はてなキーワード: 反抗期とは
就活?すぐ終わるやろ!!そんな風に思ってた時期もありました。7月入ったけど就活終わる見通し全くない文系女子です。
突然ですが、私には誰にもあるはずの反抗期が存在しませんでした。
昔から親が決定したことは反抗せず、従わなければいけないという教育をされてきました。だから人生上重要になる選択肢(進学先とか)は全部親が決定し、私はそれに従うだけでした。
母はうちの子が反抗期にならなくてよかった!って言ってたのを聞いたことがあるけど、今思えばこの時点で人生失敗してたんだろうな。
だって反抗期がなかったってことは、「自分の意思を反対されてでも主張する」ってことをしてこなかったってことだから。
実際中高のとき、友達と遊びに行く許可を親に聞くときは毎回めちゃくちゃ緊張した。週末は家族でいるのが普通だったから「反抗」してるんじゃないかってすごく不安だったんだよね...。
大学生になって、就職活動している今、反抗期がなかったことを猛烈に後悔している。まじで親の過干渉に反抗できない。親は就活に対して表面上は「自分で決めるんだよ」って丸投げしてるようだけど、ちょっとでも私に合わない職種だと思ったら猛反対してくるよね?私に「ぴったり」な企業をリストアップして、好きなところにエントリーしなさいって言うけど、エントリーしないとめちゃくちゃ不機嫌になるよね?
挙げ句の果てには学生専用のホームページにしか載ってない求人情報をいつでも見れるようにパスワード教えろって強要してくるけど、絶対教えんからな?校則違反だぞ??
エントリーする会社を選ぶ時も、心の底には必ず「親が気にいるような会社か」っていう基準があるから、どんなに魅力的でも、遠方だったり反対された職種しか応募してなかったら、全部やめてきた。そしたら案の定「エントリー数が少なすぎる!」って怒られたよね。
第一志望に祈られたとき、このままじゃダメだと思って、就職エージェントに縋り付いた。紹介してもらったのはSEとか技術派遣とか、親から見たらとんでもない求人ばっかりだったけど、その中でも光る会社を見つけることができた。人材不足な業界なおかげか、いくつか最終選考に進んでる会社もある。でも親には「こんな仕事できるわけないでしょ?」「時間の無駄」「契約とか知らないから早くエージェントと縁を切れ」って1日何回もグチグチ言われる。おかげで毎日大げんかだよ!
でもここでも親の教育の賜物で、内定もらえても親の意思にそぐわないので全部断らなきゃな...って考えている自分がいる。これもうわかんねぇな。
この先どうなるんだろうな。仮に親の希望通りに、親が望んでる会社に入って、親が好むようながワークライフバランスがとれても、私は幸せなのかな。このままだと結婚相手から孫の進路まで全て親に決められそうだな。どうしよう。
あと
『若い女性読者の心をくすぐるくっせぇ作品』である事と『「お前も本当は望んでたんだろう、ぐへへ…」という被害者叩きの感情を肯定した問題作』というのは矛盾しない。
中高生だと同じくらいの年頃の子供が被害者となる事件を見て被害者の方を叩き出す子供というのは珍しくない。
(いじめ自殺とかでも「いじめられる方が悪いだろ、だっせえwwww」とか言いたがる子一定数いるでしょ)
子供ゆえに「自分は賢いからあんな被害には遭わない、被害者が被害に遭ったのは自分と違って馬鹿だったからだ」と言う何の根拠もない全能感を持ってたり
大人たちの「子供を狙う犯罪は許しがたい」的な批判に対して「もう私は子供じゃないもん!」と反発してしまったり、
そもそも大人が言う「良識的な意見」に対して反抗期故に反発し逆張りしたがる、という心理があるから。
だからこそ、実在事件に対するそういう子供の心理を肯定するような作品を子供向けに公開するのは教育上よろしくないと言われるわけだ。
これが事件の10年後に発表された作品だったら何も言われなかっただろうが、そもそも単なる凡作として話題にもならなかっただろうさ。
事件に便乗して宣伝されたから有名になってドラマ化までされるようになった、という経緯があるのが批判の大前提だよ。
10年後に発表すりゃよかったんだ。
http://www.kore-eda.com/message/20180607.html
Twitterとか見ると変な部分に突っかかって是枝監督に怒りをぶつけてる人が多い。
多分元の文章をまともに読んでないせいだと思うので、きちんと整理しておきたい。
一般的には「喜びを祝う気持ち」のことを指すけれど、文脈を見ると
国会の参院文科委員会で野党の議員が「(是枝に)直接祝意を表しては?現場をとても鼓舞する。総理に進言を」と文科相に問いただしているやりとりを目にし、更にその後「林文科相が文科省に招いて祝福したいという意向を示した」と伝えられたとNHKのニュースで目にしました。
実は受賞直後からいくつかの団体や自治体から今回の受賞を顕彰したいのだが、という問い合わせを頂きました。有り難いのですが現在まで全てお断りさせて頂いております。
つまりどこかに呼ばれて表彰、みたいなことは断るよ、ってだけの話なんだよね。
デマ。
実は受賞直後からいくつかの団体や自治体から今回の受賞を顕彰したいのだが、という問い合わせを頂きました。有り難いのですが現在まで全てお断りさせて頂いております。
「顕彰の問い合わせ」に対して「有り難い」って書いてあるじゃん。
何を勘違いしたのか
親から仕送り貰って、大学卒業したり優秀な成績残した時に親からおめでとうと言われた際に「親からの言葉は受け入れない」とか言ったら批判されるよね。
親からの「おめでとう」を断るのがカッコイイとか、それが許されるのは反抗期まで。 成人でもみっともないと言われるのに、還暦近い人がそんなの言うとか流石に度を越している。
国から給料貰っておきながら、国家も歌わず日の丸に敬意を示さないどっかの教員連中も同じ精神構造なんだろうね。いつまで経っても反抗期の子供なんだよ。
親と子供の関係に例える人なんか特に多いが、その例えは明らかに間違っている。
(文化庁は親ではないし、お金の出処は税金または文化庁への寄付であって"親"が汗水たらして得た金ではない)
まず、「告発を目的とした映画ではない」と発言していることは知ってもらいたい。
この「公権力を批判」というもの。人によって想定してることがぜんぜん違うんだけど。
「公権力そのものを否定する」というようなアナキスト的思考ならともかく、「社会の問題点を指摘する」レベルのことは独裁政権以外なら誰だってやっているよね。
以下の文にあるように、是枝監督が「映画を撮りながら考えていたこと」は「それほど目新しいものではない」。
「単身者が孤立」とか「自己責任論」とか、多くの日本人がすでにテレビや新聞、ネット上で共有している。
助成金もらっているからってこのレベルのことも言ってはならない、なんてことはないはず。
取材の中で「何故社会からこのような“不可視の”家族が生まれると思うか?」と作品の背景としての社会的、政治的状況を聞かれた。その告発を目的とした映画ではないことを前提に自分の考えを述べた。あくまで私見としてではあるが。今回僕が話したのは「共同体」の変化について、であった。日本は地域共同体が壊れ、企業共同体が壊れ、家族の共同体も三世代が一世代、単身者が増えて脆くなっている。この映画で描かれる家族のひとりひとりはこの3つの共同体「地域」「企業」「家族」からこぼれ落ち、もしくは排除され不可視の状態になっている人たちである。これが物語の内側。そして孤立化した人が求めた共同体のひとつがネット空間であり、その孤立した個を回収したのが“国家”主義的な価値観(ナショナリズム)であり、そこで語られる「国益」への自己同一化が進むと社会は排他的になり、多様性を失う。犯罪は社会の貧困が生むという建前が後退し、自己責任という本音が世界を覆う。恐らくあの「家族」はそのような言葉と視線によって断罪されるだろう。…ということも話した。これが背景。これは『映画を撮りながら考えたこと』という拙書でも既に述べている考え方である。まぁそれほど目新しいものではないだろうことは自覚しているが。
いつもお世話になっております。
この度は増田の皆様方のご活躍を注目のエントリーから拝見させていただいており、私も一層がんばらねばと思います。
普段「パンティー」としか書いておりませんが、恥を忍んでご相談させていただきます。
息子の事なのですが、息子が「パンティーよりもニーハイのほうがいい。」と言い、親の後を継ぐことに対して否定的になっています。
反抗期というやつなのでしょうか。
我が家は代々パンティー増田を続けていて、私も父(故人)よりパンティー増田になるための修行を受け、1○代目としています。(特定されないように一部伏せておきます)
確かに今の世の中、私が子供の頃と違い、堅苦しい風習や親の後を継ぐ事をする人は少ないと思います。
父親としては、息子が自分の道を行こうとすることについて、はっきりと申すと「嬉しい」と思いました。親から強制された道ではなく、自ら道を切り開いていこうとする男気といいますか、そういった子供に育ってくれたのは嬉しいです。
しかし、母と嫁が大反対しています。母曰く「まともな性癖に育っていない。代々継いできた家業を終わらせるつもりか。」と言い、嫁はそれをうけてなのか「ニーハイに興奮するような子はオタクみたいで嫌だ。」と言っています。
息子の話を聞くと「最近はみんなニーソックスのほうがすき。パンティーすきなのはおっさんだけ。」と頑として譲ろうとしません。確かに私はニーソックスも好きです。
お父さんがパンティー増田ということについてどう思うかを聞くと「確かに尊敬はしている。でも、パンティー増田は若い人にとって過去のもの。」と言われて、確かに伝統や風習を守るために若い子達への積極的なアプローチはしていなかったなと反省しました。
なんとか、母、嫁、息子、三人を納得させて穏便に済ませる方法はないでしょうか?
(追記)
息子は脚フェチになったものだと分析していくつかの案をだしました。
その一つに「パンストならどうか」という話をしましたところ、「みたことが有る。」といい興味を持ったようですので、パンスト越しのパンティーの良さを伝えたところ、ものすごく興奮したようでした。
今後も私はパンティー。息子はパンストで頑張っていきたいと思います。
皆様に色々な意見をいただきまして、本当にありがとうございました。
どうあがいても折り合いの悪い母と姉。昔からずっと仲裁してきて、わたしは反抗期すら来なかった。いい歳になって、妹は、なんでこの二人縁を切らないのか?とすら思うようになりつつある。二人とも好きだし、そりゃ仲良くしてほしかったけど、無理でしょうよ。妹だって大概疲れてるし、いつもとばっちりで何度も泣く羽目になってて。歳をとってきた母が年々ストレスで変になってる気がするのと、姉は姉でかなり強迫性な性格がきつくなってるようで。私も、仕事して、結婚して、本当は自分のことでてんやわんやだけど、全部投げ出して愚痴の電話があれば全部聞いて。今日だって、昨日の当直1時間半しかねれず、ふらふらなのに、この時間まで電話。二人の喧嘩の愚痴がまた飛び火して、私は揉めたくなんかないのに母と喧嘩のようになって終わる。二人とも病んでるから、私まで影響を受けて、正直、こういうのは私にとっても良くない、です。でも心配なんです。あー、文章ぐちゃぐちゃだ。というか、母は定期的に姉と大喧嘩して私に電話して、そうやって爆発することでなんとかバランスをとってるのだろうか。だとしたら悪いことしたな。私が我慢できなくて怒ってしまったから。でも母はやはり55になって、だいぶおかしくなってきた。父も、祖母も、みんな歳をとればそれぞれのキツイ性格はよりキツクなる、そういうものだ。だから、それが悲しいとかじゃないけど……仕方ないことだけど…… ああ、でもな、ここまで愛情こめて育ててくれて、アグレッシブで尊敬している母。だから、私はもう愛してないとか会いたくないとかそういう結論には成り得ないし、これからも二人の仲を取り持つのだろう。あんなに仲悪くしていて、ある日には仲良くふたりで買い物にいったり温泉にいったりする。わけがわからず、結局私が振り回されて(眠いのにこんな文章まで書き殴って)るだけなのか。脱力感。相当裕福な家庭と思う、でもその内側はこんな有り様。そう変に客観的に眺めてしまうくらいには、疲れている。母と姉には早く今後の距離を確立してほしい。一生無理なのかもしれないが… 私は、二人の処し方を、いや、二人に振り回されない自分の心のいなし方を、作らないと、今後自分の生活がいよいよ追い詰められたときに病んでしまいそうだ。
この立地日程このクオリティで一泊ニ食7,800円は異常。
5人で行った。広い部屋を頼んだつもりが予想以上に広かった...
まず、一つの部屋で5人が寝られるのにもう一部屋ある
5人がずっと考えていたのはなぜ土日でこの価格が実現するのか
それのみだった
この価格を実現するのはなぜかについて白熱する議論になってしまった
それぐらいにお得すぎる
食事も種類ありすぎてやばい。友達は全員寿司を攻めすぎて胃袋が膨れすぎていた。
あれは伏兵だ。気をつけろ。
一方私は全体を俯瞰し、自分の好みを過去10年間の食体験を走馬灯のように呼び出し瞬時に食べるべきものを把握
刺身や寿司など目先の豪華さにつられることなく淡々と蒸し焼き、味噌汁、天ぷら、サザエ、寿司、とれたて刺身、カレーなどを危なげなく堪能した。
サザエがやばい。水槽に入ってて網焼きできるけど、取り出して皿に置いとくとちょいちょい動く。
俺には中学生の娘がいる。
昔はいつもニコニコしていて可愛かったのに最近は反抗期もあってかとにかく酷い。。
自閉症と聞くと暗いイメージがあるがそんなことはない、大人だろうが誰にも物怖じせずに挨拶する明るい子だ。
あとはまるでダメだ。
勉強ができない。
提出物を守らない。
宿題をやらない。
わがまま。
人のために何かするという行為ができない。
朝も起きれない。
好きなことしかできない。
こんなことはまだ良い方で、俺が本当にやめて欲しいのは「自傷行為」だ。
太ももに無数の傷がある。何度言っても治らない。
見るとツラくなる。
昔から親の言うことを聞く方ではなかったけど、小さい頃は素直で可愛かった。
爪を噛むのも治らない。その都度注意はするがダメだ。
ネットなんかで調べると、「ストレスからの行為なので環境を整えろ」なんて書いてあるが、娘の環境に合わせてたら本当にめちゃくちゃになってしまう。それこそ風呂も入らずに夜中までスマホをいじるだろう。
俺は間違ったことはきちんと叱りたい。
「親は子供に優しく接するべき」とかも書いてあるが、俺にはできない。
LINEのプロフィールはしょっちゅう変えて、YouTuberに恋をしてツイッターで呟きまくる。
俺が一番なってほしくない方向にどんどん育っているのでとても不安だ。
その時の贖罪をしたくて、少しでも救われたくて、ねとらぼにすがった。
辞めた理由は何よりも心が痛かった、それだけだ。
この3つには今日まで支えられて生きてきていると言っても過言ではない。
でも満足していた。
だからこそ心が痛かった。
クリエイティブの才能は持ち合わせていないが
生み出す事の大変さ・辛さ・世に出るまでの過程がどれだけ茨の道なのかを知っているつもりだ。
だからこそ心が痛かった。
「このサイトは違法サイトではないのか」「こういうサイトに広告を掲載する事は誤っているのではないか」
聞いてもらえなかった、それだけならまだ自分はあの会社にいただろう。
聞いてもらえなかっただけでなく、つらい言葉を返された。
心が痛かっただけではない、引き裂かれる衝撃だった。
あたかも『何当たり前の事言ってるんだ』と言いたげな上司の顔、今でも覚えている。
上司の言う通りだった、違法サイトに広告を掲載し、そしてお金をもらっている。
漫画を買った、映画を見た、CDを買った、Blu-rayを買った、DVDを買った、グッズを買った。
実にバカバカしいと思った。
本来行くべきお金の一部が自分を経由して、行くべき場所へ行っただけ。
上司からの言葉を受け、頭の中が真っ白になったその日は、反抗期が無かった自分にとって人生で5本の指に入るぐらい荒れていた。
幸いにも週末で土日を挟む、その事も相まってかいけないと分かっていながらもアルコールの力を借りて全て忘れてしまおうと思った。
悔しさのあまり、働いて得た給与で買ったとある作品を一冊ボロボロにした。
好きな作品のはずなのに、その時は憎くて仕方がなかった。
娯楽に使っていたお金は、自分が働いてもらったお金は、綺麗なお金じゃない。
いや、綺麗なお金なんて世の中にないのかもしれないが、他の人達より汚れたお金をもらい、それを本来いくべき場所へ還していた。
アルコールのせいも否定できないが頭痛がした。それでも涙が止まることがなかった。
自分の好きな漫画、好きなアニメ、好きな映画、入社してもらった給与で購入したそれらを創り出し世に出してくれた。
そんな彼らの努力の上にあぐらをかいた奴らの資金源になっていた、それがどうしようもなく許せなかった。
気が付くと涙を流しながらボロボロにした一冊を抱えて気を失っていた。
それからすぐ、友人に連絡をした。
すぐに次の勤め先は決まらなかったが、暫くして良い会社に拾ってもらえた。
違法サイトを見てみぬふりをしなければいけない、ただひたすらに胸が痛い。
自分が学生の時から違法サイトは蔓延っていたが、日常会話で出てくるような事は間違ってもなかった。いわゆるアンダーグラウンドな存在。
自分はそんなサイトを利用した。そんなサイトで読んだら、どんな作品でも必ず本を買った。
読んだ作品がたまたま面白くなかった、ただそれだけで次に生み出すエネルギーとして作り手を応援したかった。
放課後はコンビニでアルバイトをして、お金を稼いだ、波はあるが月に4万ぐらい。
そのお金で友人との交際費を確保しつつ、漫画やアニメのグッズ、円盤を買ったり、一人で映画を見に行ったり、娯楽に使った。
違法サイトというくくりで述べるなら、漫画村が氷山の一角にすらなっていない。
サイトブロッキングという根本的解決に至らない方法が進んでいくのだろうか。
違う、そうじゃない、違法サイトだと分かっていながらそこに広告を掲載し続ける企業を締め出すべきだ。
そうすれば収益の上がらないサイト運営者は自然とサイトを閉じていくのだから。
少し見やすいようにしてみたがどうだろうか。
ポジティブなコメントを多く頂く事が出来て、自分のやったことは間違っていたのか不安だったが、概ね合っていたようで安心した。
バズらせる事が出来たら、自分としては本望です。
違法サイトを少しでも無くすためには収入源を絶つこと、収入源を絶つためには評判を落とすことが必要だから。
辞めたらその時点で生活に必要なお金が入らない。あいにく貯金もない。
「自分は今までの間、違法サイトに広告を提供し、それで生活費を手に入れていた、好き好んでやっていない、こんな会社だと思わなかった。アダルト系を取り扱っている事は入社前に説明があったが、違法サイトの収入源の一つになっていたとは想像していなかった。」
家族からは「仮に違法でなかったとしても自分の良心が痛むと思ったなら、辞めなさい。」と大きな後押しをもらった。
「生活費はどうにかなる。それよりも自分の気持ちを大切にしなさい。」
「お前の心が痛むのは、お前の中で『誤った事をしている』と認識があるからだろ?心が死んでいく姿を黙って見ていることは出来ない」
多くの支えがあって自分は辞める決意をしたのだった。
辞めてから時間が経ち、自分の中で「過去の事」として片付き始めていた時に漫画村騒動が起き、ねとらぼの記事を見つけた。
なぜ情報提供したのか、なぜ今になって社名を出したのか、それは今も痛む心のせいだ。
今もクリエイティブな事に従事する人たち、クリエイター、アクター、すべての人を応援している。
その気持ちは変わらない。
嘘つきに他ならない。
ペーパーカンパニーで募集されていたハローワークの求人票を見て自分は応募した。
中にはしつこく迫り、根負けした人事担当が"仕方なく渡した"人もいると噂で聞いた。
それだけ精神の強い人だったのだろうと、一種の憧れにも似たものを覚えた。
「もう一つの会社はグローバ◯ネットとは別会社であり、子会社である」
嘘もいい加減にして欲しい。
グローバ◯ネットに籍を置く社員の多くはそのもう一つの別会社に当たる[株式会社エムエ◯ラボ]にも自動的に籍を置かされるじゃないか。
取引先にエムエ◯ラボ名義で名乗っていてもCCにグローバ◯ネットのドメインアドレスが入っている。
別会社で子会社?子会社の取引内容を全て検閲するのが親会社のする事?
少しでもクリエイティブ活動をする人々が正当に評価され、生活していける世の中になる事を日々願いながら、自分は自分のできる事をやっていくしかない。
自分が行った行為は会社にとって不利益を被るだろう、しかしあなた達の行為は更に大きな不利益を生み出しているんだ。
早く目を覚ませ、そしてその会社から逃げろ、好きでいるなら一緒に沈め。
記事で社名を伏せていなかったが伏せた。
身バレが怖いのではない、身バレする以前に異常な離職率なので身バレしない。
伏せたとはいえ特定できるだろうし、既に取られた魚拓から辿る事ができるだろう。
後は関与しない。
http://blog.esuteru.com/archives/9101964.html
このサイトに限らずまとめサイトは嫌いだ。早急に削除してください。
書いたのは自分だ。
30代中盤になり、将来のことが不安になった私は都会での仕事を辞め、一時的に実家に帰ることにした。
差し迫った理由もないのに安易に気ままな一人暮らしの生活を捨ててしまった自分を今となっては止めたいが、
そのときはこれで高い家賃も浮くし、家の手伝いもできて親孝行にもなるだろうと気軽に考えていた。
世間は人手不足で騒いでいるから、転職にはそれほど困らないはずだ。そんな能天気な期待もあった。
実家は田舎ではそれなりに大きな家で、裕福だ。一昔前よりは減ったが親戚付き合いもまだ多い。
長男の私は子供の頃から「跡取り」になるのだという意識を、その言葉の意味もわからないのに、当たり前のように持っていた。
家業とはまるで違う学部の大学に入っても、家業の役に立たない仕事を始めても、その意識は消えなかった。
今考えると、その時点でおかしく感じる。私は家業を継ぐ気も、実家で一生過ごすつもりもなかった。
自分の住みたいところに住み、やりたいことをして生きるつもりだった。
それなのに心の中ではいずれ家に帰るつもりだったのか。それを既定路線として、どこかで受け入れてしまっていたのだろうか。
昨夜、父と口論した。
きっかけは私に明日(つまり今日)、家業の手伝いをするようにと父が言ったことだった。
別に大した内容ではない。ただ立っていればいいような仕事だし、今までもそういうことはしてきた。それは当たり前のことだったから。
ただそのときは疲れていたのか、本気で拒否してしまい、それからは互いに、というより主に私が、相手を傷付ける言葉を連発した。
(そしてその言葉が数時間後、布団の中にいる私を苦しめ、眠れなくなってこうして書いているわけだ。)
「俺は家は継がない。お父さんが死んだら全部処分するよ」
私はそのようなことを言った。これに対し父が
「そんなこと許されると思ってるのか? これまでおまえにいくらかけたと思ってるんだ」
と返し、以下すべて私。
「俺より早く死ぬ奴のために、自分の人生をめちゃくちゃにする気はない」
「見返りを求めるって、親として最低だよ」
ただし、私の声は異様に震えていた。父と真面目なことを話すときはいつもこうなる。
「毒親」という言葉を最近知った。父がその毒親ではないのかと思うことがよくある。
この番組はCMに入るときに特徴的な効果音が入る。(ちゃんと見たことはないので、違っているかもしれない。)
夜、寝ていると、父と母が怒鳴り合う声がする。その合間合間にあの効果音が聞こえるのだ。
どんなに耳を塞いでも、布団に潜っても、自分の声でかき消そうとしても、怒鳴り声と効果音は鳴り続けた。
この番組が「火曜」サスペンス劇場と知ったとき、不思議な気がした。記憶の中で、あの音は毎晩聞こえていた。
…こんなふうに幼少時の思い出を書くことが何になるだろう?
私は実家に戻って以来、父と生活していることにたまらない不快感を抱いてきた。父は毒親なのだと思ってきた。
だがたぶん、こんな家庭も親もいくらだっている。親は完全な存在ではない。
私はもしかすると、自分が父を不快と思うのを正当化するために、父を毒親の条件に当てはまるよう、
頭の中で自分の記憶や感情を捏造してきただけなのかもしれない。
火曜サスペンス劇場のことだって、たとえば一年前、同じように思っていたか確信が持てない。
第一、昔からそんなにも父との関係が壊れていたら、こんなに軽々しく実家に戻る決心などしなかったはずだ。
「毒親」という言葉のあと、真っ先に親を責めるようなこんなエピソードを持ってくること自体、共感を求めて甘えている。
人が見れば、父など毒親でも何でもないのかもしれない。
出来の悪い子供をちゃんと大学まで行かせて、ニートになっても何も言わずに面倒を見て、
いまは無職となった息子を無料で家に置いている、優しい親なのかもしれない。
というより、書いてて確信したが、きっとそうだろう。
別に父との思い出は嫌なことばかりではない。スーファミのソフトをたくさん買ってくれたし、旅行も何度も連れて行ってくれた。
人並みに反抗期だってあったが、大学入学で家を出てからは衝突もなくなり、二人で飲んだりすることも何度だってあった。
30代半ばにもなってパパなんかだいっきらいなどとわめいている私こそがどうしようもなく幼稚で未熟な異常者なのだ。
何も考えずに家業を継げばいいのに、下らない自意識と自尊心のせいで、父や先祖の築き上げてきたものを無に帰そうとしている。
しかも私はその家業にも家柄にも土地にも、何の興味も持てない。同じ思いをすることになる生命をつくることが罪悪にすら思う。
想像の中の父は怒り狂って、引っ越しの準備をしようとする私を怒鳴りつけ、家から出すまいとする。
そんな仕事してもどうせダメなんだから、おとなしく家業を継げ。
無理矢理家を出れば、父は思い描いていた人生を打ち砕かれ、気落ちして、そのまま死んでしまうかもしれない。それも私の妄想だ。
どうして父との関係をうまく築けないのだろう?
私は父が毒親かどうかなんてどうだっていい。父と仲良くやっていきたいだけだ。
これから二十年、十年、五年、いつまでかわからないが、残りの時間を幸福に過ごしてもらいたいだけだ。
父が人間の屑なら、そうできない自分に悩むこともないだろう。だが私は、悩むのが辛くて、父を屑だと思おうとしている。
父が死ぬほど嫌いだ。憎んでいる。生きていてほしくない。いなくなってほしい。死んでほしい。
実家に住んで家賃光熱費など一切おさめず、家事の類も一切やらない。インターネットではこの時点でやばい認定をもらえるだろうが、現実はさらに上を行く。家庭内暴力である。といっても言葉の暴力だが。妹はなぜか、居心地の悪い(妹は母親が嫌いなのだ)実家に住んでいる状況を家族の、母親のせいにしている。いやいやお前が家賃節約するために実家に寄生してるだけなの忘れたか?!とびっくりするのだが、「あたしはマンション買うお金貯めるだけにココにいるだけだから!話しかけないで!」と叫ぶ始末である。おいおい、お前が安全に寝泊まりして風呂に入って食事用意してるの誰だよwwwwww洗濯してるの誰だよwwwwパンツ畳んでるの誰wwww反抗期の高校生かよwwwwwwwでも三十路なんだよなあ…ますを。
しんどい。
追記
・なぜ追い出さないの?
この手の追い詰められた人間(ただ我儘なだけだろと思うが、医者から見たら、本人は追い詰められてると思っているらしい)から追い出す形で居場所を奪うのはかなり危険だそうで。危険行為に出る、究極的に逆恨みされて二度と会えなくなるなど。相談している精神科医からの指導。
これについて言いたいことは山ほどあるけど、一理あるとは思うのであえて追い出さないし、いい加減にしろ!などの強い言葉、頭ごなしに否定する言葉も使わない。
父親の単身赴任で母子家庭状態の共働き家庭で育ったので、専業主婦がいる家の余裕を結婚してから知った。
子供の頃、いろんな事で困って母に相談すると、やっかいごとを持ち込むなと露骨に嫌がられた。
相談をしても文句を言われたり、怒られたりとやっかいごとを持ち込んだことへの怒りをぶつけられるだけで解決はしなかったので、「この人に聞くだけ時間の無駄」と思うようになった。「何でも自分でやる手間がかからないいい子」なのではなく、人間不審なだけだった。
ちょっと気に入らないことをすると、それだけで手が飛んできた。子供心にも感情で殴ってるというのがわかっていた。
学生時代に帰省して家でゴロゴロしていたら、家事をするように怒られた。「こんなだから恋人の一人もできないんだ」となじられた。
いとこが先に結婚した時は「いとこは大人だ。自動車ローンだって組めるし。それに比べておまえはなんて子供なんだ」となじられた。
子供ができた時、名付けを親にさせなかったことで、「子供が子供を育てている」となじられた。
大人になってから、「うちの子には反抗期がなかった」などと外でうそぶいているらしいが、反抗期がなかったのではなく、信頼関係が無かったのだと思う。
結婚して、相手の家にしばらく逗留した時、圧倒的な余裕のようなものを感じた。
せかされるようなギスギスした感じはなく、全般的にゆったりした時間が流れていると感じた。
全般的に何もしないで自分のことをしている時間があるという印象で、時間に追われるように生活していた自分とは大違いだと思った。
ヨーロッパの人は長期休暇で避暑地に行って、朝から晩まで何もしないで椅子に座って寝ているらしいけれど、まさにそれを見ている感覚。
相手からは昔おねしょをした時に親に「大丈夫だよー」と慰められて落ち着いたという話を聞いたけれど、うちだったら「この眠い時に何してくれとるんじゃ」という顔で事務的に粗相を処理されたのだろうなと思った。いや、自分はその方法しか知らないので、自分もそうしてしまう気がする。
今の日本は相手の家のような家を無くして、うちの実家のような家を増やそうとしているように思う。
保育園の時間があるからと嫌がるなか無理矢理乗り物に押し込められる子供を見ると、デジャビュを感じてしまう。
毎朝コーヒーカップ片手に新聞を読む。大人のルーティンに、そろそろ私も慣れてきた。
だが、外面だけ取り繕っても所詮私は子供。どこへ行き何をするべきなのか、未だに分からない。
思えば、子供の頃から親の言う事を素直に聞いて生きてきた、中学の部活も、大学受験も。反抗期は無かった。親の敷いた終着駅の見えないレールを、何の疑問も抱かずひた走っていた。
しかし、大学に入り、急に親から「お前の人生だぞ」と、突き放された。私は自分がからっぽである事に気付いてしまった。
自分を埋めてくれる何かを探していた私は、テニスや演劇、競技ダンス、気になつた事になんでも首を突っ込んでみた。
活動は楽しく人も皆優しかった。けれども、みんな自分の中に好きなもの、嫌いなものを持っていて、何でも好きで何でも嫌いな私が、知ったかぶりで同調していいものか分からなかった。深くは分かり合えなかった。私は何が好きなのか、結局最後までよく分からなかった。
就職活動が始まった。友人が慌ただしそうにしている中、私も企業のセミナーへと足を運ぶ。
未来を熱く語るサラリーマン。言葉は心に届くまでに、薄いもやがかかる。
目標や使命を持って働く人に憧れる。だが、私がそれになれるとはあまり思えなかった。
私はどうすればいいの?
自分で見つけなければいけない、そんな事は分かっている。
でも、良かったら、何かアドバイス下さい_:(´ཀ`」 ∠):
娘の遅すぎる反抗期が来た。 もう22だよ。ありえないんだけど。
家にいるのが嫌だとか言ってしょっちゅう遊びに行く。それで門限ギリギリに帰ってくるか、オールしてきたりするし。
さすがに月に週に1回とかになって来た時は叱ったけど。
社会人になってからは家から通勤なんだけど、遠くてしんどいから一人暮らししたいとか言うし。
金がないんだしみんな遠くても通ってるんだから家から通えって言っても他人ができることと自分ができることは違うとか言ってくるし。なんどもなんどもうるさい。イライラさせんな
ついには他人に金借りて勝手に引っ越そうとしてたから夫も一緒になってやめさせた。 その時急に泣き出して、お母さんは昔から否定してばかりだとか、私の話を聞いてくれないとか。 なんか昔の話を蒸し返し出して面倒臭い。中学生の時にいじめられて泣いて帰って来たのに帰るのが遅いって殴られたとか、お前が悪いって言われたとか。そんなの言った覚えないし。 部屋覗きに来た時もちゃんと勉強せずに寝てるんだから起こすために頭叩くのは当たり前だし、足で蹴ったこともあるけどそんな虐待みたいな言い方すんな。
躾なんだから痛いのは当たり前でしょうが。言うこと素直に聞かないお前が悪いよ。塾だってあんたが行きたいっていうから通わせたのに…
泣いて騒いでた次の日から全く話さなくなったし、家にいるくせに家事も手伝わずに態度悪い。ガキの反抗期だよ。
もともと努力しないくせにわがままばっかり言ってるのはそっちだしいい加減にしてほしいわ。
下の子はちゃんといい子にしてるしコツコツ勉強してて偉いんだけどなー。
どこで育て方間違えたんだか
娘の遅すぎる反抗期が来た。 もう22だよ。ありえないんだけど。
家にいるのが嫌だとか言ってしょっちゅう遊びに行く。それで門限ギリギリに帰ってくるか、オールしてきたりするし。
さすがに月に週に1回とかになって来た時は叱ったけど。
社会人になってからは家から通勤なんだけど、遠くてしんどいから一人暮らししたいとか言うし。
金がないんだしみんな遠くても通ってるんだから家から通えって言っても他人ができることと自分ができることは違うとか言ってくるし。なんどもなんどもうるさい。
ついには他人に金借りて勝手に引っ越そうとしてたから夫も一緒になってやめさせた。 その時急に泣き出して、お母さんは昔から否定してばかりだとか、私の話を聞いてくれないとか。 なんか昔の話を蒸し返し出して面倒臭い。中学生の時にいじめられて泣いて帰って来たのに帰るのが遅いって殴られたとか、お前が悪いって言われたとか。そんなの言った覚えないし。 部屋覗きに来た時もちゃんと勉強せずに寝てるんだから起こすために頭叩くのは当たり前だし、足で蹴ったこともあるけどそんな虐待みたいな言い方すんな。
躾なんだから痛いのは当たり前でしょうが。言うこと素直に聞かないお前が悪いよ。塾だってあんたが行きたいっていうから通わせたのに…
泣いて騒いでた次の日から全く話さなくなったし、家にいるくせに家事も手伝わずに態度悪い。ガキの反抗期だよ。
もともと努力しないくせにわがままばっかり言ってるのはそっちだしいい加減にしてほしいわ。
下の子はちゃんといい子にしてるしコツコツ勉強してて偉いんだけどなー。
どこで育て方間違えたんだか
普通の家ってなんだろう。
私は自分の家を普通の家だと思っていた。むしろ、大学まで行かせてもらって、その上生活費も出してもらっていたのだから、すごくいい家庭である。憎まれるほどいい家庭だ。
子供に暴力をふるうことはなかったが、父は母を叩いて殴って蹴って踏んで罵倒していた。母は金切り声の叫び声をあげてわんわん泣いていた。物心ついたときから家はこの状態だった。
記憶してるなかで一番はじめの夫婦喧嘩は、3歳くらいの、まだ市営住宅に住んでいたときだ。
夜遅く、母は洗濯物を畳んでいて、私は母のそばでテレビを見ていたと思う。車の音がして父が帰ってきた。母が玄関まで鍵を開けに行くと、酔っ払った父が家の中に入ってきた。私はなぜかすぐにコタツの中に潜って隠れた。父と顔を合わせたくなかったんだと思う。あと、酔っ払うと絶対に喧嘩になることを知っていたからかもしれない。私は真っ暗なコタツの中で息をひそめていた。しだいに口論になっていくと、突然父が怒鳴り声を上げる。いつもここでびっくりしてしまう。本当に突然大きな声で怒鳴るのだ。そしてバシッと叩く音が聞こえる。何度も叩く。母はその度に「もう!やめて!やめてよ!!」と甲高い声で泣きながら叫ぶ。ドカドカと殴る音になると「やめてーーーー!」と母の絶叫が聞こえる。私はコタツの中でずっと震えていた。隠れているのが見つかったら私も同じ目にあってしまうと思っていた。喧嘩が終わると、まだ興奮がおさまっていない父の口から漏れるシーシーという息と、母のすすり泣く声に変わる。怒鳴り声か金切り声はだんだん慣れていくが、すすり泣きの声だけはいつまで経っても心臓がぎゅっと掴まれるような痛みを感じる。
両親はほとんど毎日喧嘩していた。父がいない日は心からホッとした。母が私を寝かしつけたあとに父が酔っ払って帰ってくると、ドスドスという足音とひどい喧嘩で起こされた。それでも布団にもぐって怯えながら寝たフリを続けなければならなかった。母をかばったことは、たぶんなかった。
次に記憶があるのは、小学校の高学年のときだと思う。父は自営業を始め、母は事務を手伝っていた。工場に隣接されるように建てた一軒家には自分の部屋がつくられた。
仕事は忙しく、夕飯はいつも11時くらいに食べていた。共に自営業を始めたことで、喧嘩のレパートリーが増える。母も気が強い方なので、父に対して仕事の意見を言うが、父は「口出すな」「誰のおかげで生活できてると思ってんだ」「黙っとけ」と応戦する。「くらすぞ!!」と拳を振り上げ、しだいに喧嘩はヒートアップする。プロポーズだと笑われてる九州の方言だけど、聞くと少し複雑になる聞きなれた言葉。
また始まった...と呆れながらテレビを見続けた。うしろで行われる喧嘩が聞こえてないようにじっとテレビを楽しむふりをしていた。怒鳴り声で音なんか聞こえないのに、ずっとその場に固まったままテレビを見続けた。喧嘩が始まると、その場から動いちゃいけないという気になるのだ。トイレに行きたくても、立ったその瞬間に「聞こえてません知りません」のフリは解けてしまうと思っていた。自分の部屋に戻りたかったけど、その場から逃げることはなんだか卑怯だと思っていた。母を助けないくせに。
怒鳴りながら暴力をふるう父と、泣きながらやめていたいと泣き叫ぶ母と、テレビから目を離さない子供。今考えると異常な光景だった。すぐうしろで母が泣き叫んでるというのに、見ないふりをしていた。
その日はなかなか喧嘩がおさまらなくて、近所迷惑だなと呑気に考えていた。その時、怒り狂った父がとうとう台所から包丁を持ってきた。この時の光景はずっと忘れないと思う。父は「ころすぞ!」と怒鳴りながら泣きじゃくる母に向けて包丁を何度も振りかざすまねをしていた。母がその時やめてと叫んでいたのか、刺せばいいでしょと反抗していたのかはもう覚えていないけど、ただ包丁を母に向ける父の姿から目が離せなかった。
頭の中で「終わった...」と考えていた。父が母を殺して、両親をどっちも失うことになって、どうやって暮らしていけばいいんだとまで考えていた。その喧嘩はなんとか父が冷静を取り戻して終わったが、ずっとこの喧嘩のことは忘れないだろう。
父は交友関係が広い人だった。外に出ると、何度も友人や知人に明るく挨拶をする姿を目にする。外での父はとてもいい人だった。明るくて面白くて輪の中心にいるような人だ。私に対しても優しくて少し甘い普通の父親だった。だからこそ、その二面性がこわくて気持ち悪かった。
父の友人は私に「いいお父さんでしょ?」とにこにこしながら聞いてくる。私はいつもなんと言っていいかわからなかった。
やがて反抗期に入った私は父とまったくしゃべらなくなっていた。そこまでは良い。よくあることだ。しかし、私は母に対してひどい態度をとるようになってしまった。母を小バカにするような口はまるで父のようだった。私の中で無意識に「母にはひどい態度をとっていい」という意識が生まれていた。今考えると、父の母に対する態度の影響が出ていた。
大学に入って地元を離れることになった。簡単には両親と会えない距離だ。そこで私は一人暮らしのあまりの快適さに感動してしまう。怒鳴り声も暴力もない、近所迷惑も考えなくて良い生活は本当に心地よいものだった。
そして、両親が今まで不自由なく育ててくれたことに自然と感謝できるようになった。夫婦喧嘩の記憶もだんだんと忘れていった。
でも、正月や盆に帰るたびに夫婦喧嘩は日常的に行われていた。私は理由をつけて帰らないようになっていった。
大学にいる間、たびたび友人間で両親の話題をするようになる。もちろん良い部分だけを話した。そうすると友人の中でうちの両親のイメージは「優しくて天然なお母さん」「面白くてちょっと寂しがり屋なお父さん」という理想的な両親になる。私も誇らしかった。「私の両親は良い人なんだ」と思うことができた。久しぶりに帰ると、そのイメージは壊され、やるせなかった。
うちは普通の家庭である、と思っていた。喧嘩が少し多いだけの、普通の家庭だ。でも、親元を離れて暮らす中で、あれは普通ではなかったかもしれないと気づいていく。夫婦喧嘩で包丁は振らないし、「誰のおかげで生活できてると思ってんだ」なんて言葉は出てこないらしい。
大学を卒業して地元に戻ってきた私は、いまだ喧嘩を続ける両親に向かって言った。「夫婦喧嘩がほんとに嫌だった、辛かった。喧嘩するのもうやめてほしい」と伝えた。父は笑って「どこの家もこんなもん。だいたい喧嘩じゃなくてじゃれてるだけ」と言った。情けなくて、もう何も言いたくなくなった。
夫婦喧嘩について調べていく中で、「面前DV」という言葉があることを知った。直接子供に暴力を向けなくても、夫婦喧嘩で子供に精神的DVを与えるというものだ。たしかに辛かったが、私はあんまり精神的DVを受けたとは思っていない。なぜならいつも知らないふりをしていたからだ。母がどんなに泣き叫んでも庇わなかった。でも面前DVを受けたという話の子供はほとんど母を庇っていた。怖かったとはいえ、自分が情けなくてたまらなかった。
今では大人になり、父の言い分も母の言い分も理解できるようになった。仲裁に入るようになった。ずっと離れていたためか、暴力をふるう姿はあまり目の当たりにすることはなくなった。母方の祖父と共に暮らしているため、怒鳴り合いだけに抑えているのかもしれない。職場では、従業員の前でも怒鳴り合いの喧嘩をしている。人のいないところでまだ暴力をふるってるのかもしれない。
そういえば、病気で目が見えづらくなってきたのに配達に行かせるのよ、と母にこの前愚痴られた。なんでもないただの愚痴のように言われた。一歩間違えば事故を起こすというのに、「父は昔からそんな人だったのか」と改めてショックを受けた。
仲裁をしていく中で、私の意見なら父はちゃんと聞いてくれるということがわかった。母も「あなたの言うことならちゃんと聞く耳持つのよ」「あなたから言ってよ」と言うようになった。
私が言わなければならないということはわかっているし、母を庇おうとしなかった負い目もあるため私から話をすることが増えた。しかし口論になって、怒りを滲ませた父の表情を見ると、恐ろしいと思ってしまう。白目のところが赤くなっていくのだ。次には拳が飛んでくるのではないかという考えがよぎる。
離れたら穏やかに暮らせると思う。だけど、私がいない間の両親の喧嘩を想像すると苦しい。いつかどちらかが殺してしまうのではないかとずっと思っている。
私に対しては優しい父への接し方がいまだにわからない。