多分私は人と比べて随分と恵まれているのだろう、というのを生きる中ずっと感じ続けている。そうしてそれを憂いている。正確には自覚したのが中学生終わり頃なのでそれからずっとだ。
色んな人の身の上話をこの上なく軽い範囲で聞くことが当然ながら沢山ある。誰かが誰かに話しているのを聞くこともあれば、私が人から聞かされたこともある。
記憶力が本当にないのであまりしっかり覚えていないけど、何を考えたかだけ鮮明におぼえている。
こんなことを殆どの場合考えていた。私が話された場合はそういうようなことを返すときだってあった。今思えばあまりにも残酷だったのではないかと思うので、求められた時だけそういう反応を返したい。
最低な人達。どうして子供の道を自由に選ばせないのか、どうして子供に自分の願望を反映させるのか、どうして体調が悪いのに休ませてもらえないのか、どうしてお小遣いやお年玉をちゃんと与えないのか、どうしてそんなに買い与えてもらえないのか。
些細なことから大きなことまで色んなことに対して当事者でもない私は不満を持った。
だってその反対が私の当然だった。
私は私の道を自由に選べたし、私は親に「○○になってほしい」なんて言われたことがないし、私は体調が悪ければ当然休んだし、私はお年玉をしっかりもらってお小遣いも毎月貰ってたし、私は欲しいものをなんだかんだ買い与えて貰っていた。
なのに、何故なのか?
ということに対して、私はやがて私にとっての不幸な身の上話があまりに多いことに気づいた。
この学校という閉じた世界だからこそなのではないだろうか、とは思ったし今だってもしかしたらそうなのかもしれないけど、でも少なくとも私の視界にはそんな話ばかり入る。
しばらくして、中学生になって平均的な年収とかに興味を持つようになったりして、そこで初めて気づいた。
お金の問題、というのを把握したのはその頃だっただろう。お金が足りなくて出来ないことが沢山あるのを知った。
自由な道を選べないこと、親の願望を反映させられること、買い与えてもらえないことはきっとそれらが理由だ。それ以外は未だにわからないけれど、わからないのが正直怖い。でもわからないものはわからない。
察して、しばらくして、私は恵まれていることが怖くなった。
その前からも無意識でそういうことはあったように思う。まだ察する前、私だけ反抗期が来てないことが怖くて無理矢理反抗したことがある。人はあれを地獄と呼ぶのではないだろうか。
この恵まれていることへの恐怖は次第に恐怖を伴った憂へと変わった。
そんなことを恵まれている側が抱くことの傲慢さだとかは重々承知しているから基本表になんて出せないものの、ずっと強く抱えている。
親から何かを与えてもらう度に不安になるようになった。だから、私はこんなところで燻っていてはいけないのだろうし高校生だとしても親の金を掠め取ってる気がして辛いけれどどうにもならないので尚更辛い。
そんなことを、恵まれていることへの憂をこの前大好きな紅茶の茶葉をおいらが払うよと父が買ってくれた時に鮮明に感じて、こうして書き出した。
ごめんなさい。