はてなキーワード: 反抗期とは
三行でまとめると、
私はファザコン
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一番近い街までバスと電車で二時間弱。小さな田舎町で私は育った。両親が結婚して八年目にやっと授かった一粒種。それが私。親戚の集まりに顔を出せば、私がどれほど両親に喜ばれて生まれてきたか、酒を飲んだおじちゃんやおさんどんをするおばちゃんが教えてくれた。
父のことも母のことも大好きで、反抗期も無かったと思う。年の割に身長も高くてすらっとしていて外国の人みたいに鼻が高いと父のことを思っていて、ファザコン気味だったかもしれない。
母は私が高校二年の時に他界した。父は憔悴しきっていたが、ひと月もしたら「私を立派に嫁に出す」と母の遺影に誓ったのだと、仕事と子育てに精を出し始めた。今までしたことのなかった料理もしてくれた。私も手伝ったけど、意外に器用な父はあっという間に料理上手になっていった。
その後、私は大学に通ってそこそこ良い会社に入ることが出来て、三十の時に結婚。退職。一年後に出産。
今は実家から二時間弱の一番近い街で、夫と三つの息子と暮らしている。
ファザコンだと言ったが、夫は少しだけ父に似ている。けれど、それは容姿だけの話で、中身は全く違った。
夫は、いかに結婚生活が窮屈かということを会社で愚痴っているらしい。同じ部署の新人の女の子に鼻の下を伸ばし、後輩に向かって「結婚早まったかなあ」と真顔で言うのだという。夫と私は同じ職場で出会ったので、同僚伝いに私に伝わるって思わないのかなあ。そういう浅はかさも父とは違うと思う。
子どもが生まれたら父のようになるのかもという気持ちも少しあった。期待値は60パーセントぐらい。けれど、まぁもちろんそんなことはなかった。すぐには変わらないけど次第に父になるものじゃない?そう思ったけれど、三年経っても変わる兆しはない。朝は遅いが出かける直前まで寝ている。夜遅く帰ってきて夜食を食べて風呂に入ってゲームを少しして寝てしまう。休日はゲームか、趣味のバイクの集まりに出かけてしまう。
増田では家事に協力的な男性をよく見るのになあ。おかしいなあ。
昨日、私たちが住む街で行われる講演会を聴くためにと父が田舎から出てきた。講演会後にはうちに一泊して帰ることになっていたので、講演会を聴き終えた父を駅に迎えに行った。
“父と夫は同じように体格が良い”……ずっとそう思っていたのだけれど、およそ一年ぶりに見た父は、駅の人混みの中でずっとずっと小柄に見えた。私と息子を見つけて笑う顔は昔のままだったけれど。
夫くんは俺が泊まることを嫌がってないか、嫌ならホテルに泊まるぞ、と確認されたけど、「今日も帰ってくるのは日付が替わった頃だし、明日は休みだけど友達と遊ぶって言ってたから」と答えると何か言いたげにしつつも父は黙りこくった。
マンションに帰って、夜ご飯に作ったハンバーグを父と息子と私の三人で食べた。楽しかったなあ。息子は、久しぶりにじいじに会えて喜んで興奮して、夜はなかなか寝付かなくて参ったww
さっきね、父をバス停に送ってきたんだ。外面だけは良い夫も一緒にさ、息子を挟んで親子三人手を繋いで。父はボストンバッグを持って私の傍を歩いてた。夫は父を見送ったら友達と遊びに行くつもりだったけど、父のご機嫌取りをしているようで、父が言うことに「へぇ、そうなんですか~!知らなかったです!」と大げさに相槌を打ってた。
バス停が見えてきたところで、父がぽつりと呟いた。
「○○(私)はハンバーグが好きなんだ。××(息子)も好物なんだね」
夫はそれまでと同じようなテンションで「そうなんですか~!」と相槌を打った。ばかだ。
それを聞いた瞬間に、父とバチッと目が合った。何か言いたげな気がしたのは気のせいじゃなかったと思う。
「君が羨ましいよ。一人で食べるご飯は味気なくてね」
父は夫にそう言って、バスに乗った。
息子がお昼寝をしている今これを殴り書きしながら、なんだか涙が出てる。
誇張したり嘘つきすぎたりしてなんで別れないのという感想しか出ないいつものアレだがフォロワー1万オーバーとかすげーな
自分でトランクスを買ってきた旦那に対して「ええ!?男に自分で下着を買わせるなんて!」と姑が軽く発狂してるんですが、義両親の使う冷蔵庫の麦茶は醤油と1:2の割合で合ってますよね?— maron (@maron99668508) 2019年2月1日
反抗期娘が「今日は朝から気分の浮き沈みが激しい⋯学校でもイライラした⋯さっきはお母さんに言いすぎた、ごめんね( ˊᵕˋ ;)💦⋯でもお父さんは無理!!!」って言ってきたので苦節13年、私の子育ては順調です。— maron (@maron99668508) 2019年1月31日
あ~もう…旦那をメルカリで出品したい— maron (@maron99668508) 2019年1月19日
東進の林先生が「進学校男子なんてみんなマザコンだが、いいマザコンであり、本当に尽くして貰ったからみんな自然とママのことが好き」みたいに言っていたけど、進学校男子と付き合ったことのある私からすると「きしょい」だけ
みたいなツイートを前に見かけた。
親のいいなりになって10代を過ごしたら何もできない人間になった
要は進学校男子の大半は親と仲いいけど、親の言いなりで自立心がない。はたからみたらいいように見えるかもしれないが、きしょい、と言いたいのだと思う。
皆さんは反抗期はあっただろうか。最近反抗期がない子供が増えているという記事もあるが、どうだろうか。私はなかった。理由は「喧嘩しても意味がない」「いろいろ弁当作ってくれた義理がある」とありきたりなものだ。後者は反論の余地がない…と信じたい。そもそも高校以降は自力で行くのは困難であり、親はスポンサーみたいなものである。そんな親に反発するのは理不尽ではないかと思うのだ。しかし、前者に関しては違う、私は喧嘩をしても疲れるだけだと今まで考えていたが、それは単に無条件に親に降伏しただけに過ぎないのではないかと思うのだ。
皆さんは親と話すのは緊張するのだろうか。私は親と極力会話したくない。例えると、小学のころに職員室に行く感じである。家ではおとなしいが、外では饒舌というのは男子あるあるな気もするが、これはなぜなのだろうか。
皆さんは夕食は楽しいだろうか。家族団らんで囲む夕食は楽しいものなのだと思う。しかし、いつからか、家族がいるときの夕食は目の前のメニューを「食べなければならない」という苦行のように感じるようになったのだ。早く終わらないだろうか、さっさと食べて早くここから去りたい、と思うのだ。料理がまずいわけではない、多分旨い方だと思う。でも、苦痛なのだ。部活や用事などで遅く帰ってきた時の一人で食べる夕食はどんなに気が楽か。
皆さんは「親に殺される」と1度でも思ったことはあるだろうか。私は私の内面しかわからないため、これが異常なのか正常なのかはわからない。親の名誉のために言っておくが私と親の仲は決して悪いわけではない。家族で旅行もいったことがあるし、むしろ仲は良いほうだと思う。もちろん、殺人を含めて一切の前科はない。児童相談所案件になるような暴力を振るわれたこともない。あくまでこの思い込みは杞憂でしかない、と思う。
親が怒った時にそう思ってしまうだけである。夫婦や私たちのことで喧嘩をしている時に、えも言われぬような恐怖心が襲われ、自分は今夜殺されるのではないか、とそう考えるだけのことである。小学校からそんな考えが自分を支配する時がたまにあった。このとき、怒られている対象は自分ではない。大体は夫婦喧嘩である。そんな考えをしている私から喧嘩の火種を起こすなんてとんでもないことだ。
小学生の時、私は寝ている間にナイフで刺されるのではないかと思い、腹に雑誌を装備して眠ったことがある。これはくだらない子供の自衛策程度でしかないと思うかもしれない。でも、高校になってもその考えは抜けず、殺されると思って、部屋のドアにバリケードを築いたこともある。自衛のレベルが上がっただけで本質的には何一つ変わってはいない。
改めて言うが、私自身にも、身の回りにもそうした物騒な出来事が起きたわけでは断じてない。しかし何かしらのトラウマのようなものがあるのは事実であろう。
中学校のとき、友達と遊ぶことに罪悪感があった。夕方まで遊んでいると親が怒るのではないかと怯えながら遊んでいた。そんな心境でろくに遊べるわけもなく、中学ではあまり遊ばなかった気がする。高校になって、その夜遅くまで遊ぶのには相変わらず罪悪感はあったがさすがに恐怖はある程度は克服した。
最近、海外旅行にいかないかと誘われた。何故か私は海外にいくことが怖い、と感じていた。しかし、実は私は海外旅行にいくことを親に伝えるのが怖いのだ。そう気づいてしまった。結局根本にある恐怖はぬぐい切れていなかった。
あれらのツイートに強い衝撃は受けたが、私はマザコンなのかといわれるとそうではないように思われる。ただ、親の都合のいいように生きて、親におびえながら生きる。それならさっさと家を出ればいいじゃないか、と思うだろうが、それをする勇気もなかった。まるで奴隷のようなのである。しかし、この奴隷論は私の心の中のものに過ぎない。勝手に設けた精神的な束縛に勝手にもがいているような、そういうところがあのツイートした彼女にとってはきしょいんだろうなぁ。
もう今年も終わりますね。今は心が平和過ぎて今年も何も変わらない一年だったと言ってしまいそうになるけれども、今年は新卒で入社した会社を退職した年だった。
今はもう穏やかな心持ちだから、元来のほほんとしているはずのワイがつい一年前は何種類かお薬を飲んでいたなんて嘘のよう。
仕事がきつくて、転勤して友だちもいなくて辛くて、酒に溺れて病んで転落してしまった人なんて無数にいると思うけども、そういう人は多いかも知らんが声にならない叫びを聞いておくれ。
途中で一人称も変わってるし、長文乱文だけど、ひとりでも多くの人に読んでもらえると嬉しい。
ワイは4大を5年かけて卒業した後、訪問販売の会社に入社した。諸般の事情でかねてより内定が決まっていた企業には入社できず、かといって地元に帰ることも絶対に嫌だったのであまり選ぶ余地もなく、「社員が一番生き生きとしている」という今思えば一番危険な理由で入社先を選んでしまった。ここでひとつ言っておきたいけど、どんなに採用担当が生き生きキラキラしていても新卒で訪問販売は選ぶな。絶対。
入社して1,2年はまぁ何とかやり過ごした。反抗期がなかったいい子ちゃんにありがちなのだが、やれと言われたことに対しては疑問を大して持たずにやってしまう。ゆとり世代、割と従順な子多いよ。でもこの辺りで気付いたほうが良かった。
だってさ、入社して2か月で教育担当の上司が5回変わったのは、、まぁいいとして。その夏に全く契約件数が上がらなかったワイは、支店長に全体ミーティングの場で詰められたばかりか、顔面30センチまで「なんでとれねえんだよ…」と接近されたあげくにゴミ箱を目の前で叩きつけられたんだよ?ゴミ箱真っ二つだよ?普通にパワハラだよね?なんで辞めなかったんだろな。
今思えば、染まりやすい性格なんだろうな。入社して3か月ぐらいで正常な思考力は奪われてたんだと思う。それを証拠に、秋の葛藤を過ぎて冬からは爆売れし始めた。2倍3倍じゃきかないぐらい。当然、ほぼ最下位だった売上げもごぼう抜き。毎年暮れに開催されていた営業コンテストでも突如ランクに躍り出た。たぶんこのときにお客さんの気持ちを顧みないサイコパスになっちゃったんだろうね。
訪問販売って何で売れるか教えてあげるよ。めちゃくちゃ法律違反するのよ。正直に法律守ってたらどんなトップセールスでもめちゃくちゃ割に合わない仕事になると思う。とりあえずね、のっけから法律違反なの。有名なのはあれね。N〇Kで~すってやつ。あれアウト。名乗らなくちゃダメなのよ。あと訪問目的を告げること。
まぁそんなことしたら話聞いてくれる人を探さないとダメだからクソ効率悪いよね。だから目的を告げずにテレビありますよね?とかって言う訳。yes取りね。この先の営業トークは割愛するけど、まぁこんな感じでガンガン法律違反していくのよ。で、不審に思うよね普通は。提携先の企業のコンプラ研修でダメだって言ってんだからね。
それに対する上司の言い分は「訴えられなかったらいいんだよ」でした。
は?いやいやいやいや。ジャ〇アンかよ。法律でダメだっつってんだよ。
でもこの頃は確かにそうだよねぇとか思ってたんだよねえ。年収も3年目で500万近くあったし。
と筆がノッてきたところで、突如暗黒が訪れる。
4年目に異動。初めての異動。気心の知れた同期との別れ。支店立て直しの任命の重圧。
ここで僕は壊れてしまう。後輩の育成に全精力を注いだ僕は、自分の販売をおろそかにしてしまう。当然、売れなくなった僕の給料は徹底的に下がり手取りは半分になった。それでも直前までの年収を考えれば、平均よりは貰っているというか、まぁなんとか生活はできたはずだった。
しかし習慣とは恐ろしいもので、学生のころから貯金が全くできなかった僕は相変わらず全く貯金をしてなった。減る収入、増える飲酒量。そして溜まる請求書。仕事に生きがいを見いだせなくなった僕は夜の街に逃げ込むこととなる。ジ・エンドだ。
ほどなくして内科でお薬を貰うようになった僕はもう無理ですと辞意を申し出たが、助けてやるとか新規事業がとか意味の分からないことを言い含められ本社に帰還することとなる。重圧から逃れた僕は段々と正気を取り戻すんだけど、夢を醒まさせたのは昔の上司だった。もともと好かれてはいなかったが、売れなくなって愛がなくなったのだろう。顔を合わすたびに壊れたなお前はと呪いの言葉を浴びせられ続けた。あいつは頑張ってない。そんな報告を上長に上げ続けられた。そして僕も愛が尽き目が覚める。なんだ、この程度のやつかよ。
そしてこの夏に退職した。ちなみに退職金は出なかった。雇用契約上は支給されることとなっていたが、どうやら退職金制度は存在していない模様。最後まで嘘付きかよ。
風の噂で聞いたが果敢にも残業代の未払いを訴えた先輩がいたらしく、係争中のようだ。そのせいかどうかは知らないが再来月あたりに社名変更をするらしい。あほくさ。
ここまで読んでくれた人。ありがとう。これで僕と前職の関係は切れました。本当に感謝します。
新卒を採用して3年以内に7割ぐらい使い捨てにする前職の犠牲者はまだまだ出てしまうけど、そこはSNSやブログの力を借りながら発信していきたいなと思う。
母親は別段奇行があるだとか、毒親だとかいったわけでもなく、むしろ善人の類である。
平凡な主婦であり、毎日の家事と週三日のパート以外の時間を編み物に費やす、立派な母親だ。
自分自身も、そんな母親に日々感謝しつつ、良好な親子関係を築いてきたつもりだ。
自分は母親がやる事なす事全てに苛立ちが溜まり、やがては母親自身に激しい嫌悪感を抱くようになった。
別段高校に入って母親が変化したわけではない。自分がただただ嫌悪感を抱くだけなのだ。
このような感情の働きは自分でもさっぱり理解できず、これが世に言う反抗期というものか、などと考えている。
しかし、今まで散々世話になっておきながらこのような感情を抱く、忘恩極まる自分に嫌気がさす
だが、このような気持ちを表に出すことなど出来るはずもなく、内からの感情を押さえ込み、日々生活を送っているが正直限界だ。
仕方がないので増田に突っ込んでおく
物を片付けない、やるべき事を後回しにする、なんていう「問題行動」に対して「私のことをバカにしている! 私なんか、死ねばいいと思っているんだろう!」という叱り方をする人だった。
今となっては、「子供が物を片付けない=親が死ねばいいと思ってやっている」と、イコールで繋がってしまう思考は、とても危険な認知の歪みを伴っていると分かる。
だけど幼い私には、泣きながら謝って、片付けをすることしかできなかった。
遅刻することや、整理整頓ができないことなど。自分の行う些細な問題行動の全てが、母親の死と直結するように思えて、間違った行いをしてしまうことに怯えていた。
8年前。
夜泣きは、私の睡眠を奪って苦しめるためにさているのではないこと。イヤしか言わない時期や反抗期も、大切な発達の段階であることは理解できる。
それでも、一度だけ。
「そうやって私を苦しめて、私なんか死ねばいいと思っているんだろう!」
と口に出して叱りつけたことがある。
「ごめんなさい。死なないで。もう悪いことしないから、お母さん死なないで」
と泣きながら、すがりつく子どもを見ていると、子ども時代の自分が救われてくるのが分かるのだ。スゥーっと、癒されていくのを感じるのだ。
「我が子への虐待は、子ども時代の自分の救済だ」と知ってしまうと、その「甘美な誘いとの戦い」は一生続く。
子ども時代の自分を救うと、我が子が傷つく。我が子を守ると、子ども時代の自分は救われない。
いずれにしても。
多分私は人と比べて随分と恵まれているのだろう、というのを生きる中ずっと感じ続けている。そうしてそれを憂いている。正確には自覚したのが中学生終わり頃なのでそれからずっとだ。
色んな人の身の上話をこの上なく軽い範囲で聞くことが当然ながら沢山ある。誰かが誰かに話しているのを聞くこともあれば、私が人から聞かされたこともある。
記憶力が本当にないのであまりしっかり覚えていないけど、何を考えたかだけ鮮明におぼえている。
こんなことを殆どの場合考えていた。私が話された場合はそういうようなことを返すときだってあった。今思えばあまりにも残酷だったのではないかと思うので、求められた時だけそういう反応を返したい。
最低な人達。どうして子供の道を自由に選ばせないのか、どうして子供に自分の願望を反映させるのか、どうして体調が悪いのに休ませてもらえないのか、どうしてお小遣いやお年玉をちゃんと与えないのか、どうしてそんなに買い与えてもらえないのか。
些細なことから大きなことまで色んなことに対して当事者でもない私は不満を持った。
だってその反対が私の当然だった。
私は私の道を自由に選べたし、私は親に「○○になってほしい」なんて言われたことがないし、私は体調が悪ければ当然休んだし、私はお年玉をしっかりもらってお小遣いも毎月貰ってたし、私は欲しいものをなんだかんだ買い与えて貰っていた。
なのに、何故なのか?
ということに対して、私はやがて私にとっての不幸な身の上話があまりに多いことに気づいた。
この学校という閉じた世界だからこそなのではないだろうか、とは思ったし今だってもしかしたらそうなのかもしれないけど、でも少なくとも私の視界にはそんな話ばかり入る。
しばらくして、中学生になって平均的な年収とかに興味を持つようになったりして、そこで初めて気づいた。
お金の問題、というのを把握したのはその頃だっただろう。お金が足りなくて出来ないことが沢山あるのを知った。
自由な道を選べないこと、親の願望を反映させられること、買い与えてもらえないことはきっとそれらが理由だ。それ以外は未だにわからないけれど、わからないのが正直怖い。でもわからないものはわからない。
察して、しばらくして、私は恵まれていることが怖くなった。
その前からも無意識でそういうことはあったように思う。まだ察する前、私だけ反抗期が来てないことが怖くて無理矢理反抗したことがある。人はあれを地獄と呼ぶのではないだろうか。
この恵まれていることへの恐怖は次第に恐怖を伴った憂へと変わった。
そんなことを恵まれている側が抱くことの傲慢さだとかは重々承知しているから基本表になんて出せないものの、ずっと強く抱えている。
親から何かを与えてもらう度に不安になるようになった。だから、私はこんなところで燻っていてはいけないのだろうし高校生だとしても親の金を掠め取ってる気がして辛いけれどどうにもならないので尚更辛い。
そんなことを、恵まれていることへの憂をこの前大好きな紅茶の茶葉をおいらが払うよと父が買ってくれた時に鮮明に感じて、こうして書き出した。
ごめんなさい。
もう数年前ぐらいになるけど、一時期凄い愚痴を聞いた時期があった。
まだイクメンという言葉がなかった頃の育児を手伝ってきた父親達から、思春期における反抗期についての愚痴だった。
ちょうどその年代の人たちと濃い付き合いのグループがあって、その中でも年齢が高めだったこともあるのだろうけど、そういう話を良く聞いたものだった。
そして厄介なことに娘の反抗期のあり方が、育児参加の仕方と関わりなさそうだったのだ。
そしてふと思った。母親の育児への視線が柔らかになっていくように、男性の育児への視線が変化したら、このあり方も変わるのだろうか、と。
私の知っている中で娘反抗期話で一番強烈だったのは、父親が家にいる気配もイヤだったので、起きる前に出社し、寝る頃に帰宅。それも靴が玄関にあるの気がつかれるとイヤらしいので、裏口から帰って靴を隠した、なんてのがあった。
大人になってから関係は修復したらしいけれど、はたしてこれは現在でも許されるのだろうか?
家庭環境、親子関係、父子、母子、夫婦のあり方など、色々と多様化してきて、父と娘の関係は変化しないのだろうか?
私が愚痴を聞いた範囲の中ではそこまで酷いのはなかったものの、それももしかしたら将来的にはアウトと判定されるのかもしれないなぁと、ふと思ったりした。
なるほど。
それは懸念はわかるけど、やっぱり教育ママの余計なお節介というしかないよ。
子供の人間関係をコントロールしようとしている訳だろう? それはまず上手くいかないよ。
あと、これもまた更にの話ができてしまうが、社会全体をコントロールすることで子供の人間関係をコントロールしようとしているわけで、規模感がどう考えても無意味だろう。
オタクコンテンツをゾーニングしたら、キチオタクが少なくなる? ありえない。
そんなこと考えている親じゃ、子供は反抗期にかえってアングラに嵌ってしまいそうにも思える。
どんなコンテンツに触れようとも健全にいられる子供を育てたほうがいいしだろう。
ていうかそれしかないだろう。
子供作るのにイチイチ生涯年収計算したりお互いの職歴とか恋愛とか家族付き合いとか老後とか政治とか職場関係とかキャリアとか
子供ができたらできたで出産に育児に保育園、お受験、小学校の雑務、いじめられてない・いじめてないか監視、飯、仕事、家事、浮気せず夫婦関係円満、土日の家族サービス、両親の介護、病気持ちなら闘病、中学受験、反抗期、高校受験、反抗期、養育費、大学受験、学費、浪人ならストレス追加、政治、職場関係、キャリア、ストレス、浮気せず夫婦円満、親の介護、ご近所付き合い、子供の将来、貯金、自分の老後、病気持ちなら闘病、税金、税金、話題を合わせるためにテレビ番組、ストレス、親の葬式、将来、貯金、税金、浮気なしで夫婦円満、家事、居場所、趣味、ストレス、ストレス、自分の死
家族写真と言ってもたいそれたものではなく、テーマパークなどで記念に撮る簡単なものだ。
私の実家は九州の田舎にあり、私は高校卒業後九州を出て本州へ。
当時は都会へのあこがれと、将来やりたかったことがありその勉強がしたくて九州を出ることを決めた。
しかし当時の私は反抗期真っ只中。親から逃げたかった気持ちも正直あった。
進学後、そのまま就職して、いつか九州に戻れたらという思いのまま1,2年程経った夏のある日、母から連絡があった。
母方の祖父が亡くなったという連絡だった。
丁度帰省する1週間前の事。
このタイミングで帰ってしまうと長期休暇中帰ることができなくなり、
トンボ帰りにもなってしまうので父と母の判断で葬式には出席せず、帰省後お線香を上げに行くことになった。
今でもその時のことを覚えている。
ショックで、悔しくて、悲しくて、どうして自分はすぐ駆け付けれるところに居ないのだろうと仕事中何度も泣きそうになった。
流石に泣くと仕事に支障が出るので頑張って耐えたが、帰省し、祖父の遺影を前にすると耐えることが出来なかった。
本当に死んだんだ。と実感してしまって。
祖父は無口で、厳しい人だった。よく私とも喧嘩をしていたのだが、その分たくさん可愛がってもらった。
春先に会いに行ったときは元気で、まだ仕事も現役だったので本当に突然の訃報だった。
この夏もまた会いに行って皮肉を言い合うんだと思っていたのに。
人の死ってこうも突然なんだな、と始めて実感して、またこうやって駆け付けれなかったときはと考えると怖くなった。
今もまた、実家を出ているがそれでも九州内なので実家に帰るのも容易で、また両親がこちらへ来るのも容易だった。
そして、先日両親が遊びに来てドライブに行き、冒頭に戻る。
本来私は写真に写る事が苦手で、記念撮影なども避けるのだがこの機会を逃したらまたいつ撮れるかわからない。
そう思うと「別にいいか~」と言ってる父母を引き留めて写真を撮ってもらった次第。
後悔してからでは遅い。というのは祖父の事で思い知り、もっとたくさん撮っていたらよかったなんて思わないよう、これからも写真は撮っていきたいと思っている。
お父さん、お母さんどうか長く元気でいてください。
すごいくだらない
実家から遠いところで一人暮らしして大学行ってたけど、単位取れなさすぎて無理になってしまった
学費はもちろん家賃も全部払ってもらってる上に仕送りまでもらってるのに
11月くらいにそのまま何も言わずに消えてしまおうかなと思ってた
(学費の引き落としが11月末だから、そのときにはバレるなーという)
たぶん頑張って説得したら絶縁とまでは言い出さないんじゃないかなと思う
でも中退するとかしたとか、どうして?こうだから、って会話すると思うともう無理
親が知ってる番号の携帯は部屋に置いていこうと思ってるから、連絡取れなくなるけど
逆に学費引き落とされない後も気づかれなかったら家賃もったいないなーとか
(親の契約で勝手に引き払えないので放置して出ていこうと思ってた)
絶縁になったらもう死ぬまで、死んでも会えないってこと?親の葬式を私は知らないままで生きていくかもしれないってこと?
大げさ過ぎるのはわかってるけど
さっき何も知らないままの母から「正月か冬くらいに遊びにいこうかな」って電話きて
何にも言えなくて
観光するようなところ調べておくねって言った
無理だー……
ばかすぎる
辞める前に休学とかにしといたらよかったな
でもなんで急に?って言われても説明できない
急じゃないし、定期的に電話くれてたけど、単位ちゃんと取れてる?って聞かれてもうんとしかいえない
私のこと、小さい頃の優等生とかまじめな子どもの印象でずっといるんだろうな
遅れてきた反抗期みたいなものかと思ったらバカバカしすぎて我ながら呆れる
親不孝だってわかってるけど
この先ずっと付き合っていける根気がない
悪い親じゃなかったはずなのに
頭がいいとか真面目とかそういうのじゃなくて
正しい人間であってほしいって思ってるのわかってた
推しが神ってよく言うけどね、私にとっちゃ推しはマジで宗教なんです。人生を生きる道しるべなんです。私の辿った道は絶対よいこはマネしない方がいいやつだから、自戒もこめてここで一つ纏めてるんですけどね。脈絡もないから絶対すごい分かりづらいし、めっちゃ重いけど、こんな人間もいるんだ、程度に流し見しといて。
小さい頃から親の転勤がさかんで、引っ越しばかりではあったけど、とうとう海外転勤になった。言語が通じなくて、文化も生活習慣も違くて、それでも勉強はしなくちゃいけないし、友達はつくらなきゃいけないし、死ぬほど頑張った。そもそもそれまでは幼かった私は日本で一生過ごすもんだと思ってたから、何の心の準備も無かったし、本当に地獄だった。その頃のことが実をいうとあんまりよく思い出せない。思い出せるほど何か考えてなかったからだ。毎日毎日、必死に勉強して、それでだましだまし、何とか現地の子と同レベルになった私は、本当にあの頃よく頑張ったなと思う。もしも日本に残れていたら、の事を考えるたびに泣いていたから、そのうち考えないようになった。
それまでは特にアニメや漫画に興味があるわけでなかったけど、小説は好きで図書室に一生籠もりたいと考えていたくらいだったので素質はあったんだと思う。
おおげさだと思うかもしれないけど、あんまりいきなりの事だったから、引っ越しても、現地の学校に通っても、友達を作っても、始終私には現実味が無かった。本当に、何だか悪い夢を見ているような毎日で、だからあまり思い出が無いのかもしれない。そんな私にとって、パソコンを開ければスクリーンの向こうにいつでも広がる日本語のアニメや漫画は、唯一現実を繋ぎ止めてくれる依代みたいな物だった。んな大げさな、って思うでしょ。実際に体験してみ、私があそこで心折れなかったのはひとえに推しと優しい家族のお陰だから。あそこで生きることを放棄しなくてよかったよほんとに。推しに会えたからね。
そんなこんなだから、推しにどっぷり。腐り始めたのもネットで違法アップロードされてた同人誌をみちゃったのがきっかけ。ごめんなさい、今はもうそんなことしません。推しにお金を貢ぐのがいいんだよね。話それたけど、とにかく検索能力を駆使してサイトを駆け巡った。全然未成年だけど十八禁の小説も読みまくった。本当にごめん。結局サイトのどこかに隠されたパスワードを見つけられなかったこともしょっちゅうあったわ。その頃から、特定の作家さんの存在を認識して、「同人作家」という概念も覚えた。最近はツイッター等で作品を投稿する作家さんが多くて、「その作品を作ってるのはロボットじゃなくて一人の人間だという認識がしにくい」なんて言われてるけど、サイト時代も割とそういうの難しかったと思ってる。似たようなサイトを毎日、毎週、毎月ひたすら検索かけて飛び回っていたから。
私の場合は、綺麗なデザインのホームページで、特徴的な絵柄で、日常的なお絵かきログ以外にも「何これ欲しい」って思えるようなハイクオリティの同人誌のサンプル等を綺麗に纏めて陳列してくれる作家さんがいて初めて、「このサイトを作ってくれてる、こんな推しの作品を作ってくれる特定の人間がいる」って認識できた。
支部の存在を知ったときも、正直「何だこれ胡散臭いな」って思った。皆そんなこと無かった?私はそんなことあったから支部の存在を知ってから登録するまで半年かかった。でも前述した綺麗なホームページの作家さんが支部を使ってて、サイトで見たのと同じ同人誌のサンプルが上がってて、初めて支部はまともな交流フォーラムなんだって認識できた。今まで見てきた沢山のサイトと支部が初めて繋がった感じ。その作家さんとは今は推しカプもジャンルも違うけどずっとフォローしてる。推しカプとは関係ない、推し作家なんだよ。本当にありがとう、つらい日々に貴女の綺麗な水彩絵や、幸せそうに体を寄せ合って笑う推しを見てると、それだけで救われた。生きていけると思った。
支部は本当に神だったね。推しが、色んな人の推しが、簡単に手に入る。神っつーかドラッグだったわ。ほらよくあるじゃん、神と交信する為にドラッグ使ってトランス状態に陥るやつ。私にとっては完全にあれだったわ。支部を通して推しと交信してた。
最初は年齢制限とか全然分かんなかったから単純に十八禁作品はアップロードできないのかと思って、「支部はいいけど十八禁の作品無いのが難点だよね~~~」とか思ってた。ある日とあるシリーズものの中に不自然に一話かけているのに気づくまでは。皆、シリーズ物の中に十八禁の作品がある時は、キャプションにその作品のリンクを貼っちゃだめだよ。私みたいな、支部の管理下に置かれていた駄目な未成年が年齢制限に気づいて誕生日を変えに行っちゃうから。マジで本当にごめんなさい。懺悔懺悔、推しに懺悔。
あと、小さい頃からパソコンやネット環境は惜しみなく提供してくれた親に感謝。
新しい学校では言語スキルの上達もあって、もう少し親しい友達が出来た。日本に比べてオープンなオタクや腐文化には優しいところだったから割とオープンにいけた。某巨人ブームも良くなかったよね、今までアニメなんかドラえもんくらいしか見た事なかった学級委員長が一夜にして腐るとは誰も思わないじゃないか。あのブームは本当にやばかった。もう、何か、やばかった。察してくれ。
でも成績は下がった。みるみる内に下がった。もともとだましだましやってきたもので、周りの子は塾に通ったり、来年の内容まで予習してるのに、私はその日その日を食いつなぐのに精いっぱいだったから、まあ普通に考えてそう簡単に差が埋まる訳ないんだ。新しい学校は優秀で頭のいい子が多かったし。私は焦ったけど、焦れば焦るほど悪化していく気さえした。あの頃が一番鬱だったかもしれない。中二病だったし。どんどん、自分が生きる意味や存在価値が分からなくなって、とにかく死にたいと思った。もともと勉強は得意な方で、読書が一番の趣味みたいな子だったから、海外に引っ越してそのどちらも取り上げられてしって、更に悩みを共有したり一緒に遊んだりする友達もいなくなると、存在価値が本当に揺らぐんだ。ついでに言うと、私の夢は言語に、もっと言うと日本語に関わる物だったから、母国語で義務教育を受けきれなかった私にとって、希望に満ちた夢は一瞬で絶望になった。日に日に日本語に変なアクセントがかかるのが分かって、辛かった。(大事な事(日本語)は全部二次創作に教わった。支部に駐屯する野生のプロの先生方、本当にありがとうございました。あなた達に救われた人間は、確かにいます)思い描いていた輝かしい理想に私はきっといない。もっと何か、別の道を探さなきゃいけない。でもどうして?その道を進みたい訳ではないのに?私にはどうしようもなかった理不尽に進みたかった道を閉ざされたのに?私の生きる意味って何だろう、どうして私こんなところにいるんだろう。私はここで一体何をしてるの?私がここにいる意味とは??
がむしゃらな努力は報われない。方向がちがけりゃどんなに頑張っても目標には届かないからね。その日その日を生きてきた私には、目標も努力の意味も分からなくて、次第に疲れて、やる気をなくした。ふさぎこむようになって、私のこと心配する家族とも喋りたくなくなった。反抗期だったしね。とにかく放っておいてほしかったし、何も考えたくなかった。
比例するように、推しへの依存は強まっていった。毎日、推しカプの小説を読んだ。それが無いと落ち着かなかったし、不安だった。息をするように支部にログインして、慣れた手つきで推しカプの検索をして、新しい作品が無いかチェックして、無ければ過去の作品を繰り返し繰り返し読んだ。推しを見ている間は自分のことなんて忘れられたし、何も他の事は考えなくて良くて、ただ推しのことを考えていられたから、本当に幸せだった。要するに推しを使って現実逃避をしていただけなんだけど、でも推しはそれを咎めてこないでしょ。上手くいかなくてむしゃくしゃして、どうすればいいのかも分からなくて、楽しいことが無かった訳ではないけど、それでも辛い私を推しが受け止めてくれた。
別に、推しやその生き様から希望を貰ったとか、頑張ろうと思えたとか、そんないい話じゃない。ただそこにいてくれるだけで良かった。何があっても、変わらず推しがそこにいてくれるのが心の支えだった。ただそこに推しがいてくれるだけで、生きていけた。それで、生きていたから、次の一歩を踏み出せた。
そんな日々を何年か続けて、やっと心の整理が出来て、ちょっとずつ、自分と向き合おうと思えるようになった。そういう時の心のワンクッションに、推しはなってくれた。重点を置くジャンルを移動するとほぼ同時期に、また親の転勤で、私はまた荷物を片付けて、また仲良くなった友達と空っぽになった自分の部屋と家にお別れをして、引っ越した。
推しとはお別れなんてしないけど。好きな作品はいつまでも好き、好きなカプはいつまでも好き、好きなキャラはいつまでも推しのまま。ずっと私を支えてきてくれた、大事な推しだから。弊社は推し殿堂入りシステムを採用しております。
ここらへんでさ、推しに対する思いがなんか重いなって察しのいい皆さんは気づくでしょう。そうこれ、私にとっての推しが「不変の何か」「道しるべ」「希望」であるんですよ。何かを思い出させません?宗教ですよ。神。絶対不変の神。人が神に縋るのは、神なら不変を貫きつつ全ての不安や煩悩や幻想、全部纏めて受け止めてくれるからですよ。生きるって本当に難しくて大変な事だから、皆ぶれない信念に縋って生きていこうとするんですよ。生きている人間からは得られない、あの絶対的な安心感。私は無神教だから~とか言ってたこともあったけど、あんなの嘘っぱちでしたよ。私の宗教、推しだったんです、この頃から。
新しい環境、新しい学校。ここは前にいた所より社交性を求められた。そして勘の良い皆さんなら気づくと思うけど、そう、ここまで勉強に精一杯で、時間があれば推しをキメて精神安定を図っていた私は、社交性を一切高めてこなかったんですよ。簡単に言えばコミュ障。そもそも海外に来た時点で言語が通じなくて性格一転したからね。人と会話して意思疎通図るのがいつの間にか苦手になってた。それだけの言語スキルを手に入れてからも社交に対する苦手意識はぬぐえなかった。
それでも、割といけた方だと思う。苦手でも、人と関わるのが嫌いなわけではなかったから。新しい学校は、私と似たような人生辿ってきた子が結構いたから、それもあってか、割と簡単に馴染めた。
いや実はそんなことなかったかも。友達関係でいっぱいトラブルも起こしたし、悩みもいっぱいあった。でもそれ以上に楽しい思い出があったから、嫌なことは簡単に上書きされちゃったんだと思う。勉強も楽しかった。成績も上がった。新しいことにも沢山挑戦できた。心残りや後悔はやっぱりあるけど、ホンマに何でもかんでも楽しかった~~~
でもね恐ろしいことにね、楽しい時間はね、続かないんだよ。おっそろしいわ。
大好きな学校はね、卒業しなきゃいけないし、大学ね、受験しないとアカンのよ。おっそろしい。私の場合は大学でまた海を渡って、まら違う国に渡る計画をなんとなく建てていたから、今まで何だかんだずっと一緒にいた家族とも離れなきゃいけない。また違う環境、また違う言語。(いや言語は前の時より準備あったけどさ、それでも外国語ってことには変わりないじゃん)どうすんねんマジで。大学受験でもれなく鬱になった。人間の身体って割と簡単に限界が来るんだよ。だから皆本当に、睡眠と食べ物はちゃんと取らなきゃだめだよ。一日八時間寝て。家族や友達に沢山迷惑や心配をかけた。もう二度と救急車の厄介になりたくない。
ここでもやっぱり、未来についても目標とかなかったんだよね。私には推しがいればそれで良かったからさ。大学に行こうと思ったのも、流されて、なんとなく。っていう部分が多くてさ。私にとってはまだ、日本にあのままいられなかったその時から、どの道を進んでも同じような気がしてた。
一方で相変わらず、推しへの愛を募らせ、イベントの度に支部に上がるサンプルに歯をぎりぎり言わせてた。ついったで作家さんをフォローするようになったのもこの頃。凄いよね、雲の上の存在だと思ってた作家さんにマシュマロで感想送れちゃったりするんだよ、しかもその感想に返事が返ってくるんだよ。やばいでしょ。マジやばい。イベントなんか参加したことないし、多分これからもそうなんだろうけど、作家さんと交流できるって本当に画期的だよ。自分で作品を書くようにもなった。日本語変じゃないかな、文法おかしくないかなって、不安になりながら上げた作品に、反応が返ってくる。ブックマークされる。見てくれる人がいる。感想を送ってくれる人までいる。嘘でしょ。やばい、好き。推しが好き。こんなに幸せな気分にさせてくれる推しが好き。
そうやって毎日毎日最低3時間は支部とついった巡りに時間をかけてたから、睡眠時間を削るしかなくて、それで生活リズムと体内時計狂い始めたんだよね。笑えねえ。絵や文だけじゃなくて動画にも手出しちゃったんだよね。えむえむでー、人力、偽実況。たま~に夜更かしするならいいけどさ、もともと身体強い方じゃなかったから、毎日2、3時に寝る生活は三年も持たなった。あとあと簡単に鬱になったのも、身体を壊したのも、完全にそういう無理な生活習慣が祟ったなって思ってる。周りの人は私が勉強頑張りすぎて身体壊したんだって思ってるけど、もうマジで全然そんなことない。推しに会いたくて会いたくてどんなに忙しい時でも推しに会う時間確保しようとして身体壊した、ただの馬鹿。皆は絶対真似しちゃだめだよ。寝てねマジで。
家族の話、ちらほら出てきたでしょ。小さい頃から国を離れたわたしは、「国がない」人間なんです。そりゃ法律的に言えば日本人だけどさ、故郷と言われてピンとくる場所も無い、地元ってどこだか分かんない、自分の国がない。私みたいな子に結構会ってきたけど、私らみたいな人は、結局どこ行っても余所者なんですよ。それが何年もかけて向き合ってきた私のアイデンティティだから、今更どうこうは言わないけど、でもそういう根本的な寂しさはやっぱりあるんです。いつだって、そんな私の帰る場所は、私の家、家族がいる場所で。でもそんな家を、家族を私は、離れなきゃいけない。一人で生きていかなくちゃいけない。何にだって終わりがある、別れはいつかくる、それを十分に分かっていた気でいたけど、全然分かってなかった。私の家は、絶対安全なシェルターは期限付きだったんだ、いつまでもそこにある訳じゃなかったんだ。それがなくなったら、私は本当に何処にも属さない、この世界の余所者になってしまう。いざそんな現実に直面して、そんな底なしの不安を感じて、辛くなりました。
またも不安に比例するように、夜更かしして推しに会いにいくようになりました。寝るのが怖かったんです。だからぎりぎりまで起きていて、推しに慰めてもらってた。寝たら、明日が来てしまう。明日なんて来なくたってよかった。ずっとこのままでいたかった。どこにも行きたくない、どこにも行きたくない。そう考えるうちに足はすくんで、本当にどこにも行けないような気さえしてきた。
この頃から親が趣味に物申すようになってきてたんですよね。前は私の精神状態が良くなかったから目瞑ってもらってたようなもんで。結局その頃も変わらず、推しに縋って現実逃避をしてただけだった。そろそろ社会に独りで出る私が相変わらず逃避し続けるのを心配に思ってくれたんでしょう。「もっと他に、するべきことがあるんじゃないの」って口を酸っぱくして言われました。
そうこのとき、私は推しに依存してはいけないと自覚しました。こんなんじゃ推しに私の人生狂わされるだけだって。前までは、推しに人生狂わされても、それでいいかって何となくなげやりに考えてたんですよね。でも違うんです。推しに縋って生きてきたのはいいけど、これで廃人になってしまったらそれは推しのせいになってしまう。これまで私を生かしてくれた推しにそんな迷惑をかける訳には絶対にいかないんだ。バランスを、妥協点を探さなきゃいけない。これからもずっと推しに会いたいのなら、推しに縋っていただけの不健康な関係じゃなくて、ちゃんと一人で前向きに生きていけるようになって、推しに何かを貰いながら何かを返せるような、そんな健康的な関係を築いていかなきゃいけない。推しに貰った希望を、何らかの形で推しや社会に還元しなきゃ。そう思ったから、何となく頑張って、ここまでこれました。今はとにかく就職して推しに貢ぎたい。推しが私に善行をしろと言っている。
......いやこれ、話飛びすぎだろって思うでしょ。ごめん、ここ本当は間の3000文字くらい推しと私に関する話あったんだけど、簡単に身バレする内容だったので削るしかなかった。とにかく、本当にそういう人生の細かい、肝心なところまで推しが絡まってくるんです。推しがいてくれたから。推しがただ、そこにいてくれたから、あとは私が勝手に進んだ、進むことが出来た。私みたいな何においても中途半端な半端者でも受け入れてくれて、ずっと変わらずそこにいてくれるんですよ。振り返ればいつも、そこには推しがいたんです。推しがいるから世界平和を願える。推しが私をまともな人間にしてくれた。
やばいでしょ。推しが情操教育に良すぎる。いや私はどちらかと言えば悪い例なんだけどさ。これからもきっと私は推しに縋って生きていきます。本当はね、推しに申し訳ないと思ってる。私の身勝手な都合で、推しを勝手に神様に祭り上げてしまった。私が生きる上での寂しさや不安を一方的にぶつけて、一方的に縋っていく、不変の存在に、勝手に仕立て上げてしまった。でも今更改宗なんてできないんですよ。心にいつも推しがいて、そのスポットは最早ぽっと出の何かが簡単に成り代われる物じゃないんです。そして心にいつも推しがいるから、今日も希望を持って、人に優しくしようって思えるし、今の道を進んでみようと思えるし、例え命の果てに、私の存在の果てに何も無かったとしても、それでも歩んでいこうって思えるんです。生きて、いけるんです。