反論は、すでに
「生きづらさを抱える人たちが、自分らしく生きられるようにするための福祉行政全般を否定していると受け止められかねない」(橋本岳・自民党厚生労働部会長)
という公式コメントに尽きている。
同性愛者が子供を作らないことは誰も否定していないが(とはいえ養子を育てたり、そういう仕事についたり、そもそも社会人として税金を納めていることで、杉田議員の言う意味での社会的再生産にも十分に寄与しているわけだが)、それに対して。「『LGBT』支援の度が過ぎる」と題し、「社会は『常識』を見失うな」と主張することは、LGBTは「常識外」の存在であるという旧来の見方を堅持し引き続きLGBTに日陰者である「生きづらさ」を引き受けさせろという主張にしかならない。端的に言って「差別されてきたお前らは今後も差別されておけ。そしたら私(たち)は幸せ。」という主張である。「のび太のくせに生意気だぞ」のジャイアン理論、と言えばわかりやすいだろうか。そこに「理」はあるだろうか?
フランスで民主革命が起こったとき「封建制という社会秩序が崩壊する」と憤激した人もいた。アメリカで黒人が解放されるとき「奴隷制という社会秩序が崩壊する」と反対する人もいた。いずれもわかりやすいジャイアン理論である。だがそれらの改革で社会『全体』の利はどうであったか。「生まれ」に関係なく権利が保障された民主主義社会、人種にとらわれず社会的に活躍できる社会が実現されたことは、人類全体にとっては確実に「利」があった。ジャイアン的に「オレサマのかんがえるむかしのさいこうのしゃかいちつじょ」を守るのが政治のつとめではない。それは単なるノスタルジー、あるいは既得権益の擁護だ。社会全体に利がないという意味で言えば、それは社会悪ですらある。政治はあくまで現実に立脚し理想を実現する行いでなければならない。
では、なぜあなたの視界に杉田議員への「反論」が入ってこないか。その理由を併せて述べておこう。「理論/反論」というのは、議論する双方が誠実に事実に立脚して行うという信頼関係の上にしか成り立たないのである。感情の上に議論は成り立たない。
「これまでの社会にはこういう問題があるでしょ?」「だから、こういう新しい社会にしたら社会全体に利があるよね」という話をしているのに「私はこういう社会がいいんだもん」「社会全体に利があるとか分かんないもん」などと発言しているも同然な(杉田議員の「論」とやらを要約すれば、こういう事に過ぎない)人に対して直接「反論」を行うことはそもそも意味がない。それどころか逆上した相手が「再反論」という形でますます妄言をまき散らすキッカケにしかならないので、まっとうな人ほど「反論」をしない。私だって、杉田議員にこんな話を説明する役目など引き受けたくない。
私が今回説明したのは、相手があなただからである。あなたは問題の構造を理解しようとしているからだ。その信頼感がなければ、自分の貴重な時間を割いたりしない。
結局のところ、杉田議員の「論」的な何かは、信仰告白に過ぎず「論」ではない。もう少し正確に言えば、ある信仰の下に生きることにした人々の支持を狙ったあざとい政治的立場をとりますよ、という宣言と言ってもよい。ああいう下品な文章を書き散らしてまで議員の椅子にしがみつくことが、彼女が本当に実現したい何かにつながっているのか、それは私にはよく分からないが、私はそういうやり方はきわめて本末転倒だと考える。あの「論」の中身を彼女自身が信じている可能性? それはほぼゼロだ。いかにも叩かれそうなことを考えている政治家はたくさんいるが、そういう場合むしろ隠して耳障りのいいことを言う。スキャンダラスなやり方を平気で選ぶのは、彼女自身が別にそれを信じてない(しかしある種の人々にはヒットすると知っていてそのための手段としてやっている)からだろうと私は推測する。
でも弱者の側が社会に損させてでも自分の利益だけを求める(例えばフェミニズムの一部に顕著な)姿勢を非難する気はあなたにはないし、むしろ公益を求める側の方をぶん殴るわけじ...
そう読んだとしたら、申し訳ないが誤読としか言いようがない。三段落で私は、いま弱者とされている人の生きづらさを解消することが社会全体にとって「利」なのだ、という話をして...