はてなキーワード: 楽しいとは
owの楽しいところは、試合中にキャラを変えれる5v5なのでアンチピックという概念が発生するところ、エイムが求められるところとアビリティのうまさが求められるところの割合が6:4くらいのところである。戦略性とかクレバーさも求められる反面、わちゃわちゃも楽しめる。Apexはこの後者の方が強いゲームで、Valoは前者の方が強く、且つエイムがかなり求められる。
owの楽しくないところは、実力差があるチーム同士が戦うとタコ負けするところである。競技シーンを見るとガッツリ空気が冷えてるチームの配信とかあってうげえ、、となる。他のゲームは実力差があるチームでも一矢報いることくらいは出来るがowは絶対無理だ。戦略性が高過ぎてそうなってるのかよく分からないけど、とにかくそのタコ負けっぷり、そしてそのタコ負け中のおもんなさは他のゲームとは一味も二味も違う。
それで、6v6は個人的に反対である。タンクが増えるということは、それだけタコ負けの試合が増えることが予想されるからだ。タンクの溶かせなさから来る脳汁が何とかかんとかとか動画で見たけど、それはつまり実力が拮抗しているチーム同士でやればってところであるんじゃないかと思う。
仕事中に職場の課長部長情シスと一緒に会議室に呼ばれて「この『クンニせい』ってのは君の書き込みかね」みたいなシチュエーションに脂汗ダラダラ流してるのを想像するだけで楽しいので開示請求をしてみるというのはアリだ
ある人気漫画家が「障がい者ネタツイート」をした後、妹が自◯しました。
そのツイートはコロナ禍より前に投稿され、自◯はその数年後の出来事です。
4つ歳の離れた妹は「境界知能」でした。
いわゆるグレーゾーン。
本当にざっくりではあるのですが、『初恋、ざらり』や『君と宇宙を歩くために』の子たちをイメージして頂けると分かりやすいかと思います。
妹は成績面で不安はあれど生活面ではさほど問題がなく、進学も本人の努力と周りのサポートで上手く行き、周りも妹自身もあまり困難を感じていなかったため療育手帳を取得したのは高校卒業後でした。
進路や就職などで彼女自身が困難を感じ始め、医師や支援センター等に相談し、今後の人生を考えての判断でした。
取得の際、過去の発達傾向の証明が大変だったり、精神障害者保健福祉手帳の方が良いのでは?と悩んだりなど色々ありましたが、ここでは割愛いたします。
妹は最初、いわゆる「手帳持ち」になることに対して悩んでいました。
バイト先で複雑なことが出来なかったり、会話中に何を話しているか分からなかったりなど本人も自覚している部分はあったため、「今後のために必要なもの」と自分でも希望しつつも、心がついていかない状態でした。
友達にも変に気を使われたり、また「手帳持ちだ」というだけで心無い言葉を投げてくる者もこの世にはいます。
妹の辛さ生きづらさを理解して、私は彼女にしっかり寄り添って行こうと誓いました。
とは言っても何か特別なことをするわけでもなく、妹が心無いことを言われた際には「うわ最悪だったね」と一緒に愚痴を言い合ったり、気分転換に一緒にテーマパークへ行ったり、お店で見つけた美味しいものを一緒に食べたり、そんなふうにとにかく「普通の姉妹の日常」を大事に過ごしていました。
「寄り添う」というのはそれで十分なことだと思っていたのです。
「犯人の気持ちも分かる」「障がい者には生産性がない」「手帳持ちは寄生虫」などなど、世間に心無い言葉が溢れました。
もちろんほとんどの人が事件をあってはならない悲劇として捉え、そして心無い言葉を咎めてくれたかと思います。
妹は塞ぎ込みました。急に世間がみんな敵のように思えたとのことです。
また、「自分と◯された人たちは全然違うから大丈夫」と差別的に考えてしてしまう自分自身にも嫌気が差したようです。
真っ直ぐで優しい子です。本当に。
ところで言い忘れてましたが、妹は私や親の影響で結構オタクでした。
妹は事件からしばらく経った後、当時スタートした女性向けのとあるコンテンツにハマり「推し」を作ることで回復しました。
具体的なコンテンツ名は明記しませんが、女性向けですので見た目と声が良くて個性的な男たちがたくさん登場するやつです。
私も妹と一緒にハマって、CDを購入したりイベントに参加したりと楽しくオタ活をしていました。
世間の心無い声も、夢中になれるものがあれば聞こえてこないぞ!とでも言うかのように、妹はみるみる元気になりました。
そしてファンの方々の二次創作品も拝見させて頂いておりました。皆様その節は、素敵な作品をありがとうございました。
二次創作といえば性的なものもあるかと思いますが、障がいがあるからといって妹をそこから遠ざけることはしませんでした。
むしろ姉妹でオープンにすることで、何か間違いなんかが起こりそうな時に助けになれると思っていましたので。
よくいるオタクで腐女子な(便宜上そう書きますが、この言い方も最近は良くないんですよね。ごめんなさい。)姉妹だと思ってください。
そんな感じで、妹は幅広くAくんの魅力的なファンアートを描かれている方々をフォローしており、その中に「ある漫画家」さんもおりました。
ところがある日、その「ある漫画家」さんが、
「交通機関内でテンション上がって騒いだCくんが障がい者割引にされちゃった話」
といった感じのネタツイートを、フォロワー多数のツイッター上に放ったのです。
Cくんは、元気で明るいウェイ系のキャラクター。(心の内にはトラウマを抱えている等の裏もありますが、ここでは割愛します)
「その明るさゆえの異様なテンションが知的障がい者と間違えられちゃった。面白いねw」という意図の投稿のようでした。
バリアフリーの一環である割引制度を揶揄するだけでなく、障がい者への偏見を助長する投稿だと私は感じました。
もちろん、こういったブラックジョークを言ってしまうことというのは誰でもあり得るとは思いますし、この発言だけで差別主義者だとかは思いません。
実際、その漫画家さんご本人も所属されてる出版社もファンの方々も、その発言をあまり重くは捉えていなかったと思いますし、悲しいけれどそういうものなのだと思います。
しかしこれは、妹がやまゆり園の事件で受けた心の傷がまだ癒えていない時。
妹の心の拠り所となっているコンテンツのファンコミュニティで。
タイミングも状況も何もかもが最悪だったのです。
妹は限界でした。
バイト先での失敗を「◯ちゃんの真似~」と笑われながら真似されたこと。
要領を得ない会話をしてしまったときに、「お前ガ◯ジだなw」と言われたこと。
「自分と◯された人たちは違う」と考えようとしてしまったこと。
そういった辛い記憶が一気に押し寄せました。
楽しく好きな世界で過ごしていても、そんな気持ちに陥ってしまう。
妹は自分の存在に耐えられなくなり、「消えたい」と言いました。
そこから私たちは大好きだったコンテンツから離れ、心の防波堤を築くことに注力しました。
一緒にゲームを楽しみました。お家で映画も見ました。これまで通り姉妹で過ごす日常を大事にしました。
映画館やテーマパークは「障がい者割引」のことを思い出すから(また、コロナ禍もありましたし)断られてしまいましたが、そうでないものは妹も進んで楽しもうとしていました。
この世には楽しいことはたくさんあるし、無神経な言葉なんて無視すればいい。
しかしその数年後、その「ある漫画家」さんの作品がアニメ化されたのです。
それまでの間も全く視界に入れないことは難しくはあったのですが、映像化による世間への影響力は大きく、また、文字や絵ではなく映像で視界に入った際の精神への影響は大きいものでした。
「またあんなことを言われたらどうしよう」「心の内ではみんなに馬鹿にされていたらどうしよう」
「私みたいなのがAくんやコンテンツを好きになったのが良くなかった。」
「昔のことをずっと引き摺っていてごめんなさい。お姉にもオタ活辞めさせてごめんなさい。」
以前のように塞ぎ込みながら、そんなことを言っていました。
コップに熱湯が一気に注がれたような状況でした。
湯が溢れ出るだけでなく、熱でガラスが割れてしまいそうな緊張感。
申し込んでいたカウンセリングの予約日がもうすぐだという時に、妹は自○を図りました。
当時は医師や看護師の方々へも「救えなかった」という憎しみが向いてしまっていましたが、今思い返すと、まだコロナ禍の真っ最中に皆さん頑張ってくださっていたと思います。ありがとうございます。
とにかく、このようにして、妹は帰らぬ人となりました。
フラッシュバックより前はまだ、姉妹と友人でゲームだってやってたんですよ。
当時はまだスプラ2。あの子はマニューバー系をよく使っていて、そして上手でした。
『嫌な出来事を払拭し、自分の人生を明るいものにするために。』
つまり私がすべきだったのは、やまゆり園の事件の時、心無い言葉に向けて怒ることだったのかもしれません。
そしてあのツイートが投稿された時、「ある漫画家」さんに怒りの声を上げることだったのかもしれません。
五月蝿いお気持ち女と揶揄されても、厄介クレーマーだと嗤われても、その言葉で傷つく人がおり、一生引き摺ってしまうものだと声を上げ、妹と、妹のような子が、「え~そんなに怒らなくても~そんな気にしてないし」って逆に引いてしまうくらい、私が怒るべきだったのかもしれません。
いえ多分そうすべきだったんです。妹の嫌いなものが「世界」ではなく、「私」だったら彼女はまだ生きていたかもしれませんので。
温厚でいることで妹を笑顔に出来ると思っていました。
今は、ただただ、後悔があります。
どうか妹が天国か生まれ変わりか、笑顔で幸せでありますようにと無責任に願いながら、こうして今更何にもならない文章を残すことしか私には出来ません。
※こちらの投稿は「ある漫画家」さんに責任や謝罪を求めるものではありません。原因や責任は第三者にあるのではなく、きちんと対応出来なかった自分達にあると自覚しております。
すみませんついうっかり少し目にしてしまったのですが、現在その「ある漫画家」さんは作中でマイノリティの悩みを描いたりと、人権派なことをされているそうです。さすがに驚いてしまったので追記します。ブラックジョークを言う芸風を貫いていらっしゃるならまだ腑に落ちるのですが…もちろん誰が何をするのも自由ですし、極端な例ですが「元いじめっ子だったけど今は慈善活動をする良い人になっている」というケースも現実にはありますよね。でもどうしても、多様性とかポリティカルコレクトネスとかを謳う漫画家に不信感が湧いてしまいました。
だって、冒頭でタイトルを出させて頂いた『初恋、ざらり』や『君と宇宙を歩くために』のように、妹のような障がい当事者の目線を拾い上げようとしてくれる漫画家さんも、『スキップとローファー』のように、災害被害への支援など慈善活動をされている漫画家さんも、『作りたい女と食べたい女』のように、プライドフラッグを掲げてレズビアンやトランスジェンダーの権利を訴える漫画家さんも、『とんがり帽子のアトリエ』のように、世界で起こる虐殺や差別にNOを言う漫画家さんも、影では「交通機関内でテンション上がって騒いだ人が障がい者割引にされちゃった話」とか平気で言ってる可能性もあるってことですよね。
元増田です。
反AIの方は芸術方面に関しては何でも人力こそが至上である、みたいな方が多い印象ですね。
それ突き詰めちゃうと紙にインク使って描いてなければ認めない、みたいな感じになっちゃうと思うんですけどねぇ…
AIはPCやフォトショみたいなツールでしかないと言うのが個人的な感想です。
そして私は「能力は高いのに言う事を聞いてくれないAI君をプロンプトやポーズで縛ってイメージに近い画像を生成させるゲーム」だと思いながら触っています。
ほぼ同じ状況だけど、家で小説や漫画を読んだり映画を観たりしているとあっというまに時間が過ぎる。本当はアニメ見たりゲームしたり普段作らない手間のかかる料理をしたり、したいことはたくさんあって、むしろ時間が足りてない。
データが膨大になって、企業しか開発できなくなってるのが難点かな。利用者はAPI利用料払うか、数百万円かけて自宅に環境整えるかしないといけないからハードルが高い。
今はゲームでいうMOD的な、マイクラでいう軽量化MODみたいなものを個人開発者が作ってくれてて、少ないVRAMでも最低限動かせるようになってたりはする。
他にも有用なMOD、いわゆるLoRAやLLMは24GBくらいあれば作れるっぽくて、それなりに進展してる。案外その情報を追うのは楽しいぞ。イラストの指問題、背景問題は修正用LoRAとかあるからほとんど解決してるしな。
後、NVIDIAがいつまでも高い値段でゴミスペックのグラボ出してるのもダメ(VRAM24GB以上のやつ)。界隈では、そのうち、今よりも安い値段でVRAM64GBとか128GBが使える時代来るから、今はVRAM12GBで動かすのがコスパ良いとされてる。
NPUも期待されてて、NPU次第でNVIDIAの祭りは終わるけどAIの祭りは再開すると言われてる。ちなみに、MACとかならRAMの方で動かせるらしく、64GBくらい使って、最新のLLM動かしてる人もいる(出力速度は人には耐えられないレベルで遅くてゴミ)。
有能であればある程度のハラスメントや規律違反は免じろという意見も多いがね
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240729/k10014527941000.html
○こんなにいい試合したのは初めてってぐらい、いい試合ができた
○みんなの気持ちがどんどん高まっていった
○みんなで声を出して楽しく演技できたのがいい結果につながった
これは体操についてだけど、
とかもね
やっぱり才能というやつは、オリンピックのスケボー選手みたいに「楽しいからやってたらめちゃくちゃうまくなってた」とか「やってみたら最初からできた」みたいなものなんだよなぁ
まったくフェアじゃないし、再現性も低いし、オカルトじみてもいるけど、スポーツや文化の分野で一流の人たちって割とよく「はじめからできた」と言う人たちがいるもんな
楽しみにしてたヤーレンズのラジオタイムフリーで聞いてるけどいつもは楽しいはずなのに今日はイライラする なんでだよ
明るい気分になりたいが明るいものが耐えがたいときなにしたら復活するんだ
運動かやはり
この1週間暑すぎて走りに行けていないせいか
ほんまに夏嫌いすぎる
マリーアントワネットの首が歌うシーンが興味深かったから、意図をしりたくて、いろいろ読んだ。
具体的に言及はされていなかったから、はっきりとはわからなかったが、インタビューはどれも面白かった。
id:hazlittさんが教えてくれた、ラジオ番組からいろいろ読み始めた。
増田はフランス語は多少わかるが、わからないところは、DeepL先生に頼っているため、正確性は保証できない。
ホスト:昨日私たちは、コンシェルジュリーにおいて、革命の中、斬首されたマリーアントワネットがゴジラ(というパンクバンド)とマリナ・ヴィオッティと歌うというシーンを見ました。このシークエンスは、いったいどのような意図で書かれたのですか、ダミアン。
ダミアン・ガブリアック(監督):まず私は一人で書いたのではありません。すべてみんな(4人の中心人物)で書きました。そして理由は極めてシンプルです。私たちは、選手が進むルートに沿ってシークエンスを進めていくことにしていました。そして、ここではコンシェルジュリーです。マリー・アントワネットが斬首の前に幽閉されていた場所です。我々は自分たちに、これについては言及せざるを得ない、と言い聞かせました。ここで起きた歴史的なイベントは世界中が知っています。私たちはそこにエネルギッシュであることを求めました。だからゴジラです。そして、斬首されたマリーアントワネット、その両方。私たちは顔を突き合わせ、私たちが価値を見出していた(後述する)ロンドンのエリザベス女王とジェームスボンドを改めて思い起こしました。これだ、これだ、と。
パトリック・ブシュロン:そうですね、まず私たちがやった、みたものは、完全に、楽しく、集合的であったと考えています。そしてそれは全く同じく、議論するつもりがないことです、正確に。議論するつもりはないのです。私たちが見たものはまさに、さきほど述べられた通り、似ているのです。この多様性の物語、これが私たちのあり方だと、私たちが、大胆に主張している、複雑さと。それらは、あの歴史的なモニュメント(コンシェルジェリー)と、その美しさ、威圧的であることを望まない美しさ、私たちを勇気づける過去と一緒に示されました。私たちは誇りを回復しました、国家はアイデンティティではなく、あくまで政治的プロジェクトなのだ、という誇りを回復しました。私はそれらを若者に見せることができてとてもうれしいです。私の娘もコースでそれを見ました。あの悲痛なものを見たのです。それこそが全てです。シンプルです。私たちは、わずか数分の間にバスティーユを奪還したのです。
(中略)
ホスト:ダミアン、実際にこのセレモニーは、世代間的でもありましたね、だれにとっても自分事であるような感覚、ミュージカルレベルでもそうですし、サウンドトラックはすばらしかった。ダリダもあったし、クラシックもあった。とてもエモーショナルでした。とても美しかった。そして、話を変えるが、橋の上でのクィアたちとの最後の晩餐。かれらと一緒に生きているというシーンでしたね?ダミアン。
ダミアン:その通り。クィアはいた。でも付け加えるなら、フランスのすべてがあった。背が高い、低い、太っている、痩せている、黒人、白人、アラブ人、みんな違う衣装で、同じプレイリストを踊ったんだ。グアドループ(カリブ海)の音楽、オーヴェルニュの音楽、ヨーロッパの音楽を、同じ時にね。
トーマス・ジョリー監督に選ばれたパトリック・ブシュロンは、このセレモニーに寄せられる期待や懸念さえも承知の上で、「私たちに似た」物語を望むと改めて表明した。 「私たちはバカバカしいことや傲慢にならないように努めます。それをやったら、とんでもなく長い道のりになってしまうよ」と冗談を言う。
(中略)
「最初のシーンには、『エミリーパリへ行く』シリーズを観たアメリカ人などが期待する、パリで見られるものをすべて詰め込みました。きっと反応は「ありきたりなだな」だろうけど、それは違う。少し忍耐が必要です。所要時間は 3 時間 45 分です。紆余曲折があるでしょう。次に、これらのイメージは正反対の方向に進み、スノードームが転がるように、私たちはエッフェル塔(私たちが期待しているもの)を目にするでしょう 。私たちはすべてを揺るがすでしょう。違うものが出てきますよ。 」
(中略)
共同執筆者たちは、過去の開会セレモニーを研究しました。そして、アテネの謙虚さと、ロンドンの自虐性を継承することとし、北京の誇張されたナショナリズムを拒否することにしたのです。
「ディベートの仕方を知っている国に生きることはとても大きなアドバンテージです。おそらく、(この国に暮らす)外国人たちが我々にもたらしている、楽しい面のカオス、それには多くの憤りと尊敬が同居していますが、私たちはそれを見せなければならないのです。」
開会セレモニーの原点は、セーヌ川の流れとともに進む、という点である。
「私たちが見せる、このゆっくりとした流れるイメージ、この空想上のパレードは、パリが示すべき力の中にあります。このステージは軍隊のデモンストレーションパレードではないのです。フランスはもはやー私は全く望んでいませんがー世界に対して、我々の歴史について講釈を垂れるような立場ではないのです。私たちは、持っているもの、信じているものでやるしかないのです。我々が込めたメッセージはシンプルです。言葉で、あるいは映像で、伝わればうれしいですが、そうです、それは、”すべてがある、それでも私たちは一緒に生きていける”ということです。」
パリの歴史から離れて、歴史家は、パリジャンの通勤のあり方についても、言葉を用いずに示すつもりだといいます。
「英雄的物語の反対にあるもの」を語る、というこの歴史家が大量のインクを費やしてきたフレーズにおいて、彼は、その立場を明らかにした。「私たちはしゃべりすぎです』と彼は笑う。宣言も挑発もない。オリンピックゲームは、包括性、平等性、多様性という価値観に基づいています。セレモニーはそうでなければならない。私は歴史家だから、ナポレオンの話をしなければならないなら、どうすればいいか知っているし、そうするつもりです!しかし、それだけではありません。絵画(Tableau)ではより完全なものになります。私たちは何も削除していないのです。追加しているんです。セレモニーは軍事パレードではないが、謙虚でないのに謙虚なふりをするつもりはない。その一方で、私たちは互いの違いに連帯感を示すことができる。誰もが楽しめるものになるでしょう。」
少し考えた後、彼はこう付け加えた。
「私に、世界(の見たくないもの)に対して目をつむることを期待しないでください。パリに世界を迎えるのであれば、ありのままの世界、ドラマなども含めて歓迎します。オリンピックは原義的に政治的なものですから、政治的なものを排除するということはありえません。しかし世界の最も公正な感覚の中にあってほしいとのぞみます。」
彼は微笑みながら、「こんなに複雑なものに参加することになるとは思ってもみなかった」と話した。
(増田はルモンドやリベラシオンに課金はしていないので、まとめ記事が助かった)
(略)
ジョリーと4人の作家が2022年末に共同の冒険を始めたとき、ルートはすでに決められていました。
東のアウステルリッツ駅から始まり、ノートルダム大聖堂、マリー・アントワネットが投獄されたコンシェルジュリー、ルーブル美術館、 ガラスのドームが特徴のグラン・パレなど中世の遺跡を通り過ぎ、エッフェル塔のふもとで終わります。
「私たちはダウンジャケットを着て、アウステルリッツ橋からエッフェル塔 までボートで川を上下しました」とジョリーはル・モンドに語った。
「私たちはパリの歴史の一部であるあらゆるものを見ました。通り、記念碑、広場、彫像。文学的な書簡、映画、ミュージカルも調べました。」
彼らは何度もブレインストーミングした後、約9か月間秘密裏に執筆を続けた。
フランスのカルト映画「アメリ」やアメリカのネットフリックスシリーズ「エミリーパリへ行く」の夢のようなパリに引き込まれることを警戒し、 彼らは「常套句やアメリカ流のフランス解釈についても、茶化さずに扱わなければならない」とわかっていたとジョリーは語った。
彼らはショーを12の絵画(セーヌ川沿い、セーヌ川の上、さらにはセーヌ川から出る)に分割し、約90隻の船に乗ったアスリートのパレードと掛け合わせた。
3,000人を超えるダンサーや俳優が岸壁や橋の上でパフォーマンスを披露し、それぞれの絵画は、パリのシンボルと、過去と現在の両方について呼び起こすものを描いており、世界をパリの歴史と建築の旅へと誘う。
例えば、ノートルダム大聖堂は、ゴシック様式の記念碑であり、19世紀の作家ヴィクトル・ユゴーとのつながりであると同時に、猛烈な地獄でもあるなど、人によってさまざまな意味を持っています。
「世界が最後にテレビでノートルダム大聖堂を見たのは、火災のときでした」とブシュロン氏は言う。「誇りと壮大さの物語だけではなく、感動の、再建の物語でもあるのです。私たちが演じたかったのは、どんな困難にも負けずに共に生きていこうとする粘り強く創造的な意志の物語です。」
自らを「現代を愛する歴史家」と称するブシュロン氏は、式典はできるだけ多くの人々に語りかけるものでなければならなかったと語る。
「パーティーを開いてお気に入りのプレイリストをかけるのとは違います。世界からフランスへ、そしてフランスから世界へ語りかけるものでなければなりません。私たちはただ、人々が共感できるように、当時の状況を描写しようとしただけです。」
(略)
エマニュエル・マクロン大統領は、セレモニーでは1789年のフランス革命から1948年の世界人権宣言まで、「解放と自由の偉大な物語」を提供すると述べた。
セレモニーの詳細は秘密のベールに包まれているが、フランスの価値観が何らかの形で讃えられると推測されている。フランス系モロッコ人の小説家であるレイラ・スリマニは、パリが集合的であろうとする努力に価値を置いていることーそして力を合わせることで考えられないようなものを生み出せるーを高く評価している、とル・モンド紙に語っている。
4人の作家は、自分たちの物語に寛大な精神を持たせたかったという。
「喜び、模倣、動き、興奮、輝きがなければならない。フランスが時に自信過剰に見せたがる伝統的、哲学的、価値観だけでなくね。」
(略)
一方、昨年9月にパリで開催されたラグビーワールドカップの開会式は、「反例となった」とブシュロンは言う。
『アーティスト』のオスカー俳優ジャン・デュジャルダンが、ベレー帽にバゲットという出立ちで、1950年代のフランスの村々を再現した模型を自転車で巡り、ミルク絞りの女性やダンサーに手を振るというこのショーは、多くの批評家から、時代遅れの陳腐なフランス表現だと非難された。そして、非常に内向きなフランスだった。
「ただの古臭い過去のイメージや、現在の単純な賞賛ではないものでなければならない。歴史は揺らいでいるもので、国家はアイデンティティではなく、政治的プロジェクトであることを忘れてはならない。だから未来を語るのです。だから、私たちはセーヌ川を大旅行し、みんなを巻き込もうとしています。」
ブシュロンは、最も感動的なショーとして、ジャン=ポール・グードによる壮大な舞台美術を伴った、1989年のフランス革命200周年記念式典を挙げている。
当時20歳だったブシュロンは、それを見て歴史家になろうと決意した。
「それは歴史を痛感した瞬間でした。1989年、ソ連、中国(天安門広場の抗議活動)など、世界では多くの出来事が起こっていました。当時、私たちは多文化フランスと呼ばれていたものの価値を声高に明確に宣言することができました。それはより困難になり、ある種の幻滅感もありますが、私たちは怯んではなりません。」
数週間前、フランスでは議会選挙後に極右政党「国民連合」が政権を握るかもしれないという懸念が真剣にあった。その場合、ショーは「ある種の抵抗のセレモニーに変貌していただろう」とジョリー氏は語った。
結局、マリーヌ・ル・ペン氏の党は好成績を収めたが、セレモニーの書き直しを必要とするほどではなかった。
「私たちは、切実に、いたるところで起こっている暴力から離れて、平和の瞬間、止められた瞬間を共有することを必要としています」とスリマニは言った。
「私は本当に、7月26日にみんなが流れに身を任せてくれることを願っています。私たちの中の子供の部分、発見する楽しみを思い出してほしいです。今では本当に珍しいものになってしまいました」
と思っていたけど、セーヌ川、コンシェルジュリーが先にあることがわかった。ルイ16世でない理由もそこにある。またマリーがサン・キュロット版のア・サ・イラをうたい上げた後に上がった数多くの血しぶきは、その後のコンシェルジュリーで数多く処刑された人々のものであろうとも思う。なぜなら、マリーはすでに断頭済みだから。そして、ガブリアック氏、ブシュロン氏のコメントから、別に完全に誇っているわけでもないこともわかりました。やるしかねぇな、と言っているのですから。またブシェロン氏はdéchirer(悲痛な、引き裂かれる痛み)という言葉を使って、あそこで起きたことを示しており、歴史家である彼は当然革命期のその後の悲劇を知っているわけですから。それでもなお、彼は「バスティーユを奪還した」といい、国家は終わるもので、政治的プロジェクトに過ぎないのだ、ということを「誇って」いるという点が印象的でした。右派が怒ることなども承知の上でしょう、なにしろ、「ディベートの仕方を知っている国に生きている」のですからね。
開会式全体に込められたメッセージから判断すると、別にキリスト教を揶揄はしていないんでしょうね。挑発はしているかもしれませんが。クィアは存在する(キリスト教がないものとみなしている)ということを目ぇ開いてしっかり見ろ、ということが言いたいのでしょうから。真正面からね。
要は、暴力やクィアなど、みたくない、特にオリンピックにおいて、というものも当然パリは包摂してるぜ、外国人問題とかもカオスだけど、でもちゃんと一緒に生きてるんだぜっていうメッセージと受け取ったね。論争が起きるのとか、まさに狙い通りでしかないんじゃないですかね。
ゆーっくり湯船に浸かっていたらクラクラになってきたわ。
上がって水シャワーを浴びつつ。
嫌これ銭湯の話では無いんだけど、
家のお風呂ね。
往復の時間を考えるともったいなくてそれだったらスプラトゥーン3の1戦でもやるわ!てな感じなのよね。
でももうすぐスプラトゥーン3も早いもので発売から2年経つじゃない。
フェスって言うのも今回のこのスプラトゥーン3で初めてだったので
わーい!って言ってやっていたけれど、
いや!
それよりもカワバンガ!
ションテンが爆上がり爆上がりあがりまくりまくりすてぃーじゃない?
世間もっと賑わってないの?ってぐらい静かな発売日なんだけど。
タートルズの主題歌の英文をエキサイト翻訳したらエキサイトした日本語訳になるでお馴染みのあのパーティー野郎たちが帰ってきたの!
HADESライクなローグライクなゲームで何回でも遊べるから嬉しいし、
しゃべるしゃべる!
いやスキップって言うのはステップを踏んでスキップするの方じゃなくて
飛ばすって言う方のスキップで
しかも4人分でしょ?
字幕が出るところと出ないところがあったりして、
もうでも賑やかで皆良くしゃべっていて楽しいわ。
そういうストーリーが好きだったらずーっとタートルズがしゃべりつつけているのは見ているだけど楽しいわよ。
で、
何を強化したら最初全然分からないHADESのプレイし始めたような感じで、
とりあえず
なにか強化していってこれを上げたらこうなるんだ!って
アクションも爽快でダッシュ切りしてればずーっと倒せるような気がするけど
ボスなんかはちゃんと真面目に向き合って倒さないと倒せないし、
HADESよりも分かりやすいのは
敵キャラが攻撃してくるときの攻撃範囲や攻撃のラインが予め表示されるって点では温いのでは?って思うけど
これはビジュアルで敵の攻撃の予兆が見えるのは忍者たる所以よきっと。
ってなるとなるほど忍者ね!って納得するところが多いわ。
そんででもそれ攻撃の予兆がビジュアルで来る!って分かっていてもやられちゃうから
そんなに甘いものではないわよね。
楽しいわよ。
日本じゃそんな声届いてないんだけど!
好きな人は好きって感じじゃない?
そんでね、
『T.M.N.T.シュレッダーの復讐』って今作の前作も16bitテイストの横スクロールアクションなんだけど、
こっちは画面に対して敵キャラが出過ぎてて
にぎやかって言う意味とか敵をぶっ飛ばすって言う爽快感はあるけれど
スマッシュブラザーズみたいに自分を見失いがちなぐらいごちゃごちゃしてるけど
これは敵が多いものの比較的スッキリとして見晴らしのいい感じだわ。
トップビューの俯瞰したちょっと見下ろしのステージで戦うんだけど、
建物の陰に隠れちゃったら半透明処理とかされないまま見えないままで戦わなければならないので、
体力ゲージだけは透かされて見えるので、
建物の陰に隠れた敵とか自分とかはその体力ゲージを頼りにここか!って感じで殴るか、
敵を見えるところまでおびき寄せて戦うしかないところもなんだかカワバンガだわ!
要は楽しいってことよ。
まずはでもスプラトゥーン3の方が忙しいけれど
ションテンの高さは別なので
また楽しいことが増えて忙しいけれど嬉しいわね!
うふふ。
食べてしっかり仕事をこなせるようにするわ。
たぶん今日も忙しいはずのはずよ。
もっとボトルを大きな今の2倍の2リットルのものにしようかしら?
そしたら倍増よ!
水出しは手軽なので簡単で助かるわ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
店員とお客様という淡白な関係でありながらも、私が困っていることに手を差し伸べてくれた。
その他にも好きになったであろう理由はたくさんあるが、何年ぶりとも言える顔を合わせた瞬間のなんとも言えない嬉しさや、会話をしようにも変に緊張してうまく話せないもどかしさや、学生の頃の自分に戻ったみたいで日々楽しい。
歳も離れているし、私は店員で相手はお客様だし、ここから進展することは無いと分かっているので誰にも打ち明けることなく終わるのだろうけど、日々のこのもどかしいわくわくに感謝したいなと思った。
○ご飯
朝:サンドイッチ。昼:天丼。ざるそば。夜:カレーメシ。間食:かき氷。
○調子
むきゅーはややー。おしごとは、おやすー。
水のマグナ3周回。人の入りが悪く速度が出ない。
あと短剣を6本集めて4凸5本までは遊ぶ予定。
○ポケットモンスター緑(ゲンガー単騎旅)
ゲンガー単騎旅と題して少ない戦闘回数でポケモンタワーまで行っていたところから再開。
今日はゴースを捕獲してから、マサラタウンに戻って旅をリスタートした。
今日はリスタートの巻き戻し地点、ポケモンタワーの攻略を完了するところまでプレイ。
まず、みんな「結婚すれば幸せになる」とか思ってるけど、全然そんなことないからね。
独身者たちには分からないかもしれないけど、結婚には責任がつきまとうんだよ。
「結婚したら毎日楽しいよね?」とか言う人いるけど、それは独身時代の幻想です。
子どもの送り迎え
でも独身の皆さんは、家に帰ってから一人で自由に過ごせるのが当たり前だと思ってるんだろうな。
家族のために時間を費やすのが、結婚してからの本当の人生なんだよ。
ぼくが年収800万円って言うと「すごい!贅沢できるね!」とか思うかもしれないけど、子持ちになると話は別。
家のローン
家族旅行
これらでお金はどんどん飛んでいく。
結婚もしてない独身の人たちは、自分のためだけに使えるお金があって羨ましいよ。
急な病気
予定通りに進む毎日を送れる独身の人は、そのありがたみを知ってほしいな。
さあ、ここで少しだけ独身で低収入の子なし男性たちを見てみよう。
彼らはどんな人生を送っているんだろうね?
誰にも縛られない生活
これが彼らの生活。
でも、彼らは何かが足りないって、いつも不満を漏らしてる。
誰かと一緒に過ごす喜び
家族の温かさ
これを知らないのに、独りで寂しいなんて言われてもね。
家族のありがたさを知らないで生きてる君には本当の寂しさなんて分からないだろ?
子どもの成長を見守る楽しみ
一緒に笑い合う瞬間
これを知ってしまうと、もう一人でいることは考えられないよ。
子なしで生きてる人たちには、ぜひこの感動を知ってほしいんだよね。
ここまで少し煽ってきたけど、本当に辛い理由を話そう。
人生が辛いのは、誰もが抱えていること。
独身で低収入の人も、既婚で高収入の人も、それぞれの辛さを持っているんだ。
他人と比べることで、満足を得られないことが多い。
他人と比較することで、幸せを見失ってしまうこともあるんだよね。
結婚しても、子どもがいても、自分の人生の意味を見失ってしまうことがある。
社会の期待
家族の期待
自分を大切にすることを忘れないようにしたいよね。
独身で低収入の子なし男性も、既婚で高収入の弱者男性も、それぞれの辛さを抱えて生きてる。
分かったかな?