はてなキーワード: のび太のくせにとは
以前にどこかで読んだが、例えば英語で "Stop!" と言うセリフ。
男が言うと翻訳は「やめろ!」と命令形になるが、女が言うと翻訳は「やめて!」と懇願口調になりやすいという話。あと「やめなさい」という丁寧語にもなりがち。女の方が丁寧に言うことが多い、という通念があるからだろうか。女が命令形で喋ると「乱暴だ」「無礼だ」と言われがちなので丁寧語で話すのが身についてるということもある。のび太のくせに生意気だ現象。
ここまでは前置きで、自分でもどう考えていいのかわからないことがある。NHKFM、土曜夜9時「ワールドロックナウ」の渋谷陽一氏の歌詞朗読コーナーについてである。
元ロッキンオン編集長の渋谷氏の番組で世界(というてもほぼ英米)のロック中心に紹介する番組である。冒頭15分くらいは新譜出たばかりのミュージシャンを紹介するのだが、渋谷氏が歌詞を朗読して紹介することが多い。
で、この歌詞翻訳がもうバキバキの役割語なのである。女性ボーカル曲なら「私〜」「〜なの」「〜なんだわ」という調子。
いくらなんでも過剰過ぎないか〜?といつも思ってしまうわけだが、これは男性で老齢の渋谷氏が読み上げるからそう思うのだろうか?と考えてわからなくなる。
しかし今から思えば、ロック雑誌の翻訳は役割語が過剰だった気がするのだが、当時(90年代)はどこもそんなもんだったのだろうか?今でもそうなのだろうか?
…と思って今ネットをチラ見してきた。ロッキンオンはインタビュー翻訳記事が見つからん(検索10秒。諦めが良い)。ローリング・ストーン誌のウェットレッグインタビューでは役割語は抑え気味だが、彼女たちの個性のせいかもしれない。VOGUE誌のビリー・アイリッシュインタビュー記事では、アイリッシュ以外にも色んな人が彼女について語っていて役割語はかなりはっきりしている。アイリッシュの父親が「彼女のファンが言いそうなこと」を語る場面ではしっかり女言葉になっていて、女性ファンの話なのだな、とわかる。(しかし原文読むとファンの性別は書いてないのだ。別に男が女言葉使ってもいいのだが。女の役割語使うのは女だと解釈するのが普通だろう。あるいは関西弁なのかもしれない。絶対にちゃうやろけど。)
各雑誌で翻訳の役割語具合調べるのも面白そうやなと思ったけど面倒くさいので誰かに託すわ。オホホホ(関西弁のお嬢様)。チャウチャウちゃうんちゃう。
だから、周囲が自分に期待してる言動が理解できなくて的外れな言動をしてしまったりする。
結果周囲に怒りや嫌悪感を抱かせて攻撃の対象となる、と言う訳だ。
例えば、人間が何人か集まっている場があると、
私はヒエラルキーの順番を一目で見抜くことができないし、
もしも、露骨なヒエラルキーがあって見抜く(空気を読む)ことができても、能力が低くてヒエラルキーの最下層に置かれるため、
のび太のくせに生意気罪的なので、結局ひどい目に遭わされるのである。
障害者なので障害者らしく作業所で時給200円で働くしかないのだが、
そこにも人間関係は生じるので、とてつもなく困っている。
空気を読もうとして必死にへこへこしてるんだが、なんか的外れで「わきまえてない」かららしいのだ。
そこで、他の障害者が「お前の障害年金を寄越せ」とか言ってきたりする。
なんとかかんとか断るのだが、職員に「あなたは周囲と仲良くできないダメな人間だ」とか訳の分からんお叱りを受ける。
のびた「しずかちゃんとジャイアンと3人・・・何をする気だ?」
スネ夫「な、なんだのび太のくせに生意気だぞ!パジャマパーティするだけだ!」
のびた「それはどうかな?くらえ!」
スネ夫「スマートフォンという今では欠かせない情報端末の先駆けとなったapple社iphoneの最新作!!!!その発売からもうすぐ一年が経過しようとしているにもかかわらずその人気は未だ他社夏モデルを圧倒している!!!」
スネ夫「撮った写真、入れた予定、アプリ、すべてをインターネット上で統合することが可能、すなわちクラウド化のスタンダードを築き、今もなお最先端を行っている!!!!」
スネ夫「このスマートフォンが素晴らしいのは機能だけではない。その本体のデザインだ。計算されつくされたベゼルの比率、ホームボタンのみのシンプルな設計、そして網膜のように繊細な液晶・・・全てが共鳴し
スネ夫「しかし、このスマートフォンはもうすぐトップの座を引きずりおろされるだろう。なぜだかわかるか?」
のび太「だ」
スネ夫「そう、Iphone6の発売だ。iOS8により、あなたの思いでをいつでもどこでも楽しむことを可能にしたicloudフォトライブラリ、
あなたの本当の今を届けよう。ボイスメッセージも送れるようになったimessage。
僕たちの生活に寄り添ってくれる。そんなiPhoneを僕は愛している。
君もそうだろう?」
でしょ
作品そのものより「そういうのを愛好してる層」というのを先に透視しちゃって、バカにして嫌悪して、彼らが感情移入しているであろう主人公に対してもヘイトが振り切れてしまっている
だからそいつが華々しく活躍することも、ヒロインと結ばれることもやることなすこと全てムカつくし、そもそも世界もその手の作品の存在も、もう何もかもが気に食わないわけ
描写がアレだのヒロインがちょろいだのチートスキルだのは、さすがに全部乗せでウエッとくるレベルではないにせよ他のジャンルにも当てはまり得るわけで、結局のところ言い訳でしかない
まあ俺個人はラノベ読みではないし、なろう系のサイトにも寄り付かないし、ネット民がケータイ小説をバカにしていたこともあったりしたので、正直彼らに対してそこまで同情する気は起きない
反論は、すでに
「生きづらさを抱える人たちが、自分らしく生きられるようにするための福祉行政全般を否定していると受け止められかねない」(橋本岳・自民党厚生労働部会長)
という公式コメントに尽きている。
同性愛者が子供を作らないことは誰も否定していないが(とはいえ養子を育てたり、そういう仕事についたり、そもそも社会人として税金を納めていることで、杉田議員の言う意味での社会的再生産にも十分に寄与しているわけだが)、それに対して。「『LGBT』支援の度が過ぎる」と題し、「社会は『常識』を見失うな」と主張することは、LGBTは「常識外」の存在であるという旧来の見方を堅持し引き続きLGBTに日陰者である「生きづらさ」を引き受けさせろという主張にしかならない。端的に言って「差別されてきたお前らは今後も差別されておけ。そしたら私(たち)は幸せ。」という主張である。「のび太のくせに生意気だぞ」のジャイアン理論、と言えばわかりやすいだろうか。そこに「理」はあるだろうか?
フランスで民主革命が起こったとき「封建制という社会秩序が崩壊する」と憤激した人もいた。アメリカで黒人が解放されるとき「奴隷制という社会秩序が崩壊する」と反対する人もいた。いずれもわかりやすいジャイアン理論である。だがそれらの改革で社会『全体』の利はどうであったか。「生まれ」に関係なく権利が保障された民主主義社会、人種にとらわれず社会的に活躍できる社会が実現されたことは、人類全体にとっては確実に「利」があった。ジャイアン的に「オレサマのかんがえるむかしのさいこうのしゃかいちつじょ」を守るのが政治のつとめではない。それは単なるノスタルジー、あるいは既得権益の擁護だ。社会全体に利がないという意味で言えば、それは社会悪ですらある。政治はあくまで現実に立脚し理想を実現する行いでなければならない。
では、なぜあなたの視界に杉田議員への「反論」が入ってこないか。その理由を併せて述べておこう。「理論/反論」というのは、議論する双方が誠実に事実に立脚して行うという信頼関係の上にしか成り立たないのである。感情の上に議論は成り立たない。
「これまでの社会にはこういう問題があるでしょ?」「だから、こういう新しい社会にしたら社会全体に利があるよね」という話をしているのに「私はこういう社会がいいんだもん」「社会全体に利があるとか分かんないもん」などと発言しているも同然な(杉田議員の「論」とやらを要約すれば、こういう事に過ぎない)人に対して直接「反論」を行うことはそもそも意味がない。それどころか逆上した相手が「再反論」という形でますます妄言をまき散らすキッカケにしかならないので、まっとうな人ほど「反論」をしない。私だって、杉田議員にこんな話を説明する役目など引き受けたくない。
私が今回説明したのは、相手があなただからである。あなたは問題の構造を理解しようとしているからだ。その信頼感がなければ、自分の貴重な時間を割いたりしない。
結局のところ、杉田議員の「論」的な何かは、信仰告白に過ぎず「論」ではない。もう少し正確に言えば、ある信仰の下に生きることにした人々の支持を狙ったあざとい政治的立場をとりますよ、という宣言と言ってもよい。ああいう下品な文章を書き散らしてまで議員の椅子にしがみつくことが、彼女が本当に実現したい何かにつながっているのか、それは私にはよく分からないが、私はそういうやり方はきわめて本末転倒だと考える。あの「論」の中身を彼女自身が信じている可能性? それはほぼゼロだ。いかにも叩かれそうなことを考えている政治家はたくさんいるが、そういう場合むしろ隠して耳障りのいいことを言う。スキャンダラスなやり方を平気で選ぶのは、彼女自身が別にそれを信じてない(しかしある種の人々にはヒットすると知っていてそのための手段としてやっている)からだろうと私は推測する。
「時と場合による」から経験で覚えてくださいでは、本人が間違った方法でうまくいっていない場合、独力で気付くしかなくなるけど、そういうフィードバックが働かない人は結構いる(だからコミュ障なんだけど)。ましてや「時と場合」を整理するなんて到底無理で、結果いつまで経っても「のび太のくせに生意気だ」みたくなじられる人は放置され、周囲も不快な思いをする。
これでは、誰も何も得しない。
「社会の中の少数者を救済するためにどれくらいの資源を投下すべきか?」ってだけの問題に思える。
増田のいう「フィードバックが働かない人」に対する処理として、その割合と矯正コストを考えたら、「放置するのベター」という結論になっただけでは?
もちろん彼らが自助努力でそこから抜け出すのは歓迎だ。少々の支援だけでフィードバック学習してくれるなら支援する意味はある。「周囲の不快な思い」も減少するだろうし。
道徳の授業やHRで習うこと以上のものはないというなら、それは不十分だと思う。
謝罪一つ取っても、絶対に謝らなければいけないタイミングが分からない人がいる。
十人十色と言うが、それは結局、自分と著しく異なる人間と対峙するとき、「どうしてこの人はこんなことを言うのだろう」「どう言えば伝わるだろう」を想像する、想像できないなら想像できるまで会話で工夫するということを求められるわけだが、これは言うほど簡単じゃない。
「時と場合による」から経験で覚えてくださいでは、本人が間違った方法でうまくいっていない場合、独力で気付くしかなくなるけど、そういうフィードバックが働かない人は結構いる(だからコミュ障なんだけど)。ましてや「時と場合」を整理するなんて到底無理で、結果いつまで経っても「のび太のくせに生意気だ」みたくなじられる人は放置され、周囲も不快な思いをする。
これでは、誰も何も得しない。
元増田です。
親をはじめ、周囲の人間は神様でも聖人君子でもないし、人間関係は綺麗事だけでは済まない。
基本的に不快感を感じれば「この野郎、のび太のくせに生意気だ」というのが自然な反応というか、それが人間じゃん。
実際専門家を除いて、そんな不自然なくらい紳士的な神対応に囲まれて問題を起こさず、のびのび育っている()アスペの子供なんているのかよって感じ。
それにリンク先の接し方じゃ、相手に対する想像力という、社会性の根幹に関わる部分の教育は放置同然という点だけ見ても、大人になって社会に出たらとんでもなく苦労しそう。
そこら辺どうなってんの?という疑問もあったり。