない落伍者だという思いがピークに達し、自殺を決行しようと思った。
定型首吊りをしようと、酒を飲んだあと人気のない公園に行き、自分の身長以上ある遊具にロープを括り付けた。その後、遊具に昇って首にロープをかけ、足を遊具から踏み外した。頭に血がパンパンに溜まり熱くなるのが分かり、同時に意識に靄が徐々にかかっていった。あと数秒、首に圧力が加わったなら意識を失い、やがて死に至ると強く実感した。そのように感じた瞬間、死が急に身近に思えてきて、一瞬でとてつもない恐怖心が芽生えた。手でロープを掴み首に掛かる圧力を緩めたあと、必死にもがいて首からロープを外し、倒れ込むように雪の上に落ちた。
その後も何回か試したが、同じようにあと数秒で意識を失えるところで首からロープを外し、断念することを繰り返した。あと数秒だけ首に力を込めれば意識を失えたのだが、その一線を越えるのがとてつもなく大きな壁のように感じ、どうしても乗り越えられなかった。結局3回ほど試したのち、無理だと悟って家に帰った。
上で書いた通り、自分にとって自殺は辛い現実から目を背ける唯一無二の手段だった。死ぬという選択肢があると信じ込むことで、どんなに現実で失敗をしたとしても、死ねば救われると信じていた。しかしこの自殺未遂により、ここまで死に接近しても、死という一線を越えることは自分にはできない、死を現実の逃避先にするのは無理だと悟ってしまった。すると、これまでは生きるか死ぬかの狭間でウロウロ迷っていたのが、死ぬことが無理ならこの先も生きていくしかなく、この先どうせ生きていかねばならないのなら、できれば良い人生を生きていきたいという心情に変化した。死ねない絶望が、逆に現実を前向きに生きようとする動機になったのだ。
その後、研究発表は使えそうなデータをそれっぽく見せて、なんとか修了要件を満たすことが出来た。
そして大学を卒業して働き始め、自分が発達障害であることに疑いを持ち実際に診断が出るなど紆余曲折ありつつ、今のところはなんとか生きている。
今でも猛烈な希死念慮や破滅願望が湧き上がることはしょっちゅうあるし、自分が社会を上手く渡っていける人間でないことに絶望したりもする。「生きててよかった」とまで自分の人生を肯定できるまでには、まだ至っていない。だが、自分は自殺できない、死を逃避先として選べないということは、確固とした事実として悟ってしまった。また、幸いと言っていいのか、最近は少しずつ発達してきたのだろう、人生を上手くやっていく術を徐々に身につけつつある。まあ、全て上手く実践するまでには全然至っておらず、それなりの頻度で失敗をやらかす。そのたびに湧き上がる強い自責感情と消滅願望を色々な方法でごまかしつつ、結局はより良い人生を目指して少しずつやっていくしかないと思い今日もまだ生きている。
この文章を読んで、これは前向きな感情ではなく、死ぬという選択肢が消えたから消極的に生きなければならないと感じているだけではないか?と感じた人もいるような気もする。確かにそうなのかもしれない。ただ、以前は学習性無力感からか、自分の人生を良くしようと自分から働きかけようという気すら起こらず、ただ日常の痛みに耐えているだけだった。そのような状況から比べると、自分の人生をコントロールして良くしようと動く気になった分、以前より間違いなく前向きになったように自分では感じるのだ。(管理が厳しく、親の納得のいく人生を送らないと叱責する親元を離れたことも、大きな要因であるとは思う)
そこで東日本大震災が起こった。ずっとテレビを見ていて思ったのは「いとも簡単に人がたくさん死ぬ」ということだった。
ぼくがずっと考えていたことは自然にとってはありふれたことで、一生懸命自分の人生を生きてきた一人の人間が、人生を無理矢理終了させられ、大して深い意味もなく死んでいくという「人間がゴミのように死んでいく」光景が新鮮だった。可哀想などと思う人間の気持ちを持つ余裕はまだ無かった。失礼な話だが、人が一人死ぬのを見るたび希望が湧きあがってきた。震災はぼくの死生観に強い影響を及ぼした。「人間が生きる意味などない」というのをかなりポジティブに感じた。
こうして今になって文章化して振り返ってみると、この程度の絶望はまあ巷にはありふれているし、救急や警察にお世話になっていない程度の大した話でないと自分でも思う。ただ、元増田は「人は簡単に死ぬ」という現実を悟り、結果として前向きに生きることができるようになったと書いている。一方で、自分は「人は簡単に死ねない」という現実に直面し、結果として前向きに生きられるようになったように思う。その対比がなんだか面白くて、このような長文を書いてしまった。
以上、供養です。おわり
https://anond.hatelabo.jp/20181016023133
にちゃんとした追記を入れたかったんだけど、字数が足りなかったので新規エントリを作ったよ。何度も同じ話題で話してごめんやで。
ネットスラングが多いと伝わらない部分があるようだから、それらを使わずに書くね。出来れば目を通してほしい。
「警鐘を鳴らしたい」だとか、
個人的な恨みや怒り、それらに対する認識、同じ被害を減らしたい気持ち以外には何も書いてない。
フェミニズムやミソジニー、ミサンドリーなどの思想に依る議論でさえない。
単語の大きさと言葉の強さで不要な誤解と物議を生んだけど、私の怒りは
にある。そして、それを綴っただけ。
・知り合ったばかりの男性が、
・私という一個人を「女」という括りの大多数としてその意思を無視し、
・「年上の男性」かつ「女性を助けたヒーローである自分」の下位だと認識して、
・その認識を覆す行為に出た私に対して理不尽な侮辱と謂われのない罵詈雑言をぶつけてきた、
ということへの個人的な怒りと愚痴でしかないの。私が当事者として抱いた気持ちを書いただけのエントリだから。
おそらくその辺に目がいっていない人がとても多い。まあこれは私の言葉の使い方のせいだね。ごめん。怒りの強さに理性が負けていた。
トラブルの度合いもここに記していないのに、なぜ菓子折では足りないだとか、酒くらい奢ってしかるべきだとか、そういう話になるのかも正直よくわからない。
相手は菓子折を受け取ったし、その時は「大変だったな」的な事も言ってくれた。
金銭で無いことを詫びた時、「その代わりと思ってお酒に付き合ってほしい」というような事を言われ、私の誠意がそれに応えるべきだと決めた。
この時点で、私はそのトラブルに関わる恩に足り得る返礼を行ったつもりでいた。相手にとってそれが足りていたかは知らない。語られなかったから。
報酬としてのセックスを最初から求められていたなら、それはそれで断ったと思う。
相手は
「そんなに急いで帰らなくてもいいだろ」
「ホテル行こうよ」
「俺うまいよ」
「色々教えてあげるからさ」
と言った。私は、それが報酬として性的行為を求める言葉だとは思わなかった。
コミュニケーションの末にホテルへ誘われる事が普通にあっても、それに応えるか否かは誘われた側の気持ち次第でしかない。
何度でも言う。
応えるか否かは、誘われた側次第でしかない。
そして誘った側がそれを断られたとしても、断られた事に激昂して相手を侮辱していい理由にはならない。
子供のころに「あーそーぼ」って友達から誘われて、「ごめん、今日は用事があるから一緒に遊べない」って言われた時、ひどい言葉で罵って絶交するような事はある?そうした場合、一般にはどっちが悪いと言われて叱られるの?
応じられない事を謝って、理由も述べている。何が違うのかな。似たようなものではないのかな。
社会通念上の上下関係をここに持ち込んだとしても、上司が部下に「セックスしたい」と迫ったとき、恋愛的な信頼関係や合意がなければ、立派なセクハラだよね。訴えられたりするし、ニュースで何度も問題になってるよね。
私は性的接触が得意ではないと伝え、謝りつつも断った。これは普通、誰にでもある権利じゃないの?
セックスに応じるよう契約をしたわけでもないし、その義務もないと思うんだけど。違うのかな。
私は自分の事をデブスだと言ったけれど、それで私の尊厳が安くなっていると言った覚えはないよ。
そして、「性」を軽んじているのでもなく、まして「男の性欲」を蔑んでいるのでもない。
その証拠に、「これだから男は」という言葉は使ってない。出来ればこれら一連のエントリを話題にする人にも、「これだから○○は」という言葉は使わないでほしい。そればかりは私の意に反する。
私は、私個人の意思や尊厳を、「年下の女」や「恩を売った相手」などのレッテルを貼る事で矮小化されたり、無視されたりしたくないだけなんだよ。
だから私はその気配を感じて先手を打つべく録音したし、相手の言動や懺悔に対してとても怒った。一個人である私を前に、自分の都合と立場と性欲を振りかざした事すべてに怒った。
私は今のところ、この音源を流出させるような機会に出会っていないし、これで相手から金銭をゆすったりもしてない。今後もその機会は来ないでほしいし、ゆするような真似は絶対にしないよ。録音は、報復ではなく、警告と抑止のため、加害者個人に聞かせたに過ぎない。
これらを「卑怯」だとか、「恩を仇で返した」って言われたら、もう続けるだけの言葉はないし、そう考える男性が少なからず存在している現実にこそ悲観を覚えるなあ。
これらは全部、私が自分の尊厳を守るために対抗した事と、そこに関わる一連の怒りと愚痴でしかない。
誰かを傷つけるためではなく、
ただそれだけでしかない事、改めて考えてほしい。
大きな主語で話題を散漫にさせたり、乱暴な言葉をたくさん使ったばっかりに色んな対立を煽ってしまったり、議論を紛糾させてしまった事は私の落ち度だと思う。これは本当にごめんね。
私は誠実な男性も知っているし、全てがこんな人たちだとは思っていない。同じように、女性にもそう思う。
でも、こうして主題のエントリを叩いて、火を付けて、全くの想像でしかない見解から批判と中傷を広げる男性がこれだけいる事も、そのまま事実として認識するよ。
同情してくれたり、色々な慰めや励ましの言葉をかけてくれた増田たち、本当にありがとう。
この追記以降、私は一連のエントリに書き込むことはしないでおくね。これらのエントリへ書き込んだ増田たちにトラバした事もないし、これからもする事はないので、そのつもりでいてほしい。
とても長い愚痴に付き合ってくれてありがとう。今度は面白いエントリで会おうね。
最後に。
一般的には就職すべきだろうけどね。博士に進んでどうしよう、なんて悩む人は進学しない、ってよくいうよね。
でも博士ってさあ、ばらつきが大きすぎて一般論なんか適用できないことの方が多いとも思うのよ。
アドバイスできるとしたら、実力も現状もよくわかってる指導教員とか、同じ教室のポスドクとかだけだと思うわ。
24歳くらいのとき、何考えてましたか~?って聞いてみるのがいいかもしれないね。私はポスドクに聞いてたわ。
そういう話題を共有できない指導教員だったらばさ、信頼関係築けてないからそこで進学すべきじゃないと思うよ。割とマジで。
私は人生を懸けて学問を追求したいって思う魂を歓迎するよ。いつか一緒に文科省の悪口言いたいね。
1年目から社会人ドクターは無理だと思うよ。寡聞にして全く聞いたことない。分野によってはありえるのでしょうか??もしや知り合いにいるのかな?
国 際協力をしていると、私はその国のために仕事をしているという人がいる。
それはNGOだったらそれでもいいだろう
しかし、税金を投じて事業を行っている組織を通じての活動をしている我々は
その国の特定の分野の特定の人々を鍛え上げるという事業のテーマに対して、
その個別の目的の達成のために、その国の人々から煙たがられる結果になったら
結局は、外交目的の一つである、日本シンパを増やすという大局をみていないことになる。
重要なのは、相手国との経済的・政治的な関係そして友好関係を維持する、発展させるということであって、
その信頼関係の醸成を抜きに、事業は成り立たないし、無理に推し進めるべきではない。
反論は、すでに
「生きづらさを抱える人たちが、自分らしく生きられるようにするための福祉行政全般を否定していると受け止められかねない」(橋本岳・自民党厚生労働部会長)
という公式コメントに尽きている。
同性愛者が子供を作らないことは誰も否定していないが(とはいえ養子を育てたり、そういう仕事についたり、そもそも社会人として税金を納めていることで、杉田議員の言う意味での社会的再生産にも十分に寄与しているわけだが)、それに対して。「『LGBT』支援の度が過ぎる」と題し、「社会は『常識』を見失うな」と主張することは、LGBTは「常識外」の存在であるという旧来の見方を堅持し引き続きLGBTに日陰者である「生きづらさ」を引き受けさせろという主張にしかならない。端的に言って「差別されてきたお前らは今後も差別されておけ。そしたら私(たち)は幸せ。」という主張である。「のび太のくせに生意気だぞ」のジャイアン理論、と言えばわかりやすいだろうか。そこに「理」はあるだろうか?
フランスで民主革命が起こったとき「封建制という社会秩序が崩壊する」と憤激した人もいた。アメリカで黒人が解放されるとき「奴隷制という社会秩序が崩壊する」と反対する人もいた。いずれもわかりやすいジャイアン理論である。だがそれらの改革で社会『全体』の利はどうであったか。「生まれ」に関係なく権利が保障された民主主義社会、人種にとらわれず社会的に活躍できる社会が実現されたことは、人類全体にとっては確実に「利」があった。ジャイアン的に「オレサマのかんがえるむかしのさいこうのしゃかいちつじょ」を守るのが政治のつとめではない。それは単なるノスタルジー、あるいは既得権益の擁護だ。社会全体に利がないという意味で言えば、それは社会悪ですらある。政治はあくまで現実に立脚し理想を実現する行いでなければならない。
では、なぜあなたの視界に杉田議員への「反論」が入ってこないか。その理由を併せて述べておこう。「理論/反論」というのは、議論する双方が誠実に事実に立脚して行うという信頼関係の上にしか成り立たないのである。感情の上に議論は成り立たない。
「これまでの社会にはこういう問題があるでしょ?」「だから、こういう新しい社会にしたら社会全体に利があるよね」という話をしているのに「私はこういう社会がいいんだもん」「社会全体に利があるとか分かんないもん」などと発言しているも同然な(杉田議員の「論」とやらを要約すれば、こういう事に過ぎない)人に対して直接「反論」を行うことはそもそも意味がない。それどころか逆上した相手が「再反論」という形でますます妄言をまき散らすキッカケにしかならないので、まっとうな人ほど「反論」をしない。私だって、杉田議員にこんな話を説明する役目など引き受けたくない。
私が今回説明したのは、相手があなただからである。あなたは問題の構造を理解しようとしているからだ。その信頼感がなければ、自分の貴重な時間を割いたりしない。
結局のところ、杉田議員の「論」的な何かは、信仰告白に過ぎず「論」ではない。もう少し正確に言えば、ある信仰の下に生きることにした人々の支持を狙ったあざとい政治的立場をとりますよ、という宣言と言ってもよい。ああいう下品な文章を書き散らしてまで議員の椅子にしがみつくことが、彼女が本当に実現したい何かにつながっているのか、それは私にはよく分からないが、私はそういうやり方はきわめて本末転倒だと考える。あの「論」の中身を彼女自身が信じている可能性? それはほぼゼロだ。いかにも叩かれそうなことを考えている政治家はたくさんいるが、そういう場合むしろ隠して耳障りのいいことを言う。スキャンダラスなやり方を平気で選ぶのは、彼女自身が別にそれを信じてない(しかしある種の人々にはヒットすると知っていてそのための手段としてやっている)からだろうと私は推測する。
好きだった人がダメすぎて嫌いになった
明るくて面倒見よくて楽しい人だなと思ってた
私の強いチームに在籍してた別垢で誘うも非協力的な返事
それでもなんとか合併にこぎつけた
強いチームに入りやられる側でなくなったと思うと態度変わって調子づいて他チームを攻撃しまくった
嬉しいんだね、とは思ったが引いた
その時もまた様子見の非協力的な返事
それが合併して過ごしやすいと見ると、元いたチームをさっさと捨てる
さらに 彼に管理を任せていた資源チームを個人の都合だけで移動させていた
同じ資源用チームが既に隣接しているにもかかわらずだ
あるいは断らなくても管理メンバーは自由に使ってくれと全員にメールしていたし
けど彼は、断って使うことも黙って使うこともせず、ただ自分が自由にできる同資源チームを移動させて
チームの人たちとまともに会話できてないし
信頼関係も作れてない、作ろうともしていない
気づくとなんで好きだったのかと思うほどにみすぼらしかった
見窄らしい これに尽きる
口ばかりの内弁慶 そういうことだったのか
研究員に対する「まだそんな研究していたのか」発言は、研究機関では多々見られます。これは、不器用な期待表現の一つと思われます。一般に企業研究の場合、研究テーマは事業部門からの委託によるものが多く、将来の事業創出につながるブレークスルーの研究は誰がやっているんだという指摘があります。現場の研究者からすると事業部門からの要請があるのだから何が悪いという意識もあり、事業部からの委託研究は金科玉条的免罪符となりがちです。研究所の幹部には、会社経営トップから、事業部門からの要請のみを行う研究所は不要という指摘もあり、苦悩は並大抵ではありません。もちろん研究投資は、現状の事業ニーズに基づく明日のテーマと現状ニーズの延長上にない明後日のテーマをポートフォリオ上に位置づけられるべきです。現状の事業ニーズに応える研究者は必要であり、「まだそんな研究していたのか」発言は、人格やテーマの重要性を否定するものではありません。現状事業ニーズに基づいた今今の研究投資は事業部門が行うべきという考えによるものだと思われます。事業部門は、自部門の損益確保のため開発投資を抑制して、研究所の投資を活用したいという想いがあります。その発言は、研究所責任者としては無理からぬ意見と思います。そのテーマを継続したければ事業部門でやってほしい、大きな期待をかける研究者にはもっと大きな飛躍につながるテーマをやってほしいという意味と理解すべきでしょう。
研究と事業ビジョンの関係は、具体的に経営者やCTOが示すべきかもしれませんが、専門性の高い研究テーマの事業ビジョンは、現場の研究者がある程度示さざるを得ません。それができなければCTOではないという指摘もありうるかもしれませんが、CTOとしては、できるだけ将来のビジョンを示して、そこにつながる研究を現場の研究者に考えてほしいという想いがあります。その結果、最高給のブロガーと揶揄される批判を甘んじて享受して発信を続けます。そんな批判に耐えて情報発信する経営幹部は、稀有ではないでしょうか。その内容は、もしかすると共感する読者からみて最高級といっても過言ではないかもしれません。もちろん、読み手によっては、薬にも毒にもならないビッグワードの垂れ流しの評論で、具体的な行動や指示ではないと感じる方もいるでしょう。それは読み手の解釈であり、自身の研究テーマでファンドを得るために彼のブログの内容を活用してやろうと思う研究者にとっては宝の山に見えます。したたかな研究者にとっては、彼のブログは予算獲得のための親切なヒントであり、金科玉条的指針となります。つまるところ、CTOは自身の立場をキャピタリストとして位置づけたのではないでしょうか。そのCTOは、研究予算を獲得して何が何でもこの研究をやりたいという研究者をフィルタリングして、キャピタリストを納得させる研究提案を提示させるというフレームワークを確立したようです。そのフレームワークを機能させるために、研究投資の指針やヒントをブログにを垂れ流し、そのブログを薬や毒にするのも研究者次第というスタンスだと思います。
人事
個人的には、CTOがキャピタリストみたく受動的でいいのかなと感じます。あまりに他人事過ぎて研究に対する熱さがない冷徹なマネージメントとなりがちです。研究所長やCTOたる者には、スティーブジョブズや本田宗一郎のような熱いリーダーシップを期待したくなります。しかしながら、研究の中身がわかってリーダーシップを発揮できる分野は、一個人だと限界があります。したがって、分野ごとに任せる存在が必要になります。そのあたりは、高度な信頼関係に基づく極めて難しいマネージメントになります。その役割は、理事とやらが担うのかもしれません。一般に、現場の研究者のことを考え自ら具体的に行動して指示してきた方が、成功するかどうかは、その仕事を任せるCTO次第です。失敗を部下の責任とすること(成功と認めないこと)もよくある話です。CTOにもの言う方であれば、なおさらありそうな事です。そのあたりは、幹部や当事者でないとわからないので、表面的に論評するのは控えたほうが良いかもしれません。
最後に
個人の努力が報われるかどうか、個人の努力だけではどうしようもないことがあります。ただし、研究者として生きていくためには、研究ファンドの獲得(キャピタリストの信頼獲得)は、不可欠です。プロの研究者として、ご自身をどのように位置づけるか、つまりキャピタリストに自分を適応させるのか自分に投資するキャピタリストを見つけるのか、どちらかにチャレンジしければなりません。おそらく、CTOも現場の研究者に自分を適応させるのか、自分の方針に従う研究者を集めるのか、苦悩の上決断してチャレンジしているのでしょう。そんな苦労もなく好きな研究に没頭できるのは、恵まれた方だと思います。遅かれ早かれ、誰もが経験するチャレンジです。今までの経験を踏まえて、技術立国日本をリードするプロの研究者としてご活躍されることを祈念しております。
技術情報の集約としては非常に優れているし、質問型のサービスに比べて非常に精度が高い記事も多い。
何よりもSEOに優れていて情報の検索として非常に辿りつきやすい点である。
これは記事を書く側にもメリットがあり、自身でサイトを作って記事を公開してWebという海の孤島に記事を置くよりも比較にならないほど、記事がみられる可能性が上がる。
技術者の承認欲求を容易に満たすという点では、現状では最高のサービスとなっている。
ただ、この運営会社の「Increments株式会社」という企業はあまり稼ぎ方がうまいようには見えない。
ただ、どこまで稼いでいるのか「2017年12月25日」に株式会社エイチームによって全株式取得となり経営権はうつされてしまっている。
利用勝手もよく、SEO効果も優れており、ユーザーとしては承認欲求も満たされる。
うまくいけば就職・転職にも有利な材料になるし、書籍などの話しもくるかもしれない。
価格自体は公表はしていないようだが、Qiitaのサイトの純広告などは募集している。
https://zine.qiita.com/products/about-qiita-ad/
高いか安いかの判断はあるが、そこまで法外な値段でも無いし、ターゲットが明確なので適正といえば適正であろう。
しかし、これを聞いた時に感じたのは投稿者としての違和感ではあった。
他の記事サイトのように所属ライターが記事を書いているわけではなく、一般ユーザーの投稿によって成り立っている。
とはいえ、サイトを成り立たせるのにエンジニアもインフラも必要なのも当然なので広告が悪いと言っている分けでは無い。
違和感の原因としては投稿者との信頼関係で成り立っているサイトとして残念に思う原因をあげてみる。
これは、Qiitaというサイトを知って、投稿していて、ある種サイトに愛着を抱いているユーザーが勝手に運営側に対して思っていることと、広告メニューで微妙な違和感である。
別に広告料をとっていると言ってQiitaに投稿することのデメリットには全くならない。
ネット見てると、誰にとって「〇〇したほうがいい」というのがはっきりしないまま「〇〇したほうがいい」って言ってる人が多くて「そのアドバイス風のクレームやめてくれます?」って気持ちになる時がある。
あなたの感想?それとも意見表明して言ってる?そこがわかんない書き込み多すぎ。
愚痴ってるだけなのに主語が大きい人と、問題を矮小化して話す人をネットに多く見かけるから
「日本語教育は失敗だなぁ」って感じてる私。
一文の中で自分が批判してる行為を自分でやるのってすごいな。それとも自己紹介だったのか?脳みそ解剖したい。
的確に言おうと言葉を尽くすとオタクっぽいだ理屈っぽいだ言われるけど…
ネットって抑揚や表情ない分言葉尽くさないとほんと伝わらんぞ?って言いたい
時間がない時、スマホで大量の文字が打てない時ははシンプルに話す・書く努力と話題選びをするけど、
そうでもないのに的確に話そうとしてる感じがない・話題選びミスってるツイッター見てると
「この人頭悪いのかな?」って割と真面目に思うの俺だけ?
いや、本音で言ったほうがいいのか。
「頭悪くても、個人の感想でも、視野の狭い意見でも何でもいいから、よく吟味されてもないものをブログやツイッターに公開している人は、どうしたいの?」
って言えばいいのかな?
自己満なら叩かれてキレないで欲しいし、ウケ狙いなら洗練しろって言いたい
オンラインに書かなくてもいいことなんていくらでもあるのに、わざわざみんなが見られる場所にバカっぽい書いちゃう人が僕にはわかんない。
一応、ためになるか、意図が説明できる書き込みしかしないように努力してるんだけど…そういうことしてる俺が少数派なの?
マナーのつもりでやってたけどなぁ
できてないんだなよなぁ。脳みそ解剖したい。
キレないで欲しいっつうか、キレる資格ないというか、
キレてもいいけど、他人にも見えるところにキレるようなもん置いといたお前が悪いと言うか…そういうのがインターネットじゃない?って気持ちはすごくある。